はてなキーワード: 生得とは
一日経って、なりたくてトランス女性になっている人の部分や、そういう人達がなんなのかはよくわからなかったけど、女性でない自分が認められないって部分が引っかかった
あなた自身が、自分をどんな状態でも女性だと思いきれないところが、不安の根っこなのかも
世間からの目や扱いによって、そう思わされてしまう部分があるのは想像に難くないけど、それだけじゃなくて、なりたくてなっている人と自分の違いを感じて切り離しつつ同類だと思ってしまったり、見た目がなりきれていないトランスを女性でないと思ってしまったりして、それが自分に反映されてる
他人への意識はともかく、自分自身は生得的に肉体に男性だった部分が残ってしまっても、女性なんだって思い切れるかどうかなのかも
アイドルマスターシンデレラガールズ総選挙 Stage for Cinderella決勝の結果が出た。
50万票近い差でイヴが1位となった。
純粋な担当・ファン票以外に、頑張っているから声をつけてあげたいという応援票、同情票や、ボイス投票のライバルを減らしたい思惑票もあっただろう。
この結果は、果たして良かったのか、悪かったのか。
まず、デレマスはアクティブがここ何年と増えていない、徐々に減っている現状がある。つまり売上の今後の大幅な拡大が見込める状況ではない。
では盤石か。SideMのソシャゲが2連続でサ終してしまったことから考えると、多少人気がある程度ではダメで
全190人、ボイスだけでも100人近くいるサービスを運営していくコストに見合った収益が無いと、サービス終了もありえるのがソシャゲの現実だと思う。
ボイスがつくと、曲でもライブでも活躍の機会が増える。それはそのアイドルの担当にとってとても喜ばしいことだし、声無しアイドルのままでは一生得られない夢だ。
但し、売上が拡大しないデレマスにおいて、声がつくというのは、曲とイベントとライブの出番を争うライバルが増加するということに直結する。
190人全員に声をつけろという主張もある。
でもお前ら、曲に出てくる20人が、下位20人の組み合わせだったら言うほどライブへ行くか?イベントプレイするか?ガチャ回すか?
担当アイドルのSSRが実装されたときに、別の推して無いアイドルのSSRを引いても、親愛度だけ上げて、MVを見たりしないアイドルが何人もいたりしないか?
俺はガチャで引いても興味ないアイドルはいるし、興味ないアイドル20人が出るライブに行くかといえばわからない。ライブには行くかもしれないがグッズは多分買わない。曲を買うかもわからない。
相対的に下位のアイドルのボイス実装が進めば、そうした人気の薄いアイドルに割くリソースはどんどん大きくなる。
そして、お前の担当しているアイドルがボイスありなら、その出番はどんどん減る。
何ヶ月も全く音沙汰なく、ライブにも登場しないアイドルが何人いるか覚えているか?
だから俺は本音で言えば、デレマスがドッカンドッカン売れてくれそうな爆発的なポテンシャルをもったアイドル以外で声がつくことを恐れている。
ついたところで、売上的に自分の担当より若干劣っているだろうアイドルにリソースが割かれて、サービスとしては売上が対して上がらないから
供給が増える希望もなく、ただ担当アイドルの出番だけが減るだろうからだ。
今回、ボイスが無いアイドルに流れ込んだ浮動票たち、その投票したPたちは、グッズを買ったり、ガチャを回したり、投票して課金するか?
どうだろう、ボイスをつけたという手柄に満足して、次のボイス候補に投票して
「俺の力でボイスがついたんだ」という成功体験だけを、また追い求めるんじゃないのか。
シンデレラガールズ総選挙では、これまでもそういう投票行動が続いてきたからだ。
Pの成功体験の単なる道具として、ボイス実装の初CDと初ライブが終わったら
つらいのは担当Pと声優だ。総選挙でどのアイドルより人気になるほどいたはずのPは、しばらく経てば周りに全く居ない。
ガチャの売上は振るわない、イベントのアクティブは増えない、ライブのグッズはさして売れない。そして出番が減って忘れられていく。
ボイスが無いことで、同じゲームのアイドルの立場ながら、イベントも曲もライブもない。その苦しさを見過ごしていいのかというと俺にはなんとも言えない。
でも、俺は、あまり興味ないアイドルの出番がどんどん増えることで、自分の担当が何年も干されるような選択肢があるなら
新しいボイス実装が、デレマス全体にまたユーザが戻ってきて、もっといろんな出番につながるようなことがあれば、それが一番理想だ。
Q:ジュディス・バトラーの主張と批判について教えてください。
A:ジュディス・バトラー (Judith Butler) は、ジェンダー、アイデンティティ、権力の問題に焦点を当てた哲学者、ジェンダー理論家である。彼女の主な主張は、ジェンダーは固定的で自然なカテゴリーではなく、むしろ私たちの日々の行動や相互作用を通じて継続的に生産され強化される社会的構成物であるという考えに基づいている。彼女はクィア理論の発展に影響力を持ち、フェミニズム、異規範性、伝統的なジェンダーの概念に対する批判を行ってきた。
バトラーの主な主張の1つは、ジェンダーは遂行的であり、それは単に生得的または既存のアイデンティティを表現する問題ではなく、むしろ私たちが行動や行動を通じて創造し、実行するものであるということである。彼女は、ジェンダーは私たちが学び、内面化する文化的なスクリプトであり、私たちの日常的な他者との交流を通じて常に再生産されていると主張している。つまり、ジェンダーは私たちから独立して存在するものではなく、私たちが積極的に生み出し、参加しているものであるということです。
バトラーの研究のもう一つの重要な側面は、本質主義に対する彼女の批判である。本質主義とは、特定の特徴や性質が個人や集団に固有のものであり、これらの特徴がそのアイデンティティを定義するという信念である。バトラーは、本質主義は抑圧の一形態であると主張する。それは、アイデンティティには固定的で自然なカテゴリーがあり、それが差別や排除につながる可能性があるという考えを強化するからである。代わりに彼女は、複数の変化する表現形式を可能にする、より流動的で柔軟なアイデンティティの概念を提唱している。
ジュディス・バトラーに対する最も一般的な批判の1つは、あまりに抽象的で理論的であり、彼女のアイデアを現実世界でどのように実践できるかが必ずしも明確ではないということである。批判者は、ジェンダーのパフォーマンス的な性質とアイデンティティの流動性に焦点を当てることは、具体的な政治的または社会的行動に変換することは困難であり、彼女の仕事は不平等と抑圧の問題に対処するための明確な戦略を提供していないと主張している。
バトラーの研究に向けられたもう一つの批判は、個人のアイデンティティと主体性に焦点を当てすぎており、より大きな社会的・制度的構造が私たちの経験を形作る方法を十分に説明していないということである。一部の批評家は、彼女が成果主義とジェンダーの社会的構築を強調していることは、家父長制、資本主義、人種差別のような制度的システムを通じて権力が機能する方法に十分に対応していないと主張している。
最後に、フェミニストの学者や活動家の中には、生物学的な性と女性の経験の重要性を損なうとしてバトラーを批判する者もいる。彼らは、ジェンダーの流動性とアイデンティティの社会的構築を強調することで、バトラーは女性の身体の物質的な現実と、性に基づいて歴史的に抑圧されてきた方法を消し去ると主張している。
[B! togetter] スープストックトーキョーが離乳食の無料提供を発表し子供嫌いな人から批判殺到!『最悪』『うるさくなる』『一人客を無視してる』 ⇨しかし批判者の正体がキツいと話題に…
ファストレーンとか子連れの生きづらさ解消する流れは必要だし、いいんだけどさ。
少し調べた限りでは「子連れお断り」のお店なんて見つからなかった。
現代ではもはや子連れお断りの飲食店は消滅してしまったのかも知れない。
子どもに寛容派と子ども嫌いが棲み分けできればいいと思ったのだけど。
ある意味でタバコと似てるな、って思った。でも大きく違っている面もある。
未来の社会の役に立つことって、生産性って重要なんだな、って思った。
追記・
これって赤ちゃんの泣き声を敏感に検知する能力がヒトには備わっているからだとか。
でも動物のすべての才能と同じように能力にも生得的な個人差がある。泣き声に極めて敏感な人にはサイレンのように聞こえるし、その気持ちは鈍感な人には分からない。
子ども苦手は、反社会的な思想かのように見なされがちだが、実は、ヒトの個性・特性の一種だ。
自明に排除していいと考えるのは………… 理解の放棄だと思う。
追記・
耳栓するってのはどうだ?
こんなライフハックを知ってますか? 赤ちゃんの目の前でスーパーの袋をガシャガシャ振ると泣き止むんです。
これは袋の音が母親の胎内の環境音、ホワイトノイズに似ているからだそうです。
同じように赤ちゃんにイヤホン🎧でホワイトノイズを聴かせるというのはどうです?
………もちろん赤ちゃんにそんな事はさせなくていい。
本当は一番大変な目にあってる人たちなんだよな。
現代は最低限社会的に要求されるモラルのレベルも上がっているし、
日本を再興していく政策(とりわけ経済政策)を理解するためには多少なりとも脳みそを使わなくてはいけない。
マスメディアは乗っ取られていて、ある程度のリテラシーがなければ正しい情報も読み解けない。
民主主義を理解できてないから彼らは批判されているんだけど、ガチで理解できてないんだよ。
頭使えといったところで本当に理解できない人たちなんだよ。ここが重要で、彼らはそういった能力を生得的に持っていない。
批判している側が、自分達と同じ水準の脳機能を有していると勝手に思ってしまうことが、実際にはひどい差別になってしまっている。
彼らが現代にフィットできないのはADHD等の高度機能障害と同じようなもので、
差別反対とやっていることが、現代において最もケアを必要としている人たちを追い込んでしまっている。
いわゆるトランス支持者の主張に、セックスはジェンダーに規定される、というトンデモ説がある
以下の論文で示されているが、「セックスにもジェンダーの部分もあるよ」という話が、誤訳によって「セックスもジェンダーである」という話にすり替えられている。
結局、誤訳によってものを考えているから、トランス支持者の主張は支離滅裂になるんである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/63/3/63_341/_article/-char/ja/
It would make no sense, then, to define gender as the cultural interpretation of sex, if sex itself is a gendered category. Gender ought not to be conceived merely as the cultural inscription of meaning on a pregiven sex(a juridical conception); gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established.(Butler 1990: 10=1999)
2 文目に注目していただきたい.竹村和子の訳では「ジェンダーは,生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない.ジェンダーは,それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである」(Butler [1990]2000=1999: 29)となっている.しかし,竹村の訳から,merely とalso の意味が抜けていることは,バトラーがこの一文でおこなっていることを不明瞭にしてしまう.つまり,このように訳すべきなのだ.「ジェンダーは,『たんに』生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものだと考えるべきではない.ジェンダーはまた,それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことで『も』ある」
こんな意見をみて、なるほど…🤔、と思った。
ぐうの音も出ない。正面からロジックで否定できる人はおそらくいないだろう。
子どもたちに SDGs と多様性を教えていく中で、「他人は警戒するな」と説くわけにもいかない。
だからと言ってウソをつくわけにもいかない。大人がウソをついたり誤魔化したりすると子どもは必ず見抜く。
提案がある。
「警戒に足る経験の積み重ねがある場合に限り」、警戒を差別の例外にする。
……ってのはどうだ?
これならば例えばレイプされた経験から男性恐怖症に陥った少女を責めたりも出来なくなるし、化粧品売り場の女性販売員が寄ってくる男性客に身構えるのも擁護できるようになる。
警戒って実は、本能だと思う。
本能を抑圧して隠したりするのが理性の役割だと思いがちだけど、人間の内側にある生得的な本質から目を背けてそれが存在しないフリをするのは理性じゃない。ただの現実逃避だ。
こんなこと匿名でないと言えないけどさ。
僕は個人的には今こそ、改めて今こそ、現実を直視するべきだと思う。
追記・
女性へのAEDも一切しなくなるけど、ホントにそれでいいんかw
ホントにそれでいいんかwwwwwwww
注意深く読んで欲しいんだけど僕は「警戒に足る経験の積み重ねがある場合に限り」警戒を差別の例外とすべき、と申し上げました。
女性へのAEDで男性が訴えられたケースは過去一度もありません。ですよね?
これは生得的なものというより、"男性規範"の一種の現れ、「お気持ち表明」を軽んじる文化と表裏一体だと思ってる。
よくSNSや同人界隈に限らず「男性は内面の言語化が下手だ」的なことが言われるけど、
男性同士のコミュニティは相手の感情に寄り添う、という形のコミュニケーションが極端に少ない。
男性でもショックを受ける人は居るのかもしれないけど、「ショックを受けた」なんて声を上げても
大義がなければ誰も取り合わないしそれが皆わかってるからわざわざそれを表現する人も余計居なくなる。
実際、自分も嫌いな表現はあるけど版権関係者でも絵の依頼主でもない自分が
口を出す正当性なんてこれっぽっちも感じないからわざわざ言わない。
社会的な性規範の内在化されたものを心の性と呼ぶのは大きな誤りを孕んでいる気がしてならない。人間の心がまずあると仮定してもそこに性別があるなんてどう考えてもおかしな話である。これはLGBTの方々への権利の制限に賛成する話ではない。むしろあらゆる権利はあらゆる個人とあらゆる形式の集団に付与されるべきである。
婚姻制度なんてものはあらゆる人間のあらゆる組み合わせに対応すべきであり現在の状況がおかしい。そもそも法の下の平等概念からして法に男女という概念を持ち込んだやつの頭がどうかしている。同性婚を禁止している現民法はどう考えても憲法違反である。そして重婚を禁止するのも、複数人による婚姻を禁止するのも憲法違反である。というのが私の個人的な意見だ。また恋愛感情などという定義不可能なものを前提としない純粋な資本の接続制度に作り変えるべきだと信じている。これはただの意見だ。もちろん国家や宗教のいくつかのレゾンデートルの一つとして性規範の固定化があるのは言うまでもないことであるが、そもそも国家も性規範も大嫌いな私にそんなものを持ち出しても意味などないし届かない。
しかしそれはそれとして、心の性などというものは私には看過できない概念だ。そんなものは存在しない。血液型性格分類と変わらない無価値で有害な幻想だ。
近年、ある程度は心の性がない人という概念も広く知られはじめてはいるがそれはあくまで特別な人とされている。多くの人にはどちらかの心の性があると考えられている。これがおかしい。そんなものはある訳がない。常識的に物事を考えろ。心の性なんてものは元々人には備わっていない。これは事実であり現実だ。
心の性概念などというものはくだらぬ性規範が内在化されたものにすぎない。自由主義においては規範の内在化に反抗すべきであり、あらゆる性規範の破棄を求めるべきだ。社会的性などというものは当たり前だが許されない。そして性を前提とされない社会においては心の性なんてものはある意味がない。よって存在しない。そこにあるのはどういった生殖器が付いているかによる機械的分類だけだ。我々は人間である。まともな社会においてはそれより先にはなにも要らない。
女に生まれたが心の性が男である、というのは現在の性規範に縛られた糞のような観念だとあり得る。確かにあり得るがそれは性規範を内在化してしまっている、という意味では従前のゴミのような性別概念とほとんど差異はない。結局のところ自由度が2から4に増えるだけだ。そんなちっぽけな自由など自由ではない。無限のバリエーションのある心を二分法で分類する心の性と呼ばれるものなど許される訳がない。性規範を信じる人間と性差別者に本質的な差異などない。心の性なんてものはその実際として現在の性規範に照らし合わせて自身の価値観をどう縛り付けるかを考えより良いものを選択した結果にすぎない。二者択一のジェンダーのうちより自身にとって有利なものを意識的にもしくは無意識的に選択した結果に過ぎない。
心の性など存在しない。そもそも性別などは付いている生殖器の違いに過ぎない。付いている生殖器によって何かしらの束縛を受ける謂れなど我々にはない。自由主義において我々はこう言い切るべきではないのか。
そしてそもそも人は自らを知り得るのか。
恋愛は性欲の詩的表現を受けたものであると言う。恋愛感情という自己認識としてのその主観事実を否定するべきではないし、当人の自己認識は自由権のもとで尊重されるべきだ。しかし性欲について言及した今もう一度考えてみたい。人は独りでに心の性を持ち得るか?
持たない。上述のとおりである。
人はあくまでも社会的に心の性を与えられるだけである。もちろん心の性というものは確かに存在し得るがそれは生得的なものではなく獲得的なものである。身体機能としての性に一対一対応した心の性なんてものはない。ある訳がない。あるのは社会的性の役割であり、ジェンダーと呼ばれるものだ。
スカートを履き、可愛いものを好み、ピンク色が好きで、私立文系に進み、事務職をする、男に恋愛感情を抱く実存。のようなそういう唾棄すべきステレオタイプの集合を心の性と言っているにすぎない。
人が持つのは極めて純粋な身体機能としての性と、社会的な役割としての性の二つだけだ。そして後者は破壊すべき対象である。心の性などというものはそもそも存在すべきではない。
めちゃめちゃ語られてるし、めちゃめちゃ内部対立している。
理論的整合性重視のアカデミ系フェミは、MTFトランスジェンダーに対して基本的に理解が深い。というか「MTFトランスジェンダー」という概念自体、そうしたアカデミ系フェミと諸セクマイとの相互作用の中で練り上げられてきた経緯がある。ノンバイナリーも同様。
それに対して、「女性の感覚」の根幹に生得的女性性を置く在野のフェミの多くは、MTFトランスジェンダーに対して基本的に敵対的で、MTFトランスジェンダーやノンバイナリーについては沈黙しがち。
FTMトランスジェンダーについては、「女性自認から離脱した存在」で女性表象をめぐる闘争との直接の関わりが薄くなるため、どちらの陣営からもMTFトランスジェンダーほどには言及されない。あえて言えば、アカデミ系フェミの方が理論的にそれを位置づけようとする意欲が強く、彼らの主張の中にはちゃんとFTMトランスジェンダーの居場所がある。
一方で「女性トイレはシス女性のみがアクセスできる空間にすべきだ」と主張するタイプの反トランス寄りの在野フェミは、FTMトランスジェンダーの扱いについては基本的に無関心か、意図的に言及を避ける傾向がある。「FTMトランスジェンダーは男性トイレを使うべきだ」と言うことも「FTMトランスジェンダーは女性トイレを使ってよい」と言うことも、彼らのMTFトランスジェンダー排斥の主張との間で矛盾や摩擦を生むため。
もう少し具体的に言うと、「FTMトランスジェンダーは男性トイレを使うべきだ」と主張することは、彼らの立場で言う『生物学的女性』をシス男性限定の空間に放り込み、男性による性被害のリスクに無理矢理直面させることになる。一方で「FTMトランスジェンダーは女性トイレを使ってもよい」という主張は、「男性的外見を持ち、女性を性的対象とするトランスヘテロFTMがシス女性限定の空間にアクセスすることは(彼らの立場ではトランスヘテロFTMも『生物学的女性』であるにも関わらず)シス女性にとって性的脅威になりうる」という自明の現実と矛盾する。だから反MTFトランス派は、FTMについては明確な立場を示しにくい。
一般的に反MTFトランス派の論理は、FTMトランスジェンダーに対してそのロジックを反転適用した時に、いろいろとボロが出がちです。
採用で地頭が良い人を採りたいよね、という文章を読んだ。そのために地頭の定義に取り組んだ過程が書かれているが、上手くいかなかったらしい。
そりゃそうだ、地頭が差す何かは、実態を持たない。みんなのそれぞれの理想が「地頭」という言葉でなんとなく括られている。
自分の経験で言えば、大学の名前と知能テストである程度、ラインは引けると思う。
しかし仕事で地頭の良い人を採りたい、と言う時、会社や仕事に貢献する形でその地頭の良さを発揮してほしい、という意味だ。
帳簿をちょろまかしたり私腹を肥やしたりするために発揮してほしいわけではない。
やるべきことだけやって、あとはサボるという姿も求めていない。
指示を聞き、最低限求められていることには応え、プラスアルファの結果を出し、他の人より早くこなし、何人分かの業務を一人でまかなえてほしい。
これが地頭の良さに求めている姿だと思う。
さて、地頭の良い人と、会社の利益のために努力できる人というのは、同じではないと思う。
より良い結果を求めて努力できる人間と、そうでない人間がいる。
地頭の良さというのが生得的なものではないか、と考えられるように、努力ができるかというのもまた、生得的なものだ。
つまり、たとえ「地頭の良さ」で採用を絞り込めたとしても、その地頭の良い人が、会社の利益のために努力してくれるかは別の問題だと考える。
学歴と知能を備え会社の利益のために努力できる人間を見極める手法、また、そのような人材が応募してくれる取り組みが必要だと思う。
なんか両極端な感想が多いのは、あえて主語を大きくして言うと「男性には忌避される」「女性は受容しうる」物語構成になっているからだと思うな。
https://anond.hatelabo.jp/20221022121601
この感想、読解について少し思うところがあったので書いておきたい。自分は漫画よりも演劇とか脚本の方が馴染み深いので。
最初に書いておくと、他人様の人生や他所のご家庭に物申せるほど人生を生きてないので、あくまでも"漫画"や"作劇"としての話になるよ。
まず、エッセイなんだから随筆、いわゆる散文であって、そもそも構成やパターンが無い。何しても良い。
そういう意味で、例えば三幕構成じゃないとか起承転結が無い、みたいな批判はできない。
別にエログロじゃなきゃいかんとか、カタルシスが無いと、みたいなのも無い。
じゃあ、何を言いたいのか、それは伝わってるのか、という点だけ気にすれば良い。
その意味で、"ある特定の読者には受容される"お話の流れになっていると思う。
それが、"漫画が読めるハッシュタグ"と銘打つには弱いのがポイントだと思う。
良い点と悪い点をリストアップしてみる。
最初に"受容される理由"からだけれども、共感を得られやすい物語構成になっている。
多かれ少なかれ自身ではどうにもならない理由で嫌われたり上手くいかないことは、まあ良くある。
そして、それを克服するのではなく、受け入れる、その上で前に進むというのは、前向きなメッセージ性を持つ。
だから、特に前半の「生きているだけで嫌われる」という部分に共感する人には、とても良いコミックエッセイになっていると思う。
次に"忌避される理由"だけれども、何の解決も行われていないから、に尽きる。
例えば、嫌われる理由が最後まで明らかにならない。"生きているだけで嫌われる"ことが自明のこととして描かれている。
空気が澱んできた、という描写も、特に解消されない。なんかよくわからないけど嫌われる、そして虐められる、という流れが覆らない。
そうすると、わが子を見て「ただ生きているだけで嫌われることがありませんように」という祈りは、ゾッとする描写にしかならない。
なんなら笑顔じゃなくなったわが子と折り合いが付けられない可能性すら感じさせるコマで終わっている。
(コミックエッセイなんだから好きにしたら良いんだけれども)一般受けする形式に寄せる場合ね。
例えば、包丁を突き付けられるっていうのは結構インパクトがある。そんなバイトある?と思うかもしれないけどワリとある。
俺は一度角材でぶん殴られたことがある。まあ、工事現場で交通誘導に失敗したからなんだけど。
まあ、「ドタマかちわったろか!」みたいなのは、生死に直結してしまう職場では結構ある。
だから、例えば調理場で色々言われて慌てふためいて、フライヤーの油を高温のまま床にぶちまける、みたいな事故も起こる。
「作業中閉めるな」と書かれた札をうっかり見落として、閉めて鍵をかけたうえで、定時に職場に自分しかいないので困って鍵を持ったまま自宅に帰り、次の出社日に返せば良いかとノホホンとしていた実例を知っている。(警察沙汰になったが幸い閉じ込められた人は無事)
何でこんな話をしたかというと、「あの包丁を突き付けられたのには、実はこういう前フリがあった」という対比があれば、ずいぶん違ったと思うから。
そういう意味では発達障害を持った人にとっては、これは"話を盛る"って部分にあたる。
「私が調理場に入ると、いろんな人にフォローしてもらっていた。それは私だけだったかも」とか。
「手順書や説明書が理解できずに、いつも必死に努力して自分なりに書類を埋めていた」とか。
「事務職で無視されるようになったきっかけは、自分では努力しても覚えられないので、同じことを5回ほど聞いた時だったかも」とか。
捏造してでも、「なぜ」を入れることで、「虐めや悪意」が「怒りや失望」に転換される。
自分のせいじゃなかったんだ、発達障害だから虐められたんだ、この子は虐められないと良いな、少なくとも私は理解者だよ。
これは、共感する人もいると思うし、受容されやすいメッセージ性を持つと思う。
まったく同様の意味合いで、これがホラーの導入部だと受け取られたり、苛立ちをもって忌避される構造を持っている。
ある人が日本の職場で生きづらい特性を持つ、そういう人も生きやすい世の中になると良いね、というのと
その特性が職場のどこかに負荷をかけたり、ことによって生き死に関わる危険を持つというのは、同時に満たせてしまう。
でも、件のコミックエッセイにおいては、虐めとして表現され、自分のせいじゃなかったと安堵までされている。
受容の物語が、"自身の受容"以外を一切排除した形で描かれると、忌避感を持たれやすい。
これは、夫や両親、友人や過去の同僚への回想でも良いけれども、他者とのやり取りを通じてその受容が描かれると忌避されることがグッと減る。
もしくは職場では無くて人間関係で悩んでいたという前半部に置き換えて、いまは特性を理解してもらえるよう人間関係を構築しています、とか。
他者を交えた分かりやすい受容の物語の方が、受け入れられやすい。
結構な数の物語が、ある障害を乗り越えるもしくは乗り越えられなかった、というパターンを持つ。
前半部で示された障害が「虐め」であり、乗り越え方が「受容」であるなら、オチは「許し」であろう。過去虐めていた人を許す。
前半部で示された障害が「生き方(労働)」であり、乗り越え方が「受容」であるなら、オチは「生き方を変える」であろう。労働以外に生き方を見出す。
つまり、「生きづらさ≒虐め」を「受容≒私のせいじゃない」としてオチが「祈り≒理解者」とすると、次の展開は「わが子が虐められる≒生きづらい(≠私だけはわかってあげられる)」になってしまう。これは「虐め」という障害を、「受容」して乗り越えた結果になっていない。わが子にバトンが繋がってしまっているがゆえに、解消が行われなくなっている。
いまのままだと、わが子にも同じ苦難が待ち受けており、特にそこに救いはない。
(辛い時期に「お前も結婚して子供を持てば救われるよ」と母から言われるのってバッドエンドでは?)
逆に言えば「わが子が虐められる≒生きづらい≒私だけはわかってあげられる」にするのであれば、障害は「誰もわかってくれなくて苦しい≒理解者がいなかった」にする必要がある。
この場合は、「理解者がいない」という障害を「診断結果を受け入れた自分が理解者になる」ことで乗り越えて、オチが「わが子には理解者がいる(私はダメだったがこの子は大丈夫)」になる。
エッセイなんだから自由なんだけど、狭い読者層向けのつもりで一般的な人に読まれるハッシュタグをつけると、齟齬が生じて疲弊することがある。
あんまりエッセイ漫画では乗り越えられなかったパターンを見ることは無いんだけど、実は演劇なんかだとそういうのも良くある。
まあ、「失踪日記」とかは乗り越えられていないパターンになるのかな。あれも他者の目線が入ることでああ困った人だなあでも楽しそうだなあ関係者の皆さんは大変そうだけど、みたいな可笑しさが生まれていると思う。
そういう意味では作劇とか全無視して、とても良い質感のクソ職場の虐め描写と同じ質感で今の家庭の会話を描き出すだけでも、かなり一般からもらうフィードバックは変わると思う。
一部読者が「私はわかってるよ」とラブレターを出すだけで救われる作者が多いのは事実だけど、やっぱ一般受け狙うなら一般に受け入れられやすい構成の方がお得よ。