はてなキーワード: 痰壷とは
ジャニー喜多川氏の性加害についての記事がBBCから出て、ネットの一部では反響を呼んでいるが主要メディアは沈黙を貫いている。ニュースバリューがない話題ではないので、何かしらの理由があると思われるが、おそらくは「報じることによる不利益が存在する」のだろう。(例えばジャニーズ事務所タレントの出演に関わるなにかしら、など)
これは主観だが、この数十年、社会はより「あるべき姿」に近くなるように変わってきている。痰壷がなくなり、煙草の吸殻やガムの吐き捨てが無くなり、有給取得率を上げる取り組みや育児関連の取り組みが進んだり、男女平等、LGBTQの権利、などなど。それは「キレイゴト」であり現実でなかったものを現実にしてきた積み重ねでもある。
そういったキレイゴト、あるいは建前を大事にするのがメディア・報道であり、現実ではない理想を述べることで人々の意識(あるいは世論)を変えていったのだと思っている。それは、キレイゴトを実現するためにコストを払うべき人々に対する圧力でもあり、その「正しさ」故に代償を伴ってでも実現するのは当然だ、という意見となって変化を推し進めてきた。繰り返すが、メディアはその先鋒であると思う。
さて、その「キレイゴト」からすると、性加害を加えた人物が法の裁きを受けないばかりか、その社会的評価に対して何ら問い質す動きが起きない、というのは正しくないだろう。本来なら、メディアは取り上げない訳がないのであるが、いざ「支払うべき代償」が我が身となると途端に手のひらを返してキレイゴトを放り捨てるわけだ。もちろん、社会人としては各構成員の判断には一定の理解は出来る。被害を被る部門からは、報道部門に対して「かなり強い要請」を出すだろうし、報道部門も対立を招く案件には手を出したくないだろう。とはいえ、であればトップが判断するべきなのだ、社会正義を取るか自社の経営を取るか。というわけで各社、トップは正義を放り捨てたのだと思う。
最近は「ブーメラン」という表現も一般的になった。ほぼみんな、ブーメランを食らったときに、一貫性を保てない。その瞬間にその発言主体の信頼は地に堕ちる(…と私は思うのだが意外とみんなケロッと忘れがちなのもまた事実)。
さて話題は変わってSDGs。現在進行系でマスメディアが吐いてるドデカいキレイゴトだ。己の身を切れない主体が吐く言葉、その空虚さに彼ら自身が向き合う日は来るのか…と思ったがまぁ無いんだろうね。
ちょっとしたコメントの言葉尻に倫理観が測られうるというスタンスは、社会的ステータスも健全な生活も持ち合わせていない根無草でも有象無象の人間集団の中から己の知性とセンスでいじめられっ子から一発逆転を狙える幻想と同一平面上にあってさ。
おまえらが軽率に解釈違いの人間をブロックしたり、言及するしないや言説の真偽に対して異常なこだわりを持っているのは自分の価値を知的優越性にのみ置いていることから生じている弊害で、現実的課題の解決と社会生活の遂行とは全くのねじれの位置にあることに気付いた方がいいよ。
おまえらの中ではもうとっくに降りたことになっている土俵の上にいる真っ当な健常者たちを直視しろよ。自分の能力の低さを直視しろよ。
いつものメンツで毎晩毎晩「より良いインターネットユーザーであるには」とかなんとか議論するのもやめなよ。
誰も見向きもしないようなサブカル知識の重箱の隅をほじくり回してアレは良いコレは悪いの判断の線引きを行ったり来たりさせるのもやめなよ。
気付いてるんでしょ?それがピントのずれた行為だってことに。薄々わかっていても決定的な事柄に着手するのを遅らせ続けてさ、インターネットでのポジションを維持しようと思って我々は螺旋的に発展してるって自嘲するのもやめようよ。
助けてくれよ。こんなつまらないことばっか書かないと気分が落ち着かないんだよ。情動失禁にすぎない最悪の棚上げ行為をこんな場末の痰壷吹き溜りに書き散らさないと何も手につかないんだよ。もっとちゃんとしたい、海が見たい、人を愛したい。
わかるでしょ。何を言いたかったのかもわからないくらい、心がざわついていて、落ち着かないんだよ。
お前らがコソコソとSNSで気に食わないなと思ってそれとなくぼやかして言及している奴らはこんなに頭が悪いんだよ。
ほわせぷキッズより
昔、学校、病院、駅、劇場などあらゆる公共の場には痰壷と言うものが設置されていたらしい。
字を見るだけでも気持ち悪いのだけど、街中で痰を吐いて捨てるためのものという。
自分は子供の頃の1990年代には駅にそんなものがあったようや微かな記憶があるけどそれが何なのか認識していなかったし使ったことはない。
なんでそんなものが存在したかと言うと、ここのページに書いてあったのだけど、
http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/blog-entry-1601.html
昔の人は土埃とかがあったのであたり構わず唾を吐く人がいて、肺結核を予防するためにそれではいかんということで、ここに吐きなさいという入れ物を作ったよう。
それで洗面所や通路、鉄道の客車の床には痰壷が埋め込んであったらしいんだけど、人前で堂々とぺっとやるのとかちょっと想像がつかない。
狙って吐いても外して周囲に被害を及ぼしてそうだし、みんながやってたら結構な頻度でそれを掃除する仕事もあったはずでかなりキツいものがある。
明治時代に法律で設置が義務付けられて驚くことに2005年までは法律に規定があったそう。
ということなんだけど、自分は経験がないし話にも聞いたことがないので、みんなそれを使ってたのかとか、どんな感じだったのか知っていたら教えて欲しいです。
ブラックではないぐらいの会社に入った(朝7時30出社7時30帰社ぐらいで完全週休二日)。
客観的には。
以下は俺の痰壷。
主観的には、ふざけんなよこのクソって毎日思い続けている。会社やめてえって寝る度に思っている。
逃げって思われるんだろうけど、そもそも二言目には成長と抜かす周りの人間が初めからイヤだった。
OJTだかなんだか知らないけど、ロクに教えもしないのに仕事できないと怒られるのも意味がわからない。
こういうムカつきを皆抱えていると思うんだけど、どう耐えてるのっていうのが疑問でしょーがない。
今の所は怒られているときブン殴る想像して耐えてるぐらいだけど。
はあ、死にてーな。
その前に俺の作品論について語らせてくれ。
まず俺の作品論の結論は、作品は作品の中で語れ、というものだ。
作者の情報は不要なばかりか、もはや有害な情報だとさえ考えている。
デザートは最後に食べるべきだ。
で、面白ければ作者は誰なのか調べる。
作者がどういった人物でどんな思想があってどんなことをしているのか、などを調べる。
JKローリングが自分の素性を隠して書いた本が全然売れなかったのに、
素性晒した瞬間に爆売れしたことがあったじゃん。
作品名は忘れちゃったけど。
そういうのをみると、ああ、ねえな。って思う。
みんな本の内容なんてどうでもいいんだと。
作者のプロフィールは作品を鑑賞する上で一切必要ないはずだし、
必要であってはならない。
その点で増田は作者の情報が常に不詳だから作品論のあるべき形だと言えるね。
お分かりの通り、作者の素性が読む前から既にわかっているからだ。
推理小説を読む前から表紙に犯人はヤスだと書いているようなもんだ。
その本が面白いかどうかではなく、どこに殺人に至った思想があったのか、そのパズルピース探しに必死になってしまうことが読む前からわかってしまっているからだ。
あれを購入しているやつらは、
あれが一体どんな本なのかなんて心底どうでもいいと思っていて、
異常者が異常であるという理由のカケラを作品から拾い集めたいだけなんだ。
仮にあれを殺人鬼でもなんでもないごく普通の俺が書いたとして、お前ら買う?
買わないだろ?じゃあそれはその程度の面白さってことだ。
あの本は読んだのか?読んでないのか?どう思うか?どんな考えを持っているのか、と。
はっきり言おう。どうでもいい。心底、どうでもいい。
あの本に一切興味はないし、興味を持つつもりもない。
いいか、作家っていうのはな、
殺さずして人殺しが書けるし、死なずして死人が書けるもんなんだよ。な?
その点でいうと、あれは俺的によくなかったので手をつけないんだ。
サラリーマンが書いた、主婦が書いた、作家が書いた、素人が書いた、老人が書いた、子供が書いた、日本人が書いた、外国人が書いた、金持ちが書いた、貧乏が書いた、警察が書いた、殺人鬼が書いた。
どうでもいい。誰でもいい。
面白ければ、それでいい。
殺人鬼がどういった思考をしているのか気になるからという理由で売れてるとのことだが、俺はそういった不純な理由が嫌いだ。
人殺しなんてたまたまタイミングと状況の関係で人を実際に殺しただけであって、その他は通常の人間と一緒だろうが。
作者の情報は作品には何ら影響を及ばさない。及ぼしてはいけない。
普段彼がムカデを食ってるとでも?
痰壷に入っていた白濁して塩味のする痰のかかったご飯をとろろかけご飯と称して人に食わせるととでも?
違うだろ。
まあ、アレを購入する人たちはそういう答えは求めてないんだろうけどな。
異常者は常に異常である。
その答えだけを求めて買っているんだろうけどな。
サイコパスの異常な考え方を知ることで、
自分はそれとは違う考え方を持っていることを知る=異常ではないという安心感が得られる。
あるいは、同じような考え方を持っていることで危険な香りに心躍る。
本気で自分がサイコパスだと考えている人など一人もおらず、みな、サイコパスの異常な考え方は娯楽の一つであるとだけ、考えている。
彼らにとって異常者はピエロなんだ。自分達とは違う存在なんだ。
メイクを落として日常生活にごく普通に存在していて欲しくないんだ。
常に、いつ見ても、同じ時に、同じ場所で、同じように、異常であり続けて欲しいんだ。
だから、殺人鬼が自分はごく普通の人間「です」と言っても誰も理解してくれない。
読んでも読む前と同じ感想になっていることがわかっているなら、
実際に読んでも実質読んでないのと一緒じゃん。