はてなキーワード: 中学校とは
橋下はこの一回の議論で負けたらお金も地位も名声も失うというスタンスで臨んでいる。
相手の勉強をし、データを整理し、バックアップ体制を固め、どうやったら強みを全面に出せるか、弱みを隠せるかの作戦を立て、闘いに出ている。
弁護士スゲーと思わせるところがある。
他方、相手のやる気のなさ。
まず第一に、相手を甘く見てる。
というような序列が頭の中にあって、橋下は政治家ではなく民間人にカテゴライズされてる。
という意識がある。
それに、議論に負けてもまったく痛くない。
反橋下派は、反橋下派のグループ内で生きているので、仲間内での評判さえ落とさなければ痛くないのだ。
たとえば君が代日の丸反対派の中での序列は、どれだけ君が代日の丸を激しく叩くかで序列が決まっているので、いかに日の丸が、君が代が悪かを説くかに固執する。
悪という前提から始まるので議論にならないし、聴衆のジャッジでは負けるのだが、本人達はそれで満足してる。
二番目に、学者はとにかく保留しておくことが好きだ。
現時点で正しいとされていることを覆すことで真理に近づけると思ってるので、たとえ今は正しくても、といって実行に移したがらない。
そもそも、学問を世に還元するより、学問を追求したいから学者などをやっているわけで。
これは自分の個人的が想像だけど、学者の10人に1人くらいは嫌儲思想だ。
50代、60代の古株のなかには、民間就職するなんて資本家の手先になることだ!という理由で学者になった人間もいる。
文系だととくに顕著だったはずだ。
もちろん、学生運動で逮捕までされちゃったような過激な連中は途中で退学しちゃったわけだが、口先は一流、実行力はない、という人間が学者になってる(場合もある)。
あんまり過激だと出世の道もなかったんだけど、社会党が強かった北海道なんかは、思いっきり左派思想でも出世できたし。
科学は科学の発展のためだけに存在するべき、という消極的嫌儲主義。
反原水爆と相性がいい。
共産主義が勢いがなくなり、平和主義と看板を変えはじめたころから歩を同調させている。
まあとにかく、グダグダが好き。
俺が思うに橋下の
「そうはいっても予算と人を引っ張るのは金も労力もかかるし、その原資は税金だし、グダグダ言ってても前に進まないから」
という主張はもっともだ。
それに対して
という反論もありだとはおもう。
ただ、正しいことだから堂々と主張する!悪いのは橋下!
という態度は、橋下に言われた通り、税金で食わされてるのにその態度はなに?
と聴衆に判断されてしまう。
それから、君が代日の丸の強制は教員だけということなので、子供の教育に~という話にできないのも大きい。
嫌なら違う高校に行けばいいって話で、小学校中学校は私立は無料じゃないけどさ。
橋下にだって、突かれると痛い部分はあると思う。
俺は大筋で賛成だけど、大阪の抱える諸問題がクリアされるとは思えない。
大阪都構想で経済の地盤沈下をどうにかできるというわけでもない。
ただ、そこんところは代案がないのなら、聞かせて欲しい、という態度で聞くべきじゃん。
いまを遡ること20年ほど前、私がおむつを履いていたくらい幼かったころの話、
おじさんと私との関係はまあいろいろあって、ここで説明するのは割愛しますが
とにかくおじさんは、とある事情から一時的にうちに身を寄せていた人で、我が家の誰とも血縁関係はなく、全くの他人でした。
私が長じてから親に聞いた話では、当時おじさんは居候の費用を払う余裕がなかったため
家事をしたり私の面倒をみたりすることでその対価としていたそうです。
当時我が家は父だけでなく母も外で働いていたので、保育園で補うことができない時間はおじさんが格好のベビーシッターだったのでしょう。
私にもおぼろげながらおじさんと一緒に幼児番組をみたり公園に連れていってもらったりした記憶があります。
しかし如何せん遠い昔の話なので、印象的な出来事以外のことはあまり覚えていません。
長じてからの私は、赤の他人のおじさんとの共同生活、というぼんやりとした記憶を、なんとなく面白く感じていました。
話はがらりと変わりますが、私は中学校に上がる前からパソコンを買い与えられ、ネットサーフィンのうまみにどっぷりハマりました。
その年齢の子供の興味のあることといったらもちろん性に関することです。私も多分に漏れずネットに性教育を施されたようなものです。
2chような、男性の(あるいは露悪的になりすぎているほどの)本音が聞ける場所にも頻繁に入り浸っていたので、
レイプやロリコンなどといった一般的にはよろしくない性的嗜好も、ある種の冗談として何の抵抗もなく受け流すことができます。
彼等は、YesロリコンNoタッチ(YesレイプNo実行という文句があるかどうか知りませんが)を尊守する愉快な紳士だということを、私は知っています。
数年前、「おむつかぶれ」で検索すると幼児の陰部の画像が大量にヒットするという事実がVIPかどこかで面白おかしく紹介されていて、
これはやばいだろwwアグネス来るぞwwと私も草を生やして喜んでみたのですが
その、おむつにかぶれた幼児たちの尻や、小さな小さな局部の写真を見ているうち、
なにか今まで忘れていたものがいっぺんに頭の中に思い出されるような、思い出してはいけないような、思い当たってはいけないような、そんな恐ろしい気持ちに襲われました。
今まで海馬のどこに刻み込まれていたのか不思議なくらい膨大な量の記憶が、いっぺんに頭の中で再現されました。
父も母もいないとき、おむつを変えてくれるのはおじさんの役目でした。
おじさんはいつも、「カユイカユイになったら困るからね」と、私の陰部をおしりふきシートで拭いてくれました。
おじさんは指をつかって、私の陰部のすみずみまでシートをさすり込みながらマッサージしてくれました。
おじさんは「ここにアカが溜まると病気になるから」といって、ある決まった場所を特に念入りにさすりました。
それがどこなのかはよくわかりませんでしたが、おじさんの暖かくて太い指でそこをさすられると、
なんだか居心地が悪いような、でもなぜか落ち着くような、奇妙な感じがありました。
その感覚が不思議で、なんとなく面白かったので、私はおじさんの手がそのあたりにゆくと大人しくさすられるのを待つようになったようです。
「そんなに触られたいんか。ほんまはあかんねんけどな。ここはママやパパにはナイショのところやで。触り過ぎたら病気になるから、ママに言うたら怒られるからな」
そういってひとしきり秘密のマッサージを続け、最後はおじさんが「もうおしまい」と言って、おむつをペリペリと閉じて終わります。
あの感覚が終わってホッとするような、でも名残惜しいような、もやもやする感じが残ったことを覚えています。
一連の記憶を一気に思い出した私は、ドラマのようにすぐさま洗面所に駆け込んで吐くというようなことはしませんでした。
ただうっすらと体温が下がったような、背中に寒気が這い上がってくるような、不快な感じがしただけでした。
私はそれまで、フィクション上のレイプやロリコンといった嗜好は、「実際の被害者がいないから、悲しむ人が居ないから」よしと考えていました。
おじさんのしたことは、客観的に見ればペドフィリアに類されるような、幼児に対する性的いたずらでしたが、
実際の被害者であった当時の私は全く悲しんではいませんでしたし、拒否もしていませんでした。
おじさんの指の動きがなにを意図しているのか知る由もなかったからです。
即時的には悲しむ被害者がいない性的虐待というのもあるのですね。
不発弾のような性的虐待、あるいは地雷のような性的虐待というものがありうるなら、おじさんの所業はまさにそれだったと思います。
おむつかぶれの一件が刺激となって、それまで眠っていた爆弾が起爆し、おじさんとのナイショの記憶の破片が私の脳内に突き刺さりました。
やりどころのない、そして消えることのない、熾火のような静かな怒りと悲しみが、あの時以来私に刻み込まれているようです。
もし私が一生あの記憶を甦らせることがなければ、私は傷つかずに済み、おじさんのしたことも永遠にナイショのままだったのに。
おじさんがいまどこで何をしているのか私は知りません。
両親に聞けばわかるかもしれませんが、聞きたくありません。
いくら居候で家族同然とはいえ、父親でない男性に愛娘のおむつを変えさせて何の警戒もしていなかった両親に恨みも覚えています。
とりとめもないですが、以上吐き出しでした
その1.話の着火点になる
いくら場を盛り上げるのがうまい人でも話題が途切れることがあります
そういう時に血液型の話、恋愛話、子供のころの話を放り込めば、後は勝手にやってくれます
(例:そういえば、血液型は何型?あ、わかった。Bだろ(笑)、バレンタインデーに何かしたことある?)
その2.話を深める
これは単純に
とか
「なに中学校」
です
ただ、これだと質問攻めになってしまうのでユーモアを混ぜるといいです
「俺いまから田中って苗字に変えるわ(笑)」、「いま田中に嫉妬したわー」
や
「何中学校?」
「あー、あの有名な・・・」
「絶対知らないよね(笑)」
などといった具合です
その3.方向を変える
突込み役が切り込みすぎたり、相手が引いたりしたときに話題を変えることです
なお、全体トークが苦手な場合、一人の人に話を振るといいらしいです
小学生のころ、水曜日の昼休みは決まって友達とコンピュータ室でゲームをするのが常だった。
もちろん今のようなゲームではない。
ちゃちなレーシングゲームと出題されたものをフィールドから探すゲームの2つだけだった。
一緒に行く友達と僕はいつもレーシングゲームばかりやっていた。
ほかにはペイントのようなツールもありそれであそんだりもした。変な絵を描いて友達と笑いあったりした。
このころに「パソコン=おもしろいもの」という概念が自分の中で定着し、パソコンに対して強気でいられるようになった。
強気でいられる分、トラブルが起きたら両手を挙げるのではなく立ち向かうことができた。
おかげで周りからは「パソコンに詳しい」と思われた。下から見上げられるのは気持ちがよかった。
当時の僕からして主な用途といえばゲームをするか動画を見るか位であったが、
ネットサーフィンをするようになってチャットというものを知り掲示板というものも知った。
たまにテレビで目にする「2ちゃんねる」というところにいってみたりもした。
このころはかまってちゃん気質だったのでチャットや2ちゃんねるでよく実年齢をさらしたのだが、
そのたびに若い若いといわれ、うらやましがれてニヤニヤしたり馬鹿にされて本気で憤慨したりした。
いまもその当時の記憶が残っており、心の片隅で「自分はこの世界で最年少だ」と思っていると思う。
最年少と思っていた自分は、年上の人たちと並んでいると考えていた。
レベルだけ見れば平均より高い、有能な人間だと勘違いしてたところがあったかもしれない。
20ではないが最近成人を迎えた。
2ちゃんねるをみてるとたまに中学生だの高校生だの正体を明かす人間がいる。
有名人を見れば自分より若い人なんて腐るほどいる。同年代なのに親より稼ぎまくってる人もいる。
それを見るたびに違和感を覚える。
自分が最年少ではなかったのかと。
僕が一番だったのではないのかと。
今現在の自分は、友達の中でもトップとは言えずそれは中学生のときから気づいていたが、
やっとこの年になって実感できるようになってきた。
今の自分は何かをするごとに、この違和感を感じてしまい悩んでいる。
別に1番でなくてもいいことを、それに関してで一番の人と比べて落ち込んだりする。
そしてそれをすべてインターネットの所為にすることもあった。
そして夢がある。
★人間、選択肢が10個以上あると、かえって逡巡して行動ができなくなる傾向にある。
「首都圏以外の43道府県が選択肢」となって、選択肢多すぎて決断できない、という
状況に陥っているような気がする。
「東北のどの県を支援するか、予め決めておく、カウンターパートナー方式」を取ったように、
「世田谷区だと岩手県を紹介、杉並区だと山形県を紹介」のように
首都圏人から見ると、山形と青森、いずれも自然が豊かなんだろうが、
「山形も青森も、自然が豊かなのはわかったけど、どっちがいいの?
今度の旅行でどっちに行けばいいの?
迷っちゃって面倒だから、旅行取りやめ」てなことになりかねない。
ビジネスも同じ。
その点、韓国と相対する福岡県であれば「日本で一番韓国に近い都市」ということで、
北海道は「日本で一番ロシアに近い都市」ということで、差別化が可能。
青森が「ロシアとの交流」を標榜しても、地理的関係では北海道に負けるし、
大分が「中国との交流」を標榜しても、地理的関係で長崎に負ける。
であれば、多少「こじつけた理由」で、他国(非英語圏が望ましい)と
「A国のことなら、B県に聞いてしまえ」というまでにのぼりつめればいい。
例えば、大分県の「こじつけ理由」として、大分県は地熱発電が盛んである。
であれば、地熱発電が盛んなインドネシアと、カウンターパートナーとなる。
具体的には、
・大分空港からジャカルタへ直行便、ジャカルタ以外の複数都市にも直行便
・大分銀行が、日本企業(県内企業)のインドネシア進出サポート
・大分県内のNHK/民放で、インドネシア語のバイリンガル放送
・県内図書館にインドネシア語書籍、インドネシア関連書籍揃える
・インドネシア系企業・商店が集積する「インドネシア村」の設置
「インドネシアに強いかどうか」ということで、明白に差別化できる。
在京企業もインドネシアビジネスしたい場合には、大分に行ってビジネスした方が
他県も、こじつけでいいから、外国とカウンターパートナーの縁を結ぶ。
鳥取は砂漠研究が盛んだから、中東の例えばサウジアラビアと縁結びする。
りんご栽培が盛んな青森は、中国アメリカに次いで世界3位のリンゴ大国のポーランドと縁結びする。
さくらんぼ栽培が盛んな山形は、世界1位のさくらんぼ大国のトルコと縁結びする。
多少こじつけでもいいから、その地域の「強み」が生きる相手国と
縁結びするのである。
こうすれば「青森と山形、大同小異、どんぐりの背比べ」じゃなく、
「青森はポーランドビジネスの拠点、山形はトルコビジネスの拠点、日本国内でオンリーワン」となる。
非英語圏諸国は、英語が通じない、通じづらい、というハンディを抱えている。
そのハンディを、カウンターパートナー先の県が、教育・マスコミ総出で
解消してあげるのである。
この構想は、今47都道府県にばら撒かれている「各県インフラ4点セット」を、
逆に利用してやれ、という発想である。
各県インフラ4点セットとは、空港・国立大学・地銀・県紙(テレビ)である。
明治以来150年の歴史を誇る、47都道府県の4点インフラを有効活用しないのは、
いかにも惜しい。
非モテ非コミュのだけどさ、そこそこに裕福な家に生まれてるからまあなんとか上手く生きてこれたわ。
一応は正社員で、クビになってもなんとかなりそうな資格の1つ2つは持ってるんで、男一人の人生ならなんとかなるだろう。
でもさ、金はないけどいろんな人に愛される人ってやっぱ羨ましいな。
一番凄い例だと、27歳で大学に入り直すってんで、中学校の時の担任が100万ばかし資金援助してくれるって話を聞いたよ。
そういや民主党の前原も顔見知りの焼肉屋のおばちゃんからお小遣いをもらってたよな。
たまには、いるんだろうな、そうやって親でもない人から金品を貰えるような。
たまに寂しくなるわ。
一人暮らしなんだけど、足を折ってほとんど歩けないとき、辛かったな。
タクシーでコンビニまで行って、運ちゃんに買ってきてもらった。
俺には、金しかよりどころがない。
今の若い人達は「日本は悪い事をしたと教えられた」と言っているが、自分(現在30代前半)のときはそうでもなかった
自分の頃にやったのは
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⇒「数年後、日中戦争開始。辞めどころがなくズブズブに。」
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ってな感じだけど、今見返しても別に間違っていないと思う。
教科書にだってハルノートは書かれていたし、高校受験でも範囲内だった。
確かに近代史の頃には学年末で殆ど飛ばされた感はあったけど、今の歴史の授業ではこの辺もごっそり抜けちゃってるんでしょうか?
それとも歴史を勉強してなかった人達が「俺達は学ばなかった」と言っているのでしょうか?
それとも上記のような事(「中国戦線の引き際をミスった」等)を言うだけで彼等の言う「自虐史観」なんですかね?
15年以上前の話、小学校低学年だった頃、クラスの女子にイジメられていた。キモい、ウザい、死ねとイジメられていた。
暴力的なイジメはなかった。常に精神的な言葉や態度に依るイジメだった。
今思えば、肉体的な暴力的なイジメだったら、反撃できたと思う。言葉によるイジメには反撃出来なかった。『女の子に暴力を奮ってはいけない』という道徳律に縛られていた。
女子に対する言葉による反撃は何の意味もなかった。一対多では端から勝ち目がなかった。
学校ではずっとイジメられていた。小中とずっと、女子にイジメられていたから、いつの間にか自分は『そういう立場に置かれている存在』だと思い込んでしまった。
本当は思い込まなくてもよかった。塾では普通に皆と、和気藹々と会話できていた。でも、学校の場の空気が自分をイジメられっ子の立場に押し込んでいた。
イジメられ続けたまま、小中学生時代が終わった。小6の時に自殺しようと思ったけど、出来なかった。今思えば此処で終わらせておけば楽だった。
結局、誰も助けてくれなかった。教師は事なかれ主義から、明らかに俺のことを見て見ぬふりをしていた。親はイジメられている俺を不甲斐ないと怒鳴るような人間だった。母親は『男なのにそんなだと馬鹿にされるよ』が口癖だった。
高校に入り、ネットなどを見始め、身近にある友人関係や家庭は破綻していたので、身近でない、遠方にある社会的な話題に触れることが多くなった。
思えばコレが間違いだった。ただ、自分にはどうしようもなかったと思う。身近な人間が誰も助けてくれなかったし、悪意を向けてくるのみだったから。政治社会的な話題を用いて、自分を慰撫するしか無かった。つまり、たとえば悲惨な家庭環境にある人間が、「虐待は悪」という社会的メッセージを読んで、救われるという流れだ。その頃の自分は、無意識に「女子からのイジメ」を慰撫できる社会的メッセージを探していたのだと思う。
ネットで、自分と同じ立場の人間が居ないか、イジメの話題で調べるようになった。結果として、吸引されるように、喪板などを見始めた。
『そういう立場に置かれている存在』の女性からのイジメ経験談が書きこまれていて、似たような人がいることを知って、多少救われた気がする。
『そういう立場に置かれている存在』に名前が付けられていたことを知った。『非モテ』だった。
そのうち、「はてな」も見るようになった。「はてな」で知ったことは、ミソジニーなどの単語や、ジェンダー論や非モテ論で、男性は強者であり、社会的に自省するべきと規定される存在だと言うことだった。
これには、イラついた。
だが、自分と同じような立場にある『そういう立場に置かれている存在』を名指しして、「政治的に正しい人達」がその内面を断罪していた。女性に対する恨みなんて無かった。ただイジメから来る惨めさから、後退しているだけなのに、散弾銃でミソジニー、悪、などと指摘してくる正義の人達が居た。全くの他人に対する指摘だとはわかってるけど、散弾銃の弾が自分にも当たってて痛かった。
どこか自分が悪い気がしてきた。でも自分は悪く無いと思っていた。自分はどう考えても強者ではなかった。イジメられていた弱者だった。でも自分の内面が断罪されているように思えた。本当は誰かに慰撫して欲しかった。身近な人間でなくても、単なる社会的メッセージでもよかった。誰もしてくれなかった。『キモイ奴は一人で死ねば』だとか『男性は強者で自省すべき』だとかそんな言葉しか無かった。
はっきり言って、『弱者』『少数派』と認定されて社会的に慰撫して貰える『社会的弱者』が羨ましかった。自分はマイノリティにすらなれない、イレギュラーだった。
このような話題や、議論を見ている内に、悪性サイクルに取り込まれた。
こんなことはもうやめる。馬鹿だった。
自分はただ、イジメられている時に、助けて欲しかっただけだった。
身近な人間は誰も助けてくれなかった。遠方から発せられる、社会的なメッセージは、男性は強者であり悪いと断罪していた。
非モテだとか、弱者男性だとか、ジェンダー論だとか、本当は、全てどうでもよかった。
そもそも『モテ』や『非モテ』には一切の興味がなかったし、恋愛はどうでもよかった。自分は草食系どころか霞食系だった。社会構造などもどうでもよかった。ジェンダーもどうでもよかった。政治思想的に男性を断罪する人達が指摘する『内面』は、自分には一切関係のないものだった。他人が勝手に内面にありもしないものを見出して来たから、もしかしたから自分にもあるのかもしれないと思い込んでしまっただけだった。女性に対する恨みなんて存在しなかった。身近な人間が誰も助けてくれなかったから、政治思想に何か縋れるものがあるのかもしれないと思い込んでしまった。自分は馬鹿だった。
女子からのイジメによって発生した惨めさが、子供の頃に解消されず、いつしか政治思想的な話題に吸引されて、悪性サイクルに取り込まれていたに過ぎなかった。
本当にばかみたいな話だ。
こんなことは、2011年ですべて終わりにする。
なんというか悪口を言われるとか、自分の分だけお茶が出てこないとかもありました。
http://anond.hatelabo.jp/20111230152327
http://www.pref.osaka.jp/houbun/reiki/reiki_honbun/k2010227001.html#b22
地域手当 無条件でつく。金額は(扶養手当+管理手当)*10/100
住居手当 家賃-1万2千以上の額を支給
夜間勤務手当 夜間割りまし
宿日直手当 宿直勤務を命じられたものに出る
「私は君たちを性の対象としてしか見ることができない。申し訳ない」 そう言って課長は、会議室に集めた女性社員たちに深々と頭を下げた。「課長、頭を上げてください」 女性社員のひとりが声をかけたが、課長は「頭を上げることはできない。本当に申し訳ない」と頭を下げ続けた。
「課長、私こんな話聞きたくありませんでした。幻滅です」「私もです」「課長、最低!」 女性社員たちは口々に嫌悪感をあらわにした。「大体どうしてこんなことを……」 それはもっともな疑問だった。しかし課長は頭を下げながら「申し訳ない」と繰り返すばかりで、疑問に答えることはなかった。
「一体何の騒ぎかね、これは」 会議室の入口に部長が立っていた。部長は女性社員に囲まれ頭を下げる課長の姿に眉をひそめた。「説明してもらおうか」 低く威厳のある声が会議室に響いた。しかし課長は頭を下げたまま黙っている。不穏な空気が会議室に漂い始めていた。
「君、説明しなさい」 部長はたまりかねて、ひとりの女性社員を指名した。「は、はい。あの、実は課長が……」 女性社員はたどたどしい口調で今までの経緯を話し始めた。部長は相槌も打たずにじっと耳を傾ける。呼吸すらためらわれる緊迫した空気に、誰もが息苦しさを感じていた。
「……というわけなんです」 説明を終えた女性社員は大きく息をついた。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。部長は眉間にしわを寄せ、目を閉じている。何事かを考えている様子だった。部長は一体どういう反応を示すのだろう。皆が部長の一挙一動に注目していた。
どれくらい経っただろうか。部長はおもむろに目を開けると女性社員たちにこう尋ねた。「君たちはどう思った」 それはとても穏やかな口調で、怒りや動揺は感じられなかった。女性社員はお互い顔を見合わせる。誰かが口を開いた。「正直言って不快でした」 それを契機に次々に言葉が飛び交っていく。
「幻滅した」「気持ち悪い」「一緒に働きたくない」「最低」 否定的な言葉のひとつひとつに部長は小さく頷いていた。そしてすべての女性社員が発言を終えたとき、部長は大きく頷いた。「君たちの気持ちは分かった」 女性社員たちの顔には安堵の色が浮かんでいた。
「だが私も男だ。課長の気持ちも分からないではない」 部長の言葉に真っ先に反応したのは課長だった。その顔には驚きと困惑が入り混じっていた。「もちろん課長のとった方法が適切だったとは思わない。まずは同じ男性である私に相談して欲しかった」 部長は課長の目を哀しげに見つめていた。
「どうして課長をかばうような発言を……」 まだ20代の女性社員が押し殺したような声で呟く。こぶしを握り締め、裏切られたという表情を浮かべている。しかし部長は穏やかな笑みを浮かべこう続けた。「ひとつ弁明させて欲しい。課長は非常に優秀な社員だから忘れがちになるが、まだ若いのだ」
「私よりも、君たちよりも、我が社にいる誰よりも若いのだ。まだ13歳なんだ」 女性社員たちがはっと息を飲んだ。今まで意識していなかった現実を突きつけられた思いだった。私たちの課長は13歳。学校制度と労働基準法を超越する天才少年。普通だったらまだ中学生のはずだ。そう中学生男子なのだ。
「君たちも知っていると思うが、この年頃の少年にはある変化が訪れる。それは思春期とか第二次性徴期などと呼ばれるものだ。体が男らしくなり、精通が始まり、異性への興味もわいてくる。それはごく自然なことなのだ」 部長は小さく息を継ぎ、さらにこう続けた。
「しかし不幸にも彼は課長だった。多くの部下を抱え、仕事に私情を一切挟まないビジネスの鬼だった。それゆえ部下を性の対象として見てしまう自分が、なおさら許せなかった。こんな思いを抱えたまま仕事などできないと感じたのだろう。だからすべてを告白し、仕事を辞めようと考えた。違うか?」
課長は歯を食いしばり涙を堪えていた。しかし課長の目元からは幾筋もの涙がとめどなく溢れ出していた。課長は震える声で「お、おっしゃるとおり、です……」と答えた。それを受けて部長は、女性社員たちに向き直り「私からの弁明は以上だ」と告げた。
「しかし部長……」 何か言いかけた女性社員を部長は手で制した。「分かっている。課長の処分のことだろう。課長のしたことは女性社員に多大なるショックを与えたわけだから、このまま不問にするわけにはいくまい。そこでだ。先ほどの私の弁明を踏まえた上で、課長の処分を君たちで決めてもらいたい」
「わ、私たちでですか?」 部長の提案に女性社員たちは戸惑いを隠せなかった。「そう君たちがだ。クビでもいい。左遷でもいい。降格でもいい。今までどおり課長を続けさせてもいい。君たちの判断に私は従おう」「そんな……」 自分たちの判断が課長の人生を変えてしまう。その重みを誰もが感じていた。
「少し時間をいただけませんか?」 年かさの女性社員の申し出に、部長は頷いてこう言った。「明日15:00、この会議室で結論を聞かせてもらおうか」 そして部長は会議室を後にした。会議室には課長と女性社員たちが残された。誰もがじっと押し黙っている。最初に沈黙を破ったのは課長だった。
「私はもう辞める覚悟ができている。だからこそ皆に告白したのだ。私の思いを汲んで、すっぱりクビにして欲しい」 そう言って課長は深く頭を下げた。「課長がそう言うならクビでいいんじゃないですか?」「うん、私もそれでいいと思う」「私も」 ひとりの発言に皆が次々と追従していく。
ほどなく処分が決まるかに見えた。「ちょっといいですか」 20代の女性社員が手を挙げた。「何どうしたの?」「あの、このまま課長をクビにしてしまうのって何か後味が悪くて」「後味って私たちはもう散々嫌な思いしているわけだし」「そうなんですけど、あの上手く言えないんですけど……」
すると女性社員は課長の前にすたすたと歩み寄った。「あのー、課長」 課長は虚を突かれた表情を浮かべている。「えっと、ちょっとだけ私たちとお話しませんか?」
翌日15:00、会議室には昨日と同じ面々が集まっていた。女性社員と部長が向き合い、課長は末席でうなだれている。「決まったかね」 部長はいきなり本題に入った。「はい、どうにか」「それでは早速聞かせてもらおうか」 年かさの女性社員が居ずまいを正した。「私たちの結論は休職3年です」
「そして休職中は中学校に通ってもらいます。普通の13歳のように」 しばしの沈黙の後、部長が口を開いた。「その結論に至った理由も聞かせてくれないか」 女性社員は大きく深呼吸をした。「昨日、部長が退室された後、私たちは課長と話をしました。それは普段しないような話です」
「私的な部分に立ち入った話なので、この場で内容を申し上げることはできませんが、その話を通じて私たちは、課長がまだ13歳の少年であることを痛感しました。同時に課長に今必要な場所は会社ではなく、学校ではないかと思いました。これは私だけではなく、他の女性社員も同じ意見です」
「ふうむ」 部長は会議室の低い天井を見上げた。「それなら休職ではなく解雇でもよかったのでは?それをなぜ敢えて休職に」 部長は女性社員をじっと見据えた。女性社員は目を逸らすことなく毅然と答えた。「私たち全員が、成長した課長とまた一緒に働きたいと希望したからです」
課長は末席で嗚咽を漏らしていた。その泣き顔はまさに少年のそれだった。女性社員たちからもすすり泣きが聞こえる。部長はうむと頷くと「休職の手続きと学校の手配を進めておく」と言い残し、一糸まとわぬ姿で会議室を後にした。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。(了)
そもそも、すくなくともかけ算九九で、一桁の掛け算の交換法則は習うはずだし、問題も一桁なわけだし、何が問題なのだろうと。
なぜ今の教育でそうなったんだ?というのがネタじゃないなら、知りたいとは思う。
交換法則を持ちだしたのは、コレが正しいと主張する大人への説明で合って、子供への説明ではないわなぁ。
とまれ、子供でも、かけ算九九で逆にしても同じは、実習として、九九の表を書いて習うはずだが?
そしてそれが、のちの中学校での、交換法則へとつながるという教育のはずだが。
算数で、6x8も8x6も同じだから、かけ算九九は表の半分を覚えればいいんですよ実はみたいな事まで教えておいて、後々逆にしたら☓は論理矛盾だわなぁ。
そんな、指導要綱本当に作ったら、なんだ?とは思う。
物理だけじゃないぜ。
じゃぁ、何というのを示して欲しい。例を付けて。
あとm^2あたりは普通に幾何の範囲だと思うが・・・。なぜ物理に限定?
あと、本論は、言われた通りにやれ、というのなら、将来、リスクを取って起業しろみたいなことを言うな。というのが本論であって、交換法則そのものは、そう教えたいなら教えればいいと思う。
物理にしろ、幾何にしろ、そう教える将来への合理的論理は提示して欲しいけど、それ自体も、大したことじゃない。
言われた通りにやれ、と教えるなら、将来、企業しろ、リスクをとれ。みたいなことは言うべきじゃないし、なんでもいいから、言うことは統一してくれればなんでもいい。
http://archive.mag2.com/0000134134/index.html 12月25日号
学生が書いたエントリーシートを見ると、多くの人に似たような傾向が見られます。
「一点主義に賭けすぎ」ということです。
「一点主義」とは何かというと、一時点のことだけをやたらプッシュしている、ということです。
例えば、「あなたの学生生活はどのような学生生活でしたか」というような記入欄があったとします。
すると、一点主義の人はどんな書き方をするかというと、
「私の学生生活で最もその成果を発揮したのは、2年生の学園祭の時でした。ステージで劇を発表することになり、30名以上の出演者の
スケジュールを調整し、3ヵ月に及ぶ練習を取りまとめ、見事に全員で演じ切ることができ、大好評を得ました」みたいなことを書くわけです。
これは、「2年生の学園祭の想い出」という一点を書いているだけです。
「何々の資格を取りました」「何々という国に留学に行きました」「どこどこに海外旅行に行きました」そういうのは、全て一時点の話です。
その一点だけをいくら膨らましても、その時点の想い出話にしかならず、その人の「人生」や「人柄」は全くつかめてこないのです。
良いこと言ったので、もう一回言います。
「人生は、一線」です。
線で語らない限り、その人の「人生」は見えてこないのです。
それは、出来事を羅列しろというわけではありません。
その人生を「一線」で表す単語や表現で簡潔に表すということです。
例えば、
「私が忘れられないのは、大学3年生の前半に書きあげた自伝的小説です。自分の中学時代の頃から起こった出来事を
小説風に仕上げ、250ページもの文の量で書き上げました。その完成までには膨大な取材の量を重ねました」
みたいなことを書いたとしても、これは「一点主義」の書き方なので、「ふーん、そんなこともあったんだ」と思われて終わりです。
でも、「私は、学生作家です」「ジャーナリズム生活でした」みたいな言葉だと、たった一言なのにその人の人生が線で語れます。
作家というならば、どんなものを書いたかいくつか挙げてくれる?ジャーナリズム生活というのは、どういうものかいくつか例を出してくれる?
という続きの疑問に対するフォローの文章を書き加えればいいだけです。
一線を引いて、点を打っていく。作文でも本の執筆でも、そうやって書いていくのです。
(そして実は、そういう文章の書き方は、小学校や中学校の国語の授業でも習っているはずなのです)
一点主義だと、いくらそこに情報を詰め込んでも、その一点の情報だけが伝わるだけで、(大して伝わらないけど)その人の人生は伝わりません。
エントリーシートがどうしてもうまく書けないという人は、まずはその一点主義から離れることを考えましょう。
それだけでも、構成力はがらりと変わります。
いい記事やなぁ。
私は採用する側だけれど、質問の仕方を気を付けないとイカンな、と思わされた。
実際にこういう答え方をする学生さんはかなり多い。
どういうふうに考えてこういう答えをするに至ったかはわからないけれど、
とにかくアピールしよう、差別化しようみたいな教えを変に受け取って
自分がどういう人間であるか、ということではなく、とにかく私はすごいんだ、ってエピソードを語ろうとする人が多い。
多分、こっち側がそれを要求していると誤解させるような問いかけをしてるんだろう。
なにより、学生から見たときに、私のいる会社や、ここで働くとはどういうことか、線で見えるように伝えられていないんだと思う。
学生さんにはこういうことを語って欲しい、なぜならうちはこういう会社で、こういう人を求めているからってのがシンプルにつながるような線を考えたい。
夢を見た。かなり長いが、覚えているのは断片だ。夢なので、理路などあったものではない。覚えているママを書きだす。
それは小学校のクラスメートのような性格でも、間柄でもなかった。
もう一人、別の小学校の知り合いの女性と一緒だった。転勤で引っ越す前の女性だ。家は近くで、家に上がって遊んだこともあった。男女の会話がないクラスも何回かは経験したが、小学校、中学校でそういうクラスに突き当たったことはない。
夢ではただ、キスをして、同意の上で互いの尿を混ぜて飲み合ったり、身体を撫で回したりした。また、祭ということもあって、いろいろ食べ歩いた。会話が楽しかった。
(余談だが、職場では若い男女が少なく、大して会話もしないので、この夢はとても新鮮だった。)
セックスできなかったのは、ちょうどいいベッドが、巨大な水槽の中にあり、水浸しになっていたからだ。
その水槽をどうにかするために、単独で幼い記憶にある景色(小学校の通学路)を行ったり来たりしていた。
何も為せずに水槽に戻ると、合唱部の女性が水槽の中の魚をそこらへんにぶちまけていた。イカとアジは水の外に出てもなお、水を得た魚のように泳いでいった。サメは都合よく死に、他の魚は水槽の外に出るや蜘蛛の子のようにたちまち姿を隠した。
他にもいろいろ覚えているが、言語化するには情報が不足している。
また、はっきりとした夢を見たら、書き出したい。
どうも、学生時代に会った女性が夢を見ると、記憶の残りがいくらか長持ちする。
これは男性特有なのだろうか?女性なら、男性の記憶の方が残る?
歯がボロボロに抜け落ちる夢も見たが、夢占いはことごとく外れている。
しかしそういう夢は他の人も見るからこそそういう謂れが出てくるのだろう。実に興味深い。
http://anond.hatelabo.jp/20110813090446
前に書きだしたもの
中学校二年生の女の子が一緒にお風呂に入って身体を洗って欲しい、上がったら同じ布団で抱き合って眠りたいと言ってきたとします
その通りのことをしてもらって、それ以上のことをしない、というのは脈無しですか?
後輩の女の子が保育園のころから面倒を見てくれている男の人のことがが好きでなんです
母子家庭でお母さんが夜の仕事をしていたので、夜はひとりぼっちになってしまうので、保育園のボランティアの人が面倒をみてくれるようになって、中学生になるまで身体洗ってもらったり一緒に寝てもらってました
中学生になった時に、もうそろそろそういうのは駄目だと言われて、そのあとはやってもらってなかったんですが、誕生日プレゼントに久しぶりにしてもらって、でもそれ以上は何もされなかったという状況です
塾と家との往復。
テレビ番組を録画したものを色々と見るのに忙しいから、時間はすぐに過ぎていく。
中学校でバカみたいに騒いでいる可愛コぶりっコしている奴等の事なんて、正直バカにしてる。
皆でぎゃあぎゃあ騒いでいて、バカみたい。
休み時間はスマホを触ってたら、時間が足りない位に直ぐに終わっちゃうし。
私の事を暗くて、不気味だとか言ってるあんな奴等なんて見返してやる。
私の通っている塾には、ちょっと格好良いバイトの院生がいるのだけど、
最初は数学で解らないところを訊いたら、親身になって丁寧に教えてくれたので、
ちょっと格好良いなと思っていたし、友達がいない私はそれが嬉しくてオッケーした。
塾の準備室で、誰も居ない時に告白されたのだけど、オッケーの返事をしたら、
いきなり抱きしめられて、キスされた。
日々孤独の淋しさから解放されるのなら、別にいい、それで構わない、本当は気持ち悪くて嫌だけど、
大人の男の人と付き合う事は何か嫌な事を我慢しなきゃいけないと思い、されるがままにキスされた。
ここ最近はそれがエスカレートして、私の上着を捲くり上げられて、乳首を舐められる。
彼は大学の研究が上手くいかなかったり、人間関係で行き詰まると
私の乳首を舐めたくなるらしい。
はっきり言って、変態だと思う。
本当に気持ち悪い。
だけど、彼との関係を切ったら、私はまた孤独だ。
準備室に行ったら、また嫌な事をされると知りつつも、
小さい頃から母はとにかく怖かった。
優しいときもあったけどでも怖かった。
ヒステリックで、怒鳴って、叩いた。
お母さんと友だちみたいに話す友だちが羨ましかった。
お母さんに好きな人を話している友だちを本当は羨ましく思った。
私もお母さんと仲良くしたかった。
お母さんが怖かった。
中学生になると、私も反抗的な態度も取るようになった。
でもお母さんが怖かったから怒られながら心のなかで「しねしねしねしねしね」と唱えるだけ。
キッチンばさみを投げつけてきた。
何かを言ったのか覚えてないけど、お母さんはものすごく怒っていた。
すごく雨がふっていた。家について玄関にあがろうとしたら
お母さんがものすごい勢いで泣き叫びながら私の肩を押す。何度も押す。
私は無抵抗にどんどん庭に押し返される。すごく雨がふっていて、お母さんは何かを叫んでた。
今まで怒られて私が泣いても、お母さんが泣くことなんてなくて、びっくりして雨に濡れた。
ちなみに私は小学校も中学校も生徒会の会長をしたり、成績も優秀な方だった。
大学の時がピーク。
当時付き合っていた男のことをお母さんがすごく嫌っていて
何かにつけて怒られた。私も反感を買う様な態度ばかりとった。
毎日2階の部屋にいるとお母さんがお父さんに私の嫌なところを怒鳴って話していて、
お母さんが本当に大嫌いだった。
だいたい口を効いてくれなかった。
そういう期間が半年くらい続いた日、同じようにお母さんと喧嘩をして
私はどたどた2階に上がってふてくされていた。
何時間かして喉が渇いたので1階に降りていくとお母さんが流しで
包丁を両手で持ち、首に当てて泣いていた。
驚いて姉を呼んだ。お母さんは死なせて、とか、うるさい、とかずっと叫んでいて、
お父さんが包丁を握ってお母さんを平手打ちして抑えた。
お父さんは手から血が垂れていた。
救急車を私が呼ぶことになった。
姉に言われて「サイレンを鳴らさずに来てください」とど田舎らしい注文をつけてみたが
おもいっきり鳴らしてきた。
お母さんは救急隊員の前では平然を装って病院には行かず、隙を見つけては包丁を持とうとした。
翌日お母さんは実家に帰り、私はお父さんと2人でご飯を食べた。
そこで初めて、お母さんが実はもう何年もうつ病だということ、リスカなど繰り返していることを聞いた。
怖い人じゃなくて弱い人だった。
心の弱いお母さんを自分がさらに苦しめていたんだと後悔した。
自分もお母さんに似てきた。
こんなところ似なくていいのに。
心が弱すぎて疲れる。
どんどん弱くなる。
表面を繕っても、それが剥がれた瞬間よけいに弱くなる。
#この文章は「シムシティ4」をプレイしたことある人向けです。プレイしたことない人は、攻略サイトなどを見てから読むとより分かりやすいでしょう。
シムシティ4は起債も不可能となりいよいよ収入不足でフローがマイナスになると「上院選立候補のため市長退任」というゲームオーバーがある。国政転出ってなんかリアルでもありそうな話だw
原因としてはまぁ、いろいろと調子に乗っている僕が気に入らなかったのが発端で、
本人達としては「からかっていただけ」という意識でしかないと思う。
主に悪口、迷惑電話、モノやお金が無くなったり嫌がらせをされたり、
程度としてはそんなにひどいものではなかったと今となっては思う。
でも田舎の小学生に見える世界は家と学校ぐらいで、それが全てだった。
どこにいてもあいつらは僕に嫌がらせをしてくる、必ず顔を合わせる。
表向きは友達だと思っていた人に裏切られる。そんなのは日常茶飯事だった。
性格はどんどん暗くなり、発言する時には相手の顔色をどんどん伺うようになった。
ストレスで身長が止まり、何とか言い訳を作って学校を休もうと企んだ。
夜には明日が来なければ良いと毎日思ったし、土日は天国、平日は地獄だった。
自殺を考えないことも無かったけど、自分が苦しむ恐ろしさの想像には勝てなかったし、
もし死ぬときには僕をいじめたみんなを殺す前には死ねないと思いとどまった。
高校は小・中学校のメンバーがほとんど行かない学区内の進学校に進んだ。
僕をいじめたやつらは、一番近いアホな公立か、そこにも行けずに私立へと進んだ。
いじめられていた期間で身に染み付いた処世術で僕は高校3年間を無難に乗り切った。
かつて年間で100を超えていた遅刻・早退・欠席は高校3年間で1度も無かった。
空間に存在することさえ気をつけていた学生生活に怯えること無かった。
進路を決定づけるセンター試験の日、僕は数年ぶりにあいつらと出くわした。
底辺に近い公立に進み、遊びでセンターを受けに来たようないじめっ子のあいつらは
ここ一本に絞って緊張でガチガチの僕を見つけ、悪口を履き続けた。
もちろんそれは彼らにとってはかったるいセンター試験の中で見つけた
暇つぶしに過ぎなかっただろうし、僕もそれを理由にするつもりは無いけど、僕は大学に入るのが1年遅れた。
あの日に限ったことじゃないけど、あいつらが吐いた暴言は今もすぐに思い出せる。
僕は大学を卒業後、東京の企業に就職し、世間で言えば勝ち組といわれるステータスを手にしている。
帰省すれば、同級生の話を聞くこともあるが、
30も近づいてきてるというのにフリーターだったり、叶わない夢を追い続けていたり、
お前らがかつて見下していた僕はこうだぞ、と。
彼らは僕の見ている世界を知らない。
彼らの中で僕はまだ15年前のからかいの対象だった僕でしかない。
あの時「自分が死ぬぐらいなら相手を殺してから死んでやる」とまで思ったあいつらから
結局僕は今でも逃げ続けているように思う。
みなさんは知っているだろうか。アトピー性皮膚炎という病気の辛さを。
このアトピーのせいでどれだけの苦労したのでしょうか。
僕の足が普通の人達みたいに綺麗な肌色をすることはありません。ずっと赤くなっています。
顔はどうでしょうか。
顔は薬を塗らないと目の周りが粉を吹いたように白くなってしまいます。
耳の裏も掻き傷があります。
首にも掻き傷があります。
そのせいで何度からかわれたでしょうか。
その点、僕の友人たちは顔のことについて何も言わないので優しいと思います。
制服は黒い。
それをフケがついていると言われたこともあります。
だから僕は制服についた粉を払うことを忘れないようにしています。
でもその粉を払う行為も周りの人から見たら気持ち悪いのかもしれません。
言われた言葉は
だけどあまり良くなりません。
ずっとその繰り返しです。
何も知らないくせに。
どんなに大変か知らないくせに。
アトピーの辛さを知らないくせに。
なんでこんなことが言えるのか。
もしもこの病気が治ったとしても掻いてできた傷の跡はずっと残り続けるから。
もうだめなのだ。
でも、アトピーじゃない人みたいな肌になってみたいと思うことはある。
まだ僕の手は綺麗だ。でもこれから先、もしかしたらもうこの手を見ることはできないかもしれない。
これ以上悪化したら大好きなあの人に嫌われてしまうかも知れない。
でも僕は諦めない。
大好きなあの人に認めてもらえるように。
だから僕は戦い続ける。
そのアトピーとの戦いがどんなに長くなろうと戦い続ける。
自分のために、そして大好きなあの人に認めてもらうために。
故に、勉強以外については親に理解されなくて当たり前だ,くらいに考えていたほうがいい。
「親に自分のことを理解してもらいたい」という希望は、日本に限って言えば、子供は持たないほうがいい。そうしないと、辛い。
うちの親は収入面では中流の上の方だったと思うけれど、いろんな意味で教育は中流どまんなかって感じだったかな。
いざ勉強シーズンが始まると、どんだけ抵抗しても「勉強のために」という理由だけでやめさせられた。
その時から分かってはイタけれど、親は社会的に認知されたもの以外の価値を認識すること自体ができない。
これ自体を責めてみたところで意味が無い。親はそういう時代に生まれてきたのだから。
「子供にいろいろ習い事させるのは良い親」という社会的な尺度があったからだろう。
ところが、習い事に関しては、小学校高学年くらいからそういう社会的な尺度が消失する。
こうした分野で子供が成功したり、社会的に評価されることは稀である。
そう考えると、別に習い事をさせていても誰も褒めてくれないし、そのための負担は小さくないので続けるメリットが親にはない。
親自身も元から対して情熱を注いでいない。勉強の妨げになるのであればあっさりと切り捨てられる。
いや、実際には勉強の妨げになっていなくても、「自分がそう感じた」というだけで辞める理由になるのだ。
少なくとも、私は、姉が無条件でピアノをやめさせられたことに危機感を感じ、
折につけて「ピアノやってても勉強も頑張れるよ」とアピールをしていたがその時が来たらあっさりとやめさせられた。
最初から最後まで、そこに子供の都合は存在しない。交渉の余地すら無い。
(子供過ぎて、勉強も頑張る、程度しか交渉の手段を知らなかったということもあるが、外をまきこまない限りおそらく無理だっただろう。
そして外を巻き込んだら、多分親に恥をかかせたという罰で殴る蹴るの暴行を受けていたと思う。そうでなくてもよく殴られたしね)
子供は圧倒的な才能や成果を示さない限り、そこで潰される。
そして、これ自体も悪いことではないと思う。
実際、才能がないのに、変にしがみついていても、あんまりいいこと無い。
はやめに見切りをつけて、そのぶん自分にとってたのしいことややりたいことに力を向けるのはむしろ好ましいとさえ言えるかもしれない。
(まぁこれにしても、子供にそういう話をした上で判断させるべきところだとは思うのだが・・・難しいか)
よろしく無いのは、全部親の都合で、親が勝手に決めたことであり、親のわがままにすぎないのに、
なぜか親自身がそれを認識していないか、認めようとしないことである。
親は子供に何の説明もしない。謝罪とまではいわずとも、メカニズムを説明すべきなのにそうしない。
結果として、子供は「自分の意志でやりたいことを選べない」ということを学習する。
「がんばろうががんばるまいが、親が認めなければ自分の大切な物は維持できない」と学んでしまう。
高校生ぐらいのときにこういう仕打ちを受けたなら、まぁ自力救済の道を探っていただろうが
無力な小学生時代にこれをやられると、自分の無力をしみじみと受け入れるしか無い。
しかも、当時は今この記事で書いてるように、明確に親から受けた抑圧を言語化して把握できたわけではない。
無意識に刷り込まれるようにして教訓を植えつけられるので、抵抗しようもない。
むしろ、当時を振り返ると、1ヶ月ほど落ち込んだ後
「親は自分の為を思って勉強に集中させてくれたんだ」「私にピアノは無用だったのだ」と本気で思い込んでいたような記憶がある。
つまり「親の言ってることは自分のためであり、絶対的に正しい」という刷り込みが成立していたということになる。
実際小学校4年でピアノをやめさせられた後は、2年間ひたすら勉強ばかりしていた。
そんでちゃんと進学校に入って、それはそれで誇らしい気持ちになった。親には心から感謝したと思う。
実際にこの辺りまでは、親の言うことは間違いというわけじゃないのだ。ただ私の心を全く無視してるというだけであり、実際この当時の私は自分で考えて自分で決めるということがあまりできる子ではなかった。親が決めてくれたことに従うほうが楽だったし、必要だったと思う。
ただ、中学校に入ると、もうこれは露骨に問題にすれ違いが生じる。
私のような知恵遅れでも、このころになると自分の意思でいろいろ考えるようになる。
でも、まぁ上のような感じで、自分の意思でヤリたいと思ってもやれないという思い込みがあるから
もやもやしつつも勉強以外のことはあんまりできなかった。勉強か、漫画か、小説か、そんくらい。
親のほうでも、もう社会的に認められている価値尺度が勉強くらいしかない。
親はいつだって「社会的には親はどんな感じか」ってことだけ気を使っていて、一度も自分の頭を使って考えたことがない。
子供が何を望んでいるかに興味を持ち、それにどう答えるか、という形で考える訓練をしたことがない。
私が何の部活に入っているかも、私にはどういう友だちがいるのかも、
結局高校卒業するまで全然知らなかったくらいだから本当に我が子には全く興味がなかったのだと思う。
(ちなみにバスケ部な)
そういえば、友達は小学校4年の時に親に強制的に絶交させられてから作ったことがない。
中学2年の時にU君という友達がひとりいたけれど、遊びに行ったことも家に招いたこともなかったので
その内に、Uくんも、もっと親密に付き合ってくれる奴のグループに行ってしまった。
多分、自分がもうちょっと勇気を出して親に何か訴えれば事態は変わったのかもしれないが、
結局そのまま6年間過ごして、まぁそれなりにいいところの大学に受かったので、東京に逃げた。
欝で寝込んでるなう。コミュ力ゼロの私には、東京で友だちを作ることもできなかった。
多分もうチョットしたら冷静になれて自分の側にも問題があって、過去を嘆いてもしょうがないから
今からでも努力して何とかすべきって思えるようになるんだろうけれど、どうしても今の時点では親を恨む気持ちが強すぎて動けない。