はてなキーワード: シロートとは
マスクいらねーってあらゆる医者とか専門家が何人も同じ見解出してるのにさ
ブコメの一部シロートのやつら、未だにマスクが感染予防になるとか言ってるの頭に障害でもあんのか?ああ?
そりゃ感染者の咳き込みとかで飛沫を飛ばさないためには有効だよ
いいか、大事なことだから繰り返すぞ。「感染」して「咳き込んでる」人が使うものだよ。
感染していない99.999%の一般ご家庭の「無感染」「無症状」の人には不要なの。
無感染ってわかる?covid-19に感染していないって意味なの
無症状ってわかる?発熱とか咳き込みとかの症状が無いって意味なの
だから医療関係者とか専門家は「感染」してない「咳き込んでない」ひとは軽症で、その人から他人に感染する確率がめちゃくちゃ低いので、そういう人はマスク使わずに感染している人や、医療機関に手に入るようにマスク買い占めするなっつってんだろうが。
山川も古い間違った学説に固執してるって結構批判されてるようだがどうなの?
そこは山川がそう書いてるんだから正しいって判断しちゃっていいの?
それってやっぱヤバい気がするんだけど
あくまで信頼性であって確実な正しさを保証してくれるもんではないしなぁ(ちゃんとした大学出版会とかから出したやつが書評でボコボコにされてる光景は稀によく見る)。
まーでも、その分野に関する基礎知識がないなら、まずは山川じゃないの。
山川の概説書で基礎知識つけてから、CiNiiで論文探したり書評をチェックしたり他の学術書を読んだりして情報のアップデートしなよ。
研究者ではないシロートで、山川みたいな歴史学に関する話なら、多少古い学説を信じてしまってもさしてデメリットないからな。それで人が死ぬわけでなし。せいぜい飲み会の席や旅行先やブコメ欄で恥をかく程度でしょう。それが嫌なら概説書1冊読むだけで終わらせずに書籍や論文を読み込むべし。
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
私はただのいち競馬ファンなので、競馬に関してはただのシロートです。
今日の大阪杯(G1)について、まずはデムーロ騎手、おめでとうございます。
これまでも大舞台での素晴らしい騎乗を何度も見てきました。本当にすごい騎手だと思ってます。
そして、全ての日本人騎手の皆さん。このレースを見てどう思いましたか?
いや、大阪杯だけじゃありません。2017年の日本ダービーを筆頭とした外国人騎手の騎乗をどう思いますか?
私は、惨敗するリスクを取ってでも勝ち負けにこだわる騎手が少ないように思えてなりません。
言い方を変えると、指示された通りにポジションを取り、スローペースであっても隊列を崩すこともなく、流れのままにゴールする騎手が多いように感じます。
「私が、スワーヴリチャードやレイデオロに乗っても、スローペースなら積極的に動くよう騎乗した」
と言える騎手が何名いるのでしょうか。
イチかバチかの勝負をするよりは、確実に賞金とれるよう、下手なことをしない、という騎乗になり易いのも当然です。
そして日本の競馬における賞金額は他国と比較して高く、ひとりの騎手が失敗の責任を負えるレベルではありません。
なので、日本の騎手がいわゆる「置物」になり易いのは、関係者(スタッフ・オーナー両サイド)にも責任があると思います。
そうでなくても、若手やリーディング中位以下の騎手だと、ちょっとでもミスしたり消極的な競馬をすると
いや、まったくミスがなくて結果を残していても、なにかと有力騎手に乗り換える傾向があると思います。
話は変わりますが、先日のドバイ国際競争において、日本調教馬が過去最高の14頭出走しました。
そしてその14頭における騎手の内訳は、武(3)・岩田(1)と、C・デムーロ(3)・バルザローナ(1)・モレイラ(3)・ルメール(3)です。
世界屈指の名ジョッキー達に依頼できるほど、日本調教馬のレベルは過去と比べて上がっているのはわかりますが
日本の代表としてレースに臨んでるのに騎手は外国人ばかり。悲しすぎます。
最後になりますが、まずはデムーロ・ルメール両騎手。日本に来てくれて本当にありがとう。
あなたがたは、日本競馬における騎手のあり方を革命してくれていると感じています。これからも頑張ってください。
この件。
http://www.kokusen.go.jp/hanrei/data/201712_1.html
私は法律のシロートなんで、法律の読み方が間違ってたら教えてほしいんだけど、そもそもこの裁判は、
が争点じゃなくて、あくまで
が争点ってことでいいんだよね? で、判決はBについて明確にNOと言っている。OK、それはわかった。女性専用車両は男性差別ではない。
でもAについては何も言ってないよね?
かかる状況に鑑みると、Yが女性専用車両について、健常な成人男性も乗車することができる旨をあえて掲示せず、これを「女性専用車」であり、女性および小学生以下または身体の不自由な人(その介助者を含む)が乗車するための専用車両であると掲示したことをもって、女性専用車両の表示に関するYの裁量権を逸脱した違法なものと評価することは相当でないし、これが社会的相当性を欠いた、男性の乗客に対する不法行為を構成するということもできない。
ってつまり、「鉄道会社が『健常な成人男性も乗れるんだけど、いちいち説明するのがめんどいからまるで健常な成人男性は乗れないかのような表現をした』ことは違法ではない」ってことだよね?
そうすると、公共交通機関である本件鉄道を運行する会社であり、かつ自ら同車両を設定したYには、現に同車両に乗車する乗客の不安感を払拭(ふっしょく)するため最大限の行為を行うことがむしろ期待されているというべきであって、そのためにはXらに対しある程度強い説得行為が行われたとしても、これをもって直ちに社会的相当性を逸脱した行為と断ずることはできない。そして、一部の鉄道警察隊員が、女性専用車両に乗車中のXらに対して、「駅長さんの要請があれば、あなた方を逮捕しますからね」などとXらにとって必ずしも穏当とはいえない発言をした事実は認められるが、上記のとおりの状況下において、この事実から直ちに鉄道警察隊の行為が不法行為上の違法性を有するものと認めることはできないし、他にYの従業員や鉄道警察隊員が有形力を行使して、Xらをc駅で下車させたと認めるに足りる証拠はない。また、Yまたは鉄道警察隊において、Xを犯罪者として扱ったと認めるべき証拠もないから、かかる事実を前提とするXの主張も採用することはできない。
これは、「鉄道会社が実際に乗り込んだ男性を多少強い言葉で脅しつけても違法ではないし、無理やり引きずり下ろしたり実際に留置場にブチ込んだわけじゃないから違法じゃない」ってことだよね?
ということは実際に男性が逮捕されたりしたら別の話になるのでは???
なお、「出てけと言われたのに出ていかない」ことは不退去罪という犯罪だけど、これって民家や商店には適用できるかもしれないけど公共交通機関である鉄道に適用できるのかな。今ざっと鉄道事業法の条文眺めてみたけど、「乗車を拒んではならない」みたいな条文は見当たらなかった(見落としてるだけとか、別の法律に書いてあるとかだったら指摘してほしい)。
たとえば旅館業法には「客が伝染病患者だったりギャンブラーだったり客室に空きがないとき以外は宿泊を拒否しちゃ駄目よ」という条文がある。仮に、「部屋に余裕があり、予約で埋まっているわけでもなく、伝染病患者でもギャンブラーでもない、きちんとお金を持ってきている客が、俺を泊まらせないのはおかしいとホテルのロビーにいつまでも居座っている」という場合って、不退去罪に相当するの? この仮想の設例ではホテル側がその客を泊まらせないことが違法なわけだから、不退去罪じゃないだろと思うんだけど、法律の専門家じゃないからわからないので誰か教えてほしい。
で、公共交通機関で不退去罪って適用できるのかしら。キセル乗車とか、自由席の切符でグリーン車に乗ってるとかいうわけでもなく、正規の運賃を払って普通の車両に乗っているだけだよね。実際に痴漢をしていたら捕まえられるけど、単に乗ってるだけ、って状況だよね。これに対して「出ていけ」と言っていいの? 言えないの?
「出ていけ」と言っていいんだとしたら、鉄道会社がやろうと思えば「日本人専用車両」とかも作って外国人を排除したとして、それも適法ということになるの? 気になって調べてみたけど、障害者差別解消法はあるけど、性差別・民族差別はないよね(というか、ないからこそ、「女性お断りの居酒屋」や「男性禁止のプリクラ」が存続を許されてるわけで)。実際にそんな馬鹿なことやる業者はいないと思うけど、仮にやる馬鹿が出た時にどうなるのかは知りたい。民事で民族差別として賠償金を科されるだろうとは思うけど……←全ての法律の根本である憲法で人種差別・性差別を禁止してますね。猛省。でも「私企業なんだから女性専用でもいいでしょ」を認めるなら「私企業なんだから日本人専用でもいいでしょ」も通っちゃうんじゃない、って思うんだけど、その辺どうなんでしょ。
仮に「出ていけ」と言うことができないなら、
ってことになるよね?
私は女性専用車両に集団で乗り込んでやろうとかそういうことやってる連中は軽蔑するし、○ねばいいのにと思うけど、それは私の感情の問題であり、法律上乗る権利があるなら彼らが乗ることは許容するしかないんじゃないかなと思う。日本は法治国家であり自由主義社会なので(「犯罪でなければ何をしてもいい教」って書いてる人がいたけど、当たり前でしょ、としか言えない。マナーに反する振る舞いだろうが人を不愉快にさせる行為だろうが法に反してなければやる分には自由に決まってるでしょ。それをやったら友達を失くす、というのと、それをやったら警察に捕まる、は全然違う)。クチャラーは迷惑だし友達がそうだったらお付き合いを考え直したいけど口開けてもの咀嚼することは別に違法じゃないよね、というレベルの話なんだとしたら納得するし、実は違法だという話なら根拠を教えてほしいなと思う。私はクチャラー嫌いだし飲食店で隣の席に座ってほしくないけど、クチャラーが犯罪者として扱われたり根拠もなく公共の場所から追い出されるような社会には反対する。
女性が性暴力の恐怖に晒されていることには本当に気の毒に思うし、女性専用車両が最もコストのかからない解決であることも理解できるけど、それは差別なのでは? という問いにも根拠があるように思えるし、
なのか、
なのか、
なのか、はっきりさせてほしいな、と思う。どれなのかで、私の採るべき態度は変わるので。
情シスに出した要望の半分は「不可」で、残り半分は「十分に検討を重ねた上で答えるから当分待て」となる。
早い話が、情報システムなんてものがあるからリスクが発生するわけで、情報システムを一切なくして紙ベースにしてしまえばリスクもなくなるが情シス部門も必要ない。
実際に、インフラもさることながらExcelなんてものがあるから残業が発生するのだと思うので、電卓オンリーの時代に戻ってしまえば、上司の無理難題にもブレーキがかかる(計算に3日かかるとかいう状態なら諦めるだろう)。
高度情報社会とかいうものは、シロートのExcel統計と情シスのやる気の無さによって昭和時代よりひどい世の中になっている。
おもろい
信長協奏曲とか信長のシェフとかでさんざん苦言を呈した部分に対するひとつの解答が気持ちよく示されている
何かっつーと、上記2つでは結局タイムスリップしても歴史なぞるだけじゃんつまらんじゃん作者の手抜きじゃんって思ったのね
でも群青戦記は違う
どっちかというと戦国自衛隊に近い
だから歴史とは全然違った展開を見せてくれるから、もうそれだけでわくわくもんだぁ~!
弱ペダの御堂筋に少し似てるけど、戸田はまだ全然まともで不快感はない
ゴールデンスランバーのキルオみたいな感じかな?うーんちょっと違うかな・・・
絵はぶっちゃけそんなにうまくないしキャラの描き分けもあんまりできてないけど、進撃の巨人と同じで絵のつたなさを超える面白さがある
あと今後歴オタじゃないとわからないネタが増えてきたら俺みたいな歴史シロートには面白さが伝わりづらくなっちゃわないかなってのがちょっと不安かな
まあでも最終的なゴールは都度示されてるから安心して読めるし楽しい
一気に10巻くらい読んでしまった
なんからのランキングで上位になったとかっつーニュース見たから読んでみたけど、確かにおもろい
練習してますって光景一瞬だけ描写してあとはそれ以外の描写(練習はもちろんしてるけど代わり映えしないからあえて描写してないだけ)ってのもありっちゃありだけど、たまにはこういうのもいいと思う
ひたすらどんなときでもコツコツ練習を続けてるのがものすごく伝わってくる
それなのに退屈やマンネリがない
だいぶ前に音楽系の漫画は、BECKしかりほかのもんしかり肝心の音を描けない以上すべて手抜きだっつってバッサリ言ったけど、それに対するひとつの回答をうまく見せてくれてる気がした
何かっつーと聞く人の表情の変化ね
他の漫画だと一コマうつって終わりみたいなのが多かったけど、この漫画だとバカにしたような表情からポカーンとした顔にかわって、次第に興奮さめやらぬ顔になって・・・みたいなふうに、音楽自体がどれだけオーディエンスに影響を及ぼすすばらしいものだったか、ということに、他の音楽漫画より印象的なアプローチをしていたから
ドシロートが影響受けてサックスはじめて・・・っていう一本調子じゃなくて、そこで関わった人が何年か後になって主人公が世界的に成功した後に取材を受けてる体でインタビュー描写がちょくちょく挟まれるんだよなー
まあそれによってオチを最初からネタバレされてるようなもんなんだけど
この漫画自体が主人公の伝記じみてる設定になってるのがこそばゆいんだよ
作中だとリアルで進んでるように見えるのに、その実もう成功は約束されてるっていう
それでも面白いんだよなー
逆に、岳とくらべて終わりをはっきりさせてくれてる分、読者にとっては安心して読めるとも言えるかもしんない
ただ才能にあぐらをかいてるわけじゃなく、ちゃんと努力をした上でそれを認める人がでてきて・・・みたいな、まあもちろん才能もあるにはあるんだろうけど、地に足の着いた毎日を過ごしてる、キャラに血が通ってるように思える漫画は、やっぱりおもしろいなあと思った
バイトで身体壊して吹けなくなるとかも、上述のインタビュー描写によって、ないことが保証されてるみたいなもんだから、そこんところで変な茶々、というか展開をつくるための無理な負傷(スポーツマンガの故障展開大嫌いなのよ)もなさそうだしね
ヒカルの碁しかりアイシールドしかり、それを知らなくてもおもしろい漫画って、ほんとに漫画自体がおもしろいってことだなあとしみじみ思う
脳にかかわるものって、医学方面からだったり生化学方面からだったり、心理学、コンピュータ科学、あと工学方面とか
境界領域だから様々なアプローチがあって、それぞれに分野名ついてるし、
まとめて神経科学とは呼ぶけど、わざわざ「脳科学」と肩書つけるのはシロートに分かりやすくする以上の意味はない
http://www.asahi.com/articles/DA3S11392974.html
いや生理心理学とか認知心理学とかって思いっきり脳を対象とする学問でしょうが何が異色だってがっくりきてな
「脳科学者」としてメディアに出てる某クオリア芸人のアハ体験とか、認知心理学ど真ん中の領域だと思うんだけど、
図地分化とか非注意の見落としとか変化の見落としとかそれぞれ別個の問題を全部まとめてアハ体験って呼んでて