はてなキーワード: 眼鏡とは
まず俺のスペックを書く。
・35歳男性
かつては自分の不甲斐なさ、社会の冷たさに涙したこともあったが、ここ数年は比較的平穏に暮らせてる。
何故か。理由はいくつかあるかもしれないが、最大のものはネトゲを始めたからだと思う。
ネトゲに容姿は関係ない。自分の好きなアバターをつかって遊べる。格好いいイケメンも、可愛い女の子も自由自在だ。
俺は格好いいイケメンを作って遊んでいるが、結構褒められる。格好いいねーとか、その装備似合ってるねとか。
それはアバターが褒められているんであってお前が褒められているわけじゃない。空しくならないのか、と思うだろ?
それが案外空しくならない。何というか、自分の子供が褒められている感覚に近いかもしれない。俺に子供はいないけど、そう感じる。
自分の子供が褒められたら、多分嬉しいだろ。誇らしく感じさえするかもしれない。それを通じて自分も褒められているように感じているのかも。
大人になれば、普段の生活で褒められることなんてまず無い。弱者男性ならなおさらだ。
しかしネトゲなら簡単にそれがもらえる。これを知ったときは衝撃だったな。
特に深い考えがあったわけではなく、なんとなく女性キャラで遊んでみようかなーという程度。
そしたら驚いた。ただ単にフィールドを歩いているだけでも声をかけられるのだ。それに答えていたら簡単にフレンドが増えた。
他にも俺のキャラの動作にいちいち反応してくれたり、アイテムをポンとくれたり、ミスしても優しかったり。
男性キャラで遊んでいるときはまずこういうことは起こらない。ネカマにはまる人の気持ちがわかった気がした。
でも何故か罪悪感と違和感がつのり、そのキャラは消してしまった。別に騙していたわけではないんだけど。
そして容姿の問題がクリアできるなら、他者とのコミュニケーションは容易になる。
「俺みたいなのが話しかけて迷惑じゃないかな?」という考えが起こらないから、本当にポンポン話しかけられるのだ。例え初対面の相手であっても。
そのキャラいいね!から始まり、今どこら辺を遊んでいるのか、どこが難しいか、どのキャラが好きか。そのうち他の人も入ってきて、会話がキャッチボールのように飛び交う。
もうすごく楽しい。時間が矢のように過ぎていく。リアルではまずこんなことは無い。俺の人生では。
案外そうでもない。上手いに越したことは無いが、下手でもまあ問題ない。俺だって別に上手くはないしな。
何故なら、最近のネトゲはゲーム下手でも楽しめるように作られているからだ。
例えば生産系。いろんなアイテムをこねくり回して貴重なアイテムを作り出す。これにスキルはいらない。根気さえあれば誰にでもできる。
そうやって作ったアイテムを仲間に提供するだけでマジ感謝される。
最近のゲームはストーリーを追うだけだったらそれほど難易度は高くないし、自分が下手でも仲間が何とかしてくれる。
そしてそういった過程をSNSにアップするだけでもいいねが結構付く。
他にも世界設定を考察したりキャラのロールプレイをしたり。いいゲームは楽しみ方のすそ野が広い。
そういうのを通じて、他にも同じようなことが好きな人たちと繋がっていく。
要はネトゲをやれば俺たち弱者男性が求めてやまない「他者とのコミュニケーションと、それを通じた自己肯定感」が非常に容易に得られるということだ。
俺はこのお陰で日々の苦痛、虚しさをうまく中和できてる。それどころかネトゲ仲間と自分のアバターに恥じない自分でありたいと最近転職活動まで始めた。成功するかは分からないけどな。
以前の俺なら考えられなかったことだ。
ネックがあるとすれば初期投資がそれなりにかかるというところか。
ただはてなに居るならPCぐらい持ってるだろ?低スペックでも始められるネトゲはある筈だ。
まあダメだったらいつでも止めれるんだし、始めてみてもそう損はないんじゃないか?
そういう簡単でドライなところもネトゲのいいところだ。特にコミュニケーションに難がある俺たちみたいな人間には。
ネトゲでは容姿も年齢も経歴も能力も関係ない。ただできるだけ誠実であればいい。
これを読んでいる全ての弱者男性に、幸があるよう祈っている。
人心が荒廃している。
舞台は今をときめくウマ娘だ。噂と嘘が蔓延し、人は疑心と暗鬼に陥っている。
競馬好きと擬人化オタク。彼らは必ずこれからもぶつかり争うだろう。
だったらアレをやるしかない。
悪意をばらまく魔女を見つけなければならない。
競馬好きが?オタクか?違う。彼らを不幸にした人間がいるはずだ。
力がある者が魔女だ。人の心を惑わすことで生きながらえる存在が魔女だ。
それを焼くべきだろう。そうすれば平和になるのだ。
彼らはただ、あるがままに生きる羊であって、生贄なのだ。
違う。
俺が魔女を指し示す。
クリエイターだ。
生きる世界が違う人と人はわかりあえない。
幼稚なオタクは、大人の世界では生きていけない。感動できない。
だが、二つの世界を同時に理解できる者がいる。それが魔女の正体であり、つまりはクリエイターである。
競馬はただ昔から競馬としてあっただけなのに、突然翻訳されその世界を晒された。
この世には鬼や呪いなんていないのに、それに立ち向かう人の話に感動させる。詐欺だ。
とっくに死んだ馬を人にして、まるで彼ら彼女らが楽しそうに生きているように見せる。
そもそも表現というものは、人間の共感能力なる欠点を利用した詐欺である。
価値なきものに価値を錯誤し、繋がるべきでなかった人と人を繋ぐ。
人は人の思いを知ることなどできないのに、それを出来るかのように錯覚させる。
魔女は焼かねばならない。クリエイターなるものは全て焼かねばならない。
本を燃やせ。フィルムを燃やせ。歌を殺せ。それらを支える組織を焼き討て。
笑ってはいけない。泣いてはいけない。人に何かを伝えることは悪になりうるのだから。
出来ないな。
全て焼かねばならぬ日がくるとわかるだろう。
だから、まず手始めに、俺を吊るすと良いのだろう。
真宮寺さくら 外見:量産型大和撫子 性格:熱血系の田舎者 短評:ありがちすぎ。無個性の極み
神埼すみれ 外見:着崩し和服お嬢 性格:高飛車ツンデレ 短評:ありがちすぎ。無個性の極み
マリア・タチバナ 外見:半メカクレ金髪クールロシア人 性格:殺し屋 短評:ありがちすぎ。無個性の極み
アイリス 外見:金髪ロリ幼女 性格:幼女 短評:ペド向けすぎ。キツい。
李紅蘭 外見:ダブル三編み眼鏡そばかすチャイナ 性格:天才科学者 短評:テンプレ委員長顔にチャイナ着せてマッドサイエンティストは割と尖ってる。でも言動はギャグ系ハカセとしてありがちすぎぃ。
桐島カンナ 外見:197cm 性格:琉球空手継承者 短評:でかすぎ。
ソレッタ織姫 外見:褐色黒髪イタリア貴族 性格:楽天家 短評:サクラ大戦のキャラの癖にいい感じにまとまりすぎ。逆に浮いてる。
レニ・ミルヒシュトラーセ 外見:男装ロリ 性格:天才ボクっ娘 短評:ありがちすぎ。無個性の極み
大神 一郎 外見:熱血系主人公 性格:熱血系主人公 短評:ありがちすぎ。無個性の極み
ぅゎ。これは酷い……
よく人気出たな。
普通でいることが善なのか、はたまた悪なのか。
没個性的で、長いものに巻かれる。それは当たり障りない人生というテンプレートをなぞっていくような言葉にも感じられる。
しかし。
先天的な発達障害(ASD、ADHD、DCDのトリプルコンボである)を抱えて生きてきたわたしには未だに今ひとつ「普通」「没個性」というものがピンとこないのだ。没個性を目指してもなれない、普通を求めても手に入らない。最初の約束と違ったことを言われたり、イレギュラーな要求をされるとそれを「普通」にはこなせないし、0か100かしかないので50を求められても相手の思うように返せない。
その発達障害を20歳になるまで見つけられることがなく、いわゆる定型発達の子どもたちと混ざって幼少期から常に「変な子」「面白い子」と揶揄されてきた。その度に普通でいることのハードルの高さを感じさせられた。
確かに物心ついた頃から子ども特有の目のキラキラ感がなかったことも自覚はしているし、どこか冷めているというか物事を純粋に楽しめなかった。その上父方の家庭が自分たちの価値観の型にはめていく教育方針だったことからそれに当てはまれなかったわたしはそこでの居場所も失ったこともその後の成長過程に大きな影響を及ぼしていると思っている。幼稚園や小学校に行っては大人にとっては「ちょっと変だけど元気で明るい子」を演じ続け、帰ったら帰ったで本ばかり読んでいた。そして当時月に2回ほど行っていた父方の祖母の家((今はもう6年ぐらい行っていないので祖母も叔母も元気にしているかどうかすら知らない))では、わたしを連れて行っていた父親含めほぼ誰にも話しかけられることはなかったのでずっと2階の広い部屋に引きこもってポケモンを捕まえ続けた。常にいい子でいなければ死ぬ、という感覚はこの頃からあるし、過干渉されると怒るくせに愛されたい願望が変に強いとにかくめんどくさい人間になった。
いわゆる「普通の子」との疎外感から、わたしは気がついたら常に死にたいと思うようになっていた。記憶の限りではおそらく小学校に入る少し前ごろからだっただろうか。でも大人にそれを言うとまた色眼鏡で見られることや世間体を気にされることは子どもながらに理解していたので、誰かにそんなことは言えないでいた。何なら今の今でも誰かに言ったことはないので、ここで初めて誰かに気持ちをぶつけている。
死にたいという感情を悟られるまいと思い必死にその時その時に全力で自分の生きる意味を探した。特にこれといった特技もなく、決して健康な子どもでもなかったのでその度に壁にぶち当たったし器用に生きられなかった。し、今でも器用に生きられないでいる。
そして小学校高学年からだんだんと学校に行かなくなった。気がついたら中学入学後、完全な不登校になって1週間寝つくことがないまま夜を過ごしたりその間に考えるべきでないことばかりを考えるなどした。その頃から心療内科でカウンセリングを受けるようになり、良くも悪くもならないままこの前気がついたら干支が1周していた((むしろここ半年は仕事などの過労から抗鬱剤を飲む生活を送っているので正直悪化している、けれど新しい病院を開拓するにも腰が重い))
高校受験の時だって、「普通の子」になりたくて偏差値も部活の活発さも平均的なそれこそ「普通」の高校を選んだのに周りからは「もったいない」((無駄に論理力だけがずば抜けていて他が壊滅的なIQであるために、自分で言う話でもないが中途半端に成績だけは良かったので同級生の保護者たちからはあまり好まれる子どもではなかった))「もっと上の学校に行けばいいのに」と批判された。この時ほどにわたしの追い求めていた普通を否定された経験は後にも先にもないように思う。
その後その高校に入学し、不登校を経験した上での高校生活での目標に「皆にとっての当たり前の日常」を掲げた。しかし高校2年生の頃に病気が見つかり、当たり前の日常はおろか出席日数もギリギリでクラスでは孤立しながら廊下からすぐのいちばん後ろの席で生活した。こんなはずじゃなかったのに、と何度も思ったけれど、どこか仕方ないと思って諦観している自分もいた。
大学でも2年生修了時に高校時代からの持病が悪化し中途退学。自分の人生の中で比較的イケていた時期だと思っているが、学校生活「すべて」を謳歌したことは一度もない。その結果通信制大学に編入し、単位もまったりまったりと取りながらズルズルとマイペースで学生という身分を続けてしまっている。
20代も半ばとなった今でも時に日常会話で「普通に」とか「常識的に」と自分の中で繕った普通をぶった切られることもある。最初は何とも思わないが、それを同じ相手から何度も何度も言われることで自分の中での普通はまだ全然普通ではなくて、むしろまだまだ程遠いところにいると感じてしまう。そして「普通」という名の相手の感情の押しつけに嫌悪感を抱くし、「あなたが言う普通だってあなた個人の価値観だよね」と言ってしまうので感情的にカッとされることも少なくはない。((カッと、ということで余談だがリストカットなどの自傷行為に走ったことはほぼない。その時間が無駄だと思ってしまうしもっと具体的でもっと苦しいものを選びたくなるしいつもそれを考えているうちに過呼吸になっている))
この普通に適応できない息苦しさはいつまで続くのだろうかと思うと過去の記憶がフラッシュバックしてくることも頻繁にあるし、それで過呼吸を起こすことだってある。結果身近な人が迷惑を被ることになる。いつまで経っても身近な人の立場からしたらわたしは最高にめんどくさくて、普通には到底なれなくて、どこまでもまっすぐに生きていけないとても厄介な存在なのだ。
だからこそ交友関係もどんどん希薄になっていくことには慣れているし、距離を置かれていくことを察するようにもなった。自分から誰かと接するということも積極的にできないし、むしろ入られたくないゾーンに入られたら精神の平静を保つべく全力で拒むようになってしまった。自分が友達だと思っている相手からしたらわたしという存在は知り合いないしは顔見知り程度なんだろうなと斜に構えてしまう。iPhoneのアドレス帳なんて家族含め3人しか登録されていない始末だ。でも別に特別広い交友関係を持っていてもメリットもないし、むしろ自分に相応しくないように思えてきてしまうしそれを悩む時間も無駄だなと思う。
結局ひとりぼっちでいることしかできないし、結局誰かに頼る強さを得ることもできない。いつまで経っても弱くて、いつまで経っても自分自身のことを好きになることができない。常にコンプレックスに直面している。
エアポンプのない酸素の薄い水がたっぷりと入った広い広い水槽で、必死に呼吸をする魚のような感覚だ。
深夜のネットカフェ、隣の部屋から「くちゅくちゅ」聞こえて、吐息も聞こえて、
メンブレンのキーボードを打つ音だって自分で気を使うくらいの作りの店で、
天井の空調の銀色の配管見たら、眼鏡の女の子がヘッドホンしてスカートを腰まで上げて、
大股開きでおなにーをしてるように見えた。上を向いて目を閉じてかな。
衣擦れの音の速さと息を止めたときとその後の10秒くらいの無音と、
神田のとあるネットカフェは「完全個室防音」ってあったから行ってみた。
部屋に入ると確かにしーんとしていて静かだった。が、「ハックション」とくしゃみが聞こえてきて、
部屋で1人で喋ってると大声になるし、防音して静かにする方向だとむしろうるさい。
鶯谷のラブホもいいけどネット回線が「Wi-Fi完備」だから心もとない。光回線引いて欲しい。
反対側のmonopolyは部屋はまあ良いけどPCがゲロすぎ。
部屋の作りは他より良いけど、それでもワイの向かいの部屋のバカがリモート面接してた。
それ、周りが静かだから防音と勘違いするけど、喋ってるのは筒抜けだからな。
私は本当にもやもやしている。発端は例の伊是名夏子さんのこの投稿。
http://blog.livedoor.jp/natirou/archives/52316146.html
バリアフリーは推進されるべきだ。その方向性に異論はない。そしてバリアフリーを訴える目的はよいと思うし、その目的を批判している人はほとんどいない。
でもこの記事を最初に読んだ時、「これは炎上するな」と思った。
私は、きちんとした教育を受けそれなりの大学を出て、結婚もして家族もあるし、収入はそこそこあり持ち家にも住んでいる。
ただ片目があまり見えない。病気というか、発達障碍というか、弱視という視覚障碍がある。ちなみに弱視というのは、眼鏡などで矯正しても視力がでないことをいう。
だが片目だけの視覚障碍なので、私は身体障碍者ではない。健常者だ。もっとも正常な方の目も、近視、乱視がはいって矯正しないと0.5ぐらいなので、そんなに見えるわけではないけれど、視力矯正できるかできないかは全然違う。
もっとも、もしかすると両目がきちんと見える人よりも、遠近感の把握ができなかったり、視野が狭いのかもしれないが、両目見えていた経験がないので、違うのかは全くわからない。
不自由はないといいつつも、ほんの少し、両目が見えたらいいのにと思うことがある。例えばVRゴーグルをかけてみた時などにそう思うことがある。でもそれは総じて大したことではない。
逆に見えなくてよかったと思うこともほとんどないのだけど、ひとつだけ、心からよかったと思うことがある。
私は、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目を持っている。社会を、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目で見ることができる。それは本当によかったと思う。
私は、時々、自分の健常者の目をつぶり、視覚障碍の目だけで街を歩くことがある。特に、今回は、もやもやし続けているので、いろんな場所で何度もそうしている。
通しでやったことはまだないが、眼帯などで健常者の目を隠し、視覚障碍の目だけで自宅から会社まで通勤するのは可能と思う。
なぜ可能と思うかというと、私は、自宅のドアを開けたところから、会社の入り口まで、健常者の目で何度も通勤しているので、途中の、①道路、通路の硬さ、すべりやすさ、段差、②曲がるときの角度、直線で歩くべき距離、③階段のおおよその段数やエスカレーターなどの位置、こういうものを覚えている。
見えないものは、記憶で補いながら歩く。ゆっくり歩けば、弱視の目でも歩くことができる。
そして音は重要だ。自動車が近づいてくる。こういうものは音で判断する。
自転車は、音が小さいから、怖い。電気自動車も、音が小さいから、怖い。
電車の時間も、発着ホームも、だいたい覚えているので、目的の電車に乗ることはできる。ただし、遅延などが発生し、行き先が違う電車が普段とは違う時間にやってきたりすると、困る。
そういう時は駅員さんしか頼りにできなくなるだろう。
本当の視覚障碍者の人は、情報を得るのにとても困るだろうなと思っている。ホームに駅員さんがいれば聞くことができるのだろうけど、いつもいるわけではない。視覚障害者はそうたやすくホームを歩けないので、同じホームに駅員さんがいても、距離が離れていたら聞くのは難しくなる。
少なくとも私は、視覚障碍者の目で歩くとき、普段と違う状況になると状況を把握できず、いらいらする。
私が、視覚障碍者の目で歩くときは、記憶と、耳と、手と、足の裏の感覚と、それ以外の感覚も総動員しながら、歩く。
集中しているので、いきなり肩や腕をつかまれたりすると、とてもびっくりするだろうと思う。怖いと思うかもしれない。
もし皆さんが視覚障碍者に何か情報を伝えたい、手助けしようと思ったら、白杖や身体をいきなり触るのではなく、まずは声をかけてほしい。もし声をかけて手助けを断られたり、声をかけるのを躊躇するなら、見守ってほしい。
私の弱視は、光線の具合で、見えたり見えなかったりすることがある。
広い平坦な場所で、突起に気づかずつまづくぐらいなら笑い話かもしれないが、ホームの端がみえにくくて転落することがあれば、それは生命の問題に直結する。((ホームと線路の彩色、彩度が似ていると、ホームの端がわかりにくい。))
その対策だが、蛍光色で10cmぐらいの幅のラインを描くことで、ホームの端の視認性はかなり上がる。これをCPラインというらしい。
一部、導入されつつあるが、まだまだ普及がすすんでいない。
https://ameblo.jp/milkyht2/entry-12244392124.html
ホームドアは、視覚障碍者のためだけではなく、酔っ払いなど一般の人の転落事故も防止する。ホームドアがあれば死なずにすんだ命は多い。できる限りペースを速めて、設置してほしいと思う。
ネックは、ご存じの通り、多額の費用がかかることだ。
でも、生命にかかわることだから、優先順位は一番高くていいのではないかと思う。
日本視覚障害者団体連合もホームドアの設置を求め続けている。2020年7月の阿佐ヶ谷駅での視覚障碍者の転落死亡事故をうけて、同年9月にも国土交通大臣に要望書を提出している。こういう働きかけは大切だ。政治や企業への働きかけは、絶え間なく行わないといけない。
働きかけを行うべき先は、政治も企業もしかるべき権限をもつ者=責任者であるべきだろう。「なんでホームドアがないんだ!」と現場で駅員さんに怒鳴っても、何も改善しない。
http://nichimou.org/notice/200923-jimu/
歩道や施設などの通路、ホーム上にある点字ブロックは日本発祥のものだ。これはよい発明だと思う。かなり普及しているのも評価したい。
また、2016年に近鉄大阪線河内国分駅ホームから視覚障害者が転落死した事件をうけ、対策として「内方線付き点状ブロック」設置を推進していたが、これはかなり進んだと思う。評価したい。
https://www.sankei.com/affairs/news/161017/afr1610170045-n1.html
でも、「なんでこうなった?」というような謎な点字ブロックも多々ある。そんな役に立たない点字ブロックや、かえって危険を作っている点字ブロックがある。
ホームなどの点字ブロックの配置についてはガイドラインがあるが、まだそれが守られていないことがある。2019年の京成立石駅で視覚障碍者が転落死した事件は、規格外ブロックが問題と指摘された。
https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=14s53i742ax788in6
ガイドラインに沿っていても、転落事故(死)が起こることがある。視覚障碍者は、目からの情報が少ないため、点字ブロックを認識しつつも、現在地と歩く方向を間違い転落することがある。
点字ブロックはとても有効な設備だが、点字ブロックだけでは転落事故はなくせない。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/437710.html
点字ブロックは、黄色のものが多い。(私も健常者の目で見た時はそう思うが)黄色のブロックは、色がガシャガシャして、うるさく感じないだろうか?
そこで、街並みをおしゃれにするため、点字ブロックを歩道の色と合わせて設置することがある。最近増えた感じがする。
でも弱視者には、これがわかりづらい。
視覚障碍者は全盲の人ばかりではないという認知がもっと広まってほしい。
「視覚障碍者は見えないのだから、点字ブロックは何色でもいいのでは?」と思わないでほしい。
少ない視力を使って点字ブロックの上を歩きながら、足の裏の感覚などで点字ブロックの助けを得て歩く視覚障碍者もいる。
視覚障碍者は、道路交通法によって、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることが義務づけられている。(第14条第1項)
また、視覚障碍者でなければ、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることを禁止されている。(第14条第2項)
さきほども書いたが、視覚障碍者は全盲の人だけではない。ロービジョンといわれるのだが、若干の視力はあるのだが日常生活に支障がある人がいる。白杖の使い方は、人それぞれだ。
ところで、視覚障碍者が白杖を持つ理由は次の3つとされている。
https://nippokai.jp/wp/formembers/canes/
障害物もなく、路面が確かな場合、ロービジョンの視覚障碍者は、白杖を「視覚障害を持つことを周囲に知らせる」だけに使うことがある。つまり周囲の人に自分の存在を知らせるために、白杖を動かさず抱えることがある。
それを白杖を使っていないと思わないでほしい。白杖で地面を叩いていないからといって、「こいつは視覚障害ではないのでは?」なんて思わないでほしい。
点字ブロックの上や近くで立っていたり、荷物を置いていたりしていないだろうか?
いわゆる歩きスマホはしていないだろうか?
視覚障碍者は、器用にぶつからないようにしたり、避けたりするのが苦手だ。
伊是名夏子さんの投稿とその後の議論、動きなどみて、私がもやもやした理由は主に次の3つになる。
私が、ここに書いた話題は、全部が「視覚障碍者にとってのバリアフリー」問題だ。
伊是名夏子さんの投稿は、さまざまな議論を呼んだが、その議論は、エレベーターとかスロープとか、「車いす利用者にとってのバリアフリー」だけしか議論されていないでは?と感じた。
確かに伊是名夏子さんは自分自身の障碍のため、「車いす利用者にとってのバリアフリー」を問題にしている。それは当然だと思う。
でも、「バリアフリー」を必要としている人は、車いす利用者だけではない。視覚障碍者も、聴覚障碍者も、妊婦や精神障碍者なども、「バリアフリー」を必要としている。
それぞれの障碍やハンディキャップが違えば、「バリアフリー」として求めるものは違う。でもそこまで広く捉えた「バリアフリー」議論はほとんどなかった。
いつでもどこにでも自由に行ける自由はとても大切なことだと思うけど、毎日、命の危険を感じながら鉄道を使う人のことも思い出してほしい。
案の定、伊是名夏子さんの投稿は炎上した。あの投稿を批判的に見る人は、来宮駅を巡るトラブルの作為性を問題にしている。作為性とは、バリアフリーを訴えるために、わざとトラブルを起こしたのではという見方だ。ご本人は否定している。しかし私も実は、作為性はあっただろうと思っている。
現場でのトラブルを、乗車拒否などの強い言葉を使った非難を行い、耳目を集める手法というのは、そのトラブルの作為性を巡って反感を買いやすい。
伊是名夏子さんご本人が、それが戦いだとお考えになることは、批判できない。こうしなければ、耳目を集められないという気持ちも理解できる。
しかし、何かバリアフリーの課題を改善したいと考えた時、この手法が一番効果的となってしまえば、他の障碍者も(少々作為性があろうと)トラブルを起こし、それを声高に訴えないといけなくなってしまうのではないか? 私は、そういう状況が本当のバリアフリー社会とは思えない。
そして、あの手法に反感をもつ人と、支援する人との分断は、更に広がったように思う。
分断されたバリアフリー社会とか、笑えないブラックジョークだ。
伊是名夏子さんの投稿に対しては、私も批判的だし、批判する人の気持ちはわかる。
一方、こういったネットの炎上が生じると、その人の過去の行動を洗い出し、それらも併せて執拗に非難するような行動がよく見られる。晒しと呼ばれる行為だと思う。
確かに、伊是名夏子さんの過去の行動で、「それはよくないな」と思う事例はいくつか見つかった。
しかし、既に法的には時効を迎えたと思われる古い過去を、声高に非難する合理性はないように思う。
話は変わるが、視覚障碍者の投稿を読むと、白杖を持って歩いている時に誰かとぶつかった後、その人から心無い言葉を浴びせられたという投稿がいくつも見つかる。
他の障碍者やハンディキャップを持つ人も、そういう経験をしているのだろうと思う。
そんな心無い言葉を浴びせる人は、たぶんその人の心の中に、障碍者への「偏見」というバリア(障壁)を持っていると思う。
心の中のバリア(障壁)は、目に見えるものではないので、取り除く=バリアフリーを作るのはとても難しいと思う。
インフラは整っているが、人の心の中はバリア(障壁)だらけのバリアフリー社会って、何かのアイロニーだろうか?
今回、伊是名夏子さんの過去の行動を非難した人の心の中に、障碍者に対するバリア(障壁)ができないことを願う。そして本当のバリアフリー社会を作るには、あなたの協力が必要だと訴えたい。
私はまだもやもやしている。
眼の疲れがひどいので新しい眼鏡を作りにいったら、ひょんなことから斜視が発覚した。
思えば昔から“見る”ことが苦手だった。
・屋外で正面を見るのが苦手。
・なんとなく不快感を感じて、何かをじっと見ていられない。
・浮き出る絵が浮き出て見えたことがない。
・友人に通りすがっても、声をかけられるまで気づかない。
・なんとなく左眼がおかしい気がするが、何がおかしいのかわからない
(コンタクトの処方箋のため定期的に眼科にかかっていたが、特に指摘を受けたこともない)。
これらは
が原因らしい。言われてみればなるほど!
今は外を歩くのがはちゃめちゃに楽しい。
親切な眼鏡屋の店員さん、あなたのお陰でとっても生きやすくなりました。
気づいてくれて本当にありがとうございました!
今はあなたのことをちゃんと知ろうとしなかったことを反省しています。ごめん。
それから原因不明の眼精疲労で悩んでいる方、上記の症状に心当たりがあったら
もしかしたら斜視が原因かもしれないので、ぜひ眼科さんに相談してみてください。
このエントリが、いつか誰かの参考になれば幸いです。
完全に嘘つきでクソゲボのカス
それはそれとして、日本眼科医会のpdf中にも論理の飛躍があるように思う。
今、出先なので正確な引用はできないが下記のような論理展開してる。
③だからブルーライトカット眼鏡は有害である可能性が否定できない
https://twitter.com/sakata_yoshi/status/1382260319368585218?s=19
https://twitter.com/sakata_yoshi/status/1382438514747342848?s=19
ブルーライトカットが有用かという話たびたび上がって、そのたびにこのツイートのリプ欄みたく眼鏡屋の過剰な広告では!?とか無駄なんですね!っていう短絡的な解決になってそろそろ本質捉えたいよ(もちろん研究中という話ではあるけど)
俺の話だが大学からPCを一日中見るようになって目の疲れの解決方法として一番効果があったのがブルーライトカットメガネだった。それから7年お世話になり続けてるから長時間PC作業する人の疲労軽減には効果があると思ってる。
ホテントリに上がってる「小児のブルーライトカットに〜」は対象が小児だけどブルーライトカットはどういう人にとって有用か、デメリットとして何があるのか結論がほしい。
ブルーライトは意味がないとか、目に優しいとかさ、さんざん眼鏡専門店とかが言い続けてきたのに
ここに来て『いや?意味がないです。むしろ悪影響です』なんていうし、
食材とかもあれが体にいい、これが体にいいって言いながら、しばらく経つと『いや、意味がないです。むしろ体に悪影響です』なんて言い始めるし、
じゃあ、今まで身体に良いと信じてきた人たちは何なのよって思うわけだよ。
良いものなんだねって信じた人たちがかわいそうじゃん。
信じた人が悪いって言うクソみたいな奴らはいると思うけど、やっぱある程度話題になって騒がれると信じたくなる人もいるでしょ。
シャニマス3周年お祝いシーズンに書くようなことじゃないって分かってるけどもう我慢できない。胸に引っかかってること全部書く。
シャニマスのコミュは質がいい。プロデューサーがアイドル一人一人と丁寧に向き合って真剣にトップアイドルを目指していく。そのためにP=プレイヤーというアイマスシリーズ暗黙の了解を捨てたのは正直驚いた。
コミュの質に伴って、考察をしたり自分なりの解釈をまとめるプレイヤーが増えるのも分かる。noteに怪文書を書くのが流行るのもまぁ分からんでもない。
最初は感心しながら読んでいた。でも、次第に馬鹿馬鹿しく思えてきた。たかがアイドルゲームのキャラクターに、どうしてそんな入れ込められる?
何が「生きてることは物語じゃないから」だよ。俺たちが見てるのはただの物語だろうが。
何が「アイドルは生きている」だ?お前らが本気になって幻覚見てるそのアイドルは生きてない。ライターにプロフィールと性格を作られて、イラストレーターに外見を作られたただの「キャラクター」だよ。
どれだけ色眼鏡を取っ払ってアイドル一人の人間として見つめようとしたとて、その存在はただの動いて喋る絵だ。どう足掻いてもプレイヤーは「シャニマス」というコンテンツを消費してるに過ぎない。その事実から目を逸らしてないか?
おまけにアイドルの心境や見ている世界を長ったらしい長文を書いて理解したつもりでいても、それはライターが編み出した世界の掌の上で踊らされてるだけだろ。
俺はシャニマスを単なるアイドルゲームとして楽しみたい。可愛い女の子と仲良くやってコミュを見るだけのゲームに、プレイヤーの蛇足な考察はいらない。過度にシナリオを神格化して高尚なものとして扱うのはもううんざりだ……。
https://anond.hatelabo.jp/20210407201659
これなどうまくまとまっていると思うが、おれ自身もどうかと思っていた通り、やはり一部フェミニストの言動はダメダメだったと思う。色んな人が一部フェミを批判していた。うなずけるものも多かった。
そう、君の批判はおおむね正しい。
なので君はそうならないよう、一部フェミの言動をちゃんと反面教師として、そうならないようにしてくれるんだよな。信じていいんだよな?
君は、一部フェミのようにダブルスタンダードに陥らないよう気を付けるはずだ。君は、一部フェミを非難したその言葉が、そっくりそのまま自分にあてはまるような、そんな愚かなことはこの後しないはずだ。
君は、あれという弱者の問題には最初から同情心をもって接しながら、これという弱者の問題には冷淡にならないはずだ。君は、弱者一般に優しくなるはずだ。
君は、男性という敵一般を設定して、それらをすべて丸ごと強者や抑圧者とするような、雑なカテゴライズをしないはずだ。君は、自分が批判するべき層がどういうものなのかを、きちんと精緻に考えるはずだ。
君は、とある言説のなかの最も極端な部分を、つまり弱者男性問題であれば「女をあてがえ」という部分を、全体に敷衍しないはずだ。君は、「とある言説の周りにはいろいろなグラデーションがあって、そこには賛同できるものもあれば、できないものもある」という冷静な視点をもったはずだ。
君は、「フェミニストと敵対しそうな意見だから、絶対に反対する」というふるまいを醜いと思ったはずだ。君は、ちゃんとどんな意見でも公平に、バイアスや色眼鏡なく、まずはきちんと接するという前提でいられるはずだ。
君も、おれも、他人の言動がダメダメだとわかったのなら、そこは他山の石として克服していこう。
一部フェミを批判する君たち、それにスターなど賛同の意見をつけた君たちは、その後、ちゃんと反面教師として自分を律してくれると信じている。一部フェミへの批判は、要するに君がよくないふるまいだとするものなのだから、それを君はまさかやらないよな――少なくとも、やるまいと努力するよな。