世の中には発達障害で苦労している人が大勢いることは理解している。
服薬してどうにか社会にコミットしてどうにかこうにかやっているいるんだと思う。
大変な思いをしている人たちにネガティブな発言をするのは彼らがまた生き辛くなってしまうのではないかとも思うが、そのことを理解していてもやはり最近モヤモヤしてしまうことが多い。
最近発達障害だから何々ができない~という投稿をよく目にする。
・楽器
・絵
・人付き合い
・絵文字を使えない
・字が汚い
・グループワークができない
・上司をよいしょできない
等など
最近は免許は取れたけど自動車の教習所で教官に言われた道順を覚えられなかった等も聞いた。
それらができないからといって叩くのも良くない、無能でも発達障害でも叩いていいわけではない、それは理解している。
けど、日に日に本当にそれ発達障害か?という思いが募っていく。
自分ができない事、できない習慣や時間投資が膨大に必要な技能に対して発達障害でできないと言って救いを求めていないか?と感じる。
ADHDを名乗る人間に比べて、それほど名前が普及していないASDを名乗る人間の少なさも相まって、都合のいい免罪符を貼っているのではないか?と。
楽器の演奏や絵なんかは発達障害の特性によって大きく左右されるらしいのであまり強く言えないが、どちらも模倣などの訓練に莫大な時間の投資が必要な技能で、発達障害だからできないって言っていいのか?という気持ちがある。
発達障害だから時間の投資ができなかったり、どうしても楽器の演奏や絵を書きたい思いがあり、莫大な時間を投資しているが障害のために挫折した人にも申し訳ないが、そう思ってしまう。
自動車の教習所で、一つ間違えれば大惨事になる慣れない自動車の運転をしながら、適当に発せられる教官の道順の指示なんてちゃんと聞けた人間はどれくらいいるんだろうか?
みんな操作に集中しながら、教官に道順を聞き返したり、あたふたしながら進路変更の直前にもう一度進路を指示されてハンコをもらってきたんじゃないか?
それが発達障害の所為であるなら、みんな発達障害なんじゃないか?
日に日にそんな思いが大きくなっていった。
「自分をADHDと思い込んでいるただの低スペック人間」という言葉を聞いた時に、「最近ADHD名乗ってる奴は大体のやつはそうだよな」という救いに似た感情が湧いてきた。
最悪の感情だと思う。
低スペック人間だからと言って叩いていいわけじゃないし、発達障害を名乗る人たちが自分に迷惑をかけているわけでもないのに……、彼らを貶める言葉がとても心地よかった。
心のどこかに、発達障害を名乗る人たちが「できる人間がすごい技能」ができないことの言い訳に発達障害を使っているように思っていたんだと思うし、
普通の人間もできないことを「発達障害だからできない」と言っているのに対して怠慢に思えたり、
Twitterで #発達障害を車で例える 等のハッシュタグで見られるように、高性能なエンジンを積んでいるがハンドルが壊れているみたいな認識の人間を多く目にして、
彼らに何一つ迷惑をかけられていないのに、彼らの物言いが能力が有るのにできないと言っているような分不相応な自己認識に思えていた部分があって、それを表現してくれたように思えたんだと思う。
発達障害の知名度が上がるにつれて、名乗る人も増えるだろうし、うつ病が社会に広く認知された時のように叩く人も増えると思う。
私も叩きたい感情を抱いた一人なわけで……
発達障害にはいろいろなタイプが存在して、それぞれできることできないことが有ることを理解する事と、
発達障害の人や自称発達障害の人間が、発達障害だから何々ができない、つらい!と言い方が悪いが「発達障害芸」をしていても、自分の不利益になることはない事を理解して、共存できればいいと思う。
彼らが発達障害だからできないと言った事が普通の人もできない場合は、発達障害の人も普通の人もできる方法を考えたり、彼らが発達障害だからできない!と言ったことが自分もできなかった場合は、
ストレスを感じても自分も発達障害である可能性を考えたりして、生きやすい世の中を目指すしかないんだと思う。
いや、ほんとにすまんかった。
社会生活を送るのに支障が出るほど低スペックな人間を発達障害と呼ぶのであってな…
ADHDじゃない低スペックも今現在病理が見つかってないだけだろって気がするし 形式平等を求めていった結果は結局のところ誰に対しても自己責任を問う世界か、逆に誰に対しても問わな...
病気の有無なんて何のラベルにもならない。 ほんそれ。 この人は病気だから配慮しましょうとかじゃなくて、この人はこれが苦手だから気遣おうとかいうような、病気の有無じゃな...