はてなキーワード: 浮世離れとは
お疲れ様です
たらこ視点で注目する視点(バイアス)から一応論理的に考えるとこうなります
ってそういう考え方もあるよって紹介って感覚で別に逆張りじゃないんだよ
最近の発言聞くと怪しいけど自分の視点はかなり浮世離れしてるし普通ではないってとこにも自覚的だけど
それ信じるかはお前らの勝手だけどなって感じ
今0.5秒で思いついたのはー
辺りかな~。
曖昧にしてるおかげで成立しているから残業代出せないってことなんかねー。
つまる所、業態そのものが労働基準法に違反してるってことやな。
子供を育てるなんて仕事、浮世離れしてるぐらいじゃないとストレスで心を病むし、教員は社会から逸脱した存在であるべきなんやな~~
長期案件の運用プロジェクトではどのタイミングでやればいいのかわからんな…
まるで九龍城
途中で参画させてもらったからまだプロジェクトリーダーとそこまで信頼関係がない
プロジェクトリーダーも他の案件をやったことがないのか、今まで見た事がない歪さをところどころ感じる
その先のクライアントはあまり開発スキルが無さそうだけど、変に技術者のプライド高いからか根本的な解決方法にならない要件を言ってくる
その両者間で仕様設計をするから工数的には無理がないのだけど、浮世離れした設計だなという感想
このシステムを使うユーザも、以降参画するエンジニアも不憫だな…って思ってしまう
偶々出向してきたエンジニアだからあーだこーだ言うのもアレだけど中々独特な開発環境でハラハラしている…
経験上、突っ込んでいっても碌なことにならないから静観して、自分の意見を求められた時に説得して発言力を高めるのが正解なのかな
気が遠くなる話だよ…
NHKで未来の教育について議論しているのを見たが、その議論をしている人々は、教育に対する狂気的な親と同じような考えを持っている。
彼らに何を任せても無駄だと思う。もし私がタイムスリップして子供の頃に戻ったとしても、ハッカー精神を貫き、自己責任論を早いうちから獲得したいと思う。
「ハッカーと画家」という本では、学校は成長するまでの子供を収容する刑務所であると述べている。
世の中の真実とは、意思決定において自分自身しか責任をとれないということだ。大学受験をするもしないも、何を学ぶかも自己責任だ。
インターネットを早いうちから使えれば、賢い子供ならそこからは加速度的に学習するだろう。強いていうなら、IT系企業で働く大人が子供にネットリテラシーを教えると良い。
小中高で習うような学習内容はいつでも再学習可能なので、落ちこぼれて悔やむ必要はない。
高学歴しか雇わないJTCが社会構造を支配しているという問題を、教育の問題にすり替えるのは愚かだろう。
もし大人が教えなければならないとしたら、それは基本的な倫理についてだ。
クソフルエンサーを目指したり、バズ狙いで稼いだりすることがなぜナルシスト的で自己を破滅させ、他者に迷惑をかけるのか。
現代における倫理をまともに教えられる大人こそ、教育者としてふさわしいと言えるだろう。
難しい話ではない。そのような倫理はすでに旧約聖書に記されている。新約聖書ではない、旧約聖書である。
仏教や禅からも学べることはあるが、坊主のように浮世離れしたところで生きていくことはできない。
倫理には実用性が必要であり、聖書には現代に通ずるものがある。タイパが重要というなら、ソロモン王の箴言だけでも読んでおいた方が良い。
日中韓の教育ママは倫理の教育を疎かにし、インテリ気取りで受験のためのコンテンツを詰め込もうとするが、それは教育ではなく、妖怪製造工場だ。
今日は病院へ行きました。お注射です。お注射をしてしばらくは精神があまり安定しないようです。被害妄想を持ったりしてしまいます。
精神というのは、変動を検出すると不快感を持つような気がします。鬱の時も一定の心持ちであればそれなりに安定しますが、いきなり躁になったりすると錯乱するのかもしれません。
そういえば、私はインターネット上に残した自分の黒歴史の削除を試みました。
統合失調症+自分の名前で検索すると、誰かが勝手に私のYoutube動画(躁状態のときのもの)の音声をテキスト化したものが置いてありましたが、どうやらそのサイトは自然言語のアノテーションのサイトらしく、編集は誰でも行えるようでした。そしてその情報に「著作権侵害です」とラベルをつけて削除してきました。
そうそう、あと黒歴史ブログも残っていました。精神を錯乱して浮世離れしていた時のブログですが、「フロントカメラが不細工でバックカメラがイケメンなのは、介入する観察者が異なるからだ!」みたいな意味不明なことを書き、セルフィーまで載せていたのです。
このブログはまだ削除できていません。というのも、Googleアカウントのパスワードを紛失したからです。
Twitterにもいくつか精神錯乱時のアカウントが残っているのですが、それらも2段階認証を設定しており、ログインできなくなっているのです。
まあ、黒歴史というのはこのようにして、精神をおかしくしている時に生成してしまうものだとわかります。
ところで、インターネットを徘徊していたら、こんな文章を見ました。
つまり「人生の意味を問うても無駄。その代わり人生があなたに問うている」というものです。
もしそれが本当ならば、精神を錯乱して残した黒歴史を正常になってから振り返り、「この黒歴史、君自身はどう感じるのか?」と問うていることになります。
まったく、人生って本当に性格が悪いですね。私が嫌な思いをしていることがわからないのでしょうか。それともその嫌な経験こそが、哲学的深淵なのでしょうか。
私はその性格上、刺激を欲しがっているのです。SNSをやるのは、誰かから刺激をもらえないかというちょっとした期待に基づいています。
でも「いいねの応酬」はしっぺ返し戦略的、機械的なものになります。私が誰かにいいねすれば、その分のいいねが返ってくるというわけです。
そんなくだらない刺激のために黒歴史を残すなんていうのは、一体どういうことなんでしょうか。
SNSの繋がりなんて、所詮は浅い繋がりです。オンラインだと、相手がリアルに存在するものだと忘れてしまう人もいるようなのです。
やはり一期一会というのは、実際にオフラインで対面で会話したことのある相手の存在に対する「出会い」に感謝するような言葉であり、私をおもちゃにしようとしているネットトロールとの出会いというのは、そこまで感謝できるようなことではないと思うのです。
インターネットで発言すれば、好感を持たれたり、恨まれたり、見下されたりします。しかもその発言が、本来の私の精神状態ではないことだってあります。
「私」というものを、他人に誤解されることの恐怖が、SNSにはあります。もはや他人の目を気にして怯える場所です。
だから私は、発言する時は匿名性を重視するのです。箴言にも、愚か者が言葉数を増やしてしまうことに対する戒めがあるので、実名で語るシーンでは黙っておいた方が賢く見えるのです。
「話すは離す」という言葉もあります。結局、ネットであれカウンセリングであれ、悩みをぶちまけられる場所があれば、精神のデトックスになります。
そうやってぶちまけた内容というのは、恥ずかしい内容なので、やはり実名と紐づいてしまうと「目」の恐怖を感じます。
まあ、浅い繋がりの人たちに「見下すな」と言うのが、そもそも無理なのかもしれません。字下げ増田を「高学歴の愚者」などといって嘲笑う人たちがいますが、彼らは人の心を尊重することを軽視し、おもちゃにしています。
確かに、愚者は他人から見下されるような行動をしてしまいます。しかし、それが人間の弱さであり、弱さをお互いに認め合えるようになれば、「お前は愚かだ」などとインテリぶらずに優しい関係になれるのではないでしょうか。
就活のせいで、と書いたが、今私が悔しさを感じているのが就活であるという話であって、「就活が憎い」みたいな趣旨の文章ではない。
「自分以外の人間の価値基準で自分を測られる行為全般において、敗北感を感じることが多い」みたいな話でもあると思う。就活に限らず、ひととのコミュニケーション全般において悔しさを感じる場面が多いので。
就活では特に、自分のこれまでの生き方、積み上げてきたもの全般が、人と比べて劣っていたのだなぁと感じる機会が多い。なので、毎日悔しさですごくイライラするし、自分にとって楽しい毎日が送れていない。
ここでの悔しさは、割と本能レベルで感じているアレだと思ってほしい。
私は悔しさで最も涙腺がゆるむタイプの人間であるということも付け加えておく。私の親も悔しさでしか涙を流さない人間であったので、たぶん遺伝子レベルで悔しさを感じやすい傾向なアレである。
例えばデザイン系の就活における作品集(ポートフォリオ)制作。例えば面接やESのエピソード。例えば面接での具体的なコミュニケーション。それぞれの方面において、だいたい自分は必要水準に達していない。必要水準に達していないということは、これまでの自分の生活が、時間の使い方が、考え方が、間違っていたという話になる。
別に就活以外の価値基準においては、例えば私自身のそのときどきの幸せという面では、そこまで間違ってもいなかったと思いはするが。しかし就活の尺度では間違っていたということになる。間違っていたし、実際敗北している。負けると悔しいし、一人で部屋で激昂するか、友人に泣き言を言ったりする。
まあ就活は悔しさを抱えながらもどうにかしたとしよう。
しかし「自分以外の価値基準で人生を測られ、悔しさを感じる」という体験は今後もずっと続く。
そして、人生を振り返って自分の生き方の間違いを後悔する、みたいなムーブは、歳を重ねるごとに絶望感が増す。
私の予想では、諦めがつかないが十分に歳も食ってしまった50歳くらいが絶望感のピークだろうか。そこまで来ればたぶん、悔しさで狂ってうっかり死を選ぶタイミングも発生するだろう。
過ぎた時間に比例して、悔しさはますます悪化していく。決定的なラインを越える前に、この感情に対する対処法を得たい。
「自分以外の価値基準で人生を測られ、悔しさを感じる」という態度そのものを、普通に改善すべきだろうとは思う。しかし改善の仕方がわからない。
社会で生きていく以上、「自分以外の価値基準で人生を測られる」ことは避けられない。就活には就活の判定ルールが、恋愛には恋愛の判定ルールが、社会生活には社会生活の判定ルールがあり、そういう自分が決められない価値感、ものさしで自分を判定させられ、敗北をつきつけられることは避けられない。
「自分以外の価値基準で人生を測られる」というのは、極論、コミュニケーションそのものの一側面である。実際、私はちょっとした人とのコミュニケーションの中で悔しさを一人で勝手に感じることが多い。勝手に敗北感を感じている。
コミュニケーションは協力ゲーだという側面もあるとして、しかし二人三脚で毎回自分がコケてたら相方に申し訳ないし悔しさ不甲斐なさでブチ切れそうになるみたいな……伝わるだろうか。
「自分以外の価値基準で人生を測られる」状況が悔しいのであって、そうでない、ただ一人でいる時に幸せを感じることは可能である。自分の価値基準で自分の人生を測れば、「まあいいか」とは思える。常に自分と他人を比べ続けているというほど不幸ではない。
しかし比較される状況から逃げられるほど浮世離れはできない。就活で敗北をつきつけられ続ける状況に対して、「まあいいか」とか言ってられない。
先に書いた通り私は、性質として、本能レベルで悔しさを感じる。何かに対する悔しさの感情は自然に湧き、抑えられない。
同時に、「自分以外の価値基準で人生を測られる」ことも、社会で生きていく上では避けられない。
この2つを前提に、どうすれば自分の人生に悔しさを感じることなく生きていけるだろうか?皆はどう折り合いをつけているのだろうか?
12時から映画が始まるのでめずらしく11時以前にベットから起き上がり、準備をする。
ぎりぎり5分前に到着することができた。奇想天外映画祭2023の上映作品の1つだった子供たちをよろしくを観る。
この作品は、当時全米一暮らしやすいと言われていたシアトルに集まってくるストリートチルドレンの生活を撮ったドキュメンタリー映画である。フィルム撮影のどこかぼんやりとしたあたたかい質感やシアトルの賑やかな雑踏によって生まれた浮世離れした空気感のなか、ストリートチルドレンの常に死と隣り合わせの過酷な現実とそんな暮らしの中でも彼らの一抹の輝かしい青春を映し出した作品だった。どの子供達も家庭に居場所がなく街に流れてきて、同じような背景を持った者同士集まり、物乞い、売春、ドラックディーラー、ゴミ漁りで生計を立てていた。そういった生活を送っているせいか、女の子は特にスレた雰囲気を醸し出し、世を見る沈んだ目は中学生には見えないが、何気ない言動や行動、笑っている姿はやっぱり年相応で、どうかこの子供達が安住の地にたどり着いてほしいと願わずにはいられなかった。タイニーという痩せた14歳の女の子が売春で留置場に捕まった時、アルコール依存症の母親は施設に入っており面会に来れず、来てくれた好きな男の子がフロリダへ旅立つと知った彼女の噛み締めるように泣いた顔、同じく留置所に入ったが父親は逮捕されていて会いに来れず、ただ一人きてくれたのは児童指導員だけでその後自殺してしまった17歳の男の子。彼らの抱える深い孤独。観終わった後、暗い気分になる。
帰宅後、英語版ウィキペディアを読むとなんと子供達のその後が簡単に書いてあった。売春婦のまま殺されてしまったり、喧嘩の最中刺されてそ致命傷となったり、AIDSで亡くなったりと20代のうちに命を落とすものもいれば、生き延びて親となった者もいた。80年代の作品ではあるが、どの国・時代にも彼らのような子供たちはいるのだろう。私が育った田舎町では、家庭環境が良くなかった子は中卒のまま街へ流れていくケースが多い。小学校の同級生で一人いるが、元気にやっているだろうか。
妻と結婚する前、五年付き合った女がいた。
当然結婚するものだと考えていたが振られた。理由は俺の金遣いと酒癖の荒さだ。酔って彼女を殴ったらしい。
妻にはそんなことをしていないとは思う。尤も妻は気が強くそんなことをしたら即座に慰謝料をむしり取られて捨てられるだろう。妻は商社の総合職で収入もそう俺とは変わらない。実家の経済状況はお互い普通で、成り上がり組だ。
いわゆる俺たち夫婦はいわゆるパワーカップルだ。妻は先述したように商社の総合職勤務、俺は外資系金融。都内なら履いて捨てるような夫婦の出会いは結婚相談所でお互い条件ありきで恋愛というわけではない。
件の彼女との出会いは学生時代だった。関西の某大学だ。友達の友達にすごく可愛い子がいて、一目惚れしたから紹介してもらった。桜井日奈子に似た青春の象徴みたいな子だ。
めちゃくちゃモテてた。顔だけで当然だけど彼女は実家が凄かった。祖父が某企業の創業者一族でその唯一の孫だったから溺愛されていた。まあ金はある。学校の近くにマンションを買ってもらってたけど、それが一部屋じゃなくて一棟だった。ていうか実家から通えるレベルだったけど一人暮らしをして、運転手付きの車でしょっちゅう行き来してるような子だった。
その子はお嬢様だけどはっきりいってメンヘラだった。両親との反りが合わず、教育虐待みたいなものを受けていたせいらしい。見かねた祖父がブチ切れて甘やかして育てたせいで祖父母との分離不安みたいなものがあった。
浮世離れした子だった。こんなに可愛いのに処女だったし。友達にちやほやされていたけど、趣味はオタクでソシャゲに廃課金(これは俺基準の廃課金であって彼女にしたら小遣いの範囲)したり、ずっとアニメ見てたりしてた。同人もやってたはず。よく小説を書いていた。
何度か読んだことがあるけど彼女はめちゃくちゃ文章が上手かった。実際同人じゃない小説を中学から出版社に送っていたらしい。小説家になりたかったと言っていたけど結局は同人で満足したと言っていた。
彼女はある種の魔性だった。学校の友達にもちやほやされて、オタク関係でもなかなかのフォロワーがいた。俺は一番近くで彼女を見ていたからわかるけど、決してマウントをとったりしないしむしろ控えめな性格なのになぜか彼女は人目についた。同人でめちゃくちゃ妬まれてアンチがベッタリ張り付いたりした。(この件を彼女から聞いたんだが同人誌の相場の値段が分からず儲ける気もなかったから豪華な本を作ってタダみたいな値段で売ったら掲示板で晒されたらしい)
どこにいっても異様に好かれたり妬まれたりそこが発展して嫌われたりする。
で、今、俺は猛烈に彼女が嫌いだ。
妻のことは好きだし子供が産まれるのも楽しみだ。でも時折どうしても見てしまうインスタの中の彼女は歳を経るごとに綺麗になっていた。青春の象徴は褪せる気配がなくそれと妻を見比べてため息をつく生活がいやだ。総合職でバリバリ働く妊娠した妻と一度も働いたことのないのほほんとしたおっとりお嬢様の彼女を比べるのがおかしいのはわかっている。
そして彼女も結婚したらしい。すらっとしたイケメンで、その男も育ちがいいらしく三つしか変わらないのにフェラーリに乗っていた。ショーメの指輪をつけて含羞む彼女の笑顔は、昔俺が誕生日にあげたティファニーをつけるときと同じだった。妻と指輪を買いにティファニーに行った時、あんなふうに笑ってくれなかった。「ハリーが欲しかったけど無理か」と力無く笑っただけだった。
妻は綺麗だと思う。でもそれは自分の手の届く範囲の綺麗さで、彼女は本来自分じゃ絶対手に入らない存在だった。
あの時は調子に乗ってたから彼女と別れても同レベルの女とすぐに付き合えると思っていた。なんなら下戸でお嬢様の彼女より一緒に酔って騒げる少し蓮っ葉な女の方がいいくらいだった。でもなんというか実家が裕福故の余裕や育ちの良さ、おっとり感、透明感というものは得がたい綺麗さがある。例えば料理を作ってくれた時に和食がひと品ひと品ちまちまと取り合わせのいい皿に盛り付けられて完璧な配置に並んでいる様だとか。燃えよ剣で土方歳三が高貴な女と寝たいって言った意味がわかった。
もう手の届かない彼女が嫌いだ。俺と付き合っておいて結局金持ちの育ちのいい男と結婚した彼女が嫌いだ。そして何より、子供が出来たと妻に知らされたときもう彼女と今後の人生で関わることがないなと思った自分自身が一番嫌いだ。