はてなキーワード: 直木賞とは
http://anond.hatelabo.jp/20111005092209
直木賞、芥川賞、本屋大賞など。文学賞を創設してこれというものを選んで授賞する。本屋大賞なんか一番わかりやすくて「書店員が一番売りたい本」を選んで授賞してるんだよね。ある意味で一番効果的なプロモーション。上に上げた3賞以外ではノーベル文学賞が有効。世界的大家でも日本では無名な作家が一気に売れるようになる。
普段本なんか読まない賞にとって、これも有効なプロモーション。俳優陣は勿論、脚本家や監督も実績のある人を採用すれば効果的。観客動員や視聴率のために原作からの改変なんて当たり前だけど(中年男の主人公が若い女性になったり、殺人の動機が単純になったり)、それでも原作が売れるようになる。ただしやり方を間違えると元からの原作ファンが立腹する可能性あり。ラノベのアニメ化もこれに含まれる。
「小節は読まないけどビジネス書は読む」「雑誌や新聞は読む」という人には有効。「もしドラ!」「チーズはどこへ消えた」「GOAL」など。ただ、これ「小説を売る」じゃなくて「書籍というパッケージを売る」というものだけど。難点はブームが去ればあっという間に著者が一発屋化すること。
ここ数年の流行。夏目漱石や太宰治に小畑健の絵をつけたり、サリンジャーやチャンドラーを村上春樹訳で発売したり。これもやり過ぎると陳腐化する。
去年辺りまで流行ってた。小説と言うよりもタレント本といったほうがいいのかもしれない。ただあれだけ話題になった劇団ひとりが2作目は全然売れてないし、水嶋ヒロも2作目が出る気配がない。その後も作家として活動しているのは辻仁成(辻はブーム前に出てきたけど)、川上未映子など少数。
「危ない話」の広瀬隆氏あたりが有名だけれども、
http://www.geocities.jp/goki_con/e/54.html
オイラは小学校低学年頃で、残念ながら、その頃の記憶はまったくない。
幸福の科学がフライデー被害者の会を名乗ってデモや訴訟をやる騒ぎがあり、
(ちなみに当時、ビートたけしは俺は加害者の会だ、という冗談を言っていた)
この件で彼のことを初めて知った。
その後も、彼は料理の鉄人あたりに出演していたし、
直木賞受賞作である、「遠い国海から来たCOO」が映画化されたこともあって
(日テレ40周年で製作された角川映画なんだが公開が春樹氏の逮捕と重なった!)
どんな人だろうと気になり、彼のエッセイを読み出したのだ中学3年~高1のころ。
ちょっとオトナな話が多いので、オトシゴロのオイラはすぐに引き込まれていった。
反原発の話題も多かったが、科学の子(もちろん学研的な意味で)を自負していた当時のオイラは、
(その後、核をテーマに「パンドラの選択」という小説を出されるのだけれども、これはあんまり面白くない)
3.11の後、ふと読み返したくなって、中古本を買ってきたのだが(残念ながらほとんどの著作が絶版)、
週刊朝日での連載をまとめたエッセイ集では、原発関連企業のCMにはでません!なんて話があって、
勝間和代の一件もあって非常に興味深い。
さて、景山さんは、放送作家出身で、
昭和40年代の日本のテレビ業界を扱った長編小説の「ガラスの遊園地」がある。
例の、「テレビは真実を伝える」「NHKはどこにいる?」発言のシーンだ。
ここで、ある登場人物が「最後の最後になって、佐藤首相もとんでもない名言を吐いてくれたんだね」と解説。
学園紛争の映像に作り替えてしまった映像を見た話を主人公にしてみせる。
ナレーションやコメントを付け加るだけでなく、編集して発言の順序を入れ替えれば、
この後、テレビを見て育つようになれば、日本人はフィクションとノンフィクションの区別がつかなくなる、という話が続く。
この話を読んで、オイラはとても背筋が寒くなった。
指摘されたとおり、自分は無批判にテレビが伝えることを信じてしまっているではないか!
さて、最近、この話を強烈に思い起こさせる一件があった。
我が郷土、福岡選出、部落解放同盟のプリンス、松本龍氏の言動と
それをめぐる報道だ。
http://www.youtube.com/watch?v=TpvGCRA4228
http://www.youtube.com/watch?v=rCuBxebD4-Y
・地元漁協が強く反対しているこにも関わらず、知事が漁港集約を進めようとしていること。
この2点を知っていれば、だいぶ受ける印象が違うのではないか?
あれって本当に「叱責」?
この剣幕に知事もおもわず苦笑い、ぐらいのコメントだったら、はたしてどうだったか?
オイラはあまり松本龍に好意的な印象をもっていなかったのだが、
この件ではついつい同情してしまった。
・
・
・
などなど、「もしも〇〇が×☓なら」という話は、どれだけ価値がないかおわかりいただけただろう。
このような話は空想するだけムダなのだ。
とある記事のはてなブックマークでその存在を知って、中身が知りたくなったのでミステリマガジンのバックナンバーを借りてきたよ。
そしてその内容が個人的にグッと来るものだったから、メモ代わりに後半部だけをここに書き出してみるよ。
九六年二月、私は、青山ベルコモンズのカフェで言葉を失っていた。狭いテーブルの上に広げられたのは、探偵ミロを主人公にした旧『柔らかな頬』第二稿。付箋が挟まれ、赤字が入っている。対しているのは、新担当編集者だった。彼は、「うまく直っていない」と告げて沈黙した。第一稿が上がった時点で、様々な注文を付けたのは彼だった。複雑過ぎるからもっと単純に、対立を明確に、タイトルを変えろ、等々。エンターテインメント小説の王道を説かれ、何とか努力して改稿した結果がこれなのだ。
私は、紅茶の染みが飛んだ原稿を書類袋に仕舞い、「わかりました。これは捨てます」と言った。彼は、私の反応に少し慌てたようだった。だが、私は周囲のざわめきすら、気にならないほど打ち沈んでいた。誰も見方がいない、これから一人でやるしかないのだ。その思いが頭の中をぐるぐると巡っていた。「これからどうしますか」と問われ、「別の小説を書きます」と意地で答えた。この時、『OUT』の構想が生まれた。行き場のない中年女たちの小説を書こう、と。行き場のない中年女とは、まさしく自分のことだった。
その年は、他の細かい原稿は一切書かず、『OUT』の書き下ろしに専念することにした。どのみち、デビューして間もない作家に、そう多くの注文は来ない。私は、原稿を捨てたトラウマを抱えつも、何とか『OUT』で勝負したい、と必死になっていた。その重圧に押し潰されそうだったし、『柔らかな頬』を捨てたことで、作家としての自信を失っていた。とりあえず、どん底にいる私が発見したのは、恐ろしく単純な事実だった。書くしか生きる方法がない、ということ。そして、それは恐ろしいほどの孤独を生きる、ということでもあった。
取材は多岐に及んだ。井の頭公園バラバラ殺人事件の取材をした記者、ルポライター、深夜の弁当工場、街金。取材対象のアポは、ルポライターを除いて、ほとんど私自身が行っていた。当時、私のような駆け出し作家には、出版社は金も時間も多くは割いてくれなかったのだ。しかし、自分で切り開いた取材先は、得るものも大きかった。結果としてはその方が良かったのである。私は一人で車に乗り、物語の現場と仮定した東村山市に度々出かけた。駅前で描写のための写真を撮り、見知らぬ公団住宅の広場を歩き回って、主婦の顔を見た。頭の中で、雅子や邦子たちが息づき、喋り、早く書いてくれ、と叫んで、今にも爆発しそうだった。
夏までにほとんどの取材を終えてプロットを作り、私は九月から書き始めた。千ニ、三百枚以上の長編になるはずだった。せいぜいが八百五十枚の経験しかない私には、初めての大作だ。ミロシリーズの一人称一視点をやめ、三人称多視点で物語の速度を速め、螺旋状に回すことを決める。十月に二百枚入稿。年末に五百枚。順調だったが、書いている間は他の作家の華やかな噂を耳にして、心が乱れた。一人でパソコンに向かう日々は、実に孤独だ。書くしかない、と思っても、小説の終結まで途轍もなく長い時間がかかるのだ。そのことを考えるとどうしても落ち込んだ。短編小説の注文もぽつぽつあったが、理由を話して断った。その頃の私は、仕事を断ること自体が冒険でもあったから、これでその出版社からは、二度と仕事は来ないだろうと覚悟した。
三月十七日の夜、最後の一行を書いた途端、涙が溢れた。やっと終わった、辛かった、と言葉にすると、また泣けてきた。しかし、ようやく脱稿した私に、厳しい現実が待っていた。初版部数は一万三千部だというのだ。内容に自信があったし、二年越しの仕事だったから、初版部数の少なさは衝撃だった。だが、これが現実だと思えば、やり遂げたという自信を胸に、次の仕事に賭けるしかない。それが作家だ。何とか自分を慰めた時、不思議なことが起きた。口コミで爆発的に売れ始めたのだ。『OUT』は作者の手を離れ、ひとりでに読者の元へ飛んで行ってしまった。
九七年の『このミス』で一位、翌九八年直木賞にノミネート。破竹の勢い、と自分でも満悦だったが、ここから『OUT』の不思議な運命が始まる。直木賞落選。次の吉川英治新人賞でも落選。ようやく推理作家協会賞で長編賞受賞。三度目の正直だった。賞にノミネートされる度に有望視された『OUT』は、その「反社会性」とやらで、メジャーの賞から弾き出されたのだ。そして、その不思議な運命のとどめは、今回のエドガー賞候補である。
『OUT』は、私という作家をブレイクさせてくれた作品だが、同時に、私をOUTな作家にしてくれたらしい。それは、決して王道を行けない奇妙な小説家としての道でもある。その始まりは、旧『柔らかな頬』を捨てた日の、打ち沈んだ気持ちにある。誰も味方はいない、一人でやるしかない、というあの思い。だが、孤独は作家を鍛える。再び、同じ思いをして自分を鍛えたい、と最近思うのである。
以下、チラ裏。
結局は金。例えば桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」。富士見ミステリー文庫版では500円。3年後に再版されたハードカバー版では1400円。さらにラノベはイラストレータと印税が折半になるので1冊当り25円の印税。ハードカバーなら10%で140円の印税。ライトノベルレーベルから出た文庫だと、6冊売れてようやくハードカバー1冊分の印税になる。
「中高生が対象なんだから単価の低い文庫で出すのは当たり前」って言う人もいるだろうけど、でもラノベ界で一番売れている(という言われている)西尾維新の主戦場は、単価がやや高い講談社ノベルスやハードカバー並みの単価の講談社BOX。これを考えると、文庫が主戦場だったのに長者番付の常連だった神坂一て、ものすごい売れてたんだなって思う。「文学少女」の野村美月ですら未だにバイトしているっていうし。
さらに一般文芸作家には文学賞がある。直木賞・吉川英治文学新人賞・山本周五郎賞・推理作家協会賞、あと純文学では三島由紀夫賞(芥川賞はラノベ作家には本当に関係に無い文学賞なので除外)。これらは賞金が出る上に、受賞すると普段本を買わないような人まで買ってくれる効果がある。ラノベもアニメ化すれば同じような効果があるだろうけど、深夜アニメと直木賞、どっちが効果があるかは自明だろう。
さらにこれらの文学賞を受賞すると、地方から講演の仕事が舞い込む。これが1時間ぐらい話すだけで100万円ぐらいもらえるというからバカに出来ない。また、ある程度キャリアを積めば新人賞や各文学賞の選考委員になれて、それも収入源となる。純文学系の老作家の主な収入源はそれ(メッタ斬りコンビや福田和也が批判している、大作家の福利厚生)。残念ながらラノベには、まだそこまでのシステムはない。
角川スニーカー文庫が創刊してもう20年以上経つけど、創刊からずっと書き続けている作家ってどのぐらいいいる?50代で現役のラノベ作家は?しいて言えば、田中芳樹が現役といえなくもないけど、彼は遅筆というよりも才能が枯渇しているせいでまともに小説を完結できなくなっているように見える。
資料をあたる能力と知識が必要なファンタジーやSFならば、ある程度年をとってもかけるだろうけど、今日日流行の学園モノって40過ぎたおっさんおばさんが、主要な読者層である10代の若者が納得するように書けるんだろうか。ここ数年で一般文芸に転向した作家たちは、皆1970年代生まれ、いよいよ「若い感性」というライトノベルにとって必要なものが喪失し始め、小説的技術を身につけた作家が転向しているんだと思う。そういえば、2年以上発売延期している谷川流も70年代生まれだった。多分彼もラノベ界を去るつもりなんだろう。
以上、思いつく限り。
http://anond.hatelabo.jp/20090227091112
石原さんのことはそれほど好きじゃないけど、少なくとも抜粋部分は作家/作品に対する評として妥当だと思う。
文学だって娯楽の一部という側面があり、「鑑賞する他者に最低限のある共感をもたらさなくては作品としては通るまい」とあるのはその側面を特にクローズアップした結果と見ることができる。「繰り上げての当選」という表現は確かに政治家としての石原慎太郎を強く思い起こさせるけど、むしろ政治家として見られていることをきちんと意識していますよ、というアピールじゃないかと思うんだよなぁー。
あと、
↓
これは邪推し過ぎだろうw
今年の芥川賞作品「ポトスライムの舟」についての石原慎太郎氏の評。
文学に限らず芸術の作品は、作者独自の思い込みの収斂に違いないが、しかしなお鑑賞する他者に最低限のある共感をもたらさなくては作品としては通るまい。ならば今回の受賞作以外の作品に、反発をも含めて、読む者の感性に触れてくる何があるというのだろうか。どれも所詮は作者一人の空疎な思い込み、中にはいやしいとしか言えない当て込みばかりでうんざりさせられる。一方の直木賞候補作品たちに比べてみても、今日の純文学とか称されるカテゴリ作品の不人気衰退が相対的に如何にもうなずける。
(中略)
私としてはこの作者(津村記久子)の次の作品を見て評価を決めたいと思っていたが、他の作品のあまりの軽さに、相対的に繰り上げての当選ということにした。
いつもの石原節ではあるが、そろそろこの爺さんを誰かとめたほうがいいんじゃね?
この文章は、むしろ政治について成り立つが、作家に対する評としては当てはまらないのではないか?
東京に限らず政治というものは、知事独自の思い込みの収斂に違いないが、しかしなお参加する地域住民に最低限のある共感をもたらさなくてはとしては通るまい。ならば今回のオリンピック招致活動以外に、反発をも含めて、住民の感性に触れてくる何があるというのだろうか。どれも所詮は知事一人の空疎な思い込み、中にはいやしいとしか言えない当て込みばかりでうんざりさせられる。一方の大阪府知事に比べてみても、今日の作家出身の知事とか称されるカテゴリの不人気衰退が相対的に如何にもうなずける。
(中略)
私としてはこの知事(石原慎太郎)の次のアクションを見て評価を決めたいと思っていたが、他の知事のあまりの(存在感の)軽さに、相対的に繰り上げての当選ということにした。
政治の場合は、「面白くなかった」では済まないわけで、人のことを偉そうに批評している場合かと思わなくもない。
自分が繰り上げ当選だという自覚がないからこんなことが言えるのか、あるからこそ許せないのか、どっちだろう?ただのいつもの石原節なだけ、といえばそれまでなのだけれど。
おそらく氏は、政治でむちゃくちゃ苦労していて、そのうっぷんがこもっているんじゃないかと思う。たしかに書いた文章が結果として共感をもたらすことによって文学になるのではあろうが、共感を得るために文章を書くわけではないと思うのだが。むしろそんなコスいことを考えながら文章を書いている人の作品こそ読みたくないのだが。そういうのはアルファブロガーのお仕事ですよね?だから、パワー不足とか、「自分が」共感できなかったというならわかるけれど、「これでは万人に受けない」などという評し方はどうかと思う。同じ感性で作家の仕事をされても困るし、知事としての自覚も疑われる。
単に幕末維新の歴史の知識だけなら、百科事典講釈師のような物知りも沢山いるが、この対談は人物評が現代的で、政治家として官僚としての力量を問う通信簿的な作業でもあり、ことごとくがリアリスティックなのである。
しかも幕末維新を、本筋を外さないで不思議な逸話で溢れさせ、しかし歴史観の骨髄をしっかり守っている。
経済の視野から薩長と会津を比較してみると、京都守護職を越前の松平春嶽から押しつけられた会津の松平容保は、財政的艱難辛苦に耐えなければならず、藩士1000名の京と駐留経費の捻出は並大抵ではなかった。京都は島原の遊郭で遊ぶカネがなく、だから会津武士は京都人から嫌われ、薩長はすかれた。
なぜか。長州は竹島経由で、薩摩は沖縄を梃子に「密輸」をやっていて資金が潤沢、最新鋭の軍艦も鉄砲も買えた。中村彰彦によれば加賀前田藩も日本海の北と密貿易を展開した銭屋五兵衛を黙認した形跡があるという。
密輸で設けた諸藩の志士らは、経費をちょろまかして島原で遊興もできた。
本書で両人からコテンパンな酷評を受ける一つは御三家のなかでもイデオロギーの強い水戸藩、天下の副将軍と勝手に僭称した水戸光圀は、伝説では「名君」だが、じつはとんでもない御仁だった。
水戸学が、やがて水戸藩を分裂させ、悲惨な内訌が天狗党の悲劇を生んだが、じつはその後も明治三年まで復讐劇が続き、難を逃れて群馬や栃木あたりに逃げ、その末裔が現在もいるという後日談も、なんだか、西南戦争に負けた西郷軍のうちの1500名ほどが台湾へ逃れ、現地民に同化したという歴史の裏面の話に通じる。
本書は、薩摩が長州と歴史意識も政治構造も科学・天文学への心構え、軍事思想など似ているようで全く異なることを、これまた目から鱗のように別の視点からえぐり出している。
たとえば坂本龍馬が斡旋した薩長同盟の基軸の発想は公武合体の実現だった。
山内教授は「オーストリア・ハンガリー二重帝国」の例があるように、天皇を頂き、徳川と薩長が二分するアイディアの存在を告げる。
イギリスのオールコックなどの歴史観や世界の情勢から、倒幕に踏み切っていくプロセスで西郷、大久保は坂本が邪魔になったという闇の部分にも光を当てる。これは中村がまだ直木賞受賞前にかいた『龍馬伝説を追う』(世界文化社)にも詳しい。
また榎本武陽の「蝦夷共和国」構想も、じつはハプスブルグ家の「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が発想にあった、と示唆する。
脱線ながら、評者(宮崎)が鹿児島は指宿の「伝承館」でみたパリ万博の記録展示の或る部分に驚いた。パリ万博は薩摩と徳川幕府が出展した。薩摩焼など、パリジャンの度肝を抜いた。ともにそれぞれの勲章をつくった。
薩摩は「薩摩・琉球国」として勲章をだした。つまり独立国として、国際社会にアピールしていたわけである。
もう一人、こっぴどく批判されているのは福沢諭吉だ。
福沢が欧米派遣のおりに経費を誤魔化して図書を買いあげたが、それは小学生程度の英語の本が多く、小栗上野介は「あの男の選択眼は節穴、語学能力はその程度だ」と評した逸話は有名だろう。
福沢は本来なら切腹ものだが、ばれて詮議にかかろうとしたとき徳川幕府が瓦解した。
他方では講釈やら近年の小説の裁き方や世評はともかくも、食えなくなった旧幕臣らの面倒をよくみた勝海舟と榎本武陽への評価が高い。
さて表題も示唆する「黒船来航以後」の話であるが、アメリカとロシアが日本にとって最初の接触だったのは、幕末の混乱期における日本にとって僥倖であり、もし英仏のような『ならず者国家』が日本に先に乗り込んできたらどうなっていたか。
シナにしかけたアヘン戦争のような略奪と、国内分裂は防げなかったのではないか。幕府はフランスに薩摩は英国に頼ったが、本気で内戦にのめり込んでいったら、日本は良いように利用されたあげくに英仏の植民地化されていた恐れがあった。
しかし幕末に徳川幕府をさしおいて薩長が最新鋭の武器を大量に買えたのも、その先見性や薩英戦争、馬関戦争敗北の体験から軍事知識と実践があり、おりしも南北戦争が終わって大量の武器をもてあましたアメリカから大量に買い付ける。
市場開拓を狙うドイツ人の武器商人だったスネル兄弟は河井継之助の長岡藩にガットリング銃を売りつけたが、会津に強力にテコ入れし、最後は榎本軍に従って函館戦争をともに戦った。
ドイツはむろん、英仏米露の隙間を狙って日本での武器外交が主眼だった。
しかし幕府敗戦により、スネルは代金を回収できず、兄はやがて会津武士団の食い詰め組を率いてカリフォルニアに移住したり、弟は御維新後、浅草で落語を聞いていたとか。脱線する逸話もまた本質に付随した、人間の描写なのである。
それにしても幕末維新を縦横に語る中村彰彦は歴史作家だから回天の内幕に詳しいのは当然にしても、なぜイスラム中世の専門家である山内昌之が、ときに中村を唸らせるほど幕末日本に精通しているのだろう。
もう一つ不思議に思ってきたことがある。山内昌之教授は、『世界』と『諸君』の両方に論文を書く器用な論客でもあり、保守なのか旧左翼なのか、いまもよく分からないところがある。
山内がいみじくも「後書き」に書いている。
国際会議で、オスマントルコ帝国の解体過程やイスラム政治の歴史と、日本の近世・近代との比較をよく問われる。国際的要請でもある。まして日本史を知らずして世界史を語れる筈があろうか、と。
最後節あたりの日露戦争から大東亜戦争に至る山内の歴史講釈には、ちょっと首肯できない史観部分があるが、山内教授の主観だから、その部分は聞かないことにする。
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http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html
http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja
以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。
まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。
では。
まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。
「原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったのエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作とアニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。
自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、
ていうことだよ。
なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。
「批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去のアニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダム・エヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。
みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。
また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。
まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、
という流れを「忠実に反映」してると思うよ。
ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。
今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作とアニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作とアニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。
これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作とアニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。
こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評の対象になるかも知れない。ニューヨークの9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀━宇野常寛・ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。
世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメは2008年を代表しうるアニメだからね。
アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?
それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優の演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。
アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術と小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。
けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端な芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメの歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーションの歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)
現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。
相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。
アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクション・パロディ・引用・自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作とアニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。
ヘーゲルは小説のことを「市民社会のブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?
ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。
ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメがステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメ≒コミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーションと歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。
富野のペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆。
なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。
でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信の小説のアニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本はアニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。
そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督:大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。
けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野や村上には見いだせないものであって。
くだらないテーマの指摘とか、原作とアニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。
アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本より改変
まあ、どのくらいの数のBLオタがそういう彼氏をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないBLの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってるウホッ」
のような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼氏に、BLのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼氏にBLを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う大長編のBLは避けたい。
あと、いくらBL的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
古典好きが『モーリス』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼氏の設定は
BL知識はいわゆる「少年漫画のゲストゲイキャラ」的なものを除けば、ヤマジュン程度は見ている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「JUNE以前」を濃縮しきっていて、「JUNE以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも全5冊だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼氏との関係が崩れるかも。
この不幸過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限のトキメキを彼氏に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなBL
(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼氏にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「BLオタとしてはこの二つは“小説”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSFBLオタが持ってる宇宙への憧憬と、オタ的な考証へのこだわりを
彼氏に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも津守時生な
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼氏は「プリズンブレイクだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これが一部では大人気になったこと、
アメリカでの実写テレビドラマにこういうロマンスが挿入されて、それが日本に
輸入されてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのがつくられないこと、
「やっぱりBLは子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「バッテリー」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかけるごとうの思いが好きだから。
発行ペースが落ちに落ちて、15年以上20冊超えっていうスパンが、
どうしてもわたしの心をつかんでしまうのは、その「続ける」ということへの諦めきれなさが
いかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
タクミくんの長さをわたし自身は冗長とは思わないし、もう終わらないだろうとは思うけれど、一方でこれが
木原音瀬や榎田尤利だったらきっちり1-2冊にしてしまうだろうとも思う。
なのに、初期の2年生のままという設定を捨ててまで15年以上を続けてしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえごとうがそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼氏に話してみたい。
今の若年層で嫌な奴読んだことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
箱・檻よりも前の段階で、木原音瀬の哲学とかBL技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品が新人の作品としてこの時代に流通していたんだよ、というのは、
別にわたし自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくBL好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるダ・ヴィンチBL直木賞でしか木原音瀬を知らない彼氏には見せてあげたいなと思う。
門地の「ネタ」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない男子高校生を毎日愛でる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそ『生徒会長に忠告!』のスピンオフは第二ボタン下さい以外ではあり得なかったとも思う。
「男子学生の若さを愛でる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」
の源は制服にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう劇画調メロドラマ風味の恋愛をこういうかたちでBL化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9作まではあっさり決まったんだけど10作目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にロマンチカを選んだ。
魚住から始まってロマンチカで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のBL時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、わたしのこういう意図にそって、もっといい10作目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。わたしがちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
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けど難しい。全然読んだことないのも入っていますので作家さん・作品・ファンに失礼にがあったらどうしようと不安。小説と漫画をごちゃ混ぜにしたのでc/nで区別がつくようにしました(参考にする方はいないとは思いますが念のため)。
何かと世間を騒がせている直木賞受賞の新人作家、月島雫が結婚詐欺被害に
あっていることがわかった。19日発売の週刊女性自身に記事がのる。
記事によると、月島雫の中学時代の同級生で自称バイオリン職人(26)が
「海外バイオリン制作事業が軌道に乗る。そうしたら結婚したいが、今資金が足りない」
などと、言葉巧みにせまり500万円を騙し取ったという。
その後、連絡を取っても音信不通。月島雫自ら海外に足を運び、ようやく詐欺被害に
あったことに気づいたとのこと。
現在警視庁で、詐欺事件として捜査中だが自称バイオリン職人は海外に逃亡したと
見られている。
月島雫は
「中学高の卒業時にお互い結婚の約束をした。お互いの夢に向かって励まし合ったりもした。
お互いの夢を叶えるために援助を惜しまないつもりだったのに・・・・」
なんか色々同情するな。
SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。
文学は空想だろw
増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人”ブラッドベリや、”哲学者”フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。
…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。
今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく
「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。
「歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。
それに人を楽しませる文章は文学なのか?
時代小説、ラノベ、歴史書、SF、ファンタジー、推理小説は好きだが文学
少なくとも純文学とは言わないだろう
「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義は正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育の本質的な価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。
再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学の文学部文学科の適当な研究室に電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去の歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観を押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。
その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディアと情報・文化論・芸術論・経済・教育・日本論・近代主義・心理学・倫理学・宗教・歴史学・国民国家・テロ・文明の衝突・ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーなテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄・差別・風景論・都市論・スポーツ・時間論・労働・高齢化社会…etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校の教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説のテーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語(現代文)」の仕事なのだな。
それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語や文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌の編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ。その意味での「文学」教育というのは、メディアリテラシーの教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要な資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。
まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。
どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。
直木賞受賞後第一作の『荒野(こうや)』は、以前ファミ通文庫で刊行された『荒野の恋第一部』『荒野の恋第二部』の二冊に、第三部を新たに書きおろして、一冊の本にまとめられました。
インタビュー|スペシャル|桜庭一樹『荒野』特設サイト|文藝春秋 http://www.bunshun.co.jp/kouya/special/interview.html
ファンとしては無事完結させてくれたというのはありがたい。
でも同時に、ラノベ作家から一般作家へというのが鮮明になり寂しいとも感じる。
で話は変わるのですが、この本はラノベなんですかね?それとも一般書になるんですかね。
以前どなたかがレーベルでラノベを判断しているとのことでしたので
一般書になると、内蔵される1部2部はどうなるんでしょう。