はてなキーワード: Saoとは
こういうの最後は感覚であって理屈ではないんだろうけど、そう思う人が多いのなら何かしら理屈で説明できるかもしれないよなー。
SAOの例でおおざっぱに考えて見た。
・ゲームなんだから、現実世界よりははやく強くなるんだろうけど(リアルではどんだけがんばっても剣でモンスターを倒せるようにはなりそうにないって意味で)、確かにゲーム特有の反復練習での強くなり方って経験者かそうでないかで感想に違いが大きいかも
しんない
・SAOの場合、単に時間を過ごせばいいってわけじゃなくて、失敗したら死ぬんだぜ。そのリスクを負って死ぬほど努力するって相当じゃね?
なんてことを考えながらみている人なんてあんまりいないっぽいけど、無意識にどんだけ想像するかは経験とかの差はあるかもしんない。
「うひょーこれはエロすぎるから回収すべき!」と騒いだところ誰もそれをエロいとは思わなくて単に自分が変態なだけだった、みたいな感じだな。
パーティを組んでれば苦労していることになるのか
パーティ組んでボロボロになりながら倒してるんだが、それが苦戦じゃないならおまえの中での苦戦ってなんなの。
おまえは小説は読んでないだろw
オプションを除いて
や、それ葛藤する時点でもう駄目なやつ
すげえ、「女はトロフィーでありオプションであり俺の一部」ってやばすぎる発想だな。
俺TUEEE批判してる奴ってそんな気持ち悪いこと考えてるのか。草不可避だわ。
キリトさんが一人で突っこんでいって無傷でボスを倒してる幻覚でも見たのか?
だから一般プレイヤーから批判されているんだし、キリトさん自身も知識を独占することに葛藤してたんだろ。
ビーターであることを作品全体で無批判に称揚しているんなら話は別だが。
彼らはトッププレイヤーではあっても「非現実的なほど強い」という設定ではないし、
どうして例外扱いしなきゃならないんだ。
それに、俺TUEEEなキリトさんでもパーティを組まなきゃ(組んでも)何ともできない強大な敵として、各階層のボスがいるわけだが。
敵YOEEEE?なんで敵YOEEEEだと思ったの?
トロフィー(笑)とかいう曖昧な言葉じゃなくてちゃんと説明してくれよな。
うんうん、知らなかっただろうけど、SAOはそういう話なんだよ。
キリトさん「だけ」が飛び抜けて強いわけじゃないんだ。
キリトさんだって負けることもあれば、仲間を死なせることもある。
キリトさんひとりで無双していたわけじゃないし、キリトさん以外にも熟練者はたくさんいる。
おまえ(元増田かどうかは知らんが)が考えた「俺がSAOを気に入らない理由」は見当違いだったんだ。
認めたくないだろうけど認めようね。
キリトさんと張り合える技量の持ち主もSAOには何人もいるが。
ヒースクリフはチート使ったとは言えキリトと同等だし、アスナもやや劣る程度、
後からだけどユウキという完全にキリトさんより強いキャラも出てきている。
第一線の攻略組なら多少の差はあれ同等の実力者なんだろ。
キリトさんが(他と比べて)圧倒的に強いのはSAO以外のゲームに入ってからだよ。
さらに言えばアリシゼーション編に入るとまた全く状況が変わってくるが…。
最近のアニメとかライトノベルで主人公が努力していたという描写が結構合ったりする。
いわゆる修行シーンとかじゃなくて過去の回想だとか、他キャラの解説等から主人公の努力が判明するパターンだ。
最近は比較的初期から強いキャラが多かったりするので割りとそういうパターンが多かったりする。
ただ、そこで一部の読者がそういったキャラが「まったく努力していない」という感想を言うのを度々耳にする。
そういう人たちにちょっと聞きたいことが有るんだが、ほんとに努力をしていないと感じている?
それとも修行シーンや成長シーンが無いことに対する皮肉だろうか。
努力していないと思う人を「Aさん」とする。
もともとテニスをやっている人の間では有名だったが、ある頃を境にメディア露出が増えて突然出てきたように見えた人も多いと思う。
特にテニスにあまり興味のない人にとっては。(私はちょくちょくニュースで見ていたので知ってはいたが)
私達は錦織の活躍をニュースで知っており、彼が非常に強いこともランキングという形ではっきり目に見える。
ただ、正直なところすごい練習をしているということをニュースで流すものの実際に錦織選手のこれまでの練習の軌跡を一から見ている人はなかなかいないと思う。
そこで気になるのは、「Aさん」は錦織選手は「努力している」と思っているのかということだ。
彼が努力している様子は断片的にしかわからず、また報道や彼の口から少しだけ語られるだけであり実際の練習を見ているわけじゃない。
ちなみにこれは努力していないと思う人に対するあてつけやいらだちではない。
幾つか思うことが合ったので質問させてもらった。
※追記
ん?あるキャラが回想か何かで努力してることが発覚した後にも関わらずそれでも努力してないとか言う人がいるってこと?それとも努力描写がない段階でも書かれてないだけでそのキャラは努力してるかもって話?
より正確に言えば「努力しているように感じられないと思う人がいる」というのが正解か
1つ具体例を書いてしまうと、SAOで1巻冒頭で主人公キリトがMMO内に閉じ込められたのち場面転換をし、いきなり74層からスタート。
場面転換後はキリトがレベル上げを行う描写から始まりソロで過酷なMOB狩りを行っている解説からスタートする。
睡眠時間を削り、かなり過酷な状況でレベル上げをしているというのが描かれる。
個人的にはこの時点で既にある程度キリトは努力しているように感じられる。※これを努力と言ってしまうとすこし大雑把すぎる気もするが、大きく括るとそうなる。
しかしながらこの辺りの解説や説明や回想描写等を見ても「努力しているように感じられない」という発言をする人を度々見かける。
この感覚が「錦織が努力しているかどうか?」に状況が非常によく似ているように思える。
つまり、テニスに関する知識があまりない人が錦織を見た場合その人は錦織を「努力している」と感じられるかどうか?とキリトが「努力している」と感じられるかどうかが本質的には同じなのではないかということ。
ただそこで気になるのは錦織に対して努力していないなどという人は相対的に見て少ない気がする。
それともMMOという題材におけるレベル上の苛酷さやプレイヤースキルに関するものがMMO未経験者からすると想像しづらいのが原因か?
あるいは錦織がメディアに取り上げられやすく凄い凄い言われるのでその結果か?
状況的には非常によく似ているように個人的には感じられるのだがその差異はなにか? というのが知りたいことです。
この辺のいわゆる最近の俺TUEEEキャラが過去に努力をしているという描写が入っても「努力をしている」「努力をしているように感じられない」というように感想が二分することが度々あってその差はなにか?と思っていたので
まぁ、前提からまちがっている可能性もあるのでなんとも言えないが。
さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説の秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。
例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。
同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校のプールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写は彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。
溺れて必死で主人公にしがみつき、ビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通の女の子」であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインがうつむき押し黙るといった、つまり「普通の女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。
多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会う前後で主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である。
最後に見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロインの毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロインの毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。
念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線をクライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。
「ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公とヒロインの恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効に機能する。
さて、関係構築とは主人公とヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為に類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為が類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。
遭遇の類型として「秘密の漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。
「秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合、プライバシーと同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密の吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去のトラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意にコントロールできるという点で優れている。
こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去の吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日と髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公がヒロインに友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロインが主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロインが主人公の評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公がヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。
余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効に機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力者である主人公が必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこからの作戦の演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。
秘密の漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入や共感を誘う要素と言っていいだろう。
素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由づけが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。
これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係が破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公がヒロインにコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。
相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロインの名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。
なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。
一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。
一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロインが主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。
こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかしヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。
例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロインが主人公に仕事を依頼し、主人公は成功し続け、それをもってヒロインが主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロインが主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロインが主人公に失望することは一度としてなく、最後にヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討の範囲外である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。
『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否は効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公がヒロインからのスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。
この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分の利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。
単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。
相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解と共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意の薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。
窮地に陥ったヒロインを主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。
例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれたヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公に好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐なものであった。
他方で『俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる』におけるチンピラに侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロインを主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。
その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為が主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。
その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意はほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。
『禁書』では記憶を喪失し、『AURA』では中二病を世間に露出し、『俺妹』では自分は変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分の過去(未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲は主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。
転載しておく
絵もストーリーも稚拙だが、主人公の名前が「キリト」であることなど、その設定や展開にはSAOを彷彿とさせるものがいくつもある。
著者である「林マリオ」氏には先見の明があったといえるだろう。
なおこの漫画のキリトは現実から逃げてゲーム廃人になったことを自覚しており、その点でSAOのキリトさんより好感が持てるというアンチスレ住人もいた。
(cache) SAOアンチスレ支援 @ ウィキ - SAOを読み解くキーワード
http://megalodon.jp/2012-1125-1607-55/www53.atwiki.jp/antisao/pages/24.html
SAOの色んな感想を見ていて気づいたんですけど、大雑把に分けて
まぁ、要はポジティブ思考かネガティブ思考かってところでしょうか。
前者の人は、ネットはそもそも悪意やネガティブな空気に満ちた空間であり、切り分けないとネットの悪意に現実の自身の人格が影響をうけるため切り分けることが良策であり、懸命だと考えている。
後者の人は、ネットを現実世界の延長上に考えており、悪意もあるが善意もあると考えており、きっちり使えば毒にもなるし、薬にもなると考えている。
ALO編キリト
殺したければ殺すし、奪いたければ奪う。
そんなふうに言う奴には、嫌ってほど出くわしたよ。
一面ではそれも事実だ。俺も昔はそう思っていた。
でもそうじゃないんだ。仮想世界だからこそ、守らなきゃならないものがある。俺はそれを大切な人に教わった。
GGO編シノン
「ええと……キリト、あなた言ってることがこのあいだと違うわ」
「え……?」
「仮想世界なんかない、ってあなた言った。その人のいる場所が現実なんだ、って。VRMMOゲームは一杯あるけど、その世界ごとにプレイヤーが分割されてるわけじゃないでしょ? いま私のいる、この……」
「この世界が、唯一の現実だわ。もしここが、実はアミュスフィアの作った仮想世界だったとしても、私にとっては現実……ってことだと思う」
キリトは目を見開き、詩乃が気恥ずかしくなるほどの時間、ずっと視線を合わせていたが、やがて珍しくシニカルさの欠片もない――と見える――笑みを唇に浮かべた。
「……そうか。そうだな」
上記の2つの台詞は共にSAOのテーマの根幹に関わるわけですが、後者(=キリト達)は電脳空間を現実の延長上にあると考え人格を分離させていません。
前者の人はALOやGGOで本気になったりトラウマを解消するという行為を個人を分離させずに社会的な自分をだすのがどうも馬鹿馬鹿しいと考えがちなようです。
この類の人はシノンがトラウマを克服するのにGGOを使用したり、ユウキの死に際にネット内で集まったりするのが馬鹿馬鹿しいと考える。
まぁ、ユイのパパ・ママ呼びが嫌いでSAOが合わないとかはあるようですが、根本的なところではどもう上記の2種類の対立をそこかしこで見かける。
アニメ放送中とか後に原作者がツイッターで「実は○○って設定があったんですよ」とか
アニメはアニメ、原作は原作ってスタンスじゃないと原作読む価値がなくなっちゃうし
何より原作者ってこういう人なんだ、へえって原作とアニメに中の人が介入しちゃって
駄目になる。
出版社も止めろよって思う。
たまに今後のネタバレしちゃうサービス精神旺盛な原作者もいて興醒めする。
何が酷いってアニメそっちのけで自分の世界を色々描きまくってアニメで、アニメが表現したかった事に
注釈入れる時点でアニメをリスペクトしてないじゃん、ただ自分の願望書いちゃうなんて2ちゃんねるのSSレベルじゃん
ロリアニメ云々のブコメを書いたid:ikd18です。自分用にちょっと思ったことを残しておく。
はっきり言ってポエムだけどはてなブログやってないのでここに残す。
前提として、自分はWEB版からのファン。読みはじめたのは、たしか追憶編が終わって、パラサイト編が始まった頃だったと思う。
きっかけは、ブーン系小説のスレに、荒しが人物名のみを改編した入学編を投稿したのを見たこと。達也がハインリッヒ高岡で深雪が素直クール、会長がデレ、という配役だったはず。
あのね、俺TUEEEじゃなくて敵YOEEEなのはわかってるんですよ。
あと創竜伝並みの「登場人物が作者のイデオロギーを代弁する装置」と化してることも。
とかいいつつ、そう思いながら読むことが、佐島先生に失礼だってことも、わかってるし。
正直言うと、作者が「商業化しないと続き書けない」って状態でなければ、商業化なんてしてほしくなかったんだ。
商業化の時点で原作レイプされた気持ちになってるのに、アニメ化でモノローグは削られるわ、叩かれるわで踏んだり蹴ったり。
それでも、見もしないアニメの円盤買ってるのは、続きが気になるからだし。
ぶっちゃけ作者が創った世界というか、一個人の妄想する「未来」をのぞき見るのが楽しい。魔法のアイデアが楽しい。
展開に不満がないかって言うと、ゼロではなくて、たとえば米国最強という設定のアンジーの扱いとか、達也vsトミツカはトミツカ勝たしとくべきだろとか。
持ち上げすぎじゃない? っておもうことはあるんだよ。
でも、元々WEB小説だったんだし、今でもその延長だと思ってる(商業化してほしくなかったってのはそういう側面もある)ので、作者が書きたいものを書いてほしいと思ってる。
そりゃ詳しい人、頭の良い人から見たら穴があるのがわかると思うし。
基本的には主人公を持ち上げる方向にしか進まないから(コラボ小説で負けそうになったら回線切断させたくらいだし)鼻につくだろうし。
「何で続きが気になるの? 理解できない」って言われてしまうかもしれないけれど。
鼻につくって思いながらも楽しむことは、作者に失礼かもしれないけどさ。
SF大賞の安堂ロイド事件と一緒かも。外部から人がはいってくる以上、それまでのルールは通用しない。安寧は破られる。
仕方ないのかもしれない。
でもつらいよ。
自分が気に入っている作品が、叩かれてるの見るのすごくつらいよ。
叩かれてる内容は正論に近いんだよね。穴があるのは知ってるんだ。
でもつらいんだよ。苦しいの。嫌な気持ちになるの。くるしいよ。
芸能人が薬物乱用やら、業務上過失致死やらで捕まって、それでも擁護してるファンっているけど。
こんな気持ちなんだろうか。
そう思うことはファン失格かもしれない。逆に、罪を犯してなお擁護することが、ファン失格なのかもしれない。
それでも、急に嫌いになれない。かといってやったことを肯定もできない。
例えるならそんな感じ。
せめて、内容をそのまま、あるがまま享受できるか
鼻について読まなくなるか、どちらかであれば良かったのに。
少なくとも自分は、ドリームゲームのためだけに円盤買うほど、応援したいって思ってるのは確かだ。
商業化してほしくなかったけど、毎回文庫を買う程度には続きが読みたい。買わないと未完結になっちゃうだろうから。
外伝も買う程度に、断筆してほしくないと思っている。
そして、これだけ上から目線な気持ちを抱いているのが、最低だとわかっている。真に理解はしていないかもだけど。
適当に思うがまま書いたら長くなった。
なんなんだろうね。
あと何よりね、俺TUEEEだってわかってるだのなんだの
予防線を張らないと好きって言えない自分が悔しいね。殴りたい。
あとあれだよね。
でも直す気はないよね。だから、叩かないで! って主張はしない。
みないようにする。
というか、はてブユーザーで、コメント積極的に残す人の中で、ファンが私しかいないように、私には見えているのがいけないんだろうなあ。
※追記
回線切断について。
SAOとのコラボ小説で、キリトさんがダイブしてるネトゲと、達也の夢が混線してて。
(※ミクシィの日記に書いたネタをなんとなく落としたくなったので落とす)
そんなわけでふたなり系同人誌オンリーイベント「ふたけっと 10.5」の感想です
今回ふたけっと開催時に台風が接近していたため
会場周辺も微妙に強めの雨の降るあいにくの天気で、一般参加者が前回より流石に少し減っていた感じです
ただ、実際開場すると人気サークルのスペース前には三桁単位の行列がすぐできて、
その後も会場にはコンスタントに参加者がいて、時限コピー誌配布時に結構な長蛇の列ができる等のにぎわいもあったりして
雨に負けないふたけっとになっていたなというマインドです
人気サークルはAskRayさん、泥沼兄弟さん、サムライ忍者GREENTEAさん、アルセノテリスさん等
ふたけっとはイベントの性格上同人誌のジャンルはオリジナルが主流なのですが
版権系同人だと人気はやはり今回も艦これ、あとはセーラームーンやプリキュアなどが人気でした
あと僕、知識だけでしか知らないジャンルなんですが、ダーティペアの新刊同人誌出してたサークルさんがいて
まあ…そう…まあ…そうねぇ…
それと、SAOのアスナにチ○ポが生えてキリトを犯すネタもそこそこ見ました
「アスナチ○ポでキリトのアナル処女喪失」!そういうのもあるのか
※ていうか、前回見た「艦これの天龍チ○ポで提督のアナル処女喪失本」とか考えても、この「ヒロイン下克上ファック」ネタって地味に手堅い需要があるのかもしれないと思った
あと目立ったのが「島風くん」ですね
マイミクさんの性質上「島風(艦隊これくしょんに出てくる人気キャラ)」はご存知だと思うんですけど
「その、島風のコスしたオリジナルの男の娘がアレされたりアレしたり的な本」
これがかなり猛威を振るってた感じです
「艦これ」の世界観とは直接関係ない、島風コスプレの男の娘本って体裁がほとんどで
局地的には「島風」って(聖剣伝説のリースみたいに)「艦これの1キャラ」を超えて
「島風というジャンルそのもの」になってきたなというマインドなのでした
また、前回から厳密に数を数えてるわけじゃないんで印象論なんですが
「玉付きふたなり」
これがふたなり界隈でだんだんシェアを増大しつつある雰囲気を感じました
(個人的には玉付きふたなりって、ストライクフリーダム的過剰記号感があって好きくないんですけど…)
この背景には、去年冬以降のエロ修正強化の流れにあって、修正基準の中で少しでもエロいアプローチを試行錯誤した結果こうなっているのかなと思います
原則的に、去年11月以降、同人界隈では「竿」に墨塗りを要求される風潮があるのですが
なので、エロ記号の一つとしてふたなりに「玉」をつける流れがここに来て加速しているという部分もあるのかなと思いました
ふたなり界隈だと女の子の身長よりでかいチ○ポとか珍しくないじゃないですか
その超巨大チ○ポに、ご時世だからしょうがないとはいえべっとり塗られる墨…
サークルの作家さんが精魂込めて描いたふたなりチ○ポに墨塗って台無しにするこの不毛さに思いを馳せると、本当に胸が張り裂けそうなほど哀しい思いに苛まれます
まぁそんな感じですね…
ふたけっとは、最近の首都圏の同人イベントの中でも会場の熱気はかなり高くなるタイプのイベントなんで
参加するのは楽しいんですけど
やっぱ新刊持っていかないと、わざわざサークルスペースまで来ていただいた皆様に対してホント申し訳ない気持ちになるんで
次回参加時にこそは、なんとか新刊持って行きたいと思います…
こう言っちゃなんだが
ゴジラ >> 年取らなくても問題なし:原則シリーズごとのリセット
ルパン三世 >> 年取らなくても問題なし:原則シリーズごとのリセット
コナンさん >> 年取らなくても問題なし:頭脳は老人!体は子供!
ドラゴンボール >> 年をとる=成長を求められる = 成長限界 = 強くなりすぎて終了
SAO >> 年をとる=成長を求められる => チーター >> 神(シスアド)の領域へ
いわゆる 主人公が人だと 肉体的にも精神的にも成長を求められるから (1度クリアした精神的トラウマを何度も与えられない) 限界が来るよね
これって
冷凍したご飯を温めて食べる人って、よくあんなので満足できるな
これのつもりで書いたんじゃないかなあと、初めて読んだときに思った。
つまり煽っておいて面白いもの教えてもらおう、という意図なのかなと。
でも誰もそういう指摘してないし、追記で書いているにも関わらずコメントでもそんなにいまの栄えてる文化薦めてない。
末法思想の奴はどんな時代でも一定数いて、大体はその考え方自体がおかしいので、そこばっかりたたかれるのはしょうがない。(たぶん2chとかでやったほうがまし)
でもあえて、自分が面白いと思っている「今」めちゃくちゃ面白いことを挙げてみようと思う。
別に共感が欲しいというわけでもなく(たとえば例の高校生はlainが面白いとか言っていたが、ほとんどの人は共感しないと断言する。でも面白い)今だってめちゃくちゃ面白いものがあると思っている人は一定数いるはずで、そういう人が表面化すれば文化が活性化する、とか大層なことを考えてるわけでもないが、ただいるんだよ! と主張したい。
文化は「物」じゃなくて「事」。個別の作品の質だけじゃなくて作品周辺のコミュニティーや作品同士のつながりだ影響力だとかなんかよくわからん空気だとか、が文化であり、物である作品は文化の一側面でしかない。
「いま創作がおもしろい」と聞いたら、「ニコ動もようつべも質の低い素人動画ばっかりだし、なろうは異世界に行くクソ話ばっかりwwww」とかみんな言うだろうけどそれは文化が「物」だと思い込んでいるから。
普通の人が創作物をすごい勢いで作りまくってそれが容易に全世界に供給されている現状は異常で非常に面白い状況だと思う。
この文化を最高に楽しむたった一つの方法は、間違いなく作る側に行くことである。
ついでに言うと、この範疇に増田を含むはてなのサービスも入る。
高校生も自分が増田に書きなぐった記事にブクマがつきまくったときには、わけのわからん高揚を感じたはずだ。
それ、ひどくなると気が狂う人もいるから気をつけよう。
俺も昔はラモーンズのライブに行きたかったなあ、もうちょっと早く生まれていれば……なんて考えていたけど、CDなどのパッケージが死につつある今こそライブである。
最近はたとえサブカルやオタクでも、家にこもってパッケージを楽しむだけでなく、実際にライブで本物を目の当たりにしてその場の空気を楽しむほうが面白いということが、露見している。
一体いつの時代にアニソン歌手がドームでライブなんてやってたか。
この夏もライブやイベントやら沢山あるので少しでも興味を持てて行けるなら行くと良い。
行ったことないが、DJイベントやらもおもしろそう。(個人的にはエレクトロニカやクラブ系のライブは盛り上げるのがうまくて非常に楽しい。あとライブにはたまに初めて名前を聞くようなバンドなのに一音、一フレーズで会場全体を盛り上げてしまうバンドがいる)
あと、ライブの空気感をそのまま作品にするという意味で、石ダテコー太郎が始めたラジオとアニメを融合させる試みが非常に興味深い。
"今やってるの"は正直そんなだし(まだどうなるかわからないけど)、将来的にどう評価されるのか一時的な流行りですぐすたれるのかわからないけど、とにかく挑戦的でどうかしているのは間違いない。
正直アニメとかも、ピンポンとかスペダンとか面白すぎて全然衰退している気がしない。今の高校生中学生はSAOなんかに夢中になっていてもおかしくないと思うし、なんか妖怪ウォッチやばいらしいと聞く。
素直な気持ちで自分の面白いと思うものを追求し続けていれば、いまの面白いものにもキャッチアップできるはずで、文化の繁栄とかどうでもよくなるので良いと思う。