はてなキーワード: 21世紀とは
全然懐かしいってならない。ファミコンのゲーム映像とか見ても現役でyoutubeとかニコ動にレトロゲー実況動画とかが大量に上がってて、マリオ3なんて今でも現役でプレイされてるし、映像見ても全然懐かしいって気分にならない。
映像文化が当たり前の20世紀後半を振り返っても、今と対して変わらん。
スマホ持ってる人が少ないとか言われてもせいぜいそれくらいでは。
ファッションとかメイクとかが違うくらいで昭和に起こったようなドラスティックな変化が感じられない。
90年代なんてまるで昨日のようだ。すでに3Dゲームもインターネットもあり、i-modeすら存在した。
入れ墨シールつけてるガキを見かけたらさすがの俺も、なつかしー😍 ってなるのかしら?
時間の距離が縮むとは何かと言うと記録が充実しているのだろう。昔の人が文章を通して過去と交流したように現代では音声や動画を通して過去とやり取りしている。
もちろんブログでもよい。たまになんでこんな古い記事がホッテントリしてんだーとかいうやつがおるけれども、記事がストックされていくことがWebの良いところであり、新しい人に刺さるということはそれだけ過去の遺産が優れている証拠でもあるんだ。
90年代の映像を見ていまと対して変わらんなーって気分になったので今と対して変わらないと思いました。それには映像や記録に接する時間が増えているという背景があるのであはないかという考察でした。
もしくは本当に対して変わっていないのかもしれない。90年代の日本はぶっちゃけ世界最高峰に進んだ文化の拠点であったわけだし、それが30年停滞したとして30年遅れても十分現代と変わらない文化を担ったということかもしれない。
知らんけど。
あとやっぱりEurobeatとかパラパラとか聞いても最近の若者文化だなーってしか感じないのは感覚が狂ってるのだろうか。
90年代をガキとして過ごした自分にとっては、聞き馴染んだ最新の音楽といえばEurobeatだし、今聞いても活力みなぎる最新の音楽っぽさがあって、流行ってる方角とか聞いてもなんかな。
なんかですよね。なんか。よくわからないよな。レモンとか米津玄師とか言われてもよくわかりません。
最近は学校のリーダーズだっけ?よくわからいませんうっせえわとか言われてもわかりません。
俺の中での聞いたこと無い最新の音楽はドラゲナイくらいでよいと思います。
踊ってない夜を知らないなんてずんだもんが踊ってる動画見て初めて知ったくらいだしな。その時点ですら「なつかしい」とか言ってるガキが湧いてて、2010年以降に出現した作品なんて懐かしかね〜よ。と思ったものです。
ゲームボーイアドバンスですら懐かしくない。
入れ歯ァちゃんとかセーラームーンソーセージくらいなら懐かしい認定を認めます。
エバもポケモンもゼルダも現役だし何も変わらねーという感じが大きい。
消えたのはご飯がススム君くらいだし、ご飯がススム君は21世紀の産物なので90年代の話をしている今話題にするべきものでもない。わかりましたか?
90年代の映像が街の映像だったのも問題かもな。この30年はソフトの時代だったので、町並みとか外を歩く人の見た目は変わらないけど、コンテンツや通信技術や計算資源は爆裂に進化したわけで。
そりゃ町並みや人の風景が対して変わらいっていう俺の感想は当然なのかもしれない。
そんなところです。
21世紀の日本に生きる私から見ると「竜の首の珠」なんてそもそも竜が現実には存在しない空想上の生物と知っているから「100%無理だ!」という気分になってしまう
竜を恐竜にしたら答えは出るよ
かぐや姫が出した難題は当時どの程度の難題だったのだろう
気になる
「100%無理だ!」なのか
「いや、実現可能性は0%じゃないけどさ……現実的に考えて無理だ」なのか
21世紀の日本に生きる私から見ると「竜の首の珠」なんてそもそも竜が現実には存在しない空想上の生物と知っているから「100%無理だ!」という気分になってしまう
現代版竹取物語を考える時、同程度の難題はなんだろうとぼんやり考える
とりあえず『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』をkindleで読む
ふむふむ、要求されたモノは実在するという体で5人の求婚者は動いているように見える
かぐや姫もそもそも存在しない架空のモノを要求しているんじゃなく伝聞で伝え聞く遠き異国の激レア珍品を要求したって感じに見えるか
じゃあ竹取物語が成立した9~10世紀ごろの読者の感覚としては「いや、実現可能性は0%じゃないけどさ……現実的に考えて無理だ」くらいなのだろうな……
ということは竹取物語が読まれる時代によって、読者が難題をどの程度の難易度と受け取ったかに差があるということになる?
以前「日本人は竜という生物の実在をいつ頃の時代まで信じていた?」というトピックについて調べた
その際には「少なくとも明治時代くらいまでは実在を信じる人がそこそこいたはず」という調査結果が得られた
もちろんこれは割合の話で、大正時代くらいでも竜巻を見て「竜が出た」という人はいたらしいし、江戸時代でも竜の実在を信じない人はもちろんいたようだが
なるほど、私が今気になっているのは「竹取物語がファンタジーとして読まれ始めたのはいつの時代からになる?」という問いか
いや、この問いの書き方はよくない……ファンタジーの定義が面倒くさい……
「5つの難題で要求されたアイテムは実在しない、と読者が認識したのはいつの時代からになる?」
「月に天人はいない、と読者が認識したのはいつの時代からになる?」
という問いにしよう
まあ、だいたいこういうのは西洋の知識が入ってきて須弥山世界観が揺らいだタイミングと予想できるけれど
納得のためには調べる必要がある、推測では納得できない
そういえば以前「昔の人は月にウサギがいるとマジに信じていたのかどうか」というトピックについて調べたが、まだ納得できる調査結果を得られていない
改めて調べたい欲求が復活してきた
仏教とか神仙思想とかについて調べる必要が出てきたのだが前提知識があまりに不足していて調査が行き詰ったんだった
しかし竹取物語をあらためて読んでみるがしっかり面白い物語だな……
今昔物語集とか先に読んで浅く広く昔の人々の世界認識を知る方が近道かもしれん
こういう調べものは楽しくやらなきゃね
これは日記です
表現の自由戦士を自称する人たちが嫌ってるのは「コンプラ」であり「規制」は嫌ってないのよな。規制の度合いうんぬんの話は昨日はてブで見かけた記事が参考になる。
ここには20世紀の規制で守られてきた日本と、小泉構造改革後の21世紀のコンプラ重視による自由化社会の違いが述べられている。
「昭和は自由、令和は窮屈、窮屈なのはコンプライアンスのせい」は本当か? 『不適切にもほどがある!』の社会学(伊藤 昌亮) | 現代ビジネス | 講談社(1/12)
それまでの日本では、行政が人々の活動にさまざまな規制をかけることで、企業が不祥事を起こしたり、市民がトラブルに巻き込まれたりすることをあらかじめ防いでいた。これが「事前規制」というやり方だ。
しかしそうしたやり方では、人々の活動が規制の網の目に阻まれ、自由な競争が起きにくくなってしまう。また、規制のためのコストがどんどん膨らみ、財政が圧迫されてしまう。新自由主義的な考え方に照らすと、そうしたやり方は望ましいものではない。そこで打ち出されたのが、「事前規制」を緩和するという方針だった。
しかしそうすると、それまでは規制の網の目があることで防がれていた問題が顕在化してきかねない。たとえば規制が弱まったのをよいことに、企業がやりたい放題にやって不祥事を起こし、そのためのトラブルに市民が巻き込まれるような事態が頻発化してきかねない。そこで打ち出されたのが、「事前規制」を緩和する代わりに「事後監視」を強化するという方針だった。
しかしそうしたやり方では、どのような問題が事後に起きるのかの予想がつかないので、そのための対処のコストの予測もつかない。それを行政が一手に引き受けることは、やはり望ましいことではない。そこで打ち出されたのが、監視の機能を全面的に行政が担うのではなく、むしろその大部分を民間に任せるという方針だった。つまり人々が自分たちで自分たちを監視するようにする、という方針だ。
その結果、「何をしてもよいけれど、自分たちの行動は自分たちで監視し、自分たちで律してください、そのために自分たちで行動基準を作り、そこから逸脱しないよう心がけてください」という方針が打ち出された。そこで導入されることになったのが、コンプライアンスという考え方だった。
BPOが出来たのもこの頃よね。
それはいわば、上からの規制に守られてきたそれまでの日本人が、自己責任に基づく自由競争に乗り出していくために要請される、自律的な主体を作り出していくための手立てだった。
その後、2001年1月には内閣府に「コンプライアンス研究会」が設置され、9月にはその報告書が発表される。それを受け、経団連などの経済団体を中心にこの概念の普及が進められていき、2006年5月に施行されたいわゆる新会社法には、その扱いが明記されるに至った。こうしてこの概念は日本社会の中に急速に定着し、普及していった。
女子供が1人で歩けて、無人販売所がいっぱいあって、泥棒がいればフードバンクを作り、貧民がいればチャリティをし、チャリティを悪用する人は多くなく、冷笑せずに大人が政治参加し、誰かが告発すれば「あなたを1人にしない」と多くの人が勇敢に守って賛同して行動してくれ、車椅子の人を「あなたがどこにでも自由に行けることは権利だからお礼はいらない、ここは自由の国」と助ける人が沢山いて、痴漢を訴えれば人々が激昂して必ず守って犯罪者に厳しい処罰をしてくれ、ホームレスを見れば街の人がお金を渡して抱きしめ、
https://twitter.com/MojaMojappa/status/1768766895631864182
『インチキ医学』英国保健省が #思春期ブロッカー の定期処方を禁止することは正しい。人生を変える可能性のあるこのジェンダー違和(旧性同一性障害)の治療法により、若い命が損なわれている。
このような過剰な慎重さは、助けを必要としている人々にとっては不満かもしれないが、患者が、生命を変え、取り返しのつかない結果をもたらす可能性のある、規制のない大量実験のモルモットになるようなシステムは、はるかに悪いだろう。#思春期ブロッカー がそのようなケースであり、何年もの間、この国では自分のアイデンティティやセクシュアリティについて混乱している子供たちに投与されてきた。長期的な影響についての健全な科学的理解がないにもかかわらず、自分の性別に疑問を抱く若者の身体的発達を阻害するためにこれらの物質を使用することは、第一級の医療スキャンダルであり、21世紀のイカサマ医療における無謀な行為である。
したがって、ロンドンのタヴィストック英国保健省トラスト内のジェンダー・アイデンティティ・クリニックでの恐ろしい話の後、英国の国民保健省(NHS)が思春期ブロッカーの定期処方を中止したことは正しい。しかし、この危険な道を歩もうとしている子どもたちや親たちは、NHSスコットランドや民間医を通じて、まだ思春期ブロッカーを入手することができる。仕事はまだ半分しか終わっていない。この 『セラピー』は、英国全土で全面的に規制される必要がある。
化学的去勢にも使用されるホルモン阻害剤が、発育途上の若い身体に与える影響についてはほとんど知られていなかった。現在では、ブロッカーが骨密度に影響を与え、認知機能の発達に影響を与える可能性があることは認められている。少なくとも、このほとんど理解されていない化学的去勢は、ティーンエイジャーを仲間から引き離す。患者たちは、友人たちが成長するのと同時期に時が止まってしまうのだ。失われた歳月を取り戻すことはできない。また、ブロッカーは一時しのぎであるどころか、化学的処置や外科的処置の前触れとなり、取り返しのつかないことになりがちである。
ジェンダー違和(旧性同一性障害)に苦しむ子どもたちには、優しさ、理解、そして必要であれば精神的なサポートが必要だ。戻れない場所への道を歩ませるべきではないのだ。まだ抜け道が多すぎる。開業医がブロッカーを処方することを禁止すべき。スコットランド政府も、なぜこのような危険な行為を認可し続けるのかを検討すべきだ。
21世紀に入ってから批判的な文脈で語られることが多かったFFが高評価を受けて嬉しいわ。
しかもスクエニ最後の切り札FF7リメイクだからね。90年代の黄金時代をリアルタイムで経験した者としては感慨深いね。
ちな、PS5持ってないんでプレイはしてない。
個人的に、芸術に意味もなく埋め込まれているロマンを取り去る作業をしている。
「美的センス」だのなんだのという言葉があるが、それは「細かい色使い」「線の置き方」「参照元の選別」だったりが、鑑賞者集団の何割に(各鑑賞者に与えられた被鑑賞物集団の中から)選考されるか、という意味合いの抽象的な、ただあるんじゃないかと仮定しただけの概念である。
そんな曖昧で、無数にいる鑑賞者が何の気無しに好き勝手に見てる被鑑賞物に左右されるようなものは「トレンド」の言い換えでしかない。「美的センス」なるものを「トレンド」の上に覆いかぶせ、気難しい芸術というジャンルをビジネスとして成立させようとしているのであれば、せせこましい姑息な努力に涙を禁じ得ないが、こっちとしてはそんな都合しったこっちゃない。
だから、それを、うすーい商売っ気を踏みつけながら成り立っている芸術ごと殺すために、制作過程をアルゴリズミックにするべきだ。しかしどうしよう。流行り物をコピーして機械的な変更を加え、配置する、それを複数回行って新しいモノを…。そんなものは、ただシンプルに行えばコラージュでしかない。少し複雑にしたらカオスだ。カオスラウンジだ。計算機を使った機械的な芸術の生産、できないことはないが、コラージュから出発してゴールまでの間にカオスラウンジという谷がある。
その谷に渡す橋が生成AIだ。私には虹色に見える。レインボーブリッジだ。
既存のものにごちゃごちゃ変更を加えたものを学習するという法や芸術の倫理をすり抜ける「機械的な変更」を備えている。機序からしてこれがゴールだといえる。
🔪
話はここで終わり。なぜこんなことをするのか?「意味」はあるのか?
お前は「言葉」に支配されている。「言葉」の指し示す先を見ず、ただその指を見つめている。「意味は何か?」は使うことのできない言葉だ。
「単語」や「慣用句」に使った場合は「私の代わりに辞書を引いてください」という21世紀なら発声が終わるまでの時間に自分でできることを他人に依頼する「無意味」な言葉になる。
「概念」や「行動」に使った場合「(多くの場合、言葉を発した者に対して)有益かどうか」ということを「世界共通のあらゆる物事にたいする公正な評価システムが存在し、それが高い指標を出してくれる、世界にとって有益な物事か」という質問であるかのように偽装して尋ねる言葉になる。これらはすべて「数億年後に太陽系ごと爆発して文明ごと霧散するが、それに意味はあるのか」という質問によって「無意味」なものにできるため結論はすべて同じになる。
そもそも質問者の利益になるかは、物事を観測して自分で判断すべきだし、被質問者の利益になるかは、かなり主観が入ってきて「北斗七星が十四星に見えるため、これは有益です」と理解しがたい主張をされて、納得するだろうか。
その「北斗七星が十四星に見える」のが何故良いかの仕組みを聞くことになり、それは終わらないエンドレスなぜなぜ分析であり、ハーグ条約に囚われない新機軸のJTCの拷問であり、衒学じみた古代の哲学であり、アトムを分解しようとして核爆発が起こり、「意味」ごと世界を壊し、つまりそれは禅の間違った横道であるからして、合法ドラッグなのであるから、言語道断なのである。
意味はない、役には立たない。私の言葉は間違っているか?もちろん間違っている。なぜなら「言葉」だから。芸術は「言葉」に頼らず原始的であるべきで、そうでないものは生成AIで破壊、代替、換骨奪胎できるのである。
つまり、私の破壊の後に残ったものこそが芸術なのである。そしてビジネスを1つ潰すだけのその行為に、意味はない。
一部の論理的な哲学には敬意を持っているが…他の哲学やってるやつらってマジで馬鹿なの?こんなガバガバの文章いくらでも論破できるだろ