はてなキーワード: 専門性とは
大学までで学んだことが、社会に出てから役に立たないというのが当たり前になってしまっているからだよ。
医学部とか原子力工学科とか教員養成課程とか、専攻が職業に直結する学部学科は大学・大学院までで学んだことが基礎となって社会人になっても勉強を続けていける。
文系の大部分の学科は、大学教員の個人的な研究の一部をさわるだけで専門性なぞ身につかないし、市場性のあるスキルでもない。
大学教員は左派的な人が多いので、営利企業で求められる考え方やスキルとは真逆であることもめずらしくない。
大学4年間で投じた学費と時間は、政権を批判する政治思想を植え付けられただけで、お金を稼ぐためには何の役にもたたないかもしれないのだ。
受験生は、自分の身の上をよく振り返って、ジャーナリストや政治活動家になるのか、ミュージシャンやユーチューバーになりたいのか、営利企業でお金を稼ぐ企業戦士になるのか、よく考えなければならない。
がむしゃらに働いた時期が過ぎ、結婚をして数年が経ち、のめり込んでいた趣味にかける時間が減り、旅行に行く回数は減った。
仕事は専門性に悩みながらも転職で給料は上がったし、幸い激しい競争に晒されていない。
健康診断で一時期内蔵関連の数値が悪化したことがあったが、生活が落ち着いたからか回復傾向。バリウムは不味いけど飲めるし異常は見つかっていない。
故郷にはいつでも帰れるけれど、帰っても特に何も無いし、天気が悪い季節に帰りたくはない。
いま住んでいる場所の気候は気に入っていて、頭痛の頻度も減った気がする。
先日、台風19号が直撃する中でも外回りの営業を命じた某ブラック企業を退職したけど、
住んでいたのがそこの社宅だったので、退職に伴い退去することになり、行くところがないので実家に戻ってきた。
親としては、弟が理系(というか医学部)の大学院を出て、その系統の仕事についているので、
私にも大学院まで出て、それを生かした仕事をさせたかったらしい。
ただ私は文学部出身。大学院に行くのは自殺行為だということはよく知られているところ。
でも、まだ諦めていないらしい。
ちょうど世代的に氷河期世代で、私自身非正規を転々としているところだけど、
そうなったのも、私が大学院に行かずに専門性をもたかなかったかららしい。
親もそれなりの歳だし、私も古い人間なので、男たるもの独立した家計をもって、なんなら親を扶養しないといけない立場だけど、
今の現状では自分は子供部屋おじさんだし、大学院に行こうものならさらにそれが長くなる。
どうすれば親に大学院進学を諦めさせることができるだろうか。
JIS規格とJIS認証(JISマーク)の違いについて説明したいと思います。
ISOやJISの「9000番台」を知っている人は読まなくていいです。いつもの通り年度末に一緒にゲロ吐きましょう。
さて、今回問題になっているJIS規格、それは「JIS T8133 乗車用ヘルメット」です。
まずはJIS規格原文を読んでください。JISC公式webから検索すると読むことができます。
https://www.jisc.go.jp/index.html
読みましたか?読まなくていいです。
Chromeでは読めないうえ独自ビューアのUI/UXがクソなので業務で必要でない限りアクセスする必要はありません。
さて、重要なのは「JIS T8133 乗車用ヘルメット」において記載されているのは、
例の会社がやらかした「品質保証」については何も規定されていない、ということです。
それは「規格」と「認証」が違うからです?違うとはなにか?今から説明します。
それは「JISに定められた試験を全てパスした」ということのみを表します。
つまりどういうことか?
「試作スペシャル特注品がJIS規格を通った」というケースと、
「量産品の中の特にデキの悪いヤツでもJIS規格を通った」というケースの差が表せないということです。
「たまたまよくできたヤツを抜き取り、試験に出して審査を通す」というものがあります。
アカデミックな世界ではチャンピオンデータとも言ったりしますね。
そういうものを「JIS規格通りました!データあります!」と、宣伝&販売され、
実際はダメダメな製品が世の中に出回ってしまったらJISの信用は地に落ちてしまいます。
だから「JIS認証」、つまり品質管理体制の基準、審査をする必要があったんですね。
とはいえ、星の数ほどあるJIS規格の認証業務すべてをJIS協会が面倒見ていられないので、
実際はJIS協会から厳格な審査を受けた「認証機関」が代理で各企業の審査をすることになります。
今回、経産省のプレスリリースで出てきた「一般財団法人日本車両検査協会」がそれです。
①ヘルメットのような各種JIS規格への適合確認審査 と、②品質管理体制の基準審査、
この2つをクリアして初めて「JIS認証」を取得し、JISマークを製品に張り付けることができます。
①は規格ごとに高度な専門性が必要であり、これが各種認証機関へ認証業務を委託するモチベーションでもあります。
実をいうと、JIS協会は基本的に取りまとめ役で、実際にJIS規格を作るのは規格を使う側の企業や大学の先生です。
だって世の中で一番詳しい人たちが相談して使いやすい規格作ってもらったほうが良くないですか?これは世界中どこの工業規格も同じです。
話がそれましたね。
②これは製造工程と品質保証のプロセスを企業自身に申告させ、認証機関が激ツメするというプロセスです。
具体的には、製品のチェック、チェックの記録、チェックする機械設備の点検校正精度の検証工程、チェックする人間への教育、それを監査する人間のウッこれくらいでいいですか
①はJIS認証受けるうえであたりまえとして、②のほうがシンドイです。
なぜなら②は製造を続けるかぎりずっと維持管理、改善していく必要があるからです。
一度、①をパスする製品を作ってしまえばあとは「品質を維持するだけ」のはずですよね?
実際は原材料の変化、メーカーの廃業や工場の移転、さらに現場の人間の入れ替わりがあっても品質を維持し、
設備の老朽化や設計の変更にも対応しつつコストダウンもしなければなりません。
これのために製造業のサラリーマンは日夜、魂をすり減らしています。
特に不良品が許されない特定業種の現場は魂のすり減り具合が激しいともっぱらの噂です。知らんけど。
そしてこの品質保証、品質管理は、毎月部内監査や半期の社内監査や、数年ごとに外部機関による審査や、今回のように抜き打ち検査で定期的に激ツメされ ウ゛゛ッ
心の傷が開いてきたのでここらへんでいいですか?終わりたいです。
21世紀の「まともな」製造業なら、製品の品質保証(と品質管理)がキモであるということを当然知っており、
また、こういった品質への取り組みが、Made in Japanブランドを作った日本のお家芸(であった)ということも知っています。
だから自動車業界や素材メーカの品質不正問題が連日ニュースで報道されていたわけです。
さて、だいたい言いたいことがわかってきましたね?
JIS認証を剥奪されるということは、JISを満たす品質を維持する能力が無いということ。
昔は知らんが、これからの未来、どういう品質の製品を出すか、JIS協会(と認証機関)は責任持てませんよ。ということです。
胃が痛くなってきたのでストロングゼロを飲んで寝ます。以上です。
ついでに言うと、例の会社はISO9001:2015取得しているみたいですね。品質マネジメントをえらい頑張りはっとる会社さんどすなぁ。
留年中は停止される。その期間は実質フリーターだったのでプライマイ0である。
・奨学金の返済について
夢と希望にあふれているというわけでは決してない。現実的に大問題だ。
しかし、月々返済できる金額だし、年間50万くらいは貯金も可能だ。
特にいじめられることは無いが、年下の先輩がたくさんいるので気は使う必要がある。
・激務
我が校は部活の強い学校なので、部活畑の教員は部活に関する専門性が高い。
私は勉強畑なので、授業や進学にしか期待されていないので激務ではない。
ただし、その期待されている部分には応えなくてはならない。
私は自宅で大学入試問題とかを解いたり、大学数学を解いたり、論文を読んだりして過ごすことがあるが、
これをサービス残業と捉えるなら激務と言っていいのかもしれない。
決してベストな生き方をしてきたわけではないが、20代半ばまで何もしてこなかった人間の復活劇としては
十分希望のもてるものだと自分では思う。あの頃は風呂と歯磨きは3日に1回。外出は夜中のみだったし。
一通り話すことを話し終えて、ちょいちょい投下される燃料をちょいちょい燃やすだけになった昨今。
こんどは全体的に「ツイフェミって奴らはどうしてああなんだよ」のコメントを見る事が多くなってきた。実社会でモテないんだろうねとか、自己肯定感の補填としてフェミってるんだろうねとかいう話ね。
それらはまあ、明らかに素人の自己完結分析なので外れたり当たったりするんだろうけど。
思うにこれは、かつて「ネトウヨ」に対して起きた反応と同じなんだよね。
だから今後、ツイフェミを取り巻く環境は、ネトウヨと同じになるだろう。
①それっぽいことを言うとすぐにネトウヨ/ツイフェミとレッテルを貼られるようになります。
②反面、独自の熱い支持層は全く消えないので、ネトウヨ/ツイフェミ代表の論者にそこそこ大きな市場価値がつきます。
④議論が内輪で煮詰まり、言説がデマまじりの専門性を帯びてきます。
だからこれが他の領域なら、専門家が何と言おうと、素人の目で見ておかしいようならいくらでもツッコミを入れ、あまつさえバッシングまでしてきたわけじゃん
表現の不自由展騒動がきっかけなのか、最近「アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。
とりあえずポリティカルなことや特定の展覧会や人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違いを淡々と正してみる。
文章が読めない人向けに繰り返すが、別に「表現の不自由展」など特定の展覧会や作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート・芸術」に対する先入観について語っている。
前史時代から近現代に至るまで、金銭や作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれた芸術作品や芸術家はいない。
「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族や王族の庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品がメディチ家の庇護のもと、もしくは依頼で作られている。
モーツァルトのようにフリーの音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。
現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。
こちらは王政・封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。
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政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位でアーティストを雇い、パブリックアートの制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である。
因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックやベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動がバンバン興った。
それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代の前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界のアート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本の美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。
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一方、プロパガンダ芸術で有名なのは、ソ連やナチスなど。政府の意向や政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品は政府の思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。
上述した政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。
ただ、これらの政府の体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。
あくまで個人的な見解だが、プロパガンダ芸術はその性質上大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。
なお、これらの国では、現代アート・前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧の対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストがアメリカに渡り、祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。
上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。
だが「20世紀を代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。
現代であれば例えばバンクシーは思いっきり政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。
文学・音楽・映画にだって、政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。
「政治色をもつ作品はアートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。
むしろ、現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族や王族むけに作品を作っていた。そもそもが一般大衆向けの芸術ではない。
同時代の大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人が酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎やケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術のほとんどは淘汰されている。
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今現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキーやジョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったことだってある。
これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆の感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展の花形だし、ストラヴィンスキーはバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさんは美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆の感覚はあてにならなくなる。自分の感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。
かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ。
この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドとキッチュ」っていう論文が分かりやすい。
この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆の感覚と芸術作品の価値の乖離について論じている。要するに、「大衆に迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。
80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話や聖書の出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。
実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実の女性の裸を描くなんて、淫猥である!不道徳極まりない!下品なメスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。
しかし、どちらの作品も今やマネの代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代の芸術家からはオマージュの対象とされるような絵画として扱われている。
一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象は枚挙に遑がない。
簡単にいえば、写真が実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真と絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。
で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌやピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法は写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画だからこそできる表現」というものが重視されていくようになった。
そして「じゃあ絵画の価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート。特に後者の現代美術への影響は色濃い。
もちろん、写真のようにリアルな作品に価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアル」であるかどうかとは別の土俵で表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。
分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。
文章中でも少し触れたが、アメリカや中国、欧州と比較すると日本の美術市場はかなりちっぽけだ。国内でアートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府が美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在のアメリカの立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。
アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。
今日コアアプデがあったらしい。
まあそれはさておき。
あれが難しくて~、注意点はここで~、実際にはこうだった~、みたいな。
で、google検索したんだけど。
結果が司法書士ばっかりなのさ。
まあそうだよね。
google先生は、権威性が~、専門性が~、とか言ってたから。
でもよ~。
はぁ・・・・
お前らアフィリエイターかよっw
まあいい。
ワードを3語、4語、5語にしてもおんなじ。
最近のgoogle先生はアフィリエイター締め出してて、もちろんそれは歓迎だよ。
でもねー。
なんか違うんだよ。
どんどん使いづらくなってる気がするgoogle先生。
あー。
どうしたらいいんやろか?
はてぶ検索か?
知恵袋で聞けばいいのか?
2chか?
思いつかん。
教えてくれ。