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はてなキーワード: 個人的とは

2024-03-19

anond:20240319150831

血液型性格関係ないと医学的に解明されていても、俺とB型人間とは合わない

これは個人的経験則

好きな実験エピソードってある?

個人的には、ゴキブリ徒競走をさせたとき観客(他のゴキブリ)を設置すると観客が居ないときより早くなるっていう実験エピソードが好き

退職した〇〇株式会社を恨んでいます

毎日思い出して怒り狂っています

SNS会社実名とともにこういう内容を書いたとして罪に問えると法学部の人が断言してました

個人的にはそれは無理じゃないかと疑ってるんですが、はっきりした正しい答えが分かる人いましたら教えてください

20代オルガン勧めるのやめろ

ディープパープルのジョン・ロードとか、ハモンドオルガン叩いたり倒したり、酷いことしたよね

血の気の多い若者オルガンを勧めるのは間違い

グランドピアノなら、そう簡単には倒せまい

個人的には、あれを保育園のお姉さんにやってもらいたい…

2024-03-18

ふと気付いた

主導権を握りたい人、他人に主導権を握られるのがイヤな人って一定数いると思う。

(私はそう)

仕事でも恋愛でも何でも、基本的には主導権を握っておいたほうが、自分にとって有利に、快適に、事を進められるというメリットがあると考える。

反対に主導権を握られると、相手の都合に振り回されるなどのデメリットもあると考えている。

(もちろん、主導権を握っているからといって他人を好き勝手振り回してよいということではないが)

しかし一方で主導権を「握りたくない」人、他人に「握らせたい」人も一定数いるのではないか…と思い始めた。

主導権を握る=矢面に立たされる、のように捉えると、責任を負いたくないと考えるタイプの人はむしろ主導権なんて握りたくないと考えるのではないだろうか。

主導権は他人に握らせておいて、自分は目立たない位置に隠れることで、ある程度面倒な役回り回避しつつ、事が完了した際にはちゃっかりその恩恵享受できる。

そう仮定すると、意図的に主導権を「握りたくない」人、他人に「握らせたい」人も一定数いるのではないかと思えてきたのだ。

最小の負担で最大の利益を得ようとするとき、そのような合理的で賢い(?)やり方というのもアリなのかも。

個人的にはそのような人とはあまりかかわりたくはないけれど

車椅子を押す側 の ぼやきと一部の生活

車椅子を押す側のとある所感、一例として書いてみる。

あんまりまとまってないけど、ご容赦ください。

  

――――――――

  

自分車椅子押す側の健常者。

身内が車椅子。元は歩けてたけど、病気車椅子になった。

押す側の人はわかると思うんだけど、車椅子ってちょっとぶつかっただけで超痛い。

から押す側はだいぶ神経使う。重いし。

  

で、身内は結局あんまり外に出たがらなくなった。

繊細な人なんだなとか思われるかもしれないが、身内は人並に大雑把で人並に優しく人並に理不尽な人だ。

  

――――――――

  

そんな身内の言い分を聞いてちょっと唸ったことがある。

例えば、人混みを通らなければならないとき

介助者の自分は当然「すみません」って声をかけて通るんだけど、

乗ってる側としては「何で謝らなきゃならないんだ」って悲しくなるらしい。

  

そんなことで?ただの声かけじゃない?と思った。

大体人混み通るときって健常者だって「すみませーん」ぐらい言うし。

で、よくよく話を聞いてみると、そもそも「頭を下げないと道も通れないことが悲しい」というような旨を言う。

それは意味が違うと思うけどなあ…と思い、

そのときは「SorryじゃなくてPardonの意味から、受け取り方が違うよ!」と慰めた。

  

そういうことを言う人でもなかったので、何となく引っ掛かりを覚えた。

よくよく考え、「そういう風に考えてしまう」こと自体が、身内の内情を表している、そんな気がした。

  

――――――――

  

人間というか生き物は、自立したい生物だと思う。

金銭的に依存したいとか、恋愛的に依存したいとかは健全じゃないながらあると思うが、

身体を動かす点において依存したい』という人間は、多分いない。だって不便じゃん。

自分身体が突然制御不能になったら嫌でしょ。

最初は周囲に助けられてなんとかなるかもしんないけど、それがずっと、死ぬまで続くなら本当に毎日毎日うんざりすると思う。

周囲だって毎日毎日世話することに疲れてくると思う。そう考えちゃうのも、周囲を信用できていないみたいでいやだし。

  

でも車椅子の人って実際こうなんだろうなと。

傲慢な人だとか、人を使役することに慣れている人なら、「でも俺は動けないし」で済むかもしれない。

本当~に一般の、どこにでもいる普通の人が突然そんな状況に置かれ始めたら、段々だんだん申し訳ないな…」って気持ちになるのは必然な気がする。

自分要求のために絶対人が動かなきゃならない」が毎日毎日、この先もずっと…って考えたら、しんどくなるわそりゃ。

いくらこっちが善意でも、いや善意からこそ。

  

まり、身内の中に蓄積された「また頼ってしまった」「また助けて貰ってしまった」という無力さと、

「それに対して自分が返せるものが何もない」という良心の呵責、周囲が自分をどう思っているかへの不安

それらが蓄積した結果、「何で謝らなきゃならないんだ…」という最初言動のものになってるのかなと思った。

  

――――――――

  

いや、これはマジでよくない。と思った自分は「もっと外に出て元気でいて欲しいな」と安易に考えた。

だってずっと家にいるってことは、やっぱり生活に彩りがなくなるし、体力も筋力も落ちてくる。

これって、人によっては段々生きる気力が減退する場合もあるし、ネガティブになることも多くなると思う。

外に出て沢山刺激があった方が、色んなことが塗り替えられるじゃない。

  

でも、それも難しいんだよね、車椅子だとさ…。

  

簡単な例でいえば、トイレだ。当然多目的トイレしか使えない。

から多目的トイレを探さなきゃならない。で、もし使用されてたら使用が終わるまで待たなきゃならない。

車椅子トイレ使用中で、仕方なく待つことはある。大体お仲間だったり、赤ちゃんだったりする。

ただ、10分後ぐらいに水を流す音もせず、ばっちりメイク決めたJKが出てくると流石にムッとする。

いや確かに多目的だけれども…苛つく気持ちは理性では抑えられない。

しかしたら彼女も何か抱えているのかもしれないので口汚く言いたくはない。

かもしれないが…しれないが…しかし…世の中には多目的トイレセックスをするアホもいたりするからな…。

健常者なら、許容できる範囲かもしれない。だってそんな苛立ちも抱えず他のトイレに行けば済むのだ。

  

車椅子の人だって介助者だって別に自分関係なければ許せるかもしれない。

本来なら…病気になったり、事故に遭わなければ…。

そういうありもしない未来過去がそのたびに去来し空しくなる。

心の許容範囲の在り方、理不尽に変わってくる。必死だ。

  

――――――――

  

他の例だと、地方美術館では2階に行けないこともあったし、砂利道はガタガタしすぎて危ないから通れないこともある。

外出の選択肢として楽なのはアウトレット舗装されてるし広いから一人当たりの占有面積もゆったり。でも数は限られてるし場所によっては早々行けない。

海辺の砂浜なんて車輪がもたれるから絶対だめだ。山を登ることも、ハイキングもできない。

  

エスカレーター階段も使えないから常にエレベーターを探さなければならない。

エレベーターって意外と辺鄙なところにあるから、実際探し当てるまでもかなり大変な目に遭ったりする。

一度エレベーター縛りで移動してみると、面白いと思う。それをこの先ずっと続けるとなると辟易だと思うが。

見つけたとしても、必ずしも乗れるわけではない。混んでたりするからね。

降りて譲ってくれる優しい人がいると、この先この人に今の五万倍の幸せがあるといいな!と思う。有難いことこの上ない。

  

実際バリアフリーは沢山あるし、色んな公的機関では配慮されてることが多い。

障害者オンリーの観覧日を設けてくれる美術館などは本当に助かる。

若ければ車椅子サッカーとかバスケとか、そういった活動もあるかもしれないが、年をとるとインドアなことしかできなくなるので。

  

ただ「使える」バリアフリーかっていうと難しいときもある。

とんでもない角度の段差の補助?だったりすると「あーっ惜しいですね」となってスルーせざるを得ない。

エレベーター行くのに遠回りしなきゃいけなかったりするし。まあ、仕方ないんだけどね。やってくれるだけ有難い。

(この「やってくれるだけ有難い」も、身内の「何で謝らなきゃいけないんだ」の一部だとは思うが…)

  

施設は、入場料がいらなかったり、半額になったりする。

でもまあそれは「平等サービスを受けられないことによる減額」なのかもなと思う。

美術館だと照明が反射して、絵がよく見れなかったりする。健常者と見る位置が違うから

コンサートなら車椅子用の席は固定で、「可も不可もない中間よりちょっと遠い席」が普通かも。

たまに逆にえらい良い席なときもあるけど。最後尾があたる可能性もないが、最前席があたる可能性はない。

  

本人は車椅子に乗ったまま、介助者の自分パイプ椅子…なんてこともあった。

クラシックコンサートだったが、ずっと尻が痛かった。ちゃんとした席が横にあるんだからそっちにして欲しかったなあと思ったけど、まあ仕方がない。

「尻が痛かった…」と少し溢すと、申し訳なさそうな顔をされて「しまった」と思ったりする。

楽しむために行くのに、悲しい気持ちになるのは本末転倒だ。

  

――――――――

  

マジで行ける分いいと思うのだ。行ける分良い。でも、ざっと書いただけでもこれだけ大変なことがある。

自分車椅子だったらと考えると、そりゃ外出たくないよなって思う。

望んだわけでもないのに、同じサービスが受けられない。周りに迷惑だと思われているし、介助者にも迷惑がかかる。遠回りさせる。自分いるから存分に楽しめなかったりする。そもそも自分の行動や欲求に付き合わせている。

そういった事実によって生まれ葛藤が『何で謝らなきゃならないんだ』、ひいては『何でいちいち感謝しないといけないんだ』になるのは、わからんでもない。

そういう立場体験していない自分が、その感情否定することはできない。

  

ただ「しょうがないよね」って茶を濁して共感することしかできない。無力だなあと思う。

身内の気持ちは身内にしかからいから、ここまで考えているか感じているか実際は知らないけど、まあ大外れではないと思う。

  

当初は「そんなことで?」と困惑した自分も、もう肯定するほかないなと思ってる。

だって事実事実で動かしようがない。

すみません」って言わないと通れないんだから

  

――――――――

  

設備が悪い!とか周りが悪い!って文句もあるときはあるけど、

社会に生きる人間は良くも悪くも社会にある程度迎合しなきゃならないというのが個人的な持論。

人間は全員が「違う」から。違うから、お互いを譲歩し適切な距離を保って、険悪にならない距離コミュニケーションをとる。

これは最近トランスジェンダー関係の話でもそうなのかなと思う。

自分のすべて受け入れてほしい!と思うなら、そういう社会に行くか、新しく作るしかないんじゃないだろうか。

平和に生きてる人たちを脅かしてまで自分を押し通したいと思う人と、手を取り合いたいなんて思わないだろう。

  

からまあ、身内の心情に心をいためつつも仕方ないよな、なんて思う自分もいて、

なんていうか…罪悪感じゃないけど、申し訳なさを感じたりもする。

  

身体不自由だろうと身内には元気でいてほしいから、

色々人生楽しめるものを用意できるよう、無理じゃない程度にやっていきたい。

無理させてると思わせるのが一番、本人にもよくないと思うので。

  

――――――――

  

そういうわけで(?)

車椅子を押す側として思うのは、優しく見守ってくれる人がたくさんいてくれればいいなと思う。

助けてくれなくたっていい、通り過ぎたって全然良い。

舌打ちしたり、からかったり、邪魔になることはしないでくれれば。

  

こんなん、健常者でも当然のマナーだと思うんで、改めて言うのも変な話だけど。

  

――――――――

  

おまけ

  

これは最近の空しかった話。

テレビの某野外音楽フェス特集を見て「一回ぐらい行きたかったなぁ」と言われた時は「それは…無理だな…」と思った。

  

「そりゃ車椅子なんだから無理でしょ」って当然のように言う人はいると思う。

いや無理なんだよ。そりゃそう。無理なの。物理的に。

かに頑張れば行けるかもしんないけど。知らないけど、配慮もされてると思う。

でも立ち見の音楽フェスに行くというハードルそもそも高い。そこに行くまでの道程ハードルも高い。

立ち見だから見るとしても多分後ろの方でしっとり見るしかない。車椅子にぶつかると怪我させちゃうだろうし。

何より、身内と自分の体力や精神力が持つとも思えない。

そういったリスクをひっくるめて考えて「無理」となる。勿論フェス非難してるわけではない。

  

でも行きたいなって気持ちは誰にだってわくもんだし。

「金がないから無理」とか「忙しいから無理」とかと違って、「車椅子から無理」は本人にはどう努力もできない「無理」だ。

から「行きたい」じゃなくて「行きたかったなあ」になる。

  

介助人としては軽く「え!行きたいなら頑張るよ!」なんて返したりするけど、身内は難しいことを知ってるから、何も言わずに首を横に振る。

  

こんな無力なこと、ある?

自分はまあ行こうと思えばいつでも行ける。

身内はこの先あの景色体験することはないんだ。と思ったら無性に悲しくなった。

  

――――――――

  

やっぱりあんまりまとまらなかった。

食べ放題はお祝い事で行くところでないのでは

妹の誕生日にどこかに食べに行こうかという話になったのだが、私はその選択肢食べ放題を挙げることに賛同し難い。食べ放題というシステム個人的に嫌っているというわけではない。むしろ自分の好きな料理だけ、自由にたらふく食べられるし、欲望に塗れた和洋中と料理サラダボウルアメリカ?)と化した自他の皿を見ながら食事にできることが長所だなあ考えている。お祝い事というのは会話などのコミュニケーションで会食ベース雰囲気であることでお祝い事の機会となるのではないか 会席料理だとかフランス料理は、(私はまだ人生で数えられるほどしか経験したことがないけれど)、皆が同じペースで食事を進めていく丁寧さ、献立料理長の名前が書かれるのが小説作品に作者の名前が書かれるようなストーリー性と感情を帯びていて、こういう機会にぴったりの選択肢ではないかなあと考える。結局のところ私個人食べ物研究的になって嘆美を見出すことに楽しさを感じているだけだなあと 食事ってその人のバックグラウンドとかでその人ごと普通基準があるから面白いね〜

anond:20240317164959

イオンシネマグランシアターに車椅子区画がないのがそもそもの原因

みたいな人が存外多くて辟易する

グランシアターは各種割引が効かない

何でかって、そこでの視聴体験を売っているか

それはリクライニングする高級素材を使ったシートなどに価値を見出す人用の空間

そこに、シートを切り取った空間を設けて、車いすでどうぞとやっても価値がないんだよ

それじゃあとリクライニングする車いすを準備?

本末転倒だよね

それに乗り換えるくらいなら、シートに座るよ(実際そうしてた)

もうとにかく、この議論に関わる人のほとんどが

まるで、障碍者対応が出来てない設備を叩くかのようにドヤ顔意見するんだが

お前らは議論のスタ-ト地点にも立ってないんだよ

邪魔から消えて欲しいんだよ


これは、健常者用に用意された特別設備について

どこまで障碍者対応すべきなのかって話だ

自力での姿勢制御が難しい人にも、安全装置ガチガチにした過剰設備にして4DX解放するべきか?

と言った話


個人的グランシアタ―は、事前連絡ヘルパーの予約が必要費用が掛かります(同行介助者がいれば免除)って言ってしまえと思うんだよ

別に福祉施設でもないんだしさ

雑なプリキュア

マリみてアニメ好きになった。同時期に始まったプリキュアは一度も見たことがなかったが、プリキュアおじさんなる存在は耳にしていたし、

当時はプリキュアおじさんを「自分の道を貫き通すかっこいい存在」とさえ思っていた気もする。

それから20年。娘が3歳になり、なんとなくプリキュアスカイプリキュア)を見せたところ「かわいい!」と大喜び。

「これ……もしかして自分プリキュアおじさんになるかも……」と世にも奇妙な物語笑うセールスマンみたいな展開になると思いきや、全くハマらなかった。

子供向けによく作られたアニメだなと感心はした。変身バンクOPEDキャッチャーOPは難しいが)さや、EDで各キャラダンスを促す演出など、娘は大喜びだった。

キャラクターの造詣も男性好みの萌えではなく、りぼんよりのビジュアルで、スラっとしたモデルの様な体形も現代的だなと感じた。ルッキズム助長するような気もしたが(これはきっと親になったことや、年齢のせい)。

大人でも一定数好きになる人はいても、スカイプリキュアを本気でかわいいと思っている大人は割とガチロリコンなのでは?と思うのは考え過ぎだろうか。

最終回を見終わった後、娘は「もっとプリキュアみたい!」とせがんできた。アニメ好きではないがレトロ好きな妻が「一番最初から見てみたら」と提案してきた。レトロアニメにも適用されるのかーと、娘とふたりはプリキュア第1話を見た結果。

父ちゃんは心が躍った。キモオタだった頃の気持ちが少し蘇ったと同時に納得した部分もある。

これは何の裏付けもない個人的意見だが、ふたりはプリキュアスカイプリキュアと比べると女児向けというよりもろアニメオタク向けの作りだった。

EDにはフッフーと合いの手が入っているし、時代もあるがキャラクターの造詣ももろ90年台アニメ雰囲気であり、演出も含めおじさん受けしそうな内容。

思うにこの時はまだ女児向けアクションノウハウ確立されておらず、制作側もある程度オタクの層が見ることを想定していたのではないだろうか。

スカイプリキュアがプリキュア第1弾として今始まっていたら、恐らくプリキュアおじさんは誕生していなかった様な気がする。

ふたりはプリキュアを見るに、プリキュアおじさんの誕生必然的だったんだなと感じるが、3歳の娘の親になった今、もしプリキュアイベントに行って同年代のおじさん達が盛り上がっていたら、

気持ち悪くはないが怖いと思うだろうなーと、ゲッチュウ!らぶらぶぅ?!を聴きながらここに記す。

父ちゃん美墨なぎさストライク過ぎて本当にプリキュアおじさんになりそう。

納期の決め方

基本的に依頼した側が決めるものでは…ないのか。

[方法1]

依頼側から「どれくらいかかるか?」を請負側に尋ねる

 ↓

請負から納期回答

 ↓

依賴側「じゃあそれで」

[方法2]

依頼側から「いついつまでに完成してほしい」を請負側に伝える

 ↓

請負からかひかいとう

 ↓

(可能場合)

依賴側「じゃあそれで」

(不可能場合)

双方で再調整

どちらかでいうとどちらがスタンダードなのだろう。

(もちろん他にも様々な決め方があるのだろうけど)

個人的方法2が自然と感じるのは、私自身が請負側になることが多いからだろうか。

受ける側からすると、いつまでにやってほしいのかを明確にしてもらわないと、今すぐにでもやってほしいのか、後回しにしても構わないのか判断をつけるのが難しくなるし、無理なものは無理と断らなければ、結局依頼側が困ることになる可能性もある。

しかし依頼側からすると、方法1のように相手方に丸投げしてしまったほうが楽で簡単(いついつまでにできると納期回答したではないか…と詰めやすくもなる)だから、そうしたくなってしまうのだろう。

仮に「いついつまでに完成してほしい」が明らかに無茶な納期指定だった場合、(無理な納期を設定したという意味において)悪者になりたくないだろうしな。


周りに納期を決めない(尋ねても曖昧言動に終始)人間が多く、最近違和感モヤモヤの一因である

Xで流れてくる漫画

最近のXでは「途中の場面ページを1ポスト目の画像に添付する」というスタイルをよく見かけるようになった。

この手法自体SNSにおいて閲覧者の目をひくための流行りの手段なのだろうと思うので作者の自由だし、好きでも嫌いでもない。

ただ、その説明記載していない人が大半のため何気なく1ポストから順に読むと話が繋がらずなんだこれ?となりがちになる。

特にそのポストに(1/5)というふうにページ数表記をしていると、「ストーリーの冒頭」のように誤認する。

たまに(0/5)のように記載する方もいるが、それだけでは説明不足ではないかとは少し感じる。

「途中の場面を1ポスト目の画像に添付する手法」がSNSにおける流行りの手法ぽいこと認識しているが、「当たり前の大前提」ではないと思っている。

そもそも画像ポスト順が正しいのか間違っているのかは閲覧者にはわからないので、意図的掲載順なのかどうかもわからない。

たまに読みづらくて読む気をなくしてしまう事もある。

SNSで流れてくる漫画は、普段なら読まないようなものも気軽になんとなく読んでみようという気持ちになるのは良いところだと思う。

だけどその分、離脱もしやすいなと個人的には感じている。

慣れと言われればそれまでだけども。

実際のところ、あの手法の方が閲覧数を稼げているのだろうか。

漫画に限らずSNS運用の大半は、情報の発信側と受信側で心象が異なるのだろうなと思う。

自分では検証しようがないが、気になるところではある。

anond:20240318133305

知能の話であってお前の気分なんかどうでも良いんだわ

バカそうなおじさんの個人的適当こじつけ思想に何の価値もない

大学進学率が高くなると就職難が増える

実際統計取ってないし「個人的感想」の域を超えない話だけど、ひとつの仮説として。

中国では就職難未婚化が加速的に増えてきているという。

この背景には大学進学率の上昇が影響してるんじゃないかと思う。

せっかく大学に進学したのだからこんな仕事はできない、と仕事選り好みするようになってしまうんだと思う。

心理学で言うコンコルド効果っていうやつだ。これまでの投資が大きければ大きいほど損切りできなくなる現象

選択肢を広げるために学歴をつけた結果が、学歴にふさわしくない仕事選択肢から除外するという、なんとも本末転倒な結果になってはしないか

大卒でも専攻に即した仕事をしていない例なんて大半だろうから、なんでもかんでも大卒というのもおかしいんじゃない。

自警団

川口ってそんなことになってるのか。

個人的に、そもそもクルド人憎悪が結成の動機である反社団体と言う印象を受けるし、

やってることは私人逮捕Youtuberと同じなので、警察はさっさと解散命令出すなり、

破防法適用した方がいいと思う。

anond:20240318082349

そもそも犯罪ってなんだ

社会的もの政治的もの

そこに反して得られる個人的利益

現状、社会適応的に反社会的役割をこなして福祉刑務所)を得るのが犯罪っぽい感じはある。

あるいは被差別者がその不利益を取り除くことか

一般民衆にとっては

anond:20240316120035

漢字を読めない。

漢字を学ぼうとしない。

そういう奴は信用するなと高校先生に言われた記憶あるけど本気でそう思う。

日常的な漢字読めない奴に過去会ってきたけど本気でバカ

個人的には 字 が汚い奴は信用しない。

そんな俺わ書道初段。

2024-03-17

anond:20240317182714

最前列車椅子席があるスクリーンは極々少数派

最前列3列とかそれ以外に分かれててそれ以外の方の前列センターにある事が多い

個人的には一番いい席なので使われない事の方が多いから勿体無いなと思う

イオンシネマ問題合理的配慮について

思ったこと羅列

この件について、自分イオンシネマ側の対応問題はあったと思っていて、それは何かと言えば、車椅子を担いで上の席まで移動させなかったことではなくて、障害者当事者と話し合いをしなかったこと。

この件について色々意見はあって、「合理的配慮なんどから、「合理的」でないことは断って問題ないってのは、間違ってないと思う。

から、結果として車椅子を担いで上がるという対応をしなかった(出来なかった)ことについては、決して違法性はない。

事業者による合理的配慮が、この4月から努力義務から義務」になる。ちょうどいいタイミングなので、ぜひ皆に勉強しといてもらいたいんだけど、

https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/sabekai_leaflet-r05.html

この内閣府リーフレットなんかすごく分かりやすい。

結局、コミュニケーション問題なのかなと個人的には捉えていて、

配慮しろって言っても出来ないものは出来ない。

例えば、2階にある店に行きたいかエレベーターつけろって言ったって、めちゃくちゃ金かかるしそもそも間借りしてる分際でそんなこと出来ない。

求められてるのは、そこで、「出来ないです」って無碍に断ることではなくて、対話すること。

エレベーターはつけられないですけど、1階のスペースにテーブルは置けるのでここで食べませんかとか、持ち帰って食べられるようにお包みしましょうか、とか。例えばね。

実際、現場でどんなやり取りがあったかからないので、何も断定は出来ないけど、もし何のコミュニケーションもなしに、頭ごなしに断ったのであれば、それは「合理的配慮」の規定違反していると思うわけ。

以前に、熱海来宮駅での事件があって、あれなんかは個人的には、JR側は十分に「対話」したんじゃないかと思っていて、障害者当事者が「合理的配慮」以上の配慮を求め過ぎじゃないかと思って見てたんだけど、今回はどうだったんだろう。

例えば、本人が、とにかく足を投げ出して映画を見たいんだ、それが主訴だったしたら、「車椅子しかご用意できませんが、足を投げ出せるように、足を載せる小机を用意しましょうか」とかね、

コミュニケーションをとっていれば、出来る配慮もあったのかな、とかね。

それにしても、今回の件の反応を見て、なんか悲しい気持ちになったから、長文書いちゃったよ。

俺ら健常者はラグジュアリー席でくつろいで見る権利はあるけど、お前ら障害者は、車椅子席用意してやったんだけら、そこでおとなしく見てろよ。

これが世論なの。車椅子の人も、同じようにリラックスして映画を見る権利はないの。

イオンシネマ問題合理的配慮について

思ったこと羅列

この件について、自分イオンシネマ側の対応問題はあったと思っていて、それは何かと言えば、車椅子を担いで上の席まで移動させなかったことではなくて、障害者当事者と話し合いをしなかったこと。

この件について色々意見はあって、「合理的配慮なんどから、「合理的」でないことは断って問題ないってのは、間違ってないと思う。

から、結果として車椅子を担いで上がるという対応をしなかった(出来なかった)ことについては、決して違法性はない。

事業者による合理的配慮が、この4月から努力義務から義務」になる。ちょうどいいタイミングなので、ぜひ皆に勉強しといてもらいたいんだけど、

https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/sabekai_leaflet-r05.html

この内閣府リーフレットなんかすごく分かりやすい。

結局、コミュニケーション問題なのかなと個人的には捉えていて、

配慮しろって言っても出来ないものは出来ない。

例えば、2階にある店に行きたいかエレベーターつけろって言ったって、めちゃくちゃ金かかるしそもそも間借りしてる分際でそんなこと出来ない。

求められてるのは、そこで、「出来ないです」って無碍に断ることではなくて、対話すること。

エレベーターはつけられないですけど、1階のスペースにテーブルは置けるのでここで食べませんかとか、持ち帰って食べられるようにお包みしましょうか、とか。例えばね。

実際、現場でどんなやり取りがあったかからないので、何も断定は出来ないけど、もし何のコミュニケーションもなしに、頭ごなしに断ったのであれば、それは「合理的配慮」の規定違反していると思うわけ。

以前に、熱海来宮駅での事件があって、あれなんかは個人的には、JR側は十分に「対話」したんじゃないかと思っていて、障害者当事者が「合理的配慮」以上の配慮を求め過ぎじゃないかと思って見てたんだけど、今回はどうだったんだろう。

例えば、本人が、とにかく足を投げ出して映画を見たいんだ、それが主訴だったしたら、「車椅子しかご用意できませんが、足を投げ出せるように、足を載せる小机を用意しましょうか」とかね、

コミュニケーションをとっていれば、出来る配慮もあったのかな、とかね。

それにしても、今回の件の反応を見て、なんか悲しい気持ちになったから、長文書いちゃったよ。

俺ら健常者はラグジュアリー席でくつろいで見る権利はあるけど、お前ら障害者は、車椅子席用意してやったんだけら、そこでおとなしく見てろよ。

これが世論なの。車椅子の人も、同じようにリラックスして映画を見る権利はないの。

それで上タン何人前までならいいのか誰も答えてない件

[B! 食] 上タンばかり頼んでなにが悪い? 暗黙の了解があるというなら見せてみろ - 関内関外日記

このエントリーに対して「暗黙の了解を守れ」と繰り返すだけのブコメやそれにスターをつける人たちちょっと酷すぎませんか?

goldheadさんは明瞭に書いている。

繰り返すが、「了解」なんてないんだ。心優しく店のことを考えて「3人前」だと思っていたとしても、店としては「1人前も出したくない」と考えているかもしれない。10だと思って5か、5と思って3か。わかりゃしないんだ、そんなもの。暗黙の不毛さで、ただただ言葉に発せられない憎悪嫌悪が広まっていく。

 

空気を読め」とはそういうことだ。むろん、空気が読めなければ生きにくい。読めて当然の空気だろ、という状況もある。が、これは焼肉屋食べ放題の話である。「食べ放題なのだから、好きなものを好きなだけ注文するのが当たり前だ。何度も言うが、それが「当たり前ではない」という人は、同じ意見の側の人たちをも納得させられる数字を出さなければ説得力がない。たしかに「50人前」は過度に見える。見えるが、40はどうだ? 30はどうだ? 10なのか? 5なのか? 空気を読めというばかりで、自分暗黙の了解がわかっているという顔をするだけで、基準一つ出せないのはどういうことか。単に他人を見下したい、良識派ぶりたいというだけではないのか。

  

そうやって、「自分はわかっている」という顔をして、「空気」を読むことを人に課して、その実、自分の中身は空っぽだ。あるのは原始的な反感だ。それも、世間他人の顔色を伺うだけで、「食べ放題で上タンは◯人前だけ頼むべきである」という基準も出せない。

 

そんなものが世の中の空気であって、だれが幸福になるのか。店は上タン食べ放題で食べられるのが嫌だったら、上限を定めるなり、食べ放題メニューから外すなりすればいい。それを明文化すればいい。そこになんの問題がある。それで世の中の風通しがよくなる。クリアになる。世界から憎悪嫌悪の量が減る。違うか?

ていうかタイトルしか読めないブクマカ向けに

タンばかり頼んでなにが悪い? 暗黙の了解があるというなら見せてみろ

とまで書いてくれている。

そこから逃げて正面から回答しないのは不誠実だし現在トップコメの「品がない」に至っては対話放棄した人格攻撃じゃないでしょうか。

ちらほらある「ルール内なら何をしても良いと言うのか!」というコメントも曲解がすぎる。

藁人形論法

 

じつは個人的にはgoldheadさんの主張に全面同意ではない。

最初「50人前も頼むなんて常識的に考えなよ…」と思っていた側だ。

でもこれを読んでハッとさせられた。

しかに何人前までならOKなのか私は答えられないし、そういう「常識」「暗黙の了解」を私たちは別の場面で空気」「同調圧力という言葉批判しているのではなかったか

私は考え込んで黙るしかなかった。

いま言えるのは牛タン食べたいということだけです。

憲法24条が同性婚を「禁止」してるという見解こそ解釈の拡大

実際、増田引用する意見を参照してみ。

赤坂正浩氏は「少数の意見」として現行憲法規定同性婚を含むという解釈があることを認めてる。

樋口陽一氏は、憲法は「革命的」ではないと言っているだけで、同性婚を許容する意見が6割を超え、すでに「革命的」でもない現在に同じ意見が成立するかは疑問。

高橋和之氏も、憲法が「カバーしてない」と言っているだけで、同性婚憲法が許容しないと言っているわけじゃない。

何より、これらを踏まえた政府見解自身が「想定していない」と言ってるだけで、「禁止したものと解することができる」なんて言ってはないよね。

これを踏まえて増田札幌地裁結論を「相当危険だ」と批判してるけど、その批判妥当かなあ?

たとえば

憲法24条1項は文言上両性間の婚姻を定めているが、個人尊重がより明確に認識されるようになったとの背景のもとで憲法24条を解釈することが相当である。(略)

異性間の婚姻のみならず、同性間の婚姻についても、異性間の場合と同じ程度に保障していると考えるのが相当である

社会情勢の変化により憲法解釈を変更すべきとのこと。まぁ分からなくもないが裁判所がそれを言うのはどうなんだろう。

これ。「社会情勢の変化」というのを増田はどうも近年の風潮を指していると理解している節があるけど、こと日本国憲法解釈について言うなら、明治民法との比較において述べていると理解するのが妥当じゃないかね。つまり、「婚姻には戸主の了解必要」としていた家父長制・家族制ベースとした明治民法規定に対して「個人尊重がより明確に認識されるようになった」日本国憲法における第24条の、両性の合意「のみ」という規定は、「結婚する二人以外の人の了解は(婚姻の成立において)必要とされない」という趣旨の条文である解釈することが相当だろう、という意見。この点、札幌地裁見解はきわめて穏当な解釈であり、個人的には十分納得できる意見だ。もちろん、その時点で同性婚が「想定されていなかった」という点については、全く異論はないよ?

でもって、「想定していなかった」事態が起きてきたときに、法の精神に則りどう解釈すべきかと議論するのは、言葉意味からいって「解釈の変更」ではないんだよ。「解釈の変更」というのは、あくまで従来から解釈A」があるのに、それに反する「解釈B」と差し替えようとするようなことを指すんだよね。これは、与党が交代しようが何しようが、国家体制が変更していない限り軽々しく変更してよいものではないはずだよ。近年では、慰安婦問題を最終的かつ完全に解決とした見解を、次の政権であっさりひっくり返した韓国さんの対応とか(あれには呆れた)、あと本邦でも大いに批判された「集団的自衛権」に関する解釈変更が記憶に新しい。あれ、世界各国の状況を理由にした強引かつ「危険」でまさに「ド直球」な解釈変更だったよね。これらについては当然増田同意してくれると思うし、あの時はさぞあれらを批判してくれてたんだろうと思うんだけど。

それに比べれば、「想定していなかった」事態にどう処すべきかというのは、まさに現在の人々の意見見解国際的な潮流、そして立法精神を踏まえつつ、新たに「解釈」を立てるだけのことであって、それ自体はむしろ必要なことだよ。あくま憲法は「想定していない」。同性婚も、それに対する民意の大きな変化も。そして、「想定していない」事態が生じたとして、私たち社会はそれに対応しないわけにはいかない。なぜならそれは、そこに厳然と存在する人一人ひとりの権利に関わる問題であり、何よりそれが憲法の他の条文

日本国憲法第13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命自由及び幸福追求に対する国民権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重必要とする。

バッティングするおそれがある以上はね。

でもって「現在の人々の意見見解国際的な潮流、そして立法精神」を考えた時に、憲法24条をもって同性婚が許容できない、許容しようとする解釈を作るのは「危険」だなんだと騒ぐのは、結局のところ、日本国憲法の条文を勝手に「同性愛差別」に利用しようという魂胆(歪んだ認知)をお持ちの場合だけなのではないかと思うんだ。まあ、増田意見自体勘違いによるものではないかと思うけどさ。そもそも憲法は、国民を縛るものではなく政府に対して国民権利を縛るなよと規定するものだ。だから24条は「結婚第三者意見がいるような法はダメ」、13条は「幸福を追究する国民に、最大限配慮しないとダメ」って条文なんだよね。国民を縛ってるんじゃなく、国民を縛ろうとする政府ストップをかけている。だから、想定されていなかった事態同性婚)に対して、あたか公式見解解釈)がすでに存在するかのようにふるまい、ましてや憲法の条文をタテに国民幸福追求権を阻もうとするなんていうのは、憲法解釈を大いに歪める行為であり、許せないよね。憲法解釈を大切にする増田なら当然賛成してくれることだと思うんだけど。

ただ、札幌地裁も、まだ同性婚に関する国民意識が依然として議論の渦中であることを踏まえて、従来の法が憲法13条に現時点で違反しているとまでは言えない、という見解を取っており、これは増田引用してくれているとおりだよね。個人的に残念ではあるけど、そこにも異論はないんだ。ただ、注意しておきたいのは、判決文に言う国会議論が進まず、同性婚を認める立法が進まなかったことが「憲法違反であることが明白になっていたとはいえない」というのは、当然ながら、国民意識が高まり議論成熟した暁には「(同性婚を妨げる法規定は)明白に憲法違反である」という意見同義なんだよね。この点も、判決文を熟読した増田にはよく分かっていることだろうけど。

から、「憲法24条で同性婚は認められてませんwお前らの大好きな憲法でなwwww」てやるのは、ちょっと完全アウトな行為であり、地裁判決はそういう連中に「御前ら、違うからね?」とまともなツッコミを入れただけ、その程度のものであって大騒ぎするようなものではないんじゃね?ってのが俺の解釈なんだけど。

ま、こんな話、法律専門家らしい増田にわざわざ言うのも失礼な話だったね。いやサーセン

anond:20240316113208

anond:20240317074258

旧帝大Fランで字のきれいさがどれだけ違うのかは気になるな

個人的にはFランの方が字はきれいそう

anond:20240317094854

天皇制事実上容認してるような憲法護憲してる共産党なんてちゃんちゃらおかしいっていう

個人的にはその他変えなくてもいいかもっと変えやすルールにしてほしい

善意アドバイスしてくる人が一番厄介だと思う

服装美容といった個人的な趣向に対する感想を述べてくる人のことである

悪意をぶつけてくる相手だったら、こちらも「敵」認定してそれなりの対応が取れる。

なぜそう思うのか?両者の納得する落としどころはどこなのだろうか?を探れる。

しか善意で言ってくる人だったら、その善意に対してどのように応じるべきなのか、答えがない。

無視するのもアレだし、当然その意見を受け入れることはあり得ないし、聞き流すのが最適なのだろうか。

車椅子飛行機に乗った(ANA)

ユニバーサルサービスの尊さを伝えたい

母が障害者だが事情により飛行機に乗って、付き添った経験

カウンターに着いたのは2時間前、グランドスタッフ対応は早い。

到着空港の状況を電話確認、降りるときエレベーターいるかレンタル車椅子は何処まで使うか、

持ち込み車椅子バッテリーの扱いといろんな質問され、スタッフがいろんなところ電話して調整し、かなり時間がかかったがその間スタッフは2人でいろいろ動いてくれていた。

保安検査を抜けてトイレから出ると、土産物屋を見る暇もなく、もう名前が呼ばれていた(チェックイン開始から1時間半)。

着陸し、降りるのは一番最後だったが、荷物は一番初めに降ろされていたようだ。

タラップ直結ではなく階段を降りる空港だったが、CAが沢山介助に来ていた。

滑走路内を走るバスに乗るこむと予約席という札があり、そこに座り出発。到着してもまたグランドスタッフがいる。


何が言いたいかというととにかく、人人人がいるということ。

そのお陰で、杖を持つことすらできない母も無事飛行機に乗れて遠い土地にたどり着くことができた。

チケット取った時点で電話してるとはいえ現場にはすごい負担がかかったと思う。心から感謝した

"公共"交通機関社会的責任の重みを感じたよ。

炎上している件は、公共か私設かって問題なんだろうね。

法的規制はないにせよ映画館大衆娯楽でありイオンという大企業であるならば、という理屈理解できなくはないし

イオンシネマの運用マニュアルで手伝うべきと書いてあるかもしれない、そうならばスタッフ問題

そうでないのを当然と思っているならば利用者公共サービスに慣れて天狗になってるのかなと個人的には思うわ

いずれにせよスタッフの言い方は酷いし、ネット炎上させるのもなんだかなとは。

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