はてなキーワード: 権威とは
非主張的自己表現とは、自分の意見や気持ちは言わない/言いそこなう、言っても相手に伝わりにくい自己表現です。これには、曖昧な表現や、人に無視されやすい自信なげな小さな声での話し方や消極的態度も含まれます。「自分はダメだ」とか「言っても分かってもらえない」など諦めの気持ちが潜んでいたりします。
非主張的自己表現は、相手から理解されにくいことがあります。また、相手を優先し、自分を後回しにするため、結果として相手の言いなりになってしまうこともあります。相手と意見が異なるときでも自分の意見を言わないため、理解されなかったり、無視されたり、同意したと誤解されたりします。自分としては主張を抑えて譲ったつもりでも、配慮したことは伝わらず、感謝されることもないでしょう。
非主張的自己表現をした後には、「やはり分かってもらえなかった」「自分が引いて/譲ってあげたのに」「惨めだなあ」という気持ちがどこかに残ります。心から相手を配慮し、尊重して同意したり、譲ったりした場合とは違うからです。
例えば、家庭の事情があっても残業を引き受けるおとなしくかつ有能な人、セクハラやパワハラにあってもその辛さや不快な思いを伝えられない女性や部下などは、非主張的になっています。長電話を切りたいのに言い出せない人、行きたくない誘いを断れない人なども非主張的です。
このタイプの表現をする人は反論しないために、葛藤やもめ事を回避してくれる「いい人」と思われていますが、一方で「都合のよい人」ともみなされがちです。排除されることはないのと引き換えに、本人は心理的負荷を負い、メンタルヘルス被害に陥っていくことにもなりかねません。とりわけ「攻撃的自己表現」の傾向の強い人との関係では、その危険がより高くなります。
一方、自分も相手も非主張的自己表現の傾向が強い場合はどうでしょう。話が弾まず、そのため互いに分かり合えず、苛立ちを感じながら突破口もできないまま、靴の底から足を掻いているような状態になっていくでしょう。
非主張的な自己表現の傾向が強い人は、相手を立て自分が遠慮することで、相手を不愉快にさせまいと配慮しているつもりなのでしょう。
しかし、自分をないがしろにして、相手の言いなりになってしまうため、だんだん自分でも言いたいことが分からなくなっていきます。自分で決められない、あるいは言い方が分からないと言った状態になることもあります。
幼いときから命令に従うこと、譲ること、他者の言う通りにすることを当然として育てられていたりすると、自分で判断することに慣れておらず、つい相手の言いなりになり、その結果、自信がなく引っ込み思案になっている人もいます。
非主張的自己表現の人は、自分の人権を自ら侵すようなやり取りを招くこともあります。葛藤を避けようとして相手に大事な決定を任せてしまうからです。また、考えを明確にしないことで、自分にも相手にも無責任になってしまうこともあります。
長い間にわたってこのような非主張的な自己表現を続けていると、理解してもらえないという寂しさ、自分の欲求を抑えている苦しさ、相手から大切にされていないという思いや惨めな気持ち、欲求不満などが積もっていきます。相手に対して「思いやりのない人だ」「鈍感だ」と心の中で恨みを募らせることにもなります。
その蓄積した欲求不満や怒りは、相手や、時には関係のない人に向けられ、突然暴力的になったりすることもあります。そうなると「普段は大人しくて優しい〇〇さんが、突然キレた」と言われたりします。本人にとってはそろそろ出してもいいと思っていた溜まった怒りの率直な表現のつもりでも、相手には理解されにくく、「八つ当たり」と思われることにもなります。
一方で「キレる」こともなくひたすら忍耐強く自分を抑え、他者の要求に応じ続ける人もいます。揉め事を起こさず、相手をなだめ、その場を収める責任を一定に引き受けることで、自分に「頑張れ! 頑張れ!」と言い続けるのです。周囲を立てることに必死になって、過重な負荷に耐えることにエネルギーを使い果たし、心身ともに疲れ切っていきます。
その結果、頭痛・肩こり・胃痛などの体調不良に陥ったり、あるいは不快感やストレスの原因になりそうな場面や人に近づくことを避けたりするようになります。密かに孤独に耐え、感情が固まってしまい無表情になったり、突然うつ状態や心身症になることもしばしばです。いずれの場合も自分を大切にしなかった結果、相手も大切にしないということになりかねません。
非主張的自己表現は、どのような心理と繋がっているのでしょうか。
自分の思いや考えを表現することで、相手に不愉快な思いをさせ、相手から嫌われる可能性が生じたり、相手と違った意見を言うことで葛藤やもめ事が起きたりするのを避ける心理です。
そこには、穏やかな人間関係を求める心理と同様に、他者とのやり取りに自信がなく、自己を表現することで起こるマイナスの結果を恐れ、相手に合わせることで安全を確保しようとする心理も働いています。
また、前に「自分を大切にしなかった結果、相手も大切にしないことになる」と述べましたが、相手に合わせているつもりでも、実は相手に甘え、依存している心理も働いていることがあります。
世の中で当たり前とみなされている習慣や常識に従うことによって自らの尊厳や権利を無意識に否定する、という心理が働くのです。
例えば権威や経験がある大人は立てる、先輩に逆らってはならない、といった常識や習慣は、未熟だとされている者の自己表現を制約しがちです。そのような常識や習慣を破る者は、集団や社会から罰せられ、排除される可能性もあります。そこで、思っていることや気づいたことの表現を避けることで、相手や社会に順応し、認められようとする心理が働きます。
非主張的な自己表現をしていると、自分の気持ちや能力を確かめるチャンスも、自発性や個性を発揮するチャンスも失ってしまいがちです。他者に合わせるあまり、気づかぬうちに自分を否定・否認してしまうからです。
しかし、そのような人は学校や職場にとっては、どんな存在になるでしょうか。アイデアや考え方を表現することによる貢献がないので、評価もされにくいでしょう。また、所属するグループや組織にとってもその人の存在は、「宝の持ち腐れ」になっているかもしれませんし、厳しい言い方ですが、損失をもたらすものとなってしまいます。
非主張的自己表現の傾向の強い人は、一見控えめで相手を配慮して一歩引いているように見えるので、相手は「同意してくれた」「気持ちよく譲ってくれた」と受け取るかもしれません。ところが実は、「分かってもらえていない」「感謝が十分でない」などの不満や恨みを持たれているとしたら、相手はたまったものではありません。
また、常に遠慮されたり、自分の意見を引っ込められたりするのも、相手にとっては居心地が悪いものです。フランクでない対応に、居心地の悪さだけでなく、苛立ちや優越感、時には哀れみを抱くことにもなりかねません。
日本が衰退してる一番の原因は「ブラック残業の横行」なのではなかろうか。
若者が子供を作らない、車を買わない、これらの原因は、企業がブラック残業により若者の時間と金を無制限に吸い上げているからだ。もしも残業代が満額払われるようになれば、出生率は確実に回復する。
KAROUSHIという不名誉な英語が作られる事になったのも、残業代を払わなくてもいいことに甘えた経営者たちの杜撰な業務管理が全ての原因である。ブラック残業は、殺人とニアリーイコールなのである。万引きが窃盗罪(懲役10年以下)であるようにだ。
国会のフワフワとした答弁も、官僚がブラック残業を繰り返すことによって支えられている。もしも残業代が満額払われるようになれば、ダラダラと話を捏ねくり回すような資料を作る時間はなくなるはずだ。
今の日本は誤魔化しようもなく修正資本主義国家であり、その基盤は経済である。その経済が不健全な形で行われるということは、共同体全体の運営が丸ごと不健全な状態となっていることに他ならない。
まずは、まずはブラック残業から無くしていこう。そこから日本の全てが始まるのではないだろうか。
だが、今の日本が日本だけでそれを行うのは無理だ。この国は本当にだらしのない国で、叱られなければ部屋の掃除もできない子供のような国だ。そこで必要となるのが、日本を叱ってくれる大人に当たる存在だ。
そうして設立されたのがIZMO( International Zangyodai Mangakuyokose Organization)通称イズモなのでである。(CV:若本規夫)
インターネット考古学の権威であるハ・テナー博士によると、ドラゴンを連想させるドラの次にガリという単語が入っていることからこのガリが「とあるネットゲームでクソ雑魚ナメクジ扱いされていた頃の竜騎士」を意味するのは明白であるとのこと。
同士は更に、その次に続くア・ロストはa lostであり、前半の内容から推察するに「パーティーの連中は普通に戦っているのに1人で戦死していく竜騎士の滑稽なサマ」を意味していると語る。
実際、数多くのインターネット古代遺跡の中でこれとよく似た現象が記述されており、当時の人々はそれを「床ペロ」と呼んでいた事がインターネット考古学では知られている。
「何故、任天堂とCygamesの組み合わせでこの単語が・・・スクエニならば話は早いのじゃが・・・」
CMの跡で
ハマる→一般的に使われる特定の事柄に夢中になるという意味ではなく、自分のネタが有力者にウケるの意
一般の方→芸能人にあらざる者。芸能事務所に所属しているかが境界線?
素人さん→芸人ではないので芸人特有のノリをセーブして接触しなければならない人(類:一般の方)
ケータリング→控えスペースに置いてる自由に食べていいお菓子がいっぱい置いてるやつ
オイシイ→一見不利な状況だが、画面にいっぱい映れるので実は有利なのだの意
ワイプ→VTR中画面の隅に表示される、スタジオにいる芸能人たちの表情を抜く四角形
抜く→カメラで撮る
いじり→失敗や欠点などをわざと話題に上げ面白おかしく話すこと、またウケると思われるタイミングでいじられ役に意図的に暴力を振るうこと
愛のあるいじり→被いじり者の了解を得ているのでこれは暴力ではないの意
台本→バラエティ番組などで進行に必要なセリフや情報が記された冊子。構成作家などが書く?
巻きで→早くしろの意
事務所→芸人が勤める会社みたいなもの。発音は「死ぬ」の「ジム」に「ショ糖」の「ショ」
街ブラ→人が多い場所を歩いて食べ物をただでもらって食べたりするロケ
営業→テレビカメラの入らない地方の会場で漫才やコントを披露すること
ツカミ→漫才で初めにお客さんが笑う部分
前説→テレビ収録などの本番前に観客の前でネタをし観覧客のボルテージを上げる芸人、またその行為。多くの場合新人がやる
JeSUの擁護に関する話が、権威付けばかりでコミュニティへの影響を全く考慮してなかったのが筋違いだって話な
ユーザーレベルでコミュニティ醸成して遊んでた所に、興行師が我が物顔で踏み込んできた挙句に勝手なルールで取り仕切り始め、御大層にスポーツに祭り上げて商売にしようとしやがる。
蓋開けてみたら案の定、碌でもない勝手都合のルールだっただろうに。
だいたいヒゲが信用できない筆頭。先行利権握って権威をひけらかして何でも牛耳ろうとする業界の癌。このまま発行部数と共に消えて欲しい。
トッププレイヤーではありませんが、プロも夢ではない水準のプレイヤーだと自負しています。
プレイヤー側の意見として、プレイヤーの代弁の形で偏った意見を書いていたのがどうしても気になるので反論します。
出来るだけ客観的な意見を意識してますが、これも偏っていたらすいません。
賞金を出せばプレイヤーが集まる事は全世界で証明されているし、格ゲーマーは「対戦相手がいなくなる事」が怖いので
賞金目当てであってもプレイヤーが増える事を歓迎するプレイヤーはかなりいます。
また、専業プロは今も増えてますし、プロを目指すプレイヤーはほぼ全員が賞金を望んでいるでしょう。
「食っていくのは無理」と仰いますが実際スト5は専業プロは複数いますよ。
これは権威を叩きたい人や、ファミ通の悪評で叩きたい人も勿論混ざっていると思いますが
それだけではなく基本的には「ゲームと金」という座談会での稚拙としか言いようの無い対応にガッカリした人が多いです。
「様々な質問をはぐらかす」「対立する意見を述べている相手に威圧的な態度で対応する」「(木曽崇に対して)公式に質問してもらえれば答えると言ったのに今も逃げている」
また消費者庁に意見を聞いてライセンス制度を作ったと繰り返し述べていますが、消費者庁から異なる見解が出た現在も
それに対してなんらコメントをしていません。
・「これ一本で食い扶持稼ぎたい人」に会った事があるか
"これ"っていうのは賞金だけじゃないですよ。"これ"が指すのは"ゲーム"です。
今のセミプロの大半がそうですし、ゲーマー専門学校の生徒だってそうじゃないですか?
というか賞金だけで稼げないのだって現状の話ですよね?
スポーツやポーカー、囲碁将棋チェス、みたいに賞金だけで稼ぐプロになりたいって話がそんなにおかしいですか?
相撲協会とそれを支持する側の人達に取っては相撲=神事であり、それを理由に女性の土俵への立ち入りを禁じてきた
土俵は日本に数多ある女人禁制の神域に準じた扱いが必要、と考えていると解釈していいだろう
土俵に女性が立ち入ればその有難味が失われると『信じている』訳だ
これを女性差別であるという批判だけで変えるのは、難しいと思う
こういう相手にただ理屈を説いても「理屈じゃないんだ」という返事が返ってくるだけだ
つまり「土俵に女性が立ってもOK、祟ったり、罰を当てたりもしませんよ」という神様の言質を取ったという体裁が必要だと思う
相撲の土俵がどの神様の管轄になるのかは分からないが、一応神事を自称する以上はそういう神様がいるのだろう
その神様を祀っている神社にお願いして「土俵の女人禁制は解除しておk」という神託を得る儀式を整える
そしてその神託を受ける形で相撲協会が土俵の女人禁制をやめるという流れだ
御神木を切る際に、なんやかんやと儀式をやるのと似たようなものだ
女性を土俵に上げても、その有難味は失われないという宗教的な権威による裏付けが得られるのであれば、
おそらく相撲協会もその支持層も、少なくとも表立って女人禁制に反対するのは難しくなると思う
何かに強硬に反対する人に対する場合は、その人自身よりもその人が反対する理由に対してアプローチすべきだ
長々と書いてはみたが、個人的には土俵の女人禁制を廃する必要がそれほどあるとは思えない
どの様な方法を取るにしても、お金と労力と時間を浪費する事になるだろう
しかし、ああいったケースへ対応する事に、女人禁制を廃する必要は必ずしも無いと思う
男性の医師や救命士を協会が専属で雇って土俵際に配置し、力士も含めた関係者にも対応訓練を行う事で急病者への対応は改善できるはずだ
力士の怪我の頻度も考えれば、大相撲の医療体制はもっとテコ入れが必要で、それは土俵の女人禁制を廃することよりも優先度が高いと思う
表彰の件にしても、表彰する人間が男性でも女性でも土俵以外で行う様にすれば良いだけのことではないだろうか
力士が相撲を取る事以外の事を、土俵の上でやらない方が土俵の宗教的権威はむしろ高まる様な気もする
相撲協会には女人禁制を廃するといった宗教的、象徴的な部分よりも、まずは組織改革や医療体制といった現実的な問題への対処を頑張って欲しいと個人的には思っている
JFAのスポンサー広告代理店と組んで日本代表の背番号や時には選手起用を決めてるみたいな話、
初めてじゃなくてトルシエの時も出てたよね。
陰謀論だと言い切れないのは、スポーツビジネスのメソッドとして合理的だからなんだよね。
青少年健全育成も目的だから、刺青が入ってる選手は日本代表に選ばれないとか。森本や寿人はそれで呼ばれなかったって話もあったじゃん。
最近はヘーレンフェーンの小林が呼ばれるようになったからそうでもないのかな?
代表っていう権威もビジネス的においしいんだろうけど、Jリーグの理念にあるような
地域活性化って面からも札幌長崎新潟仙台柏あたりはビジネスとして成功しかけてるんじゃないかと思う。
帰ってきた。すごく嬉しい。
2002年の話。
ワールドカップが日本であって、地元の会場で日本代表の試合があった。
会場の外にいたから試合は見てないんだけど、入場してくる有名人を見てウキウキしたり、お客さんの歓声や悲鳴を聞いてた。
試合が終わるころ、先輩が「もう一生見れないんだぞ」的なことを言ってくれて、ホントはダメだけど試合を覗かせてもらった。
おお、中田浩二ってロングパスうまいんだなとか思ってたら、敗戦のホイッスルが鳴って、持ち場に戻った。
日当10000くらい?もっと少なかったかも。これがサッカーとの出会い。
同じころ、友人関係でいろいろあって、自己嫌悪と罪悪感に押しつぶされながら将来への不安がはっきりと見えてきてた。
1年か2年くらいヒキニート的な生活をしたり、社会にご迷惑をお掛けする形ではありながらも、
バイトやなんかでそれなりに社会復帰を果たした。社員になろうかとも思った。
それでも大人になり切れなかったので、モラトリアムとかいう知ったばっかりの概念を求めて海外へ飛んだ。
周りにはかっこいいこと嘯いても、逃げだというのは周知の事実だったと思う。歳も歳だし。
あっちに行ったら行ったでちっちゃい日本人コミュニティの中で自己顕示欲をまき散らしてて、
将来がぽっかりなんにもないことをひた隠すように、社会の細々したことを権威を持ち出して知った風なこと言って過ごした。
たくさんのかっこいい人に出会った。その中でも、一人、仏像のような人に出会った。
言葉に惚れて、逸話に惚れて、仕事ぶりに惚れた。親や先生や学校やバイトでは教わらなかった行動規範を見つけたような気がした。
地元を離れての初めての一人暮らし。と言ってもルームメイトは常にいたけど。友達はすぐにできるけど、
それでも心細さはあった。お酒とセックスに逃げた。あと、地元のとあるプロスポーツチームにはまった。
地元にいる間は、できてすぐ名前が変わったり、区が違ったり、やってたスポーツも違うから親近感もそれほどなかった。
それが、貪るように情報をあさるようになった。
海外からネットで地元のスポーツニュースやハイライトを見た。2ちゃんのスレに入り浸った。
時間が合えばストリーミングで試合を見た。チームの一人一人の顔やプレイぶりや練習風景が分かるようになると、
愛着がわくようになった。スタに足を運べるサポに比べたら、頭でっかちのふぁん(藁)だというのは理解してるんだけど、
それでも自分にとっては心細さを埋めてくれる存在になっていた。
チームの監督がコロコロ変わって、ブラジル人頼みのクソサッカー笑のあと日本人監督になった。
将来ある若手が移籍していく中、生え抜きの選手や元日本代表のベテランが活躍して、昇格争いをするようになった。
生え抜きの中に、やんちゃなやつがいた。スーパーサブ的に使われた後、チームの軸になった。
高校時代のクズエピソードのデマも、ああこいつならやりそうって思えるところが、なんとなく自分に重なって、
いろいろあって心機一転帰国する年に、チームは一部への昇格を決めた。
チームの挑戦と自分の挑戦が重なって、涙が出るほどうれしかったし、心強かった。
1シーズン目、ワールドカップイヤー。うちの10番が代表に選ばれた。試合には出なかったけど。
ワールドカップのあと、新生日本代表にあいつが選ばれて、試合に出た。出ただけだったが。
新社会人1年目の終わり、1部での2シーズン目が始まったころ、震災が起こった。
地元ではみんながあんな思いをしているのに、自分には募金することしかできない。
地元のニュースでは、チームの選手たちが自身が被災しながらもボランティア活動をしていることを伝えていた。
あのやんちゃなあいつも、いろいろとやっていたようで、心の底からうれしかった。
自分にできないことを、やってくれている。それも自分にはできないくらい大きな影響力で、
たくさんの人の支えになってくれていた。おこがましいけど、誇りに思った。
時間が流れ、なんとかシーズンが再開して、チームは好成績を残した。震災の笛wとか書かれても気にならなかった。
次のシーズンはずっと首位を走り、終盤まで優勝争いをした。その年の終わり、あいつは移籍していった。
さみしさと呆れと、ステップアップだったからうれしさもあった。
その後、チームは何とか残留し続け数年が経った。
自分にとってのチームは、2部時代は海外の、1部での躍進期は歯がゆさの、外部記憶装置みたいなもんだ。
特に2部時代の選手たちは、当時の心細さと相関して愛着が強い。妻と出会ったのもそのころだった。
当時のチームの中心にいたのが、あいつだ。
あいつは初めての移籍の後、さらに移籍したり2部でプレーしたりしつつ、昨年末で戦力外になっていた。
それが、今日、うちに帰ってくることが決まった。
海外に逃げていた自分を励ましてくれた、震災後の地元を支えてくれた、あいつが帰ってきた。
うちのバンディエラと笑顔で映ったツイッターの写真を見て、涙がこらえきれなかった。