はてなキーワード: ザイルとは
ヒモザイルの休載が決まったそう。残念、わりと楽しみにしてたのと、これを機会に一組二組のカップルが生まれればわりといいことだなと思っていたので。
よく言われていることではあるけど、あの漫画に関して男性はわりと寛容で、女性は厳しい人が多い印象。当方も男性であり寛容派。
正直あの漫画に特に悪意は感じなかった。そりゃ漫画を面白くするために面白可笑しい表現もあっただろうけど、具体的にどれが問題なのかもよくわからない。
最初の、主婦(だったか?)がまずかったのか? しかしああいう人が世の中にいるのは事実だし、それを描くのが悪いというのはよくわからない。(漫画の良し悪しと登場人物の良し悪しを混同してはいまいか?)描き方が悪かったのか? 漫画の中で主人公が納得してしまったことが? しかしこの先ずっとアシスタントではまずいことも確かだし、アシスタントも企画が成功すれば幸福になれるような種類の目標を持っているようだった。
思うに、あの漫画を叩いていた人は作者より「更に」お節介なのだ。
あの漫画の作者への批判は「勝手にアシスタントの幸せを決めるな!」というのがあったような気がするけど、それは叩いてるあなたにも決められないことだ。
そして叩いてる人にそれはできないし、作者にはそれができる(作中でもやっていた)
皮肉なことに、他人の不幸を決めつけて結果的に不幸を呼び寄せたのは(幸福への道をくじいたのは)叩いた側だった。
「あんなふうになったらどうしよう」
そう、それだ。あの作品への叩きは「あんなふうになったらどうしよう」だった。
勝手にアシスタントたちの境遇を「不幸」と決めつけ、そこに「問題」があると決めつけ、対話なしに、ただ自分自身の「不愉快」や「怒り」を根拠にぽろっと出てしまった言葉。
主婦の「あんなふうになったらどうしよう」は結果としてアシスタントを幸せに導こうとする「対話込みの」企画を駆動した。
野次馬の「あんなふうになったらどうしよう」は「対話なしに」「対話込みの」企画を停止した。
この差は何か?
単純に、「対話」をどの程度重要視するか、どの程度重要視する人物が周囲にいて、その人の行動をどのように促したか、だ。
思うに批判するにせよ、叩く側がやるべきは連載を(すなわち企画を)止めることではなく、より詳細な対話を促し「不幸なすれ違い」を無くすことではなかったか。
いまとなっては、遅いが。
■追記
コメント欄にも真っ先にこういう反応が……。
>自分がマンガを面白く読むためなら漫画家アシスタントのブラック作業環境はどうでもいい派か。
「あんなふうになったらどうしよう」と、やはり同じ、ということだ。
ヒモザイルを男女逆転させてみました―うわーこれはひどいー男女逆だったら絶対に許されないよーでもヒモザイルは女性がやってるから許されてるんだー許さない―
馬鹿なの?
普通に許されてねーじゃん。批判されてるじゃん。 誰に許されてるんだよ。
お前が燃やしたいだけだろ。 お前が、気に入らないんだろ。
ヒモザイルが気に入らないのは誰? みんな許さないはず、じゃないだろ。お前が、気に入らないんだろ。
それなら最初からそう言えよ。物言いがダサすぎるんだよ。みんなの後ろに隠れて石投げるみたいなマネ視点じゃねーよ。
普段は自分がみんなを応援してるから今日は代わりにみんなが自分を応援すべきってか? いやらしいんだよ。
男女逆だったら許されてねーのかよ。
漫画家さんとアシスタントさんみたいなマンガが普通に許されてるじゃん。全然オッケーじゃん。
何を根拠に男女逆転したら許されないって喚いてんだよ。馬鹿じゃねえの。
おまえさ、それほんとに男女の問題なの? べつの問題を男女問題にすり替えてない?
例えば女社長が男の平社員を虐げる作品の場合、一番重要なのは男女の話じゃなくて、社長と社員という力の差だと思うんですよね。それ、男でも女でも関係なくない? でも、それが女だから許されてるって主張してるわけだよね。でも本当にそうなの? 今実際にあなたが声高に批判するのが自由にできてるわけだから、全く特別扱いなんかされてないよね。
男女どちらでも問題として批判されてるのであれば、いちいち「男女逆だったら―」って主張は成り立たなく無いですか?一体何と戦ってるんですか?
逆に言えば、どういう時に「男女逆にしたら問題に成る」んだと思う?それって、ある関係性においては男女の力関係が不均衡だからでしょう。どちらかが一方的に優位という構造あるいはそういう意識があるからでしょう。
で、優位って何? 男性がパワハラ的なことをやったら過激に叩かれると主張する場合、ってどっちが優位だと思う?
あと、ある作品については「男女逆にしたら非難されるよね」って燃え上がってたやつが同じ口で、ある作品については同じ視点を提示されてもそういうこと言うなんて野暮ですって言うのを山程見てきました。このフィルタ、大して考えずに根拠レスで喋ってません?
自分は世界的大企業で正社員として勤務してそれなりの給料がある。
「あんなになったらどうしよう」と発言した事に批判が集中しているが
・女の価値は24歳まで25歳すぎたらクリスマスケーキと言われるけど非正規男も25過ぎたら価値は無いよな。
・30近いのに非正規やってる男ってロリコンで気持ち悪いアニメばっかりみてるんでしょ?
・うわー、また非正規が犯罪起こしたよ。次はうちの非正規が犯罪おかすかもな。お前は起こすなよw
こいつには何言っても良いと思っていいたい事言いまくる人が多かったんだろうな。
さっきの意見はその時に聞いた話だ。犯罪者扱いされた事も何回もあるし、
普通ヒモザイルに出てくるアシスタントは世間一般からみれば犯罪予備軍で
この先の人生真っ暗なんだよ。近い人生経験したから良くわかる。
非正規のときの同僚非正規は今も非正規で20歳そこらの正規社員の若い奴にあごで使われてる。
東村アキコのヒモザイルでチノパン推されてたけど、チノパンとか綿パン嫌なんだよね
ファッション的には別にはいてもいいと思うしむしろ履きたいんだけど、
オシッコがひっかかったらまるわかりガイドなのがすげーいやなの
オシッコじゃなくても手洗った水がはねたりとかハンカチ取り出すために濡れたりとか
すげーめだつじゃん
食べ物のハネもすごく気をつけないといけないし、汗ジミもすごくつくし。
とれない汚れついたらもう着れないじゃん。
よくジャケットを素肌につくようなファッションも雑誌でみるけど、直接汗がジャケットにつくとかマジ不潔って思っちゃうし。
ファッションより実用性とかダラ性を優先しちゃうから彼女できないんだね俺。
わかってるけど嫌なんだよ
https://twitter.com/sahoobb/status/505525364521570304
要するに、「音楽の話をせずに」、「好きなもんを好きな様に聞けば」いいのだ。
そうやって過ごせれば、こんなに平和なことはないなんて赤ん坊でもわかる。そうやって過ごせればどんなにいいか。
「音楽に国境はない」。とても有名で、とてもすてきな言葉だ。たぶんボブ・ディランの歌詞だろう。音楽関係の名言の九割はボブ・ディランの口から発しているとされおり、すごく有り難い。
ところが現実はボブ・ディランではない。各国の土着・民族音楽に使用されている音源はおのおので笑えるくらいに異なり、「国境なんてないんだ」などとほざいて通じるように聞こえる西洋音階によるポップチャート侵略主義の結果に過ぎない。しかしだ。ここはあえてボブ・ディランに百歩譲りたい。音楽に国境はない。その呑気なテーゼを容認したうえで、ボブ・ディランはこう付言する。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togech.jp/2014/08/30/12027
ここにコメントを書いているブクマカ(死語)は全員、本質を見誤っている。
音楽の話において、人が他人を見下すのはそいつがマイナージャンルを好きだからではない。過去の自分を見ているからでもない。人間は見下すように生まれた動物だから、というのはちょっとあるが、決定的ではない。
女が泣くのは、音楽の話をコミュニケーションの道具に使うからだ。
そもそも音楽の話はコミュニケーションの媒介として非常に燃費が悪い。なんせ、実物がないとその曲がどういうものか、ぼんやりとすらわからない。小説や漫画には筋がある、映画には役者がいる、スポーツには様式化されたアクションが、アイドルや芸能人にはゴシップが、文学にもゴシップが、それぞれ素人にも言語化しやすい形で道具として可視状態にある。
音楽には何もない。楽器に触れたこともない素人二人が互いに片方しか知らない曲の話をする場合、だいたいはエモーショナルでよくわからない表現に頼るしかない。あるいは「いいんだよ」だ。「うまく言えないけど、とにかくヤバイの」。これでは何も伝わらない。即時性を重要視するコミュニケーションの現場では、音楽など、口下手な二人の間で放置され冷めたフライドポテトよりも価値がない。すくなくとも冷めたポテトは「まずい」という互いがすぐに了解しあえる話題のフックを備えている。
なんだ、当たり前の話じゃないか、そんなことは昔からわかっているよ、とあんたは言うだろう。
ところがあんたは昔とおなじくらいに何もわかっちゃいない。
順序を間違えている。
人は他人を見下す生き物であり、だから、音楽の話でコミュニケーションを取ろうとすると悲劇が起こる、あんたはそう考えている。でなければ、あんた以外の誰かはそう考えている。
違う。逆だ。
音楽の話でコミュニケーションを取ろうとするから、他人を見下す生き物としての人の顔が顕現してしまうのだ。これは理屈でも論理でもなく、真理だ。
音楽は門戸がビッチの(ピー)なみにガバガバに広い。食べ物と似た感覚で「うまい」と「まずい」を直感的に判断できる。その直感は、一見まじりけなく、自分の本質、アーイデーンティーティがぁーー♪に直結しているように思われる。
だが、アウトプットしようとなると、童貞のケツ穴のごとく狭窄だ。和音? コード進行? ポリフォニック? Perfumeのゴリラ?
なんだそれは? なんだそれは? なんだそのわけのわからない……専門用語は?
そして、俺を含めた素人の九割はその意味を知ろうとしない。「しろうと」だけに。これは駄洒落でも冗談でもなく、真理だ。いや、ほんとうに。
ゆえに、聞く行為そのものが直感的な好みへ直ケツし、下痢気味の短腸生物のごとく未消化でそのまま「おれのアイデンティティ」へ繋がる。
すると、どうなる?
コミュニケーションバトラーたちは「○○を聞いている俺=俺自身」で勝負するしかなくなる。変化球も切り札も伏せカードも強欲な壺もない、各種ジュアルルールも適用されない生の殴り合い。怯んではならない。ダウンしてはならない。なぜなら、その曲は「俺」の魂そのものであるからだ。
それはかつて冷戦下で想定された最悪のシナリオに酷似している。発動されてしまった相互確証破壊戦略。スクリーンを飛び出してしまったスター・ウォーズ。後には誰も残らない。灰と水曜日以外、残らない。
20XX年、ここは音楽の話の核の炎に包まれた日本だ。モヒカン(ゲスの極み乙女。)が汚物(イグザイル)をルールする日本だ。
みんなが音楽の話をしている。フェイスブックで、twitterで、日常会話で、好きなアーティストを主張しまくっている。もう手遅れだ。
最初の女の嘆きに戻ろう。すまない。君には嘘をついた。「君一人が黙ればすむ」だなんて。
でも、さっき言ったように、ほんとうはもう全世界的に手遅れなの、君一人が黙ってももうダメなの、ごめんね、でもほんとうです。
しかし、本当のおわりが来る前に試みることができる解決策が二つ、ある。もちろん、択一だ。どちらかが正解のコードかもしれないし、どちらを切っても結局爆発するのかもしれない。なんであれ、やってみるだけの価値はある。
一つ目、耳を塞いで今君のいるコミュニティ(フィジカルなものもバーチャルなものも)から遁走し、誰も音楽になんてプリミティブな代物以上の興味を持たない新天地(老人ホームがおすすめだ)を探し出し、そこに逃げ込んで、鼓膜を破り、二度とiPhoneの再生ボタンを押さないことだ。
二つ目――これはきみが臆病者でない場合のプランだ、当然、保険はきかない。
とりあえず、だれでもいい、きみの周囲のモヒカンを無作為に選び出し、襟を拳で持ち上げ、殴れ。
ボコボコにしろ。そして、耳をかっぽじってよく言い聞かせるのだ。
「これから二度と私の前で、音楽の話なんてするんじゃないよ」と。
相手は腫れ上がったクチビルで言い返すだろう。「勘弁してくれ、音楽は俺の魂なんだ」と。
言ってやれ。「あんたは○○○かい? 音楽なんざいくらでも聞きな、あたしは『音楽の話』をするな、って言ってんだ!!」
それから、相手の携帯を出すように命じろ。ロック解除のパスワードを聞き出したなら、フェイスブックとその他諸々のSNSへアクセスしろ。まず、プロフィール欄の「好きな音楽」を抹消しろ。twitterのプロフィールは「わたしは卑怯なネオナチの豚野郎です」と書き換えろ。
それから、そいつが過去にweb上で行ったあらゆる音楽関係の発言を消してまわれ。終わったら、君はその携帯を愛をもって持ち主に返却するか、悪魔の笑みを浮かべて膝で叩き割るか、電子レンジでチンするか、そのどれかを選べる。この選択は択一ではない。
君に関係する豚野郎どもの携帯がすべてアルミのメルトチーズと化したころ、君はようやくお気に入りのイヤフォンであるATH-CKN70を耳孔に接続できる。
もはや君の周囲で音楽の話をする豚はいない。君に話しかける人間もいない。誰にも邪魔されない。
本物の安寧と平和が手に入る。
本物の安寧と平和、いい言葉だ。きっとボブ・ディランが作ったに違いない。あるいは残りの一割を司るアジカンの眼鏡が。
ピース。
【まえがき】
自分の願望を埋葬している。
推敲しない。
上司の指示が完遂できない。というか、話していることの意図を読み取れない。
何で読み取れないかというと、上司のいうことがやりたくないことだからだ。
人間に興味がないタイプと割と多くの人に評価されるし、実際人間不信で人間嫌いだ。他人のことを考えずに生きていきたい。
世の中のことにも興味がない。世事を知れば知るほど苦しくなるようになってから、意図的にシャットダウンしてきた。
で、今やっている職種が法人や個人の調査業務補佐及び営業補佐。
【補佐】から抜けるためにもっと他人や世の中のことに興味を持って敏感になれと言われている。
一番それが苦痛なのだが、思えば仕事とは他人に価値を提供して対価をもらうことで、営業しようと思えば人や世事に興味を持たなければいけないわけで、私のやりたくないことは人が生きていくうえで必要不可欠なことだった。
「仕事とプライベートを分けたい人は仕事が好きじゃないんでしょうね」「仕事を趣味にしてしまえばいい」「仕事は家で勉強してアイデアを練って前準備してから会社で成果を出すものだ」「暇さえあれば仕事のことを考える」
よくわからん。
だが、こういう人間が会社の売り上げに貢献するわけで、売り上げに貢献しない社員を雇っている会社はつぶれてしまう。
今の会社は某業界を早期退職したOBが年金もらうまでの生活資金を稼ぐための会社で、仕事をするには某業界経験が不可欠だ。
そもそも取り扱っている商品やビジネスモデルがよくわからないし興味がない。
同僚・客層にも距離がありすぎて興味がない。
業況的にもメーン社員の年齢的にももうすぐ会社を畳むことになると予想しているが、転職するとき同じ業界には入らないだろう。
商品や業界の勉強するのが苦痛だから最近はあまりしていない。身になる気もしない。
勉強しない自分は会社の売り上げに貢献できないわけで、お荷物だし、期待に応える能力も気持ちも不足している。
だましているずるい自分が嫌になる。
今やっている仕事がしたくなくて、いろいろとネットで仕事をしている人の意見を探してみている。
言われたことしかしない=【作業】で、普通の大人は当たり前に言われたこと以上の付加価値をつけて【仕事】をするし、それしかできない人間は子どもで、早く子どもから卒業するかいなくなってほしい存在らしい。
言われたことを短時間で頭が真っ白になるまでこなしたい。
でもそんな言われたことをするだけの人間は必要とされないらしい。
一人当たり売上高・一人当たり利益を生み出す人間が必要で、みんなそうならなければいけない。
人に叱られるのが嫌いだ。指示をこなすのは人に叱られたくないからだ。別に誰かを喜ばせるためではない。
指示待ち人間でしかありえない自分はどうしようもなくゆがんでいる。
転職のチャンスはあったが引き止められて結局残った。
どこに行っても同じだというのは道理だし、この仕事で道を見つけられる可能性も皆無ではないと思ったからだ。
べつに居残ったからと言って興味が深まることもなかった。
人間は付加価値を生むために存在し、会社に利益をもたらさない人間や社会の役に立たない人間はいなくていいし養う必要もない、そういうシステム。
平均寿命まであとどれくらい稼げばいいか考える。
年200万必要として、あと50年。年金も退職金もないいだろうから1億円。働けるのはあと30年としても手取りで年収300万円はないといけない。
今みたいな気持ちをあと30年続けても達成できない。途方もない話だ。
いざというときは自主的に降りればいいか、気楽に怠惰に行こうと思っていたが、どうやらそれではだめみたいだ。
嫌なことは避けていきたい人間が生活できるような仕組みにはこの世の中はなっていないらしい。
既に負けが決まった後の消化試合みたいな人生のレールに乗っている。
今の願望は苦しくなく最後まで行きたいだけだが、結構無理ゲーっぽい。
自分自身が不良債権化しすぎていて、完全にお荷物以外の何物でもない。
こういう恥部をネットにさらそうとする側面もほんと構ってちゃんでどうしようもないと書いて予防線を張ってしまう自分は(ループ)
今までで2・3度チャンスはあったが、準備ができてなくてうまく踏み切れなかった。
それから今までの期間を振り返るに、別に世の中に付加価値を生み出していないし、怠惰に落ち込んだり苦しんだり呆けていただけだった。
踏み切る気持ちになった時に踏み切っとかないと、しんどさが長引くだけだな、と振りかえってみて思う。
数か月前はいざって時のために、トランクにザイルと紐の結び方のメモと脚立と小金を入れておこうと思っていた。
ふわっとしていたゴールが明快になってきた。
http://anond.hatelabo.jp/20130529230131 の続きです。長くて途中で途切れるため分けました。このエントリで紹介するのは以下の本です。
影響を受けたブログは20冊の本を取り上げていた訳だが、自分で真似をしてまとめていく内に20冊よりもずいぶん多くなってしまった。なので、上記4冊は似たテーマなのでまとめて紹介することにする。この節は日本人の自伝だ。
「名人に香車を引いた男」は昭和の将棋指し(棋士)の升田幸三名人の自伝。羽生善治さんがもし生きていたら是非将棋を指してみたい棋士の方だと聞いたことがある。
生き方はなんとも痛快。昔の人のバンカラな感じというか、そういう感じが良く出ている。この人のように、どんな人にも自分の本音を話せる人は今日本の中にいるだろうか。そして、名人になった時の一言が心に残る。
「八十歳のアリア―四十五年かけてつくったバイオリン物語」は糸川英夫さんの自伝だ。この方はロケットが専門の研究者で、戦時中は戦闘機の設計に関わっていたり、戦後もロケット開発に関わっていたりする方だ。戦後間もない時期は失意に沈んだ時期で自殺も考えるほどの状況だったが、バイオリン製作がきっかけで少しずつだが自分を取り戻していく。そのバイオリン製作には完成までに40年以上もかかった。そのバイオリンとは――。
升田幸三名人、糸川英夫さんの両氏とも戦争の影響が人生に大きくのしかかる。その点でまとめさせてもらった。それと、両氏の著作とも読んでもらえばわかるが、自由だ。それ以外はあまり共通項はないけれど、読んで楽しい本だ。重い話はないし、読みやすい本なので手に取ってみてほしい。
「記憶の切繪図」は「フェルマーの最終定理」の中で登場する志村五郎博士の自伝。「フェルマーの最終定理」の中でサイモン・シンさんは志村さんにいろいろインタビューしている。その中で数学における「良さ」とは何なのか、それに答えるシーンがある。その答えが簡潔なのだけれど、それ以上無いくらい志村さんの数学のとらえ方を表しているように思え、興味があって読んだ。
この方も上記二人に劣らないくらい自由だ。Amazonのレビューには高木貞治さんを愚弄しているという指摘がある。しかし、だからといって謙遜して書いてもらっても一読者としてはおもしろくも何ともない。むしろそのまま出版してもらって良かった。
こう書くと志村博士はずいぶん口の悪い人で、ある種の暴露本に思えるかもしれないが、そうではなくて、要所要所に意図して書かないことがあったり、感情を押し殺した表現がちらちらあるのだ。それがあるから、志村さんの人となりがわかった。良い自伝だ。
「弁護士、闘う―宇都宮健児の事件帖」は少し前に東京都知事選に立候補されたり、弁護士会の会長をされていた宇都宮健児さんの自伝だ。まだ自伝を出すには早いと思うので、半生を綴った本としておいた方がよいか。
決して飾らないその人柄は文章にもそのまま表れている。豊田商事事件、オウム真理教の一連の事件、カード破産の話など、弁護士として関わった事件の数々。それらを振り返りながら、今されている仕事にも言及している。自分は法律のことは全くわからないが、こんなに多様な類型、しかもその事件が発生した時点では立法そのものが不整備だったり、法解釈が分かれていたりといった、未開拓の問題に対処するのは並大抵の法律家にはできないように思える。それをまるで飄々とこなしているような姿は、武道の達人のようだ。
気負いのなさと実直さ、そして執念を感じる本だ。宇都宮健児さんへのインタビューが下のURLにある。興味のある方は見てほしい。
この本は学生時代に講義で先生がおすすめされていて読んだ本だ。著者は高橋秀実さん。
高橋秀実さんはルポライターで、自分の体験を元に本を書く方だ。ただ、ルポライターではあるけど、少しほかのルポライターと毛色が違う。本来ルポライターは事件や事故が起きたら素早く現場に赴き、当事者にインタビューをして、それらを記事や本にする。高橋さんはそれらの事件や事故が起こって、ほとぼりが冷めたあたりでインタビューに出向く。時期がかなり遅いのだ。
元のブログでは物事には多様な見方や解釈があって、一元的に判断することは危険なことを理解するための本として「バカの壁」を挙げていた。その点では、この本も内容は似ている。面白いのは、この本ではそれが「実例」でいくつも挙げてある所だ。
ニュース番組や新聞では、大きく取り上げられていた事件・事故が、実際に現場に行ってみると「あれ?」と思えるくらい当事者たちは冷めていたり、むしろその状況が続くことを望んでいたり――。読み進めていくうちに、不謹慎かもしれないが笑ってしまうような話になっていったりするのだ。某映画の台詞の反対で、むしろ事件は会議室でしか起きていないんじゃないか?、という気持ちにもなる。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。解説を村上春樹さんが書かれていた。(はずだ。確か)
堅苦しい話ではないので、気楽に読んで、何度かたまに読み返すとその度に不思議な気持ちになる本だ。
著者は西前四郎さん。半分が小説で半分がノンフィクションといった感じの本だ。
デナリというのはアラスカにある山の名前で、日本では「マッキンリー山」と言った方が通りがよいと思う。この山を登る登山家チームの話だ。ちなみに、植村直己さんはこの山で行方不明になった。(この本のチームとは無関係だろう)
厳寒期の冬山を登る人の気持ちは自分には想像もつかない。だけれども、そんな自分にも山を登るチームワークの大切さと難しさ、軽く見積もった事象が後にやっかいな出来事にふくらんでいくその状況判断の危うさや過酷さ、そして生きることへの執念といったもろもろが、響いてくるような本だ。
今の登山の装備と比べると、重かったりかさばったりしてその面でも大変だったはずだ。写真のページを見ると、そんなところも気にかかった。
この本のあと、山登りの本は植村さんの本(「青春を山に賭けて」)も読んだけれど、こちらの方が山について全く知らない自分には印象に残った。所々で登山の道具の名前(ハーケンとかザイルとか)が出てきて、イメージができない自分のような人は、出てきたところで、ググったり辞書で調べて簡単な絵を紙に描いておいて、再度出たときにその絵を眺めたりしながら読むとより読みやすいと思う。
この本は椎名誠さんが著者だ。椎名誠さんは今はエッセイや世界各地を回った紀行文を書いたり、写真家であったりとマルチ作家だけれど、この本が出たのはそうなり始めてすこし経った頃だ。
冒頭から危機的な状況である。にもかかわらず出発するのだ。この判断は本当だとしたらすごいことだ。何が危機的なのかはここでは言わないけれど、読めばすぐわかる。
全体として、椎名さんが書く紀行文は自分で感じたことをズバズバわかりやすく書いていく方法なのだが、この本はそこまでズバズバ書くと言うよりも、なんとなく「岳物語」につながるような、私小説風の書き方をしている。その書き方もあるし、パタゴニアという場所のせいもあるからか、行き止まりに向かって進んでいくようなやり場のの無さを感じる。それが途中ですっと消えて静かな感じで終わるのだ。自分はそこがとても好きだ。精神的な閉塞感がふと消えて、やさしさが残る本だ。
冬から春にかけて寝る前に少し読むのが似合う本だろう。この本は文庫版もあるけれど、ハードカバーの装幀が自分にはしっくりくる。
カヌー犬・ガクというのは、前に挙げた椎名誠さんの飼っている犬の名前だ。その犬は手こぎボートの船頭に座って川下りをするのが得意という、ちょっと変わった特技を持つ。
その犬と椎名誠さんの友人の野田知佑さんが、日本や世界の各地を巡ったときの話をまとめたのがこの本だ。著者は野田知佑さんご自身。
カナダのユーコン川を下ったり、北極(か、南極か忘れてしまったけれど)に行ったり、といろんな所に行って危険な目に遭ったり……、南国に行ってのんびり過ごしたり。少し羨ましいけれど、いざ自分が行くとなるとそんなところはとても怖くていけないようなところに行く。
犬を人間と同じように扱うという著者なので、犬が好きな人はより楽しめるだろう。元のブログとの対応としては「深夜特急」にあたるかな?(やや無理矢理だけど)
著者はM.B. ゴフスタインさん。翻訳は末盛千枝子さん。絵本だ。(やや字が多いけれど)
小さな女の子が主人公。おじいさんがピアノの調律を仕事にしていて、おじいさんとしては女の子にピアニストになってもらいたいのだけれど、女の子はおじいさんのようにピアノの調律をしたくてたまらない。そんなときに、ピアノの調律を頼まれるのだ。
あらすじで書くとそんなに心惹かれる感じは無いかもしれないが、絵の良さ、そして言葉の良さ。二人を取り巻く登場人物の面々もすばらしい。
「謎のギャラリー」のところで言及した「私のノアの箱舟」も同じゴフスタインさんの絵本だ。こちらもすばらしい。ゴフスタインさんの本はほかにも何冊か読んだけれど、この本が一番絵本らしい絵本だと思う。絵の良さはいくら文章にしたところで伝わるものではないので、図書館で借りたりして手に取ってみてほしい。もちろんM.B. ゴフスタインさんのほかの本を読むのも楽しい。
中学校で習う数学を、苦手な人も得意な人もできるかぎり楽しく考えていこう。それがこの本のテーマだ。中学生向けの数学の月刊誌で連載していた読み物をまとめた本で、著者は小島寛之さん。はてなダイアリーを利用されている( http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/ さん)ようだ。
数学は、学習が進むにつれてどんどん(指数関数的に?)難しくなっていき、小学校や中学校では好きだった人もだんだんと距離を置いて離れて行ってしまう……、そんな科目だ。なかなかずーっと数学が好きで好きで……、という方はいないのではないかと思う。おそらく数学のプロの方(数学者のような)でも、そのキャリアのところどころで難問にぶち当たり、歯がゆい思いをするのだろう。(そういう話は前に挙げた「フェルマーの最終定理」にちらっと出てくる)
そんな風にだんだんと一般人は数学から身を引いていきがちになるわけだけれど、この本は、わりと数学や算数を学び始めた頃に不思議に思えたことを延長して話をすすめようとしていく。こういう書き方はやろうと思ってもとても難しいはずだ。著者は数学が好きな気持ちと、一方で嫌いな気持ちの両方を持ち続けているような、そんな状態になるだろうから。嫌いな人の気持ちになって、そしてそのどこが嫌いなのかを共感した上で話を進めつつ、好きな人も読めるようにする配慮を怠らない。そんな書き方がされている。
この本が持つ数学へのアンビバレントな思いは、いわゆる数学(の歴史を中心とした)解説本でもなく、かといってとっても難しい数学のドリルみたいな本でもなく、わかりそうでわからない絶妙な問題の難しさと相まってなかなか類書がないと思う。くわえて、ところどころに経済学の話とかもでてきたりする。好きな人もそうでない人も読んでみてほしい。なんとなくわかりそうで手が出ないあの「数学の感じ」を思い出すはずだ。
同じ著者の「解法のスーパーテクニック」も良い本だ。ただ、一冊にしろと言われたら「数学ワンダーランド」かな。ほかにも小島寛之さんの著作はいくつかあるのだけれど、自分が読んだのはこの2冊だ。なのでほかにも良い本はあるだろう。
元のブログとの対応としては細野さんの数学の本としておく。(その本を読んでないのでどこが?といわれると、単に数学つながりなだけだ)
この本は幻想小説というのだろうか。ファンタジーだ。著者はピーター・S・ビーグルさん。翻訳は山崎淳さん。
この本はとても雰囲気がよい。あらすじはそんなにたいしたものは無いんだけど、夏の早朝のような爽快な感じがある一方で、なんか少しじめっとした感じもするのだ。
Amazonのレビューがこの文章を書いている段階で4つある。で、そのどれもが作品の魅力を的確に紹介しているのだけれど、なんだかそれらのレビューだけではこの本の良さを伝えきれない感じが残る。言葉を連ねてもなかなか伝わらない感じがする本だ。
この本を自分は夏の終わりの頃に読んだのだが、その頃の陽気にとてもよく合う本だった。光の強さと日の入りの早さがこの本の主題に合ったものだからだろうか。「リプレイ」が動くSF小説に対して、この「心地よく秘密めいたところ」は静かにじっとしている感じだ。でも、どちらを読んでも同じ思いに至るはず。不思議だけれど。
著者は伊勢崎賢治さん。この方は日本の大学を卒業されたあとにインドで民衆のグループのリーダーをされて、その実績を買われ、国連の要請で東ティモールに赴任する。(下のURLに伊勢崎賢治さんへのインタビューがあるので詳しいことを知りたい人は読んでみてほしい。)
こういう日本人って(自分が不勉強なせいかもしれないが)あまりいないと思うのだ。杢尾雪絵さんくらいしか自分はほかに知らない。
ずいぶん前に読んだので細かい記述は忘れてしまったけれど、この本の良さは著者が見たこと、感じたこと、やったことが率直に書かれたところ。そして日本に住んでいる限り想像できない「危険」な東ティモールでも、危険な所もある一方で、そうでないところがあるといったような、現実の姿が伝わってくるところだ。
外見はなんかどこにでもいそうな感じのおじさん(もし本人や関係者がこの文を読んでいたら失礼で申し訳ない。すみません。)だ。だが、インフォーマルな組織における統率の方法や、戦争犯罪者をどのレベルまで処罰するのか、など、繊細な問題への対処。こういうのは前者は経営学とかで少し研究されているようだけれど、じゃあそれが実地で適用すれば問題は解決するのかというと、そうでも無いと思う。そういった「答えが見えない問題」へどうやって取り組むのか――。しかも異国の地で。
そういうことを知りたいときに読むとよいかもしれない。自分も詳細を忘れていることに気がついたのでもう一度読むことにする。それにしても久しぶりに上のインタビュー記事を読んだけれど、タフな人だ。
著者は藤本研さん。この本は、藤本研さんがおよそ半年をかけて日本を歩いて一周をした旅行記。旅行記というよりも生活記録といった方が良いかもしれない。
生活記録なので、朝は何時に起きたとか、午前中はどうしていた、お昼は何を食べた、などなどそっけない記述が中心だ。でも、そのそっけなく感じる記述が妙なリアルさを出していて、読んでいると日本ってこんなに広いんだと思わせてくれる。それと歩いてたどり着いた各地の景勝地を見るとか、そういうことも無くて、そこもこの本の特徴だ。タイトルに「大貧乏」と付くのは、宿泊をほとんどを野宿やお寺の本堂の隅を借りたりして無料でまかなうことによる。食事もとても簡素なものだ。
本のはじめに藤本研さんの歩行ルートが日本地図と一緒に図示されていて、その後にスケジュール表があって、それをみるのも楽しい。たんたんと書いてある中の楽しさ、と言って伝わるだろうか。
たまにアクシデントに見舞われるのだが、そのアクシデントがなんとなくユーモアがあるというか、おだやかな感じだ。日本一周するからと言って、気張らず、藤本研さんはたんたんと歩いて行く。歩いている途中で同士がいたりする。そういう記述もなんだか一緒に日本一周しているような気持ちにさせてくれる要因だろうか。
自分は今まで挙げた本はだいたいは図書館で借りて読んでいる。この本もそうだ。再度読みたいのだが、図書館で借りようとしたらいつの間にか消えてしまっていた。残念だ。
(まだつづく、かも。)
原案では海藤武雄(部屋で倒れてた奴)は死なない(血糊量が少なかったのはこれが理由)
そして、犯人はザイルを使って2階から1階へと移動する予定だったと思われる
なぜなら、海東の部屋は窓が開かないし、通路を通るのだと他の人間に知られてしまうから
他の人の視線をかいくぐり、海東を刺す事ができ、なおかつ役者の能力的にそれができるのは
しかし、アンケート結果では死ぬ人数が0人というのは無効票となってしまった(”100人死ぬ”が有効なのに無効票になるのは、誰も死なない以外にはありえない)
(恐らく、クラスメイトの認識ではミステリ=人が死ぬものとしていたのかもしれない
もしくは、後述の入須先輩の思惑で無効票となったのかも)
本郷の脚本構想の根幹をなす部分が否定されてしまい、自分の構想で書けばクラスのみんなを裏切ってしまうことになる
勿論、最終判断権は本郷にあったわけだが、(脚本執筆依頼を断れない程度には)気の弱い本郷は自分を通せなかった
さらに、実際の撮影でも海東が死ぬような撮影が行われてしまい、訂正が更にしづらくなってしまった
そんな時に、入須(女帝)から「病気で寝こむフリをしろ」と言われる
それに従い、ずっと黙っていることとなる
「私があんな脚本を書いたから色々問題が起きてすみません。けど、私の望みはみんなで一緒に作って喜ぶことでした」
と伝える
・入須
しかし、映画は完成させ、なおかつ成功させなければならないと考えていた
そこで、アンケートにおける「死人がゼロ=本郷票」を無効票とし、その案を却下した
もしかすると、この時から本郷を降ろすことを決定しており、無効票としたのかもしれない)
そして、撮影でクラスメイトが海東が死ぬ描写を撮った後は(憶測だが、そういうふうに仕向けたのも入須かも知れない)
そして、脚本が面白くなるように「結末推理大会」と称した「シナリオ再構築会」を開き
しかし、どれもつまらない内容だったので、進行のあった折木姉に相談した所
「うちの弟なら踊ってくれるよー(推理役として頼めば整合性のある面白い結論言ってくれるよ)」と返答
一度は拒否されるが、「探偵役の推理をチェックする程度なら」という妥協案で引き受けてくれる事となった
その後、折木に対して個別でアプローチをかけ、口八丁でおだて、推理させる
折木姉には
「あんたは本郷を守りたいから手伝いを頼んだんのではなく、脚本がつまらなかったのが問題で
本郷が傷つかないように脚本を却下したかったんでしょ?」と言われる
この言い回しからでは、入須が本郷を守りたかったのか、それとも自分可愛さ(本郷にもクラスメイトにも映画の視聴者にもいい顔をしたいという欲望)
の為にしたのかは分からない
本郷からは「あんな脚本にしたから。けど、私の望みは”みんなでできたってばんざいすること”でしたから」と言われる
ここで罪悪感を感じるような素振りなので、入須は
「本郷の脚本が面白くないから、却下させるように仕組んだり、病気のふりをさせたこと」を
悔やんでいるのかもしれない
あれは、成人式を終えた後、大きな宴会場を貸し切っての同窓会だったのかな?
君は、クラスでもアゲアゲなグループがへったくそなカラオケで盛り上がる中、
不協和音のラブソング(恐らくエ○ザイル)に目をうっとりさせる女子達を尻目に、
君は、相も変わらず、自分を傷つけない優しい殻の中に閉じこもっていたのかもしれないが、
僕にはそんな君にも「何かあるかも」という期待がちらと垣間見えた気がしたんだ。
隣の卓はかわいい女の子ばかりだったな。嫌々来た同窓会だけど、もしかしたら昔話に花が咲いて、
あるいはこの中の誰かと...なんてことも考えていなかったといえば嘘になるだろう。違うかな?
でも結局君に、君が喜ぶようなことは何も起きなかった。規定の時刻になれば、友達かと思われた
相席の彼らも早々に席を離れ、君を置いていった。一人残され、「このあとどこいくー?」なんて
男女の声を聞きながら、君は何を考えていたのだろう。残ったビールを喉に流し込み、直後に
逆流してきた4000円分の食事だったものにまみれた君は「すいません、すいません」と僕に
謝りながらへらへらと笑っていたけど、本当はとても傷ついていたんじゃないのか?
女子の、汚物を見るような視線に耐えながら会場を去って行く君の背中は20歳にしてはやけに年老いたものに感じられた。
お調子者のおたけび、女子の軽蔑のまなざし、そこからくるストレスと苦い思い出...
さして仲が良かったわけでもない連中との同窓会に赴いて、これらの嫌なこと以外に何か得るものはあったんだろうか。
4000円分の吐瀉物を片付けながら、僕はそんなことを考えていた。
本人にも告げられず、mixiにも個人的すぎて書けないのでここに投下。
今日、K子からメールが来た。無題のメールで、本文は「辞めた!」
昨日、彼女から会社を辞める決意をしたことは聞いていたが、ついに辞表を出したらしい。
前々から、彼女の会社のブラックっぷりは聞いていたので、特に驚くところは何もないのだが、彼女のことを考えると実に複雑な気分になる。
僕とK子は、去年の暮れに知り合った。友人が、K子を待ち合わせしていた飲み屋に連れてきたのだ。
僕はその当時、仕事が辛くて毎日登山用のザイルで首を吊ることしか考えられなかったぐらいひどい心理状態で、その気晴らしに友人を誘ったのだが、
むかしから女っ気のない友人が何の連絡もなく女を連れてきたことで、僕は椅子から転げ落ちそうなぐらいびっくりした。
その飲み屋は僕の当時住んでいた家から徒歩で行ける距離のダイニングバーで、話を聞いてみると、K子の家もそこからすぐだった。
話を聞いてみると、K子は友人が前から話していた「好きな同僚」だった。友人とは大学の頃からの腐れ縁だったのだが、働きだして暫くすると
「同僚に同じ歳の女の子が入ってきた。彼女は日曜に教会とか行ったり、日本文学好きだったり、超童貞向きの子なんだ。最高」というような意味合いのことを言っていた。
僕は、友人からそんな話を聞く日が来るとは思わなかったので、驚くと同時に喜んだ。良いじゃない、君もそろそろいい年だし。ユー付き合っちゃいなよ。
あわよくば結婚しちゃいなよ。等々。
しかし、その後暫く経ってからその同僚のことを聞くと、同僚には振られたらしい。詳しい話を聞くと、なんとなく納得いかない点がいくつか
あって、僕は怒った。なんて女だ!友人を振るなんて、男を見る目がない女!なんかその同僚お高く止まってるんじゃないの?何様?どこ視点?ねえ彼女はどこ視点から
見てるの?許せないね!等々。
それと関係あるかないか、友人はいつしか会社を辞めたいと言うようになった。僕が鬱の階段を転がり落ちると同時期に、彼の転職話も進んでいったのだった。
そんな時に彼が連れてきたのがK子だった。その時点では、友人の転職話は既に決定していて、退職日も決まっていた。友人は、送別会の帰りに僕と飲む予定で、
それにK子を連れてきたのだ。
僕は、鬱と自己嫌悪の暗闇のなかで暗黒舞踏を踊っていたので、最初に周りの客が引くぐらい驚いたあとは、酔いにまかせてK子を無視して好きなことを喋っていた。
そもそも、僕は友人の話を聞いて、K子に対して良いイメージを持ってなかったのだ。どうせ一度会ってもう二度と会わないんだからどうでもいいや、と思い、
カンボジアのトゥールスレーン収容所の話や、ウクライナの女性首相の話や、LHCの話などをしていた。しかし、友人でさえ興味なさそうな話にK子は意外にも食いついて
きた。
早い話、話が合ったのだ。
それから年が明けて、僕も会社に辞表を出した。もう何もかも限界だったのだ。「可能な限りはやく退職させてください」と、僕は言った。「引き継ぎが必要な業務はありません」
そして、それから少し経って、連絡先を交換してないはずのK子からメールが来た。早い話が、「引っ越す前に飲みに行きませんか?」だった。うっぷす、なんというビッチ。
友人から連絡先を聞いたらしい。そして、退職してオープンマインドになっていた僕は、それにホイホイ付いて行った。正直な話、友人には悪いが僕もK子には興味があった。
そのようにして、僕とK子の友人づきあいが始まった。読んでる方にはおわかりのように、あまり良い子ではない。プライドは異常に高いし、打算的だし、ワガママだ。
僕と一緒に飲みに行くと、友人が彼女に対して持っていたイメージは、すべて彼女の作り物だということがすぐに判明した。そもそも、彼女が友人の会社に中途で入ってきたのは
前職での不倫が原因だったのだ。例のバーで、強いカクテルをごくごく飲み干した彼女は僕の手を握りながら言った。(そもそも友人は、彼女が酒を飲めないと言っていたのだ!)
「**君はどう思う?(不倫で前職の同僚が離婚したことについて)私に原因があると思う?ブラックホールに飲み込まれるべきだと思う?わたし」
僕は、その問いに対して声を大にしてイエス!と答えたかった。ブラックホールどころか、お前は超新星爆発を起こすべきだと思っていた。
「いや、僕はそうは思わないよ。そういうことは誰にでも起こりえるんだよ、しょうがない。人生一度なんだからね」
だが、話を聞いてみると、教会に通っているのも、日本文学が好きなのも本当だった。ただ、教会に行くのは、自分の(不倫して相手の家族を滅茶苦茶にしたことに対しての)
罪を償いたくて行ってるらしい。なんて自己愛の強い女!
その後すぐに僕は、東京の家を引き払って、地元の神奈川に帰った。そうなっても、なぜかK子との親交は続いていた。東京で会ったときは、明らかに色目を使ってきたK子も、
僕の地元で会ったときには頭のスイッチが切り替わったようにドライな態度を見せた。
「**君とは友達でいたいよ」とか急に言い出した。茅ヶ崎の海岸をふたりで犬の散歩しているときのことだった。「**君もそう思うでしょ?」
そんな自己中心的なK子の態度に、僕はそれから何度も怒って、そして何度も喧嘩した。僕をこれほど怒らせるのは彼女だけだ。僕の地元に来た彼女に対して、僕は他の女の名前と
呼び間違えるということをやってのけた。プライドを燃料として生きる彼女に対して、7回も呼び間違えた。たぶん、K子のプライドをこれほど傷つけた男も僕だけだろう。
そんなK子が仕事を辞めて実家に帰るらしい。今後は、看護婦の資格を取って鎌倉で暮らすのを目標とするとか。
とても長くなってしまったチラ裏だけど、僕はそんな彼女をとても愛している。この悪文を書きながら、彼女の苦悩や、浅はかさや、腹立たしいところを思い出しながら、やっぱり
どんな形でさえも、やはり幸せになって欲しいと願っている。K子の感性や、ユーモア感覚や、癇癪をやっぱり愛している。
それが、伝わればいいのだが、きっと彼女には理解できないだろう。
トレーナーA(以下A)「やべえよ。センパイに頼んで話つけてもらうしかねえ。」
トレーナーB(以下B)「マジついてねえな。(は)なしつけてもらうべ。」
A「こっちとしては修理代だけ出してもらえばいいんだけど。」
B「でもおめえ殴ってるべ。慰謝料だせよとかなったらどうすんだ?」
A「そりゃ殴るっしょ。俺のバイクだぜ。」
B「でも金とられたって聞いたぜ。殴ったんだしな。」
A「センパイに頼むしかないっしょ。」ズズズと大きな音を立ててドリングをすする。
B「改造にいくらかかった?」
A「忘れたけどスゲエよ。バイトの金つぎ込んだし。」
A「高島平?OK。朝イチで行ってみる?」
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