はてなキーワード: 政治運動とは
たとえば「LGBTを禁止する国で法律に違反して性行為をアピールするLGBTはテロリストとみなされる(まあこれも「テロリスト」の定義次第ではあるんだが)」という主張と「LGBTはテロリストである」という主張を区別してないでしょ、増田は。そういうところで議論ができない。
区別してるよ。
人の主張してないことを決めつける、そういうところがあなたは議論ができない。
ノー残業デー関連のツイートをググったが、ここ数日ということはこれのことなんだろうか『「家族旅行のため金曜日に有給を取り、今日残業して仕事を…」→上司「ダメダメ!今日はノー残業デー!」家族旅行をキャンセルすることに』 https://togetter.com/li/1232869
労働組合のダメな理由についてはよく言われる労働条件を改善した実績がない、労働運動と無関係な政治運動に駆り出されるということの他にも、組織運営手法の問題点があるんじゃないだろうか。組織引き締めとか言っていじめや村八分を使う事例を見聞きする。人権意識が強い子はそりゃ寄り付かない。そこまで腐っているかは会社によるのだろうけれど。
たとえば、推しメンが好きすぎて自宅がポスターだらけのドルヲタがテレビで紹介されたとする。スタジオにいるタレント連中は適当に相槌を打つが、その本音は「勝手に頑張ってください」。
たとえば、社会を変えたくて政治運動に熱中している人がいる。その人と話してて確かに「情熱」とやらは伝わってくるが、本音としては「勝手に頑張ってください」。
世の中の99.999999...%は明日の生活やら食事の献立とやらが大事なので、「今日もちゃんと生き延びられた」と感じられただけで幸せなのだ。
何かに熱中できるってことは、それだけで手前の生活ベースが「幸せ」ってことなんだろうな。だから、「勝手に頑張ってください」。
左派(あるいは革新)って思想的使命として守旧の政策や思想を変更していくわけでしょ。そのとき変更する方向をさだめる価値観として「より公平に、より豊かに、より合理的に、より正しく」っていう羅針盤を持っているわけよ。これはどうしたって必要なんだ。じゃないと「なんで既存の方針を変更しなきゃいけないの?」っていう問に答えられなくなっちゃう(=存在価値がなくなる)から。「より良くするために変更しなきゃならない、そのより良さとはこういう未来ですよ!」っていうのが価値提示なわけね。
左派はそういう運動をするわけなんだけど、その思想に価値があるってことを証明するためには、その価値観を全方向に向けなければならない。例えば保守の政策Aにたいして「それは差別的で公平ではない!」と批判を加えている左派が、自分たちの政策Bの差別性とか不公平性にだんまりしてたらダブスタでしょ? そんなことしてたら、左派のいうことは利益誘導でしかなくて、正義はないってことになってしまう。これはゆるされない(実際にはそういうことも割とよくあるんだが)。
左派が思想的な優越性を喧伝するためには、その思想的な潔癖さを他者と同時に自分にも向けなきゃならないわけだ。
それはつまり彼らの思想には構造的に「自分自身も、あるいは自分自身こそ厳しい批判の対象にする」って言う特徴があるってことなのね。左派を批判する代表勢力は、左派なわけ。
多くの学生運動や共産運動が内ゲバ(内部に党派が出来て互いに批判を繰り返す状況)になっていったのは、ゆえないことじゃなくて、左派の思想にそういう性質がすでにあるからなんだよ。
もちろんこれって別に悪いことじゃない。反省したり自己改革できるのは、そうでないよりよいことだ。自浄能力ってのはある方が絶対に良い。
そもそも政治運動の価値は「今の社会をより良い方向に一歩でもすすめる」ことにあるわけなんだけど、左派の唱える「より公平に、より豊かに、より合理的に、より正しく」って言う価値観を闇雲に信じる(=原理主義)になると、「唱えた正義を守るあまり、社会は窮屈で住みづらくなる」「絶対正義の断罪し過ぎで参加者全員血まみれで倒れる」みたいな状況が発生する。山荘での凄惨な殺人とか、紅衛兵による自己批判処刑とかもそうだし、言葉狩りとか、行き過ぎたPCなんかもそれで、つまりそれらは目的を見失った原理主義の起こした悲劇なわけだ。
一方これらの行き過ぎた(=原理主義の)左派にたいする批判ってのも当然にある。気の狂った左派を批判するのもまた左派の役割だから。まあ要約すると「加減しろバカ」って話だよね。
てなわけで、左派が批判されている現在ってのは、実は全然悪い状況じゃないんだよ。批判を受けない思想なんて生かしておくと害悪そのものだ。そもそも「批判が自由にできる環境」そのものが左派の求める人権的な宝の一端なわけで。「批判をたくさん受けて精錬されていくこと」は左派の望みなんだよ。
もちろん「叩きと私怨と炎上の血に酔ってる人」なんてのは左右にかかわらずWebにいるわけだけど、多分そういう人らはこの記事読まないと思うし届かんのであんま関係ないよね。
だから「左派は叩かれすぎ」なんて心配はいらなくて、むしろ「ばっち俺を叩いてくれ! その焰の中からリベラルは復活するんだぜぇ!」くらい言っといたほうが健康的だと思うよ。
比較的、現代の韓国政府のあり方や韓国国民の言動に批判的な在日や韓国籍の人のtwitterアカウントがあるんだけど。そういう人が書いた記事に対して「韓国人は劣等民族だから」みたいなコメントしちゃう人って何なんだろう?韓国や韓国人に批判的だから自分達の同類だと思ったのか何か知らないけど。心底バカというか、レベル的には狂人の域だと思うんだけど。どういうデリカシーのありようなんだろう?と。書いた人の国籍に気付いてなくて、習い性で書いちゃったのかも知れないが。本当にバカ過ぎなんじゃないかと。相手の国籍関係無く書くべきじゃないってのは、そうなんだけど。それにしたって何でそれを韓国の人にかいちゃうんだろう…と。
特別右翼的な事を言っている訳では無いのに、自分の政治運動に批判的な人に対して「(アニメアイコンの)ネトウヨ」みたいに言い出す人が何人もいて、そういう使われ方には疑問を持つんだけど。上で書いたみたいな本当に狂人を「ネトウヨ」と呼ぶのなら、それは仕方が無いとは思う。
一、まえがき
今年は中国立憲百年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁」誕生30周年であり、また中国政府が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に署名して10周年である。長い間の人権災害と困難かつ曲折に満ちた闘いの歴史の後に、目覚めた中国国民は、自由・平等・人権が人類共同の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基本的制度枠組みであることを日増しにはっきりと認識しつつある。こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた「現代化」は、人の権利をはく奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である。21世紀の中国がどこに向かうのか。この種の権威主義的統治下の「現代化」か? それとも普遍的価値を認め、主流文明に溶け込み、民主政体を樹立するのか? それは避けることのできない選択である。
19世紀中葉の歴史の激変は、中国の伝統的専制制度の腐敗を暴露し、中華大地の「数千年間なかった大変動」の序幕を開いた。洋務運動(1860年代初頭から約30年続いた)はうつわの表面の改良(中体西用)を追求し、甲午戦争(日清戦争1894年)の敗戦で再び体制の時代遅れを暴露した。戊戌変法(1898年)は制度面での革新に触れたために、守旧派の残酷な鎮圧にあって失敗した。辛亥革命(1911年)は表面的には2000年余り続いた皇帝制度を埋葬し、アジアで最初の共和国を建国した。しかし、当時の内憂外患の歴史的条件に阻害され、共和政体はごく短命に終わり、専制主義が捲土重来した。うつわの模倣と制度更新の失敗は、先人に文化的病根に対する反省を促し、ついに「科学と民主」を旗印とする「五四」新文化運動がおこったが、内戦の頻発と外敵の侵入により、中国政治の民主化過程は中断された。抗日戦争勝利後の中国は再び憲政をスタートさせたが、国共内戦の結果は中国を現代版全体主義の深淵に陥れた。1949年に建国した「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実際は「党の天下」であった。政権党はすべての政治・経済・社会資源を独占し、反右派闘争、大躍進、文革、六四、民間宗教および人権擁護活動弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千万人の命を奪い、国民と国家は甚だしい代価を支払わされた。
20世紀後期の「改革開放」で、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的全体主義から抜け出し、民間の富と民衆の生活水準は大幅に向上し、個人の経済的自由と社会的権利は部分的に回復し、市民社会が育ち始め、民間の人権と政治的自由への要求は日増しに高まっている。統治者も市場化と私有化の経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から徐々に人権を認める方向に変わっている。中国政府は、1997年、1998年にそれぞれ二つの重要な国際人権規約に署名し、全国人民代表大会は2004年の憲法改正で「人権の尊重と保障」を憲法に書き込んだ。今年はまた「国家人権行動計画」を制定し、実行することを約束した。しかし、こうした政治的進歩はいままでのところほとんど紙の上にとどまっている。法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。とりわけ官民対立の激化と、騒乱事件の激増はまさに破滅的な制御不能に向かっており、現行体制の時代遅れは直ちに改めざるをえない状態に立ち至っている。
二、我々の基本理念
中国の将来の運命を決めるこの歴史の岐路に立って、百年来の近代化の歴史を顧みたとき、下記の基本理念を再び述べる必要がある。
自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。
人権:人権は国家が賜与するものではなく、すべての人が生まれながらに有する権利である。人権保障は、政府の主な目標であり、公権力の合法性の基礎であり、また「人をもって本とす」(最近の中共のスローガン「以人為本」)の内在的要求である。中国のこれまでの毎回の政治災害はいずれも統治当局が人権を無視したことと密接に関係する。人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。
平等:ひとりひとりの人は、社会的地位・職業・性別・経済状況・人種・肌の色・宗教・政治的信条にかかわらず、その人格・尊厳・自由はみな平等である。法の下でのすべての人の平等の原則は必ず実現されなければならず、国民の社会的・経済的・文化的・政治的権利の平等の原則が実現されなければならない。
共和:共和とはすなわち「皆がともに治め、平和的に共存する」ことである。それは権力分立によるチェック・アンド・バランスと利益均衡であり、多くの利益要素・さまざまな社会集団・多元的な文化と信条を追求する集団が、平等な参加・公平な競争・共同の政治対話の基礎の上に、平和的方法で公共の事務を処理することである。
民主:もっとも基本的な意味は主権在民と民選政府である。民主には以下の基本的特徴がある。(1)政府の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民である。(2)政治的統治は人民の選択を経てなされる。(3)国民は真正の選挙権を享有し、各級政府の主要政務官吏は必ず定期的な選挙によって選ばれなければならない。(4)多数者の決定を尊重し、同時に少数者の基本的人権を尊重する。一言でいえば、民主は政府を「民有、民治、民享」の現代的公器にする。
憲政:憲政は法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則である。それは、政府の権力と行為の限界を線引きし、あわせて対応する制度的措置を提供する。
中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。
三、我々の基本的主張
そのために、我々は責任をもって、また建設的な市民的精神によって国家政治制度と市民的権利および社会発展の諸問題について以下の具体的な主張をする。
1、憲法改正:前述の価値理念に基づいて憲法を改正し、現行憲法の中の主権在民原則にそぐわない条文を削除し、憲法を本当に人権の保証書および公権力への許可証にし、いかなる個人・団体・党派も違反してはならない実施可能な最高法規とし、中国の民主化の法的な基礎を固める。
2、権力分立:権力分立の現代的政府を作り、立法・司法・行政三権分立を保証する。法に基づく行政と責任政府の原則を確立し、行政権力の過剰な拡張を防止する。政府は納税者に対して責任を持たなければならない。中央と地方の間に権力分立とチェック・アンド・バランスの制度を確立し、中央権力は必ず憲法で授権の範囲を定められなければならず、地方は充分な自治を実施する。
3、立法民主:各級立法機関は直接選挙により選出され、立法は公平正義の原則を堅持し、立法民主を行う。
4、司法の独立:司法は党派を超越し、いかなる干渉も受けず、司法の独立を行い、司法の公正を保障する。憲法裁判所を設立し、違憲審査制度をつくり、憲法の権威を守る。可及的速やかに国の法治を深刻に脅かす共産党の各級政法委員会を解散させ、公器の私用を防ぐ。
5、公器公用:軍隊の国家化を実現する。軍人は憲法に忠誠を誓い、国家に忠誠を誓わなければならない。政党組織は軍隊から退出しなければならない。軍隊の職業化レベルを高める。警察を含むすべての公務員は政治的中立を守らなければならない。公務員任用における党派差別を撤廃し、党派にかかわらず平等に任用する。
6、人権保障:人権を確実に保障し、人間の尊厳を守る。最高民意機関(国会に当たる機関)に対し責任を負う人権委員会を設立し、政府が公権力を乱用して人権を侵害することを防ぐ。とりわけ国民の人身の自由は保障されねばならず、何人も不法な逮捕・拘禁・召喚・尋問・処罰を受けない。労働教養制度(行政罰としての懲役)を廃止する。
7、公職選挙:全面的に民主選挙制度を実施し、一人一票の平等選挙を実現する。各級行政首長の直接選挙は制度化され段階的に実施されなければならない。定期的な自由競争選挙と法定の公職への国民の選挙参加は奪うことのできない基本的人権である。
8、都市と農村の平等:現行の都市と農村二元戸籍制度を廃止し、国民一律平等の憲法上の権利を実現し、国民の移動の自由の権利を保障する。
9、結社の自由:国民の結社の自由権を保障し、現行の社団登記許可制を届出制に改める。結党の禁止を撤廃し、憲法と法律により政党の行為を定め、一党独占の統治特権を廃止し、政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。
10、集会の自由:平和的集会・デモ・示威行動など表現の自由は、憲法の定める国民の基本的自由であり、政権党と政府は不法な干渉や違憲の制限を加えてはならない。
11、言論の自由:言論の自由・出版の自由・学術研究の自由を実現し、国民の知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道の規制を撤廃し、現行「刑法」中の「国家政権転覆扇動罪」条項を廃止し、言論の処罰を根絶する。
12、宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障する。政教分離を実施し、宗教活動が政府の干渉を受けないようにする。国民の宗教的自由を制限する行政法規・行政規則・地方法規を審査し撤廃する。行政が立法により宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体〔宗教活動場所を含む〕は登記されて初めて合法的地位を獲得するという事前許可制を撤廃し、これに代えていかなる審査も必要としない届出制とする。
13、国民教育:一党統治への奉仕やイデオロギー的色彩の濃厚な政治教育と政治試験を廃止し、普遍的価値と市民的権利を基本とする国民教育を推進し、国民意識を確立し、社会に奉仕する国民の美徳を提唱する。
14、財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関に対し責任を負う国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。
15、財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択(住民投票)や民意機関(議会)の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。
16、社会保障:全国民をカバーする社会保障制度を構築し、国民の教育・医療・養老・就職などの面でだれもが最も基本的な保障を得られるようにする。
17、環境保護:生態環境を保護し、持続可能な開発を提唱し、子孫と全人類に責任を果たす。国家と各級官吏は必ずそのために相応の責任を負わなければならないことを明確にする。民間組織の環境保護における参加と監督作用を発揮させる。
18、連邦共和:平等・公正の態度で(中国周辺)地域の平和と発展の維持に参加し、責任ある大国のイメージを作る。香港・マカオの自由制度を維持する。自由民主の前提のもとに、平等な協議と相互協力により海峡両岸の和解案を追求する。大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する。
19、正義の転換:これまでの度重なる政治運動で政治的迫害を受けた人々とその家族の名誉を回復し、国家賠償を行う。すべての政治犯と良心の囚人を釈放する。すべての信仰により罪に問われた人々を釈放する。真相調査委員会を設立し歴史的事件の真相を解明し、責任を明らかにし、正義を鼓舞する。それを基礎として社会の和解を追求する。
四、結語
中国は世界の大国として、国連安全保障理事会の5つの常任理事国の一つとして、また人権理事会のメンバーとして、人類の平和事業と人権の進歩のために貢献すべきである。しかし遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。
そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。我々はすべての危機感・責任感・使命感を共有する中国国民が、朝野の別なく、身分にかかわらず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参加し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、できるだけ早く自由・民主・憲政の国家を作り上げ、先人が百年以上の間根気よく追求し続けてきた夢を共に実現することを希望する。
(括弧)内は訳注。
原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/8f95023140c18356340ca1d707aa70fe
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/84859dc4e976462d3665d25adcd04987
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/d5a614fa9b98138bb73cd49d3e923b40
(転載自由、出典明示)
って意見に対して若者が選挙行けば政治家は若者向けの政策を提示するから
こんな意見をよく見るけどクソだなって思う
こんな事を言い放ちながら投票すれば何かやった気になるのだろうか?無意味だ。
若い世代の投票率がもしも上がれば若者向けの政策を作ってくれるかもしれない
こんなタラレバを期待する浅はかさで長い人生どう生きるつもりなのか?
暮らしが苦しい、国に助けが欲しい若者がするべきことはもっと単純明快であるべきだ
ずばり自分たちで政党を作り候補者を出し議席の過半数当選させる、これしかない!
なぜこれができないのか?
実現させるには若者が大嫌いな政治運動というものを行わなければならないからだ
カッコ悪い事はやりたくない、だからやらない。
http://www.sankei.com/politics/news/170819/plt1708190013-n1.html
第百二条 職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。
デモに参加したということは人事院規則の政治的行為の禁止にいうところの援助にあたるから国家公務員法違反の102条違反が成立する
逮捕されなくても、懲戒処分が決定されれば、退職金と給与の一部返納になるのか?
詳しい人教えて
・個人の自由は絶対なのだから、恋愛対象や結婚対象の選択に関して、政府はもちろん、それ以外の何ものも、社会的圧力をかけるようなことは許されないという立場。
・「リベラル」という原理原則を、個別の問題に適用するだけなので、異なる利害集団の共闘が可能。また、「リベラル」の立場から特定の政治的主張をする人は、他のリベラルな政治的立場を取る場合が多い。たとえば、「リベラル・フェミニスト」であり、LGBTの結婚に賛成であり、中絶に賛成であり・・・・といった具合。
・結果として、悪しき伝統を維持し、社会的不正義を許容することになるという批判を受ける。
・個人のパーソナルな領域を絶対だと言ってしまうと、さまざまな差別は是正されない。個人のパーソナルな領域に立ち入ってでも、人間の平等という価値を守らないといけないという立場。
・有名なところだと、「若くて従順な女性を好む男性」を批判したり、「特定の属性を持つ者との結婚を嫌がる人間」を批判したりする立場。
・ラディカル・フェミニズムのスローガンである「個人的なことは政治的なこと」という言葉が良く知られている。
・欠点は、あくまで「政治運動」にしかなりえず、一般化された思想運動にはなりえないということ。あくまで、特定の利害集団の利益のための政治運動であることを自覚した主張であり、異なる利害集団の間での共闘は原理的には不可能。「私は○○の利害を代表して主張する。お前たちは、お前たちの権利を主張するべきだ。そして敵として戦うことで社会をより良くしよう」という立場。「ラディカル」の主張に普遍性を求めてはいけない。
・リベラルはラディカルを「政治的自由」の範囲で擁護する。ただし、本来のリベラルの原理では、それぞれの政治的主張の是非には立ち入れない。
・個人のパーソナルな領域は、絶対ではないが、個人のパーソナルな選択が、純粋にパーソナルな問題であるうちは、やはり尊重するべき。ただ、それをパブリックな場で発言するなら、それはパブリックな問題として扱われるべき。「特定の属性を持つ者と結婚をしないのは個人の自由だが、それをパブリックな場所で公言するのはアウト」というような立場。
・「ラディカル」な政治的主張に、「強きものは弱きを助けなければいけない」というような伝統的・保守的価値観が融合して、本来「ラディカル」な政治的主張に過ぎなかったものが、普遍的な「リベラル」の問題であるかのように扱われているケースがある。これは、本来のリベラルの原則と反する。(例:アファーマティブ・アクション)
・本来の「ラディカル」が「政治的主張に過ぎない」ことを明確にするのに対し、バランスに取り込まれた「ラディカル」では、「政治的主張に過ぎない」ことが覆い隠されてしまい、対立する利害集団からの反発を受ける。
・保守やリベラルから見ると、ぶっちゃけ、原則なき本音と建前の使い分けに見える。ラディカルに取っては、「政治的運動の成功」とも言えるが、一方で穏健的過ぎるという批判もある。
最近のネットでの言論を見ていると、ラディカルな政治的主張とリベラルの混同が見られる。特にラディカル独自の考え方(たとえば、個人の性的指向も政治的批判の対象になるという考え方)をリベラルとして批判するのは完全に誤解であり、間違いである。
ただ、今日、広く受け入れられている、「バランス」の立場は、リベラルとラディカルの両方に、保守の考え方も取り入れることで成り立っている、そもそも、内部に矛盾を抱える考え方である。これは「保守」「リベラル」「ラディカル」の全てから、批判を受けているし、その批判はいずれも議論として正しい。「保守」は「バランス」や「ラディカル」を「リベラル」だと思って批判するし、「ラディカル」は「バランス」を「保守」だと思って批判する。「リベラル」は「ラディカル」や「保守」だとして批判する。
私の政治運動デビューは2009年の4月4日。ネトウヨ旋風の時代だ。ちなみに生まれは1985年2月27日。
当時の愛読本は小林よしのりの漫画だった(今は左翼に転向してしまった)。
そういう生い立ちがあるので社会人2年目くらいの頃からネット右翼について興味があって、ネトウヨについてよく調べていた。
私の世代は、2ちゃんねらーやサブカルだからって特別ネトウヨに詳しい人なんて居なかった。ネトウヨについて調べていたのなんて私くらいだ。別に右翼思想に興味があるわけではない。参加者やそのバイブルについて興味があるのだ。
こう言うと不謹慎かもしれないが、ネット右翼にロマンを感じてしまう。2ちゃんねるのとある板の不気味な感じとか、デモ行進をそこらじゅうで起こしていたこととか、右派なのに左翼スタイルで行動していたこととか、不気味な出版物で原稿料と印税を稼いでいたこととか、薄暗くて、どことなく惹かれるところがある。ほかの人がカルト宗教とか左翼過激派とかヤンキー暴走族に惹かれるのと似たようなもので、私はネット右翼にロマンを感じる。
ネット右翼系の出版物がそこらじゅうにあっていつでも新品を買えた時代。桜井誠が掲示板で討論していた時代。大学や2ちゃんねるなどでネット右翼がオルグしていた時代。ニコニコ動画で愛国動画が乱舞していた時代。日本人が胡散臭い過激思想を大真面目に信仰していた時代。あの歪んだ2000年代を、私はもう経験することが出来ない。1日でいいからあの時代の空気を経験してみたかった。