はてなキーワード: 小児性愛とは
もし認めるとしたら発展場とか公共の場でいかがわしいことをしないようにゲイたちがキチンと人として当たり前のことができるようになってからでいい。
このままの流れで同性婚が認められたら、次は代理出産を合法にしろと騒ぐのが目に見えてる。
異性愛者のカップルでも産む機械にする人たちがいるけど、代理出産なんて本当の本当に産む機械でしかない
経済的に有利なゲイが経済的に厳しい女性に出産をお金でしてもらうなんてありえないでしょ
そのうえ同性愛者を騙って特定の性別の子供を養子にもらう小児性愛者も現れるかもしれないから危険性が高すぎる
同性愛者は他者に害がないことを証明してから色々動いたらいいんじゃないのかなあ。
手始めに同性愛関連のニュースで時々同性カップルのキスシーンが流れるけどああいうのをまずやめるように動くのはどうですかね
ご飯どきや家族団らんの時間、仕事から帰ってきてホッと一息ついたときに唐突に見せられるから自衛のしようがない。
同性同士がキスしてるのが気持ち悪いといいたいのではなく、ドラマでもない一般人のキスの映像を見たいと思う人はいないのでは。
そこらへんの異性愛者がキスしてるところなんてどんなニュースでも見せないし、異性愛者だろうと気持ち悪いのになぜ同性愛者だと許されるんだろう・・・
https://twitter.com/wv7IuaLaNxlxEkH/status/1369085347221577731
このツリーで言ってること自体はまあまあ正しいし、そこそこ賛同するからこそ。
そりゃ論理的には「アメリカでは拒否感を示す人は多い」と「私はどちらとも言えない」は矛盾はしないね。
それで?
「アメリカでは拒否感を示す人は多い」という指摘をわざわざ付けた意図は?
「拒否感を示す人がいることは普通のこと」という意味の指摘をわざわざつけた意味は?
「私はどちらとも言えない」なんて嘘をつくのやめろよ。
「まだ何の根拠も提示できないけど、私個人も拒否感がある」とはっきり言えよ。まだその方が誠実だわ。
自分の立場を秘匿しながらバカを煽るとたくさん失言してくれてさぞ楽しいだろうねぇ。実際、小児性愛なんて微塵も興味無いバカがうっかり小児性愛の「認めちゃいけない部分」まで擁護してて悲しいよ。俺は悲しいよ。おまえはそれが楽しいんだろうけど。
この「おまえの言ってることは正しいが、そんな話はしていない」で終わる感じ、どっかで見たけど、何だっけ?
あまり男性が女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的に早熟な少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャーの知的で論理的に自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。
さておき、これは近親相姦のお話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉を弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。
頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かない。モテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞき込まれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉で現実に適応しようとした姿なのかもしれないのだ。
それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的な活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉で言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。
あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワン・カラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまうタイプのキャラクターが好きだ。
死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌が醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿を馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人がヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通やフェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。
それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」も愛好している。
架空の神話がショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品は基本的に短く、しょうもないオチの作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空の世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精の魔法も見せてくれる。
「あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画「メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムがテーマの作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。
表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙のお話なのだけれども、そのロボットは自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間のサイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。
学生時代、自分は女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎の作品も同様の理由で好きだ。
自分を馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。
「ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカの植民地で暮らす女性の視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。
個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカを前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地の支配者側からの視点は批判的に読まなければならないが、色眼鏡の比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。
植民地時代のアフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くからの貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人が満州や朝鮮半島、台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ。
はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。
確かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大な小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代の小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。
「李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰の文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。
これは「三造もの」と呼ばれる中島敦の私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明の無意味さに対する形而上学的な恐れや不安が意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後の説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年・文学少女たちは、その言葉を無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。
膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフの作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分の初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。
しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的に搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバートの夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータの内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。
ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手な男性の心理の解剖である。
「ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供の挫折を描いた小説であり、この社会が弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近な話題から告発した話なのだ。自分がした屁の責任をかぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢そのものじゃなかろうか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/3040_47823.html
遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールドの未来を舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学や陰謀論と社会の関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。
仁木稔の作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学や物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台もラテンアメリカで日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品は中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズの最新刊が出ないか、今か今かと待っている。
明治十一年の日本の都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信を批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治の日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。
著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異のイメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識を内包した、強固な偏見に根差したものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。
とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なものを嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦の描写に優れる。
妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。
姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分の人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。
韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。
「慰安婦像の作者はベトナム戦争における韓国軍の虐殺を批判する像も作ってる」と教えてあげると大抵びっくりされるから逆にびっくりだわ。
本当に興味無いんだなと。
LGBTのことなんか気にかけていないくせに、トランス女性と他の女性が揉めている時だけしたり顔でフェミ叩きする連中がいるのも、地獄。
こっちは半々だと思うけどねー。
実際、セクシュアルマイノリティの側からフェミニスト界隈に近づくと、セクシュアルマイノリティに対する無理解が目立つのは事実。(逆にセクシュアルマイノリティの側にはフェミニズムに理解のない人も少なくないんだけど、フェミニスト界隈の人は無邪気に「セクマイの人は私たちの味方!」って思ってる人が多い印象。それも含めてマイノリティに対する偏見だよね。綺麗なマイノリティばかりではない。)
まあ近いところだと「小児性愛の人権なんて考えたことないくせにLGBT叩きのための当てつけのために小児性愛を持ち出す」人とか多いけどね。
履いていますよ。
ってのは置いといて。
アツギの炎上やリカちゃん人形やちょっと前だとラブライブのミカンや献血での騒動の時に擁護勢がいう言葉が必ず「自分たちはきちんと二次と三次の区別がついている」という言葉。中には?に思う言葉もあるがそれは批判勢も一緒なので置いておく。
んで、言いたいのは「わざわざ宣言してくれる人達、ありがとう」ってことなんだよね。
どういうことかというと。
そもそも構造的に女性は男性より力は弱いし、どんな細い男も女性を押さえつけることは可能なわけ。
性被害にあった女性が周囲からセカンドレイプで「なんで抵抗しなかった?」って言われるけどほぼ無理なわけ。
つまり、一般の女性は常日頃から「自分たちは常に被害者になる危険がある」と心のどこかで思っている。
男性は逆に「自分たちは常に加害者になる危険がある」と思っている。(だから男性の性被害が理解されにくいというのもある)
そんな常日頃見ず知らずの人に被害を受けてしまう可能性を考慮に入れている女性的にはそりゃ二次で女の人がひどいことされているもの見たら怖いよ。自分たちも同じようにされてしまう可能性があるんだもん。
それでチワワになった女性たちはその絵を批判するんだけど、その時に「二次は二次、三次とは違う」とわざわざ言ってくれる人、つまりオタクはそりゃありがたいよ。
わざわざ言ってくれるんだからね(嘘は別)
小児性愛者について書かれた「「小児性愛」という病」っていう本にはそういった二次絵がトリガーになり、実際に幼い子供に性被害を加える人たちが紹介されているんだけど、そうゆう人たちって「二次は二次、三次とは違う」って言わないじゃん。
そんな中でわざわざ「二次は二次、三次とは違う」と言ってくれるオタクは自ら「私はきちんとすみわけができています」って言ってくれているものじゃん。
ありがたいね。
そこでオタクも一緒に加害する人を責めてくれれば100点なんだけど、それを加害する人の味方にもならずチワワ状態の女性の味方にもならないのはまじで愚の骨頂だと思うね。
なんか最近NIKEのCMが差別してるとか、してないとかで炎上してるけど、くっだらない。
俺はロリショタ好きのいわゆる小児性愛者、ペドフィリア(この言い方もなんか嫌悪感煽るような語感で不服だが)なんだが、
半年近く前にたかがショタ型のラブドールを買ったツイートに大バッシングして小児性愛差別のヘイトスピーチを繰り返して、
俺らロリコンショタコンが子どもとセックスしたい気持ちを押し殺してラブドールで我慢してるのに、
それを「危険だ!次は現実の児童に手を出すぞ!」ってそれすら盗りあげようとした。
30歳の人間が10歳の子と純愛するのが違法なら、20歳と50歳の金目的の結婚も規制しろよ。
あーあ、中東じゃあ10歳の女の子と結婚する30歳とか普通なのによ。
ていうか、子孫を繁栄するって本能なら若い子に欲情することこそ自然ですが?
つまりさ、倫理観とか価値観なんてものは教育っていう洗脳の結果でしかないわけ。
で、お前らはまんまと洗脳されて「子ドモト、せっくすスルノハイケナイコト」「日本ニハ差別ハアリマセン」
とか言って妄言吐いちゃってるわけ。
お前らはいつも「自分は差別してない!」「正しいことを指摘してるんだ!」って善良面して少数派の弱者を叩く。
極右メディア「ブライトバート・ニュース」のライター兼エディターやってたんだってさ
姫として祭り上げられて過激発言が止まらなくなり、Twitterで超えちゃいけないラインの発言
それが原因で広告出稿社が3カ月で9割減、右翼界隈の仕事が無くなったみたい
(広告の大幅減少は別のライターが小児性愛を容認するかのような発言したのも原因のひとつらしいが)
彼女はヘイトを振り撒いてたから企業からもフツーに敬遠されフルタイムの職はなく
いまは苦労しているとのこと
https://edition.cnn.com/2019/12/13/politics/katie-mchugh-stephen-miller/index.html
何かTwitterでの表現と小児性愛者を叩くことを混同してる馬鹿が多くて困るんですけど。
現実の子供に向けられる視線って、向けられてないからね?そしてもし向けてたとしても、手は出してない。そしてこんなこと書くとそんな視線を向けるな的な頓珍漢な反論をしてくるが、露骨にそんな視線を出してくる奴は別だ。それは叩いて良いよ。しかし意識は向けるのは別だ。それが即犯罪に繋がる思考なら、電車で隣の席に好みの女子が座ったら異性愛者の男は即レイプするのか?確かに頭の中ではそういうシーンを想像するかもしれない。しかし想像しても何もしないだろうが、普通は!!!
お前らが言ってるのは男が全員レイパーであるのと変わらないって言ってるのと同じだ。
元々そういう男の加害性を全力で肯定する奴なら私は何も言わん。そのまま喚いていれば良い。
「主語が大きい」という言葉は有名になりすぎて誰でも脳死で批判できる領域に成り下がったが、「主語が小さい」ことはあまり問題にされない。
嫌韓が盛り上がっていた頃から指摘しているのだが、差別を行う人々は時に「一般的に成り立つはずの事象を、あたかも特殊なことのように話す」ことがある。
例えば、「韓国は下水設備が貧弱で、水洗トイレでもトイレットペーパーを流すことが出来ない」ことを嘲笑う人がいる(いた)。しかしそれは全く逆で、「日本は下水設備が優秀で、水洗トイレにはトイレットペーパーを流すことが出来る」というのが正しい。「トイレットペーパーを流すことが出来る」のは、そもそも世界的に見て日本の方が特殊なのである。(最近は海外も状況が変わっているらしいが。)
このような論理は女性差別やオタク差別などでもしばしば用いられる。
「女は嘘をつく」と言うが、そもそも「人間は嘘をつく」のである。「女は感情的」と言うが、そもそも「人間は感情的」である。
「二次元表象が犯罪や差別を助長する」と言われる時、「二次元表象以外が犯罪や差別を助長する」可能性は無視される。「たとえ二次元でも小児性愛を肯定的に描くことは、現実の小児性愛の肯定に繋がる」と主張する人は、「たとえ成人でも対人性愛を肯定することは、現実の小児性愛の肯定に繋がる」とは言わない。
小児性愛者が混ざってるだろ。