はてなキーワード: 教会とは
10世紀にはすでに教会の修道士が思いついていて それほど時間がかからず証明できたこととして、 ∑1/k がある。
次の証明は正式に認定されており、 極めて簡潔な技術的アイデアであるとされている。
1+1/2+1/3+・・・・・ は、 > 1+1/2 + 1/2 + 1/4 + 1/4 + 1/4 +1/4 +・・ のように 分割したものとして、 下から不等式でこさえられる、押さえられる。
この右辺は要するに、 1を足していったものであり、発散するので、左辺も発散する。
ここで、 右辺のようなものをこさえることは、技術であって、ものではない。 あんだすたん? あふがにすたん? アンダスタン? 私はもぐらではない。
昔読んだ漫画家のエッセイだと、教会で結婚式挙げるためには一時的にでも信者になる必要があるみたいな感じで週一くらいでお祈りしに行った。ってあったけどそんな事なかった?
オレは(クリスチャンじゃないけど)キリスト教の教会で結婚式したぜw カミさんの趣味に合わせる格好でw
正解だが間違ってる。
宗教に、社会を維持したり、倫理をもたらしたりする機能がある(かのように働く)のは間違いないよ。
でも宗教があるからそれらの効果が得られる、とか、それらの効果を得るために宗教が作られた、とかではないんだよね。
例えば、火山が爆発する→なんで爆発したんだろう?→山の神が怒っているからに違いない→山の神宗教の発生、このように宗教は作られたはず。
重要だったのは、「なんで爆発したんだろう?」と疑問に持つ能力、因果関係を類推する能力を、人間という生物が保持していることが、宗教の発生原因だ(と思われる)。
で、疑問を持つ能力が起点にあるという話は、他の全てとに言えて、
なんで子供を育てないといけないんだろう?→神がそれを正しいと言ってるからです
なんで地域で助け合うべきなんだろう?→教会が伝統的にそうしてきたからです
このような説明がされる。
結果的に人々は「宗教があるからそうしている」ように見えるのだが、
別に宗教が無くなるまえからそれはやっていた。宗教が無くても持って生まれた善性や教育で、そういうことはやっていたはずだと思われるのだね。
宗教が無くなったことで、なにか倫理が無くなったかのように思われるのは、実際には無くなっているのは「宗教」ではないはずだ。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれもアブラハムを共通の祖とする一神教であり、それぞれが独自の歴史的経緯と教義を持っています。
ユダヤ教は紀元前13世紀頃、預言者モーセによって確立されたとされ、旧約聖書に記された神との契約に基づく宗教です。
キリスト教は1世紀にイエス・キリストの教えに基づいて生まれ、新約聖書に記されたイエスの生涯と教えが中心です。
イスラム教は7世紀に預言者ムハンマドによって創始され、コーランに記されたアッラーの啓示が中心となっています。
カトリック教会は、初期キリスト教会から発展し、ローマ帝国の公認宗教となった後、西ヨーロッパで中心的な役割を果たしてきました。
しかし、16世紀になると、教会の腐敗や聖書解釈に対する異議が高まり、マルティン・ルターによって宗教改革が起こされます。
ルターは「信仰のみ」「聖書のみ」「万人の司祭職」という原則を掲げ、これに賛同した人々がプロテスタントと呼ばれるようになりました。
ルターの宗教改革は、カトリック教会からの独立と新しい教義の確立をもたらし、プロテスタントの多くの派が生まれるきっかけとなりました。
プロテスタントの中でも、ジャン・カルヴァンの教えは特に影響力があり、彼の予定説や職業倫理は商工業者に受け入れられ、西ヨーロッパの経済発展にも寄与しました。
私の両親は某新興宗教団体(三色旗のとこではない)の会員である。普段は地元の道場とやらに自分達で通っているが、今日は行事があるので県庁所在地の大きな教会に行きたいと言うので、私が車を出して久しぶりに一緒に行ってみた。
全員マスクは当たり前、入口には自動検温器と消毒液、室内は大型の空気清浄機が稼働していた。医療機関並とまでは言えずとも、下手なホテルや飲食店よりよほどしっかりしている。
感心したと同時に面白く思った。というのも、両親は常々、自分がコロナにこれまでかかってないのは神仏のご加護があったからだと言っていたからだ。感染対策しっかりしてたんじゃん(両親はワクチンもしっかり打ってる)と言ってみると、以下のような返事が帰ってきた。
物事は自分の努力、周囲の協力、神仏の加護が揃ってうまくいくというのが団体の教えであり、感染対策をしないで神仏にすがるだけというのは教えに反する。しかし感染対策をしていても、たまたまうつされることはある。そういうどうにもできないところを神仏に頼むのだと。
正直、自分には理解しがたい感覚だったが、しかしまあ科学的なリテラシーと宗教感覚の面白い融合例だと思ったのでここに記録に残そうと思う。
いや何なら私が把握している限り曽祖父曾祖母の代の時点でクリスチャン家庭だ。
「神?居たら面白いよね。妖怪や妖精、幽霊が居ても面白いと思う。居ないよりも居たほうが面白いっしょ」
夫へ出会った当初は驚いた。何せ私が誰かへクリスチャンであると明かせばちょっと引かれるか「神社参拝しないの?」と興味本位でイジられるかみたいな感じの人が大半なのに夫だけは「居たら面白い」というスタンスで他の人と全く違った。
夫は神を否定しなければ肯定もしない。存在が否定されていないので保留、そして出来れば居てくれたほうが世の中に面白いものが減らなくて良いというスタンスなのだ。ゼロであることが証明されると面白さが減るってスタンスなのだ。
世の中に存在するであろう面白いものを探求する人であり、夫からすると神の存在もまた面白いものであり探求する価値のあるものなのだ。
神を疑うとか信じるとかそういう価値観に縛られない。本当に本当に彼のそういうスタンスを知った時は驚愕した。
私は正直に言ってしまえば私自身がついつい神を疑ってしまうことへ恐怖感を持っていたが彼は信じる信じない疑う疑わないとかそういう次元にないのだ。
「キミが言うように神が世界を創造したなら神が作った世界を、神の意志を最も知ってるのは科学者かもね」
開いた口が塞がらないっていうのを初めて体験した。
「なっ何だこの人!!!」という衝撃が心にガツンと来て、もうその日から彼のことしか考えられなくなった。
その2週間後に告白したがフラレた。当たり前である、そんな関係を一切築いていない状態だったのだから。
でも全く諦めずに猛アピールを繰り返し何とか捕まえた。「この人しか居ねぇ!!!」ってなってたわけだし。
結婚するってなたときはクリスチャンではない彼に対して親族が物凄く嫌な顔をしたけど何を言ってるんだと、こんな最高の非クリスチャン居ないぞと、駄目なら私は駆け落ちしてでも一緒になる!と説得して認めさせた。
今では私が通っている教会でも非クリスチャンな人として非常に好意的に受け入れられており、この前は13世紀のフランシスコ会に所属していたロージャー・ベーコンなる人物についての話で教会の人と盛り上がっていた。意味がわからん方向でキリスト教に詳しくなってて笑う。