はてなキーワード: 自発的とは
「対話して思索を共に深めるのに適した人材は他にいくらでもいるのでわざわざお前を相手にする理由が私にはありません」に対して「俺と対話しないとはなんて不親切な態度だ!」「何を言ったかが重要なのだからあいつの話も聴くべきだ」とか言われてもそれ自体が的外れなのでやっぱり相手にしたくない。
あと、そういうこと言うやつは大体「話せばわかる」「根気強く対話を繰り返すのが大事」「実際に顔を合わせればうまくいく」を併用する。それ「根をあげて俺を受け入れるまで執拗にあらゆる手段を使って徹底的にお前のコストを奪い続けてやる」ってことでしょ。
オンライン上では「話し合って分かり合いましょう」というスタンスは現実ほど効果的ではないんだわ。だって話し合わないと分かりあえないような人間より、いちいち話し合わなくても、自発的に色々調べて理解を深めてくれる人間の方が「コミュニケーションコストが低い」からね
少しずれてる。
哲学的ゾンビを理解するためには、酔っ払って記憶を無くした人について考えてみるのが一番わかりやすい。
酔っ払って記憶を無くした人は、別に何かができなくなるわけじゃない。
他の人と会話できるし、もちろん歩けるし、悲しい話を聞けば泣く。記憶を失う前と全く変わらない行動ができる。外から見ても違いは分からない。
ただ、本人に意識はない。
会話中の相手の顔も目には入っているし、脳でも理解している。ただ"意識"してはいない。
話を聴いて、理解して、「つらい話やなぁ……」と泣きながら応えることができても、悲しいという"感覚"を感じてはいない。
この「お酒を飲んで記憶を無くしている状態」がずっと続いているのが哲学的ゾンビ。
だから、
というのは間違っているし(自発的な意志を持たないのではなく、ただ意識がないだけ)
ピンク髪の「いっそ死にたい~、っていうか消えたい」というコトバ(=入力)を
というのも少しずれていて、「別にキャラメルをあげるつもりがなかった」わけじゃあない。
「キャラメル2つ貰ったし1個を使って誰かを騙そっと♪あ、前から話してみたかったあの子をこのキャラメルでからかっちゃおうかな?」
オチについてはブコメを見てくれ。 http://b.hatena.ne.jp/entry/omocoro.jp/kiji/64616/
「下校時刻の哲学的ゾンビ」というマンガが話題になってるのを知って
はじめは「構成とかよく考えられてて面白い」と思ってたんだけど
最近、ある疑問を持つようになった(知らない人はこちら→http://omocoro.jp/kiji/64616/)。
補修プリントやっているピンク髪に、メガネが話しかけてるんだけど
自発的な意思をもたない哲学的ゾンビが、他人にキャラメルあげようとか思うのかなと。
哲学的ゾンビなら、授業終わったらさっさと家に帰るんじゃないの?
ピンク髪の「いっそ死にたい~、っていうか消えたい」というコトバ(=入力)を
たまたま耳にして「話しかける」という行動(=反応)を出力してしまい
話の行きがかり上、ゾンビ化キャラメルをあげることになったということなのか。
あと、終わり近くのコマで、ゾンビ化したピンク髪とメガネが友達っぽくなってるけど
階層型:
横断的:
・利害が対立するメンバーの折り合いをつける
昨日のタマフル聞いたが、アニオタはなぜリベラルでないとみなされるのか、根本的な問題がなんとなくわかった。
自発的連帯ってリア充なんだよな。それは無理だから受動的連帯というか、国民である、などのあらかじめ与えられた属性で薄く連帯する。(と見なされている)。一部のリベラルにあるキモオタヘイト、根が深いとおもうし、それがあるかぎり現行のムーブに積極的参入はできないよなあ。
一方、はてなに代表されるヲタは、連帯などせず孤独に机の上で正しいことをあーでもないこーでもないと言う人種だ。こちらはこちらで、軽々しく連帯してシールズのように薄っぺらい活動をすることを見下す傾向がある。
いけてねえキモオタみてえなネトウヨと、リア充的なものを取り入れて拡大しようとするリベラルは、思想どうこうではないレベルで殺しあう運命にある。
だから、オタクがリベラルやフェミニストを憎むとき、あるいはフェミニストやリベラルがオタクを攻撃するとき、それぞれ彼らがあげる理由はいずれもでっち上げである。とくにオタクがフェミニズムを攻撃するときの主張はただのバカである。本気でその理由だと思ってる奴などいない。 どちらも相手をリア充とか非モテとかそういうもっと人間くさい部分で嫌っているのであって、それ以外の理由はすべてごまかしであり耳を傾ける必要は全く無い。それ以外の理由についていくら真摯に回答しようともすべて無駄である。
二人の男がPCを前にして、話していた。
一人はねずみ男みたいな顔をしていた。もう一人はよくわからない顔だ。
「こんなにも簡単に統制ができるものなんですね。」
「そうだ。小説家になれるというあってないような希望を見せることで、こんなにも簡単に投稿内容をまともにできるんだ。」
「これで、取引所の鐘も鳴らせそうです」
「まあな」
ろくでもないことだった。
投稿される内容は無理やりポジティブにしたものだった。すべて似通っていた。
小説というのは、登場人物になんらかの特技が備わっていないと成り立たない。
特技の内容というのは大抵おなじになるものだ。顔がいい、何かができる、会話ができる。
しかし、特技がないと物語は進まない、そして似る。いや、おなじになる。
容姿が悪い男女が何かなせるかと言ったら、嗚咽と愚痴くらいであるから、話はおなじになるのだ。
小説を人々に自発的に書かせることは、特技がある人間の話を沢山創りださせるということだ。
しかも、書かせる方はよく出来ていてそれを読みたい人間に売りつける。
「やっぱり、容姿が良くないとなにも出来ないんだ」
「それもそうだ 金を払わなきゃ、ニキビ液がおとなになっても染み出て来る僕達がセックスなんて出来ないしな」
ネットは既に現実だ。特技がある、特に性的魅力に困らない容姿のいい人間が第一とされる世界はインターネットで強化され、それは現実をより息苦しくさせる。
どんどん容姿のいい人間が主人公のポジティブにな物語が、容姿のいい人間の価値を上げている。
「どうすればいいんだろうな スマホ見ても、小説読んでも容姿のいい人間しか活躍できないや」
「生きるしかないよ」
「生きてれば姿が変わる。。。。はずがないか」
しつけの方法などをテレビや本、ネットなどで調べると、みんながみんな「褒めて育てましょう」と言う。
しつけとはそういうもんだと思っていた。
が、どうやら違うらしい。最近の傾向なのか、昔からこれが王道なのにウチの親が違っていたのか、そのあたりはよく分からない。
子供が言うことを聞かないとき、癇癪を起こしたとき、俺は思わず怒鳴りそうになるが、ぐっと我慢する。
なぜならウチの奥さんがじっと子供の目を見つめて、今やるべきことの説明をしたり、子供が怒っている理由を聞き出したりしているからだ。
子供がやるべきことを理解したり、癇癪が収まると、奥さんはぎゅっと子供を抱きしめて褒める。
凄いな、と思う。ウチの奥さんは凄いよ。尊敬する。
けれど、結局、子供が喚くときに、なるべく子供の心を傷つけないように
わかってもらうようにするには、どういう風にしたらいいの???
俺が思っていたしつけとは叱ることだったが、子供に言うことを聞かせる方法はひとつではないことに気がついた。
ウチの奥さんはいい意味で手練手管に長けている。子供が喚くと、他の楽しいことをしようと持ちかけたり、ちょっとしたモノでつったり、時には泣き落としたりして状況を打破する。程度の見極め、引き出しの多さ、選択、タイミング。あらゆる要素を駆使するのは仕事や恋愛と一緒だ。そして子供が言うとおりに動いたら、必ず褒める。しかも、極力ああしろこうしろとは言わない。
自分だって怒られて嫌々やるよりは、褒められようと前向きにやるほうがいいに決まっている。まして小さい子供なら尚更だ。
怒るのはとても簡単だ。自分の感情を吐き出せてすっきりする。しかも、相手が子供だと反撃もされない。子供がどんなに怒っていても、大人の怒りはそれを簡単にはねのけ、打ち負かすだけの力がある。子供は親の言うことに従わざるを得ない。
けれども、それは子育ての目的に沿った行動なのだろうか、と自問するようになった。
目的とはなにか。子供に社会のルールを学ばせ、自発的に行動できるよう手助けし、自立した個を育てあげることだと思う。
こういう考えに至り、俺は褒めて育てるに対する違和感を払拭できたのかな、と思う。
ただ、こういう子育てに関する基本的な事はたいていみんな理解していると思うんだ。
けれど、親だって人間だから、イライラすることもあるし、気分の優れないときだってある。
もちろん、美人が持つ性的魅力はグロメン男である自分はマイナスなので、性的闘争に勝利した状況を味わったわけではない。
ただ、そこにいる人たちよりも自分の方が立場が上の場所に行ったのだ。
それは父親の会社だった。
夏休み、父親の会社のある一つの事業所でアルバイトをしたのだった。そこは30人以上の社員、従業員がいる。
そこで、よくしてもらったのだった。
皆、自分の話を聞いてくれた。
だけども、ここでは話を聞いてくれたのだ。
それは当たり前である。自分には雇用主がバックにいるのだ。しかも血のつながりもある。
もし、何かしたら、雇用主パワーで25日に給料が振り込まれなくなるかもしれない。
そういう恐怖で優しくしてくれたのだった。
美人を疑似体験したが、美人が経験する優しさとはこれでもだいぶ違うことが分かる。
美人への優しさというのは恐怖からではなく、性的魅力からくるものである。自発的なのだ。
じゃあ、お前は優しく頑張れよという輩がいると思うがそれは違う。
これではあくまでも聖人君子であって、美人とは扱いが違う。ただ相手に都合のいい存在なだけで、自分は消耗するし結局辛いままだ。
強制的に優しくしてくれていたのは、一部の社員からは自分はゾンザイに扱われたことからわかる。
一部の社員というのはイケメン社員だった。自分に自信があるのだろう。女性社員は大抵、彼に笑顔だ。
結局、雇用主のバックからの強制的な優しさでは自分は苦しくなるだけだった。
近くの大学の容姿のいいもの同士のカップルのような性的魅力での愛し合いはなかった。
追い出し部屋の話題になる度に、「悪く言うけど必要だから」みたいなこという人いるんだけど、そうじゃないんだよね。
一定以上の規模の会社になると、雇用イコール地域社会への貢献、みたいな人を雇うことそのものがエライみたいなことになる。
そうすると、当たり前なんだけど、少数の有能が、多数の無能を働かせる職場になる。
馬鹿でもできるように仕事を分解して機械的な作業に落とし込んで、作業をさせる。
無能な働き者が一番困るって言うけど、無能な怠け者が大多数で、その無能な怠け者を使って組織が回せてナンボ。
そもそも、筆者は、終身雇用がちゃんと維持されている組織で、“追い出し部屋”的な要素がまったく存在しない組織はありえないと思っています。どんな組織であれ、雇用調整の要は必ず生じます。であれば、人を解雇できない以上、追い込んで自発的に辞めさせるための仕組みが必ず必要だからです。
たぶん、この人も経営層と同じ目線で仕事してるんだろうなと思う。
有能な働き者しか居ない企業って、地域社会への雇用貢献を一切してない、言わば資本主義社会の上澄みだけ使う社会への寄生企業だよね。
つまり、追い出し部屋が必要だって叫ぶコンサルは、たぶん、人を雇うことが企業の社会的な責任だって認識がない。
もちろん無能な怠け者とか馬鹿とか言ったけど、それは仕事の上のことだから、人格とは別だよ?
だからこそ、働きたくないでゴザル頭も使いたくないでゴザルって人達が、仕事は仕事として、酷いことにならないように法律の縛りがあるわけだし。
だから、追い出し部屋とか作っちゃ駄目だし、必要だからってうそぶくコンサルは無能で、社会の敵みたいな会社になっちゃうから聞いちゃダメよ。
hitodie いつも分からんのだが、解雇できなくても降格させて新卒並みの給料にすれば辞めてくれるし辞めなくても大したコストにならんだろうと思うが、降格も法律で縛られてるの??
労組の専従でもボンヤリしてると知らないので無理も無いんだけど、縛られてるよ。
正確に言うと、降格は別にすりゃいいんだけど、給与はガッツリ減らせない。
雇用者が一方的に給料の切り下げをするのは、法的にNG。(高裁の判例が出てる)
10%っていうのは、なんかやらかした社員を罰するために減給する幅が法律で決まってて、日給の半分&月給10%超えはダメ。
制裁でも10%なんだから、普通の理由で10%越えるときには社員の理解が必要だろうって事。
管理職なんかは別になるんだけど、面倒なので不祥事の時も減給じゃなくて自主返上ってなってるはずよ。
(さっきの高裁の判例って、給料下げないと会社潰れる!みたいな時の話なので、普通に下げるとかまず無理だね)
よく大手企業が超絶な赤字決算でも社員のボーナスがカットされないとかって話題になるけど、上記のが理由ね。
ボーナスも含めて生活賃金扱いになるので、それも含めて10%超え給与削減は裁判沙汰になったら負けるから。
日本企業の賃金カーブが緩やかであんまり上がらないのは、下げられないようにしっかり縛られてるから。
もちろん功罪あるんだけど、そうじゃない給与体系も組めるし、法律的な枠組みも有る。
その上で正社員でちゃんと給料払うから来てねって言っといて、一方的に給与下げたり追い出し部屋に追い込んだりするのは、経営者が無能な以上に無責任だと思うな。
小学校教諭の佐野先生が、教員免許を偽造して就職したことがばれてしまったとします。たまたまそれがバレてちょっと問題になって、そのうち他にも学歴詐称など何件も嘘をついていた事実が見つかって関係者の知ることになり、関係者(ベルギー人)から批判が始まったとします。そのうちそれがネットに取り上げられ社会全体に広まって、某匿名サイトで批判や誹謗中傷を言われてる状況を想像してください。そこにさらに拍車をかけてテレビまで彼への批判に加担している状況、この関係者(ベルギー人)やネット・テレビの対応は今回の五輪ロゴ問題と同じです。増田(この元記事を書いたあなたのこと)のやるべきことは行き過ぎた誹謗中傷を止めること、なぜカンニングが起きたのかの検証、そして再発防止のための対策を考える、その他いろいろありますよね。それなのに、勝手に画像等を盗用された被害者に同情することなく、自らのゆるい著作権意識を自戒することなく、イジメだリンチだとブーブー文句を言うあなたや業界人っておかしくないですか?
私の意見はこうです。本来なら画像盗用などの検証は業界の人間が、業界の健全化・正常化を願って自発的にするべきであり、結局それをしない苛立ちからネットの検証が盛り上がったのだと思います。分りやすく言えば、仮に日本の何処かで殺人事件が起きて、警察が捜査をしなければ、地域住民が自警団を作りますよ。そして勝手に犯人と思しき人を見つけて、私刑にすると思います。良くないことですが、本来責任を果たさない立場の人たちが何もしないことが、そもそも原因だと思います。
学校で教える科目に三角関数が必要なのか、簿記は、プログラムは、ダンスは義務教育に追加すべきか。そういうエントリーが目端に映る今日このごろ。確かに今の学校教育には何かが不足しているような気がしないでもないし、過剰な教育によってあらゆる部分が中途半端になっているような気もする。
そう考えているとふと気づいた。そもそも「勉強のやり方を教える」という授業が不足しているのではないだろうか。
習ったことを忘れないようにするためには忘却曲線の知識が必要だ。学校側でも復習はさせているがそれだけでは時間が足らない。生徒たちの自発的な学習は必要不可欠だ。そうでないなら皆テストで100点を取っているはずだが小学校ですらケアレス以外の理由で酷い点を取る生徒がいる。彼らに予習や復習をさせる必要がある。だけど彼らはやらない。何故か、その重要性に気づいていないからだ。
予習複数の重要性を教えるのに「頑張りなさい」だけでは絶対に説得しきれない。そんなのは教える力のない教師の泣き言にしか聞こえないだろう。だがここで生徒と教師が脳科学の知識を共有したらどうなるだろうか?学校から帰ってきて10分勉強するだけで将来の勉強や居残りの時間が何時間も減少すると知ったら。確かにそこまでやっても勉強しない生徒はいるだろう。だが脳科学の知識を身に付けることで正しい学習方法に目覚める生徒も少なからずいるはずだ。
また長期的な学習スケジュールを立てることの有用性も教えるべきだろう。期日までに勉強が必要な量の概算を出す、それをカレンダーに振り分ける、学習の進行具合を記録して軌道修正をする、学習してきた記録を見て学習した事自体を誇らしく感じる。大学受験を終える頃には大部分の学生は自分でコレが出来るようになるのかもしれない。だがこれはもっと早いうちに身につけた方がいい技能、知識だ。大人になっても身につけていないなんて事になったらそりゃもう大変だ。これも隔週や月に1度でいいから生徒に方法論と有用性を教えて、それが身についているか確認をすべきだ。小学生にはまだ早いかもしれないが、高校受験を見据えた中学生には絶対に教えるべきだ。
既に学校では個々の教師が自主的にそういう話をしているという反論もあるだろう。だが、それはあくまで学校教育全体の管理から離れた教師側の自発的な活動でしかない。そういう授業をする時間を儲けるべきなのだ。くだらない総合的学習の時間とやらでも削れば教える時間は出来るはずだ。むしろ総合的な学習として「勉強・学習・努力・生活の仕方の基礎」を教えるカリキュラムを組むべきなのではないだろうか?学校が本来教えるべき物は学ぶという姿勢そのものなのではないだろうかと私は思う。学ぶという姿勢を身に付けるためには学び方を知ることは非常に重要なはずだ。
私の住んでる賃貸マンション前の道路に前々からバイクが停められていたので通報した。
歩行者一人と車が1台通るのがやっとの道路にバイクが停められると歩行者は歩けなくなる。
管理会社が敷地内はバイク禁止と再三通告したから道路に路駐している。
今バイクを見たら警告というタグが付けられていた。すぐに駐禁切られるのんじゃないのね。
それはさておき、私はタバコが嫌いだ。窓を開けていると隣の住人がベランダに出てくるのが分かる。
タバコを吸う合図だ。即効で窓を締める。10分後に窓を開ける。
朝の6時から夜中の3時ぐらいまで。隣のやつ寝る時間短すぎるだろ。
こっちが隣の窓の開閉に気づくんだから、隣もこっちの窓の開閉に気づいてるだろう。
こちらがタバコが嫌いということぐらい類推できると思うのだがどうなんだろうか。
既に何十回、何百回と窓の開閉を繰り返してるわけだし。
隣の住人には、こちらの事情を察して自発的にベランダで吸うのをやめて欲しかったが、
言えない事情があった。
まず、ベランダでタバコを吸うのはマンションの規則に違反しているわけではない。
法的にも微妙だ。マンションの管理会社を通して相談ができたかもしれないが、
相手に非があるわけじゃないし、拒否られたらそれで終わり。
相手が察しているもののタバコをやめないという状態だった場合、
そこで最終手段を使ったら真っ先に疑われるのは私なので相談はしないことにした。
嫌がらせされたくないしね。まあ、察してやめてくれてたらwin-winだったのにと思う。
閑話休題終了
バイクについては見つけ次第通報することに決めたが、切符を切られた時、
バイクの持ち主はどう出るだろうか。処分?遠いところに路駐?駐車場借りる?
乞うご期待!
memorabilia 「男は女をエスコートしなければならない」って固定観念から自由になってくれないかな。
女性の方が男性よりずっと美味しいものを知ってるし、いい雰囲気になれる店も知ってる。
変なプライド捨てて女に任せてよ。
リンク2015/09/01 Add Starqwertonquick_pasthisamura75migrant777flyinggardenharisenbon_fukurahagitsuki-rsgambolgambolyamamototakehisayamamototakehisaOKU_s62marumusu10
これ単体なら反対する理由はないし
「女性の方が男性よりずっと美味しいものを知ってるし、いい雰囲気になれる店も知ってる。」
ってのもきっとその通りだと思うよ。
けどさあ
変なプライド
これを男に押し付けてプレッシャーかけてきたのは女じゃないの?元々。
バブル期以降もずっとそういう雰囲気やプレッシャー漂わせてたじゃん。
女さんサイドからもメディアからも「もうそういうのやめます」っていう終結宣言を見た記憶ない。
なのに
変なプライド
って言われるとすごく不条理感がある。
なんかこういうのいっぱい無い?
男に押し付けられてた対女性場面での役割とか規範や高めの要求が
「そういうのやめましょう」という終結宣言もなく
勝手にやめにしてて散発的に「そんなの求めてないのに」とかさあ。
それどころか「男が自発的に始めた変な拘り」みたいに歴史修正までされてんの。
俺はギリ30代前半なんだけど
女さんサイドは不合理なほど(そこまでされてエスコートされる方の便益はコストに見合うの?っていう)高値の札を出してたよ。
それを見て結構な数の男が怯えて自信を失って付き合ったりするの諦めたのに。
後から「そんな高度なエスコートは求めてない」「高い値札はつけてない」みたいに言われてもすごくイライラする。
今更そんなこと言われてももう手遅れだよ。
「適正価格~お買い得のラインナップなのに買おうとしない草食系」みたいないじりもあったけど
それで俺達より下の世代の男女はナチュラルに不況世代でもとよりバブル残滓の呪いも受けてなくて
・
ネットで他者に対して「なぜこうしてくれなかったのか」みたいなことを書いてる人に対する定番の煽り(最近はあまり使われてない気もしないでもないが)として
「**はお前の母親じゃないんだ、そんなふうにお前を全肯定してくれるのなんて母親だけだ」
っていうのがあるじゃない。
何が言いたいかはネタ元の理論を含めてよくわかる(すくなくとも、わかるつもり)。
「母親というものは全身全霊をかけて子供を愛するものだ。少なくとも物心つかないような年齢の赤ちゃんや幼児に対してはそうだ」
みたいな一般認識に基づいた、
でも、、自分は実感としてどうにもこれがピンと来ない。
・
自分にとっては
「この世で一番自分を肯定してくれなかった存在、それは母親だ」
別に自分は「虐待されていた」とは思っていない(ただし、現在の基準に照らせば「子供に対する虐待」の基準は満たしていたとは思う)し、虐待されてたとしても、当時としても現在としても特段酷いレベルではなかったと思っている。
今でいうところの「毒親」だったのだろうが、それでいうならそんな人間はありふれていただろうし、自分も「こんなひどい親を持っているのは世界で自分だけだ」的に思ったことはない。
失礼な思い方だが「自分以下」の家庭環境の同級生や先輩や後輩はいくらでもいたし、本や新聞やテレビや映画といったメディアで描かれている「特に子供を溺愛しているわけでもない普通の親」というものは、だいたい自分の親と同じだな、と思っていたから。
でも、とかく自分は母親に「肯定された」という思いも覚えも記憶もない。
自分にとっては母親は「自分が自発的に何かをやると「そんなことはやめろ」もしくは「いつそれを「卒業」するのか」と必ず言ってくる人」でしかなく、優しくされた記憶が無いわけではないが、肯定されたり是認されたりした覚えがない。
(なお父親は自分にとっては「とにかく家族には興味のない人」で、「肯定的になってくれない代わり否定的にもならず、無干渉なので母親に比べればずっと楽」な人だった。いや今も現在進行形でそうだけど)
・
自分の自覚が足りないだけで自分は「毒親にとてつもなく酷く虐待された人」なのかもしれないとは思うし、その可能性の方が高いような気はするのだけど、それにしても、
「**はお前の母親じゃないんだ、そんなふうにお前を全肯定してくれるのなんて母親だけだ」
というのは、世間一般の人、少なくともここ読んでる増田達にとっては、「引っ掛かりを感じない」ワードなの?
もちろん「そうだからこそ(多くの人がそこに引っかかりを感じるからこそ)煽りに用いられるんだよ」っていうのが大きいんだろうけども。
・
と思ってしまう。
上に書いたような前提に基づく煽りなのだとしても、みんな「母親なんてこの世で最も自分を肯定しなかった存在だろ」と思って大人になってないのか? と。
そうでないとしたら、自分は珍しい方なのか? と。
今の旦那、付き合った当初はまったく
家事をやらない人でした。
エピソードを上げればキリがないくらい。
仕事で超疲れているのに、私は散らかしてないのに
部屋が散乱している。なんなの!と思うわけです。
まずは現状がつらい事を伝えました。
仕事でいっぱいいっぱいだったのもあって、
大泣きして凄い怒って、限界を伝えました。
彼にとっては「家事くらい」と思っていたみたいで
意外だったようですが、協力する約束を取り付けました。
私がお願いしたら、
私が「洗濯物干すの手伝って」と言った時は、
必ず手伝ってもらう。
この手伝いがてら教えるようにしています。
・褒め褒め作戦
ある程度手伝うことをやらせ続けると、
例えば洗濯物を取り込み始めたら、
たたみ始めるみたいな行動を先読みして
動いてくれるようになります。
彼の手伝ってくれることをとにかく褒めて褒めて
褒めまくりましょう。
「ありがと。本当助かる」
「○○君の掃除したところ本当にピッカピッカだよ!」
「なにこれ!すごく美味しい!」
褒めまくりましょう。
とにかく、彼がやってくれたら
毎回毎回褒めるのがコツ。そのうち、
褒めて貰えることが内在化して動いてくれます。
とか、そういうのを話し合いで出来るようになります。
1週間貯めると30分以上かかることって沢山あります。
なので、汚れてるとか溜まってるとかそういう
という作業でした。これやってもらうだけで
2人で家事をやるとグッと仲良くなるし
気がしてきます。そして、何よりも大きいのが
家事分担本当におススメなので、
いやそうじゃない。
その次のステップが存在しているかどうかを、知っているかどうか、だ。
「またね」と言った時、次に会う事ができる可能性を示唆しているのであれば
なのかということだ。
それを恋人という固有識別記号付与のためとしていると、どの段階が恋人なのか
どれが恋人でないのか、恋人という境界は何なのかという無意味なパラドックスを生む。
恋人という呼称は呼称でしかなく、自分からみて恋人なのか第三者的に認識されるものなのかまったく定義がない。
なのでだれしもが「自分が考えた最強の恋人」を訴える事ができるし、それぞれに間違いはなく相違は大きい。
恋人をつくるつくらないできるできないというのは、マインドセットの問題ではない。
恋人できないからくまちゃん人形が私の恋人、というと「恋人ができている人」という第三者認識に容認される。
死んだ旦那に恋をしているのと画面のむこうのアイドルに恋をしているのは物理的にはほぼ同条件だ。
そこで、人間関係や生命維持の日常活動について恒常的なものよりも変化の可能性を考慮する可能性が大きいと
発展を予測したりする。
そこで自発的な変化対応を積極的に行う場合、関係性に発展や変化が発生する可能性がある。
その逆はそれが少なくなるということだ。
明日もまた今日と同じ日がくる、先週と同じ曜日がくる、と考えているのならば恋愛に発展しづらいだろうし
明日もおなじ回答を返してくれるのならば、相談者も安心して質問することができるだろう。
それは生育環境として普遍的な安心に重きをおいた豊かな環境で育まれた性格かもしれない。
その状態を求める人間もいるはずなので、人間関係の量を維持ではなく拡大させることで現状のまま恋愛などに発展することは可能性として否定できない。
なにをしたいのかわからないけれども、したいことに対してできることはあるはずなので、そんなことに気がついている暇があったら
立ち飲みはやめておけ。