はてなキーワード: 市民とは
ついこの前めでたく3つ上の彼女が出来てハッピーハッピーかと思いきや、
同棲→住宅探しと今後のことを考えなきゃいけないフェーズがいきなり来て戸惑いを隠せません。
彼女の住む場所までは車で片道3時間ほどの距離で、遊ぶ分には対して問題はなかったけれど、同棲することを考えると非常に困ったことに今更気づきました。
自分の住む地域は、地方都市未満のロードサイドな田舎で、看護師の彼女に来てもらうとなると、市民病院一社ぐらいしかまともな職場が見当たらない。(求人調べたら額面10万代がザラで本当に、本当に、、)
僕自身、今の会社を辞めたら他に良い働き口がないせいで将来ここに家を構えるのはかなり覚悟が必要。正直、離れたい。
仮に彼女の地域で働こうとすると、これまた大手企業なんてない田舎で働き口が非常に少ない。(前職で住んでたので身に沁みてる)
でもそうなると、二人で夢見てるワンコロ迎え入れるって目標は一体いつになっちゃうんだ!!??
転職したらすぐローンも組めなくなるし、どうすればいいんだってばよ
たすけてくれーーーーーーーー
ポリティカルコレクトネスが世界を戦争に向かわせるとしたら、今これを書いている俺や読んでいるあなたも日本社会の一員として戦争に向かっていると言えるだろう。
世界秩序の安定のためにロシアや中国のような社会主義国の価値観を認めるとしたら、いくばかの人権侵害や政治体制について傍観しなければならない。こちら側の価値観では不当な事実だとしても、彼等にとっては正当な理由があるのだから。
しかし、西側諸国や同一の価値観を共有する日本において、これらの社会義国の論理を多様性の一つとして許容することができるだろうか?
現代のポリティカルコレクトネスを強烈に重視する社会において、市民と政治家、国もその決断はできないはずだ。その決断の積み重ねが社会主義国との摩擦を生み、結果として世界は社会主義国の脅威ともう一度対峙することになるだろう。市民のポリティカルコレクトネスという意識の高まりによって世界はじわじわと世界大戦に向かっているのである。
そしてそれはつまり、いまこれを書いているおれと、これを読んでいるあなたが戦争に向かう推進力となっている、という意味である。
これ、感情的になんとかならないのかっていうのはもちろん1番強く思うけど、普通に今後の治安面を考えても悪手な気がする。
まず第一に、わりと理不尽に40代まで檻の中で、そこから出所したご本人はかなりの高確率で無敵の人になってしまうと思う。しかもただの無敵の人より社会への恨みは大きい。その人が何を起こすんだろうという怖さがある。多分、きちんと怒りの矛先を親に向けることができた、きちんとした人だと思うので。何が何でもこの人は再出発させて無敵の人ルートを回避して欲しい。
第二に、半ば正当防衛のような殺人で、ここまで重い罪になってしまうなら、いっそ無関係の人を大量殺そうという方に怒りが向く人が今後出ないとも限らない。この人の罪が軽くなることで、将来の無関係な市民を守れるんじゃないかと思う。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210810181919
https://web.archive.org/web/20210810225700/https://anond.hatelabo.jp/20210810181919
原著の刊行は71年、当時の部落解放同盟書記長の中山氏とともに長野県内の被差別部落の古老たちを訪れて聞きとり調査したもので、現代よりずっと差別が苛烈で激しかった時代や大正デモクラシーの波にのった解放運動の記憶もまだ生々しく覚えている人が多く、本当に大変貴重な証言ばかりだった。
(まず基礎知識ですけど、部落をよく知らない人はなんとなくイメージで、関西にしか無い、関東は関係ないと漠然と思っている人が多いみたいですが(私もそうでした)葬儀や処刑人、農村で使ってる牛馬の解体処理など死に関わる仕事(ケガレの仕事)全般を請け負っているので、基本的にどこにでもある(最北端は旧松前藩あたり、最南端は奄美大島らしい)。私も北海道には存在しないと思っていたが間違いのようです)(被差別部落の中でも同和事業を適用される同和指定地区をうけなかった地区も多いのがこのような認識を生んだ理由でしょうか)
この本はまず信仰の話から始まるんだけど極貧の生活のためか日頃より信仰心が篤いのに死んだら畜生と同じ埋葬方法で墓が作られても墓地の北側の日のあたんねえ所とか、雑で差別的な戒名つけられたり、それでも檀代は一般(部落外)より高い額ふんだくられてたりもうさんざんで、序盤からひどい話ばっかりなんだけどこのあともひどすぎてこれがジャブ程度に思えてくる。長野といえば教育県を掲げているけど部落民は一般と同じ学校に行かせてもらえない、行かせてもらえても徹底的なイジメが待っている、教師すら[チョオリッポをチョオリッポと呼んで何が悪い]と差別に荷担する。さらに生活苦ゆえに家の仕事を手伝わなくてはいけないといった理由も加わってまともに学校通った人の方が珍しくて、聞き取り対象の老人のなかにはいまだに文盲の者も少なくない。それから公衆浴場も別々で回り風呂といって運搬が可能なお風呂が部落じゅうを回ったりしてたらしい。ケガレの仕事だけでなく、今でいう巡査や牢屋の見張りのような危険な仕事を押し付けられたり、農家の手が足りないときだけ日雇い従事したり季節労働をやったり等収入が安定しない..
もう要するに公権力が徹底的にそうやって差をつけている。また、同じ人間であると思わせないためか、部落民は睾丸が四つある、あばらが足りない、血の色が違うなどいわれのない身体的特徴をでっちあげられてそれを理由に侮蔑される。今でこそ誰もが馬鹿馬鹿しいとわかるけどこんなことが真剣に信じられていたんである。
それから今でこそ同和事業で部落のインフラが整備されて、見かけは一般と変わらない町並みになり、住民の流出・流入が容易になり、その結果元々部落だったと知らずに引っ越してきてずっと知らない人などたくさんいるけど、明治の末ごろの話だけど比較的裕福だった部落の老人が一般の大通りに家を建てたら村じゅう大騒ぎになって、
村役場が主導して執拗な嫌がらせを開始。果ては物理的に家ぶっ壊されて(!)老人は訴訟をするけど村役場が殺し屋を差し向けてきたり費用の問題などで訴訟断念するしか無かったらしい。役人が殺し屋を雇う???????????????? ???????
明治といえばその初頭に四民平等令、部落解放令がやっと出た時代なのに..この解放令ってやつもうほっとんど意味なくて、差別は続いて、でも以前は免除されていた税金が一般と同じように徴収されるようになっていっそう生活が苦しくなっただけらしい..てかまじ、体制側が一市民に殺し屋を差し向けてくるとかまるでフィクションの話みたいであまりに信じがたくてここ読んだとき一日くらいずっとポカーンとしてた。殺し屋て…殺し屋て..明治の末とかって歴史上からみたらほとんど最近じゃん 最近の話じゃねえか ひでえやばすぎる。どーなってんのよ
どこそこの地域が部落みたいな程度の浅い知識ならネットでちょこっと調べれば出てくるけど、こういう具体的な差別事例ってこんなふうに本でも読んで能動的に調べないとわからないんだよね、、まぁこういう時代からは随分ましになったとはいえいまだに部落の人にたいして暴言吐く人、差別する人はゼロにはなってなくて、全然過去の問題じゃないんですけど、同じ部落の人のなかでも[部落問題を知ってほしい][寝た子を起こさないでほしい、学校なんかで教えるから差別が再生産されるんだ][もう差別なんかないんだからほっとくべきだ]とさまざまに意見が分かれていて人間だから当然と思う。
でも悲惨な歴史にふたをして忘却してしまうと過去の人々の苦しみまで無かったことになってしまわないか?というのと、現代の人間が過去から教訓を得られなくなってしまう、それと苦しみだけでなく部落にも豊かな文化と生活があり、(著者は部落の文化遺産と呼んでいたが)文化そのものも葬られてしまう。そういう理由から、現在の、部落の[ぶ]の字すら言ってはいけないようなタブーの空気はいやだなと思うので積極的に気軽に部落の話をするようにしてる。
でも後述するけどこのタブー化が差別の緩和に繋がったわけで、でもそれを加味してもやはりもうそろそろタブ一の段階は終わっていいだろうと思う。
私は部落民ではない女性なんで女性差別にしか興味がありません。主にどうして被差別部落がここまで差別を打破できたかの部分に興味があって調べておりその歴史に女性が差別に対抗するすべを学べないかとそう思い何年も前からあれこれ勉強しています。
はっきり申し上げておきますと部落差別より女性差別のほうがひどい。上記にあげたような苛烈な差別事例を知った上で言うことです。その理由のひとつに無徴の存在である部落民に対して女性は有徴の存在であり、部落差別から逃げるために素性を知られてない遠方に引っ越すという手段もあり実際多くの人がそうしていたようですが、女性が女性であることから逃げる手段は自殺しかありません。
(当然、無徴ゆえにだれも[被差別部落][部落民]とはなんなのかをはっきりと定義できないゆえに権力側に恣意的に身分を決められていた歴史もあるでしょう。それも知っています。でも、なお..なのです。ちなみに、部落民とは一般と先祖やルーツが違う別人種なのではと思う人もいるでしょうが、一般人でも部落民になったりするし、どうもそのへんあいまいというかはっきりしていないようです。本書には、とある部落民にむかって自分たちは先祖が同じだ]と言った一般民がいたという証言もあります。差別の根拠など全くないのです。さらに言うなら死にまつわる仕事がケガレというのも恐らく権力が恣意的に決めたことがし、ケガレの仕事ではない、たとえば内職などしかしない部落民も沢山あってケガレともイコールで結びつかないのです。)現在進行形でさ女は毎日女ってだけでなぐられ殺され犯されおとしめられてんだよ
家から一歩出るだけで醜いおっさんがジーロジロ品定めここから逃げる手段ないんすよ
女性の参政権だってGHQの鶴の一声であって日本の男はんなもん女に与えてくれたこと無いんですわ
すいません話それました!
国を動かしての解放令発布でもやむことがなかった差別が現在ここまで緩和されもはや部落問題を全く知らない人も多くなった、その主たる理由はやはり水平社(のちの部落解放同盟)の強硬な、時には暴力的な闘争姿勢によるものだったのではと思います。著者の柴田いわく、長野のなかでも東信地方は寒風が吹きつけてひどく底冷えがする地域で、昔から気骨のある男、気性の荒い男が多く、それが東信で水平運動がさかんだった理由ではないかと分析しています。逆に寒さがゆるやかな地域では[寝た子を起こすな]の論調が強かったり水平社よりも穏健だった同仁会がさかんだったらしい。でも同仁会も交渉の場では「水平社の連中よぶぞ]が殺し文句だったらしく虎の威を借りてたとか..そして水平社と同仁会、歴史に名を残したのはどちらかというともうこれは言うまでもありません。ふだんから竹槍の戦闘訓練も行い、武力闘争も召さなかった水平運動こそ歴史を変えた。彼らが起こした暴力事件の仔細はネットでも簡単に読めます。部落民は乱暴だ、奴らは犯罪者だといった風評も辞さない徹底的な闘争で、部落は怒らせると怖いと、部落がなんなのかよく知らない人すら何となく感じて、アンタッチャブルな話題だと感じる。タブーだと思う。その空気を牽引したのがテレビ等マスメディアの徹底的な自主規制でしょう。部落解放同盟ににらまれたら厄介だという理由で前述のように部落のぶの字も出さない、触らぬ神にたたりなし。先日もエタヒニンと発音しただけのアイドルが活動自粛に追い込まれたけどそういう過剰なまでの自主規制が、差別の存在そのものを透明化した。長い間メディアは頼まれてもないのに四本指の表現すら自主規制していた。
そのような、暴力や脅迫で勝ち取った自由の歴史を勉強していると、心底彼らがうらやましく、やっぱり権力もなにもあてにならずとにかく徹底的に相手に恐怖という根源的感情を植え付けて支配するしか対抗の方法は無いのかなと思ってしまう。なんだかわからないけど女性差別問題は怖いから少しでもセクハラと誤解される表現は自主規制しよう、万が一表に出てしまったら即座に責任者の首とばそう、そんなふうになってくれたらいいのにと夢見て泣きそうになります。
しかしながら水平運動に加わった男たちがそこまで暴れることができたのも男という性別ゆえかなと、同時に諦念を抱きます。
女はやさしさや思いやりといった(あえて言いますが)宿病をかかえています。それは先天的なものか、それとも後天的なものか、両方だろうか?とにかくフェミニストを自称する人たちすら、女性は優しくなければ、人の気持ちが分からなくてはという教条に縛られているので、そういう人たちと肩を並べて武力闘争が可能かどうかはあやしいものです。ねえ、やりすぎは良くないよやめよう、とお目目ウルウルのいい子ちゃんが必ずまざってしまい男たちはそのすきをついてくる気しかしません..
この本書のなかにはある村の一般の村長が出てきます。彼は比較的リベラルで、部落の子でも学校に入学できるようはからったとのこと。そのせいで彼は妻の実家の敷居をまたぐことを拒否されるなど反発され、水平社の者も彼のそのような行いを知っててもそれでもダメな所は徹底的に糾弾したので、「両方から突き上げ食らってもうさんざんだ]といったことを自嘲してるんですけど女性たちも同じように全く糾弾の手を緩めないってことが可能かと考えると難しい。
痴漢の手に安全ピンぶっさそうという(本来痴漢は殺されてもいいくらいなのだから穏当すぎるくらいなのに)呼び掛けにすらいい子ぶりっこがそういうのよくないよとたしなめるしまつ。
繰り返すけど殺されてもいいのに。
やさしさというのは女たちが生まれつき体に埋め込まれた起爆装置なのだろうか?差別に抗戦しようとした瞬間、それは作動し、女の体は爆発四散するのでしょうか?
この本の巻末、作者の生前の夫だった人による復刊によせての解説で言及されてた2014年の長野県連続差別事件がやばい。部落民の女性に対して、真ん前に引っ越してきた男が差別語連発で罵倒するのをやめない。裁判所から禁止令が出てもやめない。逮捕されても執行猶予で、けっきょく彼が万引きという別件で再逮捕され収監されるまでの2年間なにも解決しなかったそうです。
昔も今も権力なんてなんのあてにもならないどころか被差別階級にとっては敵でしかないんじゃないのとますます不信感がつのります。2014年とか最近じゃん昨日じゃんか
みんな本気で、ハッシュタグ(笑)だのツイッターデモ(笑)なんかで女の現状が救われるとおもってんのかな..こんなのなんにもならんってうすうす気づいてるんじゃないかな。男に殺される女が一人でも減るかそんなんでって思う。やってる感だけ得られたらいいんすか? けっきょくレベルを上げて物理で殴るしか無いんじゃないのか。それもわたし一人がやったところで社会的にインパクトないから組織だってやるしかないけど、以下ループ
水平運動の男たちは献身的に支えてくれる妻がいてそれで運動なりたってた部分でかいと思うけど女には妻おらんのですよな~
暴力ができないならせめて男がみんな自分に正直にホモ願望を解放してホモセックスし、抑圧している内的女性を現実の女性に投影するのをやめればミソジニー無くなって平和になると思うんですけど、でこう書けばホモは差別語だから差別はいけませんとかほざくぶりっこがフェミニズムの邪魔をしてくるのでもうどうしようも無いです! バーカ!ちんこ—
それで思い出したけど水平社=部落解放同盟は徹底したシングルイシューで在日朝鮮人を差別して反省しなかったり、男と女で日当に差をつけて差別してたという話も聞きます。イシューを抱え込まないことがやはり運動の成功の秘訣のひとつであったのかと感じますが女性は女性というだけでやはりシングルイシューではいけないといった脅迫をされます。色々な差別問題に敏感ではなければいけないような圧力にかかって、あらゆる差別に眉をひそめなきゃなんないあの感じ、全ての弱者のために涙しなきゃいけないような義務感、女だから聖母を求められてるんですよね。それもバーカ死ねでございます。女性差別以外知ったこっちゃねーでいいんだお
ところでこの本の作者柴田道子は童話作家で部落民じゃない一般です。長野市に引っ越してきて被差別部落と接触し、興味を持ち、この本を上梓したあとは狭山事件の被告のサポートに尽力、当該事件の本を執筆中わずか41歳の若さで急死したとか。
解説文でだんなさんが男社会のなかで女性としてうけていた差別があったから部落問題に熱心だったのでは的なことかいとるけどんじゃー女性差別問題に集中すればよかったのでは、女なら自分が当事者である女性差別問題に注力すればいいのに、しろよと思ったし、そうすべきだろがいすら思うんだが、そういった、正しくない女柴田の正しくない思いで発刊された、正しくない存在である力作のこの本によって後世の人間である私が歴史を知ることができたわけで、そしてこれは間違いなく後世に保存し読みつがれるべき大名著なんです!!!何が正しいか間違っているのか、どう思うべきか、どう行動すべきかって本当は一切なにもないのかもしれない。なのでフェミニストならこうすべきだ、こう思うべきだ、こう感じるべきだみたいな考えに固執している人はちょっと考え直したほうがいいな、正しいか間違ってるかなんて時代によって基準がぐにゃんぐにゃんで明日にでも真逆になるけど、なんか結果だけ見て、他人がジャッジしてもシャーナイつか、結局ね、なにかに汗かいて真剣にがんばったりさえして、懸命に生きさえすれば、それはもう…だれにも、文句は..まあいいや
あるところに独裁国家があった
その国では誰も嘘をつけなかった
裁判官は「嘘をつけない」仕組みに深く関わっていた
独裁者は裁判官と運動家をなんとか捕えることができていたが、裁判官は市民と運動家寄りである上に「嘘をつけない」仕組みに関する秘密を握っているために、独裁者は二人を処刑まではできないでいた
ある時独裁者は運動家に「高額な報酬の代わりに市民や裁判官を裏切って重要な秘密を教える」ように公開で交渉する
独裁者がこの三つのやり取りをしばらく続けると、やがてその金額に熱狂した運動家と裁判官は「もっと上げろ」「物価が上がるくらい上げろ」と言ってしまう
物価上昇に喘いでいた市民たちは裁判官と運動家の処刑を望むよう声を上げはじめる
自分たちの処刑を望む市民たちを見た運動家と裁判官は独裁者に秘密を教えてしまう
ついに独裁者は運動家と裁判官を処刑し、市民を弾圧し、「嘘をつけない」仕組みの裏をかくことに成功する
ここでクソ臭いよだれを枕に垂らして目が覚めた
Webtoon、金正賢(キム・ジョンヒョン)の絵が好きだけど、
いまやってるマンガ、原作者がある時から内容がワンパになってキツいのよな
Webtoonの良さは彩色とかエフェクトとか縦読みを計算した演出なんだけど、
日本のなろうコミカライズも流石に最近は、サイコパス転生者と雑なザマァやめた作品の方が人気出てるぞって思う
話はよくある入れ替わり物だけど絵がうまくてWebtoonの良さがある
昔の過激派の人たちは、草の根民主主義というよりは、卑劣な子供の政治利用事件と言う方が正しいです
そこを民主主義の原点にしちゃいけないです
それは、今の時代にあったやり方、ではないです。日本の人の考える今の時代のやり方は、昔の事件の名残を緩和しただけのやり方、であって、「今の時代の民主主義のやり方」ではないです。悪い印象になるかもしれないという懸念はわかりますが、おっしゃるやり方は時代からは外れた考え方だということは理解しておいてください。
革命は、言葉で改善できないときの最終手段として今も大切に残された市民のための政治を取り戻す大切な方法です。
お子様はいくつくらいですか?そのうち主権者教育のテキストを持ち帰ってくると思いますが、結構しっかりやるみたいですよ。
高校では歴史総合も始まって、近代史にフォーカスして学習するようです。
読んでみると面白いですよ。
そんな難しく考えなくていいんですよ
友人や会社の人や行きつけの美容室やBARで話してみる(嫌な顔されてもいい勇気を出してみる)、ちょっとデモに参加して散歩代わりにする、政治家のイベントに買い物ついででちょっと立ち寄ってみる。
デモも、市民運動も、いきなり効果的で人の心に届くやつなんて考えなくていいんです。日本でニュースになる海外の大規模デモ参加者とかも、効率とか人の心に届くとか考えてません。
「こうやってたらいつかメディアに騒がれて、もしかしたら政治家の目に届くかも〜」
「そのうち街の人が見るかも〜」
「行動しなきゃ、やらなきゃ、自分に嘘をつくことになるから〜意味があるかはわからない」
程度の感覚です
やってるうちに思いつくものです。まずは気軽に一歩参加して、参加者とかるく話して、デモ当事者になることが大事だと思います。
あわせて、日本との最も大きな差は、大学にジャーナリズム専攻があることでしょうか。
報道機関にも大企業にもジャーナリズム専攻した人がほぼいないんじゃないかと思います
今とは逆に、専門家がジャーナリズムに参加しないことに圧力がかかる社会にしていかないと、一般人だけでは簡単に世論誘導にひっかかると思います。
極論を言えば過激でもいいんですよ。フランス革命は過激中の過激でしたけど、あれは間違いでしたか?過激な人をすべて迷惑と扱うためにはフランス革命を褒めるわけにはいかない。色々と日本は矛盾したことを言ってるはずですね
子供にも親がデモや政治活動してるさまを見せてあげる方がいいと思います。親が選挙に行く家は子供も選挙に行くようになるそうです。
今年から学校で主権者教育が始まるので、お子様同士で嫌な思いをする心配はそんなにないと思いますよ。これも、政治家や市民の方々の頑張りのおかげですね。
この問題に関して、いち市民にできることなんて何もないんだという無力感がすごい。
このままほとぼりが覚めたらまたのうのうとあの会社とタレントが活動し始めるんだろうか。
こんなひどい事件をそのままにしておけない!なんとかしなければ!と思う自分と、とはいえ俺には何もできないんだからもう考えるのはやめよう…という自分が交互に出てきてなんか疲れてきた。
もうXも増田も見るのやめるか
それなりにみんなが同じ情報持ってたらもうちょっと結果違うと思うんだよね……
ワイ札幌のものなんだけど、だいたい同じ状況か6割くらいしてないかも(体感だけど)
https://www.city.sapporo.jp/gesui/surveillance.html
5月半ばからぐわっと上がってもうずっとピークを何度も繰り返してて高い感染率を保ったまま
今だいたい4600人/日くらいの感じなんだけど、テレビでぜんっぜんそれを報道しないわけ
下水サーベイランスってものの存在すら報道してない気がする ワイが見られん時間にやっとって見逃してたらすまんやけど
定点なんてもうみんな病院いかない今ではほとんど役に立たない情報はたまに流してるけどね
グルメイベントとおしゃれなカフェとエンタメ情報とをローテで流すだけの地方局
特にグルメイベントとコラボメニューだしたり取材したりするのにそれを妨げるコロナ情報って邪魔じゃん?取材先なくなるし なんかそんな感じなんやろなって思う
内向きの経済圏の中だけで生きてるんだもう なんか最近のジャニーズ忖度メディア業界と似たような構造じゃない?
でもあの情報をさ、普通に耳にしたり目にしたりして知ってればああじゃあマスクしよって思う人も当たり前にいると思うんだよ
今は「流行ってる」って情報がないからみんな終わってると思ってしてないんだよね、だってテレビでは大盛り上がりのイベントしか流さないから
なんかさ、地方マスコミの矜持ってないんだなって思った そういうのドラマ「チャンネルはそのまま!」でちょっと描いてたのにね なんかすごく残念
下水サーベイランスを知らなくても報道として恥だし、知っててやらないならもっと恥なような気がしちゃうんだけど、そういうこと考えないのかな、そんなことないのかな
その辺の感覚もうないんだろうなって思いながら昔は大好きだったグルメ情報親が見てるの冷めた目で見てる
存在も知られないで市民の健康にも寄与されないのに、まじめで地道で本来ならおおいに役に立つ仕事してる人がめちゃくちゃかわいそうって思う
友達がこの間コロナ感染して体力限界まで落ちて大変そうだったけど、弱い人や持病のある人だけが自分で情報にアクセスして必死に自衛してるよね
でも周りの大多数がそもそも情報を「知らない」んだからそれにも限度がある
問題に対して何か自分たちで言うこともほとんどしないしね 外部からコメンテータ呼んでくるか「市民の意見」として市民に喋らすインタビューで代弁させたり多数決とる形式ばっかり
[B! 事件] ジャニーズ 元タレントら“子どもへの性犯罪 時効撤廃を” | NHK
このニュースには反対。性犯罪には時効があるべきだし、過去に行われた時効撤廃についても再考するべきだ。
理由は、「時間はあらゆる証拠を洗い流してしまうから」に尽きる。その証拠には、有罪の証拠だけではなく、無罪の証拠も含む。
あなたは昨日の夕食、誰と何を食べたか言えるかもしれない。行きつけのお店で友達とご飯を食べました。これがインスタに上げた写真です。店長も友人もそう証言してくれています。アリバイ成立。送検すらされない。よかったよかった。
だが、30年後にその店は残っているか? 店長や友人は生きているか? インスタの垢は削除していないか? そもそもインスタがサ終していないと誰が言えるのか? っていうか、その日に友達とレストランに行ったことを思い出せるのか? 増田は30年後に自分のアリバイを証言できる自信がない。
そうはいっても殺人であれば、たとえば凶器に残された指紋であるとか、第三者の目撃証言とか、そういったことが無罪の決め手になるかもしれない。
しかし性犯罪の多くは、証拠が残らないことが多い。親密な関係性で行われる性暴力というものは多くあり、その場合、証拠が残ることは極めて少ない。それはある一面では「訴追に足る証拠がないので、被害者が泣き寝入りを強いられたり無罪判決が出ることが多い」であるということだが、もう半面は「証拠が足りない状況でも訴追され得る」ということでもある。これは、無力な一市民にとってみれば、恐るべきことではなかろうか。
ジャニー喜多川による性暴力は、おそらく実際にあったのだろう。そこは疑わない。だが、性暴力について偽証する人というのは残念ながら存在するし(ウトロー事件、会津若松虚偽告訴事件、草津町長に対する冤罪事件)、被害者が間違った人を犯人として名指ししてしまうこともある(氷見事件)。被害者の家族が間違った人を警察に突き出したという事件もあった(貝塚ビニールハウス殺人事件)。そういった冤罪は、いつでも、どんな犯罪でも起こり得るのだ。自分が被害者になる可能性については多くの人が想像しているだろうが、自分が容疑者になる可能性についてはいったいどれだけの人が真剣に考えているんだろうか? あなたが何もやってなくても、警察が容疑をかけたら、あなたは容疑者になるのだ(容疑者というのは、「犯人」という意味ではなく「犯人ではないかと疑われている人物」のことである)。
増田は教職に就いていて、子どもたちと個別面談をしたことが何度もあるが、何年何月何日に教員室で身体を触られました、と言われたときにどう防御したらよいのかわからない。数ヶ月前のことだって記憶があやふやなのに、まして30年、50年も前のこととなったら。草津町長の冤罪事件では、「町議の訴える被害の状況と実際の町長室の家具の配置が違う」という点も町長側から反論として出されたが、何十年も経ったら教員室も模様替えしていて、「こんな犯行をできたはずがない」という弁護はできなくなっている可能性が高い。
もちろん、あまりに昔の事件の捜査・訴追については何らかの物的証拠(被害者を縛り上げたロープについた指紋とか、採取された精液とか、防犯カメラの映像とか)を必須にする、という運用がなされるなら、そこまで恐れる必要はないのかもしれない。しかし、残念ながら増田は日本の警察の良心をまったく信用していないので、時効によって、そもそもそんな昔の事件については捜査がなされないことを望む。