無職の俺が言うのもなんだが、本当に死ぬほどやることがない時にだけ、普段使っていないFacebookを開くことがある。
開くとまず、知らない奴とか10年くらい連絡とってない奴の誕生日が3日前でした、みたいな通知が5件くらいあって、未だに何故かFacebookを使い続けてる奴のTwitterみたいな投稿が目に入る。自分の投稿を見返したところ、自分も6年前までは同じ使い方をしていたらしい。
だが俺の本当の目的は今や全く別のところにある。ここに来て急に「友達かも」のページをみたり、繋がっている友達伝いに小学校の同級生を探し出すのだ。
俺の通っていた小学校は、それこそ全校生徒がランドセルに熊よけの鈴をつけて登下校するレベルの山奥にあった。トラクターが農道を闊歩する割と本格的な田舎だ。だから小学校から中学校、下手すると高校まで同じ顔触れで、死ぬまで実家暮らしなんてのも多分珍しくない。
というのも、俺は中学から親の都合などを経て都市部に引っ越したため実情を知らない。小学校の同級生と未だに連絡を取っているようなことも全く無い。高校生の時に何度か違うクラスの奴と会ったはいいけど全然何話して良いかわからなかった。多分みんなそんなもんなんじゃ無いかなと思っている。
そんな時に見るべきなのがFacebookである。今となっては猫も杓子もTikTok、InstagramなどのイケイケSNSに夢中な中、それらの始祖にして現代ネット社会における九龍城、そしてディストピアとなったFacebookには今、俺が必要としている情報の全てがあるのだ。
まず友達伝いに名前に見覚えがある気がする奴のページに飛ぶ。どうせ足跡が付くわけでも無いし付いてたとしてもはや誰もFacebookなんか見てないから気にせず画像や誕生日の投稿へいつ頃まで反応していたかを見ていく。俺と同級生だから当然3割くらいは誰だか知らない奴と結婚してる。だがさして興味はない。なんなら病気してても、たとえ死んでたとしても、へー、で済む話である。ガンガン見ていく。
あ、こいつ養護学級スレスレだったやつだ。アニメアイコンだしヤな予感すんなあ、とか思ったら内容こそ穏やかだけど匿名掲示板で暴れ回ってるキチガイと同じ文体で、それもつい数日前まで投稿してる。匿名掲示板荒らして回ってる奴の気が知れないとは思ってたけど、本当にこういう奴らがやってんだなって確信してなんか悲しくなった。
次はこいつか、車高短なんかFacebookに載せんなよ、うわこいつも載せてんな、しかもスポーツ学科、このギャル名前見たことあるな可愛かった子か、あいつはヤンキーになってんのか、うわきったねえギャルだ、車高短だ、うわギャルだ、ヤンキー…
ガイジとヤンキーとギャルしか居ねえってなんだ。そりゃみんなFacebookやめるわ。畦道走ってイオン行けばみんな居るしな。どうせ高校まで一緒だったんだろうしどうでもいいかやっぱり。
だが何故、いわゆる陽キャになろうとした結果が画一化されたヤンキーやギャルなのか。影響されあっているとしたらこんなにダサくて生産性のない足の引っ張り合いは無いだろう。というか、それに気付かず迎合してしまうから田舎に留まろうとするのか、田舎に留まっているから感性が死ぬのか。俺にはもうよくわからない。
先日失踪した10年来の友人はいわゆるシティボーイだった。のにも関わらず、都会の隠れビッチに惑わされ、家や友達の全てを捨てて失踪し、SNSからもその存在を消そうとした。自分のプライドを糧にやってきたことを全否定して消えようとすることは、結果だけ見れば俺の居た田舎でヤンキーやギャルになるのと同じはず。全てを捨てようとした時、やはり田舎で珍走団になろうというのが真っ当な思考回路なのだろうか。