はてなキーワード: 収束とは
これから鍋料理の季節だけど、自己主張が強い性格なので鍋料理を食べる時に鍋奉行キャラ認定されるのが本当に辛く、
正直、鍋料理だけでなく、大勢で限られた量の食材を調理しながら食べる食事形式が苦手になっている。
BBQにしろ、鍋料理にしろ、「奉行」が仕切ってきて美味しく食べられたためしがない。
完全に奉行が調理から配膳までこなすのなら、全員が調理しながら食べる鍋を囲む必要がそもそもなく、
指示だけ出して後は奉行の指示を守らない人を注意してくるパターンなどは、黙ってその席を離れるレベルになったりする。
何で成人して何年も経つのに、基本的な食事マナー以外の個人差がある食事の作法にまで口を出されなければならないのかと、
早くとらないとなくなるからと言って、ウェルダン好きな俺にレアを押し付けてくると反応に困るんだよ、
食べるという行為に必死になって、ゆっくり食べる時間を確保されず途方に暮れている人に「なんだ鍋奉行タイプだと思ってたw」とか言うな。
早くとらないとなくなると言う位なら、少し余る位を材料の用意を考えてほしいし、
別に食事マナーを激しく逸脱する食事をしていないのに、俺ルールのご高説をぶつけないでほしい、育った家庭環境はそれぞれであり、
普段の食事ではそういった主張はしないのに、ここぞとばかりに自説の押し付けをしなければならない程、鍋は高尚な料理なのだろうか。
「それなら全員が食べ終わって残った物を温めて食べればいい。」と言われた事もあったが、
実際に家族で食事する時でも遠慮して最後に一人で食べる事がある経験をしているので、ここまで高圧的に言われると、
人に対して配慮する事とは何なのかを悩んでしまう。言い方悪いけど、動物的すぎないか?
こういった主張を他の人から聞いたことが無いので、これも自己主張が強い話に収束してしまうのかと感じていて、
話した時の、周囲の何を言ってるんだコイツという視線が辛くて、ここ数年鍋を食べた回数なんて片手で数えられてしまっている。
ああ、鍋の季節が来た。
ルールを理解した最初の感想は、ゲームになるのか?これ。だった。
お互い何が何を動かしてるかわからない状態に、読みなんてあるのか?と。
もやもやした状態が消え去り、正体がはっきりする。
だが、解説を読んで、驚愕した。
「いかに自軍の駒の確率を収束させず、いかに相手の駒の確率をを収束させるか。」
いつもの将棋のような攻防揃った陣形にならないため、王将が出現すると、かなりすぐに終局にすすむ。
逆に言えば、守りは自分の王を収束させないこと。攻めは相手の王を収束させること。それを目指せばよい。
王将を収束させるには、ほかの駒達を収束させればよい。守るときは、その逆をすればよい。
すなわち「いかに自軍の駒の確率を収束させず、いかに相手の駒の確率をを収束させるか。」となる。
この「確率を収束させる」という行為、これは、まさに可能性を奪う行為である。
互いの運命をかけた、可能性と可能性の奪い合い。
明らかに、背景にドドドドドとか付いちゃうよこれ。
高度な読み合いの上で展開される、超攻撃的な性格を持ったゲームだったのだ。
自身の運命を収束させるという行為は、もしそれが量子将棋なら、悪手である。
いろんな方向に駒を動かしても、いつかその駒の動きが決まったときに
でも、運命はまだ幾重にも重なって、その可能性は開いてる。
自分という可能性を急いで収束させる必要なんて無いのではないか。
駒を動かしていれば、いつか名前がつくだろう。
それまでは、たくさんの読みを働かせていればよい。
終局した時、開始位置のままの駒が、歩に収束していた。
ほかの者達の動きによって、彼らの運命は奪われた。一歩も動かずに。
全能なんだから、確実に収束させない能力も同時に必要だから問題ないでしょ。
そもそも収束するというのは時間軸が必要だけど、神様に時間軸はないから問題ない。
神様はすべての時間軸に偏在しているから、人間の収束とは概念が違う。
それにこの話の問題点は、その能力というのは人間から見てという観測点の話がシュレディンガーだから、まず
自分が持ちあげられない岩ってって、シュレディンガーの猫でしょ。
箱のなかに(つまり並行する世界の中には)1つの岩が神様が持ち上げられる岩である確率と、持ちあげられない岩である確立が同時並行で存在していて収束していないんでしょ。
1つの岩が同時に持ち上げられる岩である世界と、そうでない世界が同時並行で存在していて、それを任意に神様は選べるんだから問題ない。
偏在している神様にとっては、どちらかの世界に確定しても、残りの世界が消えるわけではなく、やはり、依然として存在しているんだから、両立する。
いずれの神様に関する矛盾にしても、我々は観測できないという1つの事象により、シュレディンガーの猫と同じ考え方で存在可能。
この記事を発端にツイッターを始めとしてネット上で様々な「デフォルメとは」が語られているがそれは置いておくとして。
いやはやこのぬこねこを名乗る人物は自分の手を汚さずに自分を持ち上げさせ敵勢力を排除させるヤの字の組長のような才能に長けた人物である。
だが悲しいかな、自分の手を汚さないがゆえに、彼はこの議論において自己価値を高めるには至っておらず、
その上で自分の正しさに裏打ちを得たような錯覚のみを得るにとどまり、
わたしは デフォルメしか描けません これがわたしの絵柄なのです 今の自分の絵柄が大好き あいしてます 手を抜いてるつもりはない 可愛い絵を完成させる事に いつも全力を尽くしてる なのによく「本気絵まだですか」とか「ガチ絵がみたい」とか言われる デフォルメは手抜きにみえますか?
ここから議論もどきは開始されるが、このつぶやきから発せられている議題は"デフォルメは手抜きにみえますか?" であることが分かる。
が、それは囮の議題でありこの記事の意味するところは「私(ぬこねこ)の絵がいかに素晴らしいか」「私の絵に臨む姿勢は正しいんだ」に収束しているのが
記事の編集内容から、そもそもに自分と取巻きのリアクションを自分で編集している、という点から読み解くことができる。
彼は怖いのだ。
自分の絵が「手抜き」と呼ばれることが。自分が「いつも全力を尽くしてる」絵が軽く見られるのが。
絵にせよ音楽にせよなにがしかの表現活動を行うものはこういった局面に達した時に「ならば手抜きに見えない絵を描けばいいんだ」といった"自己の発展"によって
自分の抱えるコンプレックスを払拭するのだが、怖れを抱えたぬこねこには自己発展の修了を待っている時間的余裕が無い。
彼は即時的な恐怖からの脱却を望み、その結果が「自分自身は完成している」という自己評価になる。
「これがわたしの絵柄」なのだから、私は自己発展の必要がないのだと。
彼の不運は自己防衛行動だった自己技術の停滞時点ですでに彼が満足できる必要量のファンが集ってしまったことである。
彼らは常に自分を褒め称え、彼らは常に自分の絵に喜んでいる。ぬこねこにしてみればそりゃそうだ、手を抜いていない全力の、私の完成された絵なのだから、といった所だ。
彼らといる限り自分のコンプレックスは覆い隠されている。ぬこねこは安住の地を得てしまった。
完成された「わたしの絵柄」を"正当に"評価する集団に囲まれ甘美を享受する日々を送るぬこねこだったが、そこに邪魔者がやってくる。
「本気絵まだですか」
眠っていたコンプレックスが呼び起こされる。なぜだ?私の絵は完成している。なぜだ?私の絵はいつでも本気で描いている。なぜだ?なぜこいつの目には私の絵が「本気絵」とみなされないんだ。
・・・・・・そうか、こいつは私の絵のような、「デフォルメ」という様式そのもののことをわかっていないんだ。なるほどなるほど。私のせいじゃない。
コンプレックスに向き合えない人間というのは、つまり自己否定ができない人間であるため言い訳の弾数が豊富である。
彼は悩みをTwitterに打ち明ける。2つ持っているアカウントのうち、自分が選んだ人間しか見ることのできない非公開アカウントの方に。
彼らは期待通りにデフォルメは難しいだとか技術を要する高等なものであるだとか「デフォルメ」のことを褒めちぎってくれた。
どうだ聞いたか。デフォルメはすごいんだ。つまりデフォルメを描く私はすごいんだ。よかった。私には否定される要素がない。めでたしめでたし。
彼は気づかない。彼が促した、彼が望んでいる意見は「デフォルメ絵は是である」だから、気づけない。
デフォルメが優れていることとぬこねこの絵が優れていることに関連性が薄いことに気づけない。
自分から議題の焦点を「デフォルメ」にしたためにコメントに登場する「ぬこねこさんの絵が好き」や「ぬこねこさんのような絵を描きたい」の価値に気づけない。
「本気絵まだですか」の言わんとしていることに気づけない。
ぬこねこよ。彼らの表現する「本気」とはディテールの多い絵や等身の高いキャラクターのことではないんだ。
「ぬこねこ絵」でこたつを囲み鍋を突くキャラクターが見たいんだ。
「ぬこねこ絵」で描かれる"キャラクターが"暮らす日々を、"キャラクターの"生き様を、"キャラクターの"本気を、見たいんだよ。
どうして気づかない?・・・・・・否、お前は気づいているが無視している!「わたしの絵柄」がちょっと歩くだけで崩壊することを知っている!!
歩く絵の!座る絵の!食べる絵での!「わたしの絵柄」を持っていないからだ!!
知っているよな!?お前の取巻きがお前を助けるために言った言葉を!!
「デフォルメは少ない情報量でパフォーマンスを発揮しなきゃいけないからむしろ普通の絵より難し」いんだ!!
「如何にこのサイズで何処まで描き込んだりするかとか全体のパーツのバランスをどうするかとか」考えなければならないんだ!!
「少ない線でキャラクターの容姿・ポーズが分かるってのはすごい事」なんだよ!!
鳥を、雲を、飛行機を!「わたしの絵柄」で描いたことがあるのか!?
デフォルメには2種類の絵があると聞いたことがある。
1つ目は、単に細かいのが描けないから大雑把に描くという、よくある甘えといわれているデフォルメ。
2つ目は、細かい事まで把握した上でデフォルメ化したとき、見えにくいところを簡略化する上級デフォルメ。
というのが前にあったな。
お前は、どっちだ?
正直、ヤラせ感満載のプロビッチな女優たちが喘いでいてもあまり興奮できない。
きれいなお姉さんがセックスをしている映像をみて満足できないというのは、ある意味、性的な何かをこじらせちゃってる(=変体)かと思って、ちょっと自分的にはビビっていたけど同じ感覚の人がいたから、少し安心した。
最近の作品で唯一要望を満たしているメーカーは綜実社という無名メーカー?の「ナンパ連れ込みセックス隠し撮り」というタイトル。
部屋に来てダベって、イチャイチャを仕掛けてセックスまでたどり着く。
若き日のぼくが憧れた姿がここにはある気がした。
つまるところ、盗撮以外はヤラせ感が出ちゃって興奮できないということだと、自分では自覚している。
ただ、盗撮以外でヤラせ感がない作品なんて、映画とかに出てる演技派女優を使ったとしても難しいんじゃないかとも、思う。
結局のところ、どこに収束するべきかは分かっている。
「週刊文春」(2013年10月17日号)でCHAGE&ASKAのASKAは「シャブアス」騒動の顛末について語っている。
私がこれから書きたいことは、これまでの騒動の経過も含めて、この一連の騒動について客観的にどう理解すればよいのか、ということ一点に絞られている。それゆえ、既存の情報以上のハナシは一切存在しない。
まずはことの経過をまとめよう。
事件の前哨をなったのは、7月24日の「東スポ」であった。「超大物シンガー深刻な薬物中毒」という見出しをつけ、「超大物シンガーXの名前を公表すれば、日本中が大ショックを受ける」というスクープを掲載したことであった。そこには、そのシンガーのものと思われるシルエットも載せられ、2ちゃんねるをはじめとし、麻薬中毒とされた「超大物シンガーX」とは誰か、とおおいに波紋を呼んだ。しかし、宇宙人やツチノコの存在までも「発見」し、「スクープ」にしてしまうこの三流紙には、誰かを犠牲者にして盛り上がりたいという品性のものや、冷やかし半分の野次馬根性の持ち主しか、まともには反応しなかったであろう。
事件が大きく進展したのは、8月1日発売の「週刊文春」(2013年8月8日号)によってである。「シャブ&飛鳥の衝撃 飛鳥涼は「覚せい剤吸引ビデオ」で暴力団に脅されていた!」というあまりに衝撃的な見出しとともに、ASKAが暴力団から覚醒剤を手に入れ、それに完全に依存し、またその吸っている姿が盗撮され、その盗撮ビデオをもとに脅迫をうけているといった話が、圧倒的なリアリティをもって、書かれた。そこではまた、文春記者のインタビューに答えるASKAもあたかも中毒によって精神不安定であるかのように、揶揄的に誇張された姿で描写されていた。その記事は「Yahoo!Japan」や「MSN」のトップニュースにも載せられ、日本全国に「シャブ&飛鳥」というイメージが伝播された。
CHAGE&ASKAの事務所は、即日、その記事について、「事実に反しており、大変遺憾です。弊社としてはこれらの報道に対し、厳重に抗議いたします((なお、2013/10/9現在この事務所コメントは削除されている。))」と、これを否定した。
後追い記事もでた。東スポ((8月2日・3日・4日・5日・6日))やフラッシュ((「FLASH」(8/20・27号)・8/6(火)発売))がそれだが、それについてはまともに相手にする人は少なく((後者に関しては内容がそれ自体としてあまりに齟齬のあるオソマツなものであった。))、それは今のところは脇に置いておこう。
むしろファンたちに打撃を与えたのは当の事務所コメントであった。というのも、完全に事実に反しているのであれば、名誉棄損で訴えてもよいレベルの記事を書かれているのに、「厳重に抗議」だけで済まそうとしているからだった。さらに、ASKAが直接メディアに姿をあわらし、たとえば記者会見などをするなど、本人からの釈明がないことが、結果的にはさらなる不信感を募らせ、疑惑を深めることになった。
そこにあらわれたのがASKAの友人であるNAOMIのブログである。NAOMIは、ASKAとメールや電話などでコンタクトをとれる状態にあること、さらに「北海道時代に反社会的な友人など一人もいない」とASKAが述べ、ASKA自身はいたって普通の生活を送っていることを発信した。ファンクラブからまず発信されないことに憤りを感じるファンも少なからずいただろうが、しかしNAOMIの言葉はASKAが無実であることを信じるファンにとっては喜ばしいものであっただろう。
8月7月発売の「週刊文春」(2013年8月15日・22日 夏の特大号)では、スクープの第二弾を読んだものの、新しい情報や決定的な情報はほとんど存在しない、いわば前回のスクープの焼き増しのような内容であった。唯一見るべき内容といえば、チャゲアスサイドは事務所コメントに反して「抗議」などを全く行っていなかった、ということだった。
チャゲアスサイドのあまりに弱腰な対応に、ファンたちは、ASKAの無実を信じたい気持ちを持ちたいと思っただろう。「信じたい気持ちを持ちたいと思った」というこの言い回しは、しかしながら、維持されるべきものであるとおもう。ファンたちもまた心から何の疑惑ももつことなしに信じることが難しくなっていたのである。
膠着状態は長く続いた。twitterやblogを頻繁に更新していたChageも、ぱったりと更新をやめてしまっていた((しかし、8月25日にはBlogを更新した。鳩の飛ぶ様子を写したその写真は、ASKAの歌った「廃墟の鳩」をあらわし、「人は誰も悪いことを覚えすぎた」という冒頭の歌詞を示唆している、と推測する記事も出たが、むしろこれは「飛ぶ鳥=飛鳥」ということで、ASKAのことを暗示しているに過ぎないのではないか?))。8月中ごろから9月下旬まで、決定的な証拠がでてくることもなく、また無実の証明((だが、それにしても、なべて、無実の証明などどのようにして可能なのだろう!))になるものもなく、疑惑のみが独り歩きをしていた。
ASKAからの直接の否定コメントがでたのは、9月27日のことである。そこで語られたことは、「記事にあるような、違法なことは一切やっていない」ということ、「音楽関係者といって近づいてきた人」と金銭トラブルに巻き込まれていたこと、これが最も大きなものである。
9月27日に発表したのは、ファンクラブ会報発行の時期に併せてのことであろうが、この対応の遅さに「シャブ抜き」をしていたのではないかと訝しむものもあり、後味のわるい終結ではあるものの、これで、一応事件は終結するもののように思われた。しかし、10月9日発売の「週刊文春」(2013年10月17日号)で、事件の全貌についてASKAは告白することになる。
「週刊文春」(2013年10月17日号)によれば、文春記者を呼んだのはASKAだった、「男と男の話し合いをしたい」。
・「覚せい剤を売ってた」とされる山本が北海道時代の同級生というのは間違い。山本は北海道で仲間と飲んでる時に知り合った人。
・覚せい剤をふくめ、非合法とされる薬物を使用したことは生涯を通じて一度もない。
・ある時、寝起きが悪いASKAに山本がお土産として「アンナカ((正式名称は「安息香酸ナトリウムカフェイン」。ねむけ、倦怠感などに通常用いられ、医院で処方される薬である。))」を融通したことがあり、山本が薬事法違反に抵触する((「薬事法」第24条第1項および第84条がそれに該当するものである。なお、ここで違法とされるのは「買った側」ではなく、「売った側」すなわち山本である))
・盗撮ビデオは存在するが、それはガラスパイプなどを準備してきて、これを使えば少量の「アンナカ」で済むと言った山本に従ってガラスパイプを使って一度吸引したところを盗撮されたものである
・その盗撮ビデオをもとに、五千万円を貸してくれ、と言われていた((「貸してくれ」だからASKAは脅迫だとは思わなかったとあるが、盗撮ビデオをばらまくと言われ、金を貸してくれと言ってくる行為は立派な脅迫であり無理がある))
・今までこの事実を言わなかったのは、弁護士など身の回りにいる人々と相談した結果である
といったことである。
これらのことをASKAが「週刊文春」から告白したことは今現在、ファンも含めてネガティヴに大きな波紋を呼んでいる。次にそれらに対して答えよう。
Q.1)ASKAは覚せい剤をやっていたにも関わらず、今さら覚せい剤ではなく「アンナカ」だと嘘を言うのは白々しいのではないか?
A.1)やっていたという確証はどこにあるのか? やっていない確証をだすことはほとんど不可能に近いけれども、やっていたという確証は掴めるものである。また、疑惑だけで人を貶めることは私は正義だとは思わない。本人が「やっていない」と言うのだから、それに対して反論を唱える者は、まず、やっている証拠をださなければならない。
Q.2)ASKAは嘘をついていた!
A.2)「嘘」の具体的な内容とは具体的に何を指すのか? 「週刊文春」(2013年10月17日号)で語られたASKAの言葉が正しいのであれば、私見の限りでは、嘘は一切存在しない。ASKA本人は、事務所コメントに書いてあった通り、何一つとして違法なことをしていない。
Q.3)ASKAにはやはり「黒い交際」があったから、芸能界から追放されるべきではないのか?
A.3)そうではない。たしかに、山本は客観的には暴力団関係者であったけれども、それをASKAには話していなかった。それゆえ、その時、ASKAの主観的には山本は暴力団ではなかった。その時に客観的に知ることができないのであれば、それを客観的に知ることを要求することは人間の能力を超えており、神しか成し遂げることのできないことだ。それゆえ、暴力団と知りつつ交際している別の例との比較は成り立たない。また、ASKAはこの事件のうちで、主観的に悪をなしたことはほとんどなく、ASKAは誠実な態度を保っていると評価するべきであろう。唯一あるとすれば、それは山本の薬事法違反を容認していたことであり、もちろんそれについては反省をしなければならないであろうけれども。
Q.4)事件が収束したかに見えたのに、よりによって「週刊文春」に独断でインタビューを受けて、文春記事について一部認めるのは、よりイメージがわるくなるのではないか?
A.4)そのとおりであるように思う。もし記事にされることを承知の上でインタビューを受けていたのであれば、事務所などイメージ回復に努めようとしている周りの人びとに対しての配慮に欠けていて、またイメージ回復のための戦略的部分に関して致命的に悪い対応をとっている。戦略的部分においては、行為の動機ではなく行為の結果のみが通用する((「週刊文春」は今回の記事によって、事実上、前回の記事への自己否定をおこなっている。「週刊文春」は謝罪記事を乗せることなく、事実訂正に成功している。これを戦略的勝利とよぶのである))。それゆえ、ASKAは事務所などに対して謝罪をする必要があるように思われる。もし記事にしないことを条件にしてインタビューを受けたのであれば、あまりに人を誠実に信じてしまった「善人」である。イメージ回復という「戦略的部分」でしかない領域から見れば、やはりASKAは配慮に欠けていたと言わざるを得ない。しかしながら、人を誠実に信じる者と、誠実でない者の、どちらが「悪人」なのであろうか?
消費税って、行政が課す無慈悲なタイプの寺銭だよね。いわゆる外形課税。
ちょっとそれにまつわる話をとりとめなく書き綴ってみる。ほんとにテキトー。
外形課税に比べると儲かっているところからだけ取る法人税なんかは大幅に温情がある(庶民的視点から見て)と言えるのだけど、いいことばっかりじゃない。
(「節税」コスト・税務署とのバトル・ロビー活動による引き下げ圧力など)
その法人税の引き下げ前倒しと消費税増税を同時にやるってあからさますぎるので、挑発行為か勝利宣言的な何かだと思うのだけど、まぁそれはさておき。
仮に単純に消費税増税+公共事業増発をするとしてそれが何を意味するかを考えてみた。
まず、消費者向け商品がメインの企業の、(消費税借受金を除いた)売上高は減少傾向になる。
一方で、増えた分の公共事業を受注する企業の売上と利益は普通に増加する筈だ。同時に、役所の事務コストも増加するのは確実。システム投資なんかも増えるだろう。
ちなみに、個人的に鳥来るタウン伝説は信用していない。
お金の流れを水に例えるなら、本当に重要なのは物を押し流す水圧(お金はモノを動かす媒介なのだから)の筈なのに、そこを(おそらく意図的に)無視しているからだ。水圧=可処分所得ぐらいのキャスティングだとみると、滴ってくる水滴には悲しいほど価値がないことが分かると思う。
すなわち、一部業界を優遇した効果のうち本当に重要な部分=(利益や可処分所得)というのは他の業界や労働者には誤差レベルでしか反映されないと予想できる。
それで消費税増税+公共事業増発をペアでやったとしてそれが何を意味するかという話に戻るけれども、以下の3点に収束すると思う。
まぁハッキリ言って増税分景気対策します!とかいうのは誰に対して言い訳してるのか皆目ナゾ。
次に、なんで消費税なんだろう(他の税金ではなぜいけないのか)という事について考えてみると、これは推測が入るけど多分数字のトリックを狙ってるからだと思われる。
まず消費税3%増税という名称の響きからは所得が3%削られるのと同等というようなイメージがあるかもしれないけど、所得税を3%上げて消費税と同等の増収になるかというと明らかに無理。所得税には各種控除があるし、何より個人の所得になった分にしか掛けられない。
一方で、消費税であれば、個人所得にはつながらない企業の支出(=燃料とかの消費分や、設備投資なんかに化けた分の内部留保、廃棄した材料など)の分にも掛けることができる。そしてその分売上(税込)が伸びる企業ばかりならいいが、消費者向け商売をしているところの売上(税込)は、国内累計では確実に増加が望めない。
こんな状況で所得に跳ね返るパーセンテージが0%で済むはずがない。支出の実効額の減少分1.05/1.08-1=2.778%と所得減少分n%の合計まで感情(計算は難しいと思うので勘定とは言うまい)に入れて、初めてどの程度の影響があるのかを喧々諤々するべきだろう。
ns(t+1) = ns(t) + p*(n(t) - ns(t)) n(t+1) = (1+a)*n(t) n(t) = (1+a)^t n(0) ns(t+1) = p*(1+a)^t n(0) + (1-p)ns(t) ns(t) = p*(1+a)^{t-1} n(0) + (1-p)ns(t-1) = p*(1+a)^{t-1} n(0) + p*(1+a)^{t-2} * (1-p) n(0) + (1-p)^2 ns(t-2) = ... = p*n(0)*(1+a)^{t-1} * sum_{k=0}^{t-1} ((1-p)/(1+a))^k + (1-p)^t ns(0) = p*n(0)*(1+a)^{t-1} * ( ((1-p)/(1+a))^t - 1 ) / ( (1-p)/(1+a) - 1 ) + (1-p)^t ns(0) = p*n(0) * ( (1-p)^t / (1+a) - (1+a)^{t-1} ) / ( (1-p)/(1+a) - 1 ) + (1-p)^t ns(0)
n(t)がステップtの総人口でns(t)が自殺する輪廻にある人口、pは新たに自殺する人間の割合でaは人口増加率な。
これをよく見れば大体何世代で全員自殺する輪廻に収束するか分かると思う。紙が無いから計算間違ってる可能性は多いにある。
面倒なのでpとaが十分小さいと仮定すると(あとns(0)は0とする)
ns(t) = p*n(0) * ( (1-tp) * (1 - a) - (1+(t-1)a) ) / ( (1-p)(1-a) - 1 ) = p*n(0) * ( -tp - a - (t-1)a ) / (-a -p) = p*n(0) * t
お、tについて線形になった。ほんとか???pとaの比率によって収束しない場合はあると思うが何故かどっかいった。検証してない。
改善するとか悪化するとかいうのを(一階)微分の正負に喩えてしまうのも本当は微妙なのだがまだこっちは普通の人も使いそうな文学的比喩として読めなくもない。
が、二階微分とか収束とか、それはもはや数学じゃないか。例えば速度と加速度のような関係を想定してるだろ? 定量的な議論にしかなりようがないだろ。
1から2への変化は2から3への変化と等しく3から5への変化の半分である、という議論に意味がないなら、そもそも微分とか意味ないわけだが、例えば順位の推移なんかはこれが当てはまらないから微分しても意味がないって話(尺度水準云々はこういうことです)。
社会の変化が加速減速しているというような比喩表現は確かにあるけどさ、それは社会の変化を空間上の運動としてとらえた詩的表現、それこそ実に文芸的なものであって、そこにガチの数学概念の二階微分とか収束とか持ち込むのは無理だ。
いやだから、俺は、微分くらいなら文学的比喩表現としてまあゆるく許せなくもないが、そのような操作が可能なモデルが立つかどうかもわからんのに二階微分とか収束とかバカなんじゃねえの、東大理系にそんなバカがいるわけねえ、という話をしているので君とそんなに変わらんと思うのだが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BA%E5%BA%A6%E6%B0%B4%E6%BA%96
文化資本格差ってのは、せいぜい順序尺度じゃね? と俺は思っている。そうじゃないというのならモデルを立ててくれればいいんだけど、とりあえずそれなりに使えそうな数量化が出来ると納得させてから微分や二階微分や収束の話をしたほうがいいんじゃないの?
んー、政治ではないんだけどね。俺が言ってるのは、例えば、ニコニコ動画の順位の推移を微分、まして二階微分や収束を論じたって数学的に意味ないよねってことで。
文化資本格差ってどんな尺度で測られるものなの? ってのは、微分をやる前に問わなきゃいけない問題だろうという、科学をやる場合の基本の話だと思うのだ。
「直近で微分が正である」程度の雑な表現なら、まあ、直近で見れば改善してるんだな、くらいのゆるい(文系的?)比喩だと取ればありっちゃありかなと思うけどさ。
二階微分とか収束とかってもう本気で数学だよな? じゃあ考えなきゃならんのは、文化格差はどのような尺度水準で数量化されるのか、ということなんだが。
名義尺度はOKだろ。順序尺度ではあるかも。間隔尺度・比例尺度は無理じゃね? それで微分とか収束とか使えるのか?
という混ぜっ返しが入りそうなことを言うのを「話をややこしくする」と言うんじゃないかな。
そもそも東電や国や国民が変なのは100%完璧に事態を収束させなければ!と思っていることで
被害を最小限に食い止めつつ、被害が出ても事態を改善することというフェーズが見えないことだよね。
地下水がー 汚染水がー 以前に 炉心に到達できねばどうにもならぬ。
今必要なのは、汚染水の情報ではなく、炉心関連のマイルストーンとその達成度。
炉心を取り出して、完全管理下に置くには建屋の水を抜いて、解体する必要性があるが、たぶん、汚染水に関わっていては建屋の水が抜けないというのがロシアの指摘でおそらくそれはそのとおりなんじゃね?
もちろん、調査に調査を重ねそのかん増え続ける汚染水は貯蔵し続けるというのはそれはそれで正しい選択だと思うけど、炉心の状態が次に改善するのはいつか?というのがまったくわからんというのが問題だよね。
2020年東京オリンピックが決定した9月8日早朝。その日、我々日本人は否が応でも7年後の日本を想像せざるを得なかったわけだが、日本の未来を予感させる出来事は同日夜の恵比寿リキッドルームでも起きていた。
今回のライブは、ceroとして久しぶりのワンマンライブだった。タイコクラブに始まりライジングサンに至るまで、全国津々浦々と様々な夏フェスに出演してきた彼らは、一回りも二回りも成長した姿を見せてくれた。ボーカルの高城は自ら今回のライブを「文化祭」と形容したが、オープニングアクトの表現(Hyogen)や、サポートメンバーの面々と力を合わせて作り上げられたステージには文化祭のごとく熱いエネルギーが集約されていたと言えるだろう。
満員のリキッドルームで観客たちが開演を待ちわびる中、開幕したステージに現れた高城。ZAZEN BOYSよろしく「死ぬほど練習をして、マツリスタジオで練習をぶちあげてきたので」と観客から笑いをとる。そして、告知されていなかったオープニングアクトである表現を紹介するとさっと身を引き、表現の演奏が始まる。
アコーディオン、バイオリン(一曲目のみ)、アコースティックギター、ウッドベースの4人組からなる表現はceroと関わりの深いバンドだ。ギターの古川は高城と高校の頃からの知人であり、その後もceroと表現で互いに切磋琢磨してきた仲だ。お互い尊敬しあえるバンドとして成長を遂げた両者が集い、久しぶりの対バンとして出演する彼らを見て高城は舞台袖で涙を流していたそうだ。
さて、表現の演奏はというと、全員がコーラスを務めているのが特徴的だ。セリフのような歌詞をメンバー全員が声を張って歌いあげる様はまるでミュージカルのようである。スキャットやハミングを多用し、途中ポエトリーリーディングのようなシーンも挟まれることによって、声の持つ魔力を改めて感じさせられた。もちろん楽器の演奏も素晴らしく、アンプラグドな楽器のアンサンブルによるオーガニックなサウンドは、その名に恥じぬオリジナルな「表現」となっていた。ceroがコンテンポラリーでエキゾチックなロックオーケストラであるのと同様に、彼らもまた名前通りに素晴らしいバンドであった。
ceroを見に来た観客も大満足のオープニングアクトであったが、ceroの開演までは20分ほどの転換があった。幕の裏から聞こえてくる様々な曲の断片は、これから始まる演奏への期待を高めるには十分だった。
いざ幕が上がり、「セロセロセーロ」と叫び続ける入場曲と入れ替わりで始まった一曲目は“水平線のバラード”。ステージには点滅する6本の蛍光灯を背景に、メンバーが立っており、イントロはスタジオ版にないトランペットから始まった。しっとりとした雰囲気で始まったステージだが、ノルウェイの森風のイントロから入り軽快なラップが冴える二曲目“ワールドレコード”でフロアのテンションは急激に引き上げられる。続く三曲目“マウンテンマウンテン”の4つ打ち部分では後ろの方までほぼ全員が音に身を委ね踊っていた。
盛り上がった後一息つくかのように挟まれたMCで、高城はceroと表現の辿ってきた道を振り返る。そして「世界で唯一表現の全員とデュオを組んだことがある人」と名乗る荒内を「音楽ビッチ」呼ばわりするなどしてステージが暖かな笑いに包まれたところで次の演奏へ。
いつの間にかステージから消えて戻ってきた高城。傘を片手にレインコートを羽織った高城が歌うのは“21世紀の日照りの都に雨が降る”だ。続く“エキゾチックペンギンナイト”では「パーパパパー」と全員が高らかに叫び、フロアをより一層祝祭的空間へと引き込む。少し落ち着いて始まった“クラウドナイン”も結局はcero特有の「祭」感へと収束していくのだった。
二度目のMCはサポートメンバーの紹介から始まる。今までになく多くのサポートメンバーを迎えた今回は、ceroのメンバー3人+サポート5人の8人編成だ。トランペットやスティール・パンをこなすマルチプレイヤーMC sirafuのみならず、サックスやタンバリンを担当したあだち麗三郎、表現での演奏とは変わってパーカッションの古川麦、ドラムの光永渉、ベースの厚海義朗という5人のサポートメンバーがそれぞれ紹介される。
ひと通りメンバー紹介が終わると、スタジオ版に比べて遅く重厚な“大洪水時代”のイントロが始まる。この曲から始まったVIDEO TAPE MUSICによるVJは、フェイザーのかけられたノイズギターと相まって、我々を水中へと誘う。そして、ノイズの海の中へと一筋の光が射すかのように響き渡るのは、高城によるフルートの音色だ。最後には全員がしゃがみ、背景であったスクリーンが前景化される。水中の映像、そして流水音のSEと水の映像しか受け取ることの出来ない状況はまさに大洪水時代といったところか。そして、海つながりで次に演奏されたのは“船上パーティー”。VJには男女の横顔が交互に映り、高城は一人二役でセリフを言い合う。スタジオ版でも印象的な「ちょっと待った!」のセリフの後はじれったいほどのタメにより、聴衆をより一層演奏へと引き付ける。そうして引き付けられた我々観客が次に耳にするのは新曲、“我が名はスカラベ”。メルヘンチックな歌詞とVJは、初めて聞く我々も十分楽しめるものであり、聴衆はみなceroのニューリリースへの待ち遠しさを煽られたに違いない。
新曲披露後のMCでは、大洪水時代から加わったVIDEO TAPE MUSICの紹介。そして最近高城のハマっている「文化祭」というキーワードに関連してTwitterにおける高校生のつぶやきや、ceroのメンバーそれぞれの思い出などと話が弾む。
再びメンバー紹介から入った曲は“Contemporary Tokyo Cruise”。本ワンマンライブの表題曲とでもいうべきこの曲ではミラーボールがきらめき、最も「祭」感のある曲だったかもしれない。そして音は途切れることなく、思わせぶりな長い間奏から始まったのは“マイ・ロスト・シティ”。2ndアルバムの表題曲でもあるこの曲では「ダンスをとめるな」という歌詞、その通り踊り続ける客、ダンスをする人々を映すVJが一体となっていた。
短めのMCを挟んだ後、演奏されたのはまたもや新曲、“yellow mangus”。ムーディーなサックスから始まり展開されるのはceroお得意のディスコビート。そしてこれまた長めの間奏からはじまるのは“わたしのすがた”。途中挟まれる8ビートの部分では赤い照明が似合うほど激しい展開で、普段とは違った一面を見せてくれた。
最後の曲の前には今後の活動を仄めかすようなMCを挟み、演奏されたのは“さん!”。観客と共に「いち!に!さん!」と高らかに叫んだ高城は29歳の文化祭、最後の盛り上がりを演出した。
しかし、我々の文化祭はまだ終わらない。アンコールを期待する拍手に応えて登場したのは高城と橋本。残りのメンバーも続々と登場し、最後の最後に演奏されたのは“大停電の夜に”。ゆったりとしたメロディーはまるで蛍の光のように、我々を切なくも満たされた気分へと導き、文化祭は幕を閉じた。
実は、最後のMCにおいてなんとも頼もしい言葉があった。高城は、表現やVIDEO TAPEMUSICのような仲間たちを見ている中で「日本の音楽がこれからまたちょっと変わっていくんじゃないかな」という実感を述べた後に、「俺達が変えるぞみたいな気概を感じている」と宣言したのだ。変わりゆく東京の風景、そして変わりゆく日本の音楽シーン。7年後、東京オリンピック開催を前に我々はこの日をどのように思い出すだろうか。29歳の文化祭には「ここから何かが変わっていきそう」な予感、そして希望に満ちあふれていた。あの晩、もしかしたら我々は時代の目撃者となったのかもしれない。
だいたいタイトルの部分で(煽りも込みで)書いてしまったが、数日前からとある画像が出回っている。
https://pbs.twimg.com/media/BTQ-1ZeIMAIasy9.jpg
「鳥居みゆきのガチメイク」という説明がなされたこの画像は2chまとめブログやTwitter、NAVERまとめなどで話題になり、数日が経った今でも拡散を続けている(大元と思われるツイートは現在14000RTされている)。
ところで、私は鳥居みゆきがメディアへの露出を始めた2008年頃から一貫して彼女を追っている。最近はそうでもなくなったがその頃はチェック可能なすべてのテレビ出演を観ていたし、今でもライブや舞台などには可能な限り足を運んでいる。
その私がこの画像を最初に観たとき、「これは別人だ」と感じた。
直感的なものでうまく説明はできないが、とにかく別人だと思った。もっとはっきりいえばたいして似ていないとも思う。
Twitterで他の鳥居ファンのアカウントを見ても「あれは別人だよね?」といったツイートが並んでいた。
「鳥居さんは自撮りしないしね」
その通りなのだ。何百枚と鳥居みゆきの画像を見てきたが、自撮りの画像なんて見たことがない。彼女の(ファンが把握しうる限りの)性格ともマッチしないし、そもそもブログもTwitterもやっていない鳥居の自撮りなんて出回る機会がないのである。
(この時期に検索能力の高い鳥居ファンによって、大阪のデリヘル嬢の画像であることが判明した)
やがて、鳥居の現場マネージャーである森田拓馬がツイートで公式に(というには口調が弱いが)否定した。
https://twitter.com/moritatakuma/statuses/375535050495766529
私が見たときにはさっそく鳥居ファンがRTをはじめており、私はこのツイートをきっかけに自体は収束するものと思い込んでいた。
しかし全然そんなことはなかった。森田のツイートはある程度RTされたが、それを遥かに上回るスピードで画像は拡散されていっている。今でも。
森田の上司である小林チーフマネージャーがツイートを被せても効果はなかった。
鳥居ファンの端くれとして、今私は困惑ともなんともいえない気持ちである。
鳥居の情報を求めて検索をかけてもノイズが多くまったく使い物にならないし、何より別人の画像をつかまえて「鳥居みゆきが綺麗なことなんて前々からわかってただろ〜」とか書いてる連中にももううんざりだ。
まあ鳥居ファンでもなければ問題の画像が鳥居みゆきでないことなどわからないから仕方なくはあるのだが、しかしバカっぽい。というかバカだ。俺に言わせれば出所のわからない画像を、クソみたいな画像投稿系botを通じてRTなんかしてる奴は全員バカだ。botの管理者とまとめブロガーとNAVERまとめにしてるヤツはクズだ。クズがバカで金稼ぎしてるクソみたいなインターネットだ。あ〜〜〜〜〜〜クソどもが!!!!!!!!!!!
ともかくアフィブログがデマを大々的に拡散してるのは事実なので誰か影響力のある人が取り上げてバカどもが恥をかきますように!!!!!
いやー・・・なんか、すみません・・・ほんと。下にもちょろっと書いたけどのりかけた船なんで収束するまでやってみようかなという気持ちです(でもこれで最後かもしれません)。どうせそろそろホッテントリから落ちるだろうし。いただいたコメントにもよるかな。基本的に反論いただいた方に返信という形なんで、それ以外のコメントがスルー状態になってるのはすみません。心のなかですごく頷いたりしています。
id:bit8 「セルフブクマ 元増田さん、よければ意見の参考にどうぞ http://bit8.hatenablog.com/entry/2013/09/02/233544」
→ブログでも取り上げてくれてありがとう。全部読んだよ。何事も経験して当事者の立場にならないとわからないもの、だよね。刃物の取り扱いの話、障害者の立場を体験する話、これらはブログに書いてたその通りだと思う。俺もネットリテラシーの授業で「匿名炎上体験」や「匿名誹謗中傷体験」を擬似的に経験できるなら、良いやり方だと思う。でもさ、今回のって擬似じゃないんだよね。ガチでチャットやらされて誹謗中傷増えてきたところで実名さらされちゃうの。大人は疑似体験させたつもりかもしれないけど、子どもにとってはまったく擬似じゃないよね、これ。
id:Junpecon 「昔から影口言ってたら誰かがチクって修羅場になったことなんかあったし、それで学校生活が台無しになったかっていうとならなかったよ。ローカルのネットだと台無しになっちゃうの?」
→学校生活が台無しにならなかったのはあなたの個人的な経験だと思うけど、それを一般化して「大丈夫」とするのは無理があるよ。悪口が人間関係を壊すきっかけになるのは十分想定できる話で、しかもこれは何度でもいうけど、大人がわざと「匿名だよー」って嘘ついてまでさせる経験なの?って話。子ども同士が日常で喧嘩したり、ときに陰口言い合ったりは勝手にやればいいと思うよ。でもネットかリアルか関係なくそれって大人が仕組んでわざわざ体験させることじゃないよね。
id:arakik10 「授業の実施されたコンテクストや状況がほとんどわからないまま、あの記事を基にしてほぼ匿名の各自(増田も)が脳内補間してコメントが百出すること自体に、あの記事の授業で起きたことと相似的な何かがあるのでは?」
→あの記事だけではわからないことがあるのは事実だよね。俺が今してるのは、今ある情報だけでなんか有意義な議論がしたいということ。情報が全部出揃わないと議論スタートできないんじゃあものごと進まないし、実生活でも限られた情報で自分にできることをしないといけない場面はたくさんある。その中で適当な予断で無責任なこと言っちゃうって俺も含めコメントにもその種のものってあると思うけど、そういうのが一定数出てくるのは、およそ議論と名のつくシーンでは織り込み済みとすべきであって、要は受け取る側がうまく取捨選択して消化すればいいんだよね。
しかもこうやって便所の落書きみたいな匿名の増田でさえ、こんな記事があった、あんなこと紹介されてるって、コメントやトラバで情報もらって、手持ちの情報は増えてきてるんだよ。それに比例して、今後俺自身、同種のトピックに対するアンテナ感度があがると思うしこうやって色んな人の意見見て、コメントしてること自体が、今後考えを深める土台になるの。俺自身は教育者じゃないけど、子どもがいたり孫ができたりするわけだから、この話題って今後何十年、折々に考えていきたいトピックだと思ってるわけ。
それに文字通りコメント百出してるけど、罵詈雑言や誹謗中傷なんてほとんどないよ。コメントしてくれてホントにありがたいと思ってる。これだけなげーと全部読んでくれる人は少ないので、書いたことを何度も説明しなくちゃいけない労力はかかるけど、いいかげんホッテントリからも落ちて収束するだろうし、そのくらいはいいかと思ってる。こんな増田の使い方ってあんま見ないけど、誰に迷惑かけるわけでもないし、コメントもらえる今のうちに楽しんでおこうかなという感じだな。
id:kumonopanya 「この人は減点主義の人、一度失敗したら取り返しがつかない、今の日本社会そのものの考え方を持つ人。こんな考えの人だけが昇進していき社長になるんでは?銀行マンのドラマとかこんな人が昇進していったような。」
→世の中にはトライアンドエラーで失敗しながら改善していく方がよい結果が生まれることって多いし、ときには「えいやー」でやっていいこともあるよね。俺もそういうやり方大好きで、仕事では、別に人の生命や人生に直接的に関わる仕事でもないんで、むしろ失敗は成功の元の精神でやってるよ。この授業ってどうだろう?俺はこのやり方はときに子ども同士の人間関係壊したり大人への不信感を生んでしまうリスクもあると思ってて、トライアンドエラーの引き換えとするにはちょっと収支が吊り合わないなって思うわけ。減点主義って言うけどさ、俺はリスキーな問題には「減点加点主義」でありたいと思ってる。リスク次第では減点部分は甘めにして、加点は逆に盛ってみたり、あるいはリスクがほぼゼロなら完全に「加点主義」でオッケーだよね。繰り返すけど俺個人は減点主義じゃないです。問題の種類によって減点主義と加点主義とそのミックスの間を行ったり来たりしている人間です。
id:hyougoishin7 「この程度の失敗を取り返しがつかないと考える親がいるから、子どももそれを感じてYESマンでビクビクして、目に生気がない子どもに育つ。過保護すぎ。守ってるつもりが逆に脅してる事に気付こうな。」
→俺は上にも書いているように、子どもは喧嘩やトラブルを通して人付き合いを学んでいくものだと思ってる。無菌室で育てたいとは全く思っていないよ。・・・が、大人が用意したバイキン室に、子どもには「ここは安全な部屋だよ」と嘘をついて入れたいとは思わないよ。大人だってそうだよね。会社の上司に「匿名だからここに会社や上司同僚へいいたいことをなんでもいいから書いて」と紙を渡され書いて出したら実名で貼りだされたらどうなの?という話。
id:kmyken1 「(追記)小学校ならば、という条件付きだけど。RT @kmyken1: 小学校ネット教育、匿名→悪口多数→実名公開ボタンポチッとの件。いろいろな議論が出ているが、自分はこのような授業設計には賛同する立場。」
→授業設計という言葉が出たけど、俺はそこに一番恐ろしさを感じるよ。「誹謗中傷が散見されるようになってきたら実名ボタンを押す」みたいな授業プランがはじめから用意されてるわけ。「誹謗中傷が見られるようになったらチャットを中断する」だけじゃないんだよ。この違いって怖いと思わない?
id:tokoroten999 「悪口聞かれたら人間関係が破綻するってのが非常にネット的小町的な狭い価値観だと思うけどね。悪口聞かれたり聞かされたりって全部避けて通るわけにはいかんじゃろ?」
→そうかな。上にも書いたように、俺は悪口が人間関係の悪化に繋がるのは一般論として十分に想定されることだと思う。ネットかリアルか関係なく、大人か子ども関係なくね。全員がそうだという話じゃないし、あなたもきっと悪口言われてもうまくリカバーできる人なのかな。子どもたちも、日常で喧嘩したり悪口言ったりまた仲良くなったり、いろんな経験して人付き合いを学んで欲しいと思う。だからといってさ、大人がチャットで誹謗中傷させて、しかも後出しで名前をさらすというやり方しなくたってよくね???わざと子どもにそういう体験をさせるのが教育上望ましいの?という話なんだよ。これが有効なら、ネット教育云々とは関係なく、これまでも行われてきたはずだよね。
id:dal 「子供に負荷を与えてはいけない論てどういうことなんだろう。負荷なかったら何も覚えないじゃんね。」
→わざと「匿名だよー」ってだまして負荷与えるやり方どうなん。子どもって大人が邪魔しない限りは、自由に喧嘩して仲直りして、人付き合い学ぶものだと思うよ。大人が作為的に負荷あたえるのって、日常の学級生活で班行動したり、休み時間遊んだり、学級会で討論したり、係活動、委員会活動、クラブ活動、修学旅行、林間学校で集団生活を経験したり、そういう形で十分やってると思うよ。ネットリテラシー教育をするにあたっても、もっと他にやり方があるだろうという話をしている。少なくとも匿名だと言っておいてあとで裏切るやり方は学校でも会社でも認められないでしょう。
id:khtno73 「小学校の友達ってそんなに大事かね。社会との接点もよくわかってないときに痛い目を見るのは超大事だと思うけど。自分は今もつながりあるのが高校大学以降の連中なのであまり感じないのかな。」
→どうせこのあと大事じゃなくなる友達だから云々って、それ超怖い考え方だよ。大人がそう言って痛い目みせる実験台のようにして授業する社会ってぜったいイヤだし、「どうせ付き合いなくなるから喧嘩する練習やー」なんて、そんな考え方する子どもにも育ってほしくない。そもそも、そんなこと考えてる子が将来高校大学以降の友人たちとまともな友人関係築ける人間に育つんかな。小学校時代の失敗が結果としてその後の人生の糧になるという話ならともかくさ。あなたの言ってることそうじゃないよね。
id:ktasaka 「2回目ですが、教師が学級経営をハンドリングできていないという前提はどこから出てくるんですか?増田は自分でも簡単に学級経営ハンドリングできると思ってるんですか?」
→どもです。教師が学級経営をハンドリングできていないという前提をおいた覚えはないよ。そう受け取れる部分があれば指摘してください。あとは前回の質問と同じだと思うのでコピペさせてもらうよ。→「教師の学級経営が信頼できるかどうかという属人的かつ大きな主語の話をするつもりはなく、あくまで今回の授業手法の是非の話です。どんな授業手法であっても結局は教師次第じゃないかと言うかもしれませんが、であればなおのこと、わざわざこのようなリスキーな方法をとらなくても、他にいくらでもやり方はあるんじゃないかという話をしています。「自分でも簡単にできると思ってる?」については「ネットリテラシー教育を自分でも簡単にできると思ってる?」という意味かな?「親として子どもにすべきことをしっかりしたい」と考えていますが、それはこの増田の主旨ではないです。」
前回今回と同じところにこだわっているようだけど、こだわりたい背景や思いなんかを書いてくれるともう少し俺も別のことが書けるかもしれない。
昔の炎上は多少いじめに似た構造もあったが、今はそうでもない。
Twitter炎上なんか、世の中に広く出回るので、余りに社会的倫理に反した論法で叩き続ければそちらが咎められ、やがて収束する。
昔は一部だけで情報が回り続け、まともな人間が居ない状態での炎上だったが、
今はそれなりにまともな人も目にするので、特にTwitter周りでの炎上はいじめとは全く違う。
数年前の2chの中での炎上だと倫理的にどうなの?という様な拡散もあったが、Twitterの件は完全に自己責任だし、特定され、処分を受けるのは当然のことだろう。
その後、ずっと彼らの名前や行方を晒し続ければそれは昔の炎上の様な「いじめ」につながるが、処分を与えられるまで炎上することは何も問題無いと思うが。
まあ、なんか、それぞれ処分が結構重そうだから、もうちょい軽くしてもらうか、処分を外に見せないようにして欲しいけどな。
や、別に処分が重すぎて可哀想、ってじゃなくて、あれをすると処分がこれだけ重い、ってのが知られちゃうともっと隠れてやったりして表に出て来なくなるから。
昔から馬鹿を止めることは難しかったが、これにより、発見し駆逐出来るシステムが少し進歩したのは非常に良いことだと思われる。