はてなキーワード: 新聞とは
2月(2012年)に入ってテレビや新聞各社が行った定例の世論調査結果が14日までに出揃った。際立っていたのは野田政権、民主党の急落ぶりだ。
読売新聞では内閣支持率は30%と前回調査(1月13~14日)の37%から7ポイント急落、不支持率は57%(前回51%)に上昇した。朝日新聞は内閣支持率が27%(前回29%)と2ポイント下がり、不支持率は49%(同47%)に上昇した。
そんな中で、なんとも不思議だったのがNHKが今月10日から3日間に行った世論調査の結果だ。内閣支持率が前回調査より1ポイント上がって31%、不支持は1ポイント下がって48%だったのだ。
某サイトに掲載されたコラムが発端となり、ブログ・SNSに飛び火し、基本的に若者は恵まれているというスタンスで進んでいる論調。
現在の社会はインフラが高度で合理化され、過去の自分たちが費やした苦労や時間とは比較にならない容易さで、クリック一回で実行できる社会。
そこで高い代償を支払わずに、ゆるい連携を持って生活する若者は恵まれている、しかし熱が感じられないので、過去の経験から「夢」と「積極性」を持つことをアドバイスする。
という点、過去は苦労したが未来は明るいという楽観的な先入観はもう通用しない時期に来ているのに、発展した未来のインフラや生活様式に気を取られ新たに発生した問題が見えていない。
見えていないというより「更に発展した未来で解決可能」又は「過去の苦労に比べればやさしい問題」と考えているのでしょうか。
社会基盤が発展すれば、価値観や生活水準が変わりますと言えば、誰もが同意するでしょうが、負の発展(規模の縮小)は誰も経験していないのです。
例えば90年代まで若者のアイテムとして誰もが持っていた車、車離れが叫ばれて久しいですが、都市に住んでいる若者における車の必要性が低下し、代わりに携帯電話とPCを持つようになっただけです。
しかし車の購入・維持に比べれば遙かに購入が容易な端末なのに、PCを持っていない人が大勢いる。00年代初頭における我が国のITインフラ整備率は世界一位ですが、現在は目も当てられない状況です。
PC購入するだけの収入がない若者は携帯で何をしたか、現在ではスマートフォンでかなり情報収集が便利になりましたが、ガラケーと呼ばれる国産端末におけるネット探索能力は前者と比べると劣悪で、利用者は検索エンジンで何かを調べるというより、遙かに狭い範囲でしか活動できなかった。新聞も購入していない、TVも見ない、社員として収入が確保できる30代以上は例え不慣れでもPC位なら即金で購入する事が出来るので、ある程度のリテラシーを培う事が出来ますが、その機会さえも与えられていない。結果情報を持つ人と持たない人の間の格差が広がる。所得が低くなっても相対的な幸福度は昔より高いという人は、かつての新聞とTVから情報を得ていた経験から言うのでしょうが、インターネットで必要な情報を素早く調べて理解するというのが基本となった世の中で、流動的な情報ニュースより固定化されている公的・私的な各制度のアクセスにおいて絶望的な差が生まれている。利益が1与えられるか99与えられるかの差でなく、0か100かの差で生きなくてはいけない。この問題に最初に晒されたのが現在の20代後半。
今の大学生はPCを所持することを半ば義務化されていますが、業務で使用できるレベルでOfficeを使えると認定される資格を持っている人は、2割居ないでしょう。ですが、職安に出されている求人のほとんどはOfficeを最低限使える人間を求めている、でも資格を取れるレベルで教えてくれる高校や大学はほとんどない。高卒は自力で学ばないとスタートラインにさえ立てない。しかし採用基準は厳しくなったのに、現在働いている社員になんら教育を施さない、Excelで文章作成する事の何が悪いかのかさえ分からない。
収入は、小泉改革以降合理化され、事務職は派遣で構成され収入は捨扶持レベルの15万円程度、それでも仕事があればマシと言えるかもしれませんが、今後は労務環境の国際化によって事務職そのものが国外に外注されるのは確実。そして発生する人口減による国内市場の縮小、70年代に隆盛を誇った着物業界の現状の様な事態が各分野で発生するでしょう。
中年が考える未来は必ず発展し、解決されうるものとして存在していますが、今後の日本が進む道はその真逆としか言いようがない。中流のホワイトワーカーは営業を除いて全滅し、高所得者は移民の導入を要求する、対して単純労働者は仕事を取られまいと反対に回る、すでに同じ事が発生している会社もあるでしょうが、これが社会全体で常識となるのに何十年もかからないでしょう。
更に合理化され、余計な費用を払わずに生活できる世の中、しかし収入は少ないのに、最低限のインフラをそろえないと就職さえままなならない世の中、企業では仕事を一から教えてくれないので、自費で各種の専門校に通い勉学する日々、収入のすべてをつぎ込んで遊びなんて全くできない20代、当然お金が足りないので脛を齧れる人は脛をかじり、齧れない人は何年もアルバイトをして費用を捻出して、職歴なしというハンデを背負い戦う。大人は新卒ですぐ就職することが全てでないと高説を垂れるが、そんな人間を雇う気は無い。
昔あった問題と今の問題、問題という意味では等価値で、その大きさは当人には判別できない。過去にとらわれているのはどちらだと。
戦前に生きていた人達は、次の世代に多くの機会を与えましたが、その世代は次の世代に機会を与えない。というのは言いすぎですかね。
横増田だけど
ノウハウを書いたブログの転載に関しては「ネットに書いたものは全て無断で拡散される可能性があるもの」として諦めている
記事がミックスされて自動生成記事にされたり勝手に自動で収集される記事まとめブログに
一つ一つ抗議するのも手間がかかりすぎるので、増田以外のブログにはあえて無許可無ソースで転載可(しかし情報の状況は時間の経過ともに
変化するからそこら辺は転載する人が責任とるようにうんぬん)と書いてあとは放置
増田以外のブログはこうやって取引ルールや質問に対応していますよという、マイルールを初心者向けに広めるために作ったブログだった
から転載されて情報商材に使われようがそれは別に構わなかった Q&Aサイトの流行とともにそのブログも役目を終えて更新もやめた
ニュー速に書いたレスに関しては「書き込みを2chまとめアフィサイトに転載する時はレス使用料金を払ってください アフィリンクついていない2chまとめサイトはレス使用料無料です。」と書いたらレス転載するところ少なくなった。
ライフハック系ブログ・アフィ付きまとめサイトへの無断転載はともかく増田で書いた記事を許可無く無断で書籍や有料コンテンツ(電子書籍・有料メールマガジン・雑誌記事・ネットでの広告記事も含む)の一部にされた場合は流石に訴えるかも そこが横増田のライン
追記:「匿名」である「はてな匿名ダイアリー」の記事を本当の話であるかのようにネットメディアに無断転載するからには
無断転載したネットメディア側もその記事が嘘だった時に責任を取って欲しいものですね。雑誌や新聞と違って「伝聞」だからで逃げては
それでは、ちょっとだけ、隣に座ったご婦人たちの会話に耳を傾けてみましょう。
カランコロン…
「昨日の徹くんカッコえかったなぁ」
「最近、顔も引き締まってきたし」
(中略)
「あっきーのラジヲ聴いた?」
(中略)
「神戸の女子大の合気道のせんせやろ。若いころに出会いたかったわ」
(中略)
「水曜のアンカー見た?青山さんがちょっと英語をしゃべってはったんやけど、かっこええわぁ」
「今週もええこというとったで」
「知り合いの日本の中枢にいるインテリジェンスって誰やねん。毎週はなしの中にでてきはるけど」
カランコロン…
大阪のおばちゃんは、東京に住んでいる情強の兄貴と同じ情報ソースをご覧になっているご様子です。なんだかすごいですね。
それでは、また、次回をおたのしみに。
元増田です。様々な意見で煮詰まっていたのが少しほぐれてきた。多謝。
夫&親戚も、専業主婦になったっていいって言ってくれるけど、子供の自立後が寂しそうだし、仕事続けたい。
憧れるのは『余裕がある暮らし』。朝はコーヒー飲んで新聞読んで、月1は家族3人水入らずで遠出する時間を捻出したい。
9ヶ月の子供は気質が穏やかな方。離乳食もよく食べてくれる。生活習慣も出来て、夜泣きもたまで育てやすい。だから元ぐーたらカポーの要領の悪い増田でも何とかなってる。
>むしろ子供の分だけ作って親はコンビニ弁当とかになりそうだけど
これはガチ。離乳中期の始めはよくやった。でも風邪引きやすくなるから鍋とかカレーとか手抜き料理にした。
>家事なんて、グッズ使って、手を抜きまくり、病気にならない程度にやってりゃ十分なんだよ。
>世の男どもは、みーんな、そう思ってる。まして、共稼ぎしようって男なんて「家事? あんな楽なことに何時間かけてんの?」だよ。
>そこで「手を抜いてるから楽なんだろーが」と噛みついても仕方ないのは、元増田が経験した通り。
↑これ、旦那の意見まんま。そうなのよ。夫は自分が鍋だろうがコンビニ弁当だろうが文句はいわない。この前は出した靴下の色が少し違ってたけど気づかず履いてった。
ただ、ほこりで人死ぬっけ!? な人。子供が2歳になるまでは、私が本能発揮した方がいいんだと思う。
『必要を感じない状態』を私も知ってる。その場合の最低限と、必要を感じてしまった場合の格差は、埋めようとすると衝突しちゃう。
離乳食は全部私がやってしまう。夫の成長の機会を奪ってるのかもしれない。どうしても週末私だけ出かける時は、タイムスケジュールとチンするだけにした離乳食を置いておく。
でもほんと、いい手抜きしたい。まずは週末は買い物って思い込み取ろうと思って、生協の宅配に加入した。
離乳食は基本冷凍してる。おかゆやパスタの炭水化物、納豆、マグロの赤身焼いたのとかタンパク質。あとは青菜と人参とカボチャは切らさないようにしてる。全部フライパンでゆで適当に冷凍してる。グラム数とかは細かくは測ってない。
鍋おじやが週1〜2はあるし、たいしたもん食わせてない。ベビーフードは週1〜2、野菜とか豆腐混ぜてあげてる。ホワイトソースとかチキンライスの素もよく使う。
保育園もよくやってくれてる。相談もできるし、親世代じゃなくて今の育児教えてくれるからほんと楽。
掃除は、一日2、30分にしようって決めてる。半分でクイックルワイパーと棚の拭き掃除。残りで週1〜2とか月1って決めた箇所を順繰りに。とりあえず、週末たまった家事をしたら日が暮れて月曜が来るってのを辞めたい!
風呂の掃除も、蛇口とか子供が好きで触ったり舐めたりするから、必要に迫られてやってるだけ。子供の場所を限定するか、親が掃除するかかな、と思う。
確かにそうだよな。マンガ・アニメ・ゲームなど「一人用娯楽」が充実する前は、集団でつるむのが最大の娯楽だったわけで。で、集団をつるませる最強のツールはなんといっても「圧倒的に強いものに対する弱者の愚痴」だろうしな。そんな時代にはデモやストライキなんて絶頂に面白い娯楽よな。
普段上司にもおどおどする弱者が集まって、大通りの道の真ん中のし歩いて大声でわめき叫んで喝采を浴びて、終わったら打ち上げに飲みに行ってクダ巻いて、仕上げにTVと新聞で自分らの勇姿を見てまた盛り上がる、と。多少ミテクレがどうでも腕力がなくても、先頭で旗振ってれば、「あら、かっこいい」って感じでちやほやされる、と。おまけにそれで給料もあがったりするかもしれん、と。
そりゃやるなと言われなくてもデモやるわ。
今の時代のデモ知ってるか? つきあいで日当貰って交通費貰ってそれでも休みを潰すからやり手もなくて順番の押し付け合いで、当日は道の端を一列に並ばされて、歩き方から旗の振り方から横の警官に指示されて歩かされて、通行人が素で歩く横で「○○○○~!」とか馬鹿みたいな台詞を叫ばされて歩いてる女子高生にはあからさまに「うるさい」とか文句言われて耳ふさがれて、いや一般人に反感買いながらやるようなことかこれ?と疑問をいう余地もなく、終わったら「はいおつかれー」みたいな台詞だけで、もうみんな死んだ目で一刻も早く帰りたい雰囲気が充満して、さっさとかえってゲームでもしてえな、という。
そりゃ流行らんわ。
労働運動のやり方、少しは考えようや。な? せめてストだけ真面目にやるとかさー。
「尾崎豊にカブれていたのは同時代でも十分にイタい人たちで、とてもじゃないけど朝日新聞に入社するタイプじゃなかった」ということを
覚醒剤のオーバードーズで死んだ歌手を持ち上げて、若者に怒りと反抗を促す社説って、ただただグロテスクだよ。
同じ事言ってるのが貧乏ロケンローラーなら半分ぐらいは耳を傾けてさしあげるけど、新聞屋さんには言われたくないっス。
あの文章にアジテートされて、若い連中が本当に怒り出したのだとすると、真っ先に火あぶりにされるのは社説子さんだと思うのだが。
若者に対して「怒れ」と言う人たちは、自分が怒りの対象になることをまったく意識していないわけだよね。
「オレたちが学生だった時は権力が見えていた」「君たちには闘う相手が見えていない」って、20代半ばの頃、四谷の飲み屋で言われたことがある。
温厚なオレもさすがに靴の中で足の指を縮めた。
その時のことを今朝の社説を見て思い出した。
まあ、20代半ばのアマチュアロックバンド座付き作詞家の半失業者に向かって、
一部上場企業の正社員が「反抗しろよ」とか言ってたわけですからね。
ただ、武勇伝要素横溢だったり、自分語りの垂れ流しだったりするのはダメ。今日の社説はモロにそれだった。
「で、あんたはいつ辞表を叩きつけるんだ?」と問い返さないでいるのが困難。
失業ほど根源的な反抗は無い。あの人たちにはそこのところがわからないんですよ
何よりひどいのは最後の「ともあれ、おめでとう」の一文だと思う。「ともあれ」はひどい。範囲を限定した祝福は一種の呪い。
ともあれおめでとうとか言われたから、とりあえず黙れって言っといた。ともあれ〆切が迫っている。ともあれやる気がしない。
ヤングジェネレーションに向けたオールドメディアからのフェアウェルだったというふうに解釈すればオレのこの気持ちの悪さもクリアされるわけだな。
(※婉曲な表現を実現するため、カタカナを多用しています。ご了承ください。)
ところで、「天声人語書き写しノート」という商品が発売されています。 http://t.co/HxPT5LFT
店頭で見た時、心底から驚愕しました。写経ですか? 自己肥大もここまで来るともう笑うしかありませんよ。
《朝日新聞の1面に毎日掲載されている「天声人語」を、知らない漢字や言葉を辞書で調べながら書き写し、文章の構成力やリズムを身につけませんか? 毎日続けると、世の中のいろいろな出来事がわかります。》だそうです。うわあぁぁぁ(絶叫)
《朝日新聞の1面コラム「天声人語」。100年以上も続く名物コラムには、文章を書くために必要なエッセンスが凝縮されています。1カ月ほど書き写していると、自然と文章力が見についてきます。受験や就活の対策、また大人の学び直しに「天声人語」を書き写して見ませんか?》だそうです。う(嘔吐)
だいたい「天声人語」っていうタイトルからして、上から目線どころか「天からモノ言ってる感じ」で、もう全然ついていけません。
《大人の学び直しに「天声人語」を書き写して見ませんか?》 って、ものすごいコピーだな。
書いたコピーライターもすごいけど、会議通したヤツ全員が超絶的にすごい。
星の王子様の「やあやあ、またワシに感心しているやつがやってきたぞ」の王様に匹敵すると思うな。個人的には。
「天声人語書き写しノート」、なくならないうちにひとつゲットしておこう。きっと5年後には伝説の商品になっているはず。
①新入社員全員に「天声人語書き写しノート」を配布
②3ヶ月後に提出を命じる
③忠実に書き写した社員はその場でクビ
④「うちもさぁ、コピー機みたいな社員置いとく余裕ないわけだよ。じゃあな」みたいな。
逆に言えば、「社説」を「社の意見」として、毎朝掲げることができるのは、北朝鮮ライクな一枚岩の言論機関だけではなかろうかと…。
個人的に若死にした人間を持ち上げる論調が嫌いなもので。他人に語れるような夢は偽物。
オッサンにならない特権を行使するために早死にを選ぶクリエーターに対しては、全力をあげた忘却で対応することにしている。
努力の介在しない忘却は低能の結果に過ぎない。
盗んだバイクで新聞を配達したこともないあんたに何がわかるんだ? と、オザキが生きてたらきっとそう言っただろうな。
なんにもわかっちゃいないくせにというよりもなんにもわかっちゃいないからこそなおのこと。
尾崎社説程度のものに過剰反応しているのは、オレがなにか苛立ちをぶつける対象を探しているからで、
その原因は…たぶん盗んだバイクで走り出した先にある。
何か機嫌の良くなる話題を考えよう。そうだ澤穂希。バイクを盗まないで走りだす中盤の宝石。ありがとう澤穂希選手。
ステマステマと盛り上がっているのを見て、松本サリン事件を思い出した。
河野義行さんへの冤罪報道がすごかった。確かニュートン(科学雑誌)でも
僕も、そういった報道を見て、科学の専門誌でも書かれていたので、その
人が犯人だと思った。でも実際は河野義行さんはまったくの無実だった。
本当に驚いて、その時から、テレビの報道やら、専門家のいけやら、情報
としては聞くけど信じないようにしている。
ステマの問題は、広告に見えない広告、無色の情報に見せて、色が付いて
いることが問題視されているが、色のついていない情報は、ほとんど無い
と考えている。あっても、かなり関係の無い立場からの情報で内容が薄い
と思う。
例えば、企業が自社製品の情報を作る時、実はこの新型冷蔵庫は余り冷え
ないとか出さないし、どの組織も自分達にマイナスになる情報は出さない。
メディアも広告で成り立っている訳だから、広告主を進んで悪く叩かない
だろうし、何処かにぶら下がっていれば、そこの記事を良く書くのは当然で。
全然つながりの無いところが出す情報は、2ch等も新聞も、専門的な部分を
勘違いしていたり、実際の問題や、解釈が低くて別の話しになっていたり。
する。
ああ、オヤジの「居酒屋若者論」か、などと言わずに、聞いてほしい。
キミが生まれた20年前、偉大なる社会主義国家、ソヴィエト連邦が消えた。ベルリンの壁崩壊から2年後のクリスマスに、かって革命を夢見た全共闘世代は涙したものだ。
新聞には「資本主義が勝利したのではない。アメリカの一極支配は必ずや滅ぶ」と投書が載った。
人民を革命へと駆り立てたのは、資産家や資本主義社会への反発、不信、抵抗。ゆるやかな社会改良による解決がないわけじゃないのに、プロレタリア独裁を宣言し、ぶつかり、傷つく。
その心象が、若者の共感を呼んだ。ロシア民謡は小学校の教科書にも採用されたほどだ。
全共闘運動に詳しい社会学者の小熊英二さんは毎年、大学の授業で『共産党宣言』を読ませ、感想を問うてきた。ここ数年「暴力的なだけじゃないか」「私有財産の何が悪いのかわからない」と、批判的な意見が増えているという。
教室に居並ぶのは、親や世の中に従順な若者たち。キミと同い年なら、石川遼くん?
でも、就活の道は険しいし、滑り落ちたら、はい上がるのは難しい。時代は、国家がノルマを課したころよりずっとずっと生きづらい。
だけどキミたちは「自分にスキルが欠けるから」と、どこまでも謙虚だ。格差も貧困も「自己責任さ」と、受け入れてしまっているようにみえる。
ソヴィエトはどこへ行ったのか。
全共闘世代の仙谷由人さんには「かつて若者は暴力装置であった」と言われそうだ。
「大学解体」と「自己否定」のスローガンで機動隊と攻防戦を繰り広げたのは過去。大学全入時代で自己実現を勘違いする若者に、暴力で社会を変革するエネルギーはない、と仙石さんは語る。
革命を夢見るよりも、自己責任を受け入れて、親しい仲間と「いま、ここ」の身近な幸せをかみしめる。そんな価値観が広まっているという。
なるほどね。いくら「若者よもっと立ち上がれ」と言っても、こんな社会にした大人の責任はどうよ、と問い返されると、オヤジとしても、なあ……。
でも、言わせてもらう。
私たちは最近の社説でも、世界の政治は若者が動かし始めたと説き、若者よ当事者意識を持てと促した。それだけ社会が危うくなっていると思うからだ。
だから、くどいけれど、きょうも言う。成人の日ってのは、そんなもんだ。
ともあれ、おめでとう。
元記事
http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html
9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そらが社会の理想と希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果的であるといえる。
その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピーは日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。
ネット上の無料コピーによる、著作権侵害が違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権を侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号は場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民の意識に応じて法を変えれば良い。
そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも、国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。
(終わり)
日本のメディア間の隔絶について 日本のおけるネットとオールドメディアの最適な関係の構築方法の模索
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネット、TV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、Permalink | トラックバック(0) | 04:44
親はおおらかで心優しい人だった。
愛情をもって私を育ててくれた。
地頭はあるほうだ。
インターネット・テレビ・新聞で情報を集め、自分の意見を考えられる。
それをもって、きちんとした大人と議論することもできる。
友人の数は多いほうじゃないが、学内に知り合いは多数できた。
付き合って2年になる彼女もいる。
今後大きな仲違いがなければ、結婚するだろう。
しかし私には、低学歴で、低収入で、親の教育がひどくて、情弱で、コミュ障で、結婚もできず、能力のない
底辺の気持ちは一生わからないのだ。
日本はより底辺には住みづらい国になるだろう。
たとえば鳩山元総理が、日本の底辺層の気持ちを無視して、友愛と叫び続けたように。
私は、底辺の現状を、考えを、気持ちを、知りたい。
そして底辺に対して何をすべきか教えてほしい。
少年事件を専門に扱っているサイトに12歳の小学生が妊娠。相手は高校生という新聞記事のコピーが載っていた
あと、くぐれば出てくるけど、ブログで妊娠を告白している12歳の中学生がいた
日本でもあり得ない話ではないよ
箱根駅伝は面白いんだけど、特定の大学を応援する報道をしているマスコミがあるのがなんだかキモイと思う。
往路で優勝した学校をフィーチャーするべきだと思うんだけど、なんで2位の逆転についてねちねち書いてるのか理解に苦しむ。
今回は往路の最後のランナー、東京農業大学の選手の状態についてもう少し考える余地があると思う。
数年前、天候のせいか、脱水症状で棄権者続出のときがあったが、それも含め、全体の運営とかルールについての報道するならともかく、特定の大学を応援ばっかりするマスコミって、もはやマスコミじゃないような気がしてならない。
他の音は継続しないからさ。それに、袋を開ける音も、新聞を広げる音も、そういう音だろ?
シャカシャカだけは「何かの音の一部」なんで、余計イライラする。
私はむしろ、音楽流してくれたほうがうるさくは感じないんだが。音楽の好みがあるから、誰もが、それでOKとは言ってくれないだろうなあ。
ゲームのカチャカチャ
新聞のガサガサ
とかは良いの?
なんか迷惑だって人間が「シャカシャカ音」に対する時だけ過剰反応に思えるのは何で?
半端な音を聞かされるのはうるさい。それ以上に(そんな大音量じゃないと聞こえない君の耳、お医者に診せたほうがよくないか?)と心配させられるのが嫌だなあ。
こちらの方がキミの繊細すぎる精神を心配してしまうよ、会話する友人と電車に乗ることが無いキミは満足なのかもしれないけどさ。
みんなお通夜みたいに黙祷してればいいの?お出かけ楽しみにしている人たちも気がめいっちゃうね。
というキミこそがノイズキャンセリングイヤホンでも付けて環境音聞きながら電車に乗るべきなんじゃない?