はてなキーワード: 楽器とは
吹奏楽には全く詳しくないのだが、文化祭のJPOPステージなどを聴いているうち、「ラップのある曲ってどこまで真面目に再現するんだろう?」とふと気になって調べてみた。
結論としては、ラップ部分を「再現するルート」と「回避するルート」の2つの方向があり、それぞれのルート内でもクオリティ差が激しく表れることがわかった。
私はそれを以下のようにランク付けした。
以下、具体例とともに見ていく。
なお、サンプルは全てミュージックエイトである。ウィンズスコアは最近の曲しかなく、私が最近の曲に詳しくないのでラップのある曲が見つからなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=7orX_pQ6l2Q
さらにラップ独特の細かい節回しが整然と並ぶ八分音符に吸収されてしまっており、非常に単調なリズム。
まさにお経と呼ぶほかない状態。
同じオレンジレンジの「花」「以心電信」もお経状態ではだが、上記よりはリズム感がある。
元の歌詞をなぞることを放棄し、独自にリズムを構成しているからだろう。
しかしミュージックエイトはオレンジレンジに何か恨みがあるのだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=n9Vu96KCUEs
頑張っているのはわかるが、違和感が激しく、不協和音すら感じる。
そもそもラップの音階は半音未満の細かい節回しや語尾のフォールなどが主で、単純になぞって再現できるものではないのだろう。
ただし、原曲がもともと音階感の強いラップであれば、そのままなぞるだけで成功する(例:ファンモン、Aqua Timez、SEAMO)。
https://www.youtube.com/watch?v=n18_CivUl1Y
そのままなぞる以上の違和感消しを行っていて理想形の一つだと思う。
サクラ咲ケ/嵐
https://www.youtube.com/watch?v=noTqth_1t5o
2番が終わった後のCメロがラップなのだが、その時間ごと消えている。
Cメロはラップ以外でも飛ばされることがあるので、仕方ないと言えば仕方ない。
A・RA・SHI/嵐
https://www.youtube.com/watch?v=OWOoMukSiT4
原曲では冒頭にラップがあるのだが、その部分が前奏として処理されている。
ラップがあったことを言われないと気付かないほど自然なアレンジ。
ややオリジナル展開気味で、ちょっと短くなっているのも好判断だと思う。
ちなみに、「感謝カンゲキ雨嵐」も同じパターン。嵐のサクラップはひたすら回避されるのは何故。
https://www.youtube.com/watch?v=mMW2vFAMWGo
これまで、人物は描けるけど他のものは不慣れというケースを何度も見てきたからか、自分は無意識に「人物以外の被写体が得意な人の方が上」だと思い込んでいたんだと、最近気付けた。
きっかけは、センスが良くて完成度も高い静物モデルのイラストと、素人目でもデッサン狂いが見える人物モデルのイラスト、どちらも同じ人が同時期に描いたもので驚いたこと。
これがもし、人物は綺麗なのに持ってる楽器は拙い、とかなら特段驚いたりしないのに、逆パターンだと結構意外に感じたっていうのは、自分のものの見方や観測範囲に偏りがあるのではと、ハッとしたのだ。
例えばゴッホの作品を前にして、自画像は簡単に描ける!ひまわりの方が名画!みたいな乱暴で馬鹿げた見方なんぞ絶対にしない。
なのに(右向き顔のバストアップ絵ばっかり量産していたというあるある経験もあってか)つい、イラストは人物を描くのがメインという偏った前提で、「普通、人物は手癖でもある程度描けるもの、それ以外はわざわざ練習しなきゃ描けない凄いもの」「人物しか描けないのは凡庸」だと、いつの間にか思い込んでいたようだ。
何を描くのが得意かって、ゲームでいうとパラメータの振り方や職業の違いみたいなものなんだよな、多分。
人物、生物、静物、風景とかは、攻撃力、防御力、素早さ、賢さみたいなもので、それぞれの優劣なんてなくて。
何をどう伸ばすべき!なんて万人にとっての絶対的な正解なんかもなくて。
鉄壁の守護神も、ソロのオールラウンダーもいて……まあ、多数派少数派はあるにしても、それぞれ違った輝き方が出来るみたいに、絵だって色んな道があるんだろう。
今後は「この人はこれは描けない」ではなく「この人はこのパラメータを伸ばしてきた」と捉えていこうと思う。
バーカwwwwwwwww養分乙
あの西村博之ですら、「資産が1億円以上ない人はソシャゲに課金するべきではない」とまで警鐘を鳴らしています。
その理由についてですが、世の中の、特に日本のスマートフォンゲームの多くに実装されている「ガチャ」は、基本的に金持ちの人をターゲットにした料金形態だからです。
ガチャに課金しすぎて生活がめちゃくちゃになったというニュースよく聞きますよね。
そういう人はそもそもこのガチャ課金に手を出してはなりません。一般的な所得の人がフェラーリやランボルギーニを一括払いで買うようなものです。
しかし、そんなガチャという仕組みは、お金持ちの人にお金を使わせるのにはもってこいです。
お金持ちの人にも色々なタイプがいますが、その中には「カネを稼ぐことしかできない」連中がいます。
お金は余るほど持っているがそれ以外の取り柄は特にないという人々。
何かを発明できる才能もなければ、スポーツが抜きん出て上手いわけでもない、歌や楽器が上手いわけでもない、世間から称賛される何かをしているわけでもない、容姿も大したことない・・・
そういう人ほど、金稼ぎ以外の事でも優越感を得たくなるのです。
クラブでホストやホステスにお金をつぎ込んだりする金持ちにはそういうタイプの人が多いかもしれません。
そしてスマートフォンゲームのガチャというのは、ソーシャルネットワークが普及した今、こういう金を稼ぐ事だけしかできない人にとっては絶好の場だと言えます。
どんなに金持ちであっても、ゲームの大会でランキング1位になったり、国内大会、世界大会で上位というのは難しいでしょう。聞いたことはほとんどありません。並外れた実力が必要です。羽生さんみたいに将棋で勝ちまくって資産を築いた人はいるかと思いますが、その逆はほとんどいない。
しかし、ソシャゲはそんな金を稼ぐことしかできない人達に、優越感に浸れる場を提供してくれたのです。
課金しまくっただけで他人より強くなれる。超レアなキャラクターを何百万も課金して全部揃えた。それをSNSで自慢して何万人という人から称賛を浴びることができる。
高級車や豪邸は自分のまわりの狭い範囲でしか自慢できない上に、普通の人にはかけ離れすぎた世界に感じるので大して称賛されません。
一方、何十万人という人が遊んでいるゲームならそれだけの人に自慢できるわけです。
彼らにとって、ゲームに月100万円以上つぎ込むなど造作もない事ですから、"一般人が入手困難であればあるほど金持ちの人にとっては課金しがいのあるものになる"わけです。
重課金ガチャのあるゲームをやるなという意味ではなく、あなたの分のプレイ料金は金持ちの人が実質肩代わりしてくれているのだから、わざわざ大金を払う必要はないという事です。もし課金して優越感に浸りたいのであれば、あなたも何かで成功してお金持ちになってください。
重課金と言われているようなゲームは、上手いこと「金を稼ぐ事だけしかできないお金持ちの人」にお金を使わせることができているのではないでしょうか。
仕事柄、勉強の苦手な中学生を指導することが多いのですが、極一部に「惨憺たる」としか表現できない生徒が居ます。
具体的には
「秩序」が読めない。
「understand」の意味を知らない。
といった生徒です。
そのような生徒たちには、3つの共通点がある事が分かりました。
(全ての人間が学力を要する職に就く訳ではなく、現代社会にそのような職は必要不可欠である。)
といった事実を踏まえてもなお、進路を実現するためには学力を要します。
この事に類似した事実を、彼らは教えられていません。彼らは受験に際し、初めてこの事実に触れるのです。
②楽しめる活動がない。
部活動、学校行事、読書やイラスト、ドラマやアニメの視聴など、何か一つでも楽しいと思える活動があれば、それをストレスの発散や、人との交流に使うことが出来ます。
③基礎知力が足りない。
自習して学力が伸びるためには、最低限の考える力や知的好奇心が必要です。
それは、オセロやすごろくなどのボードゲームや、しりとりや駄洒落などの言葉遊びで培うことができる程度の物です。
それさえあれば、日常生活から語彙や知識を増やすことができます。
以上を満たした生徒は、急に勉強を強要され、分からないことを教えられ続け劣等感や反感を抱き、それを解消できない。
といった状況に陥ります。
①から③の共通点は、幼少期に親子で会話をしたり、音楽が好きそうであれば楽器を習わせたり、一緒に遊んだりする事で回避できるはずです。
最も劣悪な場合は、親がそれらの事をしておらず、子供の学力は学校や塾の責任と捉えている場合です。
その場合、親の勉強に対する態度により、子供が社会的にも精神的にも不利益を被ることになります。
これは最早「知的ネグレクト」と言う形で捉えるべきではないでしょうか。
会社のとてもえらい人から「一緒にバンド組め、楽器始めろ、なんの曲がいいか考えろ」って言われてて、正直断りたい。
なんで業務中にギターと教本渡されるの? 全く興味もないんだけど、断ったり「それパワハラですよ」って言ったら首が飛ぶんだろうなあ。
もしくは、さらにパワハラを受けて圧力かけられてから首が飛ぶか。
そういう話の絶えない人なので、穏便に済むとは思えない。まあ愛着もそんなにないのでクビが飛ぶなら飛ぶでいいのかもしれない……。
新人達のほぼ全員が、たぶんバンド組みたいなんて欠片も思っちゃいないのだけれど。
とてもえらい方は何をどうご理解されたのか大変本気にされている。このままだと社員旅行の時あたりに披露するってなるんだろうなあ。
どうやったら穏便に断れるだろうか。正直今なら第二新卒扱いでどうにか脱出できないものかな。
ファミコン時代のゲームのほとんどの曲だなぁ。ハードの同時発音数の少なさが幸いして、曲を覚えたり真似して楽器で演奏したりが楽だった。リコーダーで吹いてみるとか。
世の中には発達障害で苦労している人が大勢いることは理解している。
服薬してどうにか社会にコミットしてどうにかこうにかやっているいるんだと思う。
大変な思いをしている人たちにネガティブな発言をするのは彼らがまた生き辛くなってしまうのではないかとも思うが、そのことを理解していてもやはり最近モヤモヤしてしまうことが多い。
最近発達障害だから何々ができない~という投稿をよく目にする。
・楽器
・絵
・人付き合い
・絵文字を使えない
・字が汚い
・グループワークができない
・上司をよいしょできない
等など
最近は免許は取れたけど自動車の教習所で教官に言われた道順を覚えられなかった等も聞いた。
それらができないからといって叩くのも良くない、無能でも発達障害でも叩いていいわけではない、それは理解している。
けど、日に日に本当にそれ発達障害か?という思いが募っていく。
自分ができない事、できない習慣や時間投資が膨大に必要な技能に対して発達障害でできないと言って救いを求めていないか?と感じる。
ADHDを名乗る人間に比べて、それほど名前が普及していないASDを名乗る人間の少なさも相まって、都合のいい免罪符を貼っているのではないか?と。
楽器の演奏や絵なんかは発達障害の特性によって大きく左右されるらしいのであまり強く言えないが、どちらも模倣などの訓練に莫大な時間の投資が必要な技能で、発達障害だからできないって言っていいのか?という気持ちがある。
発達障害だから時間の投資ができなかったり、どうしても楽器の演奏や絵を書きたい思いがあり、莫大な時間を投資しているが障害のために挫折した人にも申し訳ないが、そう思ってしまう。
自動車の教習所で、一つ間違えれば大惨事になる慣れない自動車の運転をしながら、適当に発せられる教官の道順の指示なんてちゃんと聞けた人間はどれくらいいるんだろうか?
みんな操作に集中しながら、教官に道順を聞き返したり、あたふたしながら進路変更の直前にもう一度進路を指示されてハンコをもらってきたんじゃないか?
それが発達障害の所為であるなら、みんな発達障害なんじゃないか?
日に日にそんな思いが大きくなっていった。
「自分をADHDと思い込んでいるただの低スペック人間」という言葉を聞いた時に、「最近ADHD名乗ってる奴は大体のやつはそうだよな」という救いに似た感情が湧いてきた。
最悪の感情だと思う。
低スペック人間だからと言って叩いていいわけじゃないし、発達障害を名乗る人たちが自分に迷惑をかけているわけでもないのに……、彼らを貶める言葉がとても心地よかった。
心のどこかに、発達障害を名乗る人たちが「できる人間がすごい技能」ができないことの言い訳に発達障害を使っているように思っていたんだと思うし、
普通の人間もできないことを「発達障害だからできない」と言っているのに対して怠慢に思えたり、
Twitterで #発達障害を車で例える 等のハッシュタグで見られるように、高性能なエンジンを積んでいるがハンドルが壊れているみたいな認識の人間を多く目にして、
彼らに何一つ迷惑をかけられていないのに、彼らの物言いが能力が有るのにできないと言っているような分不相応な自己認識に思えていた部分があって、それを表現してくれたように思えたんだと思う。
発達障害の知名度が上がるにつれて、名乗る人も増えるだろうし、うつ病が社会に広く認知された時のように叩く人も増えると思う。
私も叩きたい感情を抱いた一人なわけで……
発達障害にはいろいろなタイプが存在して、それぞれできることできないことが有ることを理解する事と、
発達障害の人や自称発達障害の人間が、発達障害だから何々ができない、つらい!と言い方が悪いが「発達障害芸」をしていても、自分の不利益になることはない事を理解して、共存できればいいと思う。
彼らが発達障害だからできないと言った事が普通の人もできない場合は、発達障害の人も普通の人もできる方法を考えたり、彼らが発達障害だからできない!と言ったことが自分もできなかった場合は、
ストレスを感じても自分も発達障害である可能性を考えたりして、生きやすい世の中を目指すしかないんだと思う。
いや、ほんとにすまんかった。
馬鹿にしているも何も、それが事実なんですよねー もっと言うとトピ主さんのシェクターに対して先輩たちが言った内容も実際間違ってはないですしね(傷付くと思ったので言及はしなかったですけど)
シェクターのギターがトムアンダーソンの下位互換という発言やよくフォトジェニックなんかの音で満足できるな、という発言に相手を馬鹿にする気持ちが有ろうが無かろうが、そのコメントが間違っていない事に変わりはないので言われた側がいくら怒っても、でも実際そうなんだから、としか言えないですよ。事実無根の貶され方をしたならまだわかるんですけどねー
きっとその先輩らは機材や楽器の値段やブランドしか威張れるネタがないんだろうな。
底辺バンドマンなんて甘い、その程度のギタリストはバンドすら組めず(だってメンバーを集めようにも、魅力のないギターなんて誰も必要としてないから)ギターを置くだろう。
そうやって他人の楽器をいちいち馬鹿にして通ぶる奏者ほど実力は大したことない奴ばかりで駄目なんだよ。
その先輩らのギター弾きとしての年季は知らんが、多分そいつらにトムアンを与えてもシェクターの増田のほうが遥かに良い演奏すると思うよ。
やたら後輩の持ってる楽器disってマウント取ってくる先輩が2人いる。
グラスルーツ使ってる子にダサいとか、エドワーズ使ってる子にお子様向けって感じとか、エピフォン使ってる子にギブソン買えない貧乏人ギターとか。
同じサークルの友達に本命のギター自力で買うためにバイトかけもちしてて、それまでは最初に買ったフォトジェニずっと大事に使ってる子がいるんだけど、ええ〜子供ギターじゃんとかよくそんな音で満足できるね〜とか言われたって言ってた。確かに質は低いけど初めてのギターだから愛着あるのにって怒ってた。
もちろんうちの子も馬鹿にされた。中古のシェクター使ってるんだけど、ああ、あのトムアンダーソンの下位互換のシェクターねってわざわざ嫌味言われた。何がしたいんだろう。
俺達ギターブランドにうるさいですっていう玄人アピール?知識ひけらかして自慢して気持ちよくなってるだけ?それともただ後輩にマウント取って先輩風ふかしたいだけ?いずれにしても無理すぎる。うちらついこの間まで高校生だったのに、安価なギター使ってるのがそんなにいけない?有名ブランドのじゃないとダメなの?
憧れの先輩がいるからあんなやつらに嫌味言われたぐらいで辞めたくなんかないけど、あいつらいなくなるまであと最低2年我慢しないといけないとか辛い……
雑。
映画鑑賞(図書館で借りられる、定額・低額レンタルがある。動画配信でも見られる)
美術鑑賞(無料の美術館はある。図書館での画集鑑賞もできる。外出するがコミュニケーションは必要ない)
楽器(1万円で買える楽器はいくらでもあり、DTMなら無料のアプリがゴロゴロ転がっている)
とにかくお前は雑。俺は「アニオタきめえwww」ならそれだけ言ってりゃいいし、なに雑で幼稚な論をつけてんの、まあただ罵倒しても増田で無為で無駄なことやってるお前もキモいし何やってんだアホか、あ、オレも同類だガハハ! くらいにしかならんが、幼稚でバカで無で無駄で無価値なことやってるから「無だなあ」って言ってる。アホならアホらしくアホっぽい罵倒の垂れ流しやってればいいじゃん。クソザコナメクジとか。クソザコナメクジでしょ?
クロスオーバーとかフュージョンブームの頃10〜20代だった人達ね。
でも今は長いブランクのせいか体の衰えのせいか、リズムキープすら覚束ない。
それでいて昔覚えた難しいフレーズを弾こう(叩こう)とするから破綻する。
登山なら体がキツくなったりヒヤリハット事例が増えたりして衰えを体感できる。
将棋なら勝ち負けという形で実力を目の当たりにするので同様に衰えを体感できる。
でも音楽のような勝ち負けもなく、体力をすごく使うわけでもない趣味だと
仮に己を自覚できたとしても他の趣味のように曲のレベルを下げることもない。
ひどい時は自分でやりたいといった曲の採譜をさせようとする。
話して楽しいならまだしも、よく分からない自慢話を延々とされたりする。
昔◯◯(有名アーティスト)と一緒にやったとか
接待カラオケの相手を延々させられているようで全然楽しくない。
自分の楽しい趣味の時間がそんなおっさん達との不毛なやりとりに消えるのが辛い。
せめておっさん達、自分の演奏を録音して聴き返してみてほしい。
セッションでそういうおっさんと鉢合わせになったら諦めてさっさと帰る。
メンバー募集、応募に50代とあったら、音源を聴かせてもらう。
もちろん50代皆が皆ひどいわけじゃないよ。
若い頃からコンスタントに続けている人は上手いし謙虚だし練習熱心だし。
でもそうでない人が多すぎる。
ネタバレ有なのでそれでも構わない方のみご覧下さい。
昨日レイトショーに駆け込んで観てきました。
まず初めに、私は吹奏楽におおよそ10年青春を捧げた男です。担当楽器はユーフォニアムとトロンボーンでした。
久しぶりにパンフレットを買いました。
吹奏楽部出身者として映画を観ながら思ったことを書いてみたいと思います。
まず、冒頭のシーンからずっと希美さんとみぞれさんは少しずつ演奏がズレています。
二人で吹いていればそれとなく寄せて合わせていこうとするのが普通です。
冒頭の演奏ではそういった様子が2人からは感じられませんでしたし、
音からだけでも2人は、ほんの少しだけずれた
平行線を辿っているような、
そんな印象を受けました。
吹奏楽部において人間関係の不和が音に影響する、というのは良くあることでして、
ある程度歳を重ねると人間関係を音楽に持ち込まない、ということが出来るようになったりもするのですが、
高校生というのはその辺りむき出しです。
良い演奏を聴いて耳が肥えてきても
お世辞にも上手とは言えない高校生の演奏に胸を打たれることがあるのは
その子たちがどういった高校生活を送って来たのか、それが演奏から透けて見えるような気がするからです。
冒頭のシーンを見たときに、
オーボエやファゴットなどのダブルリードという楽器はアンブシュア(吹く際の口の形)がやや特殊でどう頑張っても横顔が若干不細工になってしまうんですよね
3年生の、しかもフルートという花形の楽器の中心人物で、コンクールの自由曲でソロがあるような子の名前をトレーナーの先生がうろ覚えだということは、まずあり得ません。
希美さんの挫折感を更に煽る結果になったとも言えるかもしれません。
あそこまでの状況はないにせよ、
他人の才能に嫉妬する瞬間、というのは吹奏楽をやっていると感じたことがある人は多い気がします。
この人には敵わないなと思わされた経験は
その後、諦めず努力して、上手くなってやろうという気持ちはとても大事ですし、
高校生であれば追いつき、追い抜くということも不可能ではないでしょう
しかし、高3のコンクール、これで最後だというタイミングでそれを見せつけられることは
絶望です。
希美さんの心情を考えると胸がしめつけられるような気持ちにはなりましたが、
あのシーンはただ、ただ素晴らしかった。
アニメにさほど詳しい訳ではありませんが、
後世に残る映像なのではないでしょうか。
京アニの楽器演奏シーンというとやはり思い出すのは涼宮ハルヒの憂鬱のGod knows…のギターソロですが、あれから10年が経ち、ここまで表現は進化したのかと、圧倒されました。
被写体深度が次々と移り変わり、映像がボヤけ、直接希美さんの視界を映している訳ではないのにまるで泣いているかのような表現、
そして涙を堪え切れなくなった希美さんのフルートが息絶え絶えになってしまって音がかすれ、抜けてしまう表現、
そして何より、あのオーボエ。
上手なオーボエは、
音が飛ぶんです。浮くんです。
それこそまるで鳥が飛び立ち、自由に空を舞っているような、本当にそんな音がします。
あのシーンはそれまでのみぞれさんの音にはなかったオーボエの独特な浮遊感が表現されていました。
名演としか言いようがないです。
音響の良い映画館であればオーボエの音が上から降って来るような感覚に襲われた人もいるかもしれません。正直、あの演奏を聴くだけでも映画館に行く価値があると思います。
あのシーンを見たとき、
「音だけで、こんなにも繊細にものを語ることが出来るんだ」と、
そう思いました。
エンドロールに奏者の名前がありませんでしたが、あれはどなたが吹かれたものなんでしょうか。
あの演奏は、音で、芝居をしていました。演技をしていました。ブラボーと言わせて下さい。
最後に、
劇場版のけいおん!!が公開された後に、宇多丸さんがラジオで評論していたのを思い出しました。
宇多丸さんは映画を観るにあたってTV版も全て視聴されたらしいです。
概ね絶賛されていましたが、一つだけ、
軽音部の面々が同じ大学に進学するという選択をしたことに苦言を呈していました。
というのも、軽音部は本来高校だけの期間限定、終わりがあるからこそ、儚いのだと
まぁそんなようなことをおっしゃっていたような気がします。(記憶が曖昧なので大分脚色が入ってる気がします)
私も当時その通りだと思いました。
だからこそ楽しくて仕方ない一瞬一瞬が
一種の切なさを纏うのだと。
リズと青い鳥の終盤、希美さんとみぞれさんは各々別の進路選択をします。
そのことがハッピーエンドなのかどうなのかというのは微妙なところだと思いますが、
この選択によって
リズと青い鳥という映画の切なさ、儚さ、美しさ、そういったものは際立ったのではないかなと
また、平行線だった2人が別々の方向を向くことで、コンクールに向けて1つに交わることが出来たんじゃないかな、と、そう思いました。
以上です。
とにかく、映画館で観ることが出来て良かった。機会があればもう一回観たい。
天は二物を与えずというが、
学生の時のK君は運動・勉強は勿論、
絵も描けるし、楽器も弾けて作曲もする、
文章を書かせても面白いという
スーパー超人だった。
イベントパンフにイラストを描いてもらったり、
学園祭の時はライブやったり、劇の脚本を書いてもらった事もあった。
しかも、その劇は私が在学中に行われたどの劇よりも受けていた。
そんなに作品数は多くないが、
ピクシブにアップしているイラストや漫画も
非常に評判が良かった。
これだけマルチクリエーターぶりを発揮されると、
本人的にどの方面で評価されるのが嬉しいのかが気になった。
なので、一度、その事を本人に尋ねた事があった。
「…呼ばれて嬉しい肩書き??」
「うん。Kって何でもできるやん?せやから、本人的に何て呼ばれると一番嬉しいんかなって。
やっぱり作曲家?それともイラストレーター?作家?」
「う~ん……」
しばし、考えた後、Kはこう言った。
「…。そやな、一番嬉しいんは『エンタータイナー』かなぁ?」
「エンターテイナー?」
「うん。それが大げさやったら、道化師とか芸人でもいい」
「ええ…芸人って…おまえ…」
しかし、その後返ってきた返事を聞いて納得した。
「結局、俺が曲を作ったり、絵を描いたり、文章書いたりっていうのは、
とどのつまり、それを見たり聞いてくれた人に楽しんで欲しいから作っているわけやから。
みんなを笑顔にするのが目的で、作曲したり絵を描くのは
俺の場合、あくまでその目的の為の手段でしかないんよ。
せやから、作曲家とかイラストレーターって呼ばれるよりは、
人を楽しませる事が目的のような肩書きがええ。芸人、めっちゃええ肩書きやん」
その後、続けて
「ぶっちゃけ、曲や絵のクオリティーで俺より上手い奴は山ほどおるけど、
人を楽しませるという気持ちで負ける気はそうそうあらへんで」
と笑っていた。
年月が過ぎて、今、私はしがない売り場販売員だ。
勿論、Kと違って絵も描けなければ文才も無い。
けれど、その時のKの言葉がおそらく今でも自分の道しるべの一つになっているのだろう。
売り場を作るとき、買いに来たお客様に笑顔になってもらえる売り場になるように心がけている。
いやー違うと思うな。
女は趣味を突き詰めるということをしない人が多いので、飽きたらやめるってだけだと思う。
(ここまで軽音楽界についての話)
↑に書いたリズと青い鳥の感想については、まだまだ読みが足りないという趣旨のツッコミを、読者諸兄からいただいた。
これは確かにその通りで、ダイレクトに感情移入できたのはみぞれだったので、最初見た時はそれだけで胸がいっぱいになったからかも知れない(言い訳)
あと、ハープが普通の中高吹奏楽部にあるというご指摘にも、自身の不見識を恥じるばかり。
でもハープはそれだけでかなり難しいと思うので、打楽器パートの中の誰かが担当になったらそれ専任というか、他の楽器との掛け持ちなんて不可能だろうし、かと言ってコンクールやアンコンで必ず使うわけでもなさそうだし、そこらへんどうマネージメントしてるのかは気になる所。
それも2日連続で2回。初回と合わせて通算3回観たことになる。
どちらも、努めて希美の立場に立って、あるいは希美のキャラに入り込んで観るよう心がけたつもりだ。
自分で書いといてなんだけど、物凄く独りよがりでしかも長いです。それでも読みたい人はどうぞ。
これはもう、自分の読みの浅さの最たるもので、今はむしろ「難しい子」というのは彼女みたいなタイプではと思うに至った。
むしろみぞれの方がある意味では非常に単純というか、超不器用かつ裏表が無さ過ぎなだけとも言えるのだ。
なんというか、希美はコミュ力とか社会性はリア充グループでも充分通用するレベルなのに、本人自身はそういうのにあんまり乗り気じゃないタイプなのだろう。
むしろ、そういうコミュニケーションは程々に、リア充とは別のベクトルの本気で、何かに打ち込み、なおかつグイグイ進んでいきたい人物なのだと思わされた。
そしてこれが多分、彼女のとても難しい部分の核心というか、どうにもままならない所の最たるものだと感じた。
ぶっちゃけ中学1年の時にみぞれに声を掛けたのも、高校1年の時に泣く泣く退部という事態に追い込まれたのも、多分根っこは一緒。
というか退部の一件を、優子や夏紀と話しているときも、みぞれにツッコまれた時も「昔の話」という前置きないし返答している所とか、逆にそのままならなさや、彼女の性格を端的に表しているとも言える。
更に、同学年の優子や夏紀よりもみぞれといる時間がずっと長いのに、優子から「どこまでみぞれを振り回せば…」と言わせてしまうほど、みぞれと噛み合わなかったり(少なくともちょっとしたやり取りレベルでは、優子や夏紀のほうが遥かに上手くコミュニケートできている)、入部当時の3年生との関係において、結果的に香織先輩に守ってもらえた優子や、「何も知らない新入りポジション」として日和れた夏紀と明暗を分けた事にも繋がっていると思われる。
本人の意志や気持ちとは裏腹に、いや、その意志や気持ち故にままならないのはなんとも皮肉というか、本当に不憫である。
そんなふうに感じた自分にとって、物語のクライマックスは、みぞれにハグされた希美が笑い出す所だったりする。
いやもうあれ、自分が希美の立場でも笑うしかないわ。あるいは笑い泣きかな。
あのシーンで、ようやく希美はそれまでの出来事と、みぞれの吐露と、自分の気持を総合的に整理して、そこから自身の立ち位置というか、自身の在るべき様を理解したのだろう。
そしてみぞれとの向き合い方も。
それで思い出したのは、自身の知り合い2人のことだった。
両方共リア充レベルのコミュ力の持ち主の既婚者で、しかも自分とは10年を優に超える付き合いだ。
片や去年まで頻繁にやり取りしていたのだが、付き合いが長くなるにつれ、お互いの見えている世界が違い過ぎることから、だんだん噛み合わなさが露呈し、とうとう自分のほうが耐えきれなくなって一方的にチャンネルを閉じてしまった。
もう一方は月イチくらいで会う程度だが、正直言って「血の繋がっていない姉」のような存在として、時に励まされ、時に叱られる関係だったりする。
同じような社会性を持ち、似たような文化圏(?)にいる2人だが、決定的に違うのは結婚相手の性格。
疎遠になった知り合いは要するにリア充カップルなのに対し、「姉」の旦那さんはリア充的コミュニケーションが元来苦手な人で、しかも今の旦那と知り合う前に付き合っていた彼氏もそういう人だったと聞いた。
つまり「姉」の方はそもそもそういう不器用な人間が超好みのタイプで、色々苦労した結果、通じ合う・噛み合う「プロトコル」を獲得し、今も楽しくやっていると。
結局の所、通じ合う事の難しさや面倒くささは誰にでも、誰と誰の間にもあるが、「プロトコル」が合えば色々解決するのだと思う。そう、問題の大半はプロトコルなのだ。
あるいはそんな難しい言い方しなくても「ちょっとしたコツ」という話である。
尤も、そのコツはその人が見えている世界によって形作られていることが多いので、中々気づけないし、気づくのが難しいわけだが…。
そこまで考えると、自分が長く付き合っていた知り合いと一方的に疎遠になったのは、今更ではあるがちょっとあんまりだった気がしている。
そんな話を、今度「姉」に会った時に相談してみようと思う。
ということで話を戻すと、本作の希美も、どうやらそういう「プロトコル」を体得できたようである。みぞれは…まあ今は音大受験に集中するのでいいと思う。