はてなキーワード: メディアスクラムとは
今回の安倍元首相に対する銃撃事件でマスコミの必要性ってのが一気に感じられなくなった。
もとよりマスコミには不信感があるし、自分もメディアスクラムを受けたことがあるので、そもそも良い印象はないんだけど、
というのは、そもそもこの容疑者の動機である宗教問題に対して、大手メディアはもとから知ってたのに、それを話題にしなかった。
事件前にもTwitterでたまに2世の話がでてきたり、多少見聞きしていたけども、ふーんて感じだった。自分の知る限り、日本のテレビ番組・ニュースで取り扱ってるのは見たこと無い。
それで事件後。この宗教法人に対して、マスコミは具体名を明かさず単に「宗教団体」という言い回しをしていた。
その後雑誌やネットメディアでちらほら具体名が出てやっと重い腰をあげたようにして、各社横並びで具体名を明かし、いまではこの団体がどれほどひどいのか、みたいな特集までやってる。
こうした隠れたというか普段日の当たらない問題に対して、取材なりして報道するのが、真のジャーナリズム、報道のあり方だと思うのだが、昨今のテレビ局を見ていると、ただ同じ話題をやって、Twitterなりの話題を紹介するのみとなっているように感じる(NHKはこのへんちゃんとやってるけど)。
そんでTBSが宗教法人の記者会見をそのまま賛同してる、みたいなネットニュースから、坂本事件を知って、日本のメディアはオウムの件で宗教に対しては触らぬ神になんとやらで、扱わなくなったのかなとも思った。
容疑者が今回の犯行を起こしたことで、世間はこれまで目が向けられなかった事実に目が向けられ、容疑者にとって願いが一部かなったと思っていても不思議ではない。
今ん所、一番頼りになるメディアは週刊誌だと思っているのだけど、みんなどうよ
追記:
なんかその時々の印象というか空気感みたいなのって、あまり記録に残されないかなと思ったので、自分の振り返りとしても残そうと思った。
娯楽のための表現物(映像作品・マンガ・小説その他)の表現規制に対しては、殆ど例外なく反対するけれども、逆に報道の自由に対しては「メディアスクラムを許すな」みたいなノリで、制限されるのは公共の利益のために当然、って言いそうな気がするんだけど、実際の所はどうなんだろうな。
俺も表現の自由戦士だが、報道の自由はむしろ娯楽作品のそれよりも強く守られている必要があるとは思ってる。
ただ、メディアスクラムに代表される様な「俺達マスコミは社会的要請の下に仕事をしているのだから、取材対象側の受忍義務は大きいに決まっている。 メディアスクラムなどと騒ぎ立てる連中は報道の自由を犯している!」みたいな了見はやはり許せないし、そういう「我々は特権を持つ」と内心では考えてる連中の正義もおよそ信用できない。
だが、被取材側に受任すべき程度はある事、その部分の調整のもとでなるべく充実した取材が出来ることも大事であるから、相互にぶつかる権利の調整として「報道はどこまで被取材者の人権を侵害し得るか」のラインは公に決められているべきだと思うのである。
まあ、マスコミは「そんな事は長い報道の歴史で業界ルールとして固まっている。だから素人は……」と言い出すに決まってて、だから俺はマスコミの連中は全員クズだし、人間として信頼できるものなど一人も居ない、クズのやってるゴミ商売だと思っているが、マスコミという事業が民主主義社会にとって不可欠で重要であることは否定できないから頭が痛いのである。 ウンコは臭いし汚いが、それを排泄しないと人は死んでしまうのである。
この連休は男女の世界のサッカーを観戦しまくるんだって決めて、ビールもたくさん買ってきて、A4くらいのちょっといいステーキ肉も大量に買い込んで来た
本当はバーで見れたら良かったけど、今回は仕方ないので家でつまみを作って飲みつつ試合を見ていた
オリンピックのゲームは面白いし、1日中見ていられる事なんてW杯とオリンピックくらいしかないから見ることが出来て本当にうれしい
反対派やメディアスクラムに散々に下げられていたから、政府がへたれる可能性を恐れていたけれど開催してくれたことに感謝したい
信念のある政府で良かった
極端な反対派ばかりが目立つはてなにも、歓迎してる普通の人もいるし、開催まで漕ぎつけてくれて事に感謝もしてる人もいると言いたい
はてブを検索すると2013年の9月、10月にメディアスクラムが組まれてたのかな? 各社が一斉に叩いている
中日新聞:学校での香料自粛を 過敏症の生徒ら増加:暮らし(CHUNICHI Web)
https://b.hatena.ne.jp/entry/www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2013101402000005.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20130919/k10014663231000.html
柔軟剤:「高残香」タイプで体調不良を訴える人が増加- 毎日jp(毎日新聞)
https://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/select/news/20130803k0000e040184000c.html
東京新聞:流行する香り付き柔軟剤 「過敏症」の人たち悲鳴:暮らし(TOKYO Web)
https://b.hatena.ne.jp/entry/www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2013090202000121.html
2008年、2009年あたりから50ブクマ以下だが柔軟剤嫌いのエントリーが見受けられる。ダウニーの名前が挙がっている。
2010年、11年ごろには柔軟剤の香りでモテるというエントリーも。香水よりは低刺激なのがいいらしい。
最初に書いたメディアスクラムは2013年9月19日に国民生活センターが発表した「柔軟仕上げ剤のにおいに関する情報提供」を受けてのものだったようだ。
賛否分かれる話だと思うのでタイトルで気分が悪くなったら先を読まないほうがいいかも。頭悪いなりに自分の考えを書く。
異なる意見や感情があることは認める。ただ、議論するつもりはない。
今回の問題で懸念されてるマスコミによる過剰なメディアスクラムは、そもそも実名報道の是非とは別軸で語るべきだと思う。
仮に大多数のメディアが匿名報道したとしても、独自のルートで遺族に押しかけるメディアは出てくるだろう。
これは上と関連してるかも。
匿名報道が奨励されると、むしろ実名を報道することに価値がついてしまうのでは?仮に禁止されたとしても、同様だと考える。
胡散臭い週刊誌の記事や無数にあるネタ記事や掲示板の書き込み全てを制御するのは無理だろう。デマも流れるだろう。
それなら、あてのない情報や実名に過度に価値を与えず、むしろどこかのメディアが実名報道してくれる方が混乱を生まないと思う。
今まで実名報道の是非がこんなに大きく問題になったっけ?記憶にない。あるのかな。
遺族がかわいそう って意見はものすごくわかるのだが、これまでの殺人事件でも同様の揉め事はあっただろう。
それをみんなの感心がある京アニだからと、諸々の問題点や合理的な点を無視して慣習を簡単になくすのは、ものの決め方として横暴だと思う。
民意だから正しいってこともないだろう。これまでに実名報道が行われてきた理由やメリット・デメリットなどを充分に把握してから検討すべきである。
「身元の特定できている男女3名が亡くなりました。故に犯人の罪は○○です」のようや曖昧なニュースが流れることになることへの懸念。
被害者を匿名にするのが今よりライトに行われるのであれば、いくらでも改ざんができてしまうのでは?
そんなニュース信じられる?
事件直後だと「おそらく犯人だけど、正確に犯人かどうかはこれからわかる」って状態もあるだろう。そこらへんに少しでも曖昧な点がある状態で実名報道をする方が危険である。
これに対して殺人事件の被害者は、DNAなどで身元がはっきり特定できる場合が多い。被害者の方が事件の容疑者と比べて人間違いも少ないのではないだろうか。
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以上、長々とすみません。気を悪くした方がいたら申し訳ないです。むやみに匿名化を認めると、それはそれで問題が起きるのではないか と思うのです。
最後まで読んでくれた方はありがとうございます。
(これを書いている時点で、情報が公開された。自分としては、マスコミのゲスさにうんざりしている)
先に結論を書くと、実名と年齢を聞かされる事での親近感を覚える心理マジックというか錯覚に、「売れれば正義」なマスコミも、他人の不幸を「感動ポルノ」として消費するのが好きな視聴者らも囚われ過ぎてるからだ。
「なんでも鑑定団」という番組があるよね。言うまでもないが、テレ東の看板番組のひとつであり、身の回りにある「お宝」がとんでもない高値のものな事が判明したり、逆にお宝とされていたものが「真っ赤なニセモノ」でタダ同然な事がわかり、出品者が赤っ恥をかくのも番組名物である。
その際、出品物の由来が古美術商から説明されるが、我々が一番見たいものといえばそう、「評価額」だ。つまり、「それはお金にすると、幾らになるのか」だ。だから、発表された高値に驚いたり、逆に二束三文と分かった時のトホホ感覚を楽しめるのだ。
さて、京都アニメーションでの死傷者名が公表された。検視作業も困難を極めたであろう警察関係者には、感謝しかない。
ただしマスコミ、てめーらの関心は前述したように「名前(ここから性別も推測)と年齢」から感じる親近感マジックで、お涙頂戴の悲劇として実際の放火死傷事件をいかに「感動ポルノ」として消費するか、しかねーだろ。
それを、さも報道の使命とやらでごまかし、その後に発生するであろう遺族へのメディアスクラムには知らん顔、というゲスな根性を巧妙に隠している姿勢が、気に入らねーんだよ。
「事件が忘れ去られるのを防ぐ」とやらで御託を並べるなら、アンタらマスコミは自局で「事件追悼企画」とやらで、京アニ過去作の放送くらいやってみたらどうかね。そういう動きに結びつけてない時点で、しょせんアンタらの関心は「死者のプライバシー暴き」とそれを感動ポルノとして消費することにしか無いんだ。
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
本気で死刑廃止を訴えるなら、まずやるべきことは被害者家族の救済のための法律と制度の重要性を訴えること。これが最優先。
民事裁判で加害者を訴えて賠償金支払いを勝ち取ってもほぼ支払われることなく泣き寝入りさせられている現状を踏まえ、裁判で請求された金額を国が全額立て替えて、国が代行して加害者に強制的に請求する
あげだしたらキリがないけど、まずは被害者家族の今後の人生を第一に考えよう。おそらく決して癒されることのない傷を負ってしまったが、悲しみと絶望の中で彼らがなんとか次の人生に向けての一歩を踏み出せるサポートを行政や周りの人たちで全力で行う。ここまでしてようやく「死刑廃止についての是非」について議論できる準備が整うんだよ。
これらのサポートがほぼ皆無な現状で死刑廃止論だけを叫ばれてもね、とても耳を貸す気になれませんわ。むしろ絶望のどん底にいる被害者家族へのセカンドレイプだよ。
政治屋としての是非は俺は何も言わない。興味がないから。それと政治思想は別だろう。
俺が問題にしてるメディアスクラムは、西松建設事件と陸山会事件というものをでっちあげて小沢一郎=悪人というイメージと結びつけることに成功したマスコミと検察の振る舞いだ。結局無罪だったけど。
ホリエモンもそうだが、人に嫌われる・誤解されることを厭わない言動をするビジョナリストに対して、日本の大衆メディアと大衆寄り思想の検察警察は横暴すぎる。