アマゾンの奥地の南方の端にある「ポスカネリプカ」って部族は、成人としての儀式に「顔の型をとって掲示する」ってのがあるらしい。
泥で顔の形をとって、焼く。そして部族が住んでいる中心にある大樹にそれを置く。立ち上がる煙が空に届くことにより神に認識され、顔が大樹に置かれる事により
同じ部族に対して成人だぞ、って事を示すんだ。
顔の形をとるのは大体12-16歳で、その儀式をすると天の神に自分を認識され、周りにも認識されたって事で、結婚やセクロス、戦いに行くことが可能になる、というかほぼ強制になる。
でも顔の形をとるのは任意で、取らなければ戦いに行かなくても良いし、求婚もされない代わりに恋愛をしちゃいけないし、自分の住居を自分で選んだりすることも出来ない。
そういう「責任と自由は共に与えられる」部分に現代文化との共通点を見つけたのがケイケイ=オンっていうアマゾン出身の社会人文学者で
フェイスブックやツイッター、タンブラーで自分の顔を出すことはある意味現代人の成人的儀式行為で、ポスカネリプカのやっている事と同じって事を説明したのが
結構話題になった。ネットという人類の意識の集合体=神に対して顔を晒す、そして同じコミュニティに顔を晒すことで、責任と自由を得ているのだと。
人に喜ばれたり褒められたりする行動・言動よりも、悪いことの方が発明しやすい。 また、顔出しに抵抗があった世代からすると、「顔出ししている=広告塔として有名税を払う意思が...
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