はてなキーワード: 事実とは
インフレが進むと、確かに貯金の価値は減少し、借金の返済は比較的容易になります。しかし、これが必ずしも「貧民」が喜ぶ結果をもたらすわけではありません。
まず、貯金の価値が減少することは、貯蓄を持つすべての人々に影響を及ぼします。これには、中間層や富裕層も含まれます。また、借金が返しやすくなるという事実は、借金を抱えている人々にとっては有利かもしれませんが、これには必ずしも貧困層だけが該当するわけではありません。
さらに、インフレは物価の上昇を意味します。これは、日々の生活費が増加することを意味し、特に低所得者層にとっては大きな負担となります。したがって、インフレが進むと、生活費の増加により、貧困層はさらに困難な状況に直面する可能性があります。
したがって、インフレが「貧民」が喜ぶものであるとは一概には言えません。経済状況は個々の状況や社会全体の状況により、異なる影響を及ぼします。それぞれの状況を考慮に入れることが重要です。
そんな俺でも王は知ってるし、ベーブルースも知ってるし、ベーブルースに大谷が比べられてるのも知ってる
常識や暗黙の了解や空気みたいな尺度を棍棒にして人を叩くなと言う。
しかしねえ。
少なくとも、無限に注文できるわけじゃないってことは阿呆にだってわかるはずなんです。倉庫の容積も牛の絶対数も有限なんだから。
ってか、goldheadさんご自分でも言うとるやないですか。
たしかに「50人前」は過度に見える。
おっしゃるとおり、50人前は過度なんですわ。無限には注文できない、50人前は過度。これが暗黙の了解でなくて何でしょう。
だいたい、食べ放題に相撲取りやプロレスラー、腹をすかせた体育会系の男子高校生が押しかけてくることだって、普通に予見できることだろう。
店だって当然それは予見しているでしょうし、10人の団体が50人前を頼んだんなら1人あたり5人前であって、その程度なら許容範囲かもしれません。しかし、ひとりひとりが50人前ずつ計500人前を注文したら多少人間のできた店長さんでもキレていいと思います。
(ってか、相撲取りやプロレスラーの団体は部屋や団体の看板をしょった社会人なので、あえて店と軋轢を生むような注文はしません。お互いハッピーに食べられる店を選ぶでしょう。高校生は知りませんけど。)
それはともかくとして、goldheadさんのご認識でも、1人前から50人前の間のどこかにボーダーがあることは確かですよね? 50人前でとうとう店がキレたってことは30とか40あたりでしょう。それはボンヤリにじんだ線かもしれないし、線を引けと言われて初めて検討される線かもしれない。でも、ボーダーが「存在すること」は誰にとっても明白です。どこにあるかはともかく、存在することだけは確かなんです。
しかるに、「上限数を断っていない以上、好きなだけ頼んでもいいはずだ」と居直るのは、ボーダーがあることを知っていながら、あえてそのボーダーがないものとして振る舞っていますよね。これ、正しい態度だと思いますか?
特に断りがなくても、ボーダーが存在することが自明である以上はどこかで自発的にブレーキをかけなきゃいけないことも事実です。
普通の人はブレーキをかける必要なんかありません。ボーダーがあることを理解していようがいまいが、店が設定したボーダーに達する前に満腹になるからです。というか、食べ放題のメニューはそうなるように組み立てられています。少食の人、大食いの人、あれこれバランスよく食べる人、偏った注文をする人、さまざまな客がいますが、平均をとれば確実に儲けが出るようなボーダーを設定しています。
自発的にブレーキをかけなきゃいけないのは、ボーダーを大幅に踏み越える能力を持ち、かつその自覚がある人だけです。数はごくごく少ないです。
くだんの人物はブレーキが遅かったのではありません。ブレーキを踏まなかったことを責められています。40とか50という数字に意味はありません。この人のようにボーダーがあることを知りながら故意にボーダーを踏み越えるような注文したりgoldheadさんのように「上限が明記されていない」と居直ったりするようなめんどくさい客は(ブコメにもたくさんいるように見えますが)実際にはほんの一握りであって、普通はそんな例外的なやつらのためにいちいちメニューに但し書きなんかしたくありません。それこそが風通しのいい社会です。
暗黙の了解があるというなら見せてみろ
見えないから暗黙なのですが、これはまあ、先生が出席をとるときに「欠席のやつは手を挙げろ」というような矛盾ギャグなのでしょう。でもあえて明文化するならば
ふつうの人は焼き肉食べ放題で上限を気にする必要はない。満腹するまで食べてよい。だが規格外の大食漢は自発的に手加減しろ
になると思います。
当たり前すぎませんか?
こんなこと、いちいち書かないとわかりませんか?
イット系なんかインターネットに真実があると本気で思ってるどうしようもないバカの業種じゃん
人文系の教養なんか中卒レベルで止まってて世界史なんかほとんどまともに知らない奴しかいない
下手したらそこらへんの経理のおばちゃんより文系の教育受けてないという事実を
きちんと受け止めた方がいい
創作増田・ワナビーの文脈での年収ふかしや○○に書いてあったもん!はタメ息しか出ないけど、単なる事実だもの、貯金は知らん
これって、ロリマンガやリョナマンガの作者と読者の関係にも似てると思うのよな
ロリマンガやリョナマンガ描く人って読者と同じあたおか好みを持っているまでは一緒なんだけど、
あいつら平気で妻子持ちだったり、兄弟姉妹や友達に子どもが出来ると『ファッション・ロリコン・リョナラーです。生活のために描いてる』って言い出す
それと同じで増田にいる時点で "あたおか"なのは一緒だが(そこは絶対的に安心して良い)、そこから先、例えば人間関係やスキルや年収は一緒じゃないぞ
奨学金ガーって話題でウダウダやっている横で、普通車の新車の話でキャッキャやってるでしょ
デスクワークのクソ雑魚の横で、大地や自然と向き合う系の職業や現場ねこが居たりする
・ セーターを着ている
・ 霊界にいるから、 お迎えが来ましたので・・・といった言動が多い
・ 平成31年における東大入試のときに電話をもって経済学部の事務室に移動していた
・ 平成30年の昼間の明るいときに志村3丁目児童遊園でみたときはどうしようもなく腐れ果てた39歳だったが、強烈な計算機で動いているため、法学部事務室にいるときは
まともにみえる
1.不純さへの疑念
「あの有名クリエイター」が亡くなった、と聞けば確かに大きな喪失感はある。
だが、自分のような一般オタクはあくまで、コンテンツを通して当該人物を知っていただけのいち消費者に過ぎない。
それはつまり、本人の存在の消失というより、その人が生み出すコンテンツがもう増えることがない、という事実に対しての嘆きに過ぎないのではないか。結局は己の損得でしかないのでは。
そのように疑ってしまうと、「ご冥福を心からお祈りいたします」とは軽々しく言うことができない。
2.消費への抵抗
SNSとは一種のUGCであり、そこに参加するということは、互いに言葉をコンテンツとして消費し、消費される関係に同意することだと思っている。
ふだんはあらゆる出来事をネタにして軽薄に笑い合っていても、人の死と「お悔みの言葉」まで消費の輪に組み込むことにはどうしても抵抗がある。
それならば、心の中だけで冥福を祈って、表面的にはいつも通りのくだらない大喜利ツイートを続けていた方が、まだしも純粋な追悼の気持ちを守れるのではないか。
死は、人間にとって最も重大な出来事の一つだ。故人の存在が大きければ大きいほど、それは残された人々を激しく動揺させる。
そんな状態で口を開けば、余計な本心や、逆に思ってもいないようなことをつい言葉にしてしまい、あとで後悔することにもなりかねない。単純に炎上の可能性もある。
安全性の点からいえば、何も言わずに済むに越したことはないだろう。
同業者や関係者など、半ば義務としてひとこと言わざるを得ない立場の人々には正直同情する。
とはいうものの、そんな小理屈は当然わかっているがそれでも何かを言わずにはいられないんだ、という意見もあるだろう。
そこまでの強い衝動が生まれないのなら、それはその程度の悲しみに過ぎないのだ、と言われれば返す言葉もない。
なんにせよ、あくまで自分はこう考えた結果として訃報をスルーしているという話であり、他人の行動を制限するつもりは毛頭ない。
皆、それぞれの形で故人を悼めばいいと思う。
女性の社会進出が進めば進むほど男女の寿命の差は縮むという研究結果はあって、
労働が健康を阻害して命を削るっていう端的な事実を無視するのはフェミニストの都合によるところが大きいと思う。
https://arc.asahi-kasei.co.jp/report/arc_report/pdf/rs-824.pdf
仮説1→事実
共働き世帯での家事・育児の負担は依然、女性に偏っている。総務省の社会生活基本調査によると、2021年に6歳未満の子どもがいる共働き世帯の1日当たりの家事関連時間は妻が6時間32分だった。1時間57分だった夫の3.4倍にのぼる。
06年は妻と夫はそれぞれ5時間19分、1時間1分だった。当時5.2倍あった格差は15年で縮まったとはいえ、米欧などと比べて女性への偏りが目立つ。
仮説2→男子は家庭科がなかった時代を生きてた団塊ジュニアはまだ中年で男性のボリュームゾーン。家庭でのお手伝い男女格差もあった、家事能力差は当然ある。
仮説3→有配偶の場合、死亡年齢の中央値は男性約82歳、女性約79歳。未婚の場合は男性約67歳、女性約82歳。
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うちもうちも!(事実2)
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みたいな感じで、白ハゲ漫画に対する共感から属性全体への偏見までがシームレスに繋がってるよね。
長時間労働でケアを外注できるほどの収入はなくケアしてくれる人もいない独身男性なんていくらでもいると思うんだけど。
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押す側の人はわかると思うんだけど、車椅子ってちょっとぶつかっただけで超痛い。
だから押す側はだいぶ神経使う。重いし。
繊細な人なんだなとか思われるかもしれないが、身内は人並に大雑把で人並に優しく人並に理不尽な人だ。
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例えば、人混みを通らなければならないとき。
介助者の自分は当然「すみません」って声をかけて通るんだけど、
乗ってる側としては「何で謝らなきゃならないんだ」って悲しくなるらしい。
そんなことで?ただの声かけじゃない?と思った。
大体人混み通るときって健常者だって「すみませーん」ぐらい言うし。
で、よくよく話を聞いてみると、そもそも「頭を下げないと道も通れないことが悲しい」というような旨を言う。
それは意味が違うと思うけどなあ…と思い、
そのときは「SorryじゃなくてPardonの意味だから、受け取り方が違うよ!」と慰めた。
そういうことを言う人でもなかったので、何となく引っ掛かりを覚えた。
よくよく考え、「そういう風に考えてしまう」こと自体が、身内の内情を表している、そんな気がした。
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金銭的に依存したいとか、恋愛的に依存したいとかは健全じゃないながらあると思うが、
『身体を動かす点において依存したい』という人間は、多分いない。だって不便じゃん。
最初は周囲に助けられてなんとかなるかもしんないけど、それがずっと、死ぬまで続くなら本当に毎日毎日うんざりすると思う。
周囲だって、毎日毎日世話することに疲れてくると思う。そう考えちゃうのも、周囲を信用できていないみたいでいやだし。
でも車椅子の人って実際こうなんだろうなと。
傲慢な人だとか、人を使役することに慣れている人なら、「でも俺は動けないし」で済むかもしれない。
本当~に一般の、どこにでもいる普通の人が突然そんな状況に置かれ始めたら、段々だんだん「申し訳ないな…」って気持ちになるのは必然な気がする。
「自分の要求のために絶対人が動かなきゃならない」が毎日毎日、この先もずっと…って考えたら、しんどくなるわそりゃ。
つまり、身内の中に蓄積された「また頼ってしまった」「また助けて貰ってしまった」という無力さと、
「それに対して自分が返せるものが何もない」という良心の呵責、周囲が自分をどう思っているかへの不安、
それらが蓄積した結果、「何で謝らなきゃならないんだ…」という最初の言動そのものになってるのかなと思った。
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いや、これはマジでよくない。と思った自分は「もっと外に出て元気でいて欲しいな」と安易に考えた。
だってずっと家にいるってことは、やっぱり生活に彩りがなくなるし、体力も筋力も落ちてくる。
これって、人によっては段々生きる気力が減退する場合もあるし、ネガティブになることも多くなると思う。
外に出て沢山刺激があった方が、色んなことが塗り替えられるじゃない。
でも、それも難しいんだよね、車椅子だとさ…。
だから多目的トイレを探さなきゃならない。で、もし使用されてたら使用が終わるまで待たなきゃならない。
車椅子用トイレが使用中で、仕方なく待つことはある。大体お仲間だったり、赤ちゃんだったりする。
ただ、10分後ぐらいに水を流す音もせず、ばっちりメイク決めたJKが出てくると流石にムッとする。
いや確かに多目的だけれども…苛つく気持ちは理性では抑えられない。
もしかしたら彼女も何か抱えているのかもしれないので口汚く言いたくはない。
かもしれないが…しれないが…しかし…世の中には多目的トイレでセックスをするアホもいたりするからな…。
健常者なら、許容できる範囲かもしれない。だってそんな苛立ちも抱えず他のトイレに行けば済むのだ。
車椅子の人だって介助者だって別に、自分に関係なければ許せるかもしれない。
そういうありもしない未来・過去がそのたびに去来し空しくなる。
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他の例だと、地方の美術館では2階に行けないこともあったし、砂利道はガタガタしすぎて危ないから通れないこともある。
外出の選択肢として楽なのはアウトレット。舗装されてるし広いから一人当たりの占有面積もゆったり。でも数は限られてるし場所によっては早々行けない。
海辺の砂浜なんて車輪がもたれるから絶対だめだ。山を登ることも、ハイキングもできない。
エスカレーターも階段も使えないから常にエレベーターを探さなければならない。
エレベーターって意外と辺鄙なところにあるから、実際探し当てるまでもかなり大変な目に遭ったりする。
一度エレベーター縛りで移動してみると、面白いと思う。それをこの先ずっと続けるとなると辟易だと思うが。
見つけたとしても、必ずしも乗れるわけではない。混んでたりするからね。
降りて譲ってくれる優しい人がいると、この先この人に今の五万倍の幸せがあるといいな!と思う。有難いことこの上ない。
実際バリアフリーは沢山あるし、色んな公的機関では配慮されてることが多い。
障害者オンリーの観覧日を設けてくれる美術館などは本当に助かる。
若ければ車椅子サッカーとかバスケとか、そういった活動もあるかもしれないが、年をとるとインドアなことしかできなくなるので。
とんでもない角度の段差の補助?だったりすると「あーっ惜しいですね」となってスルーせざるを得ない。
エレベーター行くのに遠回りしなきゃいけなかったりするし。まあ、仕方ないんだけどね。やってくれるだけ有難い。
(この「やってくれるだけ有難い」も、身内の「何で謝らなきゃいけないんだ」の一部だとは思うが…)
施設は、入場料がいらなかったり、半額になったりする。
でもまあそれは「平等なサービスを受けられないことによる減額」なのかもなと思う。
美術館だと照明が反射して、絵がよく見れなかったりする。健常者と見る位置が違うから。
コンサートなら車椅子用の席は固定で、「可も不可もない中間よりちょっと遠い席」が普通かも。
たまに逆にえらい良い席なときもあるけど。最後尾があたる可能性もないが、最前席があたる可能性はない。
本人は車椅子に乗ったまま、介助者の自分はパイプ椅子…なんてこともあった。
クラシックコンサートだったが、ずっと尻が痛かった。ちゃんとした席が横にあるんだからそっちにして欲しかったなあと思ったけど、まあ仕方がない。
「尻が痛かった…」と少し溢すと、申し訳なさそうな顔をされて「しまった」と思ったりする。
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マジで行ける分いいと思うのだ。行ける分良い。でも、ざっと書いただけでもこれだけ大変なことがある。
自分が車椅子だったらと考えると、そりゃ外出たくないよなって思う。
望んだわけでもないのに、同じサービスが受けられない。周りに迷惑だと思われているし、介助者にも迷惑がかかる。遠回りさせる。自分がいるから存分に楽しめなかったりする。そもそも、自分の行動や欲求に付き合わせている。
そういった事実によって生まれた葛藤が『何で謝らなきゃならないんだ』、ひいては『何でいちいち感謝しないといけないんだ』になるのは、わからんでもない。
そういう立場を体験していない自分が、その感情を否定することはできない。
ただ「しょうがないよね」って茶を濁して共感することしかできない。無力だなあと思う。
身内の気持ちは身内にしかわからないから、ここまで考えているか感じているか実際は知らないけど、まあ大外れではないと思う。
当初は「そんなことで?」と困惑した自分も、もう肯定するほかないなと思ってる。
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社会に生きる人間は良くも悪くも社会にある程度迎合しなきゃならないというのが個人的な持論。
人間は全員が「違う」から。違うから、お互いを譲歩し適切な距離を保って、険悪にならない距離でコミュニケーションをとる。
これは最近のトランスジェンダー関係の話でもそうなのかなと思う。
自分のすべて受け入れてほしい!と思うなら、そういう社会に行くか、新しく作るしかないんじゃないだろうか。
平和に生きてる人たちを脅かしてまで自分を押し通したいと思う人と、手を取り合いたいなんて思わないだろう。
だからまあ、身内の心情に心をいためつつも仕方ないよな、なんて思う自分もいて、
なんていうか…罪悪感じゃないけど、申し訳なさを感じたりもする。
色々人生楽しめるものを用意できるよう、無理じゃない程度にやっていきたい。
無理させてると思わせるのが一番、本人にもよくないと思うので。
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そういうわけで(?)
車椅子を押す側として思うのは、優しく見守ってくれる人がたくさんいてくれればいいなと思う。
助けてくれなくたっていい、通り過ぎたって全然良い。
舌打ちしたり、からかったり、邪魔になることはしないでくれれば。
こんなん、健常者でも当然のマナーだと思うんで、改めて言うのも変な話だけど。
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おまけ
テレビの某野外音楽フェス特集を見て「一回ぐらい行きたかったなぁ」と言われた時は「それは…無理だな…」と思った。
「そりゃ車椅子なんだから無理でしょ」って当然のように言う人はいると思う。
いや無理なんだよ。そりゃそう。無理なの。物理的に。
確かに頑張れば行けるかもしんないけど。知らないけど、配慮もされてると思う。
でも立ち見の音楽フェスに行くというハードルがそもそも高い。そこに行くまでの道程のハードルも高い。
立ち見だから見るとしても多分後ろの方でしっとり見るしかない。車椅子にぶつかると怪我させちゃうだろうし。
そういったリスクをひっくるめて考えて「無理」となる。勿論フェスを非難してるわけではない。
「金がないから無理」とか「忙しいから無理」とかと違って、「車椅子だから無理」は本人にはどう努力もできない「無理」だ。
介助人としては軽く「え!行きたいなら頑張るよ!」なんて返したりするけど、身内は難しいことを知ってるから、何も言わずに首を横に振る。
こんな無力なこと、ある?
自分はまあ行こうと思えばいつでも行ける。
身内はこの先あの景色を体験することはないんだ。と思ったら無性に悲しくなった。
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目に付くトランスアライはペドを肯定し、女性に加害する人間を擁護し、他人の漫画のキャラで思想を主張して、事実をデマと言い張り、障害者も女性も病人も貧乏人も差別する奴ばかり。それでトランスジェンダーだけ支援してもらおうってのは無理だし筋が通らないだろ
食なんてのは個人の自由だから、お前がそれで満ち足りているってならそれでいいよ