はてなキーワード: 純愛とは
アジアで初めて台湾が同性婚を法制化したけど、台湾は21世紀になってから、ゲイやレズビアンが出てくる映画がいくつか作られている。
「藍色夏恋」
「花蓮の夏」
「GFBF」
とかは日本でも公開されてスマッシュヒットしたし、見た人も多いのでは?
別にそれがメインでなくても、ちょい役がゲイだったりレズだったりすることも多い。
(現代の若者感を出すなら、とりあえずゲイやレズ出しとけばOKみたいな空気さえ感じる)
「花蓮の夏」はゲイセックスのシーンも出てくるし、上記の3作はコメディ要素ではなく、純愛だったりシリアスな展開だったりする。
ひるがえって日本ではどうか。
「おっさんずラブ」は同性愛というよりはBL的コメディってかんじで、リアルなゲイを演出しようとしていないし、
たぶんゲイ役をするのを俳優が嫌がるか事務所がNG出すのかなあ。
小さい頃は自分も仕事しながら人並みに結婚して子供を育てて人並みの幸せを手に入れるもんだと思ってた。
まっとうに女の子が好きだった。男子小学生が必ず通る、好きな女の子にちょっかいかけたりなんてのも順調に経験してた。
道を外れたのは中1。ゲイ動画に興奮を覚えた。中2では同じクラスに好きな男子もできた。彼からラインが来るたびに心踊ったし彼が他の人と遊んでると嫉妬した。恋愛感情だと認めざるを得なかった。
その頃からもう女の子は純愛でも性愛でも対象から外れていた。けど自分がゲイだと自覚できたのは高校入ってから。徐々にわかってくる。結婚はできない。子供なんて無理。
もちろんパートナーシップ協定やら海外なら同性婚ができるやら多少は調べたりもした。だけどまあ異性間の結婚とは訳が違うわけで。子供だってまあパートナーができたら養子なんてことも考えられるけど子供が可哀想だし。
小さい頃願ってたことなんて何にも叶わない。生きてて何が楽しいのかわからない。先が見えない。実らない恋愛感情を人知れず抱くのに何の意味がある?
もう疲れた。
同様の主張をどこにも見ないのでここに書き出す!!!
ある程度いろんな人が見る場所に出すにあたって、何が過度に性的なのでアウトで、何がそうじゃないのからセーフなのかという話だ!!!
簡単に言うと「どれだけ建前をちゃんと持っているのか」あるいは「あからさまではないか」というところが基準だ!!!
今話題の秋葉原の広告はエロゲの広告であることがあからさまなのでアウトだ!! 煽り文言だって完全に性的なところを隠していないではないか!!! 女の子があの格好で並んでいることに対して何らかの非エロ的建前があるのか!!! なかろう!!!
一方、献血のポスターはアウトではない!! なので、あの絵があからさまに胸を強調しているので性的なのだと言う人とはここでわかり合えない!!
つまり、あれが乳袋なのであからさまだという人とはわかり合えない!!
俺の中の乳袋のあからさまのラインは「下乳の丸みでのみで描かれる輪郭がはっきりと出ていること」だ!! あのポスターの3巻の表紙イラストは、はっきりとした輪郭線ではなく影の具合でとどめているのであからさまでなく、アウトではないという判断だ!!!
そういう意味では2巻の方の表紙はあからさまに乳の形を曲線の輪郭でかたどっているので、俺の基準ではアウトだ!!!
総合的な話もする!! 月曜日のたわわはタイトル込みだとアウトだ!! 単体のイラストだけならアウトだと思うことはそんなにない!! あれはタイトルがくっつくなら駄目だ!!! たわわってあからさますぎるだろ!!!
an・anのセックス特集の表紙はどうか! これはちゃんと見たことがないのではっきりとは分からないのだが、建前として「より性生活の品質を上げたい」というのがあるとするのなら、そこはセーフへの加点だ!! 建前は大事だ!! ただ、セックスとあからさまに書いてあるのなら、そこをどう読むかだな!! 中身については知らん!! 建前をちゃんと整えているのならそこを評価する!
基本的にエロゲはコンテンツがエロなのであからさま度が高い!! ただ、エロゲにも色々ある!!! 建前としていわゆる純愛系というか!! らぶらぶいちゃいちゃしてるやつで、それで露出の少ない制服姿とかであればそこはセーフ加点だ!! 逆に痴漢だとか陵辱だとかそういうの!! そういう奴はアウトだ!!!!!
アズールレーンの広告の話をする!!! なんかホノルルの浴衣の乳が目立っていた奴だ!! あれは建前上浴衣だからそこはセーフで、乳袋については乳の丸さに沿ったくっきりとした輪郭ではなく、まだ浴衣の布地の皺だとか影があるから俺の中ではあからさま度が高くないという判断になって許されている!! アウトの境界に近いというのは認める!! もしあれが浴衣ではなくゴム表面のようにぴったり身体の表面にくっついた素材だったら俺でも乳袋判定されていたであろう!!!
次!! バニラカーについて!!! あれはバニラカーとあの広告ソングだけ見るのであればアウトではない!!! 単に高収入の求人が欲しいという建前があるからだ!!! 俺の中ではその間接化・切り離しが妥協のポイントとなっている。抜き系のエロゲの広告はそれそのものがエロであり何の建前もないので駄目だ!!!
なので!! もし、エロゲがエロゲという売り出し方ではなく、例えば「映画監督をするゲーム(ポルノムービーも撮ることができますけど……)」だったらセーフに寄っていく!!! 建前だ!!! 純愛だとか切ないだとかなんでもいいけど、そういう感じの建前が重要なのだ!!!!
大体こんな感じだ!!! 俺の中においては「目的が単なるエロではないという建前」と「エロをあからさまストレートに表現しないだけの距離感」で判断している!!
そういう意味で言うと、芸術系は解釈が難しいですね。当時の視点としてあからさまにエロ目的であればみんなが見られない場所に置くべきですし「これは美しさを描いた物なのだ」みたいな建前の立て付けがしっかり構築されているのならセーフです。
芸術で思い出したけど、俺が覚えている感じだと、ろくでなし子の作品についてはあれは本人が「そもそも女体そのものはエロではない」という主張でやっているので、それを受け入れるのならセーフになります。ついでに女体で思い出したけど、つまり医学的なものだという前提があるので、人体の図鑑・解剖図だとか保健体育の教科書はアウトではないという判断になります。
逆に!!! イメージビデオ!!! 俺が認識している限りはあれはダメダメ!!!! そこになんかの建前があるのなら良いけど!! ただ「大事なところは見えてない」というだけでパンツがバーン! だったり、肌色を増やしているのだとすると、それはあからさま度が上がっていくからダメ!!!
そういう肌色だとかパンツを増やすのではなく、単にコスプレみたいなものであれば……そのコスプレの建前によるけど……少なくともアウトではない!! そういう判断!!!
そういえば宇崎ちゃんの話に戻る!! 増田だと適当に書けるから楽だな!!! 漫画の方の話だ!!
キャッチコピーが「ウザい! カワイイ! でもウザい! ウザカワ系後輩とのドタバタラブコメディ!」であるのなら、建前としてはそれになる!! セーフ!!
「ウザいけれどカワイイ巨乳後輩宇崎ちゃんとのドタバタラブコメ」になると曇る!! 装飾成分表としては「ウザい、カワイイ、巨乳、後輩、ドタバタラブコメ」になって、このコピーだとどうしても巨乳があるのでそこはあからさま減点がどうしてもある!! 老若男女が安心して眺める場所に出す場合このコピーはダメだ!!! 巨乳の文字は書くな!! これが献血のポスターに書かれていたらアウトと言われても仕方ない!!!
繰り返しになるが、巨乳という文字で売り出すのはアウト! 特に言及しないのならセーフ!! 3巻の表紙は俺基準では乳袋ではないのでセーフ! 2巻の表紙は乳袋というか輪郭があからさま乳形状なのでアウト!
……という感じで、結局はお気持ちの延長だとは思いますが、俺の中ではこういう言語化に至りました。それを作る側、見せる側がちゃんと建前を持つこと、あるいはあからさまなものとして置かないこと、このあたりです。
家を出たい。
就職した姉が逃げるように家を出て行ってから早一年が経とうとするが、日に日に増す気持ち:家を出たい。
じゃあ今すぐにでも出ろ自立しろ と言われてもそこまでの勇気も金も無い。
酒に酔った父親の母に対する、私に対する様々なハラスメント発言を聞き流し、エリート銀行員から出産によりパートへ転落した母親の愚痴を聞き流し。
たまに聞かれる親と縁を切った姉に対する文句と心配の言葉に相槌を打つ。
最愛だったはずの元彼はただ私の家庭事情を知ったかぶりで踏み散らかしていったので、二度と家庭事情を男に話して「俺が助ける」といった安易なヒーロー面に付き合いたくはない。
セフレを作ったのも、夜にバイトを入れまくるのも、飲みの予定を入れ続けるのも、
何食わぬ顔で週一でしか親と食卓を囲んでいない日々を過ごしている。
家を出たい。
私はこの家に縛られず、何も言われないのならセフレをいくらでも作れてしまうと気付いた日には、過去の純愛をしていた頃の自分が哀れで泣いてしまう。
それでも家を出たい。
元増田=男、社会人、おっさんと持重する年齢、車持ち、多分ナルシシスト。
彼女の友達=二人の付き合いあんまり認めてなかったけどやっと認めた矢先に別れんな!
みたいな感じか?
元増田が色々考えて別れを持ち出して、彼女も渋々従ったけど、元増田後悔バリバリで、彼女の方も泣いている設定。
彼女親友は超怖いんで増田で返信、ってところが、狙い過ぎてて創作かもしれないけど。まぁこう言う話は好き。純愛経験ないからな私orz
今から4年前くらいのあるとき、私が「人を馬鹿にするような、差別的な表現は控えた方がいい」と言ったことに対して「そうやって規制ばかりしていたら面白いものは作れない」と反論された。
その反論に対して、私は戦えなかった。そんなの絶対に間違ってると思ったのに、何も言えなかった。それがずっと心にしこりとして残っている。
私は演劇が好きで、高校〜大学3年生までの6年間、演劇部に所属していた。
私が大学で所属していた演劇部は所属人数が多く、私の在籍中は40人くらいはメンバーがいたと思う。
その演劇部は毎年の秋、学園祭にて、1チーム2人〜の小さいチームに分かれて短編劇を作り、学園祭の間じゅう、交代制で絶やさず何かしらの劇を上演し続けるという企画をしていた。
私ももちろん友人たちとチームを作って参加した。
そしていくつか結成されたチームの中に「ホモクラブ」(※仮名)というチームがあった。
ホモクラブのメンバーは私の一つ下の学年の男子を中心に5,6人が集まっていた。
その名前の通り、彼らは「主人公も主人公の恋人役もゲイ」という設定の劇をやっていた。
設定がそうというだけで、テーマは「純愛」だと彼らは謳っていた。確かに細かい設定を無視してストーリーラインだけ見ればそれは「数々の困難を乗り越え主人公と恋人が結ばれる」というもので、少女漫画のような「典型的なラブコメ」を過激なギャグ調に演じることで揶揄するような内容だった。
ただ、彼らは劇中のキャラクターに「ゲイ」という属性を付与していた。
主人公は雄々しく熱血な性格の男性で、恋人役は「一昔前の少女漫画の典型的なか弱くて健気なヒロイン」像をかぶせられた男性だった。
「やめて!僕のために争わないで!めそめそ」といった感じの恋人を、主人公が「俺が守る!」といった感じで熱血に困難を乗り越え、ふたりは結ばれる。
彼らの演劇は「チープで典型的なラブコメが男どうしで、下ネタをまじえつつ繰り広げられる」ことにおかしみを見出すものだった。
私は彼らの演技が不快だった。
彼らの演技に、自分が同性愛者であることで苦しむ人々への配慮というものはなかった。
自分たちとは違う性自認、性的指向の人へのリスペクトは欠片も感じられなかった。
彼らが自分たちとは違う価値観の人を、キモイだとか直接的な表現で差別していたわけではない。
だけど彼らは普段の生活から「ホモ」という単語を仲間内で相手をふざけて馬鹿にする言葉として使っていて、そのノリがまんま舞台に乗っていた。
彼らに話を聞いてみたことはないけれども、きっと実際に自分たちが演じたいキャラクターと近い性的指向の人に取材をしたり、セクシャルマイノリティに関して勉強したりはしてないのではないだろうか。少しでも勉強していたら絶対にしないだろうという表現を、彼らはしていた。
現実に「やめて!僕のために争わないで!めそめそ」といった感じの男性が絶対にいないとは限らないし、そういう人はそれがその人の個性なので、否定するつもりは全くない。
現実の同性愛者が下ネタを全く言わないとも限らない。そういうのが好きな人もいる。
自分とは違う性的指向のキャラクターを描くときには必ずモデルとなる性的志向の人に取材をして、勉強しなければならないのかと言われれば、絶対にした方が良いと私は思うが義務とも言えない。でないと「どこまで勉強すればOKなのか」なんて話になりかねない。
そして私は「ホモ」という言葉を狩りたいわけでもない。文脈によって、それが実在の他人を貶めるために使われるのではないと明らかにした上でその言葉を使うのは、なんら問題ないと思う。
ただ彼らは仲間内で下ネタを楽しむノリをそのまんま、舞台に上げてしまっていたのである。
舞台ということは、少数だったとしても観客がいる。演劇は観客がいてはじめて完成する。
観客席を作って発表する以上、その劇は仲間内の下ネタ披露大会ではない、自分とは違う価値観をもつ観客に見せるものであるはずだ。
彼らは演劇そのものが好きなようで、部内でも特に精力的に活動していた。
あるとき、地域のお祭りの特設ステージで彼ら「ホモクラブ」が劇を上演することになった。彼らのいつもの芸風で。
私はこれはまずいと思って、彼らに「あなたたちの演劇は見てひどく傷つけられる人がいるから、やめた方がいい」と告げた。
チケットを販売してやる公演ならばある程度客層を絞れる。面白そうだと思った人しか見に来ない。
だけどお祭りの特設ステージとなると訳が違う。通りすがりに、何も知らずに観る人が大勢いる。
大通りが一本、歩行者天国になって展開されるような大規模なお祭りだ。年に一度の、市内の人間なら知らない人なんていないようなお祭りだ。
その歩行者天国と繋がっているアーケードに設置された特設ステージが、彼らの舞台になる。
いったいどれだけの人が彼らの演劇を目にするだろう。その中にいったいどれだけ、自分の性的指向に悩む人がいることだろう。
だけど彼らが慕うある先輩は「この世の人間みんなに配慮することなんて不可能だ。そうやって規制ばかりしてたら面白い舞台は作れない」と反論した。
私は何も言えなかった。その意見は絶対に間違ってると思ったのに。
「この世の人間みんなに配慮することなんて不可能」それは正しいと思う。きりがない。
「そんなことない、ハリウッドの作品とか、ポリコレに気を付けた上で面白い作品はたくさんある」と言っても良かったけど、彼らはハリウッドの巨匠じゃない。プロじゃない。そんなものを求められるレベルにない。
そして、どんなに観客のひとりである私が不快に感じても、本人たちが「馬鹿にするつもりはない」「真剣だ」と主張する以上、この人たちには何を言っても無駄だと思った。
だから何も言えなかった。ただ傷つく人がたくさんいると伝えることしか出来なかった。
それ以来ずっと、私は差別に荷担したという罪悪感を抱いている。
全人類に配慮することは不可能だけど、意図的にとある属性を面白可笑しく馬鹿にはしないようにするということは出来るはずだ。
特に、今までいないことにされていたセクシャルマイノリティの人々がネットを通じて手を取り合い発信し、ひどい差別を受けてきたことが顕在化してきたこの時代に、どうしてあえてゲイという属性をネタとして消費できるのか。
彼らはその「ネタ」で傷つく人がたくさんいる、今まで傷つけられてきた、やめてほしいという声を全く無視している。
そしてそういう声を知っていながら彼らを止められなかった私も、加害者だ。
私自身、自分の性的指向がよく分かっていない、揺らいでいるというセクシャルマイノリティのひとりだ。
それにもともとぱっとしない性格で、お世辞にも自分磨きに熱心とは言えないせいで、つまり暗くて不細工の陰キャなせいで、中学生の頃は息苦しい思いをすることもあった。高校に入ってからは、怖くて男子とは業務連絡以外で口をきけなかった。
だから他人の無邪気な言動で傷つけられる苦しさは人並みには分かるはずだった。それなのに、何も言えなかった。
先日、ネットフリックスにて山田孝之氏が主演のドラマが公開された。全裸監督だ。
私は山田孝之氏が好きなので迷ったが、結局not for meな作品だなと思って見ていないが。
全裸監督は宣伝で「規制ばかりで息苦しい世の中に風穴を開ける」的なことを謳っていた。正直、推しが主演の作品なのに素直に推せない、残念な作品だなと思った。
差別による抑圧と、差別を避けるための規制による抑圧。どちらも抑圧には変わりないけれども、どちらがより優先的に解決されるべきかというと、前者なのではないだろうか。
私は今も苦しい。罪悪感がずっと消えない。セクシャルマイノリティに関する記事やテレビ番組を見る度にそのことが思い出される。
どうしたら消えてくれるんだろうか。
ただこれから一生「規制ばかりで面白い作品がつくれない」という論調に反発し続けるしかないのかと思うと、気が滅入る。
良い「自分の許し方」があればぜひ、教えてほしい。
俺、大嫌いなんだよ。
アル花(アルジャーノンに花束を)とかあなため(あなたのための物語)とかが最たるものかな。
やっぱこう主人公交代をするにしても人間であって欲しいんだよな。
人間の物語から「死」の物語になっていく過程が受け入れられないんだよ。
君食べ(君の膵臓をたべたい)やゆなさく(夕凪の街 桜の国)みたいにもう最初からこの作品の主人公は「死」ですよーって宣言しておいて、途中からいやこれはワンチャンと思わせて結局裏切るようなのは全然大丈夫なんだがなー。
「死」を描くために人間が利用されるのはセーフで、人間の話がいつの間にか「死」の話にすり替わるのがアウトなんだよな。
不倫モノからの純愛へ変化すると見せかけて結局は欲望に流されたって話はさ、別に不意打ちとは感じないのと同じなんかな。
こういうのだとセカチュー(世界の中心で、愛をさけぶ)は誠実だよね。
死ぬ話だよー →死んだアイツを思い出すぜ →コイツが死にます →はい死ぬぞ死ぬぞ →死んだぞ!泣け! →よっし泣いたな!この話はこれで終わりだ!
誠実すぎて涙が出てくる。
なんで売れたのか分からないっていう人いるけど、この正面突破っぷりはそりゃ評価されると思うよ。
不意打ちで殺そうとするテンプレ感動人殺しや、多分殺しますよって言ってはおきながら最後まで死ぬかどうか秘密にする犬映画とかとは違うからね―。
いやー、なんで俺セカチューこんな褒めてるのかなあ。
徐々にレ○プだったりグロなどを描き始めたら、周りの人は注意してあげて欲しい。
ストレスの方向を変える為に、そっち方面へ行く人って意外と居るのだけど
そういうのをメインに描くようになったら危険信号のサイン。モラルや道徳・罪悪感などが薄れていっている信号なので。
最初からグロとかそういう系統描いている人ってのは、変人か、もしくは一般常識をもってはいるものの、そういう系統が一般に受けてしまうとある程度戦略としてやってたりする。
が、今までの作風がグロなどに変わる人というのは、どこかしら不満が多すぎて発散する窓口がそこにいってしまう。
絵で済んでいるうちは良いのだけど、飛び越えてしまう人は影で危険なことにも手を出してしまう。
そういう人の特徴というのは、最初のうちはまだまだやさしいレベルの描画なんだけど、どこかの拍子でなんでそこまで酷いことするシーンに?となったりする。
同人誌のうちは、まだ気づかない可能性が多い。そのうち絵投稿サイトでもどんどん投稿していきSNSでも当たり前のように投稿し始める。
純愛ソングを歌った舌の根も乾かぬうちににその濡れそぼった舌をジジイの尻穴へと突っ込んで言われるままに糞まみれのベロを相方に絡ませながらジジイのチンポを薔薇のように咲き誇った菊の花弁へと招き入れるとその奥から滴る蜜に濡れ老人の萎びた毒針が熱を帯びていく命がけの一刺し一刺しが幼さを残した雄の雌しべを揺らすたびに老人の心臓は早鐘を鳴らし腹上死の実在を諭すがその音色と同じくして青白く弛んでいた千畳敷もみるみるうちに膨らみ浮き出た蟻の塔渡りに稲妻が走る一輪挿しの花瓶の奥へと次世代の息吹が注ぎ込まれるこの姿を見てソドミー……命を宿さぬ愛と呼ぶものがいるのならそのものは真実の愛も命も知らぬのであろう
ホモ恋愛は世間との戦いであり自分との葛藤の戦いだからwwww
許されない愛に目覚めた禁断のアダムとアダムの創世記ジェネシスだからwwwww
その純愛に比べたらチンチンマンマンでシコシコピュッピュして終わりのヘテロwwwww
そんな奴らが愛とかクソワロですわwwwwww
はー?子作りー?それでー?それが愛の証明と何が関係してんの~~~????WWWWW
結局本当にソドミーでしかないのはヘテロの方なんだよねwwww
いやー血の繋がりとか家族とかそういうので簡単に愛だとか言えて楽チンで羨ましいわwwwww
まあ嘘ですけどねー^^
その愛って~~~家族じゃなかったり血の繋がりが無かったら終わっちゃうような雑魚でしょ´◉◞౪◟◉)
いやまあ本当に愛があればいいんですよまあ中にはあるんでしょうけど~~それって何ミリパーセック????www
いやまあお前らヘテロソドミストの無責任中出しから生まれたクソガキが可哀想すぎんわwwwww
本当の愛はね……子供なんて産まないのでした٩(๑´3`๑)۶
(T_T)かわいそうよね~~国策のために囁かれた愛に騙されてヘテロこそが正解と信じる異性愛者の変態ども( ´,_ゝ`)
まあそういうわけで君たちはホモの織りなす本当の愛を見てなさいな(^^)/~~~』
でいいのかな?
いまいち自信がないんだよなー。
多分コレであってるって確信はあるんだけど
自分が共同体をベースにして考えており、「個人の自由のために同性婚を許容すべき」派ではない、というのはご理解のとおり。
現代においてなお「個人」なるものが集団から屹立して成立しているようなタフな社会は到来していないと思う。個人主義者、あるいは単純にネオリベが勘違いしているのはそこのところで、彼らの多くは集団から多大な恩恵を受けつつも「個人の自由」を過剰に追求する、要するにただのフリーライダーであり、それを「上手いやり方」だと勘違いしている。みんなある程度読み書きができて理屈が通じてそれほど暴力的でなくてルールに従順で…という社会が、どれだけの無償の努力によって成立しているか考えたこともないお坊ちゃん達だ。そもそも個人主義というのは歴史的に見ても相当特異なものの考え方であり、次の、その次の世紀にまで引き継がれるスタンダードな思想になるとはとても思えない。よって、自分はそもそもそこに基盤をおいて考えない。
(2)「制度」が社会の現実を反映するという発想こそが近代主義
少し考えて欲しいのだが、ごくごく一般的な庶民が、二人も三人も嫁をもっている前提のストーリーが、古典作品にあるだろうか?
王様や貴族、商人、といった「社会的に富と権力を抱える支配層」が妾を複数置くという話はいくらでもある。それをもってあなたは「制度としては一夫多妻だった」と言いたいのだろう。しかしそれはむしろ、妻を複数もつ彼らが「慣習的な一般常識を超越しうる存在であった」ことを示しているに過ぎないのではないか。つまり、一般庶民、村や町といった所に住む普通の人々にとって、二人、三人と恒常的なパートナーシップを結ぶことは、むしろ非現実的であったことを示しているに過ぎないのではないか? 中国の古典にも純愛の話(一夫一婦)はたくさんある。日本の昔話でも、じいさんとばあさんがペアで出てくることは多いが、嫁や夫を複数持つという状態が「常識」であったりすることはほぼない。イスラム世界は一夫多妻だろうという声もあるだろうが、イスラムの戒律が厳しくない外国に行き、経済的にものすごく恵まれた状態でない限り、結構すぐに嫁から不満の声が上がるというよ。一夫多妻(あるいは多夫一妻)を、民衆の多数の同意の下、安定的に運営してきた共同体なんて、むしろ現実に存在するのかな? 男女の誕生比率が世界の何処でも大きく変わらない限り、簡単に破綻するのは自明の理屈と思うけど。
近親婚の話は、上の個人主義の話との関連で、特に補足する必要は無いな。
もっとも、増田の言ってることは十分面白い。別に頭から否定したいわけではなくて、こうして意見交換をするのが思考実験としても面白く思っているので、「あえて」反論している所もあるよ。一応。
5年ぶりの富野ガンダム。今の所ガンダムというよりもイデオンやブレンパワードに近い匂いがする。牧歌的な世界観とは裏腹に随所に不穏な空気が漂っているが、登場人物の表情には活力を感じる。1話ラストの「地球はいいぞー」のシーンからものびのびとした爽やかさがあり、Vガンダム終盤にあった抑うつ気分に満ちた作風からすっかり立ち直ったのを感じる。同時に、この穏やかな世界をこれから戦争という火の海に投げ込もうとすることへの恐ろしさもある。物語が終わったとき地球がどうなっていることやら。
メカニックデザインにブレードランナーやスタートレックで知られるシド・ミードが迎えられており、今までに発表されたMSはどれも艶めかしさとレトフューチャーが混ざりあったどこか人間味溢れる機体ばかりだ。1話冒頭に登場したフラットも手足の動きから人間じみた表情が伺え、「相手がザクなら人間じゃないんだ」と斬りかかるのは躊躇われるような作り込みがされている。
1話は戦闘シーンではなく徹底した日常シーンの描写により、登場するキャラクターが戦争ゲームの駒ではなくあの世界で生きる1人の人間たちであることが強調されていた。ロボットアニメにありがちな、まず最初にロボットがあり、その為に戦争が生み出され、最後にそれを行わせるための人間が生まれるという作品とは一線を画している。時代が時代なら玩具メーカーから怒られそうな作品だが、これが作れる所まで来たのだからアニメ業界もまだまだ捨てたものではないな。
恋愛シミュレーションゲームを原作とする恋愛アニメ。PS版も発売されて勢いにのる中でのアニメ化。お色気要素よりも幼馴染との恋愛をじっくり描く方向にシフトして純愛っぷりをアピールする戦略の模様。
現状の展開が続くようなら、神岸あかりが好きじゃないとこのアニメはそこまで楽しめないんじゃないかなって気がする。まだ話は始まったばかりなんだけど本当に強くそう思う。正直言うと自分はマルチの方が好きなんだけど、ここからマルチや志保が入ってきてハーレム展開になって、それで最後にマルチが選ばれたとしても、俺は素直に喜べない気がする。このアニメ見て改めて思ったんだけど、ギャルゲーの幼馴染は皆が心の中にある「俺にも居たかも知れないメインヒロインとしての幼馴染」の幻影を描いているんだよね。両腕がくっついたミロのビーナスの幻影の如き、もしかして自分の傍らに居たかも知れない幼馴染の幻影を。妹ゲーが「俺にも居たかも知れない最高の妹」っていう幻影を描いているの同じかそれ以上に。作品によってはそれをあえてひっくり返してくる天の邪鬼もいるんだろうけど、それもこの基本があってのことな訳で。
このアニメ版Toheartにおける神岸あかりはまさにその「居たかも知れない幼馴染」が描かれてる。運命の恋が物凄いゆっくりと、そして確実に進行していってる様子が伝わってくるんだよ。これでくっつかないはずがないと分かるんだけど、それがいつなのかは分からないじれったさ。
電脳空間を舞台にした魔法少女モノ。CCさくらとアキハバラ電脳組の中間みたいな感じ。狙ってる客層的にもCCさくらと一緒で大きなお友達と子供の両天秤の模様。戦う魔法少女モノは昔から全年齢層向けで鉄板っちゃ鉄板だよね。
サイバー系の作品には珍しく主人公がパソコンおんち。一昔前はこういうのってパソコンマニアが主人公になるって法律で決まっているような状態だったので新鮮ではある。デジタルがそれだけ身近になってきたということなんだろうけど。作品としても「コンピューターの世界に、悪いことをしている人達がいる」という設定であり、今までによくあった「悪いコンピューターの世界」を舞台としているようなデジタルそのものを悪し様に描くような作風でなくなってきているのも時代の流れを感じる。
ガオガイガーが世紀末の怪電波で突然変異したようなアニメ。なんかよく分からないけど多分最後までよく分からない系のアニメで終わりそう。シリーズ構成がTo heartと同じ山口宏なんだけど……多芸だなあ。
やあ (´・ω・`)
ようこそ、バーボンハウスへ。
うん、「また」なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
でも、このマスタイを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
そう思って、この増田を立てたんだ。
バトル系マンガで千兆回も繰り返されている「えっ?」は、ダサいので今すぐやめてほしい。
「えっ?」を詳しく説明すると、
「雑魚っぽい敵が、目にも留まらぬ速さの攻撃(露悪的な残酷描写であることが多い)を喰らって、自分の欠損した部位を見つめながら呆けたような顔をして、
『えっ?』
しかし「いきなり残酷なことが行われる」状況を演出する術が、呆け顔と「えっ?」の台詞しかないのが駄目なのだ。
何故もっと工夫しないのか。
そこに労力を遣いたくはないが、なんとなく残酷っぽいことをやって格好はつけたいという姿勢が、ダサい。
陳腐化した表現なのに、それを使い続けられる無神経さがダサい。
しかも割りと大ゴマのことが多く、作者本人は見せ場のつもりらしいのが情けない、恥ずかしい。
例えば、マンガ好きから崇められている荒木飛呂彦は「ジョジョ立ち」「特殊な擬音」「人間賛歌」などで持て囃されているが、こういう「えっ?」のようなシーンでも、得意の「ドドドド」効果音を使って自分の作風に取り込んだ上で使ったり、ギャグっぽくしてみたりと、工夫を欠かさない。
似たようなシチュエーションでは(雑魚キャラじゃないけど)、2部で敵に勝利したと思ったジョゼフが不意打ちで腕を失う場面があるが、緊張感のみなぎる無音コマでその衝撃を描いていた。
こういう基礎力こそを評価し、見習うべきではないのか。
他の漫画家も似たようなシーンを描くことがあるが、有名なバトル作家の場合は、キャラの後ろの背景を描いた上で「状況としての緊張感」込みで演出するなど、みなそれぞれに工夫している。
逆に言うと、この程度の工夫でいいのだ。
それすらできない奴が、なに漫画家なんか名乗ってんだという話である。
おまえらは漫画家ではなく能無しふにゃちんダサダサ包茎マンだこのボケが、ということである。
繰り返しになるが、すでに陳腐化した「えっ?」という表現で済ますのは、一表現者として非常にダサいことであり、見るたびにゲンナリするので、即刻やめてほしい。