はてなキーワード: 中産階級とは
正直自分は今貧困層そのものだ(家庭事情と身体的事情が相まった結果だがそれは別にいい)が、困ってる人がいたらこんな時勢じゃなければ声をかけるし、スーパーの駐輪場でばあさんが自転車を倒したりすれば帰りかけてても手伝ってやるし、泣いてる子供がいれば助けたり、落し物は届ける。言ってしまえば「模範的市民」ってやつにある程度近いと思う。
そして何故それが足枷か?
例えば今回のコロナ禍において、マスク不足やアルコール不足、電池の払底なんかは比較的早期に予想できてて、転売に手を出していればそれなりに利益が出たし、なんならキャッシングやショッピング枠で現金を作って原油のWTIベアファンドでも資産を偽り購入することだってできたが、そういった特需に対して飛びつくことは「人として流石に…」とか思ってやらなかった。
だが今後の不景気や身体面の不安から考えると、そのような小金を稼ぐ行為をせずただひたすら従順に社会的接触を絞り、感染症に対する対策に従っているだけで無為に過ごしている状況はあまり上手い手ではない事もわかってるし、生活に対する努力をしていないという事にもなる。
このままいけば社会的扶助に頼る人間が増える事になるだろうが、そうする前に「人として…」と考え実行しなかった事をやっていた方が自分の為にも良かっただろう。
他人に親切とかそういうお為ごかしを身につける前に、「まず自分が幸せで安定を手に入れる。その後はそれから」と思って行動する意思を持っていた方がはるかに良かっただろう。
そう思いながらもきっとおそらく近所で障害者のための買い出し補助とかいう話が回ってきたら多分応募するのだろうな…その時間で何かバイトでもなんでもやった方がいいというのに。
「文化資本」の話をしているのに「資本」の話をしようとするブックマーカーばかりでびっくりした。文化資本はあっても文字は読めないんだな
[B! 格差] 昼寝猫 on Twitter: "クラシック音楽とかいわゆる古典て家庭の文化資本依存だろ?多くの場合、細民や窮民はやれない。細民や窮民はええ格好してホ−ルで交響楽なんて聞けない。サプライサイドも受益層も中産階級以上。存在がすでに「階層」を区分してる側面がある。" https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/tcv2catnap/status/1211159702446301185
昼寝猫 on Twitter: "クラシック音楽とかいわゆる古典て家庭の文化資本依存だろ?多くの場合、細民や窮民はやれない。細民や窮民はええ格好してホ−ルで交響楽なんて聞けない。サプライサイドも受益層も中産階級以上。存在がすでに「階層」を区分してる側面がある。" https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/tcv2catnap/status/1211159702446301185
演奏家を目指すのであれば、中流よりかなり上の階層出身である必要がありそうだけど、聞くだけならそれほどクラシック音楽って高いわけではなく、ソースも比較的豊富なんだよな。コンサートだってオペラはともかくとして、普通の交響楽や室内楽であればポップスのコンサートよりもぼったくってる訳でもなく、むしろ安い印象が強い。そして、ドレスコードがあるわけでもないので、普段着で行っても別に白い目で見られたりはしない。(まぁそれは個人的な経験ではあるが)
演奏家は「親がクラシック音楽が好きで親しんでいる」家庭からでないとあまり育たないと思うが、リスナーの方は「親は全然興味がない」ケースは少なくないと思うし、そういう家庭でも聴く環境というのは社会に比較的安上がりに準備されているので、多分そういう階層はクラシック音楽だけではなくてポップスを聞くこともまた難しいだろうと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20191103163514
の続きです
ハッキングの偉大な点は、「社会的構築」の定義を諦めてその意図を問題にしたところにあります。いわく、「社会的構築」というのは問題提起のための語なのだと。似た構造を持つ言葉として「搾取」があるとハッキングは言う。彼は例として「中産階級の男女が、代理母を搾取している」とか「大学が、奨学金を餌に、バスケットのスター選手を搾取している」といった表現を挙げる。この2つの用例だけでも「搾取している」の必要十分条件を考えることはできそうにない。しかし、何かそこに問題がありそうなことはわかる(その問題が本当に「問題」なのかは別としてともかくそういう印象を与える)。同じキーワードで言えば筆者は「やりがい搾取」もまたこのリストに入れられると考えています。誰が誰から何をどうやって何されているのかはわからないが、ともかく悪そうなことはわかる。実際、やりがい搾取がどうしていけないのかと論理的に導き出すことは多くの人の望みにもかかわらず永遠にできないでしょう。だからワタミとかのふわっとキラキラした言い訳がいまだに野放しにされているのである(ワタミが「最賃以下で非人道的な労働させたあげく自殺に追い込むの最高!」と言ってくれれば批判は容易だが「ありがとうという言葉は素晴らしいものです」と言うだけでは批判は難しい)。でもって社会的構築主義の意図としてハッキングは次のリストを抽出します。
(0)現状では、Xは当たり前のことだとされており、不可避の事柄のように思える。
(1)Xのこれまでの存在には必然性がない、ないしはそれが現在あるような仕方をしている必然性はまったくない。今日のXのありようは、物事の本性によって決められているわけではない。端的に言って、それは不可避的ではない。
おうおうにして、社会構成主義者は、さらに一歩進んで、次のようにも主張する。
(3)もしXが根こそぎ取り除かれるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、われわれの暮らしは今よりずっとましになるだろう。
どこかで見た論調というか今やどこでも見かける論調ですね。Xには先程のリストのどれを入れてもいいし、「日本」「在日韓国人」「吉本興業を筆頭とするお笑い」や、もちろん「ジェンダー」「萌え絵における女性へのまなざし」「リアルでの性犯罪の対象となる女性」などを代入しても構いません。以下ではX=宇崎ちゃんの献血ポスターとして考えてみましょう。するとオタクはまず(0)で引っかかる。「現状では、宇崎ちゃんの献血ポスターは当たり前のことだとされており、不可避の事柄のように思える」。いや献血ルームに数枚貼られてるだけやし、と。しかし批判者たちは「日赤(という公共団体)が公共の場所に張り出した」という点を持って(0)を満たしていると考えているのでしょう。どこからどこまでが「当たり前で不可避」かはなかなか定義するのが難しそうなので、その点はオタクが譲ったとしましょう。(1)はまあよいのではないか。献血ポスターが宇崎ちゃんである必然性はあんまりなさそうである。確かに宇崎ちゃんのおかげで献血はいくらか増え、その点では必然性があると言えなくもないが、それは高木さんでも多かれ少なかれ同じことであり、批判者たちはどうせ高木さんも批判するのでこの点にこだわってもあまり生産的ではなさそうである。しかし(2)と(3)への「一歩」はオタクにとって断じて受け入れがたいものでしょう。ハッキングも述べているように、この一歩はまったく必然的なものではない。「Xは、現在の状況では不可避なものに思えるかもしれないが、しかし実際は不可避なものではなかった。しかし、だからといってそれは悪いものではない」と考えることも可能であるはずなのに、多くの社会構築主義たちはXへの嫌悪ゆえに(2)(3)へと進む。こうなるともう議論がまとまらなくなります。さらに事態を複雑化させているのは「X=宇崎ちゃんの献血ポスターに/代表される/(オタク)男性/のまなざし」とかの場合でしょう。代表されてねえよとかオタクよりDQNのほうが問題だろとか女はいいのかとかまなざしがどうしていけないのかとか議論百出である。こうなるともう議論は無理でしょう。
ここまで読んで、「社会構築主義ってろくでもねぇな」と思ったあなた、ちょっと待ってください。これが有効に機能する場合もあるんです。たとえばハッキングはX=児童虐待の例を挙げていますが、日本におけるX=セクハラもまた社会構築主義的なフェミニズムがうまく機能した例といってよいでしょう。かつて日本ではセクハラ(という名前すらなかった行為)が当たり前だったが(0)、それはじつは不可避的な仕方のないものではないと女性たち(少し遅れて男性も)が気づき(1)、それが悪いものであると多くの人々が納得し(2)、まあかつてに比べれば圧倒的に改められ女性たちはましな暮らしができるようになった(3)のです。筆者は、フェミニストたちが基本的にこの理屈で動いていると考えており、それ自体はそこまで悪いものだと考えていません。が、今回問題となっているのは(0)についての根拠立て、そして(2)(3)への飛躍(とあえて言いますが)の論理的欠如であると考えています。たとえば太田弁護士の「公共空間で環境型セクハラしてるようなもの」という迂遠な物言いは(0)および(2)への根拠立てが不足していることを示していますし、表現規制との関係では(3)について「もし〈ある表現〉が根こそぎ取り除かれるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、われわれの暮らしは今よりずっとましになるだろう」ということがそもそも可能かが問われており、フェミニストはそれに明確な論理を提出することができていないように思われます。たとえば以前読んだ実写ポルノについてのジェンダー論者による論文では「女性が搾取されている」という点から出発してはいるものの、「なぜ搾取が悪いのか」「本当に搾取されていると言えるのか(ポルノグラフィは時として女性の自己表現であることもありえます)」「ポルノを楽しむ女性はどうなるのか」「表現の自由という人類の権利と女性の権利の兼ね合いはどうか」といった論点を丁寧にすくい、煮え切らない結論に至っていた記憶があるのですが(丁寧な結論はたいてい煮え切らないものです)、宇崎ちゃんについての議論はたいていそうした丁寧さを欠いており、そのために「お気持ち」と揶揄されているように思われます。
最後に筆者の「お気持ち」を表明させていただくとすれば、表現の自由という人類が勝ち取った偉大な権利を、これまでにそれを上回る理屈を持って規制し得たのは児童ポルノと『我が闘争』ぐらいのものであり(個人的に後者はどうかと思ってますが)、それに比肩するだけの理屈付けがフェミニストにできるとは思えないし、そもそもそれができないのは(インターネット上の、と言っておきますが)フェミニストの知的研鑽の欠如によるもののみならず、そもそもそれに表現の自由と天秤にかけられるほどの問題がないからだと考えています。まあこれもかつてセクハラを当たり前だと思っていたオッサンと同じく滅びゆく思想なのかもしれませんが、それならフェミニストの皆さんにはもっと論理的に以上の点を説明していただきたいなあと思う次第です。
どうもMidasファンです。
もう少し左翼に好意的に言っておくとこの件(「消すぐらいならやるな」と憤慨してるひとがいるように)「政治は政治でちゃんとやれよ(天皇制を打倒したいなら『表現の自由w』とか言ってないで現実で打倒しろ」につきる。めざすべきはあくまでも現実世界での天皇制廃止ないしは社会改革であって展覧会で「これがボクたちの考えた芸術です」は単に『表現w』の世界へ逃げこんでるだけ(「現実では何も変えれない」敗北宣言にこれも等しい。
このへんの不純さ、不誠実さが(右翼のみならず)いわゆるノンポリのひとたちの嫌悪感を誘ってるのは疑いないので。結局「歴史上の人物だから問題ないですよね」がいまだに大失言だと気づいてないのはそういうとこ。「これは表現の自由だ」が『政治』になりうるためには当然ながらそんな2代まえなんかの肖像いくら燃やしてもアクチュアリティのかけらもないわけで(「歴史上」は「ノーカン」でしかないので)いまの天皇を燃やすべき。ところが令和の陛下が犯した悪行といえば柏原芳恵にラブレター書いたのと嫁の生理があがってオトコみたいなツラになったくらいしかないのであってその責任を問おうにもポイントがみつからない(お人柄もいいらしいし。
「2代まえのひとだから(歴史上の人物なので」と『表現の自由』だけを切り分けようとするほど政治的には効力を失ってしまうというジレンマがある。「いいかな?」とか言ってる場合ではないのである。かんたんにいうと今回の件が決定的にダメなのは(ちまたで言われてるような)「芸術の政治化(本来はニュートラルであるべき美術の世界に稚拙なプロパガンダ芸術をもちこんだ」からではなく逆「政治を美術化した」から。
政治の美術化とはいうまでもなくファシズムの最も簡潔な定義なので。政治を美術館での鑑賞の対象にするとは現実世界の矛盾を一見みんなで共有してるようでその実は単に審美的な判断をくだすだけ。くり返しいっとくが政治をギャラリーでの鑑賞の対象にして「考えさせられました…」とか言ってるのは現実改革をあきらめたしるしでしかないのである。政治を展覧会のネタにしてはならないとはそういうこと。
たぶんガイジンさんには今回の「表現の自由」いったいなにを争ってるのか全く理解できてないと思う。ちなみに「表現の自由がー」必死に言ってる連中もこれが極めて日本的な『どこに由来してる』か自覚してない。
(まさかと思うかもしれないが)この『表現の自由』はいわゆる『朝日的な』もの(サヨクん)ではなくルーツは雑誌『ぴあ』にある。町山が「はあ…昔の『ぴあ』はよかった…」言ってたのを軽くみてはならない。日本の68年以降の文化史ではそれまで『朝日ジャーナル』を小脇にかかえて歩くのが学生さんヤングのひとたち『かっこいい(政治意識がある』と言われてた。雑誌『ぴあ』はまさに『朝日ジャーナル』の次にあたる。朝日ジャーナルにかわってこんどは『ぴあ』をかかえて歩くのがかっこいいヤングの条件(ちなみに朝日ジャーナルのまえは『平凡パンチ』とか)になった。『ぴあ』がかっこよかったのはいわゆる『情報誌』だったから。
ロードショーから場末のポルノ歌舞伎展覧会にいたるまで情報を『差別』せずフラットに扱った最初の例が雑誌『ぴあ』。フラットに扱うとは『価値判断をしない』。ただしこの『価値判断をしない』がくせものであって…「町山さいきんクソサヨクになっちゃってどうしたの…(脳に毒がまわったのかな」ふしぎに思ってるひとも多いが情報のコンテクストにおける『価値判断しない』は結局は「愚弄する(冷笑する。もちあげない」なので津田やあずまくんにしてみれば「まさかこんな反発くらうとわ…」なのもまあわかる。あの「歴史上だから、まいっかと思って」もホントだったら慰安婦像つくったひとにむしろ「ふざけんな!」言われてるべき態度。
慰安婦像つくったひとは(わたしにいわせればデタラメもいいとこだが)マジで「日本人よ…はんせいしろ」思って(たぶん)あれつくってるので。津田やあずまくんがやってた「表現の自由」実はそこまでの政治性はない。
雑誌『ぴあ』が今週おこってるいろんなイベントをおもしろおかしく無差別にとりあげれたその点において表現が自由だった(ロマンポルノのとなりにハイソな演劇が並んでてよかったね自由な社会で)くらいのニュアンス。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。
高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。もちろんそうしたフラットなあつかいができるのも世の中がへいわで経済繁栄しててみんながそれなりに理解力があって寛容だったから。なのだが(実際に「ポルノと一緒にされちゃたまらん」感じてたひともいるはず。高尚な演劇とかでポルノと並列に扱われたら明らかに「侮辱だ」思うのもまた自然なことなので。『全てをフラットに扱う(価値判断しない』だけでも『表現の自由』そんなに長続きしないしそもそもありえない。
みんな(とくに憲法がくしゃとか)大いに勘違いしてるけどこれ要するにそういうことなので(どうしてこんなかんたんなことがわからんのだという感じ。なぜそうなるかというとつまるとこ『インダストリー』のもんだい。たとえばこんかいあずまくんいきなり前言ひるがえしたりして「なんなのこのひとは…(このていどのこと最初からわかれよ」思うひともたぶんたくさんいるはずだが別に彼らに一貫したものなどありはしないので、こないだまで河村disってたはずのあずまくんいきなり「津田がわるい」になるの丸山ぎいん「みなさんNHK受信料はらうのは国民のぎむ」からの「NHKぶっこわす!」入りと全くおなじ。
インダストリーの問題とはすなわち文化産業の問題であり雑誌『ぴあ』の「表現の自由」が成立してたのはみんなが中産階級だと思ってたから。永六輔とか旧NHKこうした平等な社会の構築に焦点あわせてたしこの環境の産物。こうした文化産業の仕組み(従事してるひとたちも含めまだ巨大なインフラが半ば廃墟と化しながら残ってる)いまどきこれでやってけるはずない(もう残念ながら時代おくれ)と誰もが思ってるのは確かなので。
若干専門的な話でしめとくと(もうネットにたくさんいる情報産業のひとにとっては常識だろうが)おどかすようですまないがこれからは「情報をフラットに」ではなく「差別と排除」の時代なので(あれこれいってもムダ。差別と排除とはゲートキーパーが誰をはじくか決めてその(誰でもゲットできるはずの)情報へのアクセス権がそのひとの社会的な地位をしめすアレ(要は「ブロックだ!」「不可視にする!」みなさん楽しそうにやってるやつ。
表現の自由なんかよりそっちのほうがよっぽどだいもんだいじゃないの?wという感じだが世の中よくできたものでホントに重要なことは展覧会のテーマになんかなったりはしないのである(みんなのメシの種になってるから。
こういう中低所得層あるいは自称高所得層が思考停止で自民党に投票するのは破滅的だと思う。あるいは富裕層の自民支持も含めて。なぜなら現政権による貧富の差の拡大は、中低所得層に直接不利なだけではなく、資本主義市場経済の維持を危うくするという点で、そこから利益を得る富裕層にも歓迎すべきものではないからだ。
37歳男性、既婚子持ち、夫婦フルタイム、年収2000万円超、自己認識は中産階級上位層の一般労働者(労基法的意味で)
所得再分配を軽視しすぎている。逆進的な消費税を増税しつつ所得税法人税を据え置く、日銀マネーを野放図に相場に投入して投資家を優遇する、その割には経済的弱者への財政支出に消極的、など。
貧富の差の拡大がこうした税財政政策の影響だと論証するのは難しいけれど(グローバルな人や資本の移動は一国主義的介入を難しくするので。cf.国際金融のトリレンマ)、少なくとも貧富の差拡大の流れに抗い、弱者を救済しようとする意思が見られないのは大きなマイナス。
なぜ貧富の差が拡大すると困るのか
中低所得層にとって貧富の差が拡大し、自身の購買力が下がることをネガティブなものだと捉えることにあまり異論はないと思う。ではなぜ自称を含む富裕層にとっても貧富の差の拡大は避けるべきものなのか。
第一に、資本主義市場経済から最も利益を得る層として、それを弱体化するような行動をとるべきではないから。このまま貧富の差が拡大し、人口的には圧倒的多数を占める層の購買力が下がれば下がるほど、経済活動が縮小し、富裕層の取り分も減っていくのは当然だろう。
次に、そもそも資本主義市場経済が維持可能なのか、という論点がある。市民の遵法意識が高く、良くも悪くも飼いならされている日本ではあまり心配ないかもしれないが、このまま少数の富裕層が富の大部分を握る構造が強化され続ければ、人口で多数を占める層が現状破壊的政策を志向するようになるかもしれない。共産主義の恐怖は終わったと言われているが、サンダースやコービンは一部で熱狂的な支持を獲得。日本でもれいわ「新選組」が奨学金「徳政令」を掲げた。いずれ令和の「打ちこわし」を扇動する可能性も想定しておいた方がよい。万一そうなる前に、現状を壊さない程度の再分配を進めておいた方が安全。
最後に、治安的な意味での安全のため貧富の差は避けた方がよい。この点も日本人の遵法意識からか路上のひったくりなどはあまり心配ではないけれど、巻き込み型の自滅的加害、流行りの言葉でいえば「無敵の人の自爆テロ」(私はテロという呼称に反対だが)は本当に恐ろしい。
個人的にはこうした犯罪は自己承認の低さや社会的排除がもたらすものだと考えており、経済的支援で直接なんとかなるものではないと思うが、お金で得られる承認や人間関係もあると思っていて、再分配政策とそれに伴う社会的包摂(どちらも自民は弱い、というか伝統的家族観に寄りすぎ)の強化で間接的に抑止していけるものと考えている。
以上、富裕層にとっても貧富の差の拡大は厄介であるとの私見。本邦の自称富裕層やノブレスオブリージュを解さない成金が、現政権による弱者切り捨て政治をごく短期の利得から肯定するのは本当にアホ丸出しだと思う。