はてなキーワード: 農道とは
無職の俺が言うのもなんだが、本当に死ぬほどやることがない時にだけ、普段使っていないFacebookを開くことがある。
開くとまず、知らない奴とか10年くらい連絡とってない奴の誕生日が3日前でした、みたいな通知が5件くらいあって、未だに何故かFacebookを使い続けてる奴のTwitterみたいな投稿が目に入る。自分の投稿を見返したところ、自分も6年前までは同じ使い方をしていたらしい。
だが俺の本当の目的は今や全く別のところにある。ここに来て急に「友達かも」のページをみたり、繋がっている友達伝いに小学校の同級生を探し出すのだ。
俺の通っていた小学校は、それこそ全校生徒がランドセルに熊よけの鈴をつけて登下校するレベルの山奥にあった。トラクターが農道を闊歩する割と本格的な田舎だ。だから小学校から中学校、下手すると高校まで同じ顔触れで、死ぬまで実家暮らしなんてのも多分珍しくない。
というのも、俺は中学から親の都合などを経て都市部に引っ越したため実情を知らない。小学校の同級生と未だに連絡を取っているようなことも全く無い。高校生の時に何度か違うクラスの奴と会ったはいいけど全然何話して良いかわからなかった。多分みんなそんなもんなんじゃ無いかなと思っている。
そんな時に見るべきなのがFacebookである。今となっては猫も杓子もTikTok、InstagramなどのイケイケSNSに夢中な中、それらの始祖にして現代ネット社会における九龍城、そしてディストピアとなったFacebookには今、俺が必要としている情報の全てがあるのだ。
まず友達伝いに名前に見覚えがある気がする奴のページに飛ぶ。どうせ足跡が付くわけでも無いし付いてたとしてもはや誰もFacebookなんか見てないから気にせず画像や誕生日の投稿へいつ頃まで反応していたかを見ていく。俺と同級生だから当然3割くらいは誰だか知らない奴と結婚してる。だがさして興味はない。なんなら病気してても、たとえ死んでたとしても、へー、で済む話である。ガンガン見ていく。
あ、こいつ養護学級スレスレだったやつだ。アニメアイコンだしヤな予感すんなあ、とか思ったら内容こそ穏やかだけど匿名掲示板で暴れ回ってるキチガイと同じ文体で、それもつい数日前まで投稿してる。匿名掲示板荒らして回ってる奴の気が知れないとは思ってたけど、本当にこういう奴らがやってんだなって確信してなんか悲しくなった。
次はこいつか、車高短なんかFacebookに載せんなよ、うわこいつも載せてんな、しかもスポーツ学科、このギャル名前見たことあるな可愛かった子か、あいつはヤンキーになってんのか、うわきったねえギャルだ、車高短だ、うわギャルだ、ヤンキー…
ガイジとヤンキーとギャルしか居ねえってなんだ。そりゃみんなFacebookやめるわ。畦道走ってイオン行けばみんな居るしな。どうせ高校まで一緒だったんだろうしどうでもいいかやっぱり。
だが何故、いわゆる陽キャになろうとした結果が画一化されたヤンキーやギャルなのか。影響されあっているとしたらこんなにダサくて生産性のない足の引っ張り合いは無いだろう。というか、それに気付かず迎合してしまうから田舎に留まろうとするのか、田舎に留まっているから感性が死ぬのか。俺にはもうよくわからない。
先日失踪した10年来の友人はいわゆるシティボーイだった。のにも関わらず、都会の隠れビッチに惑わされ、家や友達の全てを捨てて失踪し、SNSからもその存在を消そうとした。自分のプライドを糧にやってきたことを全否定して消えようとすることは、結果だけ見れば俺の居た田舎でヤンキーやギャルになるのと同じはず。全てを捨てようとした時、やはり田舎で珍走団になろうというのが真っ当な思考回路なのだろうか。
オレんちと同じくらい田舎やったんねw
ウチでは、昭和の末期ごろに家を建替えるまでは、掘りごたつが現役だったね。四辺に足を乗せる板があるけど、中央部はそのまま炭火を置く構造だから、ヘタに足を突っ込むとテキメンに火傷するw
かまども(平常時は主にプロパンガスだったが)盆正月などに大量の料理するとか、味噌仕込むのに大豆を煮るとかのときは現役だった。
裏山に炭焼き窯があって、自前で木炭も作ってたし、風呂を沸かすのも薪で火を焚いてた。
農道は、そのころ絶賛建設途上で、クルマで行けない山の上から農作物とか木材とかをふもとに運ぶのは、架線(かせん)と呼ばれるケーブルカー的なものだったが、昭和50年代後半にはほぼ使われなくなったな。
思いついた順。順番に意味は無い。
・田舎の道路は舗装されて無いのがあたりまえだった。ごく一部が舗装されていたが、舗装はコンクリートだった。アスファルト舗装はまだほとんど無かった。
・川にかかる橋はまだ木と土でできていた。わずか数年のうちに、全部コンクリート造りに作り変えられた。その時の橋がまだ現役。
・石炭がまだ日常的に使われていた。学校の隅の方には石炭を積み上げておく小屋があって、冬は当番の子供がその日のストーブで燃やす石炭を小屋から教室に運んでいた。炭の燃えカスの掃除は先生がやってくれていた気がする。石炭ストーブが石油ストーブに置き換わると、石炭小屋は鶏小屋に改装されて、学校でニワトリを飼っていた。
・火鉢や七輪がまだ現役だった。火鉢の中では炭を燃やして暖をとっていた。
・掘りごたつの底は格子状になっていて、その下で炭か何か燃やして暖を取る構造だったが、それは当時すでに廃れていた。電熱線を使った電気ごたつが安くて便利なので、かなりはやくから普及していた気がする。
・家にかまどがあった。物ごころついた時にはもう使われなくなっていてプロパンガスだった。お年寄りの家ではまだ現役でかまどが使われていた。
・洗濯ものは川や湧水のあるところでやっていた。湧水は出口すぐが飲用水の採取場所、数m下ると食器や食べ物を洗う場所、そこからさらに数m下るとそれ以外を洗うもの、と順番が決まっていて、いつもだれか数人の主婦が何か家事をやっていた。水道が普及するといつしか誰も使わなくなり、掃除されなくなり、廃れた。
・秋には落ち葉のたき火で焼き芋を焼いて食べるのが定番のおやつだった。
・農業に使うかごなどが、まだ藁で作られていた。この伝統は数年後にはすっかり無くなってしまった。
・村の加治屋さんがいて、農機具の修理などをやっていた。
・軽トラックが普及しはじめていたが、農道がまだほとんど整備されていなかった。車が通れない歩行者用の山道を、天秤棒をつかって前後に思い荷物をぶらさげて運ぶという仕事がまだあった。
・コンクリートブロックを使って塀を作るのが流行り、みんなで競うように塀を作っていた時期があった。へー。
・車はどの車も数年でサビサビになった。今のような耐久性のある焼付塗装がまだ開発されておらず、車検のたびに車の塗装をやりなおしていた。車検とはある意味、車の塗装をやりなおすイベントだった。
・街へ行くたびに、あちこちでボコボコビルが建ち始めていた時代。1970年より前に建築されたコンクリート作りのビルというのはかなり珍しいが、1970年代にはめちゃめちゃ大量のコンクリート造りのビルが建設されて、日本の街の風景が一変した。
・いまはシャッター街となっている田舎の商店街に、もっとも活気があった時代。
・軍隊帰りの教師が現役でいた。ゼロ戦の特攻隊の訓練生だったとか、広島に原爆が投下された後の遺体を積み上げて燃やす作業をやったという教師がリアルに居た。多くの大人たちが原爆のキノコ雲の目撃者だった。
・家を建てる時、壁は土壁だった。そのへんの土に藁を混ぜて建材として使っていた。土壁の中の芯は細い竹を格子に編んだものだった。
・貯金の金利がめちゃめちゃ高かった。しかし実際には金利以上にインフレになったので、真面目に貯金した人はむしろ損をした。
・缶ジュースは当時から1本100円だった。子供には高級な飲み物だった。
・お豆腐屋さんに毎日お豆腐を買いに行っていた。田舎でも数100mも歩けば、一軒は豆腐を豆から作っている豆腐屋さんがあった。
・主婦が買い物に行くときは、細い竹を編んだような、かわいらしい買い物かごを持って買い物に行っていた。レジ袋などというものはまだ無かった。せいぜい紙袋。
・生ゴミはかまどで燃やして処分していた。灰は肥料として活用された。街のゴミの収集車は、不燃ごみの回収が主だった。
・冠婚葬祭は、5人組といわれる隣近所のグループで協力しあって、自宅で行うのが当たり前だった。
・どこの家にも子供がいた。夜は外出を厳しく制限された。今思えば、どこの家庭も夜になると夫婦でセックスして楽しむのが当たり前だったんだろう。
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・子どもは神社やお寺の境内に集まってよく遊んでいた。缶けりとかが定番だった。
・そんなド田舎にもエロ本はあった。子どもたちが拾い集めたエロ本の隠し場所が神社の床下だった。
・雨の日はよくトランプしていた気がする。
・こたつのテーブルの板をひっくりかえすと麻雀用の緑のフェルトが貼ってあった。
・蛍光灯が爆発的に普及したのがこの頃だった。電球よりずっと明るいので最初はみんな驚いた。
(しかし、統計を見ると子どもが減り始めたのもこの頃。電球の方がエロい気分になりやすかったというメリットはあったのかもしれない)
・バスには運転手のほかに、切符を売ったり、バックする時に誘導したりする車掌がもう1人乗っていた。それがワンマンになったのも昭和50年代
・国鉄で荷物を送るときは、包み方にめんどくさい規定があって、紐で縛ったり指定のタグをつけたりしなくてはならなかった。
・昭和50年代に複数の宅配便会社が競争で一気に普及して、国鉄で荷物を送ることは全くなくなった。
・女子の体操服はブルマだった。バレー部が人気だった。部活やマラソン大会では女子が校外を体操服(下はブルマ)で走っていた。
・ダンボールは既に普及していた。ダンボールが普及する前は農作物は木の箱に入れて出荷していたらしい。使われなくなった木の箱がよく他の事に転用されていた。
・そんなド田舎でも新聞と牛乳は毎朝届いていた。牛乳はビンに入っていた。
・学校の校舎は当然木造。体育館も木造。今思うと、体育館のような大きな建物が木造っていうのは当時としてはなかなか凄い事だったんじゃないかという気がする。
・バイクといえばスーパーカブのことだった。それ以外のバイクは見たことが無いレベルだった。
・車と言えば軽トラだった。それ以外の車も見かけたが、変わり者扱いされるレベルだった。
・仕出し弁当とかは薄い木で作った箱に入っていた。プラスチックや発泡スチロール製のトレ―が普及したのも昭和50年代
・幹線道路なのに1車線のところがあり、ときどき渋滞でにっちもさっちもいかなくなって警察を呼ぶことがあった。
・リヤカーを引いて魚を売りに来るおじさんがいた。スーパーカブに山ほど靴を積み上げて靴を売りにくるおじさんもいた。富山の薬売りもいた。
最寄り駅から絶妙に遠い会場(だいたい15分以上かかる)までだらだら歩いて、そのうち舗装されてない農道みたいなとこ歩かされて、
やっと着いてとりあえずビニールシート広げて四隅を荷物とか靴で固定して、
屋台を物色して、
行列出来る前に早めにトイレ行っとくべきかそれともあんまり早く行って花火打ち上がってる最中にトイレ行きたくなったらやだなあとか悩んで適当なタイミング見計らってトイレ行って、
シートの上に寝転んで高い割に別にめっちゃ美味しい訳でもないけどやっぱり美味しいジャンキーな焼きそばとかたこ焼き食べて、
空がだんだん暗くなっていくにつれてわくわくしてきて、
いよいよ開始時間になったのに実行委員長とか何とか会長の挨拶が始まってそーいうのいーから早く早くーってなって、
ようやく音楽と共に打ち上がって待ってましたーわー綺麗だなーと思っても10分くらいでわりと飽きてきちゃって、
あとは酒でも飲みながらだらだら喋って夜空を眺めて、
終了時刻と同時にわらわら夜道をみんなで駅まで戻って、
そういうの全部引っくるめて花火大会が好きだったなぁ
地元は地方都市で,高校までの移動手段はチャリか徒歩だった。近所は細い農道や産業道路ばかりだったのだが、そういう道は大体歩道がなかった。
車と物理的にぶつかったら勝負にならないという側面もあるけど、それ以上に人間ではない重量級の何かが自分のすぐ側を高速で走り抜けていく事実がすごく怖かった。
特に夜。街灯がないと外から車内の様子は見えないため、本当に人が乗っていない巨大な鉄の塊が走っているように思えた。
地方は車社会なので真昼間を除けば常にかなりの量の車が行き交っていた。そんな道の脇を必死に通学するのは本当に苦痛だった。いつ死ぬか分からないという恐怖を常に感じていた。車がとにかく怖かった。
東京23区内に住むようになって電車での移動がメインになったので、そういう道を歩かなければならないケースは大幅に減少した。
細い道路を歩くにしても9割以上は分離された歩道があるし、通勤通学時でもそこまで混んでいない。
東京に出てきてようやく安心して出歩けるようになった気すらする。東京は歩行者にやさしい。それだけでも東京に出てきてよかったと思っている。
もと南海の電車からホームに降り立つと、千頭駅にはたくさんの親子連れがいた。
妻と、4歳の娘と、1歳の息子と、チケットがとれてから、楽しみにしていたトーマスに会える日だ。
子供だけではなく、大人が見ても、このトーマスはテレビから飛び出した等身大のヒーローだ。大きさだけのハリボテではない。ホンモノなのだ。
トーマスの種車はC11-227。かつてはテレビドラマや映画で大活躍。裸の大将(雁之助の再放送)をよく追いかけていたのを覚えている。
正面にはトーマスの顔をつけ、ライトブルーに化粧をして、動輪までしっかりカラーリング。
大ベテランが子供の前で大活躍する姿をみて、Eテレの幼児番組、みいつけた!のワンワンと中のチョーさんを思い出してしまった。
千頭駅では機回りをした後で転車台で方向転換。ちゃんと顔を新金谷方面に向けるためだ。周りには子供も大人も集まっている。
転車台にのって、係員が人力で回すと、トーマスも汽笛を鳴らしてアピールする。
ぐるぐるっと向きをかえ、止まるかと思ったら、あれあれ、まさかのファイブフォーティ。魅せます、トーマス。一回転半まわって転換完了。
駅構内はイベント会場に整備され、パーシー、ヒロに、方向転換を終えたトーマスが並ぶと、地方私鉄の構内とは思えない華やかさになった。
トーマスの汽笛に合わせて、他の列車も汽笛を鳴らす。効果音ではない。本物だ。
新金谷駅の売店で買ったお弁当をベンチで広げ、子供たちの声を聞きながらお昼ご飯を食べる。ホームに入る風は山岳ローカル駅の風だ。
ただ、駅全体に子供の声があふれている。混んではいるが、人道的な混み方だ。ちょっと並べば、トーマスの前で写真も撮れる。
トーマスは発車直前まで写真撮影に応じている。煙突からは煙が出ている。発車が近くなると、黒い煙が増えてきた。
小型タンク機関車とはいえ、1,600mmの動輪径は子供の身長の倍。ホンモノのトーマスは、車輪の大きさも圧倒的だ。
みんなが並んでいるその前を再びゆっくり走り出し、再び客車に連結。
鉄道界の老老介護、最後尾の補機、電気機関車E10-2に感謝の黙礼をする。
そして、7輌の客車なかほどのスハフに乗り込む。
青いモケットのボックスシートに、トーマスのシートカバー。そして、所々にJNRマーク。
娘は、窓が開く、扇風機があると大喜び。昔はみんなこれだったと喉まで出かかったが、トーマス号とは関係の無いこと。
千頭駅から新金谷駅まで1時間強。途中の鉄橋や通過駅ではみんなに手を振ってもらえる。
特急となっているが途中の駅に止まらないだけで、各駅停車の電車と所要時間はほぼ一緒、のんびり走るのだ。
だから、手を振ってくれる人の顔がよく見える。子供はもちろん、大人も年寄りも、みんな笑顔だ。
白レンズを構えたおじさんもお兄さんも、客車が通過するころにはシャッターチャンスはすぎたとみえ、ニコニコしながら手を振る。
本命はこの後のC56-44かもしれないけど。
大井川にかかる鉄橋は見晴らしも良く、遠くから手を振る人もみえる。
吊り橋の上から手を振ってくれる人もいる。
茶畑のおばさんも手を休めて両手を振っている。
新金谷駅に着くと、車両基地の機関庫に入っていくトーマスがみえた。
子供と近くまで歩いてみると、もと近鉄電車や他の蒸気機関車とならんで、トーマスがみえた。
随分と久しぶりになってしまったな増田の諸君。渋滞回避マンだ。
今回はちょっと真面目に、埼玉県の死亡事故が多い理由を考えてみたぞ。
ちなみに、埼玉県はここ数年で死亡事故数が急激に増えていて、交通事故の死者数は愛知とデッドヒートしてて一昨年、去年と2位だ。
さらに今年も去年を上回るペースで死亡事故が起こっていて、このままだと愛知を抜いてしまう可能性もあるな。
実際に去年の前半は愛知を上回って1位だったときもあったようだ。
北関東から東京に荷物を運ぼうと思うと、特に群馬・栃木から荷物を運ぶ場合には埼玉を通らざるをえず、必然的に交通量も増える。
2.道が狭く、歩道の整備が遅れている
そんなところに住宅と道を作ったものだから、既存のものを潰して作った幹線道路以外は農道をそのまま利用したかのような非常に狭い道路ばかり。
十分に歩道を作れるだけの用地を取得しないで道路を作っているものだから、車道はある程度あっても歩道が狭い。
狭い道路なのにそこしか主要な道路に出られる道がなかったりするから一方通行にできず、すれ違いがようやっとな双方向通行な道がそこかしこにある。
しかもその道路に有名な接骨院があったり、スーパーがあったり、いつも駐車場がいっぱいなうどん屋があったりして生活道路としてだけでもすごい交通量がある。
さらにそこが通学路になっているのである。朝はスクールゾーンになるものの、夕方は近隣住民に配慮してかスクールゾーンにならない。
そしてせっかくの幹線道路すら申し訳程度にガードレールがあるだけだったり、縁石が少しあるだけだったり、そのガードレールもつぶれてぐちゃぐちゃになってたりしても直されていない。
地権者がごねたのか予算をケチったのかそこだけ歩道が異様に狭くなっている部分がそこかしこにあり、人がやっとすれ違いえる程度のところもたくさん。
歩道が、歩行者を守るためのものにまったくなってない。そりゃ事故も起こるし、事故が起これば重大なものになる。
歩行者が横断歩道を渡らない。何で?何で埼玉の人ってこんなに横断歩道を渡らないの?
気がつくとその場を渡る、路地から出てくると渡る、すぐ先に押しボタン式の横断歩道があるのに渡る、歩道橋の下を渡る。
横断禁止なんてお構いなし、中央分離帯は柵でもない限り突破する。
横断歩道でもないところをいきなり渡ってきてすごく怖い。埼玉の歩行者。
自転車はもっと悪質。一時不停止での突破は当たり前。逆走当たり前。
狭い道路で車が詰まっていて、左側は通れない。よし車の右側を通ろう。右側に出ようとして対向車にぶつかりかける。アホかと。
もっと渡りやすい場所で渡ればいいのにとか車の少ないところを通ればいいのにとか思うけど、そういうことを考える頭はないらしい。
自分で自分の命を守る気がないのだから事故は起こるし重大なものになる。
最初、埼玉のほうを走り始めたときには、何でこいつらこんなにスピードが出ていないのに事故が多いんだ?と思った。
なんといっても、最高速度60kmである日光街道バイパスや新大宮バイパスを平然と50kmで走っている車がそこかしこにいるのだから。
が、対向の信号が青になっているにもかかわらず止まれる程度のスピードで右折してきた大宮ナンバーに轢かれかけてから考えが変わった。
こいつら、スピードが遅いだけで危険運転しまくりじゃないか、と。
完全に信号無視のタイミングでの強引な交差点突破、右左折、横断、割り込み。
さらにはそれを白バイが取り締まらない。白バイはもっぱらスピード違反の検挙に夢中である。
埼玉は怖い。
5.自分さえ事故を起こさなければよいという「独善的な安全運転」が多い。
スピードを出さなければ安全運転とでも思っているかのような運転以外にも、変な安全運転が多い。
そもそもスピードを出さないためにこまめにブレーキを踏むからいつ止まるか分からない。
優先道路を走っているにもかかわらず路地に差し掛かるたびに減速し、クラクションを鳴らす車。
右から右折で出てこようとしている車のために急ブレーキをかけて道を譲る車。そして、その際に右側をまったく見ていない右折車。
追突事故を誘発するかのような運転をしている車が非常に多くて怖い。
自分さえ事故を起こさなければ、周りはどうなってもいいという考え方は「独善的な安全運転」で非常に危険なのだ。
よくよく見てみるとウインカーも申し訳程度にしか出していない車が多い。
私はウインカーを出しているので安全運転ですよとでも思っているのだろうか。はっきり言って、交差点内に進入してからのウインカーは「遅すぎ」である。
私はウインカーは出しているので岡山とは違うって思っているのではって思ってしまう。
6.周りをよく見ていないで運転している車が多い
埼玉の特徴として、やたら青信号になってからのスタートが遅いと感じる。
信号を見ていないのだ。
前の右折車を行かせてやろうとライトをパカパカしたのだが一向に動かないなんてことも。
前述の轢かれかけたときも、十分に確認・減速停止できるスピードだったにもかかわらずそのまま通り過ぎていくのだからまったく歩行者を見ていなかったのだろう。
まとめ:
交通量と人口が多いにもかかわらず、歩道が十分に整備されておらず、それでいて歩行者も自転車も自動車も安全運転に気をつけているようでまったく気をつけていない。
むしろ形式的に安全運転をしているだけで、それで満足しており周りを見ていないのだから実際のところまったく安全ではない。
その上にスピードを出さなければ安全という驕りを持って運転しているのだからたちが悪い。
特にすずめとおなが。
農道を車で走っていると必ずといっていいほど彼らに進路を妨害される。
車に轢かれるギリギリまで集団で粘るんじゃない。チキンレースですかこの野郎、鳥だけに。
時々、上記の遊びに失敗したらしき個体が道の真ん中で平たくなっている。私は悲しい気持ちでそれを避ける。
そんな無防備な鳥さん達も、猫の事は相変わらずキッチリバッチリ恐れている。
我が家の庭にはよく野良なのか家猫なのか定かではない猫が来て、伸びた雑草の陰でウンコをしていく。彼等もたいがい野性を失っており、ウンコには砂をかけるというマナーを知らない。堂々たるベリーロングなウンコを残し去っていく。
猛烈な臭気に困った私は、去年は本腰入れて庭の草むしりに励んだ。密林だった場所が砂地になった。猫はあまり来なくなった。清々すると共に人類の業の深さみたいなものに思いを馳せてしんみりした。
すると、まもなく数羽のすずめさん達が砂地に降り立ち、楽しそうに砂遊びを始めた。砂地には沢山のすり鉢状の跡が残された。
私は縁側に座り、砂地で遊ぶすずめさん達を見守った。
だがお前達、ちったあ私の事を恐がれよ。人間だぞ、人間がすぐそこでお前らをめちゃめちゃガン見しているんだよ。もっとビビれよ。気色悪いと思えよ。
だがすずめさんさん達は一向に気にする気配なく、好きなだけ遊んで飽いたら去っていく。
ふっ、かわいい。
四季島の件がきっかけで色々と鉄道趣味界隈、撮り鉄界隈が賑わっているようで。
ふと地元のことを思い出した。
服やらおもちゃやら買う時は隣町に行かないと買えないくらいのクソ田舎。
そんな田舎に時々大挙する奴らがいた。
思い立ったかの様に道を自由に横断し、暑いのか車のドアを開けて仲間と道の真ん中まで出っ張って会話。
その道を通らないと凄く遠回りをして買い物に行かないといけなくなるのです。
普段でもその橋を渡ったら行き違いの車に気を使わないとダメなくらいの道幅なのです。
農家だから畑を荒らされると困るのです。荒らさないとしても、訳の分からぬ人達が何をしてるかわからないから畑が心配になるのです。
普段見ないような人達は怖いからクラクションを鳴らすわけにもいかず、地元民は半ば諦めのような気持ちでそろそろと道を進む。
車内では「また何か来るのかよ、迷惑な奴らだな」と。
買い物が終わって戻ってきたら誰も居ないけどゴミはある。
撮り鉄全てがあんな奴らでは無いとわかっていても小さい頃からの記憶は消えない。
色々、撮り鉄の人達が機材がどうとか、良い写真で趣味者を増やすとか言ってますけど、理想とか語るなら襟を正さないと説得力皆無。
自分ひとりがきちんとやってたとしても、外から見たら皆同じ迷惑軍団。
連帯責任ではないけど、外から見ても紳士的な人達じゃないと説得力はなし。
感情のままに言えば、
もう昨日の話なんだけど、鹿が死んでるのを見た。
先の方は広域農道の直線部だったので、たぶん飛び出して車にひっかけられたんだと思うんだけど。
ちなみに、僕がそのシカを見つけたとき、二羽の鳶がついばんでいて、目と肛門に穴が開いていた。
それから現在進行形で耳をついばんでいたらしく、耳孔から深く、中身がえぐれていた。
それよりも昨日のほうだよ。
30センチ幅の道路側溝に頭からはまり込んで四本の足をピン、と天に突き出して死んでいた。
もっとちゃんと言うと、首が折れてその上に体が乗っている。
現場は設計速度15キロほどの突っ込み農道で、他に外傷もないことから交通事故とは考え難い。
シカの首をへし折って側溝に活ける変質者の仕業でなければ、まあ転んで死んだのだろう。
スぺランカーの様な死因だ。
山の中では段差も窪みも道路の比ではない。
およそ、表土が流亡して岩だらけになった山の中で、シカはどれくらいのペースで死に続けているのか。
そんな女友達がいる。
まずは18才。
顎を擦りむき、3針縫う。
車は全損。
これに懲りて、2台目、中古のいつ止まるかわからん、2年もてばいいだろうというミラを買う。
無傷。
胸部打撲。
車は全損。
4台目、マーチを購入。大雨の日、信号で止まろうとしたがブレーキ効かずノーブレーキで衝突。
全損で買い換え。
5台目、ステップワゴンを購入。
見晴らしのいいなんともない農道でハンドル操作を誤り電柱に自爆。
右肩骨折。
6台目、出産したばかりでまだ授乳中の子供のお宮参りの日、神社へ向かう途中、対向車がウインカー出しているので曲がるかと思いきや、直進してきて衝突。
そこから意識不明。脳出血を起こしてしまい数日意識不明だった。
助手席に乗っていた子供は着ぐるみを来ていたため、座席から落ちたが無事。
車のグレードが上がる度に怪我のグレードもあがってるよ。君みたいなのは二台目みたいなのを乗ってればいいよ。事故の神様が乗り移ってるんだよ。
と言うと、彼女は言う。
二三年周期で事故に遭う。今でも毎週弁護士から電話が入り、通帳によく分からない振り込みがある。
そう遠くないんじゃないかなあと笑った。