はてなキーワード: 文科省とは
*みたいな図形の真ん中の交点がBの場合、他の2点を指定しなければどの角かを指定できたことにならないから、「AとCの方角にのびてる線にはさまれてて頂点がBである角ですよ」という意味でABCと呼ぶ。もちろんかくABCはかくCBAと同一の角である。
・2(2x-3y)があったとしてなぜ×を省略するのかわからない
2×(2×x-3×y) だととても見づらいからです
・函数
昭和前記まではそうでした。大学にいくとそう書いてよくなります(たしか大学で使った教科書にもそのタイトルのがあった)。当用漢字に函が搭載されてないから漢字教育の都合上関数とされただけです。
・台形だと上底+下底ってなるのか
台形の上底の幅を0になるまで狭めると三角形になります。その場合台形とおなじように(底辺+0)×高さ÷2という計算をやってるわけです。基本的に同じ式です。
なお、はてなには人力検索というサイトがあってこういう質問をいつでもうけつけてるぞ、増田はみたとおり煽りや嘘が平気で書ける場所なので本当に聴きたいことがあれば人力検索でid出してきいたほうがマシな答えが得られると思うぞ、老婆心まで(余計なお世話をしたときの決まり文句だぞ)
朝日朝日新聞:幼稚園が突然閉鎖、動揺する保護者「新しく探すのは…」
https://www.asahi.com/articles/ASM3W4DB4M3WULOB00P.html
ハフポスト:川崎市内の認可外“幼稚園“が破産と閉園を通告 A.L.C.貝塚学院。「この先どうすれば…」保護者に動揺広がる
https://www.huffingtonpost.jp/entry/alc-kaizuka_jp_5c9adaa7e4b072a7f6011d25
「債権」という名の高利の債権を保護者向けに預かり金として運用していたりと、経営状況は金融機関の格付けでいえば、かなり前から破たん懸念、または実質破たん先だったのだと思われる。
しかし、それよりも気になるのは、「認可外の幼稚園」という表記。
となると、
となるのかというと、そうでもない。
認可外保育施設の指導監督基準の留意事項2では、以下の表記がある。
参考URL
https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000159998.pdf
幼稚園以外の幼児教育を目的とする施設(法第6条の3第 11 項の業務を目的とする施設を除く。)については、乳幼児が保育されている実態がある場合は、法の対象となる。
なお、乳幼児が保育されている実態があるか否かについては、当該施設のプログラムの内容、活動の頻度、サービス提供時間の長さ、対象となる乳幼児の年齢等その運営状況に応じ、判断すべきであるが、少なくとも1日4時間以上、週5日、年間39週以上施設で親と離れることを常態としている場合は保育されているものと考えられる。
ALC 貝塚学院のHP(http://www.doux.co.jp/)には記載がないが、あいとっと等の幼児教育・保育サイト(http://itot.jp/14131/15)では、以下の表記がある。
授業時間 : 9:00〜15:30(月〜金) ※時間外保育あり
そうなると、認可外保育施設に該当すると考えることができる。
しかし、川崎市のHPの川崎区の届け出済み認可外保育施設にはALC 貝塚学院の表記はない。
http://www.city.kawasaki.jp/kurashi/category/17-2-10-6-1-0-0-0-0-0.html
代わりに、川崎市が定める基準に該当する幼児園(無認可の幼稚園類似施設)に通園する3歳から5歳の園児の保護者の方に、保育料を補助している。http://www.city.kawasaki.jp/templates/faq/450/0000012735.html
もし、ALC 貝塚学院が幼児園(無認可の幼稚園類似施設)に該当するということであれば、HPの表記からわかるとおり、川崎市は当該園を認可外保育施設とは扱っていない可能性がある。
※正確には届け出済み認可外保育施設ではないという表記になるのだろうが、未届だから認可外保育施設の一覧に表示していないと考えるのが妥当だと思われる。
なお、認可外保育施設の指導監督基準には、認可外保育施設に該当する施設は、開所後1か月以内に、自治体への届け出が必要となっている。
届け出が無い場合も、自治体から届け出を出すように促すことが明記されている。
無償化に伴って、国会でも「幼稚園類似施設」とは何か質疑が行われている。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a197051.htm
なお、法律だけの話をすれば、幼稚園類似施設という分類は見つけられなかった。
しかし、東京都だけでなく、近隣の市町村には幼稚園に類似する施設として、就園奨励費補助金に似た補助金を利用者へ行っている自治体は多い。
今後、幼稚園に似た園(園が幼児教育を行う方針)の監督方法が問われていくものと思われる。
ま、厚労省と文科省のどちらが引き受けるかという話なんだろうけど、現状、基準を示しているのが厚労省なので、厚労省になるのだろうか。
補足
今回の園は、「幼稚園類似施設」という扱いだが、もし無償化に対応しようとしたらどうなったのかシュミレーションしてみる。
①就園補助金の対象施設である、「学校教育法上の幼稚園」になる。
②特定教育・保育施設である、「子ども子育て支援法上の認可保育所、地域型保育事業(小規模など)、認定こども園、給付型幼稚園」になる
今回の園は、①及び②に施設ハード面や職員配置などをクリアできないためにら、幼稚園類似施設になっていたと思われる。
では、③になればよかったのかというと、そうでもない。
③になってしまうと、無償化の制度では保育が必要な児童だけが無償化(上限42,000~37,000円。年齢や世帯状況による)になる。
つまり、いわゆる1日5時間程度で夏休み等があっても構わない世帯の児童は、無償化の対象外となる。
しかも、届け出済み認可外保育施設になってしまうと、川崎市の幼稚園類似施設ではなくなる可能性があるので、保育の必要性が無い児童の世帯(例:専業主婦がいる世帯の子)などは無認可の幼稚園類似施設としての補助が受けられなくなる可能性がある。
今回の園は、そういったジレンマも幼児教育・保育の無償化が始まる中で抱えていたと思われる。
もちろん、施設が昔から幼稚園類似施設であり、認可外保育施設なんかじゃない!って言い張ってた可能性はあるのかもしれない。
そんな風に言い張っていた施設は、今回の無償化の開始で、どういった対応をしていくのでしょうか。
上記でも書いたとおり、幼稚園にも認可保育所にもなれない園なのだから、今まで否定していた、認可外保育施設になるしかないんだろうけど…
小学校教員経験者としての個人的な意見です。といっても大卒後2年だけ勤務(5年生, 6年生担任)してその後転職してるので、経験は少ないし時差があります。ただ最近、というか定期的に話題にあがる、かけ算の順序問題について自分の考えを書きたいと思ったので
(2)かけ算を元にしたわり算の理解
という2つを考えつつ書きなぐります。
ここではかけ算の順序を固定するという表現を使ってみようと思います。まず現状としてかけ算の学習では
(1つぶんの数)x(いくつ分)=(ぜんぶの数)
乱暴な言い方かもしれませんが、このように固定するのは必要悪だと思っています。
かけ算の順序を固定する理由をざっくり言うと、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するため、です。それに伴い、順序を固定する必要が出てくるということです。固定は副次的なものです。
例えば3 x 2という式において、(1つぶんの数)にあたる数は3なのか2なのか、(いくつ分)にあたる数は3なのか2なのか、順序が固定されない限り判断がつかず評価ができません。どっちの数がどっちだか混乱してしまいます。なので、かけられる数に(1つぶんの数)を、かける数に(いくつ分)を対応させることにより、明確に(1つぶんの数)と(いくつ分)を式の中で表明することができます。
あと、計算だけ指導するのであれば、順序の固定は不要です。実際に、意味がわからなくても計算ができる人は山ほど居ます。ただ、かけ算やわり算の意味をとらえるためには、(1つぶんの数)と(いくつ分)を区別して考えていかなければなりません。
これだけじゃわかんねーよって人は以下も参考にしてください。
授業をするからには、かならず評価をすることになります。実のところ、この順序をつけなかった場合、問題の文脈を正しく理解して立式したのかどうか、評価が難しいです。問題において提示されている事象、より厳密に言えば「現実モデル(*1)」を、正しく「数学化(*2)」して処理しているかどうかが、評価のポイントになるわけです。もちろん児童ひとりひとりにインタビューをして評価できれば良いのですが、ペーパーテスト上では、立式ができているかどうかをかけ算の順序で判断するしかありません。(もちろん、正しい順序で書けたからといって正しく数学的に理解できているかどうかはわかりません。適当に数字を選んで立式している可能性もあります。逆に、現実モデルは説明できるのに式でそれを表現できていない場合もあります。これは現在のペーパーテストによる評価の限界でもあります。)
このままだとわかりにくいので、次で具体的な例を挙げながら説明します。
(*1)「現実モデル」...例えば「1ふくろにつきももが3こ入っていて、それが5ふくろあります」というものが現実モデルの一例です。現実にはその場にももがあるわけではないですが、その現実事象を模したものが現実モデルです。
(*2)「数学化」...ここでは文章題から立式する過程のことを指しています。問題を数学(算数)の領域で解決できるようにすることです。数学化した時点で、現実モデルの情報はそぎ落とされます。たとえば[現実]→[数学]の動きの場合、「りんごが2こと3こでぜんぶでいくつ」→「2 + 3」と容易に数学化できますが、その逆の[数学]→[現実]の動きの場合、「2 + 3 」→「 」の部分は無限に答えが考えられます。りんごじゃなくてもも2こと3こにしてもいいし、今日は1月2日です3日後は何日ですか、でもいいわけです。数学化されたものはそれだけ抽象化されていて、元の現実モデルを言い当てるのは困難ですし、現実モデルがそもそも無い場合もあります。
よくあるひっかけの文章題では、文中で(いくつ分)をわざと先に出し、(1つぶんの数)をその後に登場させるものがあります。
「6枚のお皿にりんごが3個ずつのっています。りんごは全部で何個ありますか」
文章題の順序通りに立式すると、6 x 3という式になります。固定した順序で考えると、これは(1つぶんの数)と(いくつ分)の順序が逆になっています。この場合、実際には
1皿に3個のりんごがのっていて、そのお皿が6枚分ある(式 3 x 6)
1皿に6個のりんごがのっていて、そのお皿が3枚分ある(式 6 x 3)
という現実モデルになってしまい、結果的に6 x 3という式は後者の現実モデルを元に立式したと判断することになります。
りんごのぜんぶの数はどちらも等しいですが、6 x 3という式の元の現実モデルが実際の現実モデルとは異なるため、問題にある現実モデルを正しく数学化できたとは言えず、誤答になるということです。
(1つぶんの数)を3、(いくつ分)を6
として捉えているのか、
(1つぶんの数)を6、(いくつ分)を3
として捉えているのかには大きな違いがあるわけですが、(1つぶんの数)x(いくつ分)の順序で書こうと決めておくことで、どちらで捉えているかを特定することができるようになります。
そう考えると、順序は逆にして固定しても問題はなさそうです。今の
(1つぶんの数)x(いくつ分)
という順序は、ただ言語的な順序に従っているだけだと思います。
かけ算がたし算の延長ということを思い出すと、
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を
2 x 5
と表しているだけで、これは
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を、2が5つ分という風に捉えて、その順番で2 x 5と順序づけているのかもしれません。5つ分の2と捉えれば、5 x 2と順序づけてもいいので、捉え方の問題なのかもしれません。個人的には前者の方が自然に感じるのですが、刷り込まれてきただけかもしれません。
(共通性のある例を考えると、2/3という分数について、日本では「3分の2」と分母から読み、記述するときも大抵の人は分母の3から書き始めると思います。「3分の2」と考えなから、分子の2から書き始めるのは違和感があるのではないでしょうか。一方で英語圏の場合、Youtubeとかで実際に確認した限り、2/3は「two third」と分子から読み、記述の際も分子の2から書き始めます。)
繰り返しになりますが、順序自体が大事なのではなく、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現することが大事で、そのために順序の固定が副次的に必要になるということです。
改めて考えると、この固定というのは非常に厄介でもあります。まだ学習し始めの子どもを混乱させないために条件を固定しているという意図もありますが、順序を交換しても答えは変わらないという事実と照らし合わせたとき、納得いかないのも当然です。しかもその事実自体は小2の九九の時点で学習します。
順序が問題にならないときというのは、既に数学化されたものを取り扱うときです。つまり、そもそも数学化の過程が評価の対象にもなっていないものです。算数的に言えば、文章題のような問題ではなく、既に立式されている問題です。
2 x 3
という問題であれば、
2 x 3 = 3 x 2 = 6 答え6
と計算しても間違いはひとつもなく、正答です。2 x 3が計算できなくても、順序を変えて3 x 2で計算しても良いのです。その根拠は、かけられる数とかける数の順序を逆にしても答えは変わらないからです。むしろ学習が進むにつれて、交換法則は便利に使うことができ、積極的に使えるようにしていくべきです。(教科書でもちろん学習します。)
また、アレイ図(↓のやつ)を考える時、自分でどう括るかによって、(1つぶんの数)と(いくつ分)が決まり、どちらの順序でも考えることができます。例えば
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
上のようなアレイ図であれば、縦3個でくくれば3 x 4という式になりますが、横4個でくくれば4 x 3という式になり、かけ算の順序が逆になります。自分で現実モデルを作り出してそれを数学化しています。
わり算の考え方には2つがあります。「等分除」と「包含除」です。その違いを説明するために、虫食い算のかけ算を考えます。というのも、わり算はかけ算の拡張なので、発想として虫食いのかけ算で考えるとわかりやすいです。3 x 2 = 6と、順序を逆にした2 x 3 = 6を虫食いにして考えましょう。かけ算の順序を変えただけなので、どちらも答えは同じ6です。
・等分除
□ x 3 = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(1つぶんの数)にあたり、例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。これを3枚の皿に平等にわけると、1皿あたり何こになるか。」
という問題になります。1つぶんのりんごの数が、求める答えです。これが「等分除」です。わり算と聞いて想像しやすい、平等に分けよう、というものです。教科書でもこの等分除から学習します。
・包含除
3 x □ = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(いくつ分)にあたります。例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。1皿に3こずつりんごをのせていくと、皿は何枚必要になるか。」
という問題になります。皿の枚数が、求める答えです。これが「包含除」です。イメージ的には、6つある物を1セット3ことして何セット作れるかな、というものです。
以上のように、□ x 3 = 6と3 x □ = 6のどちらも6 ÷ 3 = □というわり算になるのですが、もともとのかけ算の式をみると、求めている□の部分が(1つぶんの数)なのか(いくつ分)なのか、という違いがあります。一見、全部わかりやすい等分除で考えればいいじゃないかともなりますが、包含除は等分除ではとらえにくい、余りのあるわり算を考えるときに非常に有用で、必要不可欠です。
この等分除と包含除の考え方は、かけ算での(1つぶんの数)と(いくつ分)を明確に区別しているからこそ理解でき、学習できることです。3回目くらいになりますが、(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するために、順序を固定する必要が出てくるということが、かけ算の順序を指導する理由であり、今回書きたかった結論です。もし順序を固定しない場合、式の中でどっちがどっちなのかを示す記号を加えるなどの工夫が必要なのではないでしょうか。
単に順序を逆にしても同じ、として学習を進めると、(1つぶんの数)と(いくつ分)に区別のない世界で考えることになります。このとき、子どもにかけ算やわり算の意味をどのように指導すればよいのでしょうか。計算だけ指導するのであれば、何も問題ないのですが。
「算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。」
「算数的活動」とは「児童が目的意識をもって主体的に取り組む算数にかかわりのある様々な活動」を意味しています。先ほど考えたわり算の理解は、この算数的活動を実現しうる機会の一例そのものだと思っています。
正直、計算自体が重要なのであれば、現代では電卓やコンピュータに入力する力が求められるだけです。もっと時代が進めば、こんな等分除や包含徐を学習しなくてもなにも困らない時がくるかもしれません。もちろん、先ほどの算数科の目標は社会の移り変わりによって広義に変容するものですから、時代が変われば内容も変わるでしょう。しかしそんな中でも、根本として算数・数学を探求することが大切ということはゆるぎないと思います。
小学校の教員は基本的にほとんどの教科を一人で担当します。私は自分の算数の指導に課題を感じ、よりよい授業のために調べたり足を使って研究会・学会に参加したりしてきたのですが、正直いうとそうしてきた算数だってあまり自信が無いです。すべての教科を完璧に仕上げるのは結構な難易度だと思います。
勤めている人はみんなそうですが、現場の教員たちも同じように膨大な業務に追われています。また、子ども・保護者のトラブルの対応も多々です。学校では毎日事件が起きているといっても過言ではありません。若い先生は特に教材を研究する時間が必要ですが、所定の勤務時間内にできる時間はほぼゼロです。朝と夜の残業時間も、授業そのものに関係しない業務が多いです。学校で子どもが過ごす大半の時間は授業時間なのに、その授業の準備が満足にできないということです。経験を積めば良いと言われても、今担任しているクラスの子どもが被害者になるだけです。あたりまえですが、その子たちは一度だけの1年を毎年過ごしているわけです。貴重で大事な時間です。
現場にもっと人が欲しい、というのが素直な感想です。算数では少人数授業やチームティーチングが増えてきていますが、根本的な問題は解決していません。算数に限らず、教員がもっと授業に関することに時間を割けるようにするべきです。毎日授業があるのに、その授業の質が低くなっては意味がないです。結局、先生たちもかけ算の順序について教えてくれる人なんて居ないのかもしれません。そんな状況で教えなくちゃいけないんです。
『知り合いがクビらしい』anond:20190213153645
をしつこく書いていたわけだが、昨日そのクビの彼から電話がかかってきた。話を聞いて、こちらも返答に困ってしまったのだった。
いくつかの求人で書類選考が通り、面接を受けている今日この頃らしいのだが、ダメモトで出していた某学校の教官の書類選考が通ったらしい。おーそれはよかったじゃん、と言うと、
「いや……それがね……」
聞いてみると、筆記試験の日程を決めるメールが来たらしい。一般的な職務経歴書だけでなく、いわゆる CV(Character Voice じゃないぞ、Curriculum Vitae な……海外ではまさに職務経歴書を表すわけだが、ここでの意味はちょっと違う)等を準備するのが面倒だなあ……などと言っていたのだが、
「……そう言えば、そこ、どんな学校なんだ」
「うーん……何か留学生も多いところらしいんだが……自分がエントリーできそうな分野だったんでポチって、その後忘れてたんだよな」
「何かテキトーな話だなあ。じゃあとりあえずググろう。話はそれからだ」
とググってみたわけだ。すると……うーむ……これは……マズいかも。
口コミサイトみたいなところにその学校に関するページがあったのだが、それによると、ネパールとベトナムの留学生を大量に(全学生の9割以上)受け入れているという。これは平成20年に文科省が主導でブチあげた「留学生30万人計画」というのがあって、それまで留学生が全学生の半数以下になるようになっていたものが、2010年にその枠が撤廃された結果らしい。そのほとんどは専門学校だが、2017年に通った改正学校教育法によって「専門職大学」に格上げされる可能性もある。専門学校と大学を持つ学校法人もあるから、大学だと思った求人で専門学校行きになる可能性もあるかもしれない。
当然だけど、この手の学校の実態は教育機関と程遠いものだ。学生は日本への永住権欲しさにやってくる。その学生を定員無視で大量に受け入れ、やっつけのカリキュラムで授業を行う。学生の質が下がる結果学校の質も下がり、日本人学生はますます入ってこなくなる。大量の外国人学生への就職指導もままならない。それでも構わない、永住権のためのアリバイが得られればそれで良い……そういう留学生を迎え続ける。都道府県は一応指導は入れてくるが、「日本人学生獲得の為の努力はしております」とでも言っておけば、所詮は指導は指導。何とでも言い逃れられてしまう。
このような状況だと、入管もさすがに学生の在留許可を出せないという話になる。まさにその結果起きたのが、去年秋の大阪での専門学校の一件だ:
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018092500568&g=soc
こういう実態の学校の中のひとつが、今回彼がポチったところらしいのだ。先の口コミサイトのコメントはこう言っている。
「正義感のある人には向かない。勤務して数日で気づくはず。どちらかと言えば楽な仕事であるにも関わらず離職率が非常に高いのは、通常の神経では参ってしまうからだろう。」
この手のコメントがずらーっと並んでいる。
彼はまだ未練を完全に断ち切れない模様。返事の期限ぎりぎりまで考えようか、などと言っている。しかしなあ。どうなのよこれ。
数学と物理学と化学の人間を全部足したくらいの人間がいるように思う。
だって、理学部で生物系の教室にいる人間、農学部の人間、それから医歯薬獣医の人間、あと看護とかがエッセンシャルを持ってる。
科研費やら学振の採用者一覧を見ても広義の生物学に分類される(できる?)ようなテーマは4割くらいを占めている。
何が言いたいかというと、人口が多いので教科書の古本がたくさん流通しているので教科書が安く手に入る。
それから研究が盛んでどんどんアップデートされるので、すぐ版が重なる。前の版は安くなる。
エッセンシャルでいうとアマゾンで1円から手に入る。まあそれは第一版なんだけども。
インターネッツでも、英語で検索しさえすればかなり有用な学習サイトがある。
ケンブリクラスの大学の、講義の内容をまるまるアップロードしてる先生もいる。それこそようつべで15回分見れたりする。15回は半年分の授業の回数だ。
あとTwitterで暇な日本人のバイオの先生方が文科省の悪口を言うためのアカウントを拵えてるので、ぶりっこして質問すれば丁寧に教えてくれる(場合もある)(最近面白い漫画を教えてあげると喜ばれる(場合もある))。
最近は論文もタダで読めるところがとても多いので、最新の情報も手に入れようと思えば手に入る。そうでなくとも論文の海賊サイトを使えばほぼあらゆる論文が入手できる。論文雑誌の総説という、まあまとめコンテンツみたいなやつをめいっぱい読んでればめちゃめちゃ賢くなれる。まあまあな大学院生と同じくらい強くなれる。
学術分野の英語はそんなに難しくない。小説よりは簡単だ。なにが簡単かというと、Google翻訳に入力するのが簡単だ。コピペできるのでね。まあそれは冗談ですが
そんなこんなで根気があれば相当勉強できる。何年か前に、アメリカの高校生が根気よく勉強して研究したところ、すい臓がんの早期発見できる方法を発見したので界隈ではニュースになったりもしている。PLoS ONEというタダで読める結構な雑誌の、次世代シーケンサーの膨大なデータを目で見て発見したらしい。極端な話、パソとフレッツで論文が書けるという時代である。実験を一切しない論文というのもあるくらいだ。
というわけで生物学の教科書は高くない。高いのは生物学の敷居なのだ。一歩またいだら無限にも思える未開の地が広がっているのが生物学ということでガッテンしていただけましたでしょうか。
このリーフレットの表面のキャラクターが、某国民的海賊漫画の主要人物2人に見えるのはオレだけ?
2、3、4面を見るとそこまでじゃないが、わざわざ一番表(右上)に持ってきてる画像がなあ…。
文科省・厚労省によるリーフレット「薬物乱用の危険を理解していますか?(高校卒業予定者向け)」(平成29年度)
(画像:https://www.mhlw.go.jp/content/000452510.pdf)
よくこの画がチェック通ったな。というか、これはセーフのレベルという判断なのか? これがセーフなら大抵なんでもセーフだと思うんだが。頬に傷が無くて麦わら帽かぶってなければOKなの? 著作権のお膝元でこういうケースがあると、混乱するわ。
とある2050年に役立つ技術を開発するために数年単位1千万円程度の助成をするというプロジェクトがある。
だが、蓋を開けてみると、通ってるのは大御所方の研究ばかり。自分の分野ではあの人は大御所というのはわかる。で、他の分野でも通ってるのはほぼ教授ということは、多分その分野の大御所の方なんだろう。
こうしてみるとわかるのは、
1)素人にわかり、うまく行きそうだと感じるクラスには長年の積み重ねがやっぱり必要。けど、素人にも革新的だとわかるというのを基準にしてしまうと、「すでに積み上がった革新的研究」しか通らない。その時点では科学技術としてはもうすでに革新的ではない。実用面としてはまだ未完成の技術だから革新的ではあるのだろうが。
2)今の日本では大御所方でも研究費がなくて困ってる。だから、今までの研究の積み重ねの延長としてでは金は取れない。実用化はまだしてないから革新的という予算に応募して通らないと、大御所であろうと研究が続けられない。
3)大御所ですら金がなくて困ってる状態で革新的とやらを掲げてやっても、うまくいくかどうかわからないクラスのやつは通らない。枠が限られているから、枠の中でうまくいくようなものが優先される。自ずと、革新的だがうまくいくかどうかわからないものは落ちる。
4)更にその中で、「革新的なものにでかい予算を!でも総額は減らす。」とやると、科学技術としても革新的なものにかける予算が更に減る。
5)そもそも、新しい挑戦は失敗する確率のほうが当然高い。競争をつけて、総額を減らす。失敗したら飯が食えなくなる。というのは、日本津々浦々、革新的なものをむしろ減らすのではないか。だって失敗したら人生詰むが、手堅い研究で革新的の皮をかぶれる状況であればいきていける。まあ、故に、国際比較なんかしちゃうと、日本初革新的研究がもうでていないということが一発で明るみになるが。
とすると、総額を増やして競争的資金で、少ない額での数年程度の研究で採択率、採択数を相当あげるということじゃないと、革新的研究は起きないんじゃないか。
まあ、これは最近豊田長康先生が声を上げられていることではあるが。
ついでに、文科省系の助成は研究者本人の人件費がでない。さらに、本来人件費の源である運営交付金が削減されたとすると、そもそも、研究をする本人がいきていけない。
と言っても、新自由主義の金を減らして競争激しくして、罵声と失敗した奴の厳罰をもとめる日本社会じゃもうどうしようもないのかもしれないかもなぁ。
競争はある程度必要だと思う。だが、予算は相当数がとれるという状況じゃないと、安全のために手堅い研究しかしないし、革新的なものをすると人生詰むからやらないというのは続くだろう。
「「「「「ぼくたちは、フォロー&RT&媚びリプライで100万円受け取った芸人です!!!!」」」」」
大変羨ましいことである。
だが待ってほしい、前澤氏はもうすぐ月に行く。
そしておそらく帰ってこないだろう。きっとそうだ。そうに違いない。
残るのは何か、そして誰か。
そう、5000億円超ともいわれる莫大な財産とランチパック剛力さんだ。
彼が帰ってこなければ剛力さんはどういう行動を取ると考えられるか。人一倍の思いやりを持ち、尚且つ聡明な彼女のことだ。間違いなく彼の意志を継いでユウサーーク!プレゼント企画をリバイバル上映することだろう。
帰ってきたユウサーーク!は100万×100人なんてしけたもんじゃない。なにしろ予算は5000億円である。兆の半分だ。半兆だ。豆腐じゃないよ、現ナマだよ。
仮に1億円ずつ配っても5000人に行き渡る。宝くじやtotoなんて目じゃないね。総務省も文科省も公式アカウントでRT&フォローすればいいんだよ。それが平等ってもんだ。
そしてもう一つ留意しておきたいのが、ランチパックさんはあまりSNSがお上手ではないということだ。そりゃランチパックだからね、SNSが上手いランチパックなんて聞いたことないよね。ランチパックそのもの、とくにピーナッツはずっと美味いけどね。
だから彼女に任せれば、今回のように作為的なものでなく本当にガチ抽選で金をばらまいてくれる可能性が高い。
つまりその時だ。その時こそ我々が本気を出せばいいのだ。複垢でも何でもしよう。RTの世界記録なんてものはスプラトゥーンばりに塗り替えよう。
どうして「起立性調節障害で学校にいけない状態」を「不登校」ということが問題なのか。
考えた結果、「起立性調節障害で学校にいけない状態」の学生に、不登校の学生と同じサポートをしても
学校に復学することは不可能なパターンもあるっぽいと思ったので書いておく。
文科省では不登校を病気の子供を含まないと定義づけていますが、その定義の中で、不登校の子に必要な対処をいくつか定めて通知しています。
(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1397802.htm)
これを受け取った各学校・機関は、これに従って対応するという流れになっています。
これは「学校に行きたくなくていけない生徒たち」へのサポートなので、メンタル面(気持ち)のサポートと親御さんとの密な連絡などが主です。
「メンタルのサポートのみでは復学できないが、身体機能面でのサポートがあれば復学できる」という生徒がいます。
現在の教育機関などでは正常な対応(身体機能面でのサポートを行うという決定)はほぼ不可能です。
でも、足を失ってしまった生徒がいたとしたら、学校側はバリアフリーの拡充など、できる対処は行うことになっています。
(障害者差別解消といいますが、これは障害者手帳の有無には関係ありません)
起立性調節障害の子も、そうしてもらえれば学校に行ける子もいるのに、
復学のためのサポートがきちんと受けられません。
なので起立性調節障害の子たちが「不登校」として扱うな、というのは、
当事者の子たちが言う「同じ枠にはめないでほしい」という感情的問題とは別に、大きな問題につながっていると思います。
起立性調節障害がどうして不登校という枠組みにはめられてしまうのかは、おそらく下記の問題がある。
1)朝起きれないという独特な症状
睡眠クリニックなどにかかればよさそうだが、起立性調節障害専門のクリニックにのみかかるパターンが多い。
軽症の生徒だけがいた(たとえば親の送迎だけあれば学校生活ができる生徒だけがいる)学校に
突然重症(たとえば立てないため車椅子での学校生活でなければ復学できない)の生徒が発生した場合、
学校側は軽症の生徒と同じサポートだけをすればいいはずだと判断しうるかもしれない。
だいぶ疲れたのでこの辺でやめておくが、おそらくここまで読まれた方は患者本人だったり、親御さんだったり
はたまた教育現場で働く方だったりするのだろうと思う。
皆さんどう感じられているのだろうか、議論はする気はないが、ご意見や気持ちなど耳にすることができれば参考にさせていただきたいと思う。
文系を、国立大学からなくすというのは、筑波大学というより国の政策。
横浜国立大学でもこのとおり
理工系に集中させないと税金を投入する意義を問われると財務省から言われている
との発言があったそうで、
その結果ぼくたちが所属している「人間文化課程」は・・・「廃止」と告げられてしまった。
文科省が国立大学の課程・学科を直接「廃止せよ」と言ったのである。
私学の多い関東一円には国立大学文系の学部や組織は必要ないので廃止せよということなのだ。
文学部なんて一種の贅沢品なのだから私学の高い授業料を払える学生だけで十分だと言うわけである。
よく文科省の研究へのお金の出し方などの選択と集中について、こういった批判を目にする。
そのあとには決まって、「どれが当たるかわからないのだから幅広い研究に~」と続く。
しかし、この意見はそのたとえなら、「馬券を全通り買えば当たる」と言っているのと同じではないか。
何かを馬券に例えるならば、その正解は「一銭も出さない」ことが正解となるだろう。
反論として「それはギャンブルの還元率がマイナスだからであり、研究はトータルではプラスである」というのは考えられる。
それならば好きなだけ出せばよいのではないか?
まあ政府の支出を増やすには国債を刷るなりなんなりのマイナスがあるとして、国債の利率と研究投資の還元率を比べて総額を決めて各研究に割り振るのが正当だろう。
しかし競馬は走る馬の数も週のレースの数も決まっているが、現実社会は複雑さが遥かに高く、研究対象も手法もすさまじい数になる。
したがって、がん治療薬に10円、ワールドトリガー研究に10円。
それが馬鹿らしいというのなら、各研究のリターンを算出して合成オッズを出してそれに基づいて配分。
すでにほぼ選択と集中の域な気もするが。
「馬券を何も買わない」か「3連単を全部買う」のどちらも選ばないのならば、そこには必ず選択と集中が存在している。
批判するのならば、その買い方はおかしい、という批判をしないといけない。
前走好走の馬ばっか後追いで買うから散々な目にあっているんだ、とか、上位人気5頭の馬連ボックスとか回収できるわけないだろ穴馬混ぜろとか。
競馬ファンだって、みんな馬柱がこれが当たりだよってプレゼンしてくるのを聞いてこのどれかが当たり馬券だと思って買っているんだ。