はてなキーワード: 新世界とは
かなり拙くて分かりづらいけど前バイオメガについて書いた増田があるからまずURL貼っとく。
https://anond.hatelabo.jp/20160124183345
僕が思うにデビューからシドニアまでの弐瓶作品で起こることは作品が違えど同一世界の出来事だと捉えている。そしてBLAME!の世界とシドニアの世界はがっつり分断されている、まるで違う。
過程のうえでBLAME!で描かれていたような世界が滅びシドニアの世界が生まれたターニングポイントがあって、それを描写したのがバイオメガなんだと思う。
先の増田で書いたようにバイオメガはしぶとく生き延び世界を支配しようとするガウナの脅威や、庚造一の旧態依然とした態度と新世界の様相を対比することでなお強調される、合成人間という存在の拠り所のなさ、そして一貫して人間味を感じさせないアンチヒーローであった弐瓶作品の主人公が復物主の世界に転送後は唯一人間らしい存在となる関係性の逆転などが見受けられる。メタ的に捉えればバイオメガ後半は舞台をがらりと変えることで自らの作風を逆説的に洗い出す作業だったのかもしれない。
又バイオメガはシドニアの前日譚だと僕は思っている。復物主の発芽に伴う地球での人類文明の崩壊によりシャトルで避難したものの成れの果てがシドニアに出てくる人々だと。
そしてフニペーロと造一の共闘やフニペーロとニアルディの対峙する様はシドニアのストーリーを示唆している、というかシドニアのデモストレーション的意味合いがあったように見える。(加えて言えばABARAで描きたかったものはBLAME!世界のハルマゲドンかもしれない、するとその点でバイオメガ前半のデモ版といえるのではないか。)
ガウナの復物主ももとは何らかの思念体でそこに植物に近い驚異的な力を持った肉体が付与された生き物なのだろう。
ニアルディが復物主に融合しようとしたり吸収されたりしたのはニアルディが思念束という相手の意識に入り込める能力を持っていたからで、思念体を乗っ取れば自由自在という目論見が逆に自分が相手に乗っ取られてしまったというわけだ。
シドニアでエナ星白やつむぎが誕生できるのも、シドニアに出てくる人型生物が植物に近い肉体を持っていて、ガウナとの肉体の親和性の高さから思念を共有することが可能だったってことなんじゃないだろうか。
バイオメガの大筋はDRFという世界征服を狙う悪徳企業の討伐で、世界が復物主の物になっても幅をきかせているDRFのボス「ニアルディ(とそれを吸収して操る復物主)」を復物主の子であるフニペーロの力で倒すというオチなのね、多分そう。復物主とフニペーロは同じものから出来ているから融和した。造一との旅でフニペーロは強くなってたから復物主の思念体が飲み込まれて消えた。僕はそういうことにしている。
なんにせよ僕が確信するのはバイオメガを描いたからこそ、弐瓶勉はシドニア以降のスタイルに移行できたのではないだろうかということだ。
チャットモンチーが「完結」する一方で、マスドレが今日7月4日、8年ぶりにオリジナルアルバムを発売した。タイトルは「No New World」
マスドレことMASS OF THE FERMENTING DREGSは知る人ぞ知るガールズバンドだ。厳密に言えば元ガールズバンドだが。
もともと3人の女性で構成されていたこのバンドは、11年前にEMIミュージックジャパン主催のオーディションにて高評価を受けデビューアルバム発売の機会を得たことで注目された。ナンバーガールを見出した加茂啓太郎が関わったこのオーディションは、特典としてこれまたナンバーガールのプロデュースで知られたデイヴフリッドマンと共にレコーディングが出来るというもので、ロキノン系ファンの関心を引くものだったのだ。
今はどうだか知らないが概してロキノン系ファンというものは、流行りものが嫌いだが権威主義的である。Mステ常連のバンドはリア充に食わせて、自分は雑誌経由で知ったビクターのSpeedStarやEMIのGreatHuntingが激推ししているバンドで洒落込んだつもりでいる。
当時はサカナクションや相対性理論がニューカマーとして取り上げられていて、マスドレ含めそんなバンドたちの曲を僕は下校途中にMP3プレーヤーでリピート再生していたものだ。
マスドレはデビュー前にドラマーが脱退したためサポートメンバーを迎えて活動していたものの勢いは衰えることなく、くるりのトリビュートアルバムに参加したり2ndアルバムを発表したりしていよいよ2010年にメジャーデビューが決まった。同時にサポートメンバーであった吉野功が正式にバンドに加入し、いよいよこれからと思った矢先、同年12月にギターの石本知恵美が脱退した。
ディストーションとディレイできらきらした轟音を体から絞り出すようにかき鳴らしていたそのギタリストは持病の治療のために離脱してしまった。「ひきずるビート」という曲にて歌われる
足を止めずにどこへ行くのか
ここがどこかも分からないまま
加速していくだけのビートに
いま、消えそうだよ
という一節が疾走感のあるバンドの雰囲気と相まって悲痛な叫びのように聞こえた。
オリジナルメンバーがVo/Baの宮本菜津子だけになったマスドレはぱたりと話題にあがらなくなった。追い討ちをかけるように一年後に吉野功もバンドから離れた。事実上の解散である。
バンドの持ち味である、こだまする様に響くギターとベースの音、牧歌的にもシャウトしているようにも聞こえるボーカル、破滅的な歌詞。それら全てがこのバンドが燃え尽きてしまうことを暗示していたかのように聞こえて、長い間僕はマスドレを聴くことを避けるようになってしまった。
チャットと同じようにマスドレもメンバーの離脱で空いた穴に悩まされたバンドだ。
チャットモンチーは2011年の高橋久美子の脱退でそれまでの様な活動ができなくなりさまざまなスタイルに紆余曲折した。マスドレは宮本菜津子が砕け散ったピースを少しずつ再構築していた。2組のバンドにとって時代は2011年で一旦終わっていて、それから2018年までの7年間は次の時代のための模索期間だった。
僕が好きだったのは3人のチャットモンチーであり、石本知恵美のいるマスドレだった。でももう全て変わってしまった。
マスドレの「終わりのはじまり」という曲にはこんな一節がある。
歩いて行けば
ここから続いていく道は
君の思い描く色に染まっていくよ
繰り返しているんだ
君もぼくも同じ今日のもと
バンドの解散はメンバー同士の別れではあるが、各メンバーのこれまでの功績と今後の活動は同一線上にあって決して分断されない。別れや出会いで区切られているように見えるだけ。「No New World」"新世界ではない"というようにマスドレはメンバーが変わっても、かつてと地続きで繋がっている。
僕はチャットモンチーのメンバーがすっぱり別れていくのを見届けるため「誕生」をちゃんと聴き直したい。
そして戻ってきたマスドレを迎えるためにはやく「No New World」を聴きたい。
自分の周りの大半が「空島」で挫折していることが多い。おそらくアラバスタからの感動で、その後についていけなかったのかなとも思うけども。
連載で追うには少し難しかったし。実際、俺もそこで一回読むの辞めてた。そしたらシャボンティ諸島が~新世界が~とか言われて、まったく分からない世界になってたので「イッキ見するか~」って感じで単行本で一気に読んだ。
ただ改めて見ると空島編ってめっちゃ泣ける。最高やんけ。増田はもっと早く俺に「空島も面白いよ」って一報入れるべきだった。反省して。めっちゃ楽しい。
そこからある程度一気にパート読み終えられるまで連載見るのやめて、単行本でイッキ見スタイルに切り替えた。最近で言えばドレスローザ編読んだ。
確かに人多いけど、麦わら船団を作るためにはそうなるよな~とも思ったけど。
「あ、泣かせに来てるな」って思えるような場面も実際多いけど、
そういう時は素直に泣くし。女の子可愛いし。ペローナペロペロ。
ただ、パンピーな感じで「ワンピース好きです」って言う人って、めっちゃこだわり持ってて押し付けてくる人多いイメージがするので、ワンピースについてネット以外では語りたくないです。説教されるイメージしかない。
anond:20180303232626 の続き。
もう一つ考えてみたいことがある。ナウシカの世界は、私たちのいる21世紀よりずっと未来だとされている。そしてナウシカの世界のさらに未来がOn Your Mark だと言われているがそれはまた別の話。
ここで "歴史は繰り返す" とすると、実はナウシカの世界はずっと過去の世界で、21世紀の地球は滅びの一歩手前にあったナウシカの世界を経て再興した世界だとも考えられる。
その時、果たして我々はナウシカの末裔なのだろうか?それとも「私達のように凶暴でなく、おだやかで、かしこい新人類」の末裔なのだろうか?
私は前者だと考える。仮に後者であるとすると「凶暴でなく、おだやかで、かしこい人間としてプログラムされた新人類」は、21世紀に到達することなく、ごく短期で絶滅するからだ。これは何度も書いているが新人類は生命力が弱すぎるから。
新世界では直接的な脅威はほとんど駆逐されている。しかしそれ故に進化速度が遅い。進化にはある程度は長期的に生き残る必要がある。一種類のウイルスで全滅していてはそれも難しい。
21世紀の人類が「新人類の末裔である」と考えると矛盾が起きる。よって、21世紀の人類は新人類の末裔ではない。つまり「新人類」は「ナウシカの世代」に負けたのだ。
この21世紀に生きる人々はナウシカの世代の末裔である。"生きることを諦め全てをリセット" を選択しなかったからこそ、今の私たちの生命がある。そして確かに私たちは「凶暴で賢くないナウシカ世代」を体現している。
ではこの世界で「凶暴で愚かな私たちは絶滅させて新人類を生き延びさせるべきだった」「私たちは存在すべきではなかった」と考える人がどれほどいるだろうか?現実には多くの人は、そのようなことが起こった事実さえ知らず今の命に感謝して生きているだけだ。
というあなたの予想とは矛盾するんだよ。当然あなたのように漫画を読んで、一つの考え方として上記のような疑問を持つ人もいる。しかしそのような疑問をもつ事自体が、私たちが「後悔し」「罪悪感を持ち」自分と他人を比較できる心があるからこそできるわけで、新人類にこんな芸当はできない。
つまり、あなたの言う「ナウシカのいる現人類は滅び」「おだやかで、かしこい人間が生き残る」世界が存在可能だとすると矛盾が多く出るんだよ。証明において「○○であるとすると矛盾が生まれる。よって○○ではない」というのは一般的な方法だ。
当初から私はこれらの矛盾点について指摘し、あなたが何か的確な返答をしてくれると期待していたのにろくな返答はなかった。
であれば、ナウシカの最終判断について責を負わせるべきではない。ナウシカは「正しい回答をできなかった」こともあるだろう。だから、「自分はそうしたくない」「自分はナウシカの決断は間違っていると思う」と言うことには何の問題もない。
しかし「ナウシカは恨まれるに違いない」「人類滅亡まで問われ続ける」「ナウシカは大量殺戮者として人類に記憶されるだろう」なんていう存在しない他人を使って自身の意見の正しさを補強しようとするのは間違いだ。
私たちは、一度始まってしまうと取り返しがつかない、その前に止める必要がある、という教訓をすでに知っている。風の谷のナウシカもそれを描いている。
将来核戦争が起きたとしても、恨まれるのはナウシカではない。漫画の登場人物と同様、時の独裁者やそこに至るまでの自分自身を含めた人類全体を恨むくらいだろう。
そして「人類に絶望し、新人類を作る」か「それでも諦めず、その場を生き延びる」かはその時の人類が決める。21世紀の人類が決めることではない。こう書くと「新人類の未来だって現人類に決められたくなかった」とまた言うかな……。この二つの違いが分からないだろうか。
歴史は繰り返すから、過去の例を比べ今度は新人類を生かせる方法を考えておこう、とするのはいいことだけどね。私には現状「取り返しがつかなくなる前に止める」くらいしか思いつかないな。
最近、
でも羽毛布団の上に毛布を掛けた方が暖かいって言うのは信じてないわ。
アバウトな連絡が来て
それぐらい雪スゴいらしいわね。
本当にそうだったら川端康成も助走して、
そんな冒頭を書き出すぐらいビックリよね。
最初何かと思って聞いてみたら
そこに雪捨てるんだって。
所変わればなんとかってやつね。
あたり一面真っ白銀世界な新世界って幻想的ねなんて思っちゃうけど、
きっと現地の人は雪くそ食らえなんでしょうね。
私の住んでいるところも雪はないけれど、
やっぱり冷え込みはすごいわよ。
ところでさ、
どちらか戦ったら強いのかしら?
ふと思ったわ。
それにさ
岩に刺さった伝説の剣を抜いてニューヒーロー誕生!って一番の元ネタは何なのかしら?
ついつい
おばあちゃんちで大根の収穫手伝ってた時、
その伝説の剣を岩から抜いたヒーローごっこに明け暮れていた時期があって
懐かしく思ったわ。
まあその大根は伝説の大根って訳じゃなくて普通の味の大根だけどね。
うふふ。
玉子は好きだから重なっても平気よ!
あと昨日、
お味噌汁いいわね。
朝採れ野菜、
大根とか採れたては
デトックスウォーターに入れたからって甘いわけではないけど不思議ね。
適当に。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
>「マイナスは確実にあるが、もしかしたらプラスもある」より「確実にマイナスはない」のほうが合理的
というところに引っかかった誤解が多いみたいだ。
おそらく、苦痛は-5あるけど幸福が+10ある場合、-5+10=+5の幸福な人生というイメージをしている。
そうではない。
生まれないことは0。
幸福が+10あっても苦痛が-5あるなら苦痛は確実に存在している。
だから子供を産むことは苦痛を産み出すことなんだ(だから産まないほうがいい)、というのが元増田の論理。
でもこれは論理的に弱い(状況次第で覆しうる)んじゃないかな。
たとえば苦痛も不幸もない状況。
遺伝子操作で痛覚をなくし、洗脳と薬物で強制的に幸福にする、というように。
オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』をさらに推し進めたディストピア的な状況(『すばらしい新世界』は培養ビンで生まれた子供が睡眠時教育で疑問を持たないよう教育され、少しでも不快な気分になるとドラッグで「楽しい気分」になる)
「幸福」「不幸」「苦痛」その他もろもろを感じる主体自体を産み出すことの是非を問題にしたほうがいいと思うな。
この点はベネター『生まれてこないほうが良かった~』もシオラン『生誕の災厄』もいまいちで、ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』の方がいいような気がする(よく理解できていないのでわからないが……)
母のことは尊敬しているけれど最も恐れる人間だし、父のことは心底軽蔑してるけどシンパシーを感じてしまう。恋人のことはどうしようもなく愛してるけど、信用できない。親友たちのことは大好きだしみなとてつもない人格者で、だからこそ私みたいなのが関わって迷惑かけていい人間ではない。生誕を呪う私は孤独に生きるべきなのに、どうしようもない寂しがり屋で、すぐ誰かの腕を乞う。
終わらない、寿命と私の意思との我慢くらべはいつまで続けなければならないのだろう。昔流し見たネットの当てになるかもわからぬ知識をもとに、なんとなしに、ドアノブに手近なロープをかける。自室の10階の窓を開放して階下を覗き見る。寒いキッチンに滑り出し、包丁を研ぐ。そんなことばかりして、実行には至れない。自殺未遂すらできないあたりに、いかに実行力や自制心が欠如していることが、なぜ社会の粗大ゴミであるのかがよくわかる。
SNSに登録してみたかった。ろくでもない自分のことが可視化され、記録されると思うとそれすらできなかった。FacebookもLINEも、情報リテラシーに意識が高いフリしてやらない理由を説明し続けた。
裏垢を作ってみたかった。裏垢を作る気力も持てず、ただひたすらスマホのメモに吐き出すだけだった。つらいことをネット上の玉石混淆馬の骨とも糞ともわからぬ誰でもいいから、目に留めてもらいたかった。なのに、匿名でも私の記録が残ると思うと、恐怖心がまさってかなわなかった。
子供が欲しいと言ってみたかった。愛する恋人が結婚を渋るのは、死んでも子供はいらないという私の主張にこそ原因があった。そうでなくとも、誕生し生きるということを根本的に肯定したかった。あるいは、自分が親に足る人間であると、自らの両親のようには決してならないと、そんな自信が欲しかった。
別に今すぐ死ねもしないことはよくよくわかっているけれど、死に際に書き込むなんてできた人間の真似事をしてみたくて投稿する。はてなの登録が簡潔なものでよかった。
最初はどこにも公開しようなどと思わず書き始めたけれど。そろそろ限界が近い。〆切も愛も恋も友情も年齢も何もかも、現状のままでは。この書き込みをひとつこれまでの自身への弔いとして、明日明後日明々後日、それから新年に新年度を無事迎えられますように。
西暦2300年。
地球人の近宇宙開発の進歩はめざましく、不可能とされていた宇宙エレべーターはいまやコロニーとの行き来に当たり前のように使われていた。
それに反して地球上は荒廃していた。
行き過ぎた近代化に歯止めが効かなくなり、特に農畜産業はもはや地球上で生産ゼロと絶望的な結果にまで追い込まれることになった。
逆に好環境なコロニーでの農畜産業が盛んで、日々生産された農畜産物が宇宙エレベーターを下って地球にやって来るというなんとも皮肉な状況だった。
しかし人類の欲は留まることを知らず、現在はネオフードとしてデンプンや糖などを発酵して作られた宇宙食品が絶大な人気を誇っていた。
困ったことにその発酵の過程で大量に生成される副産物としてのアルコールが厄介なことになっており、わざわざコストを掛け地球に送り分解プラントでアルコールを処理していた。
今現在は、とうの昔に枯渇した化石燃料の代替エネルギーとして、地球上はソーラーグリッドシステムが整備されていている。
地球上のエネルギー問題はとりあえずはこれで解決はしている、がアルコールなどを燃やす内燃機関の技術はロストテクノロジーとされていた。
誰も利用しないアルコール、それは決して飲用もされることもなかった。
新たにそれらを分解して無害なものにするプラントをコロニー内に建設する余裕はもはやなかった。
経営者が頭を抱える悩みだった。
ここである者が人間に飲ませて体内で分解させる案があがった。それはあっけなく採択された。
やがてプラントには、人が多く集まり噂が噂を呼び、コロニーは賑わうようになった。
人体を使ったアルコールの分解過程も順調に成功し、徐々にネオフードの生産量も最盛期の量まで回復することが出来た。
http://anond.hatelabo.jp/20151017231411
の3つ目です。
http://uguilab.com/publish/2016habikoruai/
力の抜けたタッチの作品の中に、1作品に少なくとも1つ、はっとさせられる言葉が込められています。
言葉で言っても陳腐化してしまうので、とにかく試し読みしてみて欲しいです。
同作者の「青エリと白エリ」シリーズもとても良いです。
https://comic.mag-garden.co.jp/yotsuya13/
発明の天才・四ツ谷十三によって未知の惑星に飛ばされた主人公一行のサバイバル漂流記。
十三のえげつない仕打ちのテンポの良さと、惑星で現れる生物たちの造形に対する必要以上のこだわりが素晴らしいです。
1巻時点で第1部完となっており、第二部再開の目処が立っていないようなのですが、個人的には度胸星・預言者ピッピと並んで続きを切望している作品です。
・ミッドナイトブルー(1巻完結)
http://shodensha.tameshiyo.me/9784396766870
装丁が気になって手に取った作品。タイトルの通り、前ページが濃い青色で印刷されていました。
短編集で、表題作も素晴らしいですが、個人的なお気に入りは「白い糸」という短編。
大学時代から好意を持っていたものの、ずっと飄々と躱され続けた女の先輩に、5年ぶりに再会した男の話です。
この先輩のキャラが最高でして、、
・カフェでカフィを(1巻完結)
http://www.shueisha-cr.co.jp/CGI/book/detail.cgi/1246/
普通のカフェやオフィス、道端、はては風呂まで、様々な場所でコーヒーを飲む人たちにフォーカスを当てた連作集。
もともとこういった線が好みではあるのですが、カメラワークの巧みさ、会話のテンポの良さが素晴らしいです。
特に、風呂でコーヒーを飲む夫婦を描いた「カフェ・ド・バスルーム」は、現実の夫婦を見ているような生々しさがあってとても良かったです。
・神の獣(1巻完結)
http://sokuyomi.jp/product/kaminokemo_001/CO/1/
一部でシン・ゴジラの元ネタになったのでは?と言われていますが、その真偽が気にならないくらい純粋に面白い作品。
古代から復活した大怪獣オーガに、人類が科学の粋を集めて戦う様が1冊を通して描かれ、読み終わったときにはそれこそ映画1本読み終わった時のような充実感があります。
以前はプレミア価格がついていて手に入りづらかったようなのですが、現在は電子版が安価に配信されているので是非。
・リピートアフターミー(2巻完結)
http://sokuyomi.jp/product/ripihtoafu_001/CO/1/
滅茶苦茶にあらすじが書きづらいのですが、単純に言うと善行を積むことが趣味の女子高生とコンビニ強盗が一緒にタイムリープし、同じ1日を10回繰り返して悲劇の回避を目指す話です。
帯に「タイムリープジェットコースターミステリー」とありますがまさにその通りで、複雑で緻密なタイムリープの物語を、スピード感を保ちながら全2巻のページを余すこと無く使い切って物語を描ききっています。(そのため、あとがきがカバー裏に書かれてたりします。)
・変身!(3巻完結)
http://comic-walker.com/viewer/?tw=2&dlcl=ja&cid=KDCW_EB01000015010001_68
無機物以外になら何にでも変身することができる少年と、その同級生の少女とのボーイ・ミーツ・ガール。
何者でもない思春期の悶絶感を、何にでもなれる少年を通して描き出しています(主人公がバッタに変身して童貞を卒業することから性の葛藤を描写したり)。
何より、作者のポップな絵が物語にテンポを与えていて、画として単純に楽しむこともできます。
・15で少女は、あれになる。(1巻完結)
http://matogrosso.jp/15desyojo/02.html
地球外生命体と戦うため、左手に生物兵器を埋められた少女たちの恋心を描くオムニバス。
まずタイトルが良い。設定は奇抜ですが、それが思春期の繊細な感情を描くのにとても効果的に使われています。
また、気が向いたら書いてみようと思います。
けものフレンズのTVアニメ版は、神話の構造を持った物語であった。
フレンズ達はヒトの叡智の残滓によって暮らしており、同時に世界(ジャパリパーク)は危機にさらされている。
そこにかばんちゃんという救世主が現れ、迷えるフレンズたちを救済していく。
すなわちフレンズ達は現世で苦しむ人々のメタファーであり、ヒトは神のメタファーなのだ。
まさに一度ゴルゴダの丘で槍に貫かれ死んだイエスが復活した物語に代表されるような再生の物語であり、
「ヒトのフレンズ」だったかばんちゃんが取り込まれ元の「ヒト」に戻る、つまり神に成る物語に他ならない。
また、アライさんはカバンちゃんがした覚えのない「かばんさんの発言」を述べるが、
それもまるで弟子に寄って口伝され象徴化されていったキリストやブッダを思い起こさせる。
神に生み出され、神に見捨てられた人々が、神から与えられた救世主によって救済され、新たな神を得る。
製作委員会によるメディアミックスが一般的になり、二次創作によって誰もが創作者たる時代。
宮﨑駿のような「作家」が「作品」を作るといった考え方は古いものになり、
その時代においては、1つのコンテンツには複数のクリエイターがいるのが当たり前。
さながら「君はアニメのフレンズなんだね!」「君は小説のフレンズなんだね!」と言った具合で、
誰がそのコンテンツを生み出したのかよく分からないというそんな世界だ。
ガンダムだとかエヴァだとか、ポケモンだとかプリキュアだとか、十年二十年前のコンテンツが未だに続いている世界。
これはまさにヒトの遺物によって、フレンズ達が誰に導かれるでもなく暮らしている当初のジャパリパークそのものである。
しかし去年はそんな気分を吹き飛ばすように、次々と作家性の強い作品がヒットを生み出した。
新海誠の君の名は。庵野秀明のシン・ゴジラ。片渕須直のこの世界の片隅に。
どれもメディアミックス的な商業展開に頼らず、一人の作家に依存しながらも、
同時に多くの人が参加することもまた許容する懐の深さがある作品で、
大きな広がりと作家の神性を両立しうる、新世界の訪れを感じさせる作品ばかりだった。
たつきという神が君臨しながら、企業によるメディアミックスも、ファンの二次創作も共存しうる、新たな時代の作品だ。
フレンズたちを救い、身を捧げて戦ったかばんちゃんを殺した黒セルリアンが如き所業。
なぜそんなことをしたのかはわからない。
だが少なくとも、たつき監督がいなくても他のクリエイターがやればいい、という考えを持っているのは確かである。
しかし、人々はたつきを、神を求めている。既にそういう時代なのだ。
確かにたつきもけものフレンズというコンテンツを創造したわけでなかった。
「アプリを作ったフレンズ」や「コミカライズ担当のフレンズ」のごとく、
「一作目のアニメを担当したフレンズ」にしか過ぎなかったのだ。ヒトのフレンズでしかなかったカバンちゃんの様に。
だが、たつきは多くの人を楽しませた。多くのフレンズの悩みに答えたかばんちゃんの様に。