はてなキーワード: 修論とは
周りに現象論の人が多かったですが、修論で教員メインの論文に少し関わって共著で一本、博士課程の間に同じ感じでもう一、二本出しつつ博士論文までに自力のものを一つ出す、くらいが現象論で研究者として生き残れる可能性のある人の一般的な道筋、という感じでした(私自身は現象論ではないので外野から見た単なる感想に近いです。 Higgs 以外何も出てこないという Nightmare scenario が現実になった今でも以前と変わらず現象論の論文が大量に出ているのは正直ちょっと謎…)。
大学にも依るのかもしれませんが、現象論に関してはD取るだけなら難しいということはないと思います(もちろんアカポスは難)。他分野と比べてどうなのかは分かりませんが。
もともと日本企業で働いていたけど、家族の関係でEUに来ました。
MScは日本で取っているけど、働いている中でもっと学びたいことができたので、冬学期からまずはnon-degree studentとして通っています。
こっちの人は大学の授業料が無料なのが羨ましいけど、EU外の人にとっても日本の大学に比べて格安の授業料なのがありがたいですね。
私はオーストリアにいるので基本ドイツ語の授業が多いけれど、ERASMUSで他の国からの学生も多いからか、英語の授業も多く、学生も先生も英語が通じるので助かっています。
私が日本で通っていた大学にはこんなにも多くの英語の講義がなかったので、日本に来る留学生はとても大変だったんだなぁと思います。
中国の自然科学系については詳しくわかりませんが、調査対象地域として中国をやられている方は、現地調査や収集データの取扱について中国政府から色々言われることが大変だと言っていました。
生物・化学の実験系の分野だけかもしれませんが、オーストリアの大学院生と日本の大学院生を比べると、日本の大学院のほうが、修論・実験に対して重きをおいたカリキュラムになっているように感じます。オーストリアの場合は、大学院に入っても研究室にいるより授業に出ている方が長いように見受けられます。前述の通り、講義といっても学生に対してプレゼンや何かプロダクトを作ったりレポーティングにより評価することが多いので、こちらの学生の方が自分の成果を表現する能力が高くなるように感じます。一方、日本の大学院ではゼミや実験が重視されているため、実験操作や実務能力に重きをおいているように感じます。
私としては、今の時点でどちらが大学院のあり方として優れているかはよくわかりません。
日本から出たことのない学生は、研究に対して保守的になりがちなので、あなたが日本で学生生活を過ごしたことがない場合、戸惑いがあるかもしれません。
私が学部生で研究室を決める際、先輩から、「いくら有名な先生や研究室でも、実態は違うかもしれないから、研究室訪問をして、本当に自分がそこで一緒に研究したい人たちがいるかを基準にしたほうがいい」と言われました。
人文系の文献の取り扱いとか業績についてちょっとだけ - dlitの殴り書き
確かに異分野の事情をお互いにわかっていたほうがみんな幸せになりますよね。パーマネントや学振の採用とか。
素粒子分野は大きく分けて
に分かれています。これらの間には超えられない壁がありまして全てをまとめるのはちょっと難しいのですがなんとか書いてみます。
間違いを見つけたら教えてください。
素粒子の論文は全て英語で書かれます。国内雑誌としてはPTEP(旧PTP)がありますがこちらも英文です。当然どれも査読があります。
業績リストの論文(査読なし)には国際会議や研究会の proceeding を載せたりします。
素粒子分野には論文投稿前に arXiv に載せる慣習があります。
これは投稿前に業界の人たちに意見をもらい論文を修正するためです。accept 後に査読済みの論文に差し替えます。
arXiv に載っているのは基本的に 投稿前/査読中/査読済み の論文及び国際会議の proceeding です。
特に素晴らしい研究は Physical Review Letters (Phys. Rev. Lett) に投稿されます。IF8.839 です。
Nature や Science に投稿することはまずありません。
おそらくは [ 業界の人数 ] x [ 1年間に発表する論文数 ] に依存するはずです。まあ人数の少ない分野は引用数も少なくなるでしょうね。
同じ素粒子業界でもその専門ごとにかなり違うはずですが、とりあえず Inspires によると以下のように分類されています。
# of citations | |
---|---|
Renowned papers | 500+ |
Famous papers | 250-499 |
Very well-known papers | 100-249 |
Well-known papers | 50-99 |
Known papers | 10-49 |
Less known papers | 1-9 |
Unknown papers | 0 |
自分で確認したい人は Inspires で fin a s Masukawa などと打ってみてください。
素粒子実験、特に高エネルギー方面ではなかなか論文が出せないことがあります。
理由は簡単で実験計画から結果が出るまで多数の歳月がかかるからです。
例えばLHCは計画からヒッグス発見まで20年弱かかりました。論文の著者数は5000人を超えました。
このような事情なので「博士課程単位取得満期退学後に研究を続けて論文を出すと同時に博士を得る」というような方がたまにいらっしゃいます。
博士号をもっていない素粒子実験の人に出会っても決してバカにしてはいけません。
まず 場の量子論/超対称性理論/群論・リー代数 あたりは三分野共通で勉強すると思います。
加えてそれぞれの分野の専門的教科書、例えば弦理論なら String Theory (Polchinski) 格子なら Lattice Gauge Theories (Rothe) など。
分野によっては位相幾何学、微分幾何学を勉強しなければなりません。共形場理論もですね。
この辺りでようやく基礎ができてきましてこのあと30年分くらいの論文を読みます。
研究に入るまでの勉強に時間がかかるので修論はレビューになることが多いです。
当然学振は出せない・・はずだったのですが最近どうも事情が変わってきたようです。
学生の方が学振(DC1)に固執して勉強も途中に研究を始めてしまう、勉強途中のM1に研究できることなんてたかが知れているので
必然的にあまり重要ではない研究に貴重な時間を費やしてしまう、というような話をぼちぼち聞くようになりました。
学振についての考え方は人によるとは思うのですが、ちょっと危うい傾向だなと私は思うことがあります。
そこでちょっとお願いなのですが
「学振は研究者の登竜門!取れなかったらやめよう!」などとblogに書いて煽るのをやめていただけないでしょうか?
いや書いてもいいのですが主語を書いてください。「情報系では」「生物では」とかね。
「博士号は足の裏のご飯粒」と言われて久しいですが、弦理論では博士号を取るのはまだまだ難しいと思います。
まあとったところで「足の裏のご飯粒」なんですけれどもね・・・
放置していてすみません。まさか今頃上がるとは思っていませんでした。
new3 言いたいことはわかるけど、普通は「ヒッグス発見」を博論のテーマにせずもうちょっと控え目な研究に留めるものでは?日本でもJ-PARCからSuper-Kにニュートリノ撃てるんだし10年に1本はさすがに少ないと思う。
どうもありがとうございます。文章を少し修正いたしました。他にも間違ったところがありましたら教えてください。
niaoz 懐かしい。補足するとストリングやるなら一般相対論がベースの重力理論も必要/場の理論は確かに簡単じゃないけど楽しい。量子力学と特殊相対論(電磁気学含む)を修めたらやってみるとよいです。
monopole 素粒子理論分野では修士で論文書きにくいけどDC1の枠はあるので、採用者は実績によらずほぼランダムだったり有名研究室に偏ったりする。まあ論文なしでも通る可能性あるから学振は気合い入れて書け
kowa 素粒子系は知性の墓場だと感じてる。優秀な人材があまりに何もできなくて、消えている。魅力はわかるが、1/5000のcontributionだかでいいのだろうか
なんか新人は大変そうだなって。
私がその増田で話していたのは「著書」の話です。ふつうの論文ではない。著書を出してる時点で既に何本か業績があるのは前提。
そんなん常識だろって思って文系のキャリアパスを説明しなかった私も悪かったと思うので詳しく説明します。分野によって違うけど、私の分野では、
さて、学術書というのは分厚いですね? 基本的に文系の学術書というのは論文を何本も積み重ねてようやく書けるサイズのものです。というか博士論文の時点で学術書として出版できるくらいのボリュームを要求されたりします(まあここは院によりますが、しかし薄い博論で学位を取れたとしてもそんな論文は本として出版できないかどマイナー出版社から出版するほかないので、評価されるちゃんとした書籍を書こうと思ったらめっちゃ書き足す必要があったりして、要するに「書籍の出版」を業績とみなすのも故なきことではないのです)。なので、実質的に論文を何本も書いたことがないと単著なんて出せません(私の院では、博士論文の提出に際して既発表の論文数などは問われません。なので発表した論文がゼロの状態で博士論文を提出することも理論的には可能なのですが、実質的にそんなの無理です。私の周囲の博士号取得者は何本も論文書いた上で博士号獲ってます)。
つまり、単著出してる時点で論文デビュー済みのことが多いわけです。
(ちなみにこの辺は国によって違ってて、日本だと博論は既発表論文を寄せ集めて書いても問題ないけど、たとえばドイツだと博論に既発表の論文を組み込まずに書き下ろす必要があり、なおかつ博士論文には出版が必須なので、ドイツで最初の単著を出した人のその時点での業績は日本基準では少なかったりします。そのへんの話はこちらのまとめを参照→https://togetter.com/li/9904)
もちろん、最初の著書が新書です、みたいな人もいます。院生時代に研究成果をもとにした新書書いて、そのあと博士号取って分厚い単著出しましたみたいな(『パンダ外交』)。むっちゃ分厚い修論書いてそれを単著にしちゃう猛者もいます(小熊英二)。ただそういうのはレアケース。また、博士号取得→別のテーマで単著を出版→その後に博論に基づいた単著を出版という流れもありえます。こっちは割とよく見るかな。講談社選書メチエの『湾岸産油国』とかそうじゃなかったっけ。
んで、良い論文を何本も書いたり、単著出したりしてると、インテリ向け商業誌とか権威のある学術誌とかからお呼びがかかります。「お前、うちの出版社が出してる商業誌に書いてくんね?」とか「お前、うちの学会で今度組む特集号に書いてくんね?」って感じです。これが例のセンセが言ってた「招待論文」。「依頼論文」と呼ぶ業界もありますね。当たり前ですが、程度の低い研究ばっかりしてると呼ばれません。
(査読がなくても良い論文が有り得るってのはそういう意味です。最近だと院生向けの紀要にも査読つきが増えてるけど、そういうマイナー誌の査読論文よりも商業誌に載った論文の方がよく読まれていたりする。当たり前だけど紀要の無査読論文とかよほど内容が良くない限りめったに読まれませんし参照もされません)
要するに、昔はどうだったかは知りませんが、最近では査読誌の論文が新人の登竜門として使われ、ある程度実績が増えると査読なしの論文を書く機会が増える、というのが私の周囲での割とよくあるキャリアパスです。それまでの実績がない若い人にも当然チャンスはあります。
metamix 英語論文なぞいらん日本語で事足りるって話はまあいいけど、理系なら学部生ですらやらされることを文系だと教授クラスでもやらなくていいんだーフーンみたいな感想
お互いの分野で必須タスクが違うだけだろ……英語以外の外国語を読まなくていい理系はずいぶん楽ですね,って言われたらどう思うよ? 私は修論書くにあたって複数のヨーロッパの言語読んだし,東洋史だと修士でも複数の現地語+複数のヨーロッパ言語を読むのが当然みたいな分野もあるけど,理系は英語だけ読んでりゃいいんだっけ? ふーん.
dot 学術言語は一理あるとも思うけど、査読有りが理系のローカルルールという言説には面食らう。記述言語も査読有り無しも最終的には学術論文としての品質をどう担保するのかというところに帰結すると思うんだ。
slimebeth この問題、英語も査読も不要、理系が絶対と思うなみたいな捨て台詞をいろんな人が吐いてくのに「では代わりにどういう制度や方法論で研究の質を担保してるのか」を未だに誰も一言も言わないの底知れぬ闇感すごい…
本当に疑問なんだけど,こういう主張するひとたちって「まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される」っていう箇所が読めてないの? 査読つき雑誌はある,査読つきの業績は重要である,しかし査読がないからといってダメであることを意味しない,ってそんなに難しい話かね.
ていうかこういうひとたち,普段は査読通った論文なら無批判に盲信してるんですか? 論文は批判的・懐疑的に読まれ,瑕疵があれば後発の研究によって批判されたり乗り越えられたり無視されたりするものだ……というのは文理を問わぬ学問の常識だと思っていたのだが,「査読がないとどうやって研究の質を担保するの?」などと吐かす一部の理系はどうやら査読を通ってさえいればアッサリと先行研究を信じてしまうらしい.どっちが権威主義なんだか.
reuteri ペレルマンは査読されてないが多くの人から批判的にチェックされるでしょ?そのチェックの有無が科学にとって重要で、「学界の権威が言っているから正しい」という世界は科学ではないのですよ。日本語については同意
藁人形叩かれても困るんですよねぇ.
theta 日本には日本のXX学、米国には米国のXX学、印度には印度ののXX学があって相互に互換性が無いのなら、それは普遍性のある学問なのかなという疑問がある。
こういうレベルの説明から始めなきゃいけないの本当に馬鹿げてると思うんだけど,日本の西欧研究なら西欧諸言語の先行研究は当然追いかけているし,英語圏の日本研究者は日本語の先行研究読んでますよ.ドイツ人のドイツ史研究者と日本人のドイツ史学者は同じ学問に従事していて,同じ問題意識を共有している.ただ,日本の西洋史研究は日本の歴史学という別の文脈の中にも置かれていて,そちらから影響を受けて「日本の西洋史研究」独自の色を出すこともあるし,アメリカでは日本研究者と東南アジア研究者が共同プロジェクトで独自の問題意識を深めているかもしれない.そういう意味で各国の研究には多かれ少なかれその国の事情に根ざした独自性があるわけ.そして,時には「本国」以外での研究潮流が「本国」での研究に影響を及ぼすことだってある(たとえば前世紀末から今世紀初頭にかけてのアメリカのソ連史研究が典型的かな).日本の中国学はフランスや台湾の中国学と微妙に違っているかもしれないけれど,それでも同じ中国学なんだ.
kingate だとして。最先端は何処よ?学術・研究論文で最先端に批評貰う必要があるんじゃねぇの?ローカル内容でも批評貰わんと正否は出ないでしょ、総論として。で、あの学者モドキはその総論に後ろ足で砂掛けたの。
分野によるとしか言いようがないし,別に最先端は複数あってもいいんじゃないかと思わなくもないが.たとえば私が研究対象にしている地域については間違いなく英語でのショボい研究蓄積なんかよりも現地語での研究が最先端だけど,私は現地での最先端の研究をフォローしているし,現地人の使っていない資料とかも使って彼らと勝負しているつもりでいるよ(現地人だからこそ盲点になってる資料みたいなのがあるんだよなぁ).
iyochoo 国内のアカデミアを重視するか、世界のアカデミアを重視するか。両方の言語で書いてくれると助かる人が多いです。
「世界のアカデミア」なんて幻想で,各国別のアカデミアが併存してるんだよなぁ.もちろんそれらの間に橋を架ける必要はあるけれど.
(……)恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。(……)
ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.
そもそも,査読はあるし重要だが,査読がなくても良い論文であれば評価の対象たりうる,という話を少なくとも私はしていたわけで,それを「査読文化がない」と要約されても困惑するわけですが,まあ全ての論文が査読を受けているわけではないという状況を「査読文化がない」と書いているのだろうと好意的に解釈するとして.
当たり前ですが文系でも「レベルの高い査読誌」「査読はないがレベルの高い雑誌」「レベルの低い査読誌」「無査読紀要」ではチェックの優先順位や論文の重みは違います.当たり前ですね? 査読はしていないけれど,その分野では定評がありよく読まれる雑誌,というものが存在し,たとえばそのへんの査読をつけた院生向け紀要とかよりも圧倒的に読まれる,というような状況がある中で,査読がないからといって無価値扱いするのは不当だ,という話を私はしていたわけです.
なので,ニッチだけど優れた研究をしている人は,よく読まれる媒体に論文を投稿すればよろしい.というか人文系の研究対象って,研究水準の深化に伴ってどんどんニッチになっていく傾向があったりしますしー.
そもそも人文系の多くでは被引用数を重視する文化はあまりありませーん.理由のひとつとして「正確な被引用数を測定するのが困難」というのが挙げられます.著書も業績になり得る上に各国が自国語で研究する世界において,外国語も含めた紙の本での被引用数なんて管理しきれないのでー.私も自分の論文の被引用数なんて知りません.外国語で書いたやつは3ヶ国語くらいで引用されて,日本語のやつも紙の本に1回引用されたかな? でも他にも引用されてるかもしれないので,これは最低限の数字っすね.周りで被引用数なんて気にしてる人見たことないなぁ(私に指摘されて初めて自分の論文が他人の著書に引用されてることに気づいた先輩とかいたっけ).そもそも,引用されてむっちゃdisられてても1回引用とカウントするわけですよね? それ本当に論文の質の指標になるんですか?
(……)一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。(……)
それはアメリカの社会学者が自国語で論文を書いているだけでは……?
というか,日本語圏の社会学者でも英文学術誌に投稿してる人はいますし,英文学術誌に投稿してる非英語圏の学者でも,それとは別に母国語の論文書いてたりしますし.英語以外の言語での論文が載ってる社会学の学術誌,探すとあちこちにありましたよー.
韓国語> http://www.ksa21.or.kr/kjs/
中国語(簡体字)> http://sociology.cssn.cn/xskw/shxyj/
中国語(繁体字)> http://tsa.sinica.edu.tw/publish_01-1.php
ロシア語> http://www.isras.ru/Sociologicalmagazine.html
フランス語> https://journals.openedition.org/sociologie/index.html
ポーランド語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=240
リトアニア語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=1027
カタルーニャ語> https://www.raco.cat/index.php/RevistaSociologia/index
ところで日本社会学会は和文雑誌の『社会学評論』以外にもちゃんと英文の学術誌持ってるんですよねー> https://onlinelibrary.wiley.com/journal/14756781
いやほんと,テキトーな知識でよその学問分野に軽々しく口を出して,正しいこと言ってるならともかくめっちゃ的外れとか,生きてて恥ずかしくないんですかね?
death6coin “ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.”攻撃的ですねぇ
理系の研究事情や査読制度を知りもせず「理系の研究は権威主義だ! 定説にとらわれて思考が硬直している!」とかわめく連中に,これまで理系のひとはどんな目線を向けてきたっけ? 冷ややかな目線を向けて嘲笑ってきたよね.もちろんそれはまったくもって正しいよ.理系の事情を知りもしないのに思い込みで的外れな批判をするのは愚かな行為であり嘲笑に値する.文系に向けて似たようなことをわめく連中にも同様の態度を取らせてもらうというだけ.
これは本当にそう.最近だと三元社なんかが琉球諸語・日本語対訳の出版物を出していたりするけど,言語復興運動家の著書とか学術誌のコラム止まりで,琉球諸語で書かれた学術論文は残念ながら見たことがない.琉球諸語は最近書記法の整備とか色々進んでいるから,今後はそういう方向に期待したいよね.もちろん琉球諸語で書かれた論文を査読できるひとはそう多くないと思うけれど,査読なしで論文を発表することも許されているという文系の事情を積極的に活用して中身のしっかりした琉球諸語論文を発表していくひとが出てきたらいいなと思う.
それに対しては2つの論点から応答したい.1点目に,「日本語は過去の豊かな蓄積を持ち,現在も多くの学術論文を生産し続けている言語である」という前提条件を忘れてもらっては困るということ.日本について研究している学者は日本語で論文を書くわけで,この点が方言とは違う(大阪弁を研究する者のほぼ全てが標準語で論文を書いているし,山形弁で書かれたヨーロッパ史の高度な研究は現段階では存在しない).
第2に.もちろん書いていいです.少数民族が独自の民族として生き残っていこうとするには何らかの形で文章語を持つことが(必要ではないが)望ましく,実際にヨーロッパでは人口数万人の少数民族でも自分たちの言語で書かれた学術誌を持っている場合もある(もちろんその場合,当該言語や当該言語で書かれた文学,当該民族の歴史といった限られたテーマについての論文を書くので精一杯だったりするのだが.ちなみにそういう少数民族の学術誌に少数言語で論文を載せてる日本人研究者もいる).それに,言語と方言とのあいだに本質的な違いはなく,たまたま政治権力を持ち規範が整備された言語変種が「言語」とされ,「言語」と見做されなかった地域的変種が「方言」と見做されているだけ,というのが社会言語学の常識であり,実際に気仙沼方言は方言ではなく独自の「ケセン語」だと主張して聖書を翻訳したお医者さんなんかもいる.上で書いたように,宮古語と日本語のバイリンガルのコラムを載せている学術誌もある(コラム止まりで,論文ではないけど).なのでたとえば,鹿児島大学で薩摩弁を公用語にした紀要が出版されてもよいと思うし,もしその紀要に優れた論文が次々に掲載されたとしたら先行研究を読むために薩摩弁を学ぶひとも出てくるかもしれない.そしてそれは,悪いことでは決してない.
きゃーお恥ずかしい.ご指摘ありがとうございます.訂正しました.
①無給
好きなことやってるんだからいいだろ、なんて言われそうだけど、それってやりがい搾取じゃね?
てか、どんだけ好きだとしても見返りなしで週40時間以上出来ることってほぼないでしょ。
②長時間拘束
さっき週40時間って言ったけど、実際のところ40時間で済んでいる院生って少数だと思う。
実験系は言わずもがな長時間拘束だが、非実験系でも深夜、土日まで研究していることが美徳とされている節がある。
というか、教授になるような人は朝も夜も土日も正月も関係なくバリバリ研究できるような人ばっかりなので、無意識的に学生にもそれを押しつけているように感じる。
企業は時間外手当等(ないところあるだろうがゲフンゲフン)で多少は労われているだろうが、院生にはおいては全くない。睡眠負債によってごく僅かな研究成果を獲得しているだけ。
③村社会
大学の研究科のコースという小さな集団の中のさらに小さな研究室という集団なので、
なにもかも教授の一存で決定する。基本的に教授の圧倒的権力の前に太刀打ちできない。
あまり詳細には書きたくないが、我々は学位を人質にされていて、修論提出直前であっても教授がNOと言ったらNOなのだ。
学生には労働基準法や労働組合のような盾はなく、立ち向かう術は一切ない。
上位の大学の人は知的好奇心に溢れ、自己管理能力に長けているため、こんなことは全く問題ではないのかもしれない。
私の所属する研究室自体が特別ブラックではないと思うが、能力、知的好奇心が低いのに進学を選択してしまったばっかりにだいぶ精神をすり減らして生きている。
今が特別辛い訳ではないはずなのに、なんだか辛くてここ3日間研究室に行ってない。
研究室内の雑務、大学院の講義、修士中間発表、自分の研究、共同研究等、仕事は膨大にあるので早く研究室に行かないといけないのに明日も行ける気がしない。
あと1年半耐え切れるだろうか…いや、耐えるという考え方自体間違っているのだろうが。
今年の春、僕はM2になった。同期たちも全員、進級した。
そんな中で友人の1人が、昨年度の後期からあまり所属研究室のゼミに来ないという話を聞いた。
僕とは違う研究室なので「授業は来ていたのに?」と不思議に思った。
今年度から別の友人の希望で始めた自主ゼミにも来ていたから、さらに不思議だった。
しかしどうやらゼミの、自分の発表の順番が来る日、だけ来ないらしい。
なるほど、進捗が無いのだな。そう思った。
お互いの研究の話をしていても、うまくいっていない事しか聞いたことがなかったからだ。
友人は真面目で、成績も僕などより優秀で、性格も良い。怒らないし、愚痴も言わない。
そして行き詰まったときに誰にも頼らない。
僕はすぐに友人や先生に助けを求めてしまうので、それもあまり褒められたことではないが先生にはたまに「考えよう」と追い返される。
まるで質問しないのもよくないと思う。真面目なんだろうけれど。
「これくらい、1人でできなくてはいけない」と思っているのかもしれないし、先生が怖くて質問に行けないのかもしれない。
なんにせよ、想像に過ぎないが。
それまでに彼は自分の順番が来る日は全て休んでいるのを聞いていたので、きっと来ないだろうと思った。
案の定、来なかった。
教授陣の方でも、大学に来ないことが話題になり始めたようだった。
後期が始まったが、ゼミの初回も来なかったようだ。
それは仕方のないことなのだろうか。
M三年目。
修論が書けない。今年に入ってからはもう頭どころか指も足も動かない。
仕事はしている。運良く研究してたことを仕事にできた。分野のことは大好きだと思う。なのに研究ができてない。
それでも、この2年という時間とお金、先生方の厚意が勿体なくて申し訳なくて、何でもいいから修士号をとらなくちゃといやいや通ってたら、ついに胃からぶっ壊れた。
電車で倒れたりもした。
戻すわ寝られないわ、勝手に涙が出てくるわ。
みんなは書けるんだもんな。すごいな。
母にもう無理ですって言ってみた。
そしたら、逃げるんじゃんって。
お母さんははじめたこと途中で辞めたことないから、あんたの気持ちが分からないって。
(あんた結婚生活は二度も破綻させておいて、二人いる娘のうちひとりだけを連れて再婚しておいて、よく言うよなと思った)
お願いだからってなんだ。
なんのお願いだ。殉死か。
奨学金借りて、これ返していくのも、こんな適当な履歴を背負って生きていくのも、ぜんぶ私なんだけども。
私があきらめようとしている私を、あきらめてくれない人がいる。
だけどもう私の幸せはあきらめてほしい。
出来損なっちゃってごめんね。
別に産んでくれなくてもよかったのに。
なんでここまで来ちゃったかな。
間違えたな。
でも2年間、悪いばっかじゃなかったしな。
単純に勿体ないよな。私もそう思う。
先生ごめんなさい。
頭冷やそう。
研究者の育成と授業料免除に相関があるわけがねーだろ。あくまでも免除制度は免除制度や。学費に困る人向けでしかない。
研究者って大学院とか博士課程とかポスドクで必要なら大学を渡り歩くから、最初の学歴は東大で問題ない。
研究者業界のことは知らないみたいだが、本気ならちゃんと調べろよ?
ああ、あとな
学部でやってる卒論は悪いがお遊びレベルだ。研究者としてやってくなら院に進んで修論、博論書く。やりたい研究が別な国立大にあってどうしてもそこでしかできない
なら修士をそっちで取ればいいよ。
博士課程まで行く際にかかる費用だが「学振」ってのを申し込み生活費と研究費として使う。これもある程度優秀じゃないと採用されないがな。
これも旧帝大が有利だぞ。実感としては。
だから,それなりに優秀でセンスのある生徒が集まるうちの研究室では,先生の言ってることはしばしば的外れだったりして
なおかつそんな的外れな発言を指摘するような生徒を徹底的に嫌うような器の小ささもあって,俺はめちゃめちゃその教授が嫌いだった
そして,自負心も合った
優秀な先輩について入った研究室で,今まで自分の優秀さに疑問も持ったことがなくて,だからあんな教授の言うことを聞かなくても研究できると思ってた
自分で好きなようにやって,成果を出せばそれでいいと思った
いま,修論を書く時期になって,今更になって,自分はそこまで優秀ではなかったと気づいた
人並に人の協力がなければ何も出来ず,研究室という過去の研究の蓄積の上に乗るようなこともせず,
一人で何も出来ず何も書けない
先生を見下し,あえて先生から何も言われないポジションを自分で構築した手前,自分から助けを求めるわけにも行かず
留年っすわ
修論締切直前の深夜にこんな駄文を書いているのは現実逃避以外の何物でもない.
私が3年間の研究室生活の中で自分自身や周囲の人間を観察していて気づいたことは,「指導教員の言うことを素直に聞く」人間は安定して成果を出しているということだ.
私は物事を批判的に捉える傾向があり,他人の言説に対してまず疑ってかかるきらいがある.そしてさらにたちの悪いことに,私は自分のしていることに一度でも疑問を感じてしまうと,その疑問が解決するまで手が止まってしまう悪い癖を持っている.かつてこの性格が原因で4回生のときの卒業研究を失敗した経験がある.
学部4回生の研究では,指導教員が適切なレベルの問題とそれに対するアプローチを提示して,学生はそれを黙々と実践し結果を得る中で,手習いのごとく研究の方法論を身につけていくものだと思っている.
当然私にも指導教員から卒業論文のテーマが与えられた.しかし私は論文をサーベイし研究を進めていく中で,「そもそもの問題設定に誤謬があるのではないか?」という疑問を持ってしまったのである.(当時の私が抱いた疑問はどうやら見当ハズレというわけでもなかったらしく,後になって隣接する他分野で私の疑問に答えるようなアプローチが研究されていることを知った)
私は指導教員に自分の気づいた問題点について相談したのだが,私のコミュニケーションが拙いことや,指導教員自身がそのテーマに関して専門外であることもあり,その時は指導教員からどうしても納得が得られるアドバイスが得られなかった.そして私が「この研究には価値があるのか?他に良い問題設定はないのだろうか?」と悩んでいる間に,周囲の同期は順調に研究成果のようなものを出しはじめ,私は彼らへの劣等感から研究室に行くのが辛くなって家に引きこもるようになった.最終的には何とか卒論を提出し卒業はできたものの,私の卒業研究は見事に失敗してしまった.
この時の経験を反省し,修士2回生のとき((修士1回生の間は国外逃亡してた))に取り組んだ新たなテーマでは,私は指導教員の言うことに疑問を抱くことを極力やめて唯々諾々と言われるままの作業をすることにした.すると結果3ヶ月余りで成果のようなものを錬成することに成功し,(レベルは高くないが)国際会議に論文投稿することができた.
何のアウトプットも出せないことに比べると「国際会議に論文投稿した」というのは紛れもない進捗である.指導教員の指示を素直に首肯できず,かといって自分で新たなテーマを打ち立てるほどのサーベイ力も発想力もない私のような人間は,やはり教員の指示に従って黙々と研究を進めるのが正解なのだ.私の失敗は文字通り「下手の考え休むに似たり」だったのだ.
でもその時に出した成果はまさに重箱の隅を突くような,問題設定や手法としての新規性が皆無に等しい研究だった.レベルが低い国際会議だから通ったものの,僕が査読者なら間違いなく落としていただろう.この研究でもやはり私は指導教員に与えられた研究テーマ(というよりも問題設定)にずっと納得していなかった.それには私なりの合理的な理由があったのだが,今振り返ってもその理由は間違っていなかったと思う.この時,指導教員にきちんと反論し,自分の頭で考え抜いて研究に取り組んでいれば,もっと満足のいく成果が出せたのだろうか?
少なくとも自分が研究者に向いていないのは明らかである.就職という選択肢を選んで正解であった.
私は自分のアウトプットと人格を切り離して考えられない人間なので,修論原稿を1字書き進めるたびに自分の修士研究の不出来さ,ひいては自分という人間の不出来さを再確認させられ,物凄いストレスを感じてしまう・・・.