はてなキーワード: 社会生活とは
「当時の社会は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の”全体主義”が是とされた社会」
「そんな社会の中では、あの未亡人(※西宮のおばさん)のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった」
「清太の失敗はそんな”全体主義”の時代に抗い、節子と二人きりの”純粋な家庭”を築こうとする、という愚行に走った事」
「我々現代人(放映当時)が清太に共感しやすいのは時代が逆転したから」
「いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、僕はそれが恐ろしい」
この世界で神様を信じないで生きる方法がないか模索していた。ワイは、不条理を受け入れられるほど、マッチョでもないし、自殺をするほどの勇気もない。いまのところのワイの解決策は、神様を盲信することしかできない。
自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。
盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。
不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している[1]。
別に神様なんか盲信しなくても、生きていける。それは例えば順調に心理的に成長した場合だ。発達課題を克服し、欲求を順調に満たせた場合には、別に神様なんか必要なくなる。
しかし、それがどうしてもできないワイのような人間が出てくる。なぜなら、人はどうしても理屈ではわかってはいても、他人のとの比較の中で、自分の幸せを定義してしまうから。もちろんこの実験では 2 の世界だと 1 ドルの価値が低いから選んだんだろ。というツッコミもありますが..
次のどちらの世界に住みたいか、ハーバード大学の学生と職員に質問を行いました(Is mor always better? A Suvey on Positional Concerns,Jounal of Economic Behavior and Organization)
1. 自分は収入が5万ドルで他のすべての人は収入が2万5000ドルの世界
2. 自分は収入が10万ドルで他のすべての人は収入が20万ドルの世界
結果は、56%の学生が1を選びました。
だから、幸せになる人たちがいる反面、不幸になる人たちがいる。他者よりも優れていたいという、本来の生物的な欲求も満たすことは、まずできない。社会的な欲求を満たすには、人の役に立ったりするには、必ずしも優れている必要性はない。でも、他者よりも優れていないと、そういった機会は、どうしても少なくなる。
アイアムヒーローの世界には、発達課題を克服することができず、欲求を満たせない人たちに焦点が当たっている。クルスをはじめ、みんななぜこの世に生を受けたのかということ自体に疑問を抱いている人たちだ。彼らは神なった。でも、英雄は神にはならなかった。
終わり方がひどいって書いてあるけど、奇跡を起すこともできたんだと思う。誰かを生き返らせたり、あるいは敵役を殺したりして。でも、奇跡を描かないで、丁寧に現実の世界で生きている英雄を写して、徐々にワイら読み手の世界と近づけようとしている感じがした。
物語の最後の局面で誰もいない、比較されることのない世界で一人になった。なんだか急に現実に引き戻されたような気もするし、そうでないような気もする。生きることを選んだという意味において、現実の世界でクルスのように生きているワイのような読者にとって、英雄は hero なのかもしれない。
でも、決してなけなしで放り出したわけではない。ヒロイン2人から愛されたという記憶はでかいよな... それが読後感を与えている。ヒロインが登場しないでもそういった話は描けるのだろうか.. 難しいだろうなぁ。
童貞がセックス「だけ」出来ても満たされないのは当然で、AVオナホ風俗が氾濫する社会で性愛に苦悩する男が求めているのは「異性の承認」であって膣ではない
童貞を苦しめているのは性交体験の欠如ではなく、雄の自尊を構成する「自らが女に求められand/or受け入れられた」という成功体験の欠如なのだ— 脱税レイヤー風呂屋さん (@557dg4) March 27, 2018
ドストエフスキーの罪と罰でも、ソーニャがいて、ラスコーリニコフは普通になった。結局は可愛い女の子との記憶がないと楽しくないなんて、なんだか寂しい気もする...。
そういった成功体験、物語、あるいは神様と、そしてその成功体験、物語、神様を確実なものにするために、社会生活からの隔絶されて初めて、英雄は生きているのかもしれない。また、奇跡が起こって元の人のいる社会になったら、そういう辛い世界に戻ってしまう。
結局、我々は物語という神様から逃れられないのではないだろうか。でも、ある意味、生物学的に優れている人も、そういう自分は優れているという物語の中に生きているのかもしれない。その物語も、所詮は相対的なものでしかない。絶対的な基準ではない。
神様なんかいないんだ、という姿勢は、結局、俺はすごいんだぞ、という自分の物語、世界を押し付けているだけで、どこか、酷い気もする。
人間は(信じたいと)望むことを信じる。
Homines id quod volunt credunt.
逃げられないというより、作るしかないのかもしれない。自分が、いま生きている世界を。ある種の不条理、社会的な不条理は、物語を作ることによって、乗り越えることができるのだろうか。それは自分ができる範囲でということか。
クルスくらい追い詰められた人間にも希望を与えるというのは、正直かなり厳しい気がする。クルスは神様になるしかない。普通の人間ならできるだろうか。もう少し文章をまとめたい。
いやこれはそろそろだめだ。
関わった人全員に愛想尽かされてると思い込んでるし、実際何人かは本当に愛想尽かしてると思ってる。
仕事の、それも初日に、大事な予定のある時間を間違えてそのことに気づかず、予定の時間をまあまあすぎてから気づいて連絡。はい、死。
どうすればいいの。
一応謝罪して次の予定入れてもらったけど行ける自信がない。どんな面下げて行きゃいいんだ。もういっそこのままやめたい。そのまま消えたい。存在してたことを忘れてほしい。心折れそう。
細かいことは詰めれるのに、最後の最後の一番大事なところで取り返しのつかない大ポカをやらかす。いっつもそう。
メンタル弱小だから、そんな些細なことって言われるかもしれないことで人生取り返しつかなくなって死ぬしかないと思ってしまう。
ねえこれどうすればいいの。
何か一つ特殊能力が今もらえるなら、他人の認識を捻じ曲げる能力が欲しいぐらい。
予定は今日じゃなかったし、そもそもわたしは先方に会っていない。ここで働く予定もない。今までの人生で一度も関わったことがない。という風に認識を書き換えたい、ぐらい。
胃が痛い。こんな迷惑かけまくってお世話になるの、ほんと厚かましいにも程があるだろうからもういっそ来なくていいですって言ってほしい。胃が痛い。
肉体の加齢は避けられないものだから、ファッションとして少女性を表現することはスッパリ諦めた方が楽かな。
そのかわりに、バーチャルYouTuberになるとかどうでしょう?
少女の身体を手に入れて、仮想世界に生きる自分を創り出すって作戦で。
ハードルが高いのなら、PCでやるMMORPGにいろいろ手を出してみて、理想のかわいいアバターをつくるとか。
女性率高めでアバ弄りが深いと思ったのはマビノギだけど、最近のだとTree of Saviorとか黒い砂漠とかAIONとかTERAあたり?
作品ごとに造形のクセはあるけれど、ほとんどのネトゲにロリータファッションはあるので。
そうやってキャラとして他人と遊んでいると、不思議と「リアルの自分像」に影響されない無邪気な自分が出せたりする。
それもきっと救いになる。
長く遊んでいるとキャラが自分の一部になる感覚があったりして。
するとオフ会とかしても意外にキャラ寄りの人格を出せたりする。
ギャップがあったとしてもだいたい好意的に面白く受け取ってもらえる。
ネット仲間にだけは本当の自分を晒せるという人もいるし、ゲーム内結婚してリアルでもって人がいるのも頷ける。
そうやって、「リアルで社会生活してる自分」以外の別の自分をもつのが精神的にいいと思う。
お見合いサイトなどではなくて、リアルな地縁、血縁、職場の縁を通じて、結婚したいのでお見合いを紹介してくれ、と頼むのがいいよ。
できれば同輩よりも目上の人間のほうがいいだろうな。
増田が真面目に社会生活を営んでいれば、お見合い相手は複数紹介されるよ。
自分の社会的評価(序列といってもよい)を明白にわからされるのはしんどいけど、現実を知るのはマイナスではない。
そもそもみんな恋愛に夢を見すぎ。あんなものは電通を筆頭とした消費産業のプロモーションに踊らされているに過ぎない。
ハロウィンやクリスマスはもう、元々日本のお祭りです!と言わんばかりに広まりまくったし、近年はイースターでも盛り上がるらしい。数年後にはショッピングモールの催事コーナーにハロウィン、クリスマスあたりと並んでエイプリルフール特設コーナーが出来るかもしれないな…いやさすがに無いな、それは。
まあさして自分の生活には影響ない。せいぜいソシャゲがこぞってネタに走ってるのを見るだけだ。
話は変わるけど、今日人生初の履歴書を買ってきた。いや、買ってきただけでまだ書いてはないんだけど、職につくことのすべてが初だから全部全部ハードルが高いように感じてしまう。
今までの人生で面接を受けなかった分をここ1ヶ月で受けてる気分。言うて2回しか受けてないし、受けた理由もまったく別だ。
自己アピールが死ぬほどできないので困る。とても困る。だいたい聞かれるだろう、自分の長所の話。自分の長所らしい長所が見つからない。絵も文も書けない、運動もできない、大してコミュニケーションもうまくない、何も頑張ってきたこともない。苦し紛れに義務教育中散々言われてきた継続力の話をするけど、多分それが一番出来てない。出来てたらこんな人生になってない。ルールは一応守って生きてるつもりだけど、完全だったかと言われたらNOだから、人様に自慢できるほど誠実な人間でもない。
金は欲しいから働きたいけど、そこに至るまでが苦痛すぎる。働くこと自体は(したことないので予想だけど)まだ大丈夫。社会生活とか、しっかりする、自立する、みたいなところが苦手すぎる。バイトしたいですって向こうに電話掛ける時だって、ものすごく、だめだった。
自覚してるけど、わたし多分ちゃんとするのハードルを高く思い込みすぎなんだと思う。自覚してるけど治らないんだ。
うまく言語化できないけど、わたしはちゃんとしてないから、みたいな思考?いつまでも自分がお子ちゃまなままだと思ってる。うーん、やっぱり感覚的な話になってくるからこれ以上は割愛する。
社会のハードルを高く捉えすぎなんだよ、わたし。未だに店員さんが苦手。極端なたとえ、飲食店で店員さんが転んで料理がわたしにかかっても、ちゃんとして働いてる店員さんに申し訳ないとか謝られたりすると、逆に申し訳なくなる。わたしなんてお子ちゃまだからそんな畏まらないでほしい〜そんな丁重に扱われるべき人間じゃないよ〜、みたいな……?やっぱり言語化が難しいけど、そう。
多分だから、辞めたくなったとき本当追い込まれそう。今までもバイトじゃないけど、習い事とか精神科とか他にも色々、通うということを辞めることに対してもハードルを高く感じてる。通うのをやめたいけれど言い出すのは何か、失礼なような、辞めることを許されるとは思えない、のような…そんな重圧を勝手に感じてしまう。
またこんな時間まで起きてしまった…。早く寝ないといけないのに、全然寝付けない。4時を回らないと眠らなくてはいけないってスイッチが入らない。
いやこれ自分的にはギリギリアウトです。ほぼノータイトルに等しいです。ギリギリアウト。
ただの人間がただの日常を書くからには何かしらタイトルぐらいは必要なんじゃないかと思ってる。いや、そもそもがこの、他人の日常を切り取ったものを公共の見世物として出す、って行為が冷静に考えなくても異常だよね、ここ最近の世の中。かくいうわたしもこうして日記をはてなに書いてる身なのでまあ、これ以上言及はしないでおく。
いよいよ四月からバイトを始める予定でいる。人生初のバイトだ。中学生の時に職場体験なんかに行きはしたけど、今度は体験で来たお客さん学生じゃない、ちゃんと社会の一員にならなければならない。
ウワァそう思うと、もう考えるだけで胃が痛い。金が欲しいからバイトはしたいけど、社会生活できる気がしない。
なんか職場体験って書いて中学生のことをぼんやり思い出したけど、なんかその頃から全然変わってない気がしてすごく、自分が小さく見える。みんな年相応に落ち着いて社会的な何かもだんだん持てて、でも自分はなんにも変わっちゃいなくて、なんか、少し惨めな気がしてならない。
とりあえず明日は電話をしなければならない…今から胃が痛い。やってけないよなあ、ああ。なんだかバイトするバイトするって言ってるけど、世間で働いてる人みたいにしっかりできる気がしない。いつまでもお子ちゃまで変わらない。
一生お子ちゃまでいたい気がしてしまう。嫌なことは駄々こねて、好きなことだけして遊んで、責任もいらないし、さして将来についてクヨクヨする必要もない。
ゲームのAPが溢れてしまったけど、なんかもうどうでもいい。一回溢れさせたらダメだ…!と思うと頭の中はそれだけになってしまうのに、一度二度守れなかったことがあるともうどうでもよくなってしまう。自分でも難儀な性格だと思ってる。
自己実現欲求の一端としてそれは確実に存在する。社会生活を営むことから降りることを望むのでなければ。
社会で暮らす以上は、その一員としてなにがしかの形で一人分の貢献を提供しておきたいといういうものだ。
労働の対価として金銭を手に入れ、その金銭をまた対価として他者の労働によって生まれでた価値を享受するのが現代の社会構造である。
その社会構造の中で手に入れる金銭は、その社会の中で誰がしかに何らかの貢献をした結果、それも出来ることなら社会全体の最大多数の最大幸福に十二分に貢献を残すような行為の対価として得られた金銭であって欲しいと願うものだ。
さて、改めて自分の仕事がそのような他者に幸福をもたらすような仕事であるのかと考えると悩みどころである。
確かに、自分のやっている仕事が社会にとって完全に不要かと言われればそうではない。
しかし、競合他社の提供するサービスの方が質が高いのではないかという疑問は常につきない。
そもそも、自分が会社内で行っている業務ですら、顧客の満足を満たすためのものではなく、上司や株主のご機嫌取りばかりを優先した行為ばかりなのではないのだろうか。
ふとした拍子にそんな不安がよぎる。
統合失調症がちな知人が何人かいて、実在しない"彼氏"についての言及をSNS上で見かけることがしばしばある。
「彼氏とゲーセンに行ってきてこのヌイグルミをとってもらった」といって写真をアップ。
「今日は飲み会だったんだけど、一緒に住んでる彼氏が寂しがるからすぐに帰らなきゃ!」という発言をしているけれど、
彼女と生活圏を共有している友人の中で、その彼氏の存在を実際に見たり、認知した人は存在していない。
そういう発言をする女性は、TPOをわきまえず自分の話をバーッとしてしまったり、人の話を傾聴する意識が皆無だったり、仕事を急に辞めてしまったり、感情のコントロールが難しく、態度を豹変して攻撃的な態度をとったり、運転事故を起こす回数が多かったり、ちょっとパーソナリティが厳しい部分もあり、
理想と現実が混同している世界に生きているんだろう。あるいは現実の把握が少し難しい世界に生きているのかもしれない。という意識で共通の知人たちは近づきもせず、彼女達を遠巻きに見ながらなんとなくスルーして過ごしている。
facebook上で「彼氏にこれをプレゼントしたい」「彼氏のこんなところが好き」アピールを毎日している。それについては少なからずモヤっとしているのだが、虚実を問わず内面的な世界の幸せ満開は結構。
その知人の女性を私は好ましく思ってもいないが、嫌ってもいない。
人様の容姿について言うのはアレだが、彼女は決して美人ではない。美人かどうかは実際にはどうでもいい事だとおもっているのだが、爪がボロボロで汚かったり、普段は寝癖を放置して出社したり、メイクをすると頻繁に自撮りをアップしたり、新しく買った下着を着た写真を共通の男性友人に送りつけたり、素のままを認めて欲しい気持ちと、それでも可愛いと言われたい気持ちのせめぎあいを感じてしまい、客観性と自己愛のバランスが悪いとは思っている。
読む人が読めば個人が特定できてしまう悪口や、他人が知りえないプライベートな事を書いたり、男子校出身者は〇〇、東大卒の男じゃないと付き合いたくない、などブランド的な発言をしたりもするが、過激さは刺激としては面白い部分もあり、彼女の行き過ぎた発言もひとつの芸だと感じている。
彼女に関して、友人知人が「あんな女と付き合う男の気が知れない」「もうあの人との付き合いはやめた」
などと言われるたびに私自身がなぜか深く傷ついてしまっている。
私が彼女を嫌いでないように、彼女もどうやら私の事はまあまあ好きな存在として関わってくれているとは思う。
話の詳細から、その彼氏なる人物が存在する確率は五分五分だと思っているのだが、
イベントや人が集まる所へ集まる彼女はいつもソロで現れ、行動を共にしている所をだれも見ていない。
「彼氏にこれをプレゼントしたい」「彼氏にこれを買ってあげた」「この本を貸してあげた」等、品物を贈与する記事を連投している。
現在の彼女は、彼氏ができてお花畑状態なのかもしれないが、どうも度を超えて彼氏に金品の贈与を繰り返しているように思う。
ずっと前にいた彼氏とは一緒にいる自撮りをいつもアップしていたけれど、今回はそれもなく、人にどう思われようが奔放に振る舞う"これまでの彼女"とは違う。誰か知らない人にコントロールされているような気配を私は感じている。
大きなお世話だとは思うが、知人レベルの遠いつながりであっても、金銭的な詐欺や搾取に面しているかもしれない人に対してどのような対処をすべきか考えあぐねてここに書いた。
彼女のために私から何か発言をすべきかどうか、判断がつきかねないのでここに書いた。
(文頭の統合失調症がちな、という発言は非常に差別的な発言だとおもうが、上に挙げた女性達は皆、実際に病名の診断を受けていたり、実際に社会生活において問題を抱えており、家族や友人から通院をしてほしいなどの要望があるにもかかわらず、通院を拒否している上で私が接した人々、というごくわずかなエピソードについて指しています。気分を害された方はご容赦ください。)
書くのやめるって言ったばっかだけど、ずるずる引きずってる。
今日もオタクの友人と会って話をして、推しカプの話してたら「ああ〜こういう話書きてえなあ」なんて思ってしまった。どうせ実力もないしまた見てもらえなくて落ち込むだけだし、大体文章力以前の能力がないからまあ諦めるけれど。けれど。褒めてほしいが先に来たら休んだ方がいいって聞いて、今の状態じゃ休んだ方がいいって分かってるけど。けど。
才能やらやる気やら以前にまだ付けてないものがあるから、まだそれからだなって分かってるけど。それも書く環境がないから…とか結局他のせいにしてやれてない。ただただわたしは無気力なのかなと思う。
最近、無気力感がすごくてやばい。朝は起き上がれないし、メイクもめちゃくちゃ時間かかってしまう。そのくせ自分の思った通りの見た目にならないと出かける気にさえならない。
こんなんで社会生活やってけんのかって思うぐらい時間にルーズになってしまった。たった数ヶ月前までは朝は早起きとは言わないが起きれて朝の支度もそこそこ急いでできてたのに。ダメになっちゃったのかなあって思う。自己嫌悪。
ああなんか、つらいこと考えるの嫌になっちゃうなあ。とあるスイーツフェス…?フェスなのかな、そんなにナントカフェスみたいなの行かないからよく分からなくて、あれをなんて呼称で呼べばいいかわかんないけど、とにかくそのスイーツフェス的なのに行きたい。開催期間ギリギリに行けばバイトも始めてるだろうし、うん、行きたい。
しかも最後の3人のネタが始まる、めっちゃいいタイミング。ヤッタネ。
おぐ、ゆりやんと観て笑い、最後に出てきたのが濱田祐太郎でぼーっと見てた。
わ、めちゃくちゃオモロイやんけ。盲学校に点字ブロックないとか、ほんとスパルタすぎるwww そういえばあの白い棒って、見たことあるよな。あ、そうだ、視覚障がいの方が歩くときに使う棒だ。、、、という事は。
検索してみると、思った通り。濱田祐太郎は弱視の漫談家だった。
「障がいのある漫談家はいない」って思い込んでいた自分が恥ずかしくなったよ。
そんで濱田祐太郎すごいなと思ってしまった事に、さらに恥ずかしくなったよ。デブとかハゲとかと一緒で自虐ネタに持ち込んで良いのに、何でだろうね。無意識で差別してたんだな、反省。そういう差別ってクソ多いんだろうな。そして皆日常的に、無意識の差別で人を傷つけているのかもしれない。確かに社会制度の上でとか、生活しやすくする為に「障がいかどうか」を区切らなければいけない部分はあるんだけどさ。うまく言葉にできないけど。そういえば「みんな違ってみんないい」なんて言葉は、社会生活において「いわゆる普通の人の範囲内」って前置きがつくことが殆どだもんなあ。
ふと思った事だけれど音ゲーをやりこむというのはほとんど瞑想に近い行為なのでは?
シンプルな原理にもとづく作業を繰り返してその中で心技体を洗練させていくというのは悟りや変性意識状態につながるものだと思う。
「6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。」
宗教というのは神の信仰云々はわりとどうでもいい表面的なことにすぎない
宗教の本質は「人がなるべく効率よく社会生活を営むためのシステム」なのだ
宗教というシステムは、ごく基本的な思考のベクトルや価値のベクトルを決める
これによって、多くの人が行動、つまり人生を生きるためのベクトルがきまる
もちろんゆらぎは個人であるが、そのゆらぎですら宗教システムの掌の上のできごとでしかない
とりあえず宗教観は置いといて、そのキリスト教的観念によって人は人のクローンを作る事を合法化するのに歯止めがかかる
クローン人間を作る事を止める事はできない
そう、世界で一番最初にクローン人間を合法化するのは日本しかないのだ
それでも20年、30年後になると予想しているが、きっとやる
普通に社会生活を送ってる人たちも、なんかそれっぽい凸凹がそれぞれみんなあるんだけど大体は個性ってことになってて、それが人よりある程度極端だと病名つくみたいな。
増田が言ってる死ね死ねおじさんは普通に病的だし、ツイッターでなんか理屈ぶってる人も見てると理屈がおかしい人とかたくさんいるし。
障害があるなしにはっきり分かれてるわけじゃないし、病名ついてる人でもここは普通の人と同じだけどここはちょっと違う、みたいな話はよく聞くし。
人は、みだりに自己の容ぼう等を撮影されないということについて法律上保護されるべき人格的利益を有する(最高裁昭和40年(あ)第1187号同44年12月24日大法廷判決・刑集23巻12号1625頁参照)。もっとも、人の容ぼう等の撮影が正当な取材行為等として許されるべき場合もあるのであって、ある者の容ぼう等をその承諾なく撮影することが不法行為法上違法となるかどうかは、被撮影者の社会的地位、撮影された被撮影者の活動内容、撮影の場所、撮影の目的、撮影の態様、撮影の必要性等を総合考慮して、被撮影者の上記人格的利益の侵害が社会生活上受忍の限度を超えるものといえるかどうかを判断して決すべきである。
元増田は差別かどうかに言及しているのであって、差別が実際に行われているかどうか、差別が問題なのかどうか、痴漢が問題なのかどうか、ましてや痴漢が男女比どのくらいで被害者がどれくらいいて……みたいな話はすべて、関連する話ではあるけど別の話でしかない。
身を犠牲にしてトロッコに飛び込んでも暴走したトロッコを止めることはできない。
レバーを引くのは正しいことかどうか? ということだ。
もしかしたら、作業員がトロッコを避けられるかもしれないという人がいるのなら、
ではもし分岐の先はつながっていて、作業員が避けることができたらもう片方の分岐に戻ってきてそちらにいる作業員は轢かれてしまうとしたらどうだろう?
または、あまり政治的な問題を扱うのはふさわしくないかもしれないが、アメリカが原爆を投下したことで二次大戦が早く終わったということがもし事実だとして、それを認めることができるだろうか。一定の人数を犠牲にして多数の人間を救うことは正しいことか?
こういう質問を繰り返していって、自分の考え方をより厳密に確認していく(もしくは矛盾点を指摘する)ことがこの手の思考実験の目的の一つだ。
話を戻そう。
血液型性格診断なんてまさに差別そのものだし、あいうえお順にクラスの子供達をならべるのも差別と言えるかもしれない。名前は一般的に自分で選べない。
LBGTという言葉だって、その他の性的マイノリティを無視した差別的な表現なのかもしれない。
自分で選択していない国籍について日本人らしくとか言われるのも十分に差別たりうる。
あらゆる差別を語義通りに撤廃するのであれば、少なくとも今の社会生活は全く成り立たない。
(それと実際に不利益を被っている人がいることも関係がない。)
なぜならば、差別という概念自体が善悪とは別に存在しうるからだ。
現実的な問題として、様々な差別に苦しんだり具体的な不利益を被る人がいて、それをなくしたいというのは筋が通っている。
しかしその問題があまりに広範で捉え方にも差がありすぎるせいで、いつも恣意的なルールと各個人で異なるバックグラウンドを前提としてしまう。
元増田としては、そのあたりを整理するために問題提起したのだと認識している。
これを共通認識としない限り話を先に進めることができないからだ。
逆に言うと、これについて善悪論や感情論で反論する限り、女性専用車と差別の問題は少なくとも解決を目指すことは難しいだろう。
よく遊ぶ友人がADHDっぽい。
当人から聞いたわけでなく、実は当人も気づいていて通院して治療しているとかは不明だが、これまで色々振り回されている点や、会話で聞く日常生活の様子から素人判断で結論づけた。
別に治療を勧めたり、支えになりたいとか思っていない。それは当人のやる事だと思ってる。
ここで聞きたいのは、どう付き合えばいいのか。
専門書を読んだわけでなく、検索で出たサイトをちらほら読んだだけだが、どのサイトにも書かれているのは、
ADHDの人を助けてあげましょう
って事。
自分勝手で気分屋なのは仕方ないので、優しく丁寧に伝えたりして助け合いましょうと。これに違和感を感じた。
友人もだが、ADHDの人は興味を持った分野には異常な集中力と天才的な能力を発揮すると言う。その分、日常生活や社会生活では多かれ少なかれの弊害が発生するのだが、そこは周りがカバーしろとの事。言い換えるなら我慢しろ。
自分でも嫌になるが、なんで我慢しなきゃいけないのか分からない。当人は仕方ないと割り切って自分勝手に生活し、相手を思いやらず、気分屋で頑固で興味の無い事は覚えない。そんな人を周りでサポートしようってのが理解不能。
目に見える障がいなら理解できる。でも、軽度ではわがままにしか見えない。もちろんADHDは、そのわがままを制御できない物なのだろうが、理解をしても納得が出来ない。
成果主義、実力社会と言われたらそうなのだが、ステ全振りが優位で平均型が糞なのはゲームだけで充分。
長くなったが、軽度重度問わず、ADHDの人と付き合っている人はどうしているのか聞きたい。みんな、仏のような心を持って適度な付き合い方でもしているのだろうか。