はてなキーワード: オチとは
今後の治療方針の話をするために、姉の私が病院の先生と話すことになった。
そしたら早々に「弟さんって女の子ですね」って言われた。
確かに弟は女の子みたい。顔がとかじゃなく、女の子が好きなものが好き。多様化の社会といえど、30手前の男がディズニープリンセスのスマホケースを堂々と使い、スマホや音楽プレイヤーなどのデジタル機器はピンクで統一。趣味はぬいぐるみ集め。正直変わり者である認識はあったし、母も「あの子が女の子になりたいって言ったとしても止めないわ」と姉に相談するくらいには女の子らしい男である。
じゃあ、心も女なのか?といえばそうではなく。性自認は男(だと思う)。女子トイレに入りたいなんて言わないし、スカートやメイクをしたいわけじゃない。学校は年相応の男の格好。女の子扱いしろと言われたこともないし、自ら進んで銭湯(もちろん男風呂)に行く。
でも、女の子らしい精神の男だ。何なら「女である姉より女らしい」と言うと喜ぶ。
本人の自覚がないだけで心が女ってことがあるのか?と一瞬混乱したが、先生が「性同一性障害とかではないですが、話し方や考え方などが女子です。検査した結果言語に関する数値が高くて、女性に多いバランスになってる」「女性に強い憧れみたいなのがあって、無意識にそちらに寄ってるんだと思うんですが心当たりありますか?」と聞いてきた。
心当たりはあった。父方祖父が学歴厨で、特に男には厳しかった。いい学校に行って、人脈作らせたくてしょうがない人。一方で女に興味がなく、私は絵画教室に通っていて「小学生から油絵やってる孫(娘)」というラベルで十分らしく、教育面は放置されていた。
端的にいえば、わかりやすい虐待はされてないけど毒親家系という感じ。
男は男でお小遣いが多かったり、学校休んで旅行連れて行ってもらえたり、何かと意見が通りやすかったりと私からすると羨ましい点もあるが、弟は「女の子に生まれたらこんなに苦労(いい学校行けと勉強を強制されたり)しなかったのに」という意識が強いというのは感じてた。
最たるものは、大学受験時に「俺は行きたい学校行けなかった。姉は金のかかる絵の学校行ったのに、俺は長男だろ。ここにしろって指示されて普通の理系大学さえダメだった」といまだに怒っている。
ちなみに、地方の有名私立大学(高額、弟の当時の学力じゃ無理)なところに下宿して通いたいので受験したい、お金出してというのを拒否され、同じようなこの大学じゃだめか?と言われただけである。
話ずれたが、何が言いたいかというと弟は「女だったら俺はもっと幸せになれた」という思い込みの強い「女のような態度の男」だったって話。
先生曰く、最近はこういう人が多いと。これまで何百人と性同一性障害だと主張して受診してくる人はいたが、本当に性同一性障害だった人は3人しか見たことがないと言っていた。
体を作り替えたら後悔しても遅いので、性同一性障害の疑いのある人は何度も何度も診察をするし、患者のために厳しいことも言う。すると、ほぼ全員が途中で諦めるらしい。
それでもやっぱり体の性に違和感があってこのままは無理なんです!!って訴えた3人にだけ診断書をだしたと。
多様性が叫ばれすぎて自分の性がぶれている人が多い。本物はどんなことがあっても自分の認識している性に戻りたいと強く思ってる人。他人に言われてぶれるようなやつは思い込み。多様性と叫ぶのもほどほどにしてほしい。と先生が言っていた。
って、女子トイレ利用の裁判の話を見て思い出したって話。弟は鬱の治療の中でADHDの診断は降りた。大学の話とか話通じてないからまあそうだろうなとは思った。
半年ぐらいで退院して毒親と離れるために地方の親戚を頼りに引っ越した。一年は連絡してないけど、今もディズニープリンセススマホケース使ってんのかな。
立場上のゲイ芸やオカマオチというものが期待されてる空気(の思い込み、焦り)というのはたしかにあって、しかしそういうものはもういいのだ、というのが昨今の流れである
大阪の府立高校には御三家というのがある。最近は崩れてきてるらしいけど、私立中高があまり強くなく公立優勢という点は変わりない。これは余談だが、維新が府外私立高と無償化で揉めてるのは、優秀層の府立高への誘導策の一環と見ている。
御三家のいちばん南を卒業して大学に進み、中高一貫出身の子たちとたくさん知り合い、なんとなく感じていた違和感が明確なイメージを結んできた。わたしの出身校って、頭のいいマイルドヤンキーが主流やったんやなって…。もともと体育会系のノリが強くて、ほかの体張るイベントに比べればいわゆる文化祭(とは呼ばないのだが)は冷遇されていたし、とにかく地元が好きで京大に受かっても一人暮らしせず長時間かけて通学する子が多いし。なんか家族とか友達とか大好きだし。みんなで盛り上がるのが何より好きだし。
もちろん、反社会的な行動をするとかではまったくないので厳密な定義からは外れるけど、雰囲気というかセンスというか、そういうのが私立高出身の多くの人とは違うのである。だからなんだと言われるとオチはないけど、大阪市内にももうちょっといい私立があったら、わたしも違う十代を送っていたのかなと思う。
なるほど。
様々な感想が存在し、様々なlain感、受け止め方、解釈がある。
作中で全てを語ること無くプレイヤーに委ねた結果、それぞれがそれぞれの勝手喜怒哀楽を持って受け入れる。
今のlain周りがその力を生み出しているとは思えないけど、思い出の中にあるlainに今でも確かな力があったと感じる。
俺たちの脳細胞に刻まれた記憶が、ネットの海にlainとは何であったのかという記録を刻み続ける。
無限増殖するデジタルタトゥーがlainの伝説を語り継ぐんだ。
悪性変異したデュープのようにどこまでも広がっていくんだ。
たとえ今は陳腐化しようがかつてlainが伝説として存在したことは、それを語り継ぐ人間がいる限り消えることはない。
もう誰も本当の顔を覚えてないはずの歴史的人物の名前が残り続けるのは、記憶と記録が相互にループし増殖を続けるからだ。
この事実が失われることはない。今lainの権利を持つスタッフによっても不可能なんだ。
今の人類の技術ではまだ、刻まれた過去を消し去ることは出来ないから。
アニメ『serial experiments lain』の岩倉玲音が、『NEEDY GIRL OVERDOSE』配信番組にまさかの登場 - 電撃オンライン
馬鹿なんじゃないの?
lainのテーマは「サイバーパンクが現実のものとなりつつある空間としてのインターネット」であって、「メンヘラうようよの世紀末系インターネッツ」ではないだろ。
なんで公式がそこを間違える?
マジで全く別物なんだよ。
確かにlain当時のインターネットにはギーク・ナード・メンヘラを拗らせた社会不適合者がウヨウヨで、無法地帯を感じさせていたけど、インターネットを無法地帯にさせていたのは加速し続ける技術の進歩に人類の法律とモラルが追いついていなかったという背景が強かったわけじゃないですか。
インターネットに接続することそのものにそれなりの知能(せいぜいIQ90程度だけど)が必要で、そこによって区切りが発生することに対してメンサじみた特権意識を持ったイキり連中のウロつきの空気は今のアングラネットとは全く別物だよ。
某玉ねぎを使用もしないで幼稚園児でも明日から使えるインターネットで配信活動をする世界の作品とlainの世界は繋がらないよ。
同じくインターネットを舞台にしてるって言うならデジモンなりウェブダイバーなり連れてくりゃよかったんだよ。
つうか俺が一番失望してるのはlain公式がこの程度の判断を誤ったということ。
NEEDY GIRLが一方的にlainにラブコールを送るのは勝手だと思うけど、lainの側からNEEDY GIRLに応えるのは違うだろ。
インターネットの海において遍在していてどこに現れてもおかしくないのがlainの特性だけど、それならどこかの配信にだけ特別に現れるなんておかしいんだよ。全部の配信に顔を出すこともなくどこかにだけ偏在してしまっているなら、それはlainの在り方としての遍在とはまた別物なんだよ。
直接介入をしないからこそどこにでも存在していることを疑うことが出来るという実態の無さこそが本体の都市伝説としての立場を守るべきだろ。
それでもなおlainが特別にやってくるだけの繋がりはNEEDY GIRLとの間にはないよ。
「ネットが舞台でメンヘラじみてるから一緒でしょ?」なんてのは外野だけが取っていい態度であって公式がそれをやっちゃ駄目でしょ。
なんなんだよ。
25周年の一つの形として「お前らいい加減夢から醒めろよ。これは単なる紙芝居でしかね―んだ。著作権持ってるスタッフが自由にして良いおもちゃ以上でも以下でもないんだよ」って突きつけようってのか?
畜生……それが正しいのかも知れねえ……俺たちは和製ニューロマンサーとしてlainを持ち上げすぎてその本質を見失っていたってオチは十分ありうる。
日本の技術立国の形として電子の海に強い理解と関心を寄せるオタク達の島であって欲しいというキモい気持ちが、単なる一アニメに必要以上の役割を与えようとしていたんじゃないのか。
カルトアニメとして黙って持ち上げられてくれていたからそれに甘えていただけなのか……。
serial experiments lainに対して俺が見ていた25年の夢はとりあえず醒めたよ。
スゲーアニメだったのは間違いないけど、いつまでも日本サイバーパンクの神輿として担ぎ上げるのは間違っていたんだろうな。
いつからだ……放送後3年ぐらいの辺りでもう歯車は狂っていたのかな。
結局コレもさ、lainと攻殻ぐらいしか日本でマジメにネット社会の向こう側と向き合おうとした作品が生まれてなかったのが悪いんだよ。
色々あったけどさ、どれも最後はボーイ・ミーツ・ガールで甘ったるくくるんではい終わりにしてたろ。
そうやって誤魔化すんじゃなくて、最後まで物語の中心にネットの闇を置き続けるコンテンツがもっと伸びてほしかったんだな。
結局最後は生身の人間ですよなんて話をインターネットコンセプトにしてやって欲しくねえんだよ。
あーでもlainのアニメは最後、やっぱ生身だよねとはなったんだよな。
駄目だな……俺は自分の見たいものにピントを合わせてばかりで何も見てなかったんだな。
俺は俺の中にあるlainばかりを見てた。
現実のlain、スタッフ達がどう育てていきたかったのか、どういう作品だったのか、皆の中でどういう作品だったのかをちゃんと見ようとしてなかった。
だから1人で思い込んで突っ走って、25年もかけて勘違いに気づいて今更失望してんだな。
馬鹿みたいだわ。
結局、俺が幼すぎたってだけのオチかよ。
あほくさ。
なんだったんだろうな。
俺にとってのlainって。
長い夢だったな、今やっと醒めた。
本当に夢から醒めたんだと思う。
オールカントリーへの批判って「結局ほぼアメリカ企業じゃねーか中途半端で意味ね~よ」みたいなものが主だと思う。
だから、国ごとに重み付け、というか最大値を設けて、アメリカ株の比率を落とす
重みは…GDPとか?最大値は…1国は最大でも25%と制限を設けるとか?
でも既に何万人もそんな発想してるだろうしバックテストして「まぁまぁっすね…オルカンでいいんじゃね?」みたいなオチになりそう
せやけど俺とお前が別の生き物です、チンパンジーと俺も別の生き物です、終わり、では、不便やん。チンパンジーとお前の距離の差みたいなのが表現の中から排除されちゃうからね。
そういう線引きとか区別って、結局のところ、ヒトの認知の限界を補助するものなんだよな。
TSUTAYAの棚の話が俺は好きなんだが、リング・らせん・ループの貞子3部作あるじゃない。あれはオチがSFなんだけども、TSUTAYAでSFの棚に置くのはありえないんだよね。なぜなら貞子を探す奴はホラーの棚を探すから。
実は内容がSFですとか、そういう事実は関係ないんだよな。ジャンルの分類ってのはそういうものなんだ。別に内容の真実を定義するものではない。
そしてこれは、ジャンルが無意味、ということでもないんだ。たまに物語にジャンルはないとかいう過激派出て来るけど、TSUTAYAで便利な棚を作るために、むしろジャンルは必要。
シリアスなシーンのはずなのに、この主人公の格好は滅茶苦茶シュールやな…。
オチ、というか「ミクロではなくマクロに働きかける」という最終的な過去改変の方法はなかなか捻りが利いてるな……まあまあ面白かったやで。
1作目は観たけど、前作から4年も経ってるとほぼ忘れてるな…。
この『花楓』って子が今作のメインヒロイン? 主人公の妹なんか……前作に出てたっけ?
あー、不登校してて学力が足りてなくて、それでもお兄ちゃんと同じ高校に行きたいと。滅茶苦茶勉強してる……健気な子やな…。
……あ、この不穏な電話は、まさか……あああ、そんな……あんなに頑張ったのに……でも、自分も不登校の経験があるから解るわ……え、2年間記憶を失ってた…? そうやったんか…。
……また電話が…。……え? …いやいやいや、そんなことってある…????? 花楓、それでもお前は…お前ってやつは…。
……こ、このエンドロール曲は……こんなん泣くわ……久保ユリカ凄すぎひん???
映画で、自分の人生史上かつてないぐらい感情をグチャグチャにされてしまって、映画のストーリーに至るまでの花楓が気になりすぎたのでTVシリーズを履修するやで……。
……え、この子は花楓……じゃなくて『かえで』? あー、日記帳の表紙の名前がひらがなだったのはそういう…。ものすごくリアルな「今どきの女子中学生」だった花楓とは打って変わって、かえでは天真爛漫でお兄ちゃん大好きっ子で、「ザ・ラノベの妹」って感じの子やな…。
あー、いじめが原因で不登校になって、思春期症候群が発症して……しかし他のヒロインの「存在が認識されなくなる」「同じ日を繰り返す」「二人の自分が同時に存在する」「二人の姿が入れ替わる」という超常的な症状とは違って、花楓/かえでのは(体に突然現れるアザは別にすれば)「別の人格が現れて、それまでの記憶もなくなる」という、現実でも解離性同一性障害として起きそうな症状やな…(性格や言動が幼くなってる気もしたけど、知能や一般常識は年相応みたいだし、「幼児退行」とは違うんかな…?)。
……お、かえでのエピソードはTVシリーズの最後なんやな。おお、あんなにお家大好きっ子だったかえでが、外に出たい、動物園に行きたい、学校に行きたいと…。咲太が次々と新しい女を家に連れ込んだ(←言い方)のが良い方に影響したんやな…。しかし、咲太もかえでが言うことを絶対に頭ごなしに否定したりせずにちゃんと聞いてくれる、いいお兄ちゃんやな…。
……あああ、家の外に出るだけでそんなに……でも、自分も不登校の経験があるから解るわ…(2回目)。
…本人の決意と咲太の支えで外には出られるようにはなったけど、やっぱり学校はハードル高いか……でも、自分も不登校の(略)。
……え、ここは……かえでが行きたがってた…咲太、お前ってやつは……洗ってないなすのの臭いwww 良かったな、かえで……からの、え、ここは……かえでが行きたがってた…咲太、お前ってやつは…(2回目)。
明日はきっと……って待て待て、この展開はどう考えてもフラグ……あああああ、やっぱり……。かえで……かえで……。
そりゃ咲太も、それまでの40日間(10/16~11/26)必死に頑張ってたのをそばで見てた、そしてそれまでの2年間一緒に過ごして、自分が誰なのかも解らず不安に押しつぶされそうな状況なのに「妹になってくれた」『かえで』のことを思うと喪失感が大きくて、単純に「『花楓』が帰ってきた!」という気持ちにはなれないよな…(父ちゃんはわりとそういう感じだったが……まあ2年間妻の看病のために咲太・かえでとは別居してたし、それはしょうがないのか…)。
……いや、それはわかるけど、病室の『花楓』と父親を置き去りにして雨空の下を走り回るのはちょっと…。『花楓』はわりとあっけらかんとはしてたけど、気がついたら2年経ってるっていうし、自宅も引っ越してて、両親とは別居してて…という状況に戸惑わないわけはないんだからそばに居てやれよ……(という感想を自分が持ったのは、映画2作目→TVシリーズという順番で観たからなんだろうな。普通にTVシリーズから観てたら、『かえで』のことはよく知ってるけど、それまで劇中でほとんど描写がなかった『花楓』の方に感情移入することはなかなか無いだろうから…)。
…からの、翔子さん。咲太をよしよししてあげるのはいいとして、かえでの日記帳を勝手に読み上げるのはどうなんだろう…と思わなくもない。
いやしかし、この日記は泣くわ……。目が覚めたら記憶がなく、自分が誰なのかも解らず、父親も状況を受け止めきれず、母親に至っては心を病んで入院してしまった。そんな状況で唯一、咲太だけは自分のことを認めてくれて、一緒に暮らしてくれた。さっき『かえで』が「妹になってくれた」って書いたけど、それ以上に『かえで』にとっては咲太が「お兄ちゃんになってくれた」ことが救いだったんやろうな…。
そして、『かえで』の最後の日のことまで日記に書かれてる…。動物園と夜の学校に行って、翌朝目覚めた『花楓』が筋肉痛を感じるほど肉体的な疲労があったはずなのに、帰宅してから寝るまでの間に日記を書き上げたということは、『かえで』は、これが自分に残された最後の時間だということを解ってて、咲太に自分の想いを伝えなければいけないと思って、力を振り絞って……うう……。
翌朝、とりあえず立ち直って再び見舞いに訪れた病室で「退院したら動物園に行くぞ」と『花楓』に言ってしまう咲太さん…。なんか「元カノの面影を今カノに見てる」みたいな…。まあ、ちゃんとしたお別れもできないまま行ってしまったから、気持ちはわからなくもないが…。
…からの、麻衣さん。撮影の合間を縫ってわざわざ金沢から駆けつけるという理想の彼女ムーブ。…からの、翔子さんの書き置きが見つかって修羅場…。で、怒ってトンボ返りした麻衣さんを追いかけて金沢まで行ってしまう咲太さん……いや、そんなことしとる場合か!!? 言い訳と謝罪は後日にして! お前は!! 今は!!! 『花楓』の!!!! そばに居てやれ!!!!!(自分が麻衣さんというキャラクターに対してそれほど魅力を感じないので、このへんの咲太の行動に対してあまり共感できなかった…)
花楓、登場シーン数は少ないけどちゃんと出てたんやな…(当たり前)。
注目すべきなのは、美容院で髪を切るシーン。咲太、お前、もうちょっと感慨とかないんか…? 髪型が変わって、またひとつ『かえで』の面影が薄くなってしまうシーンやぞ…。(まあ「TVシリーズの続き」ではなく「1本の映画」として考えると、本筋とは関係ないそういう描写を入れるとブレるからしょうがないのかもしれんが…)
しかし、髪を切ったあとの「ど、どう…? 調子に乗ってるように見えない…?」というセリフ、いじめに遭ってた花楓の過去を考えると結構重いセリフではあるよな…。
1回目に観に行ってもらってたやつ。……あああ、これこれ! このエピソードが読みたかった!! 咲太と花楓(と麻衣と豊浜)が動物園に行くやつ!!!
行ったのは映画2作目のあと、3月ということだけど……まあ、そう簡単に『かえで』のことを忘れられるわけはないよな、咲太…。一方で、いつまでも『かえで』の面影を『花楓』の中に見てしまうのは、『花楓』に対してどうなんだ…?と思わなくもないし……う~ん……。
最近はずっと、かえでと花楓のことを時折考えて、そのたびに泣きそうになってしまう…。これは『かえで』ときれいな形でお別れができなくて、咲太も未だに未練があって、でも『花楓』を受け入れていないわけではなくて……という複雑な心情が続いていて、(少なくともアニメで描かれた範囲では)解決していないからだと思う。咲太、お前、『花楓』を動物園に誘ったのは、もしかしたらそれをきっかけに『かえで』が帰ってくるかも…という期待が、ほんの僅かでもあったんじゃないのか……?
かえでと花楓、2人が(何らかの形で)直接会うことができれば、一番いいわだかまりの解消になると思うんだけど……まだアニメ化されてない原作小説にそういう展開があったりしないのかな……と気になって、Kindleで全巻ポチってしまった(まだ読んでないけど)。今まで電子書籍ってほとんど買ったことなかったんですよ…。
それだけじゃなくて、コミカライズ版、BD全巻、OP、ED、サントラのCD、前売り券の特典についてたグッズ、劇場販売グッズ、予約受付中の花楓のフィギュア……この数日間で一体何万円を使ったただろうか? でも後悔なんてしてない、するわけがない。
特定のアニメ作品にハマったことは何回もあったけど、あるキャラクターを実在の人物のように感じたのは初めて。
今はそう……藤沢に行きたい。かえでが生きた、花楓が生きてる街の空気を感じてみたい。それと上野動物園に行って、洗ってないなすのの臭いを嗅ぎたい。
今まで「聖地巡礼」って「ふーん、世の中には物好きな人がいるんやな」くらいの冷めた感じで見てたけど、こういう気持ちやったんやな…。
……薄給だし、休みもあんまり取れないけど……。…新幹線で片道○時間、切符代が×万円…。日帰りだと流石にしんどいので1泊…いや、2泊…。となると宿泊費も…。
それを捻出するためには、今の支出を見直して…。買うだけ買って積むだけだった漫画や書籍、Steam、利用頻度の少ないサブスク、
それほど興味がなくてもわりと頻繁に行ってた映画……いや、でも青ブタと出会えたのはそのおかげだし…うーん……。
それと、かえでと花楓があんなに頑張ったんだから、自分ももう少し頑張って、今のただれた生活をなんとかしなきゃな…と思っている(部屋めっちゃ汚いんです…)。
(おしまい)
俺も、みんながまだ新築住宅主義でいてくれると助かる側の人間なんだけど、これからは賃貸派にとって追い風になるようなことも起きるかもしれないよ、と予測しています。
まず元増田が言うとおり、現時点でも、建材価格高騰と建設技能者の不足のダブルパンチによって、住宅取得価格がこの数年で1.2〜1.3倍ぐらいに上がっている。エビデンスとしては建設工事費デフレーターがある。
https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/jouhouka/sosei_jouhouka_tk4_000112.html
このデータの住宅総合の工事費を見ると、2015年7月を100とした指数値が、2018年3月期が102.8、2023年3月期には121.7と20%上がっていて、現場の感覚に近い(ちなみに現場感覚ではもっと上がっている)。これからもさらに上がるというのも元増田の指摘通り。5年前ぐらいの感覚で「この予算でこれぐらいの家が建つ」と考えてハウスメーカーを訪れた人は、今では到底それが叶わない夢だと知って絶望するかもしれない。
「同一条件の住宅取得価格が1.2〜1.3倍になる」ということは、同じ予算では「これぐらいの家を建てたい」という計画の7割程度の規模感の建物しか建てられない、ということだ(建物は規模が小さくなるほど坪単価が割高になるので)。だから地方でも、一般的な収入水準の若年カップル家庭の予算感では、それまで各地域で「身の丈レベル」と考えられていた規模の新築戸建て注文住宅を買えなくなってきている。で、そうしてシュリンクした需要の受け皿として:
という流れが、どの地域でも起きている。注文主体の大手高級ハウスメーカー(たとえば積水・住林・大和Hなど)も、2021年頃からは「用地を買って、刻んで、安くて小さい物件を建てて、建売で捌く」という動きが活発になってきている。
ここで行政はどういう立場を取るのか。国はもう、「新築住宅に対する助成」というアプローチは徐々に手仕舞いにしつつある。空き家問題がこれから待ったなしの社会問題になっていくからだ。日本で最初にこの問題に警鐘を鳴らしたのはNRIで、以後はここが空き家関連政策の議論をリードする形になっている。国もゆっくりとした歩みではあるが、これに呼応して「中古住宅物件のストック流通をやるぞ〜」という方向に向かっている。
すなわち、住んでない空き家に対しては高い課税をかけ、解体か流通の二択を迫る。放置すれば危険なレベルの空き家(特定空き家)は過料や行政代執行の対象にして排除する。中古住宅を(エネルギー効率で見て)快適に住めるようにする施策には補助金をかける。金融機関でのリバースモーゲージを促進し、「居住者が死んだら即・市場流通」という筋道を作る。中古住宅の性能を保証するためのホームインスペクション制度を整備する。などなど、外堀はじわじわ埋められている。
一方で新築住宅に対しては、今後は長期優良住宅やZEHなどの「低環境負荷」で「SDGs」な物件以外(たとえばローコスト住宅や土地を刻んで建てていく狭小建売など)は、住宅ローン減税などの優遇措置を見直すことでテーパーをかけて減らしていくと思われる。
理屈のうえでも、出産適齢期人口が激減しているのに、増え続ける中古住宅を放置して年間70〜80万戸の新築住宅を建て続けるような政策デザインは持続可能性に欠ける。そもそも新たに建てる土地も減ってきている。昔ならいざ知らず、もう市街化調整区域に新築住宅をバカスカ建てさせて将来のインフラ維持コストを上げて自らの首を絞めるような自治体も減っている。市街化区域で今建っている土地の今建っている建物を流通させるのが、建築経済的には理に適っている。
そんなわけで、今後は行政主導の「ストック住宅流通促進」×「新築住宅優遇税制のテーパリング」の流れが進むことで、これまでの日本の住宅市場では決定的に供給不足だった、ニューファミリー向けの戸建て賃貸物件の本格流通が始まると思われる。この流れは賃貸派にとって追い風になるだろう。
不動産クラスタ的目線で言うと、ファミリー向けの戸建て住宅というのは、そのライフサイクルを通して見たときの空間利用効率が悪いのは否定できない。端的に言って、子育てが終わった世代にとっては、2階建て住宅の2F部分は基本的にムダだ(実際、近年は富裕層シニア家庭でのバリアフリー減築・平屋減築や平屋住宅の再新築が盛んになっている)。
子育てをしていて親と子が同居している期間って、子1人で平均約20年、子2人でも約25年ぐらいしかない。モデルケースとして、夫婦25歳のときに家を建てて子どもを産み、その子どもが20歳になった時に家を出るとしよう。そのとき夫婦は45歳。人生100年時代なら余生は55年。その間ずっと、この夫婦は2Fの子ども部屋空間を有効活用できない。平均余命の延長により、われわれは持ち家のメリットを享受できる期間が相対的に短くなり、その2倍以上の期間をその持ち家で過ごすことになっている。投資として見れば、かなり分の悪い行動をしていることになる。
だったら政策的に居住流動性を高めて、持ち家がある老夫婦は今の住宅を4人暮らししたい人に賃貸して、その家賃で2人暮らしに向いた間取りの住宅なりマンションなりサ高住なりを借りて引っ越せばよろしい、というシナリオが出てくる。確かにこれならステークホルダーみんなWin-Winに見える。経済学的に言うと、政府の施策(新築住宅優遇政策)によって発生していた死荷重(≒非効率性)が除去されて、市場の効率性が高まった状態だともいえる。
だからどうだってわけじゃないんだけど、あえてオチをつけると、「元増田も指摘する諸条件を踏まえても、賃貸派が勝利するシナリオというのはありえるよ」という話でした。