はてなキーワード: 文科省とは
掛け算の順序強制(https://togetter.com/li/1287075)や、
足し算のさくらんぼ計算強制(https://togetter.com/li/1288279)
みたいな「理解するのに役立つこともある」から「こう書かないとテストで減点」
漢字の書き順は違うな。文科省が「筆順も示すこと。」って言ってる。
これは、教えなきゃダメだし、テストで答えられなかったら点数にならないのは妥当だろう。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/002/003/002/011.htm
歴史のごろ合わせは、さすがにごろ合わせそのものをテストで出した事例を聞いたことない。
算数だけなのかな?
https://nakorightnovelvirtual.hatenablog.jp/entry/2018/10/22/205042
↑
今日、テストの日に提出した国語のノートが返ってきた。評価はBだった。
先生はプリントを貼ってなかった人が多かったとおっしゃったから、どこかプリントが抜けたのかと考えた。
友達にA評価のノートを見せてもらって、プリントに不足がないことを確認した。
何かの間違いでB評価かもしれないと思ったから、授業後に、「なんでB評価なんですか?」と聞いた。先生の返答はこうだ。
ぼく「字が汚いと評価を下げるんですか?」
ぼく「ほーぉぉぉん」(諦め)(着席)
何諦めてんだこの陰キャ......。
では問題です。
なぜ授業でノートを取らなければいけないのか、答えを述べよ。
ぼくの答えは、「記憶の補助のため」です。
極論授業の内容をなにもなしに記憶できるのならノートは取らなくていいと思うんですよね。
まあぼくはそんな天才ではない訳で、記憶の補助としてノートを書きます。
はい。たぶんここまでは概ね賛成いただけるでしょう。
じゃあ問題!
「NNDN-TDSISKTKRNDY」
なんの伏字かわかる?正解はね、
なんでノートで成績つけるんだよォ!
じゃあなんでノートで成績つけるんだよ......。
ほとんど同じ内容を書いてまっっっっったく天と地との差ほどのテストの点とって
あなたのために書いてないです。
まったく違う点数なんですが?
字が読めないのは確かに悪いことですが、それはテストで×つければいいでしょう。
ノートを取るのは成績をつけるためか?
内容理解だけで成績つけてくれよ
もうどうしようもない。綺麗にノート取ろうとしたらたぶん成績落ちる。
落書きばっかで汚い字でもいいだろ......。
あなたの読める読めないとこちらの理解しているしていないは関係ないだろ......。
何も考えてなくて、だから30点40点50点取ってるんだろ......。
そういう話だったっけ。いや違う。
小学生の頃からなんでノートを取るのか知らずに考えずに今でも板書しているんだろうな?
といっても、ノートを取る理由を自分の中で確定できたのは中3の田野先生との出会いなので、それまでは彼らと同じく思考停止マシーンであったのである。別に偉くは言えない。
私の勉強観と、高校でつまらない授業を受けている話。 - nakoのラノベ・VTuberブログ
教えて偉い人!どうしてノートを取るの?
ま、結局は自分の評価より上の評価の思考停止マシーンがいるのが嫌だという、身勝手な思いから来ていて、自己正当化がしたいだけなんだけど。
と、こんな内容を母に話したら「じゃあ(先生に)言えばいいんじゃない?」と言われた。そらそうよ。
僕は明日から理由を問いまくるクッソめんどくさい生徒になるぞ〜〜。なりたい。
まあ授業中つまんなかったら寝たいけど時間勿体無いから授業とは別のことしてるという時点で相当めんどくさい生徒なのは既にそうなんだが。
や〜、自分から別のことをやるのが楽しいんですわ、先生にどうこう言われないでやるのが楽しいんです。自分でやってるのが好き。もう先生が自習監督みたいなもんだな。
あと最近この男調子に乗りすぎだろう。もっと謙譲してIKEA。そんなにクラスメイトや先生を馬鹿にするなよ、100点満点のテストで8点取った奴とか馬鹿に......wするなよ......w(性格悪すぎない?)
あ!もしかしたらぼくのノートは自分のためという前提がおかしいのかも!
文科省さんとかはノートは経済を回すABC分析で言ったらAの商品というだけかもしれない!
「板書」が、いちばんやってる感を味わえるのだろう。そうやってやってる気分だけ味わって中身はすっからかーんってか、ははっ。
マジで教師は全員精神鑑定を受けてくれ。そしておまえらの授業を生徒に採点させろ。自分がどんな授業をしているか知れ。
あ、これを読んだ方のご意見が知りたいので、コメントお待ちしております。
SNSで共有していただいてよりたくさんの人に見てもらって意見が欲しい。
おわり。
お前はもうずっと増田で、「査読がないことは論文の質を決定する要素ではない」と言っているだけ。それに対して、高いレベルの査読が行われていなければ再検証の対象としての優先度は下がるし、再検証されない論文は被参照数が増えず、論文としての価値が低いと言っているわけだ。査読は優れた研究であることを同業者に認められるための条件の一つになるが、査読されていなければ再検証も行われず優れた研究と認められることは稀である。ゆえに査読されない事は、論文の価値を実質決定する。
被引用数にやたらこだわる人が多いと思ったらそういう理由があるのね。当たり前だけど、マイナー事象を扱っていればメジャー事象を扱ったものより被引用数は少なくなるから、それは直接価値を測る尺度にはならんよねって話をしてるわけ(この問題はとうぜん査読誌にも存在するよ。英語圏でも日本語圏でも、ナチスについての歴史研究とそのへんの小国の歴史研究、読まれる頻度が高いのは研究者人口からいって前者なわけで。まあ当の小国で出た論文に限れば頻度は逆転するわけだけど)。あと、論文の中でダメダメな研究を引用した上で批判する、なんてのもよくやるよな(まさかやらんのか?)。このような研究分野において、被引用数は文字通りどれだけ多くの人に引用されたかという尺度に過ぎず、引用の多寡は直接的には論文の価値とリンクしない……というのは流石に理性があればわかってくれるよね? まあ実質的にリンクしている分野があるのは理解したけれど、他分野においてもリンクしている、あるいはリンクさせるべきだという主張はまったくもって理解に苦しむ。
そして、社会学においては、偉い先生が書いた査読もされない招待論文が価値があるとみなされる構造に問題があると言っている。当初から査読の有無は問題視されていない、論文のクオリティを担保する仕組みについて社会学での在り方が、社会学者内でも文科省でも疑問視されている事を指摘されている。
偉い先生が書いた良い査読なし論文には、そのへんの若手が書いた微妙な出来の査読論文よりも価値がある、という話なので。そしてもちろん近年は査読重視にシフトしている、という話もさんざんなされているわな。同じ社会学でも世代とか環境によって「格」の考え方には差があるわけで、1人の学者の放言に基づいて構造を云々してしまうのは到底科学的な態度とはいえない。まして、社会学に限定するのではなく、「文系」というより広いくくりでの議論をしようとするならば。要するにきちんとリサーチしろと言っている。ろくに対象について調べずに的外れなこと言ってんじゃねーよバーカ、って言えばわかりやすい?
お気持ち表明学問とは違って、理工学は先行研究との間の比較実験をして、実験結果について先行研究との比較を解析的に行う。先行研究との比較には、同様の実験を再度行う場合や、同じシステムを構築しなおす手間を含む。時には、予算も時間も考えられない程かかる。
先行研究との比較ねえ。まず文系といっても色々あるので一概に言えないわけだが、たとえば歴史学なら先行研究で引用されている史料はチェックするよな。文学なら、まあ文学といっても多種多彩だけど、刊本が容易に手に入る小説の内容についての分析なら手元か図書館に同じ本があるはずなんだから再検証は容易にできる。のでみんなやってるはず。逆に文化人類学なんかはフィールドワークのデータに依拠する以上原理的に完全な再現が不可能だけれど、そこは天文現象についての研究と同じだと思ってもらえれば。一回性の振る舞いを膨大に集めて理論を構築していくという意味で。社会学も、フィールドワークに基づいたやつなら文化人類学と同様だし、統計に基づいているなら統計に基づいた議論ができるよな。法学は、まあ、条文が目の前にあって、それをどう解釈すべきか、あるいは個別の事件がまずあって、そこに条文をどう当てはめるべきか、という議論だから、再現性とかあんまり関係ないと思う。とまあこんなふうに、分野によって「再検証」のあり方というのは実に多種多様なのね。理系とひとくくりにされてはいても、工学と天文学と生物学と理論物理学と数学じゃあ「再検証」のあり方は違うっしょ? 理工系がスタンダードな研究のあり方、ということではまるでないわけで、そうなんですか理工系ではそうなんですね勉強になります、以上のことは言えない。
逆を言えば、文系の場合は、査読の有無にかかわらずただ読むだけでいいという事だろう。論文の良しあしに関わらず、ゴミの山に埋もれるのは空しいな。そして競争もない。
ただ読むだけでいいというのが何のことなのかはわからないけれど、普通に競争はある。考古学なら新しい遺物が発見されたとか、歴史学なら新史料を見つけたとか、そういうマテリアルな新規性もあるし、独創的な理論や解釈を提唱したという意味での新規性もあるわな。そして同じ事象を研究するにしても出来のいい研究と悪い研究とでは当然与えられる評価も異なってくるし、違う事象について研究していても同じディシプリンの中にいる以上出来の良し悪しというのはわかってしまうわけで(だから被引用数を重視する文化が存在しない。たとえどれだけナチス研究の方がそのへんの小国研究より注目されていようと、出来の悪いナチス研究と良く出来た小国研究なら後者の方に価値があるから)。
研究者か否かは、日本語論文の検索サイトで確認できるけど、一般に理系教員ならば100を超す論文が示されていて、文系では20以下も珍しくない。
45歳の教員の論文数が15以下であれば、仮に30歳から研究生活に入ったとして、平均で毎年1編以下となる。
もちろん論文の質や、扱う問題の大小や難度こそが重要だが、文系であれ優れた研究者の論文は「年に1編」より十分に多い。
緩くみても、論文数が年齢から35を減らした数より少なければ、「まともな研究者ではない」「研究はしていない」と考えた方がいい。
文部科学省は、2015年6月の文部科学省通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」にみられる、主として人文社会科学系学部の廃止や他領域への転換を求める方向性を打ち出している。
文科省の焦燥感は理解できる。こうした「自称研究者」の給料を税負担でまかなうことへの懸念があるのだろう。指導を受ける学生の不幸もしのびない。たとえ無償で受けることができたとしても、内容が無意味であれば、何のための教育だろうか。「学の独立」からすれば、国家による統制ともとれる圧力や、規制強化が好ましいはずもない。大学や各学会の自浄作用に期待したいが、それが働く可能性は決して高くないだろう。学内や学会での「業績審査の厳格化」がなかなか受け入れられがたいのは、それが「不出来な同僚を指弾する」ことになるからであろうが、大学の矜持が問われる。
一般的には就職すべきだろうけどね。博士に進んでどうしよう、なんて悩む人は進学しない、ってよくいうよね。
でも博士ってさあ、ばらつきが大きすぎて一般論なんか適用できないことの方が多いとも思うのよ。
アドバイスできるとしたら、実力も現状もよくわかってる指導教員とか、同じ教室のポスドクとかだけだと思うわ。
24歳くらいのとき、何考えてましたか~?って聞いてみるのがいいかもしれないね。私はポスドクに聞いてたわ。
そういう話題を共有できない指導教員だったらばさ、信頼関係築けてないからそこで進学すべきじゃないと思うよ。割とマジで。
私は人生を懸けて学問を追求したいって思う魂を歓迎するよ。いつか一緒に文科省の悪口言いたいね。
1年目から社会人ドクターは無理だと思うよ。寡聞にして全く聞いたことない。分野によってはありえるのでしょうか??もしや知り合いにいるのかな?
大学卒業しただけレベルの素人が数たくさんいたってどうにもならんってのはIT業界でも周知でしょうが。
素人じゃない保育士でさえ自分の子供を雨の日の自転車3人乗りで車輪に傘挟む事故で殺して書類送検されたりしてる。
母親が歯医者にフッ素塗ってもらおうと子供をつれてったら弗酸つかわれて激痛で殺された事件もある。
もう今の日本で「安心して子供を任せられる」の要求レベルはバク上がりすぎてる。
教師に教育と称してアレルギー食品食わせられたくらいで死ぬ生き物はそっちが悪いだろみたいな話もたくさん見聞きする。
1型糖尿病の児童が学校に注射もちこんでも、トイレでも保健室でもうたせない(覚せい剤を連想させるから?)とか。
みんなバカなの?リスクを押し付け合うしかできないの?見たことないものは理解できないの?
本人の話を疑うところから入るのなんで?
せめて1ケタ児強姦犯罪者はICチップ埋め込もうぜ。痴漢、麻薬の累犯もな。
エピペンとかの教育もしよう。保健体育・家庭科をお題目にしないで国語とおなじくらいしっかりと男女に教えよう。
余談だが、優しさを教えるのなら、道徳(目的)より保体・家庭科(手段)が先だろが、文科省と自民党のバカめ。
国語で源氏物語(目的)をひらがな(手段)より先に憶えさせるか?
安全で男も女も爺さんも婆さんも普通に育児に手出し(補助)できる世の中はそういうとこからだ。
果実ばっかりみて根を育てることをしない教育なんか風が吹いたら倒れる木をつくるばっかじゃねえか。
てかもう運良く倒れなかった木があつまって先生ごっこしてるだけだからな。
違う違う。
制度設計上、35歳で常勤職なんてほとんどアリエナイって言ってるの。
ロス無しでドクターを取得して27歳。そこから二回ぐらい三年任期のポスドクを回して33歳。
(できれば海外経験もあった方がいいけど、海外にいるときに国内の公募に応じるのは難しい)
それまでに、海外の一流誌にファーストオーサーになっている論文を複数通すような研究をして、それなりに知られるようになっていて、それで偶々自分と似たような専門分野の専任教授が退職した大学があって、凍結かからずに公募が出たら、35歳までに就職できる。
そんなの奇跡に近いわ。
アメリカや中国に行っちゃうことを決められりゃ、その方が楽だけど、妻が日本でのキャリアを望んでたり、病気の親でもいたら、40歳過ぎまでポスドク続けるか、研究やめるか、というのは普通だ。
「奇跡に近い」は言い過ぎだな。ごめんなさい。周りを見回してもいないことはない。
ただ、最近は専任准教授になってても実は任期があったり、場合によっては「任期なし」扱いでも内規で任期があったり、逆に任期つきが明記されていても実態として無制限に更新できたり、という話も聞くので、周りの人間の待遇が本当はどうなのか、よくわからん(文科省も実態はわかってないんじゃないか)。
文系クラスだけれども行列を習ったよという人は年齢40代から50代の人です。
「数Cが消滅しました」と聞いてびっくりする人はたぶん20代~40代の人です。
ベクトルを学ばずに大学生になれる!? ~ 新学習指導案で日本は滅びます - Togetter
ベクトルが高校数学Cに移動するので,カッとなって過去の学習指導要領から線形代数の分野を表にしてみた。 pic.twitter.com/k7VJjPrxvq— ジョゼフ・アンリ (@joseph_henri) 2018年2月16日
大学で教えている人の間で2年程前から話題になっています。1年生を教えている人は頭を抱えています。
あなた方は実験台のような世代で申し訳なく思います。大学によってはまだ混乱しているかもしれませんね。
知らないことが出て来たら「それは習っていません」と教えてあげてください。
とにかく増田に高校数学をやり直せと言っている人たちはおじさんかおばさんです。
気にしなくて良いです。
わたしからはあなたに「理工系の数学入門コース」をお勧めします。
数学を理解することよりも使えるようになることを目標にしたシリーズで
厳密な証明よりも「わかりやすい説明」に偏っていますが増田の目的には十分だと思います。
とりあえず線形代数を読んでみてください。特に前提知識は必要ありません。
読んでみて数学が楽しくなってきたら後ろのページにある教科書リストからいろいろ読んでみてください。
楽しんでね!
ほんとうにそうですよね。
新しく「情報」という科目ができましてコンピュータの使い方やITリテラシー、プログラミング、パワーポイントの使い方etc...を高校で教えるようになったのですが、その一方で数学がごっそり削除されてしまったという。
2024年以降はベクトルが共通科目から消えます。物理をどう教えるのか・・
円周率が3になっても日本は死なないけれども「技術者が行列をしらない」は日本死にますよ。
「漫画/アニメの『普通の家庭』が普通ではなくなった」とか言う話が人気だが
常識で考えれば大学進学率が右肩上がりで現在50%程度の日本で
「大卒ホワイトカラー家庭」がマジョリティだった時代なんぞハナからないのである。
それどころか文科省の学校基本調査を見ると90年代は40%も越えてないことが分かる。
むしろ昔のアニメから読み取るべき時代の変化は「子供の進学意識」であり、
子供の進路として「大学へ行くなんて超エリート」という感覚が感じられなくなったのはそれこそ
(よりリアルな『普通』であるとされる)あたしンちのみかんくらいからではないだろうか。
またこれに関連して「少年漫画に出てくる家がデカい」ことも言及されるが
あれは家について勉強したことがあれば分かるが、ほとんど有名なハウスメーカーのモデルまんまである。
ハウスメーカーのモデルハウスというものは普通の家の2、3倍のサイズで作るもので
「こういう多目的室も作れますよ」「こういう豪華なキッチンはどうですか」というショウルームなのである。
漫画家なんてそれこそ世間知らずな賃貸暮らしが多すぎるので、むしろリアルなサイズの家が描けないだけである。
もしくは自分が漫画家として成功してこんな豪邸に住むぞという夢をそのまま書いているだけである。
かつてオタクというものはむしろこういう創作裏事情を穿ってこそ深い読みが出来ていると思われたものだが
今どきはただ単に創作と現実を混同して「こんなリッチな時代があったのだ」とアホみたいなことを言うばかりが
まんがの深読みなんて気持ち悪いというのもまた一理ではあるが、