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はてなキーワード: 純文学とは

2012-02-02

http://anond.hatelabo.jp/20120202155752

日本文学史で、純文学大衆文学の論争が起きたときも、同じ理由だったんじゃないかという気がする。

そっちのほうは大衆文学の側の

純文学が“ありのまま真実を書いている”って、検証不能じゃないか

また本当に起きたことであっても、書いた人というバイアスを通った以上、その人の主観になる」

に傾き、そして「純文学大衆文学の境目が薄れてきた」現実で論争は終結した。

今の時代は「小説なんて作り話じゃん」が常識だけど、昔は「事実真実でないとダメ」と言っていた人が、

かなりの数いたんだよ。

それより「嘘がソースの話は信用するなボケ」をもっと考察した方がいいと思う。

なぜ多くの人は、言われたことをそのまま信じてしまうのか?

荒俣宏はそれを「アホの力」と名付けた。(と思う)

漫才で片方が何かを言うと、相方が「そうそう、○○ですね~」と復唱する。

疑わない、否定しないお約束なんだけど、(もちろんネタの核心部分に入ったら捻りが出てくるが)

一般人はなぜ素直に信じてしまうのか、せめて信疑保留にしないのか?

そのメカニズム考察する方が、よほど面白い

2011-11-25

[] 自分ネットでは団塊世代であるという自覚をもって生きよう

ラノベ批評家マニアによりジャンルマニアック化して荒廃する!!」

SF「その道は10年前に俺達が通った道だ!!」

ミステリ「その道は50年前に俺達が(以下略)」

純文学「その道は100年前に(以下略)」

古典「その道は1000年前に(以下略)」

神話「その道は5000年前に(以下略)」

絵画「その道は12000年前に(以下略)」

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

あー書こうと思ってたことを先越された。

http://d.hatena.ne.jp/si-no/20111124/1322144982

ゲームセンターでは、上級者が初心者を駆逐するような空気を作ったせいで、格闘ゲームというジャンルそのものが縮小した」と聞きましたが、今のインターネットも上級者しかいないゲームセンターみたいな窮屈さを感じるんだ。

まぁそういうことです



真性さんに端を欲する「俺達のインターネットの終末と最後希望」だけれど、もうこの手の話は食傷気味だ。

(真性さんのエントリだけ例外。あれはいものだ)

だって、もう全く同じような話を延々と続けてきたのだから

みんな、インターネットにかんする窮屈さや空気の停滞は感じてた。

でも、今まではこの話しを直接するのを避けて、

「俺たちの」ゲームセンターやら「俺たちの」アニメの衰退という少し狭い範囲で代理戦争をやってた。

でも、内容は上で言われている「俺たちのインターネット論」は所詮ゲームセンターについて語るのとほとんど同じなんだ。

それが、ついに真性さんというカリスマの記事によって、インターネット全体の話として持ち上がった。そーいうことだ。



はいえ、結局は「俺たちの遊び場」の興隆と衰退の話をしているに過ぎない。

同じような問題は、違った場所で、すでに何度も繰り返されている。

ただそれぞれの当事者が、別々のものだと考えて、別々に騒いでいるいるに過ぎない。

ただそれぞれの当事者にとって切実な問題であるにすぎない。

何度もくりされる、避けようのない道なのに。




今のインターネット自分にとって最適ではなくなった。ただそれだけだ。

それに対して、自分たちで自分たちの望む場を作ったり、場を再び盛り上げようという程の気概はない。

所詮そういう奴らは内田樹のいうところの「下流志向」、つまり、「消費者意識から抜け出せないのだ。

ただ要求するだけなのに建設的な意見を言ったつもりになって満足し、

結局それを作り、与えてくれるものがなければ自分たちには何も出来ない。今度は批判して憂さを晴らすだけだ。

やってることは自分たちにとって最適であった過去を嘆くばかりである

新しい動きをただ自分にとって最適でないという理由だけでこき下ろし、批判する。若くして老害の出来上がりだ。

老害とは過去にしがみつく亡霊のことであるが、なぜそれが生まれるかというと、

消費者意識から一歩も脱却せず、自分の狭い目線から一歩も離れず、過去を望みつつも過去から何も学ばぼうとしないからだ。




「俺たちが○○を作った」「俺たちが○○だった」

勘違いしてはいけない。自分たちは、たまたま興隆期、全盛期に運良く立ち会っただけに過ぎない。運が良かっただけだ。

自分たちはただのネット団塊世代にすぎないのだ。最初から無茶が聞いただけだ。それが許されただけだ。

そんなものインターネットの本来の姿でも何でもない。インターネットでできることはそれだけではない。

嫌ならさっさと逃げ出せばいい。別の対象を見つければ良い。

とにかく、自分が望んでいるものだけは既に無い。自分を肯定してくれる「俺達のインターネット」はない。それだけだ。




っていうかさ。ネット団塊世代として、十分すぎるくらい貯蓄貰ったべ。財産築いただろ?まずその棚卸しようぜ。

もう社会やら世の中が自分を肯定してくれなくたって、十分老後を自活していけるだけの蓄えはあるだろ?

ネットで作った友達とか、そこで得たやり取りが経験になってんだろ? 

その財産を元でに、自分たちの遊び場くらい作れるだろ? 自分で何とかしろよ。

なってなかったらそりゃお前のせいだ。 インターネット生活保護はない。神様もいない。

幸運ネット団塊世代に生まれていながら、何一つ築いて来なかったなら、それはただの怠慢だろ?

サボってた奴が、偉そうになにかい資格までは「俺たちのインターネット」でさえ許してないと思うぜ。





自分たちより若い世代は、ネット興隆期も全盛期もしらない。そういう幸運環境を与えられなかった。

その中で、必死自分たちの生きる道を探そうとしてんだ。俺らよりずっと立派にやってるよ。

下流市民たちだってけなげなもんだ。

ソーシャルゲームやらニコニコなんぞというもので満足しようと自己暗示かけてんだ。

自分たちの欲求を極限まで制限したり変形させたりしてなんとか適応しようとやってんだ。


蓄えがないところから自分たちの生きる場所をつくろうとやってる連中に対して、邪魔はすんな。

それなりに理解しようと努力するか、それができないならクチをつぐんでただ見てろ。

そいつらのやってることがダメだとか間違いだとか言うなら、自分たちが示してやれよ。

過去の回想とかいう非現実的で、企画力ゼロ妄想垂れ流すんじゃなくてよ。

別にからでも自分たちに最適な潮流を生み出しても構わないんだぜ?

ただそれは、今までみたいにクレクレ君としてじゃなく、自分らで作り出すべきだろ。




もう俺たちは、社会インターネットに何かを期待してるだけの幼年期を卒業させられてんだよ。

とっとと与える側、期待させる側、なにか作る側にとりかかれ。いつまでブヒブヒやってんだ。





追記。私もこれについて全く理解できてない。この部分理解してもう一回「俺たちのインターネットの終わり」について考えてみたい。

私も「どうせ終わりなんだから深く考えるな」「全体が終わっても俺は生き残れるからどうでもいい」って乱暴に考えてた。

でもこの衰退はどういう形だったのかってのはもうちょっとまじめに考えたほうがいいのかもしれない。

ttp://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2011/11/post-474d.html

わたしは「危機」について分かっていない。本書では、「危機(crisis)」「暴落(slump)」「バブル崩壊(collapse)」が同じ意味で使われている(ように読めた)。景気循環の下降局面なら「危機」、資本限界効率が急落し、みんなが現金を欲しがっている状態を「暴落」、さらに過剰投資(=バブル?)が行過ぎて、期待収益ゼロ以下になることを「バブル崩壊」と呼んでるみたい。いわゆる「バブル崩壊」は、そんな景気循環から外れた、日本だけの極端な現象だと思っていたが、ケインズも指摘しているくらい「予見されたこと」なのだろうか

2011-11-23

http://anond.hatelabo.jp/20111123090858

本来の三行要約は、情報処理効率を重視した目次的な役割であるはずなのだが、

そうだっけ?

今北産業って、祭り会場に乗り遅れたヤツが発してたのに受けて

おもしろおかしく三行で返すってヤツで

正確さより、ミスリード上等なもんでしょ

まあ久しぶりのテキストサイト時代の薫風に興奮すれども

要は顔だろと最初の一段しか読んでないコメントが多くて

がっかりする気分は分かるけど、

今北産業とか「分からいかジョジョで説明してくれ」とかの

デバイドをデバイドとして楽しむ文化は楽しめばいいんじゃない

そもそも元ネタは、ライフハックとかじゃなく純文学の類なんで

文学の要約って古典文学みたいな教養として価値がないと

情報として無意味だし

2011-09-19

http://anond.hatelabo.jp/20110919160510

逆にもかけるな。


純文学は前知識や想像力なんてものを期待したら作者の負けだろう。

クラシックも同じで、それ単体で観客を喜ばせられないなら、表現の敗北。

前知識やら想像力やらは、後付で「芸術(笑)」を説明するために付けられたもので、

「それを知ったから」評価が上がるようでは、後世に残ったりなどしない。


翻ってラノベポップスは「前知識」を要求する。

それらを楽しむための記号を知らないと意味がわからない。

挿絵もなしに、「ば、ばかじゃないの!」の文章から、照れたヒロイン像を結べるのは、記号の習得と想像力のなせる業。

携帯小説などが良い例で、表現の省略は読み手に大きく依存している。

ライトノベルエンタメ)||||||||||||||||純文学

歌謡曲|||||||||||||||||||||||||表現音楽クラシックなど)


左は、前知識や想像力が無くても楽しめる

右は、前知識や想像力が無いと楽しめない


勿論、折衷の作品も存在する

3年前だ

小説投稿サイト(しょうせつとうこうサイト)とは、アマチュアオンライン作家が、自由に小説を公開できるウェブサイトである。公開された小説オンライン小説)に対する読者や他の作家から感想や評価、評点によって実力を知り、執筆力や技術力を向上させる。

そのほとんどが個人運営であり、同人誌コミュニティ形成を目的としているが、中には、新人発掘など商用を目的にする出版社法人が開設したサイトもある。

小説家になろう

http://syosetu.com/

●のべぷろ!

http://www.novepro.jp/

小説カキコ

http://www.kakiko.cc/

星空文庫

http://slib.net/

●アットノベル

http://atnovels.jp/

作家でごはん!

http://sakka.org/training/

純文学

http://jyunbungaku.exout.net/

2011-07-21

Sランは半端ない

S ネットゲーム アダルトゲーム 同人誌 フィギュア SF 三国志 軍事 声優 風俗 オカルト

A アイドル アニメ サバイバルゲーム アマチュア無線 鉄道 競馬 切手 腕時計 パチ○コ

B 漫画 バイク カメラ ライトノベル 特撮 民族学 自作PC 女子アナウンサー 麻雀 オーディオ機器

C 携帯電話 ラーメン 深夜ラジオ 映画 サブカル 自動車 ファッション テレビドラマ 熱帯魚 釣り

D ビリヤード ワイン 自転車 ダーツ テニス サーフィン ギター 純文学 クラシック音楽 アウトドア


私女だけど、Bまでなら許す

それより上はさすがに…


2ちゃんのどっかで見かけた男の趣味ランクテンプレだが、このうちどうしても理解できなかったのが、

ネトゲがSランクだったこと。


でも実際ネトゲをやってみて、Sランクものすごく妥当だと思った。

正確にはネトゲ廃人に対する評価として妥当という感じ。

というか男の趣味に貴賎をつけるとしたら、あいつらはエロゲオタを差し置いて

間違いなく最下層と言わざるを得ない。


エロゲについては「童貞去勢するような商売はやめろ」とか

「大っぴらではなく影でこそこそやれ」とは思うけど、個人的には

そんなにキモいと感じない。


その点、ネトゲ廃人はもうこれ以上ないくらいキモい


そもそもネトゲ特にMMOは↓の記事にあるように「自己顕示システム」として強烈な麻薬性がある。


http://lovelove.rabi-en-rose.net/blog.php?n=227


廃人はこのシステムに取り憑かれ、自己顕示欲に溺れてしまった人達と言える。

欲望の赴くままに俺TUEEEEE俺SUGEEEEEを貪る。

その姿がどうしようもなく嫌らしく、気持ち悪い。


そして俺TUEEEEE俺SUGEEEEEは他者との関係無しには成り立たない充足感なので、

周りをあまねく不快にさせる。

しかしよく訓練された廃人だと、そうして周りからウザがられても

「なーんかまたザコが負け惜しみ言っちゃってるよーでも実際俺超かっけーから仕方ねーわ、

あー嫉妬されるマジつれーわw」

という感じで快感脳内変換されるらしいので付ける薬はない。

まさしく「ギルド一番の誇り高き戦士」の面目躍如といったところか。

全く自重しない態度に胸熱だ。


特に10からいくつもいろんなネトゲやってるみたいな、MMO経験が長い人ほど要注意だ。

文字通り頭狂ってる奴が結構いる。

もちろん初心者のうちから廃人傾向の言動する奴もいるけど(リア充ダークサイドとも言えるか)。


こういう奴らに比べたら、こんな所でヘイトスピーチまがいのクズ日記書き捨ててる

自分のほうがまだマシだと心底思う。

2011-02-21

http://anond.hatelabo.jp/20110220230230

こういう人って、ラノベ大衆小説しか読まずに、純文学を理解しない人なんだろうか?

梶井基次郎檸檬とかも、同じような批判するんじゃない?

病人徘徊して本屋檸檬を置いて帰っただけで、なんら物語をもたない」

なーんつってな。



セカイ系空気系なんてハルヒからすでに言われてることだし、一方、まどかセカイ系的要素は未だ帯びていないよ。

なんだか、かけらだけでも納得してあげようと思っても、それすら困難な言説に思えるよー。

理解してあげられなくてごめんよー。

2011-02-16

(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」

つい先日、卒業研究を終えました。この日記は後輩やこれから卒業研究を自由に決められる人のためになればいいな、程度に書きました

私は卒研テーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せしたですので、後輩にもぜひ好きなテーマ卒研をして欲しいと思っていました

私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいましたしかし、後輩に「今の自分研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました

どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした

そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOwikipedia考察いかに素晴らしかたか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO - wikipedia ((http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%A7%E6%81%8B%E3%82%92%E5%94%84%E3%81%86%E5%B0%91%E5%A5%B3YU-NO&oldid=28528480))

また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです

CiNii 論文 -  マルチシナリオゲームにおける並列世界モデル ((http://ci.nii.ac.jp/naid/110002942865))

これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)

他にもネットを探すとユニークテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります

卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです

しかに、「好きだからテーマしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。

学生のあり方について、素晴らしい文章があります

修士論文の代わりに退学願を提出してきた - As a Futurist... ((http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733))

=====以上が、今回の日記意図です

もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。

論文とは「問い」です。一般的に論文テーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。

ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなラノベが好きか」ということになるのでしょうか?

これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。

「「好き」は理性ではなエモーショナル部分依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」

無趣味のすすめ - 情報考学 Passion For The Future ((http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1021.html))

つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです

そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです

さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義ですが、混沌としているようですね。

青少年を対象にした娯楽小説

程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性20~30代)でしょうから。(成人男性青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)

また、文学物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念引用することが結果を導く前から既に必要となります

例えば、物語的に観れば大塚英志提唱した物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。

れとろげーむまにあ: アドベンチャーゲームを振り返って思ったこと((http://nesgbgg.seesaa.net/article/185700949.html))

ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。

また、純文学の外に広がるキャラ萌え世界について詳しい

オタクたちのメンタリティには、教養主義文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。

東浩紀動物化するポストモダン|FRAMES INTERVIEW ((http://moura.jp/frames/interview/070423/03.html))

ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワードカテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。

ところで、先ほどラノベ定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義文学に「SF」がありますね。

サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました

ここで一つのSF批評を紹介します。

小谷真理の『女性無意識』に対する松岡批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。

最初ハーバード大学フェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノイネシスはそれにもとづいて提案した概念で、

父権的な社会蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。

長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動セクハラ問題が噴出してきた。

では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性無意識を象徴するガイネシスになるのではないかと見た。

(中略)著者はこんな出だしで手をゆるめない。次から次へとバウンダリートランスグレッション(境界侵犯)を見せつけた。

また、女性SFに関してこういう考察もなされています。

それにしてもいつのまに、女性こそが文学可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。

まずはエレイン・ショーターが父権文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリーシェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した

(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。

しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。

松岡正剛の千夜千冊『女性無意識小谷真理 (( http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0783.html ))

ということで、ここでは「外部の他者」たる女性文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとはないのではないでしょうか?

では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます

そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は

「【デリダとは】仏哲学者20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」

ツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))

デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要はないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)

ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。

女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである

女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性本質存在せず」、「女性の真理は存在しない」。

女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分存在しないということを知っているということである)。

実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニスト女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)

ニーチェの『善悪彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。

真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。

そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか

デリダ女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした

つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。

(知の教科書 デリダ 著者 林好雄 廣瀬浩司

見事にややこしいこの解釈から女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。

ニーチェ芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。

つまり、オタク男性)にとって、ラノベとは

女性という存在外部性とを遊戯的につなげている文学メディア媒介装置

であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)

十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレート表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる

オタクが豚になった――「萌えるからブヒる」へ - シロクマの屑籠(汎適所属) ((http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110215/p1))

という指摘もあります

例えば、オタクにとっての現実における外部性インターネットがあります

オタク男性であろうツイッターユーザーアイコンが、イラストアニメ美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性無意識に象徴しているのではないでしょうか。

また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユング提唱したアニマ(男性女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。

このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性

先程のツイッターイラストアニメ美少女アイコン無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?

以上より「ラノベ読者はなラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです

ラノベ本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?

私はそのことについて考える限り、とても意義ある研究だと断言できると思っています。

2011-01-16

http://anond.hatelabo.jp/20110116094808

ライトノベルほどの大きなジャンルルーツ作家一人に求めるのもおかしな話

漫画エロゲCRPGTRPG児童文学純文学は、ラノベルーツじゃないのか?

そもそも「万能感と孤独と仲間と世界」なんて抽象的な表現

当てはめようと思えばどんな作品にでも当てはまるじゃん。

2010-12-07

物語の類型を考える。

ウィキペディアで「空気系」を調べるとあまりの罵倒しっぷりに驚いた。

しかも「けいおん!」「らき☆すた」に限定したかのような書き方。

が、「『セカイ系』では主人公とヒロインが「引き裂かれる」ことにリアリティを見出すのに対し、『空気系』は「引き裂かれることのない」日常空間にリアリティを見出すものとして対比されることもある」という記述はおもしろかった。

しかし、うーん、と思って、そしていろいろ考えた。



物語類型なのに物語をなくした空気系」。

本来、「君と僕の関係」に「世の中の流れ」が影響を与える「大河」を逆転させた「セカイ系」。

次に進む物語類型はどんなものになるだろうか?

ハルヒのように、いろいろな構造抽出して配置するのではオリジナリティがない。

しいものを作りたい

セカイ系」から物語性を抜いてキャラを立たせたのが「空気系」なら、その逆でキャラクターを抜いて物語だけにするとどうなるだろう。

マンガであれば登場人物は全員黒子。

黒子だけが、セカイの滅亡について語り合って命を張る。

マンガであればおもしろそう、というか芸術性がでてきそうだが小説にするとなると難しそうだ。

純文学ならありかもしれないけど。

名づけるなら「別セカイ系」とかだろうか。



それならばもう少し時代をさかのぼって、王道物語をひっくり返してみる。

セカイ系」が「大河」の裏返しであるのように。

勧善懲悪」は、善悪勝敗を規定する類型である

これを逆転させるなら、勝敗善悪を規定する「勝てば官軍」類型になる。

それぞれの正義がそれぞれの立場で戦うのではなく、「勧善懲悪」よろしく圧倒的兵力でまず勝って、その後に戦に至った説明がある、という形だろう。



パニック物」は災害などがあって起きるパニックを描く。

逆にするならパニックが起きて災害が起きる「お祭り将棋倒し物」だろう。

空気系」の様相からの展開で、パニックの収拾までは描かない。

かなり刺激的な作風になりそうだ。



冒険物」の場合は難しい

冒険への動機は語られるが、冒険したいか冒険しているのが実際であるため逆転が難しい

しかし、あえて風刺するなら、冒険するまでもない動機があって、それを達成するためにちょこっと冒険するパターンだろう。

これはその実「空気系」にならざるを得ない。



そう考えるほど、「空気系」は何もないがゆえに、物語類型の頂点にたっているようにも見える。

他の類型は様々な色を見せるが「空気系」だけはまさに空気、白である

空気系」が物語として認められた今、空気になんの要素を混ぜるか、だけで全ては描けるのではないか

それを破れるとすれば、冒頭であげたキャラすら消した世界、「別セカイ系」のみである

2010-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20101205012915

実を言えば、昔の「小説」とか「テレビ」もバッシングを越えてきた実績がある。

昔は小説なんてバカなガキの見るものだったし、テレビも「見たらバカになる」って話があった。

「嫌われる」理由はそれが新しい文化だからだよ。ケータイとかゲームも同様。

んで、テレビは巨大産業になり、小説権威付けされたから叩かれなくなった。

漫画社会インフラとしての必要性が希薄権威付けも弱いから叩きやすいんだよ。だから叩かれ続ける。

つーか漫画規制するくらいならまず純文学規制しろと思うわ。

少女お膝に乗っけてたらうっかり射精しちゃった。あ、でもその子処女じゃなかったんだよね・・・」

のアレとか真っ先に規制しろよ。ロリオタとビッチダブル役満だっつの

2010-10-21

http://anond.hatelabo.jp/20101021205536

おー、お疲れ様です。

210枚全然少なくないですよ。

純文学系の新人賞の応募規定は大抵「50枚程度」だったりします。

そもそも書き上げられるひと自体が少ないので、増田さんは超がつく立派です。

これからも頑張ってください。

そのうちどっかで読ませてくださいね。

2010-09-09

ラノベから一般文芸への転向の理由

http://togetter.com/li/48558

以下、チラ裏

ラノベ作家が次々と一般文芸転向する理由

1.儲からない

結局は金。例えば桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」。富士見ミステリー文庫版では500円。3年後に再版されたハードカバー版では1400円。さらにラノベイラストレータ印税が折半になるので1冊当り25円の印税ハードカバーなら10%で140円の印税ライトノベルレーベルから出た文庫だと、6冊売れてようやくハードカバー1冊分の印税になる。

中高生が対象なんだから単価の低い文庫で出すのは当たり前」って言う人もいるだろうけど、でもラノベ界で一番売れている(という言われている)西尾維新の主戦場は、単価がやや高い講談社ノベルスハードカバー並みの単価の講談社BOX。これを考えると、文庫が主戦場だったのに長者番付常連だった神坂一て、ものすごい売れてたんだなって思う。「文学少女」の野村美月ですら未だにバイトしているっていうし。

さらに一般文芸作家には文学賞がある。直木賞吉川英治文学新人賞山本周五郎賞推理作家協会賞、あと純文学では三島由紀夫賞芥川賞ラノベ作家には本当に関係に無い文学賞なので除外)。これらは賞金が出る上に、受賞すると普段本を買わないような人まで買ってくれる効果がある。ラノベアニメ化すれば同じような効果があるだろうけど、深夜アニメ直木賞、どっちが効果があるかは自明だろう。

さらにこれらの文学賞を受賞すると、地方から講演の仕事が舞い込む。これが1時間ぐらい話すだけで100万円ぐらいもらえるというからバカに出来ない。また、ある程度キャリアを積めば新人賞や各文学賞選考委員になれて、それも収入源となる。純文学系の老作家の主な収入源はそれ(メッタ斬りコンビ福田和也が批判している、大作家福利厚生)。残念ながらラノベには、まだそこまでのシステムはない。

2.長い間書けない

角川スニーカー文庫が創刊してもう20年以上経つけど、創刊からずっと書き続けている作家ってどのぐらいいいる?50代で現役のラノベ作家は?しいて言えば、田中芳樹が現役といえなくもないけど、彼は遅筆というよりも才能が枯渇しているせいでまともに小説を完結できなくなっているように見える。

資料をあたる能力と知識が必要なファンタジーSFならば、ある程度年をとってもかけるだろうけど、今日日流行の学園モノって40過ぎたおっさんおばさんが、主要な読者層である10代の若者が納得するように書けるんだろうか。ここ数年で一般文芸転向した作家たちは、皆1970年代生まれ、いよいよ「若い感性」というライトノベルにとって必要なものが喪失し始め、小説技術を身につけた作家転向しているんだと思う。そういえば、2年以上発売延期している谷川流70年代生まれだった。多分彼もラノベ界を去るつもりなんだろう。


以上、思いつく限り。

2010-08-19

http://anond.hatelabo.jp/20100819000919

まるで推協が強欲みたいだな

ヒント

当時問題視されていたもの ×図書館 ○図書館の『新刊』の『複本』

実害を受けるのは出版社エンターテイメント作家

推協は ×ミステリー作家団体 ○エンターテイメント作家団体

対して、文芸協が純文学作家の協会

文化庁から文芸協に抜け駆けで年間10億円の補償内示

           ↓

その時、推協が動くしかなかった

2010-08-18

図書館で本を読むな。

「飢えて死にます」――「黒執事」作者、ファンからの「海外動画サイトで見た」メールに苦言

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1008/17/news048.html

黒執事事件!! 「飢えて死にます」――「黒執事」作者、ファンからの「海外動画サイトで見た」メールに苦言(IT media News)に対するツイートまとめ

http://togetter.com/li/42890

批評家伊藤剛氏「図書館で読むなとは言ってない」

http://togetter.com/li/42920



違法動画サイトで見てもいい、でもせめて作者に伝えないようにこっそり見ろ」「図書館で読んでいいが、金持ちの作者の知人が直接作者に伝えるのはノーマナーだろ」と大変おとなしいところにまとまりつつあるんだけどさあ。

作家の「重版童貞なのに図書館では予約待ちorz」「固定ファンだけでも買ってくれれば次回作書けるのに」みたいな愚痴を聞くんだよね。文芸の領域では。

純文学評論、資料本なら、各地の図書館が1冊ずつ買ってくれる数や図書館で読み継がれる意義の方を高く評価できるということも、あるいはあるかもしれん。

だが文芸エンタメと言われる領域では、図書館を聖域扱いせず攻撃する論があっていいんじゃないか。

エンタメをただで提供するのが図書館の役割と心得てるなら、これが作り手に与える打撃は違法動画サイトと何ら変わらないんだよ。

そろそろ「図書館で読むな」と言ってもいいんじゃないか?

あるいは「図書館よ読ませるな」と。

新刊を買って大量に貸し出す図書館が批判されたのも昔の話で、今や当然だと思われているし、ついには予算がないと言って新刊の書名挙げて都民に寄贈を呼びかけてる図書館まで出てきた。これはもう完全な泥棒行為だし、作り手を殺しにかかっていると言っていいよね?

2010-05-24

ワナビふたたび。

これは過激になって駄目になった文学に対する激励文。

もしくはあんまりに平和で平凡な日常に対する疑問文。

俺は価値観を揺さぶるようなものが文学だって言ってるけどね、

過激さは別に問題じゃないんだ。

過激だから文学ってわけじゃないんだ。

勿論過激さはありだよ。だけどそれだけを抜き出してどうこうできるわけじゃない。

致命的なのは過激な人たちは人を楽しませようって感覚がないんだ。

いや、とびきり退屈な人だっておなじなんだけどさ。

去年受けた文学講義内容を拝借。

恋空小説なの?

だけどあれは意外なものでもなんでもないんだ。

セックスレイプ妊娠中絶普通のことなんだ。

日常でってわけじゃないよ。物語の中でってこと。

暴力はどんな物語にも出てくる。

それは必要だからだ。もはや手段となってしまったんだ。

あらゆる意味での暴力のないストーリーなんて作れないんじゃない?

とても過激なものにするか、とても洗練されたものにするか。

ああ、だけど言葉定義ってのはあんまりにつかみどころがないね。

どこまでが暴力?脅しが?セックスが?それとも単純な殴る蹴るだけ?

新しいものって何?今更反小説って言っても、ねえ。

筒井康隆も巨船ベラス・レトラスで制限のない前衛小説

糞みたいに退屈で、作者も楽しめないって状況に陥ってることを書いているし。

自由にやらせちゃだめなんだ、きっと。

どこかの誰かの制限が面白くさせるって面は確実にあるんだろうな。

読者が存在するからこそ作者が存在するってこと。

読者の存在を念頭に置かなければ多分面白い物語は書けないんじゃないかな?

前衛は消えた。誰もが素朴なリアリズム純文学だと思っている。

多分そのうち純文学歌舞伎みたいなものになるんだよ。いや、もうなっているのかも。

文字を使った何かはきっと残るんだろうけどね。

それは一体何なんだろう。戯曲文学ライトノベル

誰も否定できないものをやってなにが楽しいんだろう?

誰も理解できないものを書いてだれが楽しむんだろう?

俺はスリップストリームがそうだと考えているんだけど。

だけどそれだってポール・オースターカート・ヴォネガットがずっと前にやっている。

佐藤友哉の後を追っても仕方がない気がするよ。

「現代的」な日本作家は誰かの模倣って状況。

それ自体が何か暗示してるのかな?

この時代の何を描いているのかな?

行き詰るのはまあ、いつものことで。

それでも少しずつ潜っていられるのは素晴らしいことで。

何か書かずにいられなくなってその文章が小説についてってのは、

ちょっとした皮肉だけど。

それは仕方ないこと。

焦ったってどうにもならないし。

そういうことはわかってるんだけどね。

2010-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20100515195553

弟が羨ましいてことは、

自分の好きなようにやるのを我慢してデキるお兄ちゃんであることを選んできちまったわけだな。

どうせならその道を全うするしかないだろ。公務員のまま純文学作家を目指したらいい。

あと、今だとラノベ業界って純文よりずっと勢いあるよね。

弟が作家になってしまった。

俺たち兄弟は、延々と「デキのいい兄貴に比べて弟は・・・」と言われ続けて育って来た。

そして二人とも病的に本が好きで、作家になることを夢見て生きてきた。

弟は20代の半ば、俺は28。弟は二浪した挙句地方国立というザマで、一族の中で相当爪弾きにされていた。

その一方、俺は大学卒業国家公務員に。民主党天下り規制にヘコんだりとかしてた。

いわゆる「デキるお兄ちゃん」であり続けたと思う。

小、中、高とアマチュア文芸賞やあるいはプロ志望者向きの文芸賞で

賞を取ったり選考に残ったりするのは大抵俺で、弟はほとんどひっかかったことすらなかった。

弟は内向的性格で、しかも怠惰なもんだから大学卒業後は当然のごとく就職に失敗し、

実家にもいにくいものだから俺の家に住み着いて日々ニートやってた。

その弟がライトノベル転向したのはほんの数年前。

そして先日唐突に賞を取り、唐突に売れ始め、ついに年収が俺の一桁上になってしまった…。

かくいう俺は、夢破れた純文学志望のしがないリーマンで、社会的立場こそあるものの

年収でいえば(笑)としか言いようがない。弟の本は順調に売れていて、メディアミックスの気配も見えてきた。

一体どこで勝負がついたのか。

あくまで俺が純文学にこだわり続けたことか。

それとも、さっさと職をみつけてそれなりに充足してきたことか。

弟の成功は心からうれしく思うが、自分人生がとてつもなく色あせて見える昨今。

つい先日まで「働け屑野郎」と罵ってた弟が、「今までのお礼」とポンと車を買ってくれた。

俺もライトノベル書こうかな…。儲かるんだね、ラノベって。

2010-05-10

http://anond.hatelabo.jp/20100510003922

どうりで海外の一流大学では、高学歴が一般企業就職できないという意味での「学歴難民」や

高学歴だけど使えない奴」が発生しないわけだ。

それは都市伝説。発生してるから。

ネット上の知人のアメリカ人とかで、一流大出てるのに就職できないって言ってる奴を何人も知ってるし、はっきり言って向こうの就職難に比べたらこっちの就職氷河期なんてぬるま湯もいいとこ。あと、俺が勉強してるドイツ語の教材でも「心理なんか勉強したから高学歴なのに就職できない」なんて登場人物が出てきたりもした。

つーか、哲学純文学で「ビジネス」ができるかどうか、少し考えてみればそれぐらいのことはわかるだろうに。

これだから「反知性主義」って言われるんだよ。

参考:

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/05/post_42ec.html

http://www.diplo.jp/articles06/0605.html

2010-03-14

http://anond.hatelabo.jp/20100314183531

クラシック音楽純文学落語囲碁将棋歴史茶道バレエ等の高尚っぽい趣味

金融投資も追加。

オタク趣味には何かと金がかかったり、オタクが多いと言われる技術職やIT系は一定水準の収入保証されているから

オタクは意外に金持ちが多いと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20100314183531

純文学はあんまり高尚な趣味じゃないよ。高橋源一郎とか読めばわかる。

クラシック(除くオペラ)は小学生でも聴くから、あんまり人に言わない方がいい趣味

http://anond.hatelabo.jp/20100314174736

オタクの人って、

アニメマンガゲーム鉄道ミリタリー等の社会的に最底辺とみなされがちな趣味と、

クラシック音楽純文学落語囲碁将棋歴史茶道バレエ等の高尚っぽい趣味を併せ持ってるイメージ

んでもって、一般人受けする中間的な趣味には疎いような感じがする。

2010-02-17

http://anond.hatelabo.jp/20100217015948

簡単に言えば、メディア化なんですよ。

昔、小説を読むってのは金持ち道楽だったけど、明治が過ぎる辺りに一気に一般化した。

それ以前に、「心中物」とか悲恋が好まれる土壌はあったわけですが、

近代文学の隆盛、そしてその後の三島・太宰時代に至るまでずーっと

恋愛」ってのは非常に重要イシューであり続けたわけです。

それに拍車をかけたのは、カトリック的な「純愛」の勃興ですね。

そういうわけで、上流階級の紡ぐ「物語」の上で「恋愛」っていうフィクショナブルな真実ってのは

既に明治に醸成されていた。

その上、女性解放運動が来ましたよね。家制度に深く結びついた「見合い」みたいな文化

当然攻撃に晒されることになった。これも文学者たちと目茶目茶深く結びついてる。

これが一気に転換を迎えたのはやっぱ戦後昭和の頃じゃないですかね。大正くらいから

上流階級の中で萌芽は無論ありましたが。昭和ってのはそういう時代だったかと思います。

思想・文学の中で醸成されたものが、社会の変化とともに一般化した。そういうわけで恋愛結婚が増えたのかと。

こういう動きは純文学に始まったわけだけれど、当然ながらエンタメに飛び火することになる。

そういうわけで、エンターテイメント、あるいは読み物、あるいは創作物と「恋愛」ってのは

日本に於いても欠かせないものとなった。そして、メディアが増えるに連れ

それは「異国の文化」から「愛の理想」へと格上げされたわけです。

現代では考えにくいですが、一昔前の書籍の持つ力ってのはスゴかったから。

そして、そういった創作の土壌が広まっていた以上「純愛」ってものがドラマの主題になっていくことも

そりゃもちろん当然の流れで、もし「恋愛」を広めた罪科を問いたいのならば

日本の主要な文学者を軒並み叩ききるしか方法がなくなる。

だって、あらゆる創作物から「恋愛」を抜いたらどれほどのものが残るか、想像つくでしょ?

ドストエフスキー川端も、ヘミングウェイもほとんどみんな消滅するわけですよ。

だから今更「ドラマ」なんかに罪を問うてもマジ仕方ない。

必然だったわけです。文学恋愛創作物と恋愛が切り離せない以上、しかもその文化をいち早く

輸入して広めたヤツら、そしてその後の創作の基になったヤツが誰かと考えれば

現代のドラマなんか責めてもマジでどーにもならない。小説に始まるあらゆる創作物を断罪するしかないですね。

そりゃちがう。

http://anond.hatelabo.jp/20100217011554

日本恋愛結婚が増えたのは、明治辺りに「恋愛」って価値観が導入されたことが原因。

当時の純文学の書き手なんて、みんなこぞって恋愛賛美・純愛賛美だったじゃないっすか。

キリスト教価値観とともに持ち込まれたんだね。しかもこれは近代文学の走りでもあった。

浮雲」辺りの話だね。国木田独歩とか純愛超頑張ってたじゃないっすか。

日本人の「恋愛信仰」はドラマに始まったもんじゃないっすよ。

もう、「近代」の訪れとともに「物語」として輸入されて広まってましたよ。

それが許される社会状況になるとともに、恋愛化が進んだのは寧ろ必然

ドラマなんて陳腐なもんではなく、もっと昔に始まっとります。あの辺りからの変化に比べたら

現代(昭和以降)の変化なんて、無いも同然。

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