はてなキーワード: 被災者とは
円環なんて人間社会では日常的に崩れてるし原発はメルトダウンするし道路は漏れた水で崩落するし
ちょっとの地震で熊本はめちゃくちゃなるわ住宅地作ったらいかんところに作って100年に1回規模の地震きただけで津波で何人も人死ぬし
お次は関東大震災が起こったら誰しもが信じられないみたいな顔して東京都民は被災者気分を満喫するご予定なんだよ
機能を分散させろって何回言っても聞かなかったからこのタイミングで恐ろしいくらいの経済打撃を頂戴するのは確定してる
試しに机の上の電卓以上の計算速度と精度を誇ってから機械を疑え
電卓が無理なら電気を一切使わない道具である定規に勝ってからイチャモンを付けろ
低スペの猿が未知の恐怖におののいてるだけって鏡見ないと気づかないのか?
東京都知事の小池百合子が、五輪ボート会場を何としてでも宮城県に変更しようとして「復興五輪」という言葉を使いまくってる。
当初言っていた「アスリート・ファースト」という言葉は鳴りを潜め、「復興五輪」に取って代わられた。
都合よく言葉を言い換えている。
「復興」という言葉を出すだけで、批判意見を批判できると思っている。
「復興」という言葉に逆らう人は、PO意識のない差別主義者と見下している。
「復興」「復興」「復興」「復興」はああああああああああああああ
極めつけは宮城県知事。
こんな↓話やこんな話↓↓もあり、小池百合子の会場変更の検討過程が「長沼ありきで不透明」と批判されると、
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49946
http://www.yomiuri.co.jp/national/20161015-OYT1T50013.html
http://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1724718.html
エヴァにハマったある年の夏、アニメ映画を見まくっていた中オススメされていた「秒速5センチメートル」は当時の自分には輝きすぎてて予告編だけで辛かったし、何より現実路線の恋愛話なんだろうと思って距離を置こうとしていた。それでも調べてみれば聖地巡礼というまだ聖地巡礼という行為がそこまで一般化していなかったあの時代にそういう事をしている人が居るという事はそれなりに面白いのとリアリティがあるのだと感じ、見た。まず出た感想が「絵が凄い」だった。それからは考察や聖地巡礼を通じて「秒速5センチメートル」は遠距離恋愛という距離と恋愛で構成されている事を理解したし、小説版で補完もした。何度見直したか覚えていない。その後、「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」と見た自分はいつの間にか新海誠作品のファンとなっていた。秒速もあってアニメ業界では有名だったけど一般人にはまだまだ有名では無かったからこの人の作品は凄いんだよと周りに言いまくった。
でも「星を追う子ども」で流れが変わったと自分は感じた。追っかけていた自分はまずあれをジブリに似た何かだと。それからは思考が停止したかのようにあの描写はジブリのアレ、これはあれ、みたいな感じで多くの描写を他の作品で出てきた物と捉えた。もちろん今でもそう言ってる人は居るし、初見であればあの光る石を見て飛行石だと感じる人も少なくないと思う。
それでも先日の配信で、2度目の「星を追う子ども」を見て自分はある事に気付いた。それは新海誠作品のテーマの1つに「生と死」がある事だ。自分が入った「秒速5センチメートル」では死というものはほとんど描かれず、生きるの辛いって言いながら生き続ける人の物語だったとも言えるので、これに気付かなかったのも仕方がない気はする。距離・恋愛という先入観から前の2作品ともこの状況下の恋愛はなぁ・・・みたいなのが無意識にあった事で、受け取る感情が制限されていたのかもしれない。ほしのこえは宇宙戦争、雲の向こうは昏睡状態(と戦争)が描かれ、星を追う子どもでは家族の生死が描かれている。だから自分にとって今まで新海誠作品というものは距離・恋愛・心理描写がテーマになっているものという意識をしていたけど、星を追う子どもを見たことで生と死というテーマもあるのだと気付かされた。また、星を追う子どもは公開が2011年とあの東日本大震災から間もない頃で正直な所、生と死なんてテーマを扱った時期が悪すぎたというか運が悪かった感じがあるのだと思う。自分にとってはあの出来事もあってそういった部分をシャットアウトしていたのかもしれない。断言しておくが被災者ではない。だから先日見た時は家族(または親友)を抱きしめたいという気持ちに一瞬駆られた。
自分にとって「星を追う子ども」はターニングポイントであると感じていたがそれは全く違くて、ただ「生と死」というテーマを強く出した新海誠作品以外の何物でもないという事になるし、その後の「言の葉の庭」も考えてみればいじめの様な生死の関わる話が入ってきたりエンディングで距離が生まれるという事は、テーマに沿っていた訳でやっぱり新海誠作品は最高だという事が分かった。このテーマは建設会社やZ会のCMにも出てきている様に自分は感じるし、どういったコンテンツであってもポリシーを貫いている監督は素晴らしいと素直に思う。
今回の新作「君の名は。」には予告編を見る限り、恋愛や距離、そして生死という新海誠が描くテーマが備わっているように見えた。自分にとって最高の作品になっている事に間違いない。だからこそ新海誠作品に描かれるテーマを今更分かった自分が、見に行って自我を保てるか不安でならない。(隙あれば自分語り 執筆時間30分)
私は被災者でも関東住民でもないからこの増田と同じようには感じられないが、あの熱線シーンは本当にすごかった。
観客を映像と音で黙らせる、あれこそまさに映画の力だと思った。
官邸内の政治家や官僚がリアルだなんだと言われているが、そんなものは枝葉末節であり私は楽しめなかった。
制作に際して行われる取材の当然の結果が映像になったに過ぎないのではないか。
「覚醒する政治家と役人」みたいな言い方があるが、どこで覚醒していた?と聞きたくなる。
矢口やスタッフの内面は満足に描かれず、主要キャストがストーリーに都合よく有能なだけという印象だった。
「みんな泊まり込んでよくやっている」みたいなセリフを安易に言わせてしまうところにもがっかりした。
ちなみに石原さとみは問題外だが、きれいだからいいんじゃないですかねくらいの感想だった。
しかしながら会議室の描写は必要であり、それはいいんだ。でも描き方が幼稚だと感じた。
あの一連の人間パートがもっとよくできていれば、私はこの映画を手放しに賞賛する。
何が言いたいかと言うと、人間が出てくるシーンがダメ。少なくとも私は不満足だった。
増田が書いていた被災した少女の笑顔も、全体の流れの中では洗練されたものではないと感じる。
なければならないシーンではないからだ。
ただ、増田の背景を考えるとあそこで感情を刺激されることはよく理解できる。
何が言いたいかと言うと、『シン・ゴジラ』は人間が出てくるシーンはダメダメ。
それ以外は素晴らしい。
b:id:misisippitan 言ってることすごいわかる。/24時間テレビより24時間テレビ批判してる人のほうが世の中にとって有害だからなぁ。 - misisippitan のコメント / はてなブックマーク
b:id:dotamania 障害のある人だけでなく、震災の被災者も支援しているからな。/私事だが、娘がジャニーズに会うために募金に行ったからそういうのもありだと思う。 - dotamania のコメント / はてなブックマーク
b:id:kusanagi_smap 私も24時間テレビは好き。津久井やまゆり園の事件の時も散々言われていたが、不寛容な社会になったって事なのかねぇ。 - kusanagi_smap のコメント / はてなブックマーク
以下追加予定
8月2日にTOHOのレイトでシン・ゴジラを観て発狂しそうになった。凄すぎて。そこからもう寝ても覚めてもゴジラのことしか考えられなくなり、気づいたらもうすぐリピートの回数が2ケタになろうとしている。もともと特撮映画大好き人間だったけど、それにしたってこの映画は別格だ。こんなに映画に熱狂することは、向こう十年はないと思う。
とにかく全編渡って大傑作だったんだけど、特に中盤の、夜の東京でゴジラが熱線を吐き全てを破壊するシーンでは本当に気が狂うかと思った。自分でも理解できない膨大な感情の波が押し寄せてきて内面をひたすら揉みくちゃにした挙句、最終的に途方もない歓喜だけが残った。もう完全に中毒になってしまって、ちょっとでも間が空けばシンゴジの熱線が見たくなって、気づけば劇場に向かってしまう。なんでこんなにこのシーンに惹かれるのか何度も観て何度も考えて、やっぱり自分の震災体験が影響しているんだと思った。それに気づいてから、熱線のシーンを見た俺の感情の詳細が大分分かるようになってきた。
ここでちょっと自分語りをさせてもらいたい。俺は宮城の実家で東日本大震災を経験した。津波での被害は一切なかったが、それでも色々と滅茶苦茶になり、10日くらい避難所生活を余儀なくされた。当日だか翌日の夜に河北新報の号外で福島のことを知ったときは本当に世界の終わりだと思ったし、いつまで経ってもインフラが復旧しないので、二度と元の生活には戻れないかと思った。震災の日から夜が本当に暗くなった。町に一切電気が灯らなくなることが、これほど恐ろしく、心細いとは思わなかった。だから、しばらくして、ようやく電気が戻って、夜の街に明かりがついたとき、本当に泣きそうになった。元の生活に戻れると実感して、堪らなく嬉しかった。あの夜の光は、俺にとってまさしく希望だったのだ。
だが、シン・ゴジラはやってくれた。夜の街を照らす光を、絶望の象徴へと塗り替えたのだ。
タバ作戦を踏みつぶしたゴジラは東京に侵入する。夜になる。ゴジラに蹂躙される東京は、当然ながら停電する。暗闇に包まれる中、ゴジラの身体の赤い光だけが街に映える(何と美しい画面!)。日本ではもう為すすべがない。アメリカが出てくる。B-2がどえらい爆弾でゴジラを傷つける。そしてゴジラは光り出す。
東京を火の海とし、数え切れぬ人間を虐殺したあの光は、何よりもまず俺にとって冒涜だった。311の際に俺が経験した、夜の光に対する感動と希望を、完全に死と破壊で塗り替えたのだ。被災した夜の街に光が戻っている。なのに、その光は日常の復帰ではなく、二度と日常が戻らないことを告げている。俺があの日感じた希望を、ゴジラは完全に踏みつぶしたのだ。そして次に出てきた感情が畏怖だ。俺の中にある希望の記憶すらも完全に蹂躙する圧倒的な厄災。本当に恐ろしく、絶対に敵わない、どうしようもない、まさに神の如き存在だと思った。今までもゴジラはさんざん破壊神だと言われてきたけれど、本当に神様だと思えたのは初代ゴジラ以来だった。そして、そこで全ての感情が一転、途方もない歓喜に変わる。そう、今自分が観ているのはゴジラなのだ。VSシリーズ以降衰退の一途を辿り、FWという怪作(駄作ではないけど、最終作には相応しくない)を最後に息絶えたはずのゴジラが、こうして、紛うことなき神として復活し、震災の実体験で得た感情すらも蹂躙し、塗り替えてくれている。そう、今自分が観ているものはあくまでゴジラ、虚構であり、こんな圧倒的な光景すらも、自分は娯楽として享受することを許されている。何という特権!! 観客という立場にいることが、こんなにも幸福であると、今の今まで知らなかった。
その後のヤシオリ作戦ももちろん良かった。震災時に揺れや津波に蹂躙されてばかりの建物や電車が、震災の象徴たるゴジラに一矢報いるのは痛快だった。そして、ゴジラ災害が終息した後の、避難所で女の子が笑うシーン。泣けて仕方無かった。
でも、やっぱり、あの熱線のシーンは別格だった。あれは本当に事件だった。とてつもなかった。っていうか、これだけ言を尽くしても、あの凄まじさを一ミリも表現で来てないと思う。書いててまた観たくなってきた。また行く。何度でも行く。この映画を何度でも観たいし、それ以上に、こんな映画をこれからもたくさん観たい。こんな映画を毎年観れるなら、生きるってことがずっと楽しくなる。そういうレベルの映画だ、シン・ゴジラは。
最後に。以上はあくまで俺個人の感想だ。間違っても被災者の総意でないことは言うまでもない。結構リアルにあの日を抉ってくるので、きつい人もいると思う。
【追記:2016/08/29】
誤字直しました。「ごめんなさい(小声)」。
この文章を匿名の場所で書くことをお許しいただきたい。我慢ならなかった。
昨今、芸能事務所に踊らされるマスコミ。不祥事に対して追っかけまわり面白がるマスコミが激しくなっている。
文春砲というものだろうか。あれもゲスいが、暴かれるその連鎖はまだ終わらないだろう。
しかしだ。
マスコミと言う名の道徳もないバカたちがのさばっているのを、こっち側の人間がいやほど理解したことも気付いたほうが良い。
中でも酷かったのは歌舞伎役者の関連だろう。
報道の自由が無いと騒ぐのは、自分が立派なマスコミになってから言え。マスゴミには用が無い。
さて、欧米をみてみよう。発言した記者やなにかを提起した記者が市民に受け入れられない場合、実際にその人本人が叩かれている。
ゴシップ関連だとイチローの英語が下手だと言った記者が、実名で叩かれていた。(その人は実名で批判したからだし、実名で確認し謝罪もしている)
日本のマスコミ記者は、局名や雑誌名だけを名乗って終わらせることが多い。しかし匿名掲示板でも無い限り、実名は目の前にある。
フジテレビの記者、大村正樹氏が犯罪者の性癖について親に質問するという、「そんなもん知るわけないだろう」案件を聞くという暴挙に出た。
この大竹氏は以前にも震災で足を失くした人に対し「切断したときどんな気持ちか」「今までスポーツをしてきたわけだが」という、まだ日が浅い被災者に対しデリカシーのかけらもない発言をしている。
この人に隠れがちだが、TBS新・情報7daysの大家幸子氏。
大家「準備に歯ブラシを入れていたのか?」高畑「知らないです」「歯ブラシはもっていかれなかったのですね?」というやりとりをしたみたいだ。
こんなのがマスコミを名乗っているのか。
この人たちはきっと、いろんな人たちにこういうことを聞きまくっている。
このままマスコミとして存在することが出来たのは、市民が記者名を特定できなかったから。または知る機会がなかったからだ。
しかし現在政治家の不正がバレまくる中、ツイッターですぐに記者が分かる時代になった。
もう馬鹿に振り回されるのはたくさんだ。
その質問が公共の電波に乗り、自分の発言が取り沙汰され、叩かれる。
時代が、価値観が、古すぎるのです。そして性格も悪すぎるんです。
マスコミはあなたたちを仲間だとして守るのでしょうか…馬鹿な人を守る利点があるのでしょうか。
マスコミが叫ぶ報道の自由。それって市民側にもマスコミの現状を嘆く自由があっていいということですよね?
もう散々です。もう飽き飽きです。くだらない記事を、適当なソースで、酷い言葉でしめくくる。
これはブコメとかに元々福島県は北関東とか言われてたとか栃木茨城が東北だとか新潟が(ryとか書いてる人多いしそんなの福島県民なので当然知っているが
この生協のやつはどうみてもそういう話じゃないと思うんだが。
だって東日本大震災があって原発問題があって、あれだけ東北東北福島福島連呼されてたのにいまだに福島県を東北じゃないと勘違いしてる人なんていなくない?
と思ったんだが九州あたりではいまだに福島県の場所も知らないような人がいっぱいいるの?
西日本のテレビとか新聞では震災の報道とかあんまりされてなかったのかね?してても見てない人多かったの?
おれは福島県民だし地理の勉強なんてしてないけど九州には何県あるとか場所とかそのくらいはわかるんだが。。
でも正直熊本の地震のニュースとか見てると、東日本の教訓が生かされなかった部分が目に付いたし他国の出来事並に他人事としてしか見れてなかった人が結構いたのかね。。
よくよく考えると福島県内でも会津・中通り・浜通りで現在でも震災関連に対する温度差のようなものを感じるのも事実なんだよなぁ。
別に被災者の苦労を知れとか理解しろとかいうつもりでもないし経験した人間にしかわからないことはあるので完全に共有できるものではないが
「スイカも待ち遠しい!食べて応援しないとね!」といいながら。
東日本のときは、”食べて応援!”ってどれだけ言われようが福島の野菜を買おうとしなかったのに。
別に誰に言われなくったって、自分でできる応援を自分で考えて人は行動するんだと思うんだよね。
それをいちいち押し付けようとするから、なんで従わなきゃならんのだってことになる。
自分から協力するのと、人から言われて協力するのとでは、天と地ほどの違いがあると思うんだ。
だから、マスコミや政府はただただ淡々と被災地の現状を伝え続ければいいと思うんだよね。
ただ漠然と安心安全だけを叫び続けて、その上で食べて応援しろ!なんて言われれば、むしろ警戒するのが人間ってものだよね。
何なんだよ日本。
一昨日見事に みなし仮設に落ちたわ。
エコノミークラス症候群になるじゃねーか。
エコノミークラス症候群になると命に関わるから車中泊をやめろと言っているくせに、どうして車中泊を続けるように強いるんだよ?
何が被災者救援だよクソ。
みなし仮設を 2100戸を認めるというけど、被災者世帯は3万世帯を越えるんだよ。2100戸と3万世帯超だよ。全然足りねーじゃねえか。残りの大多数はエコノミークラス症候群になれってことかよ。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから、みなし仮設を増やせよ。
断水していてトイレにも入れない地域の仮設住宅なんかどうでもいいから、断水していない地域の賃貸住宅に住まわせてくれよ。
1000万円の仮設住宅を建てる金があるなら、月5万円を出して賃貸住宅に住まわせてくれよ。
どうすんだよ。今は持ち家が倒壊してその日暮らしもろくにできないんだよ。車中泊だからトイレもままならないんだよ。このままじゃ車中泊のせいで腹の赤ん坊も私も死ぬことになりそうだろ。
ふざけんな日本。
みなし仮設も増やせないし現金給付もできないけど、仮設住宅のためには1戸 1000万円で総計 200億円をかけて建てるなんて無駄遣いもいいところだろボケ。
月5万円があれば命は助かるっている被災者家庭がゴマンといるんだから、取り敢えず給付金出すか借家にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにする必要さえもない。1戸 1000万円もする無駄な仮設住宅を作るのをやめるだけで何倍もの財源作れるだろ。数百億円も金が浮くだろ。無駄遣いしてんじゃねーよ。
※ 筆者は増田ですが、被災者(妊婦)は別にいます。虚構ではなくて実在です。
本人の身元などの情報は下記にあります。熊本市東区(益城町の隣)在住。
http://bit.ly/1TuljSS (後半の引用部)
http://anond.hatelabo.jp/20160421212118
ほかにも地震日記や被災者によるレポートが色々あったので、リンク集を作ってみました。
http://astrayroad.hatenablog.com/entry/2016/04/17/080502
http://toyokeizai.net/articles/-/114254
http://mcs.world.coocan.jp/kumamoto_zisin01.html
http://blogs.yahoo.co.jp/mwfpt049/14852723.html
http://ameblo.jp/mattalina/entry-12151708269.html
http://aspergersyndrome.hateblo.jp/entry/2016/04/25/201222
http://uranai.nosv.org/u.php/novel/1126moka1/
http://kotoizumi.exblog.jp/i20/
http://kyo-bento.at.webry.info/201604/article_36.html
おまけ
早かった。
ここは地震が全く届かんところ。
二人の子供が揃って鼻血を出し、夜泣きしてこれ以上はおれんと思った。
着の身着のまま帰って来た。
よかった。
でも何もできない。
こっちに来てテレビの報道を見て自分が被災者なんだと改めて思い知らされる。
それ見てもちろんショックやったけど、
でも熊本で直接見てた時よりテレビで見た時の方が数倍ショックで涙が止まらん。
助けてあげたいけど、ここじゃ何もできない。
熊本にいるママ友が子供小さいのにボランティアしてたり、芸能人が熊本で炊き出ししてるの見ると自己嫌悪になる。
自分は逃げてきた。
卑怯者。
どこからか声がする。
もちろん子供を守る大義名分があるわけやけど、時間が経ってニュースの時間も短くなっていき、ボランティアの美談が多くなってくると心のモヤモヤも成長してる。
芸能人が来てくれてよかったね!と思うのと同時にもう誰も行ってくれるな、とも思う。
誰かが行く度に声が大きくなる。
卑怯者。
卑怯者。
卑怯者!
何も考えれないならいいのに。
広島市の事例
http://hiroshima-orizuru.com/concept/
広島には世界各地より平和を願う人々が折った折り鶴が送られてきます。たくさんの人々から毎年送られてくる折り鶴は年間約10トンという膨大な量です。これまで広島市は年4回一億円をかけて焼却しています。
千羽鶴にフォーカスしているわけではないが、むやみに不用品を送るなという話
http://www.isad.or.jp/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=IB17&ac2=knowhow63&ac3=5902&Page=hpd_view
西宮市には、ゆうパック約20万個が届き、その中身としては、アルミホイールに包まれたおにぎり、みかん、ラーメン、缶詰等の食べ物、茶、天然水、ジュース等の飲料水、ノート、消しゴム、鉛筆等の文具類、肌着、セーター、防寒着等の衣類、タオル、ティッシュペーパー、生理用品等の生活必需品で、その内訳は、衣類70%であり、そのうち50%が中古であった。被災者は中古の衣料は受け取らないため、西宮市では、どうしても使用できない義援物資等を処分するのに、2,800万円の費用を投じた。
【千羽鶴】送る側の「思い」は込められているのでしょうが、私の職場(部署)だけでも、かなりの数の千羽鶴が送られて来ました。全部を飾る場所もなく、きちんと糸で止められていなかったりする物も多く、大量に送られると迷惑です。
ざっと調べただけでは、折り鶴のせいで○○円の被害が出た、みたいな事例は見当たらない。
ただ、扱いに困る「支援品(使用感のある古着や毛布が多いが、折り鶴が挙げられていることもある)」を輸送、分類、配布/処分する手間が膨大に発生している、みたいな話はたくさんヒットする。
今日、被災地支援に於いて千羽鶴が不要だという声があがっている。
被災地への千羽鶴 「いらなかった」の声続出-ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2152972
これに対してツイッター上では
「邪魔かどうかではなく気持ちを素直に受け入れられないのか。傲慢ではないか」など反感を買っているようである。
被災者の「千羽鶴はいらない」に激怒する人達-togetter
上記まとめ末尾で言われているように、お金という即物的なものを送ることへの抵抗感や
自分は被災者の為にできることをしたという充足感、その両者を得ることができる形として
千羽鶴を送るというのは古来より婉曲表現を好む日本人らしさすら感じるし、そういった考え方を否定しない。
だがその一方で、ソーシャルネットワークなどによる情報共有の簡易化の為に顕在化したのか、
それとも実質的な数値の上でなのかは定かではないが被災地支援における千羽鶴問題は存在するのである。
千羽鶴が一切いらないとは言わない、だが避難所1つに有り余るほどの千羽鶴がある光景を想像して欲しい。
例えば、あなたが不慮の事故や病気によって入院したとき、あなたの病室には家族や親戚、友人が見舞いに訪れる。
そしてその一人ひとりが全員笑顔で千羽鶴を抱えてやってきた時、あなたはどう思うだろうか。
最初はもちろん嬉しいと思うだろう。
でも2人目、3人目の見舞客も千羽鶴を持ってきたら?
人は悲しい時、泣く。
といっても、なにも考えず、涙を流して大声を上げて泣くわけではない
多くの人は、泣きながら、頭の片隅で別のことを考える。
そして行動を起こす。
俳句をたしなむ人であれば、自分の悲しみを五七五で表現しようとする。
悲しみをおぼえ、鶴を折る。
「水や食料が不足しています」という知らせを見て、
鶴を折る人がいる。水が欲しいと訴える被災者に向けて、
鶴を折る。水が、鶴に変わるのだ。
牛は水を乳に変える。
蛇は水を毒に変える。
人は水を鶴に変える。
蛇に「乳が欲しい」と水を与えても、できるのは毒である。
鶴を折る人に「水が欲しい」と訴えても、できるのは鶴である。
例えばあなたが地震や津波や台風で家を失ったとする。水も食料もない。
「水が欲しい、食料が欲しい」と訴えて、どうなるか。
千羽鶴が届くかも知れないのだ。