はてなキーワード: 新人賞とは
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」
http://anond.hatelabo.jp/20111212173754
じゃあ、奥さんに「ゲームのノベライズ」を何本か書いてみるよう薦めてみなよ。
「ゲーマーが面白いと唸る原稿が書けたら、才能があると認めてやる。出来なかったら、フルタイム勤務を探すか、もっと真面目に家事に取り組むか、しろ」と言い渡してやれば?
正直、大手の長編の新人賞取ったって、それっきりの人が出る世界なんだから、15年も前の短編の賞にしがみついてても、得るものは何もないと思う。
本を読むならシェークスピア全集読破して、全部の話のあらすじ書くとか。真剣に努力する気があるのなら、やることはいくらでもある。
1日20枚書かないと本気とは認めない。とか、生活費握ってるのなら、どうとでも言いようがあるだろ?
がんばれ、元増田。
かつてそういう状況だった。日の光にあたると腫れ上がるため、雨戸も開けられない部屋でじっとしていた。
寝ているのも本を読むのも飽きてしまったし(しかも家族に頼まないと手に入らなかったのが面倒くさかった。当時はネット通販なんてなかった)
となるともうひとりの増田のように時間をつぶすに最適なのは、創作系なんだな。
どうせなら暇つぶしに金儲けも兼ねようと思っていたので、最初はクロスワードの応募とかハガキの懸賞なんかに出しては当て、次第に新聞投稿とかで小銭をかせぎ、最後は新人賞などに出しまくっていたので、結局そこから受賞してプロになった。
うん、そうなんだ。すまない。「もしドラ」作者の次回作を期待して買ったと思うが、実はこっちのほうが先なんだ。
でも、この本を見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない 「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
そう思って、このあとがきを書いたんだ。 ついでに俺とこの小説の馴れ初めを聞いていってくれないか。
三十歳を目前にして小説家になりたいと強く願った僕は、まず手始めに四百字詰め原稿用紙にして六十枚ほどの習作を書こうと試みた。
六十枚とした理由は2つあって、
もう一つは、文藝春秋から出ている「Number」という雑誌で当時、スポーツノンフィクションの新人作家を発掘するコンクールが開かれていたのだが、応募規定が六十枚だったことである。
その時ぼくは、「Number」に掲載されているようなものを書きたいと思っていた。
といっても、スポーツノンフィクションを書きたかったのではない。
「Number」に掲載されている記事のようなテイストで、フィクションを書きたいと思っていたのだ。
なぜ「Number」テイストのフィクションを書きたかったのかといえば、その文体に惹かれていたからだ。
「Number」の文体には「Number文体」とでも呼べるような、ユニークな特徴があった。
簡潔でリーダビリティに富みながら、遠く特の修辞法や言い回しによって読者をワクワクさせるケレン味も兼ね備えていた。
それをフィクションに適用すれば、フィクションとノンフィクションの境目が曖昧になる虚実皮膜の魅力を小説に持たせられるのではないかと考えたのだ。
そうしてNumber文体で小説を書くことは決まったのだが、どうせなら内容や分量も「Number」に準拠したものにしようと考えた。
さらには、それを洒落で「Number」の新人賞に応募しようとまで考えたのだが、これは後述する理由で断念することになる。
ともかく、そういう狙いをもってぼくはその作品の準備をし、執筆に取り掛かった。
小説を書こうと思った僕は、自分が好きだった雑誌「Numbers」の文体を参考に執筆を開始することにした。
高校時代、ぼくは拠ん所ない事情から野球部のない学校に通っていたのだが、そこで野球をするには軟式の同好会へ入るしかなかった。
そのため、甲子園への道ははじめから閉ざされており、そのことが、甲子園出場が幼い頃からの夢だった僕にとっては身を引き裂かれるような痛恨事となっていた。
そのため、いつからか「今のこの状態から甲子園に行くにはどうすればいいか」と、その道筋を夢想するのが癖となった。
そのことを書こうと思ったのだ。
題材は、高校野球にすることにした。
書き始めに際し、僕はその夢想の道筋---則ち野球部のない高校が甲子園に出るまで---には、最低でもおよそ十年間の歳月がかかるだろうと見積もっていた。
だから最初は、その十年の歴史をあらかじめ設定してあった六十枚という分量の中で書ききろうとしたのである。
ところが、いざ書き始めてみると予想外のことが起こった。
その夢想を追憶するうちに、次から次へとさまざまなエピソードが思い浮かんで、筆が止まらなくなったのである。
おかげで、予定の六十枚にはあっという間に達したのだが、内容はというとまだ本の一年半分ほどしか書ききれていなかった。
そこでぼくは、方向転換を余儀なくされた。
分量を、当初の予定だった六十枚に納めることを諦め(同時に洒落でコンクールに応募するのも諦め)、この先何枚かかるか分からなかったが、とにかく十年を描き切るまで書き続けようと決めたのである。
そうして三ヵ月が経過した後、ぼくはとうとうそれを書き上げた。
「緻密に選手にクローズアップするNumberの文体」と「10年間の分量を原稿用紙60枚」。どっちもやらなくちゃいけないってのが小説家のツライところだな。
覚悟はできてるか、俺はできてる。
(中略)
とおもってたんだけど無理だった。ごめんてへぺろ☆(・ω<)
するとぼくは、その書き上がった現行に対し、不思議な感慨を抱いた。自分が書いたものであるにもかかわらず、自分のものとは思えなかったのだ。
いや正確に言うならば、その分を書いたのが自分だという実感はあった。しかしながら、そこに書かれている物語が自分が考えたものだとは思えなかったのである。
それはまるで、もとからこの世界に存在していたものであるかのようだった。
いや、もはやある種の「事実」のようであもあった。
ぼくのしたことは、その事実をテキストとして書き起こしたにすぎなかった。
つまり、まるでスポーツノンフィクションの作品を書いたような気持ちだったのである。
そのため僕は、書き方についてはともかく、内容については大きな自信を抱くこととなった。
なにしろ、自分が興味をいだいた事実を取材して書いたような気持ちだったから、誰が読んでも面白いだろうと信じて疑わなかったのである。
そうしてぼくは、これを世に出す算段を巡らせた。
しかし、そこではなんの答えを得ることも出来なかった。
いつまで経っても返事は来ず、そのまま数カ月が過ぎた。
そこで、今度は電話で問い合わせてみた。原稿を送付した出版社に対し、
原稿は届いているか、届いているなら読んでもらえたのか、読んでもらえたのならどんな感想だったのか---それらを聞こうとしたのである。
しかしながら、そこでも芳しい答えを得ることは出来なかった。
何人かの編集者は実際に応対してくれたし、一人は会って話をしてくれたが、しかしやっぱり、前向きな返答を引き出すことは出来なかった。
評価されなかった。
それから、ぼくの苦悩の日々が始まった。三年をかけて、さらに四作の小説を書き、小説家として世に出ることを試みた。
しかし、紆余曲折の末、ついに挫折するに至ったのだ。
その試みを諦めざるを得なくなり、おかげで、それらの作品が出版にいたることはついになかった。
落ち込んだ。
ただし、小説は勤めの傍らで書くつもりだった。
ぼくの敬愛するルソーやゴッホという画家は、絵は売れなかったがずっと描き続けた。
カフカや宮沢賢治も、生前は脚光をあびることはなかったが、死ぬまで書き続けた。
そういう存在に、ぼくもなろうとしたのだ。
立ち直った。
ところが、そんなぼくに青天の霹靂ともいえるできごとが、やがて訪れる。
処女作を書いてから十年後の二〇〇八年、ダイヤモンド社の編集者である加藤++さんから、小説の執筆依頼を受けたのだ。
そこで、ぼくの胸中にはさまざまな物思いが去来した。
思わぬ形で描き上げた処女作のこと、それからの三年間の苦労、さらにその後の勤め人としての生活---そうしたことがぐるぐると駆け巡った。
チャンスがキタ。
ところで真のアルファブロガーま○めさんはいなかったことになってるね
その時、ぼくは決意した。
この作品は、二百万部を越すベストセラーにしようと。
そうしなければ小説家としてのぼくの人生はいよいよ完全に閉ざされたものになってしまう。
あるいは、ぼくの書き上げた「エースの系譜」を含めた五篇の小説は、永久にその出版の機会を失われてしまう---そんな危機感を抱いたのだ。
チャンスに浮かれることなく気を引き締めた。
そうして書いたのが、「もしドラ」だった。
大ヒットした。
それから半年が経過した二〇一〇年五月、講談社のマンガ編集者である村松++さんから連絡を頂いた。
しかし、この時は既にコミック化に関しては別のオファーを頂いていたから、彼にはそれを断る旨を率直に伝えた。
その上で、無碍に断るにも失礼かと思い、何か別の形で貢献できることはできないかと考えた。
その時ふと脳裏をよぎったのは、十二年前の記憶だった。十二年前、あれほど強く世に出したいと願いながら、結局それが叶わず、今もパソコンのハードディスクの奥に眠ったままの、「エースの系譜」のことだった。
これを世に出すことはできないか---ぼくは、会いに来てくれた村松さんにプリントアウトした原稿を託すと、「もしご興味がおありなら、これをコミック化してもらうのはどうか」ということを打診した。
チャンスを活かしてヒットをものにしたら、さらにチャンスが広がった。
すると数カ月後、村松さんからぜひコミック化したいとの返事を頂いた。
それは、僕の積年の願いがかなった瞬間であり、嬉しかったのと同時にホッとさせられた出来事でもあった。
このままこの物語を眠らせておくのは、何よりこの物語に対して忍びないと思っていたからだ。
ところがその数カ月後、さらに思わぬご依頼を村松さんから頂く。それは、これを単にコミック化するだけではなく、小説としても世に出さないかというものだった。
村松さんが言うには「この小説はとても文学的なので、コミック化したときには、表現の特性の違いなどから、この文学的魅力がいくらか薄れてしまうことになる。しかしそれは非常にもったいない。この作品は、物語としての魅力もあるが、純粋に文学としてもとても魅力的だ。それを十全に表現できるのは岩崎さんの書いたこの原稿以外ない。だから、それをこのまま眠らせておきたくはない」とのことであった。
ついに、ぼくの願いは十三年越しにかなった。
そうして「エースの系譜」は、実に十三年という長い月日を経て、ついに世に出ることとなった。その小説版の編集には柴山++さんにあたっていただいた。村松++さんと柴山++さんのお二方には、大変お世話になった。この場を借りて、お礼を述べたい。ありがとうございます。
最後に、この本はぼくの幼なじみである+++++くんに贈るということを、ここに記したい。小学校一年生の時、クラスメイトだった+++++くんの家に遊びに行った折、そこで彼の持っていたマンガ「ドカベン」に出会ったぼくは、たちまちその虜となった。そのことが、後にぼくが野球にのめり込むきっかけにもなったし、マンガや創作活動に対する興味を抱くことのきっかけにもなった。これがなければ、ぼくは「もしドラ」や「エースの系譜」を書いていなかっただろう。++くんが、ぼくにこの物語を書く契機を与えてくれたのだ。++くん、ありがとう。
と冲方は言っている( http://towubukata.blogspot.com/2011/07/blog-post.html )。 文中、むしろ漫画にしてくれた事は評価しているし、出来るだけパクリが可能な条件を出している。原作付けや黙認だって提案している。ただ、彼は立場上それをするわけにはいかないと言っているに過ぎない。
実際、SFはいろんなものをパクったりパロディする事で成り立ってきた。タイトルだけだが筒井康隆の「万延元年のラグビー」だとか「日本以外全部沈没」とかもある。スターウォーズみたいな作品を「スペースオペラ」と言うけど、あれだって西部劇のパロディ。最近話題になった「まどか☆マギカ」だって、既存の魔法少女をパロディする事でなりたっている。だから、SF作家が盗作を許容しないなんてあり得ないのだ。パロディと盗作は違うというかもしれないけど、そんなのは紙一重の差しかない。
結局のところ、盗作が許容されないのは、それが「(金銭的な意味で)関係者に迷惑をかける」からに過ぎない。今時、源氏物語の筋をなぞって新人賞に応募したって、誰も文句を言わない。却って知的評価が高まるでしょう。日本一有名な漫画である「ドラゴンボール」だって、西遊記のパクリなんだし。
そういう意味で、早川の本(SF?)や冲方の作品を読んでいると言っているスクエニの田口とか言う人が「オリジナル」なんて言葉を使っている( https://twitter.com/#!/tah3gucci3cozy3/status/91576660729667584 )のは、明らかな嘘つきか、無知に等しい。彼がここで「オリジナル」なんて言葉を使っているのは、別に創作行為に敬意を払っているからじゃない。新規IPが欲しいからだ。本当に創作を支援する気があるなら、如何にパクって作品を面白おかしくするかに心血を注ぐはずだ。彼が欲しかっているのは、マルチメディア展開できて、かつケチのつかない作品、要するに第二のハガレンが欲しいだけだ。
水嶋ヒロがイケメンでかつ新人賞で対象を取って文芸界に嵐を呼んで匿名掲示板には嫉妬から来る荒らしが頻発したのは皆の記憶に新しいところ。
しかし、全く同じように、女優であり声優でありアイドルシンガーでもあるあさのますみ氏も新人賞を受賞していたという事実をみなさんご存知であろうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/浅野真澄#.E5.9F.B7.E7.AD.86.E3.83.BB.E5.89.B5.E4.BD.9C
「イケメンなのに小説の才能とかあるなんてありえない。チーとに決まってる」ならば、あさのますみ氏に関しても同じことが言えるのではないだろうか? 小学館は、選考の際に実はプロフィールから声優であることを察したうえで賞を与えたのではないか?
今更になってそのような議論が出てこないのが不思議でもある。
もう一度言おう。「出来る奴は何やっても出来る」「ダメなやつは何をやってもダメ」だ。下らんこと考えてる暇があったら、もっと全力で生きろ。
http://blog.livedoor.com/award/result
http://blog.livedoor.com/award/about
スタローンのをlivedoor blog賞に選出するのはライブドアのコンテンツ関連事業に関してのコンプライアンスが相変わらずなってないなあと思った。
ファンサイト自体はぜんぜん悪くないんだけど、複数者で選考しているのに社を上げておもてに出してしまうというのはライブドア側の態度がなってない。
遵法性は、基本的には論評が主で写真が付随していれば引用だとは言い張れるんだろうし、パッケージ等なら先方が言い出さない限り
販売的メリットもあるのだろうからそんなに問題はないんだろうけど、スチルについては疑問。
もともとユーザーサイドは、ネットの現状の状況もあるから権利に関してそれほど遵法性は意識しなくてもやむないが、
サービス者側がそれを押し出すのは違うだろと言わざるをえない。
とある記事のはてなブックマークでその存在を知って、中身が知りたくなったのでミステリマガジンのバックナンバーを借りてきたよ。
そしてその内容が個人的にグッと来るものだったから、メモ代わりに後半部だけをここに書き出してみるよ。
九六年二月、私は、青山ベルコモンズのカフェで言葉を失っていた。狭いテーブルの上に広げられたのは、探偵ミロを主人公にした旧『柔らかな頬』第二稿。付箋が挟まれ、赤字が入っている。対しているのは、新担当編集者だった。彼は、「うまく直っていない」と告げて沈黙した。第一稿が上がった時点で、様々な注文を付けたのは彼だった。複雑過ぎるからもっと単純に、対立を明確に、タイトルを変えろ、等々。エンターテインメント小説の王道を説かれ、何とか努力して改稿した結果がこれなのだ。
私は、紅茶の染みが飛んだ原稿を書類袋に仕舞い、「わかりました。これは捨てます」と言った。彼は、私の反応に少し慌てたようだった。だが、私は周囲のざわめきすら、気にならないほど打ち沈んでいた。誰も見方がいない、これから一人でやるしかないのだ。その思いが頭の中をぐるぐると巡っていた。「これからどうしますか」と問われ、「別の小説を書きます」と意地で答えた。この時、『OUT』の構想が生まれた。行き場のない中年女たちの小説を書こう、と。行き場のない中年女とは、まさしく自分のことだった。
その年は、他の細かい原稿は一切書かず、『OUT』の書き下ろしに専念することにした。どのみち、デビューして間もない作家に、そう多くの注文は来ない。私は、原稿を捨てたトラウマを抱えつも、何とか『OUT』で勝負したい、と必死になっていた。その重圧に押し潰されそうだったし、『柔らかな頬』を捨てたことで、作家としての自信を失っていた。とりあえず、どん底にいる私が発見したのは、恐ろしく単純な事実だった。書くしか生きる方法がない、ということ。そして、それは恐ろしいほどの孤独を生きる、ということでもあった。
取材は多岐に及んだ。井の頭公園バラバラ殺人事件の取材をした記者、ルポライター、深夜の弁当工場、街金。取材対象のアポは、ルポライターを除いて、ほとんど私自身が行っていた。当時、私のような駆け出し作家には、出版社は金も時間も多くは割いてくれなかったのだ。しかし、自分で切り開いた取材先は、得るものも大きかった。結果としてはその方が良かったのである。私は一人で車に乗り、物語の現場と仮定した東村山市に度々出かけた。駅前で描写のための写真を撮り、見知らぬ公団住宅の広場を歩き回って、主婦の顔を見た。頭の中で、雅子や邦子たちが息づき、喋り、早く書いてくれ、と叫んで、今にも爆発しそうだった。
夏までにほとんどの取材を終えてプロットを作り、私は九月から書き始めた。千ニ、三百枚以上の長編になるはずだった。せいぜいが八百五十枚の経験しかない私には、初めての大作だ。ミロシリーズの一人称一視点をやめ、三人称多視点で物語の速度を速め、螺旋状に回すことを決める。十月に二百枚入稿。年末に五百枚。順調だったが、書いている間は他の作家の華やかな噂を耳にして、心が乱れた。一人でパソコンに向かう日々は、実に孤独だ。書くしかない、と思っても、小説の終結まで途轍もなく長い時間がかかるのだ。そのことを考えるとどうしても落ち込んだ。短編小説の注文もぽつぽつあったが、理由を話して断った。その頃の私は、仕事を断ること自体が冒険でもあったから、これでその出版社からは、二度と仕事は来ないだろうと覚悟した。
三月十七日の夜、最後の一行を書いた途端、涙が溢れた。やっと終わった、辛かった、と言葉にすると、また泣けてきた。しかし、ようやく脱稿した私に、厳しい現実が待っていた。初版部数は一万三千部だというのだ。内容に自信があったし、二年越しの仕事だったから、初版部数の少なさは衝撃だった。だが、これが現実だと思えば、やり遂げたという自信を胸に、次の仕事に賭けるしかない。それが作家だ。何とか自分を慰めた時、不思議なことが起きた。口コミで爆発的に売れ始めたのだ。『OUT』は作者の手を離れ、ひとりでに読者の元へ飛んで行ってしまった。
九七年の『このミス』で一位、翌九八年直木賞にノミネート。破竹の勢い、と自分でも満悦だったが、ここから『OUT』の不思議な運命が始まる。直木賞落選。次の吉川英治新人賞でも落選。ようやく推理作家協会賞で長編賞受賞。三度目の正直だった。賞にノミネートされる度に有望視された『OUT』は、その「反社会性」とやらで、メジャーの賞から弾き出されたのだ。そして、その不思議な運命のとどめは、今回のエドガー賞候補である。
『OUT』は、私という作家をブレイクさせてくれた作品だが、同時に、私をOUTな作家にしてくれたらしい。それは、決して王道を行けない奇妙な小説家としての道でもある。その始まりは、旧『柔らかな頬』を捨てた日の、打ち沈んだ気持ちにある。誰も味方はいない、一人でやるしかない、というあの思い。だが、孤独は作家を鍛える。再び、同じ思いをして自分を鍛えたい、と最近思うのである。
以下、チラ裏。
結局は金。例えば桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」。富士見ミステリー文庫版では500円。3年後に再版されたハードカバー版では1400円。さらにラノベはイラストレータと印税が折半になるので1冊当り25円の印税。ハードカバーなら10%で140円の印税。ライトノベルレーベルから出た文庫だと、6冊売れてようやくハードカバー1冊分の印税になる。
「中高生が対象なんだから単価の低い文庫で出すのは当たり前」って言う人もいるだろうけど、でもラノベ界で一番売れている(という言われている)西尾維新の主戦場は、単価がやや高い講談社ノベルスやハードカバー並みの単価の講談社BOX。これを考えると、文庫が主戦場だったのに長者番付の常連だった神坂一て、ものすごい売れてたんだなって思う。「文学少女」の野村美月ですら未だにバイトしているっていうし。
さらに一般文芸作家には文学賞がある。直木賞・吉川英治文学新人賞・山本周五郎賞・推理作家協会賞、あと純文学では三島由紀夫賞(芥川賞はラノベ作家には本当に関係に無い文学賞なので除外)。これらは賞金が出る上に、受賞すると普段本を買わないような人まで買ってくれる効果がある。ラノベもアニメ化すれば同じような効果があるだろうけど、深夜アニメと直木賞、どっちが効果があるかは自明だろう。
さらにこれらの文学賞を受賞すると、地方から講演の仕事が舞い込む。これが1時間ぐらい話すだけで100万円ぐらいもらえるというからバカに出来ない。また、ある程度キャリアを積めば新人賞や各文学賞の選考委員になれて、それも収入源となる。純文学系の老作家の主な収入源はそれ(メッタ斬りコンビや福田和也が批判している、大作家の福利厚生)。残念ながらラノベには、まだそこまでのシステムはない。
角川スニーカー文庫が創刊してもう20年以上経つけど、創刊からずっと書き続けている作家ってどのぐらいいいる?50代で現役のラノベ作家は?しいて言えば、田中芳樹が現役といえなくもないけど、彼は遅筆というよりも才能が枯渇しているせいでまともに小説を完結できなくなっているように見える。
資料をあたる能力と知識が必要なファンタジーやSFならば、ある程度年をとってもかけるだろうけど、今日日流行の学園モノって40過ぎたおっさんおばさんが、主要な読者層である10代の若者が納得するように書けるんだろうか。ここ数年で一般文芸に転向した作家たちは、皆1970年代生まれ、いよいよ「若い感性」というライトノベルにとって必要なものが喪失し始め、小説的技術を身につけた作家が転向しているんだと思う。そういえば、2年以上発売延期している谷川流も70年代生まれだった。多分彼もラノベ界を去るつもりなんだろう。
以上、思いつく限り。
年間にラノベ新人賞に応募する人間の数が5000を下回ることはなくて、受賞したり拾い上げられてデビューするのはその中の1/100くらい。
まぁこれの上位よりはマシってくらい。
http://2chreport.net/com_88.htm
中学のときの受賞歴なんて過去の栄光だってのは言われなくても分かってるはず。
見込みのある人間はあちこちに応募してるとどこかしらに引っかかるんだよ。
受賞にしろ拾い上げにしろね。
応募するレーベル絞ってたのなら広げてみれば可能性は広がるだろうし、片っ端からだったのなら見込みがないということ。
それぞれの賞に応募する作品を用意してから片っ端に応募してごらん。
落ちても選評をもらえたのなら、それを反映して別のところに応募する。
記念受験じゃない限り、こういうのは大体2年もあれば結果が出るよ。
頭に浮かんだ話を漫画や小説にするのが楽しくて、続きや新作を期待するクラスメイトたちに囲まれ、満たされていた毎日。
しかし、中学校に入ると、次第に周りから人が減っていった。
ジャンプやサンデーやマガジンの連載漫画の話はしても、それ以上の領域はダサいオタク趣味として皆敬遠し始める。
他にも、部活やら定期考査やら、小学校とは大きく日常が変わったというのもあるのだろう。
わざわざアマチュアかそれ以下のものを作る人間を取り巻き、もてはやす必要も、暇もない。
思春期を迎え、他人の価値や能力を認めるのは自分の価値を下げることに繋がると、特に同年代に対して無意識のライバル心を強く持ち始めていたというのもあると思う。
結局、漫画や小説が書けるというのは、かけっこで一番早いとか、新幹線の停車駅を全部言えるとか、皆より少し秀でていたり、特殊な技能を持っていることが羨望の対象だっただけ。
小学校の頃はクラスないし、学年や学校や遊び場が僕らの「世界」の全てだったからこそ、ナンバーワン、もしくはオンリーワンでいられただけでしかなかった。
僕らにとっての「世界」が一気に社会というレベルにまで広がり、色々なものをその基準で相対的に見るようになると、一気にその価値は暴落した。
中学校でも、最初こそ、小学校時代からの縁で僕が何かを書いているのを見て集まる人がいることに鼻の穴を膨らませていた。
僕は常にみんなの中心にいて、同年代の中の絶対的な勝者、そこらの奴とは違う特別な人間だと優越感に浸っていた。
でも、いつしか周りにいるのが特定の数人だけになっていて、女子には遠巻きに見られ、自分が中心にいるグループと他のみんなとの間に物理的にも隙間があることに気付かされて、激しく動揺した。
ゼロではないとはいえ、自分の周りから人がいなくなったのは凄まじい衝撃だった。
僕の書くものは僕自身であり、その変化は「お前という人間の価値は実は大した事がない」と宣告されたようなもの。
以降、隠れて授業中に書く以外、文芸部でだけ活動するようになった僕は、先輩や顧問に褒められることを根拠に、「自分は人とは違う」「自分は優れている」と思うようになったのは、単なる現実逃避だったと今では思う。
分かる人は分かってくれる、分からない低脳なんて無視しろ、僕は才能があるんだと、ことあるごとに自分に言い聞かせていた。
天才と言われる人種はもっと早くからだろうけども、そうでなくとも中学くらいになると、その「才能」より秀でた結果を出す人間が現れる。
それは必ずしもスクールカーストの上位に位置するわけではないだろうけども、少なくとも「才能」によってある種のヒエラルキーの上位に認識される現実が、僕の絶対的な価値観になっていた。
だからこそ「才能」を裏付けるために、小学校の時のような「人気」ではなく「権威」を求めた。
その人たちに認められるのがすなわち自分の「才能」ゆえだという思いは、市が募集しているジュニア文学賞を取るに至ってピークに達した。
そして、三年生に進級して先輩がいなくなる頃、自分は先々文芸で社会的に認められるのが当然の人間だという意識しかなかった。
ネタを探したり、物語を書くために読んだ本のせいで色々と得た雑学のお陰であちこちで博識キャラで認識されたことに気をよくし、哲学書に手を出してみたり、感想や校正を求める後輩に偉そうに指摘して批評していたあの頃の思いあがった黒歴史は、今でも時間を遡って殴りつけてやりたいと思えるほど酷い。
そして同時に、オタク趣味も変わらず持っていたため、あとはよくあるワナビ街道まっしぐら。
ラノベの世界を知り、自分なら簡単にこの作者たちを追い抜ける、もっと素晴らしいものを書ける、と当然のように思っていた。
小学校からやっていた自分は一日の長どころではないものを持っているのだから、市の文学賞を取ったくらいなのだから、と。
設定を細かく決め、物語を練りに練った自称大作を、高二の頃に自信満々で応募。
「大賞受賞作」の帯とともに書店に並ぶ光景と、「高校生作家」の響きを頭に思い描いていたところに届いたのは、落選の知らせだった。
ふむ、何が拙かったのだろう、ライトノベルに自分の書くものはそぐわないのだろうか、もっと大衆向けを意識しなければならないのだろうか、ファンタジー王道のあの作品やSFのあの作品は、などと思いながら二つ目を書いて応募し、また落選。
受験をはさんで数年それを繰り返してことごとく撃沈し、完全に自信を失った。
それでも諦めきれなかったが、どうしようもなく煮詰まっていた僕が次に逃避したのはネットに投稿される二次創作小説だった。
その頃はまっていたアニメの二次創作を書いて投稿すると、知らない人から感想メールが来て、そこに並ぶ褒め言葉に感動。
次第にその数が増え、アクセスも増え、いつしか小学校の頃の自分に戻ったように感じていた。
僕が書くものを楽しみに待っている皆がいる。
僕の書くものを褒めてくれる、認めてくれる。
さらに、そのジャンルから本職の作家になった人もいるということが希望と自信になっていった。
まさかの縁で、本職作家さん(ラノベではない)とも知り合えたとき、もはや自分の中ではそのジャンル内での本職デビュー最有力候補の気になっていた。
やはり僕には人に認められるだけの才能があり、その縁で更に素晴らしい才能を持つ人とも知り合う事ができたとまた増長していた。
その頃、二次創作作者の中で中堅キャリアの良作作家という評価を得ていたことから、そろそろ頃合いだと思い、「僕がその実力を認める作家仲間」に声をかけて、また新人賞に応募。
そして見飽きた選評。
受賞した人の出版された作品を読んでみると、自分の応募作がそれらに比べてそこまで劣っているとは思わないし、自分のほうが上だと思うものも珍しくない。
何故落選なのか分からなかった。
知人の本職の先生にも度々話を聞かせてもらって参考にし、応募した仲間うちでも互いに批評と推敲を重ねたのに何故なのか。
それで何かがふっと切れた。
今年はどこにも応募していないし、そのつもりもない。
ワナビ熱が冷めてしまったということだろう。
今でも書くことは好きだ。
でも、素人文芸の枠でいきがってるのがせいぜいということなのだと思う。
「僕が認めた二次創作作家仲間」ではない人が、件の先生に声をかけられているらしいという噂を耳にした。
僕と同じように「中堅キャリアの良作作家」と言われていたその人は作家志望ではないはずだった。
そのアニメ好きが高じて趣味で二次創作文芸をしているだけで、創作を始めてまだ数年、オリジナルを書いた経験がなく、二次創作の発表作品数も僕より少ないというのは聞いている。
読書もあまりすることがないらしいのに何故なのか全く分からない。
マンツーマンで数時間色々な話をされ、数年中にデビューしろと言われたらしい。
僕はお願いして時間を取ってもらい、軽く話を聞かせてもらっただけである上、そんなことは言われもしなかった。
「才能の差でしょ」と妹に言われたけれど、多分そうなんだろう。
度々思い上がり、叩きのめされ、浮上してまた思い上がり、を繰り返しているだけだった自分には、「天性の才能」なんてただの夢物語だった。
それが本当に誰しもが夢見るだけのものだったならよかったのに。
「才能」という言葉、それが表すもの、僕も欲しかった。
わたしがワナビの友人二人を見て気付いた事を書いてみる。
わたしとワナビ二人の簡単な紹介。
「わたし」……大卒の社会人二年目。最近ほとんど読書してないや。
「アズサ」……ワナビの友人その一。大学三年生。ライトノベル新人賞への応募経験無し。
「イルカ」……ワナビの友人その二。会社員。つーか会社の同期。ライトノベル新人賞への応募経験は四回で、一度だけ一次通過。
で、本題。
まず二人に共通しているのは、自身が「ワナビ」である事に満足している、という事である。
「小説を執筆して、作家目指してるオレカッコイイ!」と思い込んでいるというか、
自分に酔っているというか。
アズサの場合。
バイトしながら小説を書いているのだが……どうやら大学にあまり友達がいないらしい。
さりげなくその事に触れると、アズサは「オレ、執筆で忙しいし」「バイトあるし」と言うのだが、
それを聞くたびに「大学で浮いてる事の言い訳なんじゃ?」と思わざるをえない。
そんなアズサが一度も新人賞に応募した事がないのは何故か?
……単に最後まで書き上げる事ができないだけで、
「書く→それを書き終える前に別のネタを思いつく→そのネタで書き始める→また別のネタを思いつく→書く」を
繰り返しているとの事。
正直呆れました。
最後まできっちり書き切る事って結構大事なんだと思った。
途中で放棄する事はいつでもできるけど、
完成させる事はやっぱり難しいんだろうね。
今書いている物がつまらない、今いちテンションが乗らず書けなくても、
とにかく最後まで書く事が必要なんじゃないかな。アズサの場合。
完成させたからこそ見えるもの・わかる事ってきっとあるでしょ。
「やっぱこれはクソだわ。吐きそうになるくらいつまんねええええ」でもいいし。
「とりあえず完成させた」=「一本、小説を書く事ができた」という自信が次にも繋がると思うんだ。
一度でも書き上げた人と、一度も書き上げた事がない人では相当差があるんじゃないかな。
一度だけ、一次選考に通過してしまった事がイルカの失敗だと思う。
イルカを見ていると、それで満足してしまった感がある。
一次に通過――つまり、一応は認められてしまった事が勘違いに繋がってしまった。
「オレが本気出せば賞くらい取れる」とか。
また、イルカの場合、書き上げた事・完成させた事は良いのだが、
応募したあとに「いや、今回は時間なかったし」「後半駆け足だったしなあ」と、
言い訳しまくる所がマイナスポイントだった。言い訳するのはアズサも同じだが。
「お前はもしデビューしたあと、つまりプロになってもいちいちそういう事言うのか?」と
心の中で突っ込んでしまった。
落ちた時の言い訳(保身っていうの?)ばかり考えていて、
実際に落ちた原因がまったく見えていない気がする。
二人共「書いていればいつか賞取れるだろ、作家になれるだろ」という、
そもそもさ、受賞さえすれば……デビューさえすればなんとかなると思ってない?
あなた達が憧れて読んだ、先人達と戦わなきゃいけないんだよ?
あなたの書いた本と、あなたが尊敬する作家の本が同じスペースに並べられるんだよ?
デビューする事しか考えてないから、その先がまったく見えていない感じ。
野宮が「目先の千円札を拾いに行くつもりはねえ。オレがチームを引っ張るんだよ」とか
言っていたけれど、
ワナビにもああいう気持ちは必要だと思う。
「オレがライトノベル界を変えるんだ!」とか。
「ハルヒ? シャナ? 禁書? オレの本が一番おもしれーの!!!」とか。
もし新人賞受賞したら、言ってほしいね。
受賞時のコメントでそういう事を堂々と宣言してくれたら……、
おそらく今のままでは二人とも受賞するのは難しいと思う。
仮に何年か経ったあと、ワナビを辞めた二人が当時を振り返ったとしよう。
アズサは……おそらく触れたがらないだろう。
そもそもワナビだった事を思い出さないっつうか。
アズサの中で苦い思い出として残る事にはなるが、それをわたしと語ったりはしないだろうな。
イルカは「まあ一応、○○大賞で一次選考通った事もあるんだけどね」が口癖になりそうで嫌だ。
ワナビってさ、
みんな危機感が足りないんじゃないかな。
「まあ今書いているものがダメでも次があるし……」と、
何処かで甘えちゃってる(言い訳を用意している)から
今執筆しているものがぬるいんじゃないかと。
〆切に間に合わなくてもヘラヘラしたりね。
「生涯最後……もし今書いている作品がダメだったら、作家を目指す事は諦める!!!」くらいの気概をもって、
本気で書いてみたらいいんじゃない?
覚悟が足りない気がする。
アズサやイルカと接していて、〆切に間に合わなかった時の言い訳とか聞いててうんざりするもん。
そんなわけで。
惰性で書くなら足洗いなよ。
あるいは。
趣味で小説を書いてみたくて、小説作法本を何冊か買ってみた。別に新人賞とかを狙ってるわけじゃなく、同人誌で出せればいいや、程度にしか考えてないんだけど、どの作法本を見ても新人賞を意識した本ばかりだった。
もちろん、作品を作るにあたって参考にはなるし、同人とは言え、質の高い物を作りたいとは思うから、新人賞を意識していてもそれはそれで構わないのだが。
作法本を読むと、たいてい、小説のコンテンツ不足について書いてあったりする。だから新人賞に応募して新人が新しいコンテンツを送りだしてもらいたい、とかなんとか書いてある。激のような文ですな。
本屋に行けば、これでもかってほどライトノベルは列んでいるし、コンテンツ不足は本当なのか?と思ったりするわけだけど、実際、自分が買って読む「小説」は減る一方なのも事実。
先日、作法本を書いている出版関係者に会う事が出来たので、その辺の事を聞いてみた。
「本屋に行くと小説の作法本がいっぱい置いてありますよね。そんなにコンテンツ不足なんですか?」
「いやいや、そうじゃなくて、小説作法本って売れるんだよ」
……。
あ、そう。そんなからくりだったのけ。
http://anond.hatelabo.jp/20100405171419
こういう記事ってすごくありがたい。新人賞に応募する前に、応募規定を守る、推敲する(他人に見せる)なんて当たり前の話なんだけど、改めて下読みした人の話を聞くと感慨深い。
年代的にスレイヤーズ好きなので、例に入ってるのも面白かった(編集部のコメントは私も読んだ記憶があるのでなお更)
そして関連して思い出した話題。
以前友人が新人賞(ラノベ)に出すというので推敲を手伝ったことがある。
辛かった。
疲れた。
でも勉強になった。
当たり前だけど素人が書いているお話なので、面白いか面白くないかって言ったら、面白くはない。批評するにしたって「つまらない」とは言えないし(プロット段階ならまだしも、全文できてる状態で言っても意味ないし)だからどこをどうすれば「面白くなるか」「キャラが立つか」「物語が破綻してないか」ってのを考えながら推敲するわけだけど、これが勉強になった。
全部で5、6回…?指摘→修正→指摘→修正。を延々とやった。
頭痛がしたけど、やって良かったと思う。「面白い物語の作り方」がなんとなくイメージできた。
ということで、新人賞に出す予定の人は、友人に推敲を頼んでみてください。
批評されても怒らないでください(はっきり言ってくれるのはありがたいことです・言うほうだって勇気いるんだから)
推敲を頼まれた人は自分の勉強だと思って、快く引き受けてあげましょう。物語が徐々に洗練されていく様は結構楽しいです。
元増田の人、有益な記事をどうもありがとうございました。
俺なんかに落とされた人、ご愁傷様と言いたいところだけど、
駄作が残ることはあっても、傑作が落とされることはないって言葉は本当なんだと実感したよ。
その上で感想。
勘弁してくれってパターンをいくつか。
小説の書き方とか応募の仕方なんてサイトに載ってることばっかりだけど。
1.応募規定を読んでいない
問題外。
場合によっては最初からそういうのは下読みにも回されないらしい。
必要なものが揃ってないのは、テストで名前書いてなかったら0点というのと同じ。
逆にプラスアルファされてても、それは規定にない「余計なもの」であって加点対象じゃない。(ぶっちゃけただのゴミ)
設定帳(イメージ画)付属、というのは、登場人物のイメージや世界観などの設定を本編で読者に理解してもらえない、勝負できない作品である証拠、としか見られない。
大抵、物語開始直後から設定説明の地の文が延々入ったりして読む気がしないパターンとセット。
(設定帳やイメージ画がなくてそのパターンのものも珍しくないけど、特に興味のないWikipediaの項目を読まされてるようで苦痛)
2.推敲なし(としか思えないもの)
誤字脱字とか、てにをはの明らかなミス(修正し損ね)程度はスルー。
そういうのを除外しても本当に多い。
なんで推敲しないんだろう。
応募前に誰かに読んでもらったりしていれば、少しは違うはずなのに。
あと、そもそも基本的な作文の作法守ってないとか。
特に、知らないとか間違っているというものは問題外として、わざとやってるらしい人。
そんなところで独自性出そうとしなくていいから。
独特の文体、と思ってるのかもしれないけど、文章作法守ってないのは単に知らないだけの人と同類にしか見られないからね。
作者の特徴ではなくただの邪気眼、失笑されるだけと思っておいてOK。
3.文体その1(人称、物真似)
2.と合わせ、「お前、逃げで一人称にしてるだけだろう」ってものが多い。多分間違ってないと思う。
影響を受ける作品はあるだろうし、今時の流行のスタイルを狙ってというのもあるだろう。
でも、異様なまでの似非キョンと似非西尾維新率の高さを見ると、お前ら単に自分のスタイルが出来上がってないだけなんじゃないか、と感じてしまう。
何でも最初は人の真似から入るものではあるけども、それって習作って言うんじゃ?
複数応募してくる人に特に多い。
こっちは~真似てる、こっちは~真似てる、とか。
それから、逆にスレイヤーズのスタイル(テキスト弄り系)を未だに踏襲してる人。
最近出版されているものの中にも、あのスタイルの作品は確かにあるけど、新人賞ではもうありえないってよ。
確かに初見の若年層にはインパクトあるだろうし、テクニックと言い切られてしまえばそれまでではあるんだけど。
スレイヤーズ第一巻(古いほう。新装版は知らない)の編集者コメントだったかなんだかのページでも「やったもの勝ち。このスタイルのものが賞をとることは今後ありえない」と明言されてるのを俺も見たこと覚えがある。
(少なくとも富士見の場合はってことだし、十何年も前の話であることを差し引いても、今は応募作品のスタイルとしてありえない)
4.文体その2(独り善がり)
俺の担当になった応募作品の中にはなかったけど、当たった人から聞いた話。
文章表現に悪い意味で拘ってる(ブンガクしたい)らしい人が時々いる。
単体の文の言い回しに拘り過ぎて、個々の文の見てくれはいいけど、読みづらいだけであることが殆ど。(似非西尾維新もこれに当て嵌まるのかも)
カッコイイと思う文章、芸術性を見出そうとするのはいいけれど、エンターテイメント性を損なってたら本末転倒。
ちゃんとした文章だから一次はまず間違いなく、二次も大方通るだろうけど、三次であっさり蹴られる。
要は文章にしか目が行ってなくて、内容(ストーリー、テンポなど)がつまらないわけだから、他に持って行っても結果は同じ。
自分の文章のほうがうまいのに、何故あいつが受賞するんだ、と言っている高尚厨が必ずいるが大抵このパターン。
大抵同じタイプの人間で群れて他者の文章を貶し、互いのセンテンスを褒めあっている。
娯楽小説として面白くないのに気付いてない。
色んな人の作品読めて面白そうだからやってみたい、とか思ってる人、やめといたほうがいいよ。
ストレス溜まるだけだから。