はてなキーワード: 跋扈とは
淫夢は何も悪くない。
屋上へ行こうぜ…久しぶりに…キレちまったよ…
お前ら一体何を言っているんだ
もう一度書く。
お 前 ら 一 体 何 を 言 っ て い る ん だ ?
どうして正義とか悪とか果てはゾーニングの問題になってるんですかねぇ…
淫夢ってそんな小難しい理屈で語っていいほど繊細な話題じゃないダルルォ!?興が冷めるからやめちくり^~(嘲笑
いいかおい、淫夢を始めとしたMADというものはなそんなちんけな説法で語るべき綺麗なもんじゃない。
そこに素材がある。→
とてもおもしろい。→
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淫夢厨に(そして、おそらく淫夢MAD製作者にも)流れているのはただそれだけだ。ただ単にそれだけの情動が支配しているんだ。
ただそれだけが全てなんだよ。
そこに倫理も作法も行儀も正義も悪もゾーニングもニコ動が抱える原理上の問題もない。
そこに変な理屈で議論しようなんて考えることがもうアホらしいことなんだよ。こんなの粋じゃないだろ。野暮もいいところだろやめちくり^~(どんぶり)
大体淫夢側も淫夢側で、倫理も正義も無視してるんだから、まともなネットユーザーから淫夢厨は迫害されて当たり前だよなぁ?(確認)
みんなが愛でているキャラにくさいやらよわそうやら淫夢ファミリー無許可認定やらやらかしてるんだから、避難されて当然だと思うんですけど(当推理)
淫夢「民」ンンンンんんん!!???おいおいおいおい、悠長な身分だねぇ?兄さん、え?いつから人権が認められた市民に成り上がってるんだ図々しいねぇ~(ねっとり)
え、汚ったない淫夢用語使っておいてこれはもうれっきとしたネットスラングだから認めてくださいとか言ってる奴がいるのか…(震え声)君、結構・・・不作法、さんね(ヒゲクマ的感想)
さて、もうお分かりの人も多いと思うが、これは別に淫夢に関することに限らない。
ある程度厳格にルールのような決まり事がある共通の趣味趣向を持つ者のコミュニティ…なんて綺麗なもんじゃないな、そう、吹き溜まりのような集団にはよくある現象だ。
例を上げればわかりやすいだろう。
…等々。
こんなものに価値はない。価値なんかないからこそ面白おかしくて、楽しくて、最高にワクワクして、ガンギマリ。
俺が、俺達が、"厨"だ!
そして、こんなのが跋扈するのが結構当たり前なのが割とここ十数年のネットの状況なんだけど、もうそろそろ耐性ついてないんですかね…(素直な疑問)
こういう奴らに対して、わけがわからない、悪寒がする、嫌悪の感情が止まらない…そんなピュアピュアな感情を抱く連中は理解なんかしないでくれよな~頼むよ^~(懇願)
ネットでこんな深い腐海所までわざわざ来ておいて「こんなのは正すべき」とか頭おかしい…(小声)
とりあえず書きたいことはなんとなくだけ書いた。言いたいことは要するに、掃き溜めに何言ってもゴミクズチリステロイダーハゲであることには変わりないんだからもう寝なさい。
そういやはてな匿名ダイアリーって別の意味で掃き溜め集積所みたいなもんなんだから掃き溜めに関する掃き溜めを投下したってもう許せるぞおい!もし「はてなを汚すな」とか仰せになる村民様方がおられるのでしたら、そこらへんの認識、はい、ヨロシクゥ!(GO IS GOD)
最後に、こういうクッソくだらない連中のことを的確に表している迷言を残しておき、ケツを拭く紙とする。
(トラバつけたうえでこういう前置きを書くのもナンなんですけど)
(でも、disってるように読めるかもという危惧があるので書くんですけど)
(小声で言いたい案件)
「B6ソフトカバーで1000円~1500円」というチャレンジ、が挙がっていて
「単行本2000~3000円」「文庫本500~1000円」レンジから大きく下がって
・新古書店まんせー
・図書館まんせー
どうしてもこういう論議って
現実にはそうじゃないユーザー(読者、と呼びたくない心を表現してみた)
との戦い
……戦いじゃないか。
どう折り合いをつけていくか、に収斂されるのではと思うんだ、
そんな日々の中、なんとなく絵描きには「四種類」いるように感じられました。
この四種類です。
SNS上ではポジティブな方が人気です。実力は「あったほうが良い」程度にすぎません。
「本当にとてつもない実力」であればこの四種類の例にはあてはまりませんが。
同人誌のイベントなどでは器用な方が人気です。実力が無い人が調子にのると大変なことに。
プロになる可能性が高いのは、どちらかといえばネガティヴな方でしょう。この点に関しては一概には言い難いですので「大まかに見て」となりますが。
この4種類の人間においてポジティブな器用とネガティブな不器用は相互理解がなされない限り徹底的に相いれません。
また、ポジティブな不器用とネガティブな不器用は、ネガティブな不器用の方から忌み嫌う事が多いでしょう。
と、ここまで言うとただただネガティブな不器用の絵描きが性質の悪い存在となりますが
「器用な絵描き」とは、いわば「才能のある人」であり、多くの人間が「才能はない」ために、どうしても「不器用」な絵描きとして生きていかなければならなくなります。
そんな人々の感情を器用な人々は「理解できない」ため、本人にその気はなくとも、他者を傷つけることがあります。
一昔前であれば、そんな「ポジティブな器用」の人はだいたいリア充だったりするので、
学生生活の内の栄光、昔取った杵柄のようにして、いつの間にかやめているのですが、
昨今オタクのイメージ変化に伴い「ポジティブな器用」の人間にとって、絵を描くことは容易に承認欲求を満たせるツールと化しました。
そのため趣味を成人の後も続ける人間が増え、それによってネガティブな人が変に刺激されることが増えているのが現状でしょう。
こうして「承認欲求のみの器用絵描き」ばかりが跋扈していますが、この先どうなるのか。
そうした承認欲求に飽き、大量に絵描きが消失する時代がくるのではないでしょうか。
それがいつになるかわからない以上、悠長に構えていい問題ではあります。
ただ、事実として4種類の絵描きがいること、そして大多数がネガティブで不器用であるということを我々は意識すべきなのではないか。
という話が話題になっている。
http://ninicosachico.hatenablog.com/entry/2015/10/26/144601
この記事の中で、
という話がある。
痴漢されるのは魅力的な女性だけではなくほとんど無差別なのだ。
ということが言いたいらしい。
幾つかの記事をみてもそういった話が出てくる。
しかし、近年のジェンダー問題やフェミニズム、弱者男性、非モテの話等を組み合わせてこの問題を探っていくと
ある一つの考え方が浮かんでくる。
被害女性に対する第二の被害を起こす社会を是正しようとする彼ら彼女らはこのあまりにも醜い一つの問題点を認識していない。
いや、そもそも認識することができないのかもしれない。
それは
ありていに言うと嫉妬や羨望だ。
この世の中には身体的な接触を行うことすら抑制された人々が存在する。
自分から握手を求める。道を通りがけに人にぶつかる。相手の目を見る。
そういった自分が存在することによってこの世に迷惑をかけているのではないか?
接触することがしてはいけないことなのではないかという認識をしている人達が存在する。
こんな自分でも誰かに触ってもよいのではないか、触られ、求められることがあるんじゃないかと常に妄想し続けているのだ。
この承認欲求と自己の感情がないまぜになった醜い思考をやめることができない人たちが存在する。
彼ら彼女らが痴漢被害にあった女性に対して何を思うかといえばそれは明白だ。
「嫉妬」だ
そう。
端的にいえば、痴漢被害を自慢だと思う人たちの自己評価があまりにも低すぎるからこういう発言が跋扈するのだ。
痴漢被害者に文句をいう彼ら彼女らは心のどこかで他者に触れることを禁忌としている。
少なくとも自ら触れることは神に罰せられる許されざる行為で自分だけがそうしてはいけないのだ、と認識している。
もし痴漢被害を「自慢」と取られたくないのであれば彼ら彼女らへのケアこそが重要となる。
あなたも社会から求められているのですよ。という承認欲求を満たしてやらなければならない。
しかし残念ながら社会は彼ら彼女らのような心も体も醜い者たちに救いの手を差し伸べることはないだろう。
この怨嗟の声がやむことはない。
自宅にウォシュレットが導入されてないものだから、たまにジャスコとか行ったときしか使わないんだけど、
いや、ジャスコじゃなくてイオンだろうと指摘されるかもしれないがこの地域ではジャスコのほうが通りがいいんだ、
休日のジャスコなんて現代最先端のマイルドヤンキー様の溜まり場なわけでそりゃもうひどい賑わいなわけ。
お菓子をくれたらイタズラしてもいいよ?、って誘ってくるわけ。
そんなゴミみたいな人ゴミに迷い込んでしまったら当然お腹痛くなるわけ。
うんこするじゃん。
ウォシュるじゃん。
紙で拭くと残ったうんこが付くのよね。
ウォシュってるときに尻を前後したりしてここぞというポイントに当たるように調整しているつもりなんだけど、
どうやら俺がここぞと思っているポイントは尻穴ではないらしい。
自分に配られたカードはもっと良いものが良かったという気持ちは多くの人が大なり小なり持っていると思う。
もっとイケメンに生まれたかった、金持ちに生まれたかった、頭が良く生まれたかった
自己を承認するには、これらの欲望を捨てないといけないと思う。
なぜなら、こういう欲望があると「どうして自分は○○でないのか」「○○が良かった」という感情が生まれてくるから。
東京に近いところに住んでいれば参加できたかもしれないイベントをいくつ逃してきたのか。
やっと東京に出てきた頃には就職しており、仕事の関係で満足に参加することもできない。
仕事は生活の糧だ。一番大事である。大事であるが悔しくて仕方ない。
田舎に生まれた自分を承認しようと思っても、シャッター街だらけで買い物も出来ず、ねちっこい人たちが跋扈する、何の魅力も無いクソ田舎生まれ…と考えると寂しいやら腹が立つやら。
いわゆる「自分が嫌い」というやつなんだと思う。
そう。画像が使えない。テキストオンリーの世界。それは狭量であると同時に、文字情報だけという思索の機微に満ちている。
昨今、跋扈する「まとめサイト」だろが「LINE」も画像、スタンプを使いすぎ。
一方、増田は純然たるテキストだけが物を言う。思想を文字という形に定着させたシンプルなものだが、むしろその方が時代を超えて、人の心を打つ。
例えば、60年代の映画を見ると(多くの場合)「古臭い」と感じるが、60年代の音楽を聞くと意外と現代と変わりなく聞けるように。。。
のろし→手紙→電話→ファックス→メール→LINE と通信手段は変化したが、
感想なら、クソを素晴らしい香りと言おうが白地図に対して白い!と文句をつけようが自由だ。
だが、「進撃の巨人」と「Mad Max: Fury Road」を並べて批評するのは、適切だろうか?
クソリプ、という言葉がある。便利かつ端的だ。
例えば、最近の映画だと『ドラゴンボールZ 復活の「F」』がある。
「フリーザの進化形でゴールデンフリーザってダセえ!子供か!」と言うのはクソリプだろう。
作品の質を「進撃の巨人」と比較するなら、「スポンジ・ボブ 海のみんなが世界を救Woo!」とかのハズだ。
「フィニアスとファーブ ザ・ムービー」と「映画けいおん!」を比較してはいけないのだ。
どちらが偉いとか、どちらの方が優れていると言う意味では無く、分類が違うのだ。
同じ図鑑に載っていない。動物園なら違うコーナーに展示されているのだ。
似ていても「パシフィック・リム」と「巨神兵東京に現わる」を比較するのは違うというのは判るだろう。
同じように「Mad Max: Fury Road」と「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の比較もナンセンスだ。
羽生善治と町内一将棋に強い八百屋の親父の打ち筋を比べるような、傲慢でかつ無意味な比較だ。
なぜ、「ローレライ」や「日本沈没」での実績がある樋口真嗣監督を、
音痴だがタップダンスの上手いペンギンがタップでペンギンの世界を救うという
愛らしくもマッドさとは無縁な「ハッピー フィート」でアカデミーまで取ったジョージ・ミラーと比べるのだ。
(ペンギンで稼いで世紀末映画撮れるって小躍りするジョージもジョージだが)
「パシフィック・リム」は、全世界でこそ400億だが、日本に限ればわずかに15億の興行収入だった。
つまり、広報宣伝にテレビが大きく絡むキャスティングや出資者の納得するシナリオ必須など、
魑魅魍魎の跋扈する邦画界において稼げる稀有な監督が、樋口真嗣なのだ。
その意味で、「みんなの感想は面白いけど批評としてはなんか違う」というのを言語化するきっかけになった
壁から出ることを拒んだ制作者たち 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN - 小覇王の徒然はてな別館が「ハンガー・ゲーム」や「メイズ・ランナー」をあげているのは、実に慧眼だと思う。
内気な女子高生とイケメン・バンパイヤが恋をする少女漫画のような「トワイライト」とか
高校生になると性格診断で中二病な名前のグループに振り分けられて争う「ダイバージェント」とか
様々な欲望をストレートに発散できなかった鬱屈を青臭さでコーティングしたようなヤングアダルト映画と比較すべきなのだ。
これを外すと、クソリプになってしまう。
大金庫の奥に女性たちを大事に保護し、同時にモノとして扱っていると端的に示すシーンや、
急な方向転換にもボスの意向を確認してから迅速に隊列を組み直すウォーボーイズや
轢くまいと同乗者を無視して咄嗟にハンドルを切るイモータン・ジョーの姿など、
アレだけ判りやすく演出しながら終始ハイテンションなマッドマックスとは違うジャンルの映画なのだ。
主要なキャスティングで、手堅くまとめている。
所属事務所の調整がエクストリームなのに、比較的演技派で固められている。
演技や配役に関しては、さほど文句は出ない(観た人が納得する)キャスティングと言える。
かつ、きちんとバラエティー出演やワイドショーで取り上げられやすい人を入れていて、広報的にも万全。
日本の映画は(洋画も邦画も)「テレビで宣伝→一斉に人が来て儲かる」という流れなので、
たまに演技の素人さんが入るのもご愛嬌なんだけど、そんなことはない手堅い布陣。
はてブは、ワリと「要旨全無視で1行だけにツッコム」という日本人(主語)の減点指向を振り返る場所だが、
「面白かったね!じゃ、ご飯食べてラブホ行こっか」みたいなカップルとか、
「カッコ良かったな!キモかったし!カラオケ行こうぜ!」みたいな高校生とか
「あのシーン泣ける~とツイートしたしファミレスにお茶行こ」みたいなグループとか、
ターゲットとなる観客たちにとって、本作は微妙なラインではある。
要らないエロがある。エロならエロ、重いシーンなら重いシーンと、きちんと分けないと観客が戸惑う。
また、主役級のキャラクターの動機がフラフラすると理解できずに置いてけぼりになる観客が多くなるので、
その意味で単純に「必要のないシーンが有る」「描きたいシーンを繋ぐシナリオが甘い」という残念な出来ではある。
矛盾するようだが、シーン優先、つまり場面やある瞬間の一連のお芝居だけを覚えて帰る観客は意外に多い。
機関銃ぶっ放して快感言っとけば客が喜ぶ時代から、人間さほど進歩してないとも言える。
特撮は流石に良い出来で、その点を見に行くのであれば問題はない。
ただし、ドラマパートは監督と脚本の思想によるものか、全体を通して複数人のレビューを受けてないお芝居に見える。
動機付け、感情の流れ、イベントと対応、演出、全てがパッチワークというよりは、ツギハギになっている。
クソリプ良くない。
例えばオーストラリアのゴア映画と、ハリウッドのマイケル・ベイ映画を比較しても意味は無い。
同じように「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」と「Mad Max: Fury Road」との比較もナンセンスだ。
キチンと適切な比較対象を持ってきた上で、クソな部分をクソだと言うのが、批評だ。
儲かる、だがしかし面白くはない。ハリウッド映画とは方向性が違う。
そういう実に邦画らしい邦画で、ちゃんと儲けて実績も残ると思う。
平成ゴジラとハリウッド2回めGODZILLAの中間みたいな。
個人的には、町山智浩が文句つけながら諫山創とヘッドギアに脚本書いてもらえば良かったと思う。もう遅いけど。
総評としては、「良いキャスティング」「演技は良い」「特撮は良い」「シナリオは悪い」「演出は悪い」。
演技が良い分、邦画の特撮映画としてはマシな方だと言える。まあ夏休みの中高生~若者向けだろう。
映画には様々な見方が存在するので、ハリウッド映画やフランス映画が優れているというわけではない。
映画館内で飲み食いして踊る社交場になっているインド事情的には、フルコーラスで踊りが入っている映画が良い映画だ。
(インドも南の方は保守的なのでそこまで騒ぐわけではないみたいだけど)
話題性をテレビで宣伝して人に来てもらって稼ぐ邦画が悪いとは言わないし、そういう方向性もあると思う。
ドニー・イェン仕込みのアクションを和風に落としこんで撮り切った谷垣健治だって、ワーナーからカネ引っ張る理由に「るろうに剣心」を使ったわけで。
好きな映画は見に行く、嫌いな映画は積極的に見に行かないを徹底しないと、いつまでたっても方向性変わらないぞ。
世の中カネ稼いだものが偉い。勝てば官軍負ければ賊軍。
昨今の日本会議やらネトウヨの跳梁跋扈に対して喝采するばかりなのか?
そういう寡黙で誇り高いイメージなんだが、
負けた戦のことに関していつまでもウジウジ言うのは『日本人』には程遠いんじゃないのか?
ましてや自分を愛国者と自画自賛して他人を売国奴と罵る姿はどう見ても『日本人』じゃないんだが。
俺の武士道がこいつら醜いと言ってるんだが。
「武士道に於いて、上位者・支配者とは命がけで徹底責任を取る者である。これに対して欧米では上位者・支配者は白人とするものであったために、この思想の対立が大東亜戦争へと発展していった。形としては日本は負けたが、これは同時に白人優位思想の崩壊をもたらしたともいえる。」
とか
「たとえば、すぐに「すみません」と謝罪するのは、自分を下位に置く意味であり、自分を上位に置くと徹底責任を義務として求められるからである。」
とか書いてあるし。
仏教では、悟るためには正しい師について学ぶことが必要だと考えられている。
「師資相承」や「法脈」という言葉を聞いたことがある人もいるだろう。
仏教に限らず、芸能・芸術・工芸や俳句のような趣味嗜好の分野でも、同じ。
「すべて師匠の言うことに従わねばならない」
「師の言うことには絶対に逆らってはならない」
師匠は弟子を激しく打擲し、足蹴にし、怒鳴りつけ、人間扱いしないことすらある。
なぜならそれは、道を弟子に悟らせるために師匠が心を鬼にして行った意味のあることだから。
それは時にカルト化することがある。
正しくない師(グル)を、それと知らずに選んでしまい、性的なサービスや違法行為を要求される。
(これも道を極めるためには大切なことだ)
と信じてグルの言うことに従い、大きな社会問題となることもある。
いくら危険性があろうとも、一流の「達人」と呼ばれる存在になるためには、
師を選び、理不尽な要求に耐えるのも仕方のない事なのだろうと思っていた私の蒙を啓いたのは、
腹話術も、相当の技術が必要な芸能であり、昔は一流と言われている腹話術師の元に弟子入りして、
技術を修得するのが当たり前だった。
彼は「だれでもできる腹話術」というHow to 本だけで腹話術を学び取った。
それまで誰も成し得なかった技すら開発した。
彼は一流の芸事すら、独学で極められることを同自体の私達に証明した人物である。
東洋の文化は、型を徹底的に学ぶことで芸事を身につけることを重んじるあまり、
「自分の頭で考える」
ことは「序・破・急」で言えば「破」、師匠から学び終えた後に行なうべきことだ。
最初は師匠や先達の言う通りに従うべきだ、という考え方は日本文化に通底し、
それが体育会系の跋扈、中小企業のブラック体質を生み出す元凶となっている。
一流と誰もが認める人の考え方の片鱗を紹介する本や情報を手に入れ、
2014年の暮れにおこなわれた沖縄知事選で基地反対派の翁長氏が勝利したのを境に、沖縄という地域は決定的に変わってしまったように思われます。
基地反対派は「オール沖縄」という標語を掲げていますが、実際は全然そんなこと無いわけです。
反対派の翁長雄志 51.7%
賛成派の仲井眞弘多 37.3%
このように確かに差はついていますが、とてもじゃないけど「オール沖縄」とは呼べない得票率です。
選挙で勝ったからといってこの4割近い民意を完全に無視してオール沖縄と連呼する反対派の態度は、まさに最近リベラル系メディアが政府・自民党に対して頻繁に使う「民主主義の暴走」とは言えないでしょうか。国政では「少数派にもっと配慮しろ!」と与党を批判し、同じ口で沖縄基地問題では反対派を完全に無視して「オール沖縄!」と叫ぶ。このダブルスタンダードはいったい何なんでしょう。
以前のタイムス・新報(沖縄二大新聞)はもう少し基地賛成派にも配慮してました。基地が無くなる事で生計が成り立たなくなる人もいるし、また必ずしも基地は悪い面だけでなく国家の安全保障面で重要な存在であるという論陣を(たまーーに)社説等で張る事でそれなりにバランスを取ろうとする姿勢が垣間見えていました。それが去年の12月の知事選を境にガラッと変わってしまった。紙面には感情的な檄文が跋扈し、それを読んだ県民も高揚し、一種のお祭りムードが沖縄に漂っています。
まあそんなことは正直どうでもいいって言っちゃえるぐらい、こちらの言論弾圧問題の闇が深いように思われます。
「オール沖縄」という言葉に惑わされて沖縄県民が一丸となって基地に反対しているという印象をお持ちの方もいるでしょうが、それは大間違いです。知事選では35%近くは基地賛成派の候補に投票しており、また中国に近い離島では議会・島民共に圧倒的に賛成派が多数を占めています。2014知事選以前は、賛成派と反対派は反対派が優位ながらもそれなりに拮抗した存在であり、お互いにお互いの立場をある程度尊重し合う間柄でした。
知事選後に何が起きたのかというと、大まかに分類すれば以下の2つです。
1.ネットで基地に許容的な態度を示した人への反対派からの徹底的な攻撃
草の根レベルではありますが、選挙で勝利した側が負けた側の言論を封じようとする動きが加熱しました。
twitterで米軍基地に好意的なことを書こうものならイナゴのごとく罵倒tweetが大量に飛んできます。
飲食店の店主が基地賛成派だからといって食べログで批判的なレビューを書く人まで現れる醜悪極まりない事案も。
中国本土に近い側の島では安全保障上の観点から米軍基地への賛成ならびに自衛隊基地を誘致しようと議会レベルで推進しているのですが、それに対して沖縄メディアがよってたかって攻撃しています。「オール沖縄の理念を踏みにじるものだ」という文面を見た時はさすがにクラクラしました。
確かに民意は大切で、そして基地への県民投票となった2014知事選で反対派が勝利したのも事実です。しかし、だからといって基地賛成派の存在そのものを消し去ろうとする今の沖縄メディア・県民の言動は異常と言わざるをえません。もはやこの県に言論・思想の自由は存在しなくなってしまいました。日本で最も民主主義への理解が遅れた後進的な県に成り下がってしまいました。
そういう風潮を作っているのはタイムスと新報という二大新聞に依るところが大きいです。県外では朝日・毎日・ネットのハフィントンポストなどがその役割を担っています。繰り返しになりますが、このメディアは政権与党に対しては「少数意見を無視するな」「民主主義の暴走だ」と言い、翻って沖縄では先頭にたって民主主義の暴走と言論弾圧を押し進めています。クラクラする。
どこぞの作家が沖縄の新聞は潰した方がいいとか言ったらしいですが、まあどちらか一つは潰れてもう少し中道よりの新聞が根付かない限り、沖縄県民の知性レベルはいつまで経っても中世止まりなのかなと暗澹たる気持ちになります。
2014年の暮れにおこなわれた沖縄知事選で基地反対派の翁長氏が勝利したのを境に、沖縄という地域は決定的に変わってしまったように思われます。
基地反対派は「オール沖縄」という標語を掲げていますが、実際は全然そんなこと無いわけです。
反対派の翁長雄志 51.7%
賛成派の仲井眞弘多 37.3%
このように確かに差はついていますが、とてもじゃないけど「オール沖縄」とは呼べない得票率です。
選挙で勝ったからといってこの4割近い民意を完全に無視してオール沖縄と連呼する反対派の態度は、まさに最近リベラル系メディアが政府・自民党に対して頻繁に使う「民主主義の暴走」とは言えないでしょうか。国政では「少数派にもっと配慮しろ!」と与党を批判し、同じ口で沖縄基地問題では反対派を完全に無視して「オール沖縄!」と叫ぶ。このダブルスタンダードはいったい何なんでしょう。
以前のタイムス・新報(沖縄二大新聞)はもう少し基地賛成派にも配慮してました。基地が無くなる事で生計が成り立たなくなる人もいるし、また必ずしも基地は悪い面だけでなく国家の安全保障面で重要な存在であるという論陣を(たまーーに)社説等で張る事でそれなりにバランスを取ろうとする姿勢が垣間見えていました。それが去年の12月の知事選を境にガラッと変わってしまった。紙面には感情的な檄文が跋扈し、それを読んだ県民も高揚し、一種のお祭りムードが沖縄に漂っています。
まあそんなことは正直どうでもいいって言っちゃえるぐらい、こちらの言論弾圧問題の闇が深いように思われます。
「オール沖縄」という言葉に惑わされて沖縄県民が一丸となって基地に反対しているという印象をお持ちの方もいるでしょうが、それは大間違いです。知事選では35%近くは基地賛成派の候補に投票しており、また中国に近い離島では議会・島民共に圧倒的に賛成派が多数を占めています。2014知事選以前は、賛成派と反対派は反対派が優位ながらもそれなりに拮抗した存在であり、お互いにお互いの立場をある程度尊重し合う間柄でした。
知事選後に何が起きたのかというと、大まかに分類すれば以下の2つです。
1.ネットで基地に許容的な態度を示した人への反対派からの徹底的な攻撃
草の根レベルではありますが、選挙で勝利した側が負けた側の言論を封じようとする動きが加熱しました。
twitterで米軍基地に好意的なことを書こうものならイナゴのごとく罵倒tweetが大量に飛んできます。
飲食店の店主が基地賛成派だからといって食べログで批判的なレビューを書く人まで現れる醜悪極まりない事案も。
中国本土に近い側の島では安全保障上の観点から米軍基地への賛成ならびに自衛隊基地を誘致しようと議会レベルで推進しているのですが、それに対して沖縄メディアがよってたかって攻撃しています。「オール沖縄の理念を踏みにじるものだ」という文面を見た時はさすがにクラクラしました。
確かに民意は大切で、そして基地への県民投票となった2014知事選で反対派が勝利したのも事実です。しかし、だからといって基地賛成派の存在そのものを消し去ろうとする今の沖縄メディア・県民の言動は異常と言わざるをえません。もはやこの県に言論・思想の自由は存在しなくなってしまいました。日本で最も民主主義への理解が遅れた後進的な県に成り下がってしまいました。
そういう風潮を作っているのはタイムスと新報という二大新聞に依るところが大きいです。県外では朝日・毎日・ネットのハフィントンポストなどがその役割を担っています。繰り返しになりますが、このメディアは政権与党に対しては「少数意見を無視するな」「民主主義の暴走だ」と言い、翻って沖縄では先頭にたって民主主義の暴走と言論弾圧を押し進めています。クラクラする。
どこぞの作家が沖縄の新聞は潰した方がいいとか言ったらしいですが、まあどちらか一つは潰れてもう少し中道よりの新聞が根付かない限り、沖縄県民の知性レベルはいつまで経っても中世止まりなのかなと暗澹たる気持ちになります。
これはIDに出自、人種、民族などが表記されていないから起きる問題だ。
単一民族国家である我が国では問題はより一層大きく、近年のハーフタレントがあたかも日本人顔して跋扈してる昨今の状況をみるに事態は予断を許さない。
例えば結婚の際、相手のルーツに日本人以外の血筋が混ざっていないか確認し、非日本人以外の血筋を持つものと純粋な日本人との結婚に一定の注意喚起を設けるシステムを公的に導入すべきではないか。
もちろん愛しあう異人種間の結婚を制限するという全近代的な法規制など人権の見地から問題外だが、望まずに自分の家系が純粋な日本血統ではなくなってしまうことを避ける事ができ、よって我が国における日本系日本人のマジョリティー的立場を堅持できるのではないだろうか。
特にここ最近は安倍政権の成果として在日朝鮮人に対する特権排除が進んでいるが、一方では帰化する在日が増えているという。
私は偏狭な人種差別主義者ではないので天皇陛下と我が国に忠誠を誓い、愛し、国籍を得ようとするものを拒むことは全くないのだが、異国にルーツを持つ国籍保有者が増えるということは、我々の純血を保つ上では大きな脅威となりうる。