はてなキーワード: ねじれの位置とは
役割はほぼ終えたと言っていいのかもしれない。もちろん一生見守るという誓いは守るわけだが、そうするために俺が為すべき行動は実際にはもうないのだろう。おそらく道筋はしっかりと見えていて、歩みが早まったり立ち停まったり一旦後戻りしたりするにせよ、彼女はきっと自分の居場所を取り戻していく。そしてその先には俺を嫉妬(なんと醜い)させるような華やかで栄光に満ちた人生が彼女を待っていて、俺は「見守る」という言葉をお題目のように唱えながら、声すらかけられず指をくわえてただ眺めているだけだろう。それはもちろん喜ばしいことだ。彼女の笑顔に優越する如何なる望みも俺にはなかった筈だ。俺が同じ場所に同じ顔で佇んでいることが彼女にとって何らかの支えになった時期があったとして(これもかなりの希望的観測だ)、相も変わらず一歩も進まず立ち停まっているだけの俺が動き始めた彼女にとってもはや価値がないのは当然で、付け焼き刃の知識で興味関心をひいたとしても、それはその場しのぎに過ぎず、むしろ俺と彼女にある隙間を強調するだけだ。もともとねじれの位置にあったものが、彼女が一度ぺしゃんこになったことで、同一平面で交われるかもという傲慢な期待をもったのは俺の愚かさでしかない。これからも心配はするだろうが、それを解消するためには、実際的で効果重視の行動だけが求められるべきだろう。つまりそこに俺の醜い欲は必要なく、彼女にそれを気づかせずに、問題を未然に防ぐ動きだけすればいい。これらすべてに納得していて、ここにある寂しさと手前勝手な喪失感も飲み込んで、なおこのような駄文を垂れ流している。区切りをつけなくてはならない。ただし人生は続く。彼女もそこにいる。明けて今夜は中秋の名月だ。句点の置き場所を、見つけられずにいる
ちょっとしたコメントの言葉尻に倫理観が測られうるというスタンスは、社会的ステータスも健全な生活も持ち合わせていない根無草でも有象無象の人間集団の中から己の知性とセンスでいじめられっ子から一発逆転を狙える幻想と同一平面上にあってさ。
おまえらが軽率に解釈違いの人間をブロックしたり、言及するしないや言説の真偽に対して異常なこだわりを持っているのは自分の価値を知的優越性にのみ置いていることから生じている弊害で、現実的課題の解決と社会生活の遂行とは全くのねじれの位置にあることに気付いた方がいいよ。
おまえらの中ではもうとっくに降りたことになっている土俵の上にいる真っ当な健常者たちを直視しろよ。自分の能力の低さを直視しろよ。
いつものメンツで毎晩毎晩「より良いインターネットユーザーであるには」とかなんとか議論するのもやめなよ。
誰も見向きもしないようなサブカル知識の重箱の隅をほじくり回してアレは良いコレは悪いの判断の線引きを行ったり来たりさせるのもやめなよ。
気付いてるんでしょ?それがピントのずれた行為だってことに。薄々わかっていても決定的な事柄に着手するのを遅らせ続けてさ、インターネットでのポジションを維持しようと思って我々は螺旋的に発展してるって自嘲するのもやめようよ。
助けてくれよ。こんなつまらないことばっか書かないと気分が落ち着かないんだよ。情動失禁にすぎない最悪の棚上げ行為をこんな場末の痰壷吹き溜りに書き散らさないと何も手につかないんだよ。もっとちゃんとしたい、海が見たい、人を愛したい。
わかるでしょ。何を言いたかったのかもわからないくらい、心がざわついていて、落ち着かないんだよ。
お前らがコソコソとSNSで気に食わないなと思ってそれとなくぼやかして言及している奴らはこんなに頭が悪いんだよ。
ほわせぷキッズより
具体名挙げてしまって著者には申し訳ないのだが「未来からのホットライン」の核融合炉の施設内部の描写がてんで理解できない。説明が緻密なのがむしろネックになってる感じで、キャットウォークとかトンネルとか配線とかの位置関係が三次元的に脳内に構成されていかないんだよ。本当に上下左右という程度の確度でしか把握できない。
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小説は漫画とかと違ってイメージが押し付けられないのがいいという意見を聞くことがある。個人的にはこれはイメージという単語の前に「自分が気に食わない(特に人物の容姿)」という文言が省略されているように思える。
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想像することって、はっきりいえば単に手間でしょ。小説は想像することを楽しむものって手段と目的が逆転してる感じで、本来は「筋書きを楽しむもの」だと思う。筋書きさえ面白ければ、そして挿絵とかが適切なら、想像しなくて済むのならそれに越したことはない。
くだんの小説も建物の「構造」について図があるからといってイメージを押し付けられたと感じる人は例外的だと思うから、文章で全て言い尽くそうとしないで見取り図ぐらい添付してもよかったと思うんだよね。
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私と同じ考え方っぽい人を二つ挙げとく
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https://modernclothes24music.hatenablog.com/entry/2014/02/21/090746exit
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1514063554/exit
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そしてどうしてもこれだけは抜粋しときたい(5chのレスから)
文章だけで考えてると「この馬はどこから走って来てどこに行ったの?
なんでそんなとこから馬が走ってくるの?」
みたいな変な部分が必ず出てくる
読む側からしてもまさしくそういう感じで、結論としては始点と終点が一致したループだと言っていても、今までも風景の説明から本当にそのことが導けるのだろうかという感覚になることがある。
各部分の描写から全体を統合できない感じで、整合性を認められないことがある。
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前記の小説の施設を見学するシーンでも各区画を主人公たちの足取りに沿って説明していってるのだが、いつのまにか前いたところが主人公達の頭上にあることになっている。
確かにエレベーターで地下に降りる描写はあったけど、上下の関係で足取りが立体交差できるような文章だったか。
区画という各部分の風景だけは十二分に頭に浮かび上がってくるんだけれど、ジグゾーパズルでいうならそれはピースの凹部や凸部があやふやになっている状態にたとえられる。
なのでそのパズルを組み合わせる=建物全体の構造を把握することもできないとなる。これが読後感にもやもやを生む。
そもそも自然言語というものはねじれの位置とか含めた抽象的な位相関係を表現するのに不向きなのかもしれない。
そうでないにしてもせめてPISAとかは単純な論理パズルで読解力を測るんじゃなくて風景の説明文に対して、少なくともこれは与えられている文に矛盾しないという図を選択させる問題も導入してほしい。
ネックが読者側にあるかもしれないかもしれないのにその問題が十分には剔出すらされていないように思われるから。
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「船べりに足をぶらぶらさせていた」文学事典に載ってるような作家の手になる表現だ。しかし「船べりに」とは一体どういう状況なのか。
「船べりで~」であれば人がデッキの手すりでも背にして寄りかかって片足をぶらつかせる風景が想定される。
この話は作家自身の航海記であって大西洋を横断できるような鉄の船の話だから「船べりに」何かをするにはへりは高すぎると思われる。和船の小舟のように足をへりに置けるような状況じゃない。
たとえれば無理に腰よりも高い塀の上に片方の足を足の裏を外側に向けて乗せるイメージでただでさえ不安定な姿勢だから、せいぜいへりをかかとで擦るようなことはできても、重力に逆らってぶらつかせるとは描写として不自然と言わざるをえない。
思い込みで文章を書くとそういうことになると聞いたことがあるから、ちゃんと正確に書いてほしい。
正確に書けば書くほど想像の余地が少なくなるから小説としてつまらなくなる、というものではない。
想像する楽しみと小説の楽しみ方としては二次的なものだとは前にも書いた。限定的で端的な例だが、泥のように眠るという慣用句を小石のように眠るとアレンジすることで生まれるような詩的な妙味を味わうことも小説の楽しみ方の一つだ。
酒などを希釈しないで飲むことを生一本といっても、水で薄めずにといっても、神の創りたもうたままにといっても、どれも全く「希釈しない」という全く同一の事態を指しているうえでにその同一性こそがその描写が正確であることを示す必要条件でもあるわけだが、こうした同義のフレーズが畳みかけられている箇所にも、同じ事態の概念への落とし込み方の多様さに面白みが認められるだろう。
俳句は小説じゃないけれど、あれなどは兼題写真があるのが普通だ。写真というこれ以上なく正確な像を前提としているからといって、そこから派生される俳句の数々に「想像の余地がないからつまらない」と批判する人間がいるだろうか。
むしろ想像の喚起を重視する人のブログとか見ると「容姿の描写ほとんどされてないのを逆手にとってわざと金髪美少女のイメージで読んだ」とか言ってるような人もいて、想像するのを楽しむというやり方は小説をカップ麺の重しにするのと同じぐらいひねくれた本の使用法なのではないかとさえ思えてくるわけだ。筋書きを楽しむ、表現そのものを味わうというのが文句なく一義的な意義であるとすればなおさらだ。
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必要だと思ったとこだけ読み込んで不必要だと思ったところは読み飛ばせばいい、授業だって教師の言うこと全部覚えてない、それと同じだというような人もある。
しかし授業内容と違って小説は内容を問い合わせることができない点で致命的に異なる。
不十分だと思って読み込もうとした箇所も独力では一生かかっても理解できないかもしれない。
作者は思い描いた風景を必死に文に落とし込もうとしたかもしれない。作者は情景を読者と共有したがってる。なのに十分に伝わらない。こんな悲惨なことがあっていいのだろうか。
小説には攻略本もITの専門書にありがちなサポートダイヤルもないんだ。
二重回しとか大島紬みたいな名詞の指すものが単に想像できないとかだったら画像検索すれば済むことだけど、実際に読んでてつまづくことが多いのは文や文章という総体がどういう具象や抽象を指し示しているかとことで、でもこうなったときには打つ手がない。
人工知能は与えられた文章をイメージに接地させずに意味を理解できるが、人間としてはイメージに還元できないことには文章を味わうことはできない。
もちろん読者側の能力の問題かもしれないからそこは見極めなければならない。
先述のようなPISAなどの結果によりそういう能力が不十分と分かれば、出版業界に小説には抽象的な構造に関して図解を挿入するよう働きかけるか、さもなくば教育を刷新するか、そういう判断の指針が得られる。
教育を刷新するというのは単に文章を多読すれば読解力を身に着けさせられるはずだという今の態度が不十分という意味で、一つ文を読ませたらその文が一般的に指し示すことになる図を提示するといった訓練を導入するべきだと思うということ。
単文が示す風景(あえて情景とはいわないでおく)すらもまともにイメージできないようでは複文や文章の指し示す風景もまたイメージできるはずがない。
基礎(単文)を固めることでしか応用(文章)を扱えるようにはならないということではむしろ数学と同じだ。そういう心持で読解の養成には取り組むべきだ。
たとえば百聞は一見に如かずといっても社会生活のうえでいつも文章が指し示す現物を持ってこさせられるとは限らないから、文章をイメージに還元する力は実務的な能力でもあるわけさ。