はてなキーワード: 思想とは
2chには右よりの政治思想をもつ人間(ネトウヨ)が多いとされている。しかし、政治思想を単に右と左で表現するのは、精確さに欠ける。単に右か左かではなく、政治と経済についてそれぞれ右か左かを考えると、より精確に政治思想を表現できるであろう。つまり、一時期流行ったポリティカルコンパスを用いたほうが、より精確に政治思想を表現できる。ポリティカルコンパスでは、政治思想を、経済(左派の管理経済、右派の自由放任経済)と社会(権威主義、自由主義)*1 に分けて表現する。日本版ポリティカルコンパス*2 では、これを単に左派と右派、保守とリベラルと表現している。
日本版ポリティカルコンパスの表現法を使えば、2chにいる右よりの政治思想をもつと言われる人間、通称ネトウヨは保守左派であることが多い。
http://anond.hatelabo.jp/20091212053525
亀井大臣のもつ、経済に対する思想は、明らかに左派である。したがって、通称ネトウヨが亀井大臣の経済政策を支持するのは、おかしいことでも、怖がることでない。
なんか、太平洋戦争時の日本のジャーナリズム(個人ではなく、一つの報道機関としての)って
「国のため」が「自分のため」に変わっただけでなーんも変わってないとしか思えない。
ゆとり教育でうっすらならった日本史の記述をふと思い出したけど、そこから何も変わってないじゃんとしか思えないよ。
「悪かった、だからトップだけ変えてやっていきます」
責任の取り方の一例としてはアリなのだろうけども、それでその業界内の思想はかわらないよね。
いや、個人個人として変わったとしても、空気嫁な文化内だから結局全体的には変わってないのかもね。
あと自分で変わった、といっても、それを誰かがみたとき変わったと思ってもらえなければ、それは変わってないのと一緒だよね。
それで今まできちゃったから、人の口に戸はたてられないよなネットにあげられている内容と、
でも、確かに「そうじゃない!」と思っている人たちが報道機関にいるからこそ、
ネットに新聞とかTVとかででていない情報がでてきたりもしているんだろうね。
今のジャーナリズムというかそういう報道機関の姿勢が嫌なら、変えるための動き、何ができるかをほんの少しでいいから考えて、
ほんの少しだけでいいから実行すれば、何かかわるのかもね。
しかし私は自分でいっぱいいっぱいだからと逃げる。
誰かがやってくれるさ、と。
ただ救急車呼ぶ時の注意事項のことを思い出す。
倒れた人のまわりに大勢の人がいると、みんな誰かが通報しただろうって思って、誰も通報していないっていう事態が発生する。
だからかならず誰かを指定して救急車を呼んで!といわないといけない。
だから、うん、この考えって危険なんだろうね。
でも私はきっと誰かがやってくれるさ、と思うんだ。
まったくもってよろしくない思考だこと!
今回の騒動で思ったこと。
性犯罪被害者は悪くない。どんな対策(=自衛)をしても防げないものは防げないのであって、自衛を勧めることはセカンドレイプにもつながるのでやめた方がいい。
まぁココは納得できる。しかし同時に、やはり犯罪に対してある程度の効果がある予防策というものも存在し、周知された方がいいのでは、という思いがある。
では被害を減らすために何が出来るのだろうか。
フェミニスト達は言う。性犯罪の根源には性差別があり、これを解消していくことができれば自ずと性犯罪も減るであろう、と。
ここで引っかかった。本当に性犯罪と性差別は深くリンクしているのか。この説を証明する有意な統計でもあるのだろうか。
ややもすれば、「性犯罪被害者」という誰も責めることができない人々を、まるで水戸黄門の印籠のように「完全無欠の正義」として掲げ、
自らの信条であるところのフェミニズムを推し進める武器としてしまってはいないか。
男女同権の考えそれ自体は現代社会にとって必要不可欠な要素であることは間違いがない。しかし、すべての性犯罪被害者が自らをこのような形で議論の場に持ち出されることに納得するだろうか。
犯罪があり、その予防策・自衛策・罰則があり、また、被害者に対するケアがあることと、男女同権という大きな思想を同列に語ることは難しいのではないかと思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207143049
かなりブクマがついたので、少し答えておきます。とりあえず、コメントには感謝。
anigoka はてサという括りが適当かどーかは知らんが、流れは大体あってる気がする 深刻な問題を肴にすぐ言葉遊びに変えてしまう恒例の面子も勢揃いしてるし
出てくるメンツが、シートンからhokusyuに飛んで、Apemanも言及しているので、フェミにはてサが乗っかったと見た方がいいでしょう。それだけではないのでしょうが、そう割り切った方が分かりやすい。
漫才だと見れば、無駄にヒートアップしても落ち着けるんじゃないですかね。アハハと笑って、あほくさーと捨てればいい。
zaikabou 『どうせまたいつものやつがいつものように始まっただけだから』それで毎回毎回これだけ巻き込むんだから凄いよね、みんなわかってるはずなのに。優秀優秀
結局、例の背理法の使い方が典型的なんですけど、一見「論理的に正しい」から、いい加減に読んでるとそれが正しいと普通は思い込んでしまうんですよ。でも、おかしいことはおかしい。今回のは、そのいい例になったんじゃないでしょうか。
はてサは叩かれてしかるべきだと思っていますが(上述のように、見かけが論理的で錯覚しやすいので悪質)、曽野綾子のエッセーもただのダボラだと思っています。これを書くと中立を装うなとか言われてしまうんですが、そんなつもりはないです。
filinion 最後の左翼うんぬんはさておき(部分否定と全否定の混同はむしろ詭弁の基本。戦前の統帥権の論理も「踏み絵」パターン)、タイトルには首肯せざるを得ない。うかつに触れると大変なことになるのが今回よくわかった。
はてサが絡むので最後にちょっと左翼に触れたのですが、詭弁で煽るのは右左同じでしょうね。
atawi 今回はもうげんなりするばかりだった。コミュニケーションってなんだろうね?
最初から無理な話なんですよ、ネットでコミュニケーションをとろうとするのが。まず諦めから入ったほうが、もめてもともとだから気楽じゃないですか。
あの方々はああいうことを言いたがりますよね。
Arturo_Ui 「理屈だけたどるとはてサ・フェミの方が正しい」が、レッテル貼って見下さなきゃ自尊心が、ってか。不毛だな//で、NaokiTakahashi氏だけ「さん」付けは何故?増田は陵辱エロゲを予防拘禁の対象にされたくない、とか?
いやいや、エロは好きだけどエロゲ趣味はないです。でも、NaokiTakahashi「さん」なんて、はてサにはもうあからさまにバカ扱いされてますよ。なんか、ひどいですよね。見てられない。
ヲチスレにはいません。2ちゃんは見てないです。今度の件でいくつか記事を読んだら、大体見当がついたというだけです。「いつものやつだ」と思いました。
gokino2 「どうせまたいつものやつがいつものように始まっただけだから。」<いや、俺らもその流れの中で毎回楽しんでるからいいよ。実を言うと今回(罵ってる相手含め)いろんな人の人間臭さに親近感を覚えたりもしたんだ。
うーん、楽しんでるならどうぞという感じですが、もうちょっとカゲに隠れてやって欲しいな。無理なんでしょうが。
koisuru_otouto 曽野綾子とそのデッドコピーである増田みたいなのが「性犯罪者が悪い」って最初に流してるのは そうしないと善人として被害者に説教できないからでしょう。レトリック返しをしなくても、そもそも自衛教自体が屑だし
元エントリの追記になるんですが、これもあのエッセーの誤読の典型です。曽野の意図としては「被害者に説教」しているのではなくて、「まだ被害にあってない女性」に対して「用心せよ」と一席ぶっているのです。もっとも、被害者を例に出してますけどね。話がずれる原因の一つはこれです。
Francesco3 「もちろん決定的に悪いのは犯人」「もちろん襲った米兵が悪い」<これ書いときゃどんな暴言も許されるって勘違いしてるだけだし、悪いとおもってたらそもそもあんなこと書きません。
これしきのババアの説教が、それほどの暴言になりますか。大きく見せて喚きたてるのも程々にした方がいい。あなたの言ってることは、あまりにも強引です。
Midas 増田は甘い。問題はむしろ「なぜそこまでザルな意見にバカ女どもはカチンときてるのか」「なぜバカ女のデタラメ感情論にエセ左翼は騙されてるのか」彼らは今回1線をはっきり超えた。修復不可能なとこまでいくだろう
あははは。修復不可能なのは毎度のことですよ。「エセ左翼」が騙されるのは、それが単に思想的・政治的なポジショントークだからで、これも毎度のこと。今回に限ったことではないと思いますよ。
hiruhikoando というよりは「曽野綾子に絡まない方がいい。(言っていることを)議論するだけで徒労」だと思うのだが。
それ、まんまフェミとはてサに言ってやってください。
namawakari イデオロギー批判って便利ですね、本音ダダ漏れでも支持してくれる人がでてきてくれるし、何か言った気になれる。/「あいつらは左翼とフェミだから」という切断をして「常識」を保存して、それでいいのかねえ。
「常識」を覆すのにせよ、こんな無駄な議論の混乱は必要ないです。だいたいそれで損してるの、「はてサ・フェミ」の人たちでもあるんですよ。
k-5t 説教レベルに落とし込んで「説教だからあれはナシ」は都合良すぎる、ナシにはならんだろ。曾野をピエロに仕立て上げて一緒に踊っているサヨクまでピエロに見せちゃうっていうちゃぶ台返し「レトリック」にみえるな
最初から「説教レベル」の話を大きく見せるところに間違いがあったんですよ。言葉を借りると、この件では曾野綾子なんて最初から「ピエロ」。「ピエロ」にキレるフェミ・はてサが「ピエロ」になって、ついに漫才化するのは当然なんじゃないでしょうか。レトリックをもちだす必要はないと思いますよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091207143049
k-5t サヨクがこの痛いババアを餌にウヨク叩きしたいだけなんじゃねえかって意見ならわからんでもない。もう少しストレートに書けよ。
ま、一言で言ってしまうとそうですよね。で、みんな好きなんだなあ、こういうネタが。
gokino2 念のためいっておくが、増田の微妙に曽野擁護論には賛成できない。あれはただのババアの説教レベルじゃないから。これに近い認識のババアが実際に結構いそうなのは同意するけど。
あ、曾野綾子を擁護する意図は全くないです。でも、こんな猛烈な議論のきっかけやネタにするほどのもんでもないでしょう。「これに近い認識のババア」たちの若い女性に対する嫉妬には、鼻で笑って颯爽と歩いてる方が女性として素敵だと僕は感じるんだがな。まあ、それはともかく、下らないネタには、下らないなりの対処のレベルというものがあるんじゃないのと思いますね。
再び前のはてブに戻って。
hobbling 私はボケた婆さんの繰言をまともに扱っても仕方がないと思うが、日頃ストレスを受けてるなら過剰反応する人もいるだろうね。嫁姑の争いを見ている旦那の気分。
「嫁姑の争いを見ている旦那の気分」、お見事。
同じ理屈で答えられると思うよ。
そもそも派手な服装を避ける云々ってまったく無根拠だからなあ。
「あなたはB型の人とは相性が悪い。相手の担当者をA型の人に代えてもらえばいい」
とか言われたらカチンとくるだろうみたいな。
あのネタには絡まない方がいい。整理するだけ徒労。
まず前提は、曾野綾子が政治的に右派で、保守的なばーさんだということ。保守的な作家が保守系の産経新聞に書いたテキストを、良く言えばやや極端に、悪く言えば意図的に誤読するところから議論が始まってるわけ。
http://d.hatena.ne.jp/manysided/20091129
曾野綾子の議論で問題になりそうなのはこういう部分。題は「用心するということ」。
基本的な行動の自由と、自衛の手段を講ずることとは、全く別の次元である。というか、行動の自由を口にするなら、十分すぎるほどの用心や、世界的常識を学ぶことができなくてはならない。
太ももの線丸出しの服を着て性犯罪に遭ったと言うのは、女性の側にも責任がある、と言うべきだろう。なぜならその服装は、結果を期待しているからだ。性犯罪は、男性の暴力によるものが断然多いが、「男女同責任だ」と言えるケースがあると認めるのも、ほんとうの男女同権だ。
これをどう読むかだけども、フェミはこれをセカンドレイプの線で読んだ。つまり、自分で刺激的な服を着ておいて不用心な女がレイプされるのは女も悪い、と曽野は言っている、と。
やや極端な読み方だというのは、前提や但し書きを重ねている点。「もちろん決定的に悪いのは犯人」「もちろん襲った米兵が悪い」「『男女同責任だ』と言えるケースがあると認める」と、限定を重ねている。
また、この文章の趣旨が、題名で分かるように「女たるものそれなりに用心せよ」と女が言っている、つまりババアがネーチャン共の服装を見て説教しようとしているわけで、逆に言うとただそれだけのものでしかない。それに、産経の読者にはそういう意見を好ましく思う人もいるだろうから、それほど突飛な文章とは言いにくい。むしろ、曾野綾子なら、産経なら、そういうことを言うよねえというもの。
もっとも、曽野も放言が過ぎていて、「午前1時過ぎに基地の近くを1人で出歩く女性は、性的商売をしていると思われても仕方がない」のはそうかもしれないが、レイプされて殺されることとは無関係だし、「ヨーロッパ在住の日本人が驚いているのは、(略)」というくだりは曾野綾子の周辺のお上品な連中にはそう見えるというにすぎないなど、突っ込みどころがありすぎることも事実。
さらに話がややこしくなったのは、単にフェミのネタにしやすい文章だというだけでなくて、曾野綾子が政治的保守で産経が保守系だということで、左派(ここでははてサ)の格好の目の敵になった。現に、着火して煽ったのがはてサのシートンだ。つまり、思想的思惑込みでポジション取りをしてるので、議論がかみ合わなくなる。
それに、はてサに反論してる一人がNaokiTakahashiさんで、NaokiTakahashiさんは以前からはてサと議論してて対立してるので、それで余計に議論がもつれた。
議論の対立は基本的にこういう事。フェミ・はてサは曾野綾子の言ってることは時代錯誤でセカンドレイプということになる。それ以外は曾野綾子の放言は認めても、単に用心しろといってるだけで、そんな議論することかと言っている。
そこで「自衛厨」にむけてはてサ・フェミが言い出したのは、「曾野綾子の『用心』を正当化するなら、男は刺されてもいい・予防拘禁されてもいいじゃないか」という「レトリック」。もちろん、何もしてないのに刺されたり、捕まったりしてはいけないので、それは違う。したがって、曾野綾子の「用心」は正当化できない、と結論付ける。Aが正しいとしたらBということになるが、Bは間違っているのでAではない、つまり一種の背理法だね。「男は獣」云々もその流れ。
理屈だけたどるとはてサ・フェミの方が正しいのだけど、よくよく考えたら、もともとの文章が突っ込みどころが多いとはいえ単にババアの説教でしかないので、それに対して「なら男を刺してもいいのか」「予防拘禁だ」という極論から背理法に持ち込むのは、明らかにバランスを失している。
たとえば、法律として女性の服装を規定しろとか義務化しろとか曽野が言ってるなら、この背理法もまだ意味を持つんだけども。
すぐ例が思い浮かばないが、こういうレトリックは漫才で使うと思う。片方が小さな命題をチョロッと言うと、それに対してもう片方が話を大きくふくらませて言って背理法に持って行き、だからオマエの言ってることは変だという。「誰もそんなことまで言うてへんやないか」とツッコんで客席は爆笑。中田カウスボタンっぽいネタなんだけど、うーん、適切な例がすぐに思い出せない。でもありがちだと思うね。
ただ、左翼はもともとこういう背理法を使った踏み絵をよく踏ませた。古臭い例で、改憲→即戦争→だから護憲!みたいな。はてサはそのやり方を真似てる。たぶん、戦後の学生運動で、相手を洗脳しながら議論に勝つやり方の劣化バージョンが未だに生き残ってるんじゃないかな。根拠なく言ってしまうけど。
長くなった。そういうことで、あのネタは議論として無意味になっている。いつものように、自分たちが論理的に正しいとはてサが信じ込んでいるので、こうなるとまともに議論が成立しない。議論に付き合う人はやればいいけど、ただヲチするために整理したいんだったら、無駄なのでやめておいた方がいい。どうせまたいつものやつがいつものように始まっただけだから。
ちょっと前にtumblrがすごい、すごい言われていたけど、
正直フィードリーダーとどう比べてすごいのかイマイチわからんかった。
転載問題がいろいろ言われているときにちょっと使ったことがあるんだけど、
イイ感じのユーザーいないかなー、って探している時間が浪費に思えた。
けど、すげーすげー言われてホットエントリにも入ってんのに
すごさがわかんないのが悔しかったから、全然使ってないけどどこがすごいのか考えてみたよ!
使っていたもっともシンプルな時代。
たまに確認できたりする(あれで登録する人っているんだろうか?)。
タブブラウザと併用して、お気に入りに登録しているサイトを一気に開いて更新確認!
なんて方法で使っている人もいるかもしれない。
しかし、これだとあるとても大きな、生死に関わるほどの問題が発生する。
サイトがいつ更新するかなんて天使じゃなくて管理人の気まぐれなので
わざわざ訪問しても何も変わってないってことがしょっちゅう起こった。
時間が経っているから更新されているかもしれないとまた最初から確認しだす……
実際それで時間を浪費しまくって大学を留年、はては中退してしまった、なんて話も聞いたことがある。
人の人生を狂わすのはよくない。
たとえそれがここ一年で運動したといったらガンプラのやすりがけぐらい、なんて奴でもだ。
この問題を解決したツールとして「アンテナ」が登場する。
はてなユーザーにとってはもちろんはてなアンテナが馴染み深いだろう。
見た目では単なるリンク集だが、並びが常に順不同。
定期的に巡回したいサイトをアンテナに登録してぶち込んでおけば
まめな性格のロボットくん(オプティマス・プライムみたいなカッコいいのを想像してくれよな)が
数時間おきに確認してきてくれて「これ更新されてたっす!」って感じでアンテナのページのトップに持ってきてくれる。
サイト巡回における無駄な時間が大幅に削減されることになり、日本人に大きなゆとりがもたらされ、
俗に言う「アンテナ革命」って奴が日本に巻き起こった。ここ、テストに出るから要チェック(あと「マドンナ旋風」も出るよ)。
アンテナで得た余暇で芸術活動に打ち込めば新たなルネッサンスが起こるのも夢ではないとささやかれ、
そのテーマソングとして「ルネッサンス情熱」という文法的にも造語的にも「?」な歌が出されて、オリコンでなんと史上初の0位。
さらにアンテナは同じサイトを登録しているアンテナを見ることができたため、
そこから好みの似通ったアンテナを見つけてきて巡回サイトが増えていくなんてこともできた。
アンテナは些細な変化でもチェックしてくれるため、
記事とは関係ないちょっとした小さな変化でもトップにきちゃうのが魂に傷。
さらにはしばらく放置してるとどのサイトが何回更新したのかわからなくなったり、
短期間で連続更新されても一回更新しただけだと勘違いしたりと細かい難点があった。
そこで出てくるのがフィードリーダー。
フィードリーダーはあらゆる意味で画期的だった。まず「リーダー」って語感がカッコいい。
中身としてはコンテンツをサイト単位で捉えるのはやめてしまった。
登録したサイトの「記事」を一つのユニットとして配信するようになったんだ。
「このサイト更新されました」から「こんな記事書きましたよ、こいつ」に。
愛しい雌魯音(メロン)ちゃんに連絡するのに声だけ似ているババァを通す必要はなくなった。
もう更新を見逃すなんてことは起きりゃしないし、どうでもいい更新は即読み捨て。
みんなが見るのはサイトではなく記事。サイト名ではなく記事タイトル。
だから、今はみんな必死に記事タイトルを工夫する。休日はタイトルだけ考えて過ごす。
「○月×日」なんてタイトルじゃだれも見向きもしない。逆に前衛的と捉えられるんじゃないかって風潮すらある。
そういえば管理人のどうでもいい近況を書いていたりした「一言メッセージ」なんてなかった? サイトトップとかに。
あれって絶滅しちゃったねぇ。インターネットレッドブックへ仲間入りだ。いや、twitterに生まれ変わったのかな。
さらにリーダーをソーシャルブックマークなんかと併用するとすごいことになる。
好みの似通ったブックマークユーザーを探してきてポンと登録すると、あら、大変。
「こんな記事を見つけてきました、ご主人様っ♪ へけ、へけけけけけ♪」
なんと面白い記事を無償で勝手に取ってきてくれるメイドちゃんが誕生(ひまわりの種をあげて育てよう)。
これでもうなーんにもしなくても面白ネタやネットの流行をチェックできるようになった。
口をあーんと開けていたら勝手にぼこぼこと食べ物が放り込まれていく。うーん、マーベラス。
これでもう完璧。発展しようがなくね?
記事の収集はロボットと世界中の引きこもりにまかせて、俺たちは女の子とデートでもしようぜ!
……なーんて思ってたら世の中大間違い。
タンブラーは怠け者のためにさらに磨き上げられた最新の玩具だ。対象年齢は五歳以上。
フィードリーダーは記事を一単位として拾ってきたけど、タンブラーはもっと崩した。
そこだけを取ってくるようにしてしまったのだ。
わざわざ全部食べるのめんどくさいよ。一番美味しいとこだけ頂戴!
ブラボー、なんて強欲なやつらだ。もはや前フリとかオチとかどうでもいい。
マグロの一番美味しいとこだけ切り取って食べて、あとはぜーんぶゴミ箱行き。一番賢いともいえる。
人間、みんな怠け者だし、美味しいものが好きだし、タンブラーが主流になるのも近いだろう。
しかし……すべてを機械と他人に任せていて、それが本当に人間だと言えるのだろうか?
今こそ機械文明のゆがみが、我々の生活に現れてきているのではないだろうか。
昨今のスピリチュアルブームも、行きすぎた科学信仰への反動ではないだろうか。
「右」といったらお箸を持つ手である。きちんと自分の手で箸を持ち、食物を口に運ぶ。
そういった素朴ながらも確かな生への実感が求められている。そんな気がしてやまないのである。
フィンランドの移民率は2%くらいだから、ほとんど考慮しなくて良い数字だと思うよ。
しかもフィンランドの男女平等は伝統的なところがあるから、移民なんてほとんど無い時代でも人口は破綻していなかった実証として、今ここに滅びず存続している時点で、人口減には関係ないってところだろ。
あとフランスに関しては、一度移民した人はもうその国の国民なんだから、別に移民してきた女が出産したって構わんだろ。
次から次へと移民しないと人口維持できないなら、いずれは移民元の国の人口も尽きるから問題だが、一度移民してきた人が子供を産むのは、ナショナリストでもない限り特に問題だとは思わんよ。
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伝統的で思い出したので追記。
そもそも日本だって、男女不平等になったのは、ほとんど明治維新以降だからね。
江戸時代以前も外国から輸入してきた儒教や仏教なんかの流れをくむ部分は男尊女卑だったけど、土着の神道は男尊女卑どころか母権崇拝的なところが強いし、概ね仏教の方が土着のアニミズム的価値観に合わせて変化したおかげで根付いたような所がある。
日本でガチガチの男尊女卑なんてわりと最近の思想なんだよね。それで今まで日本が滅びてこなかったんだから、それこそ女が権限持つと人口が減るなんてあり得ないよ。
レイプ関連で連呼されているので獣性と呼んだけど、その呼び方に限定せず、要は感情についての徒然。
嫉妬だとか、闘争心だとか、焦りだとか、そういう人を焚きつけて動かす衝動、みたいなもの全般のことについて、ちょっと書いてみようと思う。
これらは、良い面で見れば、誇りやプライドを生み出すものでもあり、美学を生み出す原動力でもあり、勇気や度胸の源でもあると私は思う。
生命に「今ここに生きている」という実感を与える、命の万能感を与えてくれる、人によってはその感情こそが自我の一部だとさえ感じられる、そう言う類の物。
命のありかたそのものだと思うのだ。
でも、そういうのが全てなくなっても、多分人類は何も困らないと私は思う。
これはSFなんかでもさんざんテーマにされてきた、絶望的なけれども大いにあり得る推測なんじゃなかろうか。
普段性欲が無くても、必要な時だけ薬を使ったり、人工授精したりで、もはや子供は作れる。将来的にはもっともっと安価で簡単になるだろう。
恒常的な性欲のせいで、心理的傷を負い社会生活に支障を来たし、生産力になれなくなる人が出るくらいなら、恒常的に性欲をなくしておいて、必要な時のみ、必要な量だけの生殖活動が行うようにした方が、社会はより生産的に上手く回るかもしれない。
「いい女とエッチするために出世したいから人は働くんだ」と言う人もいるが、性欲が弱い人だけしか世界にいなかったとしても、明日おいしいご飯を食べてあったかいベッドで寝て、趣味をまったり楽しむ、という目的だけで、充分働くことが出来てしまうから、別にエッチをご褒美にしなくても社会は回ってしまうだろう。
セックスだけじゃない。
人は何かを誇るから、何かを差別する。何かを誇ってしまった時点で、それはそれ以外の物に対する差別そのものだからだ。
誇りを捨ててしまえば、差別もなくなる。差別がなくなれば、しがらみに囚われない裁量により、適材適所を推し進めることが出来、社会の生産性を上げることが出来る。
感情や衝動。そういうものがなくなったら「人はきっと何かとにかく、生物として致命的な欠陥を負って、駄目になるかも知れない」と、いう意見をしばしば目にするけれど、今までの歴史を振り返ると、どうも実際は「一定の技術力がその感情を代替できるようになれば、人類はその感情を捨てることによって、駄目になるどころか、むしろ繁栄する」が正解な気がする。
人類は大まかに分けて、原始社会→中央集権社会→資本主義社会 と発展していったのだけど、その度に一つずつ「大切」だと言われていた感情を捨ててきたんじゃないかと思う。
原始的な社会では、恥の概念がとても強く、恥を避けて生きることに、美学を見いだす(細かいことは文化人類学とか、まぁそんな感じでググってくれ)。
今でも原始的な生活を続ける部族は、自然をあるがままに受け入れ、その範囲内で最適な行動を取ることが美しいとされる世界観を持っている。自然に逆らって、環境が気にくわないとがなりたて、書き換えようとするのは、みっともないと感じる価値観だ。
だが、恥も美学も捨てることによって、自然に従うのではなく、抗ってコントロールし、支配することに成功した中央集権社会が、おおよそ原始社会よりも高い生産性を持ち、彼らを歴史の影へ追いやった。
文字の発明によって、数万人単位の人間が法によって共同作業できるようになったため、分業化が進んだからだ。自然を理解しそれに合わせて生きなくても、ただひたすら法に従って生産活動していれば、自然を逆に支配できるほどの力を得られる。
これによって人は、恥の概念を捨てて、支配者の定めた法からはみ出すことのみを恐れる、罪の概念を得た。
日本は先進国では珍しく、原始アニミズムの信仰を未だに強く残している国だが、これは明治維新時に、中央集権的な思想を一部取り入れつつ、資本主義にシフトしたからこそ発展できたわけで、江戸時代以前のままの体制を続けていれば、今の日本はなかっただろう。
一方、中央集権社会の、剥き出しの支配欲の元となっている「誇り・プライド」さえも捨ててしまったことで、発展したのが資本主義社会だ。
資本主義を支えるのは単純な損得勘定と、それを支える「リスクへの恐怖感」だけだ。もはや罪の概念すら必要でなく、ただひたすらリスクを避けるために踊り続けていれば回る社会だ。
人が人を支配しなくても、代わりにお金がそれを代替してくれるようになったから、人に誇りも意地も必要なくなったのだ。
資本主義社会で戦争が起こるのは、おおよそデフレの時くらいであり、つまりは高すぎた生産性を下げるために、わざと誇りや意地を煽って生産性のない破壊活動を行う始末であり、当然その背後にある有り余るほどの生産力は、中央集権社会を八割方駆逐した。
この流れが続くとしたら、多分、人はそのうち、リスクに対する恐怖心が無くても、うまく社会を回せる発明品を手に入れるのかも知れないと、私は思う。恥も、支配欲も捨てることで発展してきた人類が、次のステップへいつの日か進むことも、充分あり得ると私は思う。
そしてそれらを突き詰めていくと、人類の発展とは、感情を一つ一つ捨てていく作業に他ならないのかも知れない。
感情を捨てたことで人類が滅びれば、まだある意味人類は救われる。私達の中にある、自我の一部とも言うべき様々な感情は、必要な物だったと証明されるからだ。
でも実際はその逆に進むのではないかと私は思う。
人間がただ計算するだけのコンピュータの用に生きるようになったとしても、多分人類は何も困らず、むしろますます発展していく。していってしまう。
人間はシステムを動かすための素子であり、人類としての主体はむしろ、社会システムの方にある、そんなSFみたいな世界も、案外本当にいつの日か実現してしまうのではないかと、そう考えてしまう。
それでもって、人の獣性を肯定して、「人の獣性はなくなるわけないんだ!! なくなることを期待しちゃいけないんだ!! むしろ自衛本能という女の獣性を駆使してそれに立ち向かえ」みたいに説いている人というのは、社会システムが支配する世界が訪れないように、戦っている人なのかも知れない。
システムを挟まず、主体性を持った命と命がぶつかり合う、システムに主体性を譲り渡さない世界を、願っているのかも知れない。
最近の流れを見て、ちょっとだけそう思った。
まぁ、だからといって、セカンドレイプを看過していいわけではないと私は感じているし、それを制するためのシステムを発明する必要があるだろう。
ただ、そんな私自身の発想自体が、多分世界をシステム化していく原動力なんだろうな、とも思うのでした。
以上。
「露出度高いと売春婦に見られても仕方がないから襲われても仕方がない」とかいう人は売春婦だって交渉の結果性行為を行っていることを意図的に無視してるよね。
店で商品をディスプレイ展示してるのと同じだけなんだから、売春婦だと思った時「いくら?」と声をかけるのはいたって普通の商行為。
そこで「いくら?」と声もかけずに商品を強奪するのは強奪するほうが悪いに決まってるのになぜかその発想が飛んでいる。
そういう人たちは結局交渉という形で女が主体的に性的行動の権利を実行してるのが嫌なんじゃないかな。
交渉の結果条件が折り合わなくて拒絶されるなんてことは当たり前にあるわけだけど、自分が拒絶される可能性があるならそもそも誰に対しても売りに出すな的な自己中思想を感じる。
最初はテストが足りないだけじゃねーの?(それはまた間抜けな話だ)と思ったが
iPhone App販売サイドはレコメンデーションの低評価に頭を悩ませるという。
ログインしないと「きょとん」に投票させないのは、意図的にそのようなシステムデザインにしてるんじゃないかな。
だってわざわざ評価するためにログインしないでしょ。面倒くさいったらありゃしない。
書き手のモチベーションを上げるために、高評価がつけやすく、低評価がつけにくい仕組みにしたい!
運営側にはそういう思想があるのかもしれないけれどさ(勝手な妄想だが)
読み手としては、運営側の都合のいいシステムだとわかったとたん、熱が冷める。うんざりする。
そして一度そのような気持ちになると、そのサービスは敬遠したくなる。
そのような傾向があるのではないかな。統計取ったわけじゃないけどさ。
ていねいにお返事頂き感謝します。
これだけ丁寧に読んで頂くと、もうこちらからコメントすることって余りないんですが。
東洋医学の方法も、ちゃんと研究デザインを考えれば(例えば、薬だけでなく日々の生活や食事まで、評価の要素に含めるとか)効果を確認する事はできると思う。
仰るとおり、東洋医学の(経験的な)知恵は、その大部分がいずれ西洋医学的に解明される時が来るはずだと思う。だいたい百年もすれば。秘伝や秘術と言った類との違いが定かではない東洋医学が、自己研鑽の機会を失っているという批判は結構あたっていると思うし、論理的明証性という武器が、たかだか1000年程度のアドバンテージを覆すには100年もあれば十分だろうと思う。
だから、問題はその「途中」である「今」なんだ。
オレがいいたかったのは、まあそんだけです。
人類の歴史を振り返れば、同じように失われてしまった知恵は膨大なわけで、漢方もまたその一つになり果てるというだけのことなのかもしれない。でも、そのロスを無くすことができればいいな、と思って書きました。ただ、単純に西洋医学が東洋医学を「解明」するだけでは多分ダメで、その根底にある思想……たとえば「技術によって自然のバランスを越えて人を延命させることの是否」なんて話で、多分相容れない領域に突き当たるわけで、そこんところでどうするのか、っつーところで、哲学とか倫理とかそういうジャンルとのコラボレーションに興味の湧く所であります。
前の書き込みの最後三行を読んでみて。あなたの言う程度のことは知っているけれども、それは『東洋医学の根底にある思想がどういうものか』という論議とは無関係な話。
漢方が、手段の一つとして対症療法的治療を施すことはあって、その際に、対症療法的に見て「効く」薬を使うこともあるだろう。けど、それが東洋医学や漢方薬の唯一の存在意義だなんて考えるのは大きな間違い
私は「どっちが対症療法か」なんて話はしていない。東洋医学には対症療法的ではない考え方があるんだよ、という話をしてるだけ。西洋医学が東洋医学のそういう考え方も含んだ総合的なものだといいたいならば、まだ分かる。でもそう主張するなら、それはそれでその根拠を示すべきだよね。
東洋医学の観点から西洋医学の「盲点(かもしれない)」ことを指摘したけど、別に俺は西洋医学の優位性を否定しようとは思わないよ。でも、仮に西洋医学の「絶対性」を誰かが主張するとしたら、「それはちょっと違うんじゃないかなあ」と言わずにはおれないんだ。科学とか、そんなに信用してもらってもねえ、と。
http://anond.hatelabo.jp/20091129184546
これでも納得できない人は、次のあべ・やすしさんの記事(さっきリンクしたのとは別の記事です)、ぜひ参考にしてください。
●読みやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー
私のブログをいつも読んでくださっている方が、どれほどかな書きに慣れてきたのかは聞いてみないとわかりません。もしかしたら、大きな負担を感じながら読んでくださっているのかもしれず、そうだとしたら心苦しく思います。
私はかな書きで書かれている何人かの人のブログなどをいくつか巡回して読んでおりますけど、漢字が使われていないことへの抵抗は今や全く感じなくなりました。むしろ、漢字の多い文章よりも、かな書きで分かち書きされた文章のほうが、読むときの負担は軽いようにすら感じます。私個人の経験からは、漢字かな混じり文が読めるなら、かな書きの文章にもすぐ慣れることができると思います。
もっとも、その「慣れる」ための手間がわずらわしいという人もいるのでしょうし、私自身「なんで俺のほうがお前に合わせて慣れなきゃいけないんだよ」という意味のことを言われたこともあります。そういう人に言うべき言葉を私は持ち合わせておりませんし、無理に 「慣れてくれ」と求めるつもりもありません。
漢字を使いたい人は漢字を使って文章を書けば良いし、かな書きの文章がかな書きであるという理由だけで読みたくないのであれば、読まなければ良いでしょう。どういう表記で文章を書こうが、あるいはどういう表記で書かれた文章を嫌おうが、その人の自由です*7。
ただ、「日本語はこう書かなければならない」とか 「まともな日本語はこういうものだ」とかくだらない権威(ほんっっっっとにくだらないと思います)を笠に着て、しかもそのことに無自覚なまま、人の言葉や表現に評価を下すのは、やめてほしいと思います。
*1:「話されている」という表現は多少語弊があるかもしれません。当然、日本手話も含めて「日本で話されている様々な言語」といっています。
*2:私は仕事上の付き合いで、日本語の読み書きに困難を抱える人と出会うことが割と頻繁にあります。その人たちの中には、日本語で話したり聞いたりすることはできるけれど、読み書きとなると大きな困難を抱えている人が少なからずいます。無論、漢字だけがハードルになっているわけではありませんが、かなやローマ字など、表音文字で文章を書き表すことがもっと一般的になれば、そのハードルが格段に低くなるのは確かです。
*3:そう考えると、かな書きの文章に対してよくつけられる「みんなよく読めるな」というコメントもなかなか味わい深く思えてきます。
*4:なお、私はかな書きよりもローマ字表記のほうがいくつかの理由で望ましいと考えてはおります。
*5:『あなたの年齢当てます』朝倉久志 訳。なお、引用は山崎浩一『危険な文章講座』(ちくま新書)からの又引きです。
*6:石川准「本を読む権利はみんなにある」(上野千鶴子他編『ケアという思想』岩波書店、2008年)
*7:私は上にリンクした 5.の記事で書いた通り、漢字かな混じり表記を「標準」として押しつける「国語教育」ごと廃止すべきだと主張していますが、一人一人の書き手が漢字を使うことを禁止すべきだとは考えていません。
なるほど、少し分かった気がする。
あなたは漢方について、効果だけでなく根底にある思想を含めて評価してるんだね。
川の例えだと、仮に東洋じーさんのやり方でうまく行かなくても、方向性としてそちらの方が正しいという風に、確かに思える。
でもそれは、イデオロギーの問題もあるし、さらに言えば我々の心のどこかに「東洋じーさんのやり方のほうが、最終的にうまく行く」という(必ずしも根拠は明確でない)確信みたいなものがあるからではないかな。
食物繊維の例なんかは、むしろいわゆる「科学的」なやり方を支持する話に私には見える。ことわざとして何となく受け継がれていたけれど、本当かどうか分からなかった事について、3,40年かけてコツコツ研究した結果、やっぱりことわざが正しかったと分かった訳でしょう。
長い伝統こそが効果のある証明であるという主張も、一定の根拠にはなり得ると思うけど、それのみで判断するのはやや無理があるように思う。基本的に人間は、効果のあった事はよく覚えていても、効果が無かったことはあまりよく覚えていないものだ。よく言われるプラセボ問題(本当に薬が効いたのか、薬を装っていれば薬でなくても効くのか)についても、経験則では評価できない。
それに、ここは東洋医学に対する批判になるのだけれど、千年を越える歴史の中で、中心となる理論が基本的にずっと変わっていない、という所に私は不信感を覚える。千年前の人々が今よりも愚かだったなんてことは無いに違いないが、今よりも賢かったということもあるまい。すっかり完成してそれ以上改良の余地が無いほど完璧な理論なんて、はっきり言ってこの世に一つも無いだろうと私は思っている。常に疑問を持って理論を眺め、おかしな部分は直してゆくのが、より良い理論へ辿り着く道だと思っている。長い伝統の間に大きな改革が無かったという事は、東洋医学の中には、そういった自己研鑽の精神が足りないという事を意味しているんじゃないだろうか?
人の記憶や感覚に頼っている限り、どうしても人間特有の間違いの傾向に落ち込んでしまう事を免れない。科学の手法というのは、その傾向を可能な限り取り除いて客観的な事実へ近づくための、これまた長い時間をかけて積み重ねた集合知だよ。
東洋医学の方法も、ちゃんと研究デザインを考えれば(例えば、薬だけでなく日々の生活や食事まで、評価の要素に含めるとか)効果を確認する事はできると思う。
とはいえ、そもそも間違いを正して客観的事実に近づいていくのが、本当に価値あることなのか?という点まで立ち返ってしまうと、科学的手法も大して意味がなくなってしまうんだけれども。
さて、冒頭に確認したように、あなたは漢方の効果だけでなく思想も支持しているようだ。単に健康になること以上に、その方法論が大切であるとお考えなのかもしれない。
思想が絡んでくるとなると、客観的な評価単独では、仰るとおり意味が無い(それでも評価自体が全く無価値だとは思わないけれど)。薬の効果という狭い評価範囲を超えて、人の心の機微や社会全体にまで話が及ぶ事だ。そして、事は保険適応の有無という極めて社会的・人為的な話なのだから、そこまで考えるあなたの方が、姿勢として正しいように思う。
私は社会情勢や経済や法律には全く暗いので、今回の漢方と保険についての問題には、ここでは直接触れないで置く。自分自身考えがまとまらないし、何か言っても見当違いになりそうだ。
あくまで「二重盲検」「対症療法」という単語の意味について、気になっただけ。でも、あなたの整理された文章を見ると、どうやらそれも余計なお世話だったらしい。申し訳ない。(「対症療法」についてだけは、未だにちょっと気になる。もしかすると、東洋医学の「対症療法」と西洋医学の「対症療法」は、別の言葉なんだろうか)
長文になってしまったけれど、誰かに噛み付いたりするつもりは全然無い。自分の考えを整理する役に立ったので、書くきっかけを与えてくれた元増田に感謝しようと思う。
乱文乱筆、失礼。
個人が個人内部で戦争をどう扱えばいいのか、という話です。自分の中で消化した後の議論や活動も他者のそれも言うなればどうでもいいんですが、伝わっているでしょうか。私の書き方が拙いのもありますが、増田さんも「戦争を考える人像」を持っているように感じました。できたらそれ、今は横に置いてください。
戦争を支持する主張に眉を顰める風潮を問題視しているのですか?戦争を支持する主張が受け入れられるような、開かれた言論の場を、と仰りたいのでしょうか。
というのは違います。失敗の有り得ない社会体制を求めているわけでもありません。
戦中に戦争を支持した大衆の一人と同じような形で(これが言いたいがための文章でした)自分も平和を支持しているんだということを踏まえて、立脚する正しさのなさに不安感を抱いた、ということです。平和への疑問を抱くほどに怖いのではなくて、平和への疑問を持たざるを得ない状況が怖いんです。怖いという語では強すぎるかもしれませんが、そういう不安があるために何を思うにせよ迷いが生じます。これが発展して「なにを思えばいいんだろう」に繋がって、それが私のテーマです。
意思決定の正否の問題は、戦争・平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。
1文目には賛成です。2分目はどうして? 何故、どうずれていますか。
という意見をいただくことになるだろうから
そういった理由で人を殺すことも資源のためなら厭わないという思想をどこかで肯定しているから戦争になるんだし、あるいは「戦争などしたくないが戦わなければ自国が滅びる」と思って戦争をするんでも、国を滅ぼすよりは戦争をすべきだという正しさに則って戦うんだし。
を書いたのに… 難しいな。妥協しようと他の意見に歩み寄った末に武力行使が必要と判断して戦争をするなら、それはつまり「武力行使が必要だ」という正しさに則っての武力行使です。「他者への不寛容」という表現に誤解を感じました。「不寛容であるから戦争が」ではなく、「いくら寛容であろうとしてもそれぞれ正しさを待たずにいることはできず、対立を生む原因もここにあるのではないか」です。
アフガンに於けるISAFの活動等をどう思われますか(戦争のありよう・起点をどう定義するか、という論点はあるかもしれませんが)。なんだか増田の意見は、実際の戦争ではなく、増田の頭の中にある戦争像を元に話をしているように聞こえます。
ISAFはISAFの、アフガンの各組織は各組織の正しさに則っていると思います。そもそもISAF対アフガニスタンで戦争をしているという認識がありませんでしたが、この両者間の対立は特筆すべき例外にはなりません。
戦争を支持する主張に眉を顰める風潮を問題視しているのですか?戦争を支持する主張が受け入れられるような、開かれた言論の場を、と仰りたいのでしょうか。そうやって自由に意見を述べることの可能な、開かれた場は既に存在していると思いますが。このような実例もあります。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/071010/stt0710101729004-n1.htm
結構大胆なことを言っていると思うのですが、この件で彼が何か法的に追及されたという話は聞きません。正直、眉を顰められたぐらいで、戦前と同じだ、と考えるのはどうかなと思います。そう言いたくなってしまう気持ちも分からなくはないのですが。
「かつて国家と大衆が間違ったのなら、現在の国家と大衆が支持する正しさが正しいとは言い切れない」というのが第一の怖さです。また、これを発展させて「しかし国家と大衆が一致して正しいというものさえ正しくないかもしれないと考えるならば、正しいと言えるものなんてなくなる」というのが第二の怖さです。
これは既に戦争・平和の論点から外れているのでは。意思決定の正否の問題は、戦争・平和のいずれの状態であっても生じるものでしょう。これを指して『本当に平和は良いものなのかと怖くなりました』というのはちょっと焦点がずれていると思います。それはさておき、二つ目の『しかし国家と大衆が一致して正しいというものさえ正しくないかもしれないと考えるならば、正しいと言えるものなんてなくなる』という恐怖ですが、正しいと言えないことがそれほど不安なのですか(現在の平和に対する疑念を生じせしめるほどに)。失敗のない政治体制なんて、存在したことがないと思うのですが…。
そういった理由で人を殺すことも資源のためなら厭わないという思想をどこかで肯定しているから戦争になるんだし、あるいは「戦争などしたくないが戦わなければ自国が滅びる」と思って戦争をするんでも、国を滅ぼすよりは戦争をすべきだという正しさに則って戦うんだし。
批判・検証を受け付けない硬直した態度と、他者への不寛容の広まりは戦争を生む一因ではあると思いますが、後段の文章はあまり同意できません。
妥協・他の意見を顧みた結果、武力行使が必要、という結論になることもありえるからです。アフガンに於けるISAFの活動等をどう思われますか(戦争のありよう・起点をどう定義するか、という論点はあるかもしれませんが)。なんだか増田の意見は、実際の戦争ではなく、増田の頭の中にある戦争像を元に話をしているように聞こえます(自分も不勉強なので人のことを言える立場にはありませんけど…)。
そういう戦争像を元に『私は(戦争に対して)何を思うべきなのか』という問いかけ・思考を行っても、それは空虚なものにしかならぬのではないでしょうか。
こちらこそお返事ありがとうございます。
『戦時下』で起った出来事を教えられて、どうして『平和は良いものなのか』と怖くなるのさ?
簡潔にいえば、過去に間違った→現在も間違っているかもしれない、という不安です。
戦中、戦争反対を叫ぶ人は法律によって裁かれ民間レベルでも差別されたと習いました。対して現在はどうかと言えば、憲法で国が平和主義を掲げ、殆どの国民も平和を大切だと思っていて、戦争を支持する主張に眉を顰める風潮もあります。主張を逆にしただけで状況は同じじゃないかと感じ、怖く思いました。思想や表現の自由は手厚く保障されるようになりましたが、個人の思想はどうしたって環境や時代に影響を受けるので「かつて国家と大衆が間違ったのなら、現在の国家と大衆が支持する正しさが正しいとは言い切れない」というのが第一の怖さです。また、これを発展させて「しかし国家と大衆が一致して正しいというものさえ正しくないかもしれないと考えるならば、正しいと言えるものなんてなくなる」というのが第二の怖さです。加えて、自分の受けた平和教育が平和主義の押し付けにも感じられるものだったので「戦争と平和にまつわる教育の内容は変わったが、やり方は変わっていないんじゃないか」と思ってまた怖くなりました。
『思ったことを思い続けたから』戦争が起ると考えてるの?それって、どうしてそうだと思ったのだろう。
「思ったことを思い続ける」というのは、1度もった自分の視点・主義主張に固執する、という意味です。妥協を知らず、他の意見を顧みず。自分が正しいと思っている複数の主体が他の正しさを拒むから戦争が起こるのだと思っているのでそう書きました。(例えば「別にどちらのものというわけでもないが資源が欲しいので戦争をしよう。国民には相手国が攻撃してきたと思いこませよう。」と国が思って戦争をするにしても、そういった理由で人を殺すことも資源のためなら厭わないという思想をどこかで肯定しているから戦争になるんだし、あるいは「戦争などしたくないが戦わなければ自国が滅びる」と思って戦争をするんでも、国を滅ぼすよりは戦争をすべきだという正しさに則って戦うんだし。)
じゃあ、シンプルに、『何を知り、考えれば戦争を抑止・防止することに役立つだろうか?』って質問をすれば良かったんじゃないかなー。
そういうことが聞きたかったのではなくて、自問を増田に書くなよって話なんですが、「私はなにを思えばいいんだろう」ということが主題でした。だからどんどん内面の話に持って行くんです。
この前、俺はニコニコでこんなのを見つけたんだ。
21年前の対談番組で、すぎやまこういち氏が景山民夫氏と対談していた時の話なんだけど、
すぎやま氏がこんな発言をしていたので紹介しとく。
僕がね、新聞で見てね、非常に感動した話ってのがね、西ドイツがね、ポルノグラフィーを解禁するときに、その議会の演説でね、西ドイツのその、上院議員がね、私自身はねポルノが大嫌いであると、ポルノグラフィを見ると気持ちが悪い。大嫌いだけども、今までのWHOの統計その他を見ると、ポルノの解禁した解禁国は解禁前よりも解禁後の方が全部性犯罪が統計的に減っていると。で、ポルノグラフィーは私は大嫌いだが社会にとって有用なものだから、これは解禁するべきであって、ポルノグラフィー解禁の方に一票投じるという演説をした議員がいたの。感動しましたね。
俺はもしかしたら、すぎやまこういち氏はうまく説得できれば規制反対派になってくれるんじゃないかと
前々から思っていたわけ。
なぜかというと、
・「ドラゴンクエスト」をはじめとして多くのアニメやゲームの仕事に携わっている。
・人権擁護法案に反対する意見広告に、「コミックマーケットに出す同人誌も」という文言を盛り込んでいる。
(参考 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4c/f1285d9eb17f53fa214a841e49b19f8c.jpg)
・秋葉原連続殺人事件に関して、ゲームと事件を結び付ける言説を批判している。
(参考 http://warasoku.blog18.fc2.com/blog-entry-554.html)
・2ちゃんねらーであることを公言している。
・慰安婦問題に批判的であり、APP研やECPATの思想的背景と敵対的であること。
・典型的なネット右翼的思想信条の持ち主であり、自民党を支持しながら表現規制に反対するということが不自然ではないため。
といった理由があるわけ。
でも、これで確信した。
すぎやまこういち氏はうまく訴えることができれば、
児ポ法とかのような表現規制にも反してくれるんじゃないのかと思う。
"THE FACTS"などのように保守系の意見広告を載せているように、
是非とも表現規制反対の意見広告を載せてほしいと思っているわけ。
楽観的すぎるかな?
ヒロヒトゥス:汎日本帝国皇帝(先々代)。イリエッティ侍従長に宮内省の不明朗会計について問いただした翌日、ヤスクノス教(啓蒙思想)を奉じるスミヤキスティのメンバーに毒を盛られ、暗殺される。
アキヒトゥス:汎日本帝国皇帝(先代)。ヒロヒトゥスの子で、ヤスクニ思想を奉じるスミヤキスティのシンパ。ヒロヒトゥス皇帝の死去に伴い根比べの儀を経て帝位を継承する。宮内省と宮中の民主化、フェミニズムを推進。
ツネッタ・ナベッキオ:汎日本帝国の中心国である日本国の首相。メディア王。スミヤキスティのメンバー。文京区アレーナ・ディ・ラ・クーアの隣にザ・ナベツネタワーを建設、官邸とする。性欲が旺盛で、若い女性をナベツネタワーに何人も呼んで侍らせる趣味は有名。ナカソネッティ元首相と盟友であった。
新党「この木なんの木」:労働組合「連合」を支持母体とする中道左派連合。ナベッキオを一時は政権の座から追うが返り咲きを許してしまう。
スミヤキスティ:啓蒙主義、反中国粋主義の極右政治団体。日本の政治を背後から動かし、ゴトウ組とも深い関係にある。メンバーは月見うどん(=カルボナーラ)が好物。
横井軍平語録
「ソニーのウォークマンをみて、私はすごいと思います。ウォークマンというのは、ソニーの技術力で
しかできないものだったか。決してそうではない。他の会社だって、ウォークマンを見さえすれば
簡単に作ることができたはずです。ところが、ウォークマンというアイディアはソニーしか出せなかった」
「売れる商品というのは、まじめに取り組んだらできるんです。最先端の技術を使ったら、かえって
売れない商品ができてしまう。だから、「枯れた技術の水平思考」で気楽にものを考えれば、
まだまだ売れる商品が作れるのです」
有名な言葉だが、この考え方は現状でも使えるのだろうか。
例えば、日本企業は、アップルの製品群のような横の連携をした総合的な環境やサービスとしての売り方、他社製品にもつながるが、純正品で揃えた方がより性能を引き出すことが出来るという考え方はない。いや、あるかも知れないが、デジタルネットワークにおけるコアとなるハブが存在しないか、貧弱なため、うまく行っていない。(逆に言えば、アップルはマイクロソフトより酷い独占企業とも言えるかも知れないが)
もちろん、横井軍平の思想を体現しているのは任天堂のみだ、という反論は有効だと思うが、他の日本企業が、たまに面白い製品を作る事も事実だと思う。(例えば、デュアルディスプレイノートPCとか)
よく言われている通り、面白い製品が出ても、後がつながらない、戦略的視点がないのだというのは多分その通りだと思うのだが、ではどうすればいいのだろうか?
個人的に一つ思うのは、アウェイであるPCに強力な戦略的拠点がないと辛いのではないかということだ。(つまり、アップルのiTunesのように)
例えば、グーグルを見習い、電機メーカー各社がオープンソースであるグーグルのクロームを改造した共通のブラウザをプリインストールして、そこを戦略拠点(ハブ)とし、例えば、デジカメの画像をアップロードが出来るなど、デジタル家電と連動できる前線基地にする。(別にファイアフォックスのアドオンでも、オペラでも良いかも知れないが)
もちろん、インターネットTVにはデフォルトでそのブラウザがついてくる。
心配なのは、デザインがゴテゴテになることだが、そこら辺をうまく解決して、なんとかならないもんかと思う。
一社でも横の連携がうまく行っていないのに、沢山ある家電メーカーの烏合の衆をまとめられるのか?という反論はあるかも知れないが、それこそ、優秀な官僚が主導してやるべきではないか。