はてなキーワード: 親心とは
13話。
まさか「好き」とは自覚してなかったのか。そういう概念が無いのか。
付き合いとしては「ゲーセンで出会うツレ」と同レベルに毛が生えた程度なんだがね。
こういう「素性の悪い人間が絡んでくるのは迷惑」って言い方は現実でもあることだよな。
子供時代に「あの子と絡んじゃいけません」と言われた人間も居るだろう。
親心があるとどうしても筋の悪い言い方になっちゃうこともあるんだろうね。
それに対してママつええ。ババァだからこそ言い返せるんだよねwww
クソガキには無理だよな。
…というか本格的に飽きてきた。視聴中止するか…。
気が向いたらまた見るかな。
なんかこう、一気に見れる面白いやつか、ほのぼのしっぱなし(ちょっとだけ切ない)みたいな作品じゃないと日々のストレスを解消出来ない…。
彼は私に無言で一枚の絵を手渡しました。
渦中の絵
→ https://d.kuku.lu/8276af3257
苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
(絵をテーブルに広げつつ、、)
渦中の絵
→ https://d.kuku.lu/8276af3257
私「あのさあ、今日幼稚園で描いたこの絵について教えてくれないかなあ」
娘「あ、その絵お気に入りなんだ!パパはその絵好き?」
私「うん、好きだよ! これどうしたんだい?」
私「へえー! そうなんだ! で、何を描いたの?」
驚いた妻は両眉を釣り上げ、
私は眉間にシワをよせながらも必死に平静を装い、
注意深く絵を鑑賞しているふりをします。
私「そりゃ楽しそうだね。で、ここに描いた大好きなものって、何だい?」
娘「もうパパったら! わかってるくせに! テーブルに置いてるマフィンに決まってんじゃん!」
(妻、爆笑)
私「もちろんわかってるさ!すっごく上手に描いたよなあ!」
(ふぅ~)
酔っ払っている。
映像研。
今、アニメ6話まで見たところ。
設定を作り、動画を割り、資金や環境をかき集めて、なんとか作品を形にしようとする。
で、その作品は、原作作中いくつか「その時点での最善」に過ぎないながら完成する。
しかし悲しいかな漫画作品。完成した作品を、読者は「アニメとして」鑑賞することができない。
完成したアニメを、アニメとして、そしてアニメならではの感受性表現(ex.予算審議委員会)をもって魅せてくれる。
それだけじゃない。
アニメを制作する過程の部分も、「現実ならこうだぜ」「俺らならこうするぜ」と、実際の現場の感覚をアニメの作り手自身が持ち込んで足している。
強いて言うなら、現れているのは「おじさんをナメるなよ」というプロとしての矜持だ。
映像研の3人の少女は、歓迎を以てアニメのプロのおじさんたちに受け入れられたのだ。
「実際作るならこうだろ」「この方が画としていいぜ」「あーそこで苦労するよな。わかるわかる」
粗削りで、未熟で、それでも熱意だけはある3人娘は、アニメを作るおじさんたちにとってほっておけない存在なのだ。
祝福をもって、受け入れられたのだ。
そして、アニメのプロたちに笑顔で迎えられた人がもうひとりいる。
エンディングにアニメーターとして参加したことがその証左だろう。
原作映像研は、アニメーターに憧れて挫折した大童澄瞳による、アニメ業界へのファンレター…というかラブレターだと思う。特濃の。
で、このアニメは、アニメ界からの、湯浅政明監督からの愛に溢れたアンサーだと思う。
エンディングの動画を見ると、大童澄瞳は現時点ではやっぱりアニメーターとしては並以下だと思う。
それでも、毎回必ず流れるエンディングで、メインアニメーターとしてクレジットされている。
これが、業界の先輩の愛でなくて何なのか。
原作映像研という「アニメって/アニメーターってすげえんだぜ!」というラブレターに、
「お前が思ってるよりもっとすごいぜ!」あるいは「そうまで言われちゃやるしかあんめぇ」と粋な回答を示す。
それでいて、そのラブレターに勇気づけられたことに感謝も示す。
偶然かもしれないけど、サイエンスSARU(制作会社)と映像研のロゴの重ねっぷりなんか、愛と愛の応酬でしかないでしょ。
お互い元気をもらい、お互い感謝しあって、お互い認めあって。
それが傑作に、ならないわけがない。
余談
それを於いても、特に浅草氏のイメージ段階の画は、コンテのまま見せる、動画を割らなくていい、等作り手として楽できるポイントでもある。
そういうところを衒いなく取り込んで悪びれないのはやはりプロだと思うし、鑑賞者もスケルトン的に楽しい。図解というか。「アニメのできるまで」みたいな。
アニメを作るおじさんたちの「親心」「兄貴ヅラ」「若者を見守る目」。
そういったものが、何より愛おしく可愛く見える。
酔っ払っている。
映像研。
今、アニメ6話まで見たところ。
設定を作り、動画を割り、資金や環境をかき集めて、なんとか作品を形にしようとする。
で、その作品は、原作作中いくつか「その時点での最善」に過ぎないながら完成する。
しかし悲しいかな漫画作品。完成した作品を、読者は「アニメとして」鑑賞することができない。
完成したアニメを、アニメとして、そしてアニメならではの感受性表現(ex.予算審議委員会)をもって魅せてくれる。
それだけじゃない。
アニメを制作する過程の部分も、「現実ならこうだぜ」「俺らならこうするぜ」と、実際の現場の感覚をアニメの作り手自身が持ち込んで足している。
強いて言うなら、現れているのは「おじさんをナメるなよ」というプロとしての矜持だ。
映像研の3人の少女は、歓迎を以てアニメのプロのおじさんたちに受け入れられたのだ。
「実際作るならこうだろ」「この方が画としていいぜ」「あーそこで苦労するよな。わかるわかる」
粗削りで、未熟で、それでも熱意だけはある3人娘は、アニメを作るおじさんたちにとってほっておけない存在なのだ。
祝福をもって、受け入れられたのだ。
そして、アニメのプロたちに笑顔で迎えられた人がもうひとりいる。
エンディングにアニメーターとして参加したことがその証左だろう。
原作映像研は、アニメーターに憧れて挫折した大童澄瞳による、アニメ業界へのファンレター…というかラブレターだと思う。特濃の。
で、このアニメは、アニメ界からの、湯浅政明監督からの愛に溢れたアンサーだと思う。
エンディングの動画を見ると、大童澄瞳は現時点ではやっぱりアニメーターとしては並以下だと思う。
それでも、毎回必ず流れるエンディングで、メインアニメーターとしてクレジットされている。
これが、業界の先輩の愛でなくて何なのか。
原作映像研という「アニメって/アニメーターってすげえんだぜ!」というラブレターに、
「お前が思ってるよりもっとすごいぜ!」あるいは「そうまで言われちゃやるしかあんめぇ」と粋な回答を示す。
それでいて、そのラブレターに勇気づけられたことに感謝も示す。
偶然かもしれないけど、サイエンスSARU(制作会社)と映像研のロゴの重ねっぷりなんか、愛と愛の応酬でしかないでしょ。
お互い元気をもらい、お互い感謝しあって、お互い認めあって。
それが傑作に、ならないわけがない。
余談
それを於いても、特に浅草氏のイメージ段階の画は、コンテのまま見せる、動画を割らなくていい、等作り手として楽できるポイントでもある。
そういうところを衒いなく取り込んで悪びれないのはやはりプロだと思うし、鑑賞者もスケルトン的に楽しい。図解というか。「アニメのできるまで」みたいな。
アニメを作るおじさんたちの「親心」「兄貴ヅラ」「若者を見守る目」。
そういったものが、何より愛おしく可愛く見える。
俺にはひとり姉がいる。
姉は今年34歳になるのだが、無職で、親から仕送りをもらっている。
姉は1年前まで働いていた。
私大の文学部に一浪で入学。在学中、母親から「なんでもいいから資格を取れ」という言葉を無視して遊んでいた。
文学部というのは、就活で苦労する。母も文学部出身だったので心配だったのだろう、在学中に「資格を取ったら一時金をやる」と宣言。金で釣ろうとした。その言葉でやっと動いた姉は、なにを考えているのか色彩検定を受けてきた。曰く「これも資格だ」と。母は就活でプラスになる資格を取ってこい、というつもりで言ったのだと思うが、親心は何も伝わっていなかった。母は一時金を渡して、それきり資格資格と言わなくなった。
姉の就活は難航した。しかし、最後の最後で1社だけ受かった。そこそこお堅い企業の事務職。ほっとしたのも束の間、3年で辞めた。お局に虐められたらしい。母は「せっかく入ったお堅い企業なのに…」とガッカリしていたが、なんだかんだサッサと次の職場を見つけて、転々としながらも働いていた。
母はやたらと姉の進路に口出しするが、口出しせずとも姉は自分で自分の人生を歩める力を持っていた。ガンコで親の言うことは聞かないが、頭は回るし、口が立つし、仕事はできる。
何も心配することはないのだ。
そんな姉が、1年前、また仕事を辞めた。
その時はいつもと様子が違った。いつになっても、転職活動を始めないのだ。
無職中に結婚をした(!)。人の良さそうな旦那を見つけて、幸せそうにしている。
無職中にウサギを飼い出した。ウサギはすぐ死ぬ弱い生き物らしく、様子がおかしい時は深夜にタクシーを飛ばして動物病院に行く必要があるらしい。大変だ。
最近はゲームにハマっているらしく、デスストランディングの豪華版(2万円くらいする)を予約していた。
旅行も行く。ネットで知り合ったオタク友達と、脱出ゲームだコラボカフェだと、楽しそうにTwitterに写真をあげている。
俺は、姉貴は間違っていると思う。
しかし姉の遊ぶ金は、60を超えた親父がシニア枠でせっせと働いて稼いだ金なのだ。
うちは資産家なんかじゃない。父はただのサラリーマンだ。父は必死に働いていた。平日は残業のない日は無い。土日も電話一本で職場に戻る。腰を壊し、鬱になった。それでも働き続けて、早期退職を促されることもなく、今もシニアでせっせと働いている。
俺は、姉貴は間違っていると思う。
母は言う。姉の旦那はそこまで高給取りじゃない。姉の収入がないと家賃が払えないだろう、と。
なぁ母さん、それは、姉の人生なんだよ。
お堅い企業を辞めたのも、姉。
転職を繰り返したのも、姉。
働かないで、生活が苦しくなるのは、姉が選んだ道なんだよ。
そう電話で言ったが、「かわいそうだから」の一言があったのみで、母の考えを変えることは出来なかった。
最近ようやく「そういえばアンタ、休職続きだけどお金は大丈夫?」と聞いてきた(姉には辞めた月から仕送りしているのに)。
母は言う「そうね、アンタはしっかりしてるから」。
そうして数日後、セミナーがまた開かれる時がきた。
「前は話をマトモに聞いていなかったから、今日はちゃんと聞いてみようと思う」
もはや弟は本を返品するかどうかという段階ではなく、なんならサインでも書いてもらおうって勢いだ。
「それにしても、兄貴までセミナーに来るとは思わなかったよ。あんまり良く思ってなかったのに」
「まあ、目につく部分だけで決め打ちするのもどうかと思ってな。実際にちゃんと咀嚼してから批判することにした」
「批判前提かよ」
そうは言ってみたものの、自分がどう立ち回るかは決めかねたままだった。
弟が何を拠り所にして物事を考え、生きていけばいいのかなんて俺が決められることじゃない。
そう頭では理解しつつも、今の弟に対する不安感は漠然と胸に残り続けていた。
しかし、この感覚を公正に言語化できない内は、俺が弟に忠告できることはないに等しい。
この場に来ていない両親も口には出さないが、たぶん似た感じだろう。
弟に何かを言おうとして、結局は何も言わないという仕草を数回ほど見たことがある。
自分の子供が、たまたま遭遇した自己啓発にのめり込んでいるんだ。
それでも理性と親心の狭間で揺れ動き、自分の子供に下手な忠告が言えない、といったところか。
セミナーを確認しに来なかったのも、場合によっては耐えられる自信がなかったからかもしれない。
会場に来てから10分ほど経ったとき、壇上に一人の男が現れた。
「みなさん、こんにちは。はじめましての方は、はじめまして。セイコウです」
あれがあの本の筆者か。
俺のクラスメートにはタイナイっていう意識の高い奴がいるが、それの進化系みたいな物腰だ。
格好は無地の服を着ているだけでシンプルだが、色合いが強くて、しかも上下を揃えているから逆に目立つ。
「今回も様々な話をしていきたいと思いますが、その前にまず思考をクリアにするため、みんなで頭の体操をしましょう」
書いている奴が同じだから当たり前だろうに、なぜか弟はそのことが嬉しそうだ。
「目を瞑って、呼吸を整えましょう。リラックスして、精神統一」
弟含め、会場にいる人間たちは言われたとおりに実行した。
俺は気乗りしなかったが、一人だけ目を開けたままじゃ目立ってしまう。
仕方なく細目にして、こっそり周りを観察することにした。
「さあ、自分自身をイメージして、喋らせてみましょう。そして耳を傾けて」
男の言ってることは、意味が分かるようで、イマイチ分からない。
だが周りの反応を見る限り、そう思っているのは俺だけらしい。
「自分を変えるために必要なのは、まず今の自分を知ることです。そして今の自分が何を求め、何が不満なのか洗い出していきましょう」
自問自答しろって言いたいのだろうか。
「それが自分にとってどれほど負担であるかを、ひとつひとつ数値化してみましょう。それで高いと思ったのならば、それはあなた方にとって必要のないものです」
そんな調子で、男はゆったりとした口調で色々と語っていく。
「お腹が空けば食べ物が必要ですよね。その食べ物は、できれば美味しいもののほうがいいでしょう? そして美味しいものとは、あなたにとって好物でもあるはず」
だが、その内実はシンプルだ。
それ自体、あるいはそれを記念したゲーム内キャンペーン、またはプレイヤー達の宣伝の効果なのか
最近新たにメギドを知ったり触れてみようとする方も増えているように感じる。
それそのものは良いことだと思うのだが、それに伴って『一部の』非新規プレイヤー達の言動がとても気になるようになった。
具体的にどのような点を問題視するかを書いておきたい。
もしこれを読んでいるあなたが非新規プレイヤーならば、できることなら読んでちょっと考えて欲しいと思う。
ただしこれはあくまでこちらの考えであり、正論を主張しているというつもりではないことは承知いただきたい。
(もしかしたらそもそもあなたとはまったく関係ないかもしれない、その場合は申し訳ない)
もしあなたが新規プレイヤー、あるいはメギドに興味を持っている人間なのであれば、そこまで身構えなくていい。
別にそんな激しいことは書いていないつもりだ。
確かに児童虐待の描写について真摯な姿勢は見受けられると思うが、
このゲームは心理的な面でも社会的な面でも丁寧に描写されている部分は他にも沢山ある。
法や制度の仕組みや人々の動きなど、ミクロでもマクロでも社会がちゃんと存在しているなあと思わされる点は多い。
にも拘わらず、児童虐待というその中のたった一つでしかない要素をわざわざあげつらって
『72』を付けてあたかもこのゲームの代表要素のように表現するのはいかがなものだろうか。
このゲームはそういうんじゃないよ。
そりゃ既プレイヤーからすれば単なるネタなのかもしれないが、外野はそうと分からないこともあると把握して貰いたい。
ゲームを勧めた時に「えっ、あの児童虐待のゲーム…?」と引かれる人間の身にもなって欲しい。
事実として一部の未プレイヤーからはそのように受け止められているのを知っておいてくれ。はっきり言って迷惑である。
2.ガチャのおススメについて
現在受賞記念キャンペーンとして、全てのガチャメギドをランダムで召喚することができるチケットが提供されている。
それを目的として新規に始めた人々から当然上がってくるのが「どのキャラを引けばいいの?」という声。
あろうことかこれに対して「Rバルバトス」と答える人がいる。
ラッシュのバルバトスを軸としたいわゆる『テンプレ協奏パ』は確かに凄まじい強さではあるが、問題が三つある。
まず一つ、必要パーツが多すぎる。
協奏という名の通り、楽器ができるメギドが複数集まらないことにはお話にならないのだ。
しかも残念なことに、そのパーツは全員がガチャでしか手に入れることができないメギド。
ガチャに湯水のように金をつぎ込める人間か、豪運で引きの強い人間か、引けるまで気長に待てる人間でしか『テンプレ協奏パ』は組めないのだ。
いずれにしてもまだハマるかどうかも分からない新規に勧めるようなものではない。
ちなみに『テンプレ協奏パ』に拘らないのなら協奏に組み込めるメギドは一応他にもいる。
中には配布メギドもいたが、既に現時点での新規は3人逃していることになる。
それらの再配布がいつになるかは分からないが、いずれも最近のイベントなのでかなり先になることは覚悟すべきだ。
こんな状況下でどうしてRバルバトスを優先して取らせようと思うのか?彼は協奏以外にほぼ使い道がないというのに。
次に二つ、Rバルバトスは育成が難しい。
進化させるのに必要な素材はゲーム後半に入手するものも多く、強化したければかなりゲームを進めなければならない。
一つ目の理由と合わせて、要するにRバルバトスは基本的に序盤はあまり役に立たないメギドなのだ。
強い強いと期待を持たせて実際はそれとなったら新規もうんざりじゃないのか?
ただでさえ序盤はメギドが少ないのに、そのうちの一つが置物になるのは痛いのではないだろうか。いくらプラスアルファでも。
チケット対象は99人、そのうちの1人を引けという時点で正気の沙汰とは思えない。
確かに現時点で通常の指名チケットでは選べないキャラの一人なので、折角の機会だから是非と思う親心?があるかもしれないが
決して使いやすくないキャラをそんなに苦労して取らせる意味があるとは自分は思わない。
偶然引けたならありがたくとっておけばいいが、あえて狙うとなれば話は別だ。
本気でリセマラをするならばwikiを参考にした方がよほどいいと思う。
メギド72の魅力を語るにあたり、他ゲームを引き合いに出す人がいる。
それだけなら必ずしも悪い行動ではないが、他ゲームをあえてsageるような表現をする場合は流石にどうかと思う。
人気のあるゲームと言うものは程度の差や種類の違いこそあれ、いずれも何か面白がらせる点やユニークな部分を持っているのに
さもメギド72ばかりが洗練されたゲームであるかのように吹聴する人がごく稀にいるのだ。
確かにこのゲームは面白いと思うが、だからと言って他のゲームが陳腐で戦略性が無いかのように表現するのは盲目的だと思う。
また、逆に他ゲームのキャラとの類似性を示すことで引き込もうとしている人も見かける。
他ゲームで〇〇というキャラが引けなかったという人に対し、「メギドにはそれと似た××ってキャラがいるよ」といった具合だ。
その人は〇〇が欲しいのであって類似品ではないと思うのだがどうだろうか。
そんなやり方でに首を突っ込むのはやめておいた方がいいと思う。もしそれが自分なら「メギド信者うっざ!」としかならない。
これは女性向けの話になるかもしれないが、一部女性ユーザーの下品なツイートが目に付く。
このゲームの評価点として「女性メギドの露出が少ない」というものがあるが(個人的にはそうか…?と思うが)
それを称賛したのと同じ口で「男キャラの鼠径部がエロい」だの「男キャラの胸がエロい」だのと
伏せも隠しもしないで堂々と騒いでみせるのは正直引く。何言ってんだと思う。
そういうのに釣られる人もいるだろうし全面否定するつもりはないが、もう少し慎ましやかにやることはできないんだろうか。
かと言って男性ユーザーがお上品かと聞かれれば残念ながらそうではなく
ロリだの胸だの〇りたいだの抜けるだのと言うのは日常茶飯事であり
決してこれだから女プレイヤーはとバカにできる状況下にはないにも拘わらず
上記のような有様を見て「これだから女は」「腐女子は出ていけ」と平然と言ってのけるのには辟易する。
お前ら同レベルだぞ。
別にそういう楽しみ方を非難するわけでもないし、それを楽しみにして始める人のことも否定しない。
ただ公共の場で発言するにあたって多少考えて頂きたいと思う。twitterは君のプライベートルームじゃないぞ。せめて鍵かけような。
以上、ご清聴ありがとうございました
先日「二度と我が家の敷居を跨ぐな」とこちらに言い放った母から葉書が届いた。
(子のないおまえにはわからないだろうが)子を思う親心はいつも変わらないもの。
いつでもつきそう。
どうしてこの人はいつも都合よく事実をねじ曲げるのだろう。サイコホラーを見ているようだ。
母の絶縁宣言は先日出張明けの寝不足で母が出した料理を残したことがきっかけだった。
「申し訳ないが寝不足と疲れで食事が入らない」と告げると不摂生を責め立てる勢いで病院へいけとくどくど言う。
母は大の病院嫌いで、昔から自分の身体の不調をしきりにこぼして周りを心配させるが治そうとしない。そして明日にも息を引き取るような話をする。
しかし元来丈夫な質なので、少なくとも我が子よりずっと活発に生きているため、こちらの不調には甚だ鈍感で堪え性がない。
よって我が子の不調は自業自得と考えており、何度言ってもまともな暮らしをせず医者へいかない不摂生者にするような、具にもつかないアドバイスをしたがる。
母が本当にいいたいことは「おまえの不調について聞きたくない」だ。
いわく「ちゃんと食べてよく寝なさい」。
それができれば苦労はない。
この日は食事がはじまるまでにも「手を洗ったのか」と3度も聞かれ、苛立ったこともあり「病院へいけというのをやめてほしい。最近胃のバリウム検査を受けたばかりだし、日頃から病院へはいっている」と強めに苦情をのべた。
すると「どうしてこの程度のことでそこまで怒りを顕にするのか」と逆ギレしはじめ、「体調を壊したら誰が困ると思っているのか。そこまで言うなら倒れてもこちらには一切頼らないでくれ」と激昂した。
そこで「これまでこちらが身体を壊したとき、一度でも病院へ連れて行ってくれたことがあったか」と返した。自分は何度か行政の支援を考えるレベルで身体を壊して働けなくなったことがあったが、母は一度たりとも手を貸してくれたことはなかった。
料理が趣味の母が我が子を気まぐれに呼びつけては食事に招き、こちらの都合を聞かず一方的に惣菜を届けにくるようになったのは、こちらが再び職に就ける程度の健康を回復してからのことだ。
こちらの義務教育期間中に離婚した母は早々に子育てからリタイアしたはずなのに、なぜかいまではこちらが成人してからもずっと子育てを続けてきたような顔をする。
母は質問に答えず、これまでどれだけのことをしてやったかとますます怒りたった。
母はこちらの届け出関連の書類に無断で手をいれて父を騙し、三桁の額を引き出したこともあった。
後年気づいて愕然としたが、今回それを初めて指摘すると後妻の仕業だと大声をあげたので心底辟易とした。
飛行機の距離にいる後妻がなんの目的で先妻の子の届け出を書き換えるのか。
これまでどれほど母はこうして都合よく過去を作り変え、話を捻じ曲げてこちらを責め立ててきただろう。
またこちらの身体が母より大きくなるまで、どれほど手をあげられてきたことか。
こうして母の家をあとにして一週間、本日届いた葉書によって、母の中では頑迷で聞く耳を持たない我が子に情けをかける健気な母親という物語が作られていることがわかった。
「病院へいけというのを止めてくれ」と言われた翌週、切手を貼ってまでそれを繰り返し、謝らない母。
指先が触れているだけでおぞましく思えて、葉書はそのまま立ち寄ったコンビニのゴミ箱に捨てた。
母が父との家庭から去った後、母のもとから何通も何通も書き送られてきた手紙に幼い自分は何度も涙したものだったが、後年読み返すとそれは第二の人生への期待と甘い悲しみに酔った中年女が体裁よく整えた都合のいい注文依頼書だった。
あれを真に受け「母に変わって家事を引き受け、父と家族の面倒を見なければ」と奮起し、挫折し、母に振るわれていた父からの暴力を一身に受けてなお「親を助ける気がない身勝手な子」として責め立てられた子供のことを思う。
来月は仕事ついでに母を旅行に連れて行くはずだった。母のための宿もチケットもすでに取ってあった。今月は母に蛍を見せにいくはずだった。
母にしてやりたいことが沢山あった。母は自分の威信か何かで子を動かしているとでも思っていたようだけれど、そこには親を思う子の気持ちしかなかった。
誰に言っていいかもわからないし、言っても困らせてしまうだろうし、それでもどこかに吐き出したかったので書いていく。
ここ一年くらいでもう生きていたくないという気持ちが強くなっている。
でももし自分が死んだら、のシミュレーションをしてみるとどうやっても誰かしらに迷惑をかけてしまうのを避けられなさそうで、最後にはいつも無理だという結論に落ち着いていた。
日々そんな事を考えながら生活していたが、先日親との会話の中で、病気になった際の介護や看病、延命行為についての各々の意向に話題が及んだ。
そしてそこで気付いた事があった。
以前から私は「もし万が一私が(原因が何であれ)親よりも早く死んだら、葬式は出さないで欲しい」と遺書を書いておくつもりで居たが、多分この意向は叶いそうにない。
親の性格や親心を考えるにきちんと子供を送り出してあげたい、と思うであろうし、親族も例えそれが自殺の末の死であったとしてもちゃんとしたお別れをしたい、と思ってくれるだろうと予想ができるからだ。
そして本人が遺書に葬式は出さないで!と書いたとしてもそこに法的な効力はないらしいので、結局は遺族の意向次第になるっぽい。
葬式は故人の為というよりも、遺される人間の気持ちを昇華する為の機会という側面が強いと思う。
私としては私の事など捨ておいて欲しい、いっそ存在を忘れて欲しいと思っているが、家族や親族の心残り・心の負担にはなりたくないので、まず何よりも先に葬式代を用意することにした。
どうせ死んでからも迷惑をかけるのならせめて自分の葬式代を稼いでからにしなければ…。
ただ、今まで正直葬式なんてしてもらう気が更々なかったので、ごく一般的な葬式でかかる費用についての知識がなかった。
調べた相場では大体100万円程度もあれば充分そうだが、貯金額は予算に遠く及ばない。
自分の収入などの諸々から考えるに、最低でも3~4年はかかりそうだ。
現在の精神状態でそこまで我慢できるのか?という感じではある。
でも私に遺せるお金なんてほぼないのだから、死後の親の収支がマイナスにならないようにしたい。
こんな感じで自死について真剣に考え始めたら当面死ぬ訳にはいかなくなった。
よかったのか悪かったのかわからない。
こんな教師の言葉が心に刺さるとかなんとかネットに上がってますが頭おかしいんじゃないでしょうか?何処からどう見てもクソ教師ですし、自分の命を最後
まで大事にできない人間に教育なんかできないしその狭窄した思いにつきあわされる生徒の多くもPTSDを発症するレベルの虐待ドラマだよあれ。そもそも自分が
「公共放送(NHK)が真っ昼間から神の教えに反する同性愛を肯定的に取り上げる番組を流すことは、我々の教義を公然と侮辱する信仰への迫害だ、少なくとも子供が悪魔の誘惑に晒されぬようにゾーニングせよ」
と文句を言いだしたら、どうするんだろうね?
「公共の場にオタク向け萌えエロセクシズムステロタイプ表現が露出することは、集団としての女性の権利侵害なので自粛せよ、少なくとも子供が見ないようにゾーニングせよ」
という主張と同じなので、フェミの主張でキズナアイ(あの衣装のまま女性のステロタイプを演じる)のNHK出演が自粛に追い込まれるなら、宗教原理主義者の主張にもNHKは屈するしかないと思うんだけど。
これは別に非現実的な思考実験じゃないんだよね。既に欧米ではあちこちで起きてる問題だし。学校教育で進化論を教えるべきではない創造論も教えるべきとかね。
日本でも徐々に外国人ムスリムの長期在住者が増えていて、インドネシアやマレーシアからの観光客もしばらくは増え続けるでしょう。
その中のほんの一部ではあっても、「日本では書店もテレビも公共の場に信仰へのあからさまな攻撃で溢れているので、マイノリティである我々はとても生き辛い」と言い出す日はそう遠く無いと思うんだ。
そういう敬虔な信徒の彼らにとっては切実な抗議にどう応答する? 心底嫌そうな顔でゲイを「気持ち悪い……」と指差す我が子の傷つきやすい幼い心を守りたい親心に日本社会はどう向き合うべきか?
「日本には表現の自由って物があるんだから、お前らカルトの定量化できない被害の主張(=お気持ち)に耳を傾ける義務はこちらには無いんだよ! このホモフォビアどもめ!」で書店やテレビ局は突っぱねるべき?
だったら「お前らフェミの定量化できない被害の主張(=お気持ち)に耳を傾ける義務はこちらには無いんだよ! この退廃芸術を禁止したナチの末裔のファシストどもめ!」と突っぱね続けないとね!
最大限気持ちの悪い言い方をすると「女はあるがままで資源である」ということの反映だよね
子供を産み育てる能力を高い確率で備えているというのは、ただそれだけで一定の価値があると考えられていた
そして資源は親が管理するものであり、勝手に足が生えて(変な知恵をつけて)どっか行ってしまっては困るというのが旧来の価値観だった
またそれはとりもなおさず、男はただ在るだけでは何の価値がないということの裏返しでもある
結局、女が経済的に男に依存する文化が少しでも残っていて、そして「女はいざとなれば男を頼ればいいけど、その逆はない」限り、親心としては男に学歴をつける方が優先されるのは致し方ない部分もある
元々この問題は、文部科学省の逮捕された佐野局長が便宜を図る見返りに、自分の息子を東京医大に合格させた問題の内部調査で副次的に明らかになったこと。
この二つは全く関係ないような事柄に思えるかもしれないが、「男性に対する期待と重圧」というテーマで考えてみると、表裏一体になっているのだと気が付いた。
逮捕された佐野局長の息子は、元々東京医科大の試験に落ちて留年している。そして2年目の試験時に加点してもらって、東京医大に入学することが出来た。
息子はおそらく学力がそんなに高い人間ではなかったので、加点という下駄を履かせてもらってようやく合格できた。
しかし、これが息子ではなく娘だったら、逮捕された佐野局長も東京医科大に便宜を図らなかったのではないだろうか。
息子だからこそ、世間に良い目で見られる東京医科大の学歴を持たせてやりたいという親心だから佐野局長はあのような不祥事を起こしたわけであり、これは男性には社会的強者としての期待や重圧が掛けられていることと同義である。
逆に女には、そのような期待や重圧は男ほどには掛けられていない。
だからこそ、女子受験者の点数を一律に減点することが横行していたわけである。