はてなキーワード: 古市とは
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23488282
彼は社会学者としての立場から法律や改憲論者と論壇で登って答弁しているわけだが、オレには佐藤氏と古市さんとの間で話がまったくかみ合っていないように思える。
正直、この佐藤という人を含め、古市さんを叩いてる人にはマーケット感覚がないんじゃないか?と思うんだが、具体的にどうやってそれを示したらいいのか見えてこない。
山本みずき氏との論壇でも同様だと思う。山本みずき氏にはマーケット感覚がない。一方で古市氏にはマーケット感覚がある。
議論のレベルがかみ合ってない。山本氏も佐藤氏も、社会の泥臭い面や言葉通りにいかない部分が見えてない。古市氏の方が社会を間接的に知る手段が豊富で信頼できると思うんだが
同じように思ってる人はいないのかな。。。
一応個人的に考えてみた内容をまとめてみたので、知見のある方々の指摘や修正がほしい。
是非論駁してみてくれ。
個人的な思考なんだが、『佐藤氏』と『古市氏』のバックヤードに目を向けてみた。
ソースはwikipediaくらいしか簡単に示せるものはなく、佐藤氏のことはオレはほとんど知らないので、あまり知ったようなことは言えないんだが・・・
『佐藤氏』
『古市氏』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B8%82%E6%86%B2%E5%AF%BF
佐藤氏の両親は政治学者と弁護士。つまり歴史と法に重きを置く典型的な法学部タイプ。日本は法治国家で資本主義として成功した社会主義タイプなので、佐藤氏は典型的な右派で保守的なタイプ。
一方で古市氏は環境情報から社会学へと転向した。つまりバックヤードとなる知識や感性は科学者タイプ。
ゆえに、古市氏の論じる分野には必ず〝マーケット〟がある。お金と結びついて物事を考える発言がきちんと身についている。またそこに時価がある。
ここで勘違いしてはいけないのは〝経済〟や〝金融〟ではない、ということだ。要するに〝政治色〟が薄い。よく言えば庶民的。別の言い方をすると〝資本主義的〟。
また彼は友人に起業家を持っており、堀江貴文を含め、財界との繫がりも多い。ほりえもんちゃんねるなどにもよく登場する。
これを〝強い者に擦り寄る〟と表現するものもいるが、そのあたりの〝評価〟は置いておいて、マーケット感覚を得られる環境にいることは間違いない。
http://blogos.com/article/154867/
例えばここで古市氏は『すき家は企業が社会にもたらした社会福祉のひとつ』と述べたことで叩かれているが、なにが間違っているのだろう?と思う。
マイクロソフトをはじめとする新時代の新興企業の多くは、既存の制度を上手に利用して新しい形の報酬を従業員に還付している。
(※その代わり徹底的に税金を逃れている! ←善し悪しは置いておいて、事実そうである)
どの国に所属しているかよりも、どの会社に所属してその会社が与える福利厚生を受けられるか
ストックオプションを行使できるか、金融資産を持てるかどうかが豊かさへと直結する時代になったのに、いったい何故古市氏の述べていることが的外れなのだろうか?
シリコンバレーでは福利厚生を提供するサービスを行っている会社がYコンビネーター出身者によって起業されている。
ケータリングサービスやタクシーチケット、社宅システムなど、上げればきりがないと思うのだが・・・
http://asread.info/archives/722
日本に自衛権があることを古市氏は知らなかったと述べているが、これもある意味で間違っていないと思う。
実際のところ、実質的に自衛権を行使できなかったことには違いない。
・ミサイルを発射されながらもそれを撃墜できるのは日本に駐在している二機の米軍潜水艦のみであること。
・敵国が領空侵犯をしても命令がなければ撃墜できない。引いては物理的に〝敵飛行機を押す〟という意味不明な対処しかできない
これらの現行法の脆弱さをどれだけ学者やSEALsは理解してるのだろうか?
http://trafficnews.jp/post/46566/3/
自衛権は認められているが、〝実質的に言って認められていない〟ことと一緒。
であるにも関わらず、古市氏が『日本の自衛権って認められてるんだ…』という発言を〝知識がない〟〝教養が無い〟と評価する論調はいかがなものか。
一方で佐藤氏にはマーケット感覚が無いといえる理由はここにある。つまり法律や政治に関する学問を背景にしているところに問題がある。
この手の人間がやっかいなのは、やたらと知識や雑学は多く言葉に言葉を返すのは上手いのだが、思考回路に多くの前提条件や知識条件が抜け落ちていることが多い。
言ってしまえばマリー・アントワネットのタイプだ。
古市氏の発言が法学や政治に強い識者から叩かれやすいのは何故だろうか。
それは叩く者たちが〝歴史の変遷〟が、実は〝市場の変遷〟であること、をよく分かっていないからだ。
市場経済はより自然科学的だ。お金は政治や法律によって生まれたわけではない。自然に発生して、それが整備されて整えられた。実は人類が進化の果てに手に入れた概念だ。
軍事力と経済力のふたつは大国の力を現す両輪と考えられるが、実は歴史を手繰ると三番目の車輪があったことが分かる。その名も〝宗教〟。
鎌倉幕府の台頭に現れているように、歴史的に見ると既にこの頃から宗教の力は徐々に衰えを見せており、政治と軍事力の二つが世界を動かしていたと言える。
表の世界での政治はほとんどが宗教と密接に関わっており、もっぱらここが市民と政治の大きな接点であったと言える。
一方で軍事力は実質的な世界の掌握と統治を行う役割を担っていた。
少なくとも、日本においては明治維新でサムライが不要となるまではそうだったのだ。
しかし第一次世界大戦、第二次世界大戦に代表されるように、軍事政権は失敗を迎えた。
正しい仕方で行使されなかった軍事政権は、共産主義や社会主義を生み出したからだ。
一方で米国のような市場経済を中心として発展した国は一定の成功を収めた。士・農・工・商のうち、最後に勝ったのは商人というわけだ。
マーケットは〝国の力が弱まりつつある〟ことを明らかにしつつある。既に鎌倉幕府の時代から、政府が持つ立法の力は軍事力か経済力のどちらかを担保にしており、宗教はアイドルでありスケープゴートであったに過ぎない。
そして過去〝政(まつりごと)=宗教〟が中心だった国家は、現在政治の中心を〝経済〟へと移している。
軍事政権が実質的な掌握を行っていた政治は、現在では財界が実質的な掌握を行う社会へと変化した。そしてそれは加速していく。
実際、国が提供する福祉よりも企業が従業員に提供する福祉の方が優れている場合が多い。しかもマーケットに従った結果なので、相応の人材を兼ね備えており、無駄が無い。
パナマ文書にも代表されるように、国家の枠組みを超えた企業にとっては国境など存在しないも同然。
スターウォーズの通商連合のように、もはや国とは独立した別の政治形態と言って差し支えない。
戦後70年の間で形成されてきた常識などいくらでも覆る。今後の歴史は大転換を迎えると考えてまず間違いない。
その意味では、いまだに全時代的な歴史の踏襲と繰り返し論議を重ねる、マーケット論の無き法学者や政治学者が出る幕は実質的に言って存在しない。
宗教がその存在を弱めたように、政治もまた本質は思想であり宗教であるから、その実質である軍事力や経済力のいずれかに依存せざるを得ず、結果として時代に取り残される。
軍事力の台頭は世論が許さないだろうし、世界もそれを望んでいない。よって、これから重要になるのは、〝個人がどの市場経済に所属しているか〟である。
世界を牽引してきたのは技術革新と金融だ。宗教を背景にした政治はストーリーを創り出す力があったが、現代ではその力は失われている。
闇雲に政治を追いかけても歴史を追いかけても真実は見えてこない。
必要なのは産業界の歴史を追いかけること。経済史の発展と衰退の繰り返しの中に答えがある。
古市氏がどういう器なのかは知らないが、少なくとも歴史と現状を比較して将来を占う上で非常に恵まれた立場にいることは間違いない。
彼は川上の最新情報にアクセスできることが可能で、新時代のリテラシーも十分持っている。
法学者も歴史学者も、企業の間接部門でしかない。プロフィット部門ではない存在の者たちがとやかく言う論壇や議論に意味はない。
その点は古市氏も同様だが、彼は自分の立場が弱者であることを自覚している分、市場に対する的確な論壇を展開できる下地がある。
叩かれるのがその証拠だ。叩いてる奴らのほとんどはマリーアントワネットばかりなのだから、叩かれている姿を見てむしろ安心すべきだ。
下司の極み乙武さん(クンづけはしません)の「ダミー」として不倫旅行の手助けをした、と、
斬り込み隊長に断言されている社会漫談家(≠社会学者)の古市さんなわけだが、
何年前だったか、『絶望の国の幸福な若者たち』という本をだされて多少、評判になったころ、
古市さんの出席する読書会兼講演会のようなものに参加したことがあった。
講演会の最後に、例によって質問コーナーがあって、2~3、マジメな質問が続いたあと、
「あの~、こういう質問していいのかよく分からないんですけど、古市さんってどういう女性がタイプなんです?」
そこそこマジメな空気の中で、クールに「俺は人と違う意見が言える気鋭の社会学者」をキメていた古市さんに、
ゲスな質問がぶつけられ、会場は笑いに包まれたのだけれども、そのとき古市さんは
「あの~、そうですね、僕より有能でお金かせいでくれる人と結婚できたらいいですね、へへっ」
と、キャラを守った返答をしていた。
質問した男性は、さすがにその程度のごまかしが通用する人ではなかったらしく、続けて
「それって、『結婚の条件』であって、『恋愛のタイプ』ではないと思うんですけど、恋愛という意味で好きなタイプとかあるんですか?」
と、やや踏み込んで質問した。
それに対し古市さんは、ややひるみながらも
「あの、男女の恋愛に求められるような、人と一緒にいることの喜びとか安らぎとか、
そういうものって、友情とかで代替できると思っているんですよね・・・」
などと、なんだがごまかしたような答えをして、質問した男性も、
以上この場で突っ込むのぶしつけと感じたのか、ここでやり取りを終えてしまった。
まあ、精神的な部分はある程度友情で代替が効くのかもしれないが、当時の古市さんは20代だったわけで、
そういう「精神的な充足」を求めるのとは別の肉体的な欲望もあったはずだろうが
(仮にそれが全くなかったとしたら、それはそれで興味深い事例だと思うが)
さすがにそれはつまびらかにはしないのだなあと思って、
まあ、古市さんが、どういう性癖の持ち主だろうが、知ったこっちゃないし、
二次元しか愛せない人だろうが、オナニストだろうがゲイだろうが、どうでもいいのでそのことは忘れていたのだけれど。
テレビで「唾液の交換が不潔だからキスが嫌いだ」とか言い出したりしてネットに話題を振りまいていたと思ったら、
乙武さんの不倫を介護のようなものかもしれないとか擁護しだしたりして、
そして、もし、本当に乙武さんの肉体的欲望を満たすための旅行でダミー役を引き受けていたとするならば、
それはなんだかもう、本当に味わい深いなあという思いとともに、このエピソードを思い出した次第。
ま、こんなこと考えている自分も、ずいぶん下司ですがね。
実家で母親が読みもせず積み上げているだけの東京新聞で見かけた記事にあった。16日付けの朝刊だ。
「ネットで何が…」と題し、その週にネットで話題となった物事を採り上げる連載記事だ。
その日の記事では古市某の「ハーフは劣化が云々…」発言を話題としていた。
ネット放送で津田某と中川が、古市の発言を題材に話し合い、炎上を防ぐ結論として出たのが表題の言葉だそうだ。
補足して「それは、人種、性別、身体的特徴などに加え、『努力でどうにもならないもの』『自己責任ではないもの』といったことだ。」とある。
果たして本当にそうだろうか?
まやかしはやめていただきたい。綺麗事を言わないでいただきたい。
だってそうだろう?
容姿の良くない者への揶揄は探すまでもなく、そこらじゅうで見付かるではないか。そして全く炎上していないではないか。
それどころか皆が一緒になって容姿の良くない者を馬鹿にし、笑いものにしているではないか。
美容整形を受けないのが「努力が足りない」とでも言うのだろうか?
しかし、整形について主治医に尋ねたが、色よい回答を得られなかったのだ。
表題が真実であってほしいしそうあるべきだと願うが、残念ながらネットの現状はそうではない。
よって淳一郎氏及び大介氏に訂正していただきたい。ネットも現実と地続きの地獄だと。
さあ帰った帰った!
へいへいへいぼ~いず
どんな時もくじけずに頑張りましょう!(時事ネタ)
http://b.hatena.ne.jp/entry/matome.naver.jp/odai/2145171876196466501とかの件。
古市のことを「差別的だ」とか「差別主義者だ」とか言ってる人らが実にウザい。なんなのあれ。
確かにこの発言は「ハーフ(言い方はダブルでもミックスでも混血でも何でもいい)差別」と考えられるが、「ハーフ差別」としか考えないのは問題の著しい矮小化である。
古市発言の背景に以下2つの価値観が隠れていることを読み取ってしかるべきだ。
・(たとえば若いハーフの人のように)「美しい」ことは素晴らしい
・「老化=劣化」はしないほうが素晴らしい
広く一般に浸透した価値観だ。
若い美男や若い美女が放射する強烈な魅力を簡単に否定しうる独自の価値観をもった人など少数派に過ぎない。
私は、君らが日頃からアイドルやミュージシャンやキャラクターなどの若くてカッコイイ男やカワイイ女を異常なほどに偏愛していることを知っている。その美しさを「おおっぴらに」に語り、消費行動を通じて「若い美男美女は素晴らしい」という価値観をさらに補強していることも知っている。「ハーフ顔になるメイク」が確立されていることも知っている。
(若いハーフを含む)美男美女を愛でる君は、所詮はルッキズムとエイジズムの奴隷だ。つまりは差別主義者だ。
君らは「ハーフに対する差別主義者」であるより前に、れっきとした「人間に対する差別主義者」だ。
人間全体を差別する奴が偉そうに「差別だ!」とほざく。なんと偽善的で、なんと気色の悪い光景だろうか。
「私も古市と同じ差別主義者ではないか」という内省の思考がまったく働いていないのが気色悪い。
古市に何か一言言いたいならば、「差別だ」ではなく「ハーフの人に失礼だから言わないほうがいい」程度にとどめるべき。
追記
たとえば、障害者差別を批判することはある意味簡単だ。「障害者を差別してはいけない」という(少なくとも建前上の)社会的合意が既に存在するため、仮に自分が内心において障害者を差別していたとしても、社会的合意を根拠として障害者差別を批判することができる。社会的合意という立派な盾があるので、「差別主義者のお前が言うな」という反論をかわすことができる。
これに対し、ルッキズムやエイジズムをしっかり否定する足場(社会的合意)を持たない我々は古市発言を簡単に否定することができない。「差別主義者のお前が言うな」と言われてお終いだ。
「学歴が高くても他人の気持ちがわからないクズより、学歴が低くても常識がある人間の方がずっとマシ」という、
反知性主義の実例のようなケースが年始から展開されてしまったわけだが、これを古市氏が自覚的に演じてるならかなりクレバーだ。
もともとそういう意図でキャスティングされてるんだろうけど、その役割を引き受けてでもメディアで生き残りたいんだろうか。
「ハーフは劣化が早い」のような発言は、著作や討論の場では絶対にしない。
ワイドナショーにおける古市氏のあまりに無神経な発言の数々は、
些細なことに過剰反応する馬鹿なタレントらをからかっているだけだ。
だから古市氏も、ワイドナショーでは羽目を外して馬鹿を演じることができる。
知識層はワイドナショーを見ないし、もし見たとしても、
古市氏の件のブコメを読んで驚いた。他人に対して「知性の劣化だ」と叫んでいる人たちが「容姿に対して劣化という言葉を使うこと」について狂ったように叩いている。
いや、一緒だろそれ。
「人の容姿に対する劣化という言葉」と「人の知性に対する劣化という言葉」に何の違いがあるんだ?知性は叩いてよくて容姿は叩いちゃいけないの意味が分からない。ダブルスタンダードだろ。ルッキズムだなんだと叩いてるが、他人の知性を劣化だなんだと叫ぶことだって「インテリズム」じゃん。
「容姿」は先天的、「知性」は後天的とかいう区別をしてるのかもしれないけど、容姿は努力である程度どうにかなるもんだし、逆に知性もどう頑張ってもその人の限界値があるから後天的とは言い切れない。つまり二者に大した違いはない。それなのに、なぜ容姿に対して劣化という言葉を使うと人でなし扱いされて、知性に対して劣化という言葉を使うとスターが沢山つくんだよ。ほんとはてなはめちゃくちゃだと思う。
1.結局この番組は個々人の意見の是非云々より、何故それを今話に出すのだ、どういう話の流れにしたいんだ?という事の方が目に付いてしまう。たとえば、三浦氏は「何故そういう現象が起きるのか」というのをちょっと引いた視点から説明するという意味でバックグラウンドがしっかりしていると思うし(アカデミアだから当然だろうが)、逆に自民や民主の政治家は主張を繰り返して非難合戦しているばかりだし、荻原って人はむやみやたらにどれだけ重要な意味があるのか分からない話を広げて闇雲にしゃべっている印象を感じるし、駒崎氏は自分の活動に関してプロフェッショナルだという自負があるからか専門外のことには進んで発言機会を適切な人に譲る。古市氏はまた三浦氏と違ってアカデミアではかなり発言がライト寄な気がする。というかバックグラウンドが余り見えてこないタイプの発言をする。総じて感じたのは、人の言っていることをちゃんと理解しようとしている人は発言自体も筋が通っているし(今日で言えば学者系、実務系)、そうではない人は自分自身の意見も訳が分からない(政治家系、"文化人"系)、ということかもしれない。
2.
正規vs非正規かという議論は、そもそも何故非正規に付く人が増えたのか、というところの検証を広くしないと意味が無いのにそこを避けてばかり。企業としては正規にしても非正規にしても、利益がある方を選ぶだけの話で、じゃあ企業にとって正規という投資をする人材が労働市場にいないのか、もしくはそういう人材のリターンが技術や市場の変化で減ってきたのか、など色々外的要因があるのにもかかわらず企業の倫理の問題ばかりにしている。
ちなみに1と関連するが、ここでも三浦氏はユニクロとローソンの話で業種によって外的要因が異なるという話をしていて(ロジック的に正しかったのかよく分からないことは留保しつつも)重要なポイントだと思ったが、執拗にローソンの話をする荻原氏は若干滑稽に映った。また介護士の話の時にも、介護士の賃金をどうやって上げるか、税金をどれだけ突っ込むか、財源はどうするかと言った話に場は終始していたが、三浦氏は現状の競争が抑えられたスキームのせいで労働市場がゆがんでおりそのせいで賃金を上がっていないのかもしれないので、もう一回規制緩和などで業界ルールを設定しなおして自然と賃金が上がるようにしていくことを検討すべきだ、という傾聴に値する、少しメタ的な話をしてたが、荻原氏は規制緩和という言葉だけを捉えてか何を言っているの?という態度で、意見の是非の前に全く話が通じていなかったようだ。荻原氏はテレビに良く出る人ではあるらしいが、今回の番組を見る限り個人的には知的能力に疑問を持たざるを得なかったし、そういう人が出演し続ける番組にもあまり良いイメージは持てない。
3
こういう不毛なプロレス合戦はもう良いし、田原氏もそうは長くないと思われるので、そろそろ荻上チキ氏が仕切る大型討論番組を見てみたい。
数年前から「社会学者」という古市某という人が、若手の論客として幅を利かせているのを、よく見かけるようになった。
「学者」というからには、どんな研究をして、いかなる学術論文を発表されているのかと思ってCiNii Articlesで検索をかけてみたが、
ざっと見る限り、いわゆる総合雑誌とかの記事が多くて、しかるべき査読を経たような学術論文はほとんど発表されてないようだ。
参考までにwikipediaを検索してみると、この人は「大学院生」だとなっていた。
なるほど。
学者というのは、やはり、研究成果を世に問い続けてこその存在であって
既存の知見を上手く組あわせて、ただかみ砕いて説明したり、
ちょっとした思い付きで、複雑な問題を分かったったような気にさせたり、
ちょっと斜めからなんか気の利いたようなことを言って場を盛り上げる人たちとは違うと思う。
古市某のような感じでテレビにでているのだけれど、「○○学者」じゃなくて「○○評論家」という肩書を使っている人たちもいる。
まあ、評論家といえば、どこまで裏付けがあるのかよくわからないけれど面白げなことを放言して「ホンマでっか?」と言わせる人たちだという印象が、
ここ数年でついてしまった感じがあるのだが、個人的には、本当の評論家というのは、たとえば「現代美術が全く分からない人」にたいして、
15分で「現代美術とは何か」説明してくださいといわれたら、とりあえず、「魅力の一端」くらいを伝えてくれて
「なるほど、ちょっと面白そうだな、今度、そういう目で現代美術を見てみようかな?」とか思わせられるような人のことじゃないかと思っている。
「○○漫談の人」というのは、
以前、番組のゲストにきた杉村太蔵に対して、有吉が「アナタ、今、本業はなんなの? 政治漫談の人?」と言っていたのを見て、
「やはりうまいこと言うなあ」と感心して以来、個人的に使っている。
この言葉を使い始めて以来、世の中を見回してみると「脳科学漫談の人」とか、「生物学漫談の人」とか、「国際関係論漫談の人」とか、いろんな漫談の人が活躍していることに気付いた。。
なお、巷には、脳科学をネタに、なにかと「Aha~」と言っている茂木某のことを「アハ芸人」と呼んでいる人もいるが、
お笑い好きの自分としては「芸人」という言葉を安易に使ってほしくないという気持ちがある。
やはり笑いにそれなりに命を懸けている人たちこそが「芸人」なのであって、「アハの人」は、自分の中では「脳科学漫談の人」という棚に整理している。
マスメディアは、「学者」「評論家」「漫談の人」をちゃんと区別してはくれないようなので、したり顔で何かを語っているタレント以外の人を見かけると、
自分の中で「こいつは学者」「こいつは漫談の人」と整理しているのだが、気が付くと「漫談の人」の棚ばかりが溢れんばかりになってしまっている。
中村さんの言い方はわかりにくいけど、一応考えてることはまともっぽい。…問題はこういうめんどくさい案件にさわってしまったことか。どっちについてもいちいち噛み付きそうなアホがいる案件だけに直接のコメントは損…という印象はあるかな
会うとまとも△面と向かって人におかしい言える人がそんなにいない○…オフ会で「思ったより良い人そう」と言われたことを書く人がいるけど、みんながみんなネットの中にいる時みたいに「あいつキチガイだろ」という言い方はできないだけだと思ってる(つ∀-)
実際にパクリなのかどうかと言われるとパクリではないよね。似せたとかなんとか言われるならともかく、パクリという言い方をしちゃったことが引くに引けなくなっちゃった原因じゃない?
深夜食堂とかワカコ飯的なジャンルのものじゃん…。女くどき飯とは別物だし、パクリと言っちゃうのもちょっとなぁ…。
あんまり言いたくないけど、パクられるほど女くどき飯ってそんなにブームしたの?いや、経験豊富キャラの峰なゆかさんですらぐるなびに6回分しかネタを書いてないようなモノをそこら編の人がパクれるほど敷居の低いお題なの?もっと言うと、峰なゆかは本当にキャラ通りその手のネタを持ってるの?本人はGTOと比較してますが、タイトルとあらすじ(コンセプト)がGTOほど奇抜だったり、パクリようがないものを扱ってるかというとそれは違いますよね…。○○飯も女の子がごはん食べる系のマンガも別にありふれたテーマですし。女が飯食うマンガよりも男が飯食ってぼやくマンガのほうが最近は少ないから孤独のグルメのほうが女くどき飯よりもずっと大きな発明だと思ってる。(いや、みんなそう思ってるから商業化した時の展開が全然違ったわけで…)
そもそも論を言うと、パクリパクリと言う時と「簡単にパクれるもの」を扱ってると思われるから損だよなぁ…。参入障壁があるもの、技術が必要なものはパクられたところで勝てるし、そもそもパクること自体が難しいからね…。まして、安価版も必要になる製造業や食料ならともかく創作物の下位互換はゴミ。いやさ、うちなんて誰もやってないことをやろうとしてるのは川崎のスポット紹介ぐらいで、フリゲも時事ネタも躁うつ病体験記も全部先発・後発ともにいますよ…。ただ、その人らに勝てばいいし、パクられたとて足を引っ張られたことにこそなれど、その人はコピーなんだから負けることはないんだよなぁ。
だいたい愛着を持たれてる作品ならファンが「○○と似てる」「○○のパクリ」「○○の影響を受けている作品」「まるで○○さんみたいなことを言う」と言うんですよ。オリジナリティってそういうものだということがわからない人の発言を見るとなんかしんどい
僕もはてなブックマークでは「失言王」扱いですが、彼女もなかなかすごいようだ…面白そうだからじっくり見ていこう
この定義で行くと「貧乳好き・バカっぽいところがかわいい・一途で盲目な乙女さがかわいい・背が低い女性が棚の上のものが取れなくて背伸びするのがかわいい」辺りもロリコンに入りますなぁ…恐ろしい恐ろしい
完全に別概念ですな/今、「あなたがモテないのはあなたが(女の子から見て)気持ち悪いからです」と断言する本を選んでるんだが、気持ち悪いの基準がこんだけ論理破綻してる女性とはちょっと関わりたくないなぁ…
モテ本を読んで僕が「この本は目的を成し遂げるためには正しいけど、目的を成し遂げた先にあるのは本質論や客観性がない地獄のような世界だ」と途方に暮れてる様子をそっくりそのまま言葉にしたのが「峰なゆかさんの定義するロリコン」なんだよなぁ…。男も男で主観的な人いるが主観への依存度が違う
テレビゲームから囲碁・将棋みたいなボードゲーム、あるいはもっと広義な理数系科目全般でも良いんだけど、基本的に男のほうが数量化・客観的なルールのあるゲームが得意なんですよ。だから優れてるとは言わないけど、少なくともルールとプレイの関係がキッチリしてるからわかりやすいよね…だが、悲しいかな。人は童貞として生まれてくるし、性欲があって、メンツがあって、承認されたいから童貞をこじらせる卒業もしたくなるものなんだよ…(ただ言いたかっただけ)
だから、女性的な「(何をしたとか、スペックがどうこうよりもまずは、)キモチ悪い」が基準になってるものは理由が説明しにくいし、それがルールの基準になったら、それを攻略するための対策や傾向を見つけるのが大変なんだよね…。そこに対する恐ろしさを男で気づいてる人がどんだけいるかという話。
しかも、なゆかさんとかフェミがかった人って「女性の主観的な価値観で動いてる部分」を問題視もしなきゃ、ヘタすると主観を正当化するためのゲームとしてしか論理を使おうとしないところがあるからこわいなぁ〜って思ってるわけ。男にもそういう人はいるし、男でもそういう人なら嫌いだけどさ。
僕のフェミ嫌いはフェミを突き詰めていった時に出てくる「主観的な感情を果たすためなら言葉もジェンダーも態度も何もかもを相手を叩く道具に使っていいし、ダブルスタンダードになってもいい」と思ってる一部のクズに対する反感なんだよね…僕の人生には女性の、特にフェミが多いんよ。傾向的に。この話、おしまい。なんかズルズルと体が自分の意図しない方に引きずられていくのを感じるからやめる
範囲攻撃を範囲攻撃で返すようで恐縮なんだけど、なんで元AV女優の作家と元AV監督の作家の人気がある人達は両成敗で読者をバカだ臆病だロリコンだ全身無印・全身ユニクロだと簡単に罵り倒せるし、言葉もすごくざっくりしてるくせにドヤ顔なの?あの界隈は「俺様正しい」でできてるの?と困惑してる。はあちゅうとか古市みたいにイメージ戦略を大事にする人はライトな信者とディープな信者と媒体を分けてネタを提供するようにしてるからなぁ…。誰も彼もやなゆかさんみたくノーガードで戦えるタフガイ(?)じゃないのよ。少し前は戦わない人・ホンネを言わない人は信用できなかったけど、本当に伸びてる人はホンネを言うところをゾーニングしてるだけで言ってないわけじゃない。そういう人の方がアンチがいてもリア充っぽく見えるんだよね。まぁ、主にはあちゅうと古市のことですけどねw
嫌いな相手はなんでもkanoseか本物川界隈かフェミ界隈に入れて区別なく叩く雑な話しか出来ないのに自分ではあたまいいと思ってるのが気の毒