はてなキーワード: 性愛とは
この世界で神様を信じないで生きる方法がないか模索していた。ワイは、不条理を受け入れられるほど、マッチョでもないし、自殺をするほどの勇気もない。いまのところのワイの解決策は、神様を盲信することしかできない。
自殺:まずシンプルな1つの方法として人生を終わらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法が非現実的であるとして退けている。
盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じること。しかしそれをするには理性を失くす必要がある(すなわち盲信)、とキルケゴールは言っている。カミュはこれを哲学的自殺として考えている。
不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる。カミュはこの方法を推奨しているが、キルケゴールはこれを「悪魔に取り付かれた狂気」として、自殺を引き起こす可能性を論じて批判している[1]。
別に神様なんか盲信しなくても、生きていける。それは例えば順調に心理的に成長した場合だ。発達課題を克服し、欲求を順調に満たせた場合には、別に神様なんか必要なくなる。
しかし、それがどうしてもできないワイのような人間が出てくる。なぜなら、人はどうしても理屈ではわかってはいても、他人のとの比較の中で、自分の幸せを定義してしまうから。もちろんこの実験では 2 の世界だと 1 ドルの価値が低いから選んだんだろ。というツッコミもありますが..
次のどちらの世界に住みたいか、ハーバード大学の学生と職員に質問を行いました(Is mor always better? A Suvey on Positional Concerns,Jounal of Economic Behavior and Organization)
1. 自分は収入が5万ドルで他のすべての人は収入が2万5000ドルの世界
2. 自分は収入が10万ドルで他のすべての人は収入が20万ドルの世界
結果は、56%の学生が1を選びました。
だから、幸せになる人たちがいる反面、不幸になる人たちがいる。他者よりも優れていたいという、本来の生物的な欲求も満たすことは、まずできない。社会的な欲求を満たすには、人の役に立ったりするには、必ずしも優れている必要性はない。でも、他者よりも優れていないと、そういった機会は、どうしても少なくなる。
アイアムヒーローの世界には、発達課題を克服することができず、欲求を満たせない人たちに焦点が当たっている。クルスをはじめ、みんななぜこの世に生を受けたのかということ自体に疑問を抱いている人たちだ。彼らは神なった。でも、英雄は神にはならなかった。
終わり方がひどいって書いてあるけど、奇跡を起すこともできたんだと思う。誰かを生き返らせたり、あるいは敵役を殺したりして。でも、奇跡を描かないで、丁寧に現実の世界で生きている英雄を写して、徐々にワイら読み手の世界と近づけようとしている感じがした。
物語の最後の局面で誰もいない、比較されることのない世界で一人になった。なんだか急に現実に引き戻されたような気もするし、そうでないような気もする。生きることを選んだという意味において、現実の世界でクルスのように生きているワイのような読者にとって、英雄は hero なのかもしれない。
でも、決してなけなしで放り出したわけではない。ヒロイン2人から愛されたという記憶はでかいよな... それが読後感を与えている。ヒロインが登場しないでもそういった話は描けるのだろうか.. 難しいだろうなぁ。
童貞がセックス「だけ」出来ても満たされないのは当然で、AVオナホ風俗が氾濫する社会で性愛に苦悩する男が求めているのは「異性の承認」であって膣ではない
童貞を苦しめているのは性交体験の欠如ではなく、雄の自尊を構成する「自らが女に求められand/or受け入れられた」という成功体験の欠如なのだ— 脱税レイヤー風呂屋さん (@557dg4) March 27, 2018
ドストエフスキーの罪と罰でも、ソーニャがいて、ラスコーリニコフは普通になった。結局は可愛い女の子との記憶がないと楽しくないなんて、なんだか寂しい気もする...。
そういった成功体験、物語、あるいは神様と、そしてその成功体験、物語、神様を確実なものにするために、社会生活からの隔絶されて初めて、英雄は生きているのかもしれない。また、奇跡が起こって元の人のいる社会になったら、そういう辛い世界に戻ってしまう。
結局、我々は物語という神様から逃れられないのではないだろうか。でも、ある意味、生物学的に優れている人も、そういう自分は優れているという物語の中に生きているのかもしれない。その物語も、所詮は相対的なものでしかない。絶対的な基準ではない。
神様なんかいないんだ、という姿勢は、結局、俺はすごいんだぞ、という自分の物語、世界を押し付けているだけで、どこか、酷い気もする。
人間は(信じたいと)望むことを信じる。
Homines id quod volunt credunt.
逃げられないというより、作るしかないのかもしれない。自分が、いま生きている世界を。ある種の不条理、社会的な不条理は、物語を作ることによって、乗り越えることができるのだろうか。それは自分ができる範囲でということか。
クルスくらい追い詰められた人間にも希望を与えるというのは、正直かなり厳しい気がする。クルスは神様になるしかない。普通の人間ならできるだろうか。もう少し文章をまとめたい。
そうなのね。
身近な、両親みたいな家庭を築きたいと言ってる子は結婚とか早かった気がするよ。
ときめきとか、あこがれとか、
身近にあると、なんとなく幸せのヴィジョンがあるかなって思ったのです。
(性愛はなにも私が言わなくても本能で判っておられるでしょうし今さらですので省きます)
豪邸とかじゃなくてね、古民家でもいいわけ、天井が高い、は注文建築だよって言ってるわけではないのです。お金かけたいわけじゃないのです。
快適と思える環境をつくれると、幸せとか、満足とか思うことが増えないかなぁ。
独り暮らしの小さいマンションの1Kでも、友達はくつろぐっていってよく遊びに来てくれました。
女性が女性目線で部屋を作ってたから、同性受けは良かったのかもです。
もちろん、どんな環境でくつろげるかは人それぞれです。
長くなってすみません。
名前だって如何にも女の子らしいものだ(男性にもわたしと同じ名前の人はいるかも知れないが、何年もずっと人気な名前ランキングなるものに自分と同じ名前が入っているくらいだし、世間的にはこれは「女の子らしい」名前なのだと思う)。
女性として生きているからには、多くの人が男性に恋をするのだろう。
もちろん恋愛対象が同性であったり、異性も同性もどちらもであったりする人も少なくはないだろう。
そう長いものではないこの人生の中でも、わたしには男性の恋人が居たことがある。
告白したり付き合ったりにはならないまでも、同級の男子に恐らく恋と思われる気持ちを抱いたこともある。
そして、ただとても仲が良い友達であるだけのはずの女の子に彼氏が出来て、ひどくショックを受けたこともある。
おかしな話だ。
仲の良い友人に、彼氏が出来た。
それは、わたしにとってその彼氏が余程憎い人間であるだとか、彼女本人がそれを辛いことだと思っているのが見て取れるだとか、そういった特殊な場合以外は、祝えて当然とも言える出来事なのではないだろうか。
「今まで通りには遊べなくなるかなぁ」と少し寂しく感じることはあっても、何故だか少しもめでたい事だと思えなくて涙が出そうになるなんてことがあるのだろうか。
わたしは友人の彼氏の事を憎いと感じたことは無かったし、彼氏が出来たんだ、とわたしに報告してくる彼女は本当に嬉しそうだったし、なんであんなにもショックを受けたのか、全く分からなかった。
わたしはもしかして、彼女に恋をしていたのだろうか。あの涙が出そうなくらいの大きなショックは、失恋だったのだろうか。
人に対してどんな想いを抱いたら、それを「恋」と呼べるのだろうか。
一緒に話していて楽しいな、と思った。
くじ引きで行われた席替えで隣の席になったことが、ひどく嬉しかった。
わたしがこれは「恋」なんだろうなと思ってきた気持ちはそんなものばかりだった。
「恋」には付き物であろうそういう気持ちは、一度も抱いたことがないことに気が付いた。
では、わたしが今まで「恋」だと思ってきた気持ちはなんだったのだろう。
友人に彼氏が出来た時に感じたあの絶望感は、なんだったのだろう。
わたしは今までの人生で、「恋」をしたことがないのではないか。
そう思った瞬間、ひどく恐ろしく思った。
わたしがこれまで「恋」だと思ってきた気持ちが、本当に「恋」だったとしたら。
わたしはきっと恋愛対象が同性だけでも異性だけでもない、両性愛者、バイセクシュアルとされる存在なのだろう。
それならそれで、まあ、いい。
わたしがこれまで「恋」だと思ってきた気持ちが、本当は「恋」ではなかったとしたら。
こんな文章を長々と書くにあたって、何も調べなかったわけではない。
「恋」がわからないのが、まだ「恋」をしたことがないからなのか、そもそもわたしに「恋」という感情が備わっていないからなのか、全然わからない!
そうだとしたら、わたしはいつになったら「恋」が出来るのだろう。
恋がしたいわけではないけど、この気持ちへの答えは欲しい。
わたしは一体なんなんだろう。
ただ、私がモテの条件としてわかりやすさを提示したのは、それこそ、感情が言語的表現に向いてないからなんだ。
私たちが私たちの感情を表現するのは、他者にしめすためだけでなく、自分自身を納得させるためでもあるわけで、そうなれば、わかりやすさというのは、愛の表現のしやすさ、あるいは納得のしやすさというのにもつながる。
だから、ルッキズムや、差別による愛の肯定と否定というものがあると私は考えていて、そういったものを無視して恋愛できるというのも実のところ、自由だの輝いているだの、あるいは夢があるだのというわかりやすさに依存しているのではないかと思っている。もちろん、これが後付けならなんら問題ないのだ。しかし、いざ恋愛やジェンダーを語るというタイミングでは、これを前倒しにして語らなければならない。そうすると、清潔感だったり誠実さだったりの便利ワードに頼らざるを得ない。
非モテへの助言が、常に的を得ないのはこのせいだし、さらには便利ワードを使い一辺倒に言語化することで、自身の感情さえも捻じ曲げてしまう危険性がある。もっといってしまえば、非モテへの助言が疲れるのはこのせいで、いったん納得した愛を再定義しなければいけないからだ。
でも、しかし、だとすれば余計に私たちは、これを言語化していくべきなのだが、どうも愛はずいぶんと歪んでしまったようで、非モテに愛が体現されるようになるまで、愛をたたき直すのは時間がかかる。しかし、誠実さはどうだろうか。清潔感はルッキズムに根差したもので、外見によって愛を得られない人々にとっては厳しい現実を見せるだけだが、誠実さは違う。
たとえ精神病であっても、単に性格が悪いのだとしても、誠実さを示すことはできる。誠実さは実に便利な言葉で、他人を思い行動するというただそれだけで、誠実と表現できる。疑念があり信用を得なければならないとはしたものの、誠実そのものは実はかなりシンプルであり、ツーカーで行える、分かりやすい概念だからだ。
私は、競争社会から脱して共生社会へと向かおうとする流れを信じたいし、それが私的領域にあっても評価される、性愛の対象になるという言葉をとても信じたい。それが男尊女卑やあるいは経済格差によるルサンチマンによるものだとしても応援したい。
だからこそ、例えばジェンダーを語る際に提示される誠実さというものについて語っていき、その実態が何かを考えていくべきだと思っている。内省という言葉を使ったのは私の政治的な意味があるのだ。私は、「誠実さによる性愛を信じているし、そう語ったあなたはモテるに足りうる誠実さを示すことができますよね」「そして、それが誠実さでない場合に、あなたのルサンチマンによって、モテる定義をやっぱり外見であったり、金であったりというのに引き戻すことなく、私の言う誠実が違ったのだ、と内省できますよね」という脅しである。
実際のところ、私は一般的な意味合いで誠実であるよう心がけているが、同時にとんでもない卑怯者だ。レトリック死刑令ができたのなら私はすぐに市中引き回しだ。だけれども、繰り返しになるが、誠実さによる性愛も誠実さ自身も信じている。苦しい。混乱している。
だから、利己的な言い方をすれば、人類でもなく、男性でもなく、非モテでもなく、ただただ私を救うためだけに、モテる誠実さの解像度を上げてほしい。像が見えた瞬間、私は嗤うかもしれない、あるいは信じた私を喜ぶのかもしれない。少なくとも今、目の前にある靄は晴れていくだろうから、私は少し前に進めるし、少し先のことも見えてくるはずなのだ。卑怯にも、あの手この手で、私利私欲を満たそうとする私を許してほしい。これを読んでいる人の気を楽にさせる為に言うが、私はモテない。こんな人間がモテるはずがない。それどころか、私の本性を見抜いたと報告してくるような変わり者は少ししかいない。友人が少ないということである。当然恋人がいた期間もほとんどない。その恋人だって、私の論を証明するのと、私の“性的趣向”を実証してやるためにやった実験であって、実験は成功したが、そのような誠実さに欠けた遊びの後始末は悲惨だった。ご想像にお任せする。
それでも私は誠実さを信じたいし、私のような人間でなくても、多くの人が誠実さを信じたいのだと信じている。みじめだが、実際そうなんだ。
両足の間に足がもう一本生えた醜い獣。男女お構いなしの性欲の塊。
この大元の増田に貼ってあったリンクに鏡のたとえ話が出てくる。自分が何の属性を負っているか、というのが鏡に見えるのだそうだ。女性であれば女性、黒人女性であれば黒人女性。男性には一人の人にしか見えないそうだ。私には鬼が見える。やせこけた鬼がそこにいる。人に良くすればよくなると、信じ込んでいる惨めな異形がそこにいる。
私は私の思う誠実さを示してくれたあなたに告白する。そんなこと重いよと思うかもしれない、自己憐憫に浸るなというかもしれない。けれど、私の誠実さというのはこれなのだ。この短時間のうちについたくだらない嘘を明かし、惨めな姿をさらし、伝わりにくい方法で真実を要求する。それが今のところの(歪んでいるのは承知の上だが)、私の誠実さなんだ。
https://twitter.com/c_ssk/status/970995446662377473
"「ショイプ・オブ・ウォーター」を見たアセクシャルの友達が「(恋愛映画なのに)理解できたの?」って言われた話が本当につらくて、今これを書くだけでちょっと泣きそうなんだけど、こういうことを問われるのは常にマイノリティだけなんだよね。お前だって半魚人と付き合ったことないだろ!!"
https://twitter.com/c_ssk/status/970995641299042305
"シスヘテロ恋愛ものを見て感動した非シスヘテロは「わかるの?」と問われたり、「わかんないでしょ」と決めつけられることさえあるのに、シスヘテロの観客がLGBTの話に感動したら「これはLGBTの映画じゃない」とか言い出す。いい加減にしろよ。物語を剥奪するな。"
チキささの「アセクシャルの友達」が文字通り「理解できたの?」と言われたのかどうかは不明だが、そのアセクシャルの友達と「理解できたの?」発言の人とは一定の信頼関係があったことは予想できるし(日ごろからアセクシャルであることを誰彼構わず触れ回ってるなら別だが)、真相は「デル・トロといえども恋愛至上主義からは自由ではないんだねぇ」「アセクシャルならこの残念さよくわかるよね」という発言にアセクシャル側が同意を求められ、たまたまデル・トロ好きだったから(日頃の主張も忘れ)不快になった、という程度の話なのではないか。
そもそも、ある物語が住む地域も人種も宗教も違う人々をも感動させるのはそこになんらかの普遍的な要素があるからで、「内観」という、人間が情動を理解する唯一の手段を働かせるという意味での共感性があるからである。かつての権威づけされた芸術作品には貧困層などは排除されており、その作者やその作品の同時代人たちが考える「人間の基本的な条件」が現在よりよほど狭く設定されていたことが普遍の描き方に反映してしまっていた。しかし、現代では大衆化されさまざまなマイノリティ性を含んでもなお、そこに普遍を描くことができ、物語製作は豊かなになってきている。
つまり、「人間なら異性に惚れるのは当たり前だよね」と条件づけられていた「普遍」は、現代の人々が同性愛者の存在を広く認知し尊重するようになったことにより「同性に惚れるのだって人間だよ」というように拡張してきているのである。
ここで「物語からマイノリティを排除するな」という訴えは要するに、「普遍」を描く際の人間の条件からマイノリティを排除するなということであり、「現代社会はアセクシャルを排除している」という訴えは、ほとんど全ての創作物が謳いあげる「普遍」に性愛要素が含まれることを撃っているのである。その意義は大きい。「行け!稲中卓球部」で誤解から卓球の選抜チームに入った前野が、実際には卓球の実力も熱意もないため、卓球の話ばかりする選抜チームの中で退屈さと疎外感から唐突に「サメの話しようぜ」と言い出す滑稽な場面があるが、アセクシャルにとっては行く先どこもに恋愛の選抜チームが結成されている状況であり逃げ場がなく、前野とは違うのである。
ここで「シェイプ・オブ・ウォーター」に戻ると、そもそも恋愛映画であるが登場するのは半魚人である。繰り返すが、人間には情動を理解する手がかりが自分自身にしかないため、動物だけが登場する作品においてさえ、動物は人間が化けたように子の死を嘆き、群れからはぐれれば孤独を感じるように描写される。これは「動物性の剥奪だ」と非難する事すらできるだろう。動物のことはわからないのだから勝手に当てはめるなとも言えるだろう。2008年のディズニー映画「WALL-E」は、荒廃した惑星でただ一体動くロボットが主人公だが、その主人公は物語中で「女性の」ロボットと出会い、彼女との性愛関係を志向するようになる。遠い未来のロボットであってもヘテロセクシャルなのか! と当時ディズニーの物語製作には大いに落胆させられたものである。
「シェイプ・オブ・ウォーター」も物語構造の核としてシスヘテロ恋愛でしかなくこの種の批判は免れない。アセクシャルの友人が批判的コメントを求められることはありそうなことだ。
チキささは「お前だって半魚人と付き合ったことないだろ!!」と言うが、半魚人と付き合ったことなくても、自身のシスヘテ恋愛経験を拡張して半魚人と付き合うことまで理解してしまえるのが「普遍」だし、そこに同時にアセクシャルを排除したシスヘテ至上主義の傲慢もあるのである。
たまたまチキささとそのアセクシャルの友人がデル・トロ贔屓なのかもしれないが(おそらく「パシフィック・リム」においてベケットとマコが最後にキスしなかったことを評価しているクチだろう)、「シェイプ・オブ・ウォーター」は批判するべき作品である。
そもそも「アセクシャルならヘテロ作品わからないでしょ?」なんていう見解は圧倒的少数であり、アセクシャルが戦い、苦悩しているのは「やっぱりヘテロ恋愛には感動しちゃうよね。人を好きになること、これは人類不変の原理なんだよ」というような理路である。実際にそんなリプがついている。こんな藁人形叩きに近いツイートが大きな共感を得ているのは、シスヘテ至上主義の側がこのツイートに「救われている」からである。チキささは無能なアライであることを自覚するべきだ。
オタクは、自分たちの好きなマンガが幼児性愛であること、女性蔑視のコンテンツであることを認めたら、表現規制しろと言われるんじゃないかと恐れている。
なので、議論ではそのような土俵にあがることを避けて、ひたすら「表現の自由」を言い立てる作戦に出るしかない。
彼ら・彼女らは、女性専用車両が男性を排除していることを差別だと認めたら、ただちに女性専用車両の廃止につながると恐れている。
そのため、さまざまな理屈をひねりだし、何が何でも差別だとは認めないのである。
どちらも共産党のような無謬性を志向しているのであり、自分には一点の非もないと言い張る潔癖な人たちだ。
まあ悲しいことに、世の中には「相手に非があれば叩いてよい」という風潮がある。実際にもし一歩でも譲ってしまうと、敵の陣営が増長して、そこから百歩の後退を余儀なくされる場合もある。
潔癖症を患っている人たちは、このような社会の被害者なのだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20180225105423
追記
「マンガに描かれているのは架空のキャラクターであり、実在の児童、実在の女性が被害を受けているわけではない」という論理にオタクが固執するのは、そのマンガの表現内容が小児性愛かどうか、女性蔑視かどうかという土俵で勝負することを回避するためである。
現代社会では「差別である」という評価を受けたらバッシングされるし、是正を求められる。それと同様、マンガの表現が一旦「小児性愛」「女性蔑視」というネガティブな評価を受けてしまったら、表現規制派がそこにツケこんで攻勢を強めるのは明白だ。
リベラルやフェミニストは差別撲滅に邁進しているが、その熱心な活動ぶりを見たオタクたちが保身に走って、左派のことを警戒するという現象は不思議ではない。オタクは自分の趣味にネガティブな要素があると認めた場合、それを端緒に叩かれて萎縮に追いこまれる不安があるのだろう。
そして、この病理はそっくりそのまま左派自身にも当てはまる。左派はある物事が差別かどうかを決定する際、自分たちの運動にどう影響するかという観点を優先しがちである。運動の訴求力を落とすことには強い不安を感じていて、そのため自陣営の方針を無謬だと主張するしかなくなる。だが、そのようにして内輪の論理をふりかざす姿は、外部にいる者の目から見れば、不誠実で欺瞞に満ちた態度にうつるだろう。
たった5,6歳の子でさえ性愛の対象とする小児性愛者は、生まれつきそういう性質だったのだ、というが本当だろうか?
想像だけど、夫婦仲の悪いところに子供が生まれて、夫に構われない妻が子供に執着して、なんでも先んじてやってやり、それが自立の芽を摘んで、そのせいで子供は年相応の対応力が身につかずにいじめにあい、そこでたまりにたまったストレスが、成人になってから自分のより非力な対象(小児)に向けられただけのような気がする…。
生まれたときから小児性愛者なんじゃなく、父親と母親によってその性質が作り出された。とくに父親が家庭を顧みず、子育てに追われる妻をケアせずにいたのが大きいんじゃない?
母と違って父は親になる準備期間がない。だから意識して育児に参加し、父親としての自覚を持つ。そうすれば、母親との協業体制がしけて、母子べったりは避けられ、同年代と同等に渡り合えるたくましさが身についたと思うんだ。
やっぱり夫婦としての骨格を作ってから子をなさないとね。夫婦仲のせいで、成人した我が子が非力な子供相手に襲いかかる、なんてことになったとしたら、目も当てられないから。
・いじめられっ子は弱肉強食論や自己責任論はいわれ続けられた過去があるため、普通は創作でも味方や主人公サイドがそういう主張だと傷がえぐられて見ていられない
→同様にいじめた経験がある場合は、割とかなりリスキーだったり、明日は我が身で一歩間違えたら自分もそうなるということを学ぶので、おいそれと言えないようになる
→同様に陰キャに感情移入とか絶対に無理なのでまずそういうのは好まない(福本作品の最強伝説黒沢の作中の名言の評価が二つに分かれるのと同じ)
・wikiの情報すらマトモに理解できてない自称エリート様、意識高い系が多い、技術持ってるつもりでも技術的な深い話は一切できずにマウンティングに走り始める
→頭が悪い悪くない以前に、空気が全く読めない上に訳の分からないところで変に偏執的に意固地で、間違っていることは例え死んでも認めない勢いで発狂する
・本質的には陰キャであることは間違いないが、あまりにも他人に対して上下か損得みたいなステータスでしか関心が向けられない、人間関係が理解できない
→いじめに参加するだとか、いじめられたことすらないほどウザがられて無関心なので、空想的な弱肉強食論が大好き、人の立場の機微が全く自分本位でしか理解ができないので自己責任としか理解の処理ができない
・異常なまでの承認欲求
→周りから関心を持たれたことが一切ないことが、マウンティングに必要な人間関係や友情、恋愛の様なステータスは足りないことは理解しているので、異常に(特に恋愛や男女の性愛に関して)執念深いほどの関心を向ける
・上下関係大好き、というより対等な関係というものが利害の一致レベルでしか理解できない、恋愛関係においても上か下かでしか理解ができない
→最初は使い勝手が良いので、割と人がすぐ辞めるブラック職場には適応しやすいが、当然軌道に乗ればブラック化の原因となるので捨てられてブラックの中にしか生息できない、永遠に同じところには居付けないので、転職や回転率が異常に高い、例えばフリーランスや派遣、そしてweb業界をやたら好む(というよりそこ以外に生きる場がない)そんなパイロットフィッシュの様な存在
→実は技術的な本質は全く低いので、海外にはいったが通用しないまま枕を並べて討ち死にするか、そうなるのはわかっているので国内外資で我慢する、という傾向が強い
・いうことや言い回しが異様に似通る、ジャンルやテンプレを好む
→他人から見た成功像やリア充像やエリート像といった、理想例しか人から評価される基準がない、多種多様性が全く持って理解ができないので、学歴、年収、技術、人脈自慢が、人数から平均値に至るまで奇跡的に法則や以上に重なる
まぁ、増田のいうことが本当なら仕事だけは出来るみたいだから、仕事がなくて生きていけないとか、お金に困ることはないんじゃあないかな…
羨ましいかどうかは置いといても
人を好きになったことは、まだない。
2度ほど告白されて、とりあえずでいいから付き合ってみないかと言われ頷いたものの、いずれも所謂男女の関係にはなれずお別れした。
「まだ運命の人に出会ってないだけだよ」「今は他のことで忙しいからじゃない?」
と言われ、まともに取りあって貰えない。
ネットとかで色々調べてみたら、どうやら自分のような人間は一定数いるらしく、"アセクシャル"(無性愛者)と呼ばれていることを知った。
ただ、確証が持てない。
wikiとか見ても自覚時期については「第二次性徴期以降であることが多い。」としか書いてなくて、自分が無性愛者なのか、レズビアンなのか、はたまた友人たちの言う通り単なる奥手なタイプなのか、それは一体いつ判断していいんだろう。
そもそも元から執着心や依存感情に縁が無く、広く浅く淡白な人間関係しか築いたことがないので、これがセクシャリティの問題であるのかすら定かでない。
ちなみに男女問わず美しい顔が好き&刹那的な青春っぽいエモさに弱いのでアイドルとかは好きでよく観に行く。
しかし当然ながら恋愛感情ではないと思う。推し多数だし、認知欲求もないので。
あと子どもも好きだし、いつか自分の子どもが持てたらとは思う。まあ現実的に無理だな。
別にこのままボンヤリと生きていけばいいかなと思ってたのだけども、最近あまりに上記のやり取りをすることが多く、しかもそれが結構なストレスであることに気付いた。
だからこの際ハッキリ決めて宣言してしまおうと思ったものの、これ他のセクシャリティに比べて判断基準がぼんやりしすぎてないか?という印象が拭えず躊躇われる。
だから誰か教えて下さい。
私はAセクなのでしょうか?
モヤモヤするわ~。
ちょっとした事なんだろうけど。
たとえば、あるコンビの片方が結婚したとしてそれでもそのコンビにBL的な妄想を繰り広げていた方々は「カモフラージュだ」とのたまう。
ところがその夫婦が不妊治療を経て子どもを出産したという報道を目にしたとき場合、妄想を広げてた人たちは何を思うか?と。
自分の両親を見てても同性異性に関わらず、カップルって性愛的なこと恋愛的なこと以外にもいろんな要素を見ていかなければならないはず。
そういうことを意図的に外して楽しんじゃっている事がどうにも解せない訳で。
「本人のトラウマでそうなった」と理由はつけるか?いやあ、それとこれとは話は別でしょう。
「東京駅は淫乱」というのもちょっと。擬人化しているけど果たしてちゃんと映像化できてるの?
「やおい穴」とか見てて多分無理だろうなとは思うよ。
現実的に同性愛者が表立ってそばにいないからなんだって思えるのかなあ。
それはそれである意味で差別に片足つっこんでいるのに自覚がないのかなと。
マイノリティであることで自分たちが無意識に加害者であることの自覚が薄れるだろうけど、願わくは少し程度は自覚をもってくれ。
これこそが欺瞞だよ
現代社会の倫理観において、こんな考えは到底受け入れられないんじゃないのか?
そうやって何かをカテゴライズすることに意味なんてないのに……
いい訳ないだろ、犯罪だわ。
いいのかもしれないけど、いつかその相手に恋人ができた時も同じようにして居られるのか?
やっぱり、どう言葉を取り繕っても、どんなに博愛を気取ろうと、やっぱりこの倫理観が君を肯定することを邪魔するんだよ。
このちっちゃくて意味のないプライドじみた倫理観なんて本当はいらないのに。
君が何を思っていて、これからどうしたいのか、知りたくて知りたくてたまらない。
これからも君は僕のちっぽけな倫理観を超越したなにかすごいことをしでかすんだと思う。
そのたびにああかなわないなあ、と思いつつもついていきたい。
好きだ。
好きだけど、俺のことは好きにならないでいい。