はてなキーワード: 有用とは
恋愛不要をやたらと叫ぶ人達って日本では本当によく見掛けるけれど、アメリカもなのか
なんでなんだろうな
具体的な作品に関して、このキャラクター、このカップルの恋愛はやめて欲しかったと言うならば、自分もそういう不満は沢山あるしよーーく分かるんだけど(例えば米に出てるゲーム・オブ・スローンズだとブライエニーやアリアのセックスシーンに関しては自分も嫌だと思った)
でもそうでなくて作品名も挙げずにただただ恋愛は不要だとだけ言われても反発しか感じない
恋愛が見たいなら恋愛ものを見るって言ってる人もやたら多いけれど、その理屈も意味不明なんだよね
だって、恋愛って生活の一部だろ…現実の人間だって勉強したり部活したり仕事したり家事したりしながら恋愛してるじゃん
他の事を一切しないで恋愛「だけ」している人なんて存在する?女王蜂と雄蜂の擬人化か?そうじゃなければあまりにも不自然では?
この手の言い分ってあまりにも、恋愛ものを馬鹿にし過ぎだと思うんだよなぁ…
天使なんかじゃないや君に届けでは、進路と恋愛で悩んで希望の進路に進む事を選んで遠距離恋愛を決意した女の子が描かれていたけれど、
恋愛ものが本当に恋愛「だけ」書いているならばこの種の描写はなかったでしょうに。
物語における恋愛ってキャラクターの行動の動機を分かりやすく示すものとして有用だろ
寧ろ思いっきり本筋な事が多くない?
どうしてそれを理解せずに簡単に「恋愛は不要」と言ってしまうのか
例えば天空の城ラピュタはパズーがシータを銀貨で軍に売ってめでたしめでたしになるし、ふしぎの海のナディアはノーチラス号まで辿り着かない、
スラムダンクはバスケを始めない不良漫画になるかバスケ部に入ってもしごきに耐えられずすぐに辞める、名探偵コナンは蘭の家にお世話にならないので眠りの小五郎が爆誕しない、
からくりサーカスはフェイスレスが誕生せずゾナハ病の脅威もなく、NARUTOはオビトがマダラに騙されないので無限月読計画が発動せず、
天気の子はあっさりヒロインよりも世界を選ぶ、東京リベンジャーズはうだつの上がらないフリーター生活を続ける、葬送のフリーレンは人間の仲間の事なんてすぐに忘れて陰遁生活、
ロード・オブ・ザ・リングは王の末裔が種族違いの恋で悩まない、ゲーム・オブ・スローンズは不義の子である主人公も三兄妹も生まれない、
そんな作品面白いか?まぁそれはそれで別のアプローチで面白く出来たかもしれないが、今ある作品とは完全に別物になるじゃん。
今ある作品で恋愛要素があるものは殆ど、それが作品に不可欠な要素として組み込まれていて、抜いたら別物になってしまうと思うんだが。
あと、「要らない」という表現の傲慢さ。恋愛要素が要るか要らないかは表現者が決める事であって視聴者が決める事ではない。
「嫌い」「苦手」「やめてほしい」「見たくない」なんかならあくまで個人の感想だし普通に共感するんだけど、なんでそう言わずに敢えて「要らない」って言うんだろう?
個人の意見である事を誤魔化したいという心理というか、すっげー卑怯さを感じる
不思議なのはこの手の意見を表明する奴等に限って何故か久保帯人の埃だけ食ってろ発言は称賛してそうなんだよな
個人の意見を個人の意見として尊ばないって点では共通してそうだが。
あと、この手の恋愛アンチって何故か友情ならOKな事が多いのがさらに不可解(唯一シン・ゴジラだけはそれも含めて「余計な人間ドラマがなくて良かった」って評価だったけど)
仕事上や偶然の成り行きで組まされたバディなんて、寧ろ恋愛以上に友情が成立する方が不自然じゃない?
フィクションだと特に、年齢や社会階層、時には人種も違ったりするし、そんな間柄で友情が成立するのも大分不自然だと思うんだけど何故かそういう指摘は全然見ない
例えばTIGERandBUNNYとか、そもそもおじさんなんて言わずに礼儀正しく表面上の付き合いだけして波風立てずに他人行儀な付き合いのまま終わるのが現実だよね
年齢や階層の異なる者同士が、仕事上の付き合いで本気で意見を戦わせるってフィクションならよく見掛けるけれど現実では全然なくない?って思うよ
男女バディならばさらにそう。男女だとそれだけで性差別により置かれた環境が異なる訳で、最初は反りの合わなかった男女バディが事件を経て固い友情で結ばれ~なんてあまりにもリアリティないよ
恋愛ならば性的魅力で説得力が出る場面も、友情だとお互い得もないのにどうして?と説得力がさらにダウンする
そういうの一切考えずに「恋愛は低俗!」「恋愛は要らない!」「男女バディ尊い!」だから苛つくんだよな
そもそも嫌いな人しか文句言わないからな。全閲覧者の内どれだけが嫌がってるのか割合見てみたら割と少ないかもよ。
まぁ自分はその少数派で、飲み会すげー嫌い。増田の御高説も分からなくもないんだけど「アルコール入ってるような状況でそれ本当に有用か?」って思う。
PJTチームのミーティングとかSlackの雑談とかでもいいんじゃないの? あと自販機の前での雑談とかさ。
こちとら『普通の人』の枠に収まれなかったので、アルコール入った場合はほとんど全ての人に「格下」と認識されてダメ出しされるわプークスされるわ無礼されるわ、そのくせ「酒の席だから許されるべき」「奢られてるから文句言うな」って言われるんですよね。対等な話とかちゃんちゃらおかしいよ。飲み会の方が心理的安全性がない。
こんな状況で学べることって何? 人をいじめる方法とか、みんなで一人を攻撃する(イジる)ことで仲間意識強めることとか、こいつらの人間性くらいしか学べなくない?
上司のお話も「いかにズルをするか」みたいな話だったりする。酒入ってるせいで約束も反故にされるし。まぁ言った言わないになるから酒の席で約束とかする方が馬鹿なんですけど。反省。
あと自分事務やってるんですけど、飲み会参加した人が突然成長して『申請不備なくなる』とか『〆切守るようになる』とか『備品大事に使うようになる』とか『ゴミをゴミ箱に捨てられるようになる』とか『Excelスキルが上がる』とかないんだけど、その辺どう思う?
人間関係で言うなら、格下扱いの人間を一人前扱いする様になるとか、そういうことなくない?(逆はあるので害悪ですらある)
飲み会って『好感度』っていう謎のお気持ちしか上がんなくて、仕事のスキルに全然影響ないんじゃないかな。
他の見方、考え方をしてみる思考実験とでも言いましょうか、他の人の意見をきいたり調べたり別人になりきって視野とか思考を変えることで対処してますね。
言及のあった性的にマイノリティであることをセールスポイントにして人前に立っている人でいえば、同じ性的マイノリティ当事者の中には勇気づけられている人がいるかもしれない。性的マイノリティをカミングアウトされたマジョリティ側の親御さんの中には、テレビで見る性的マイノリティのコメンテーターを見て、理解の入り口に立つこともあるかもしれない。薄っぺらいと思う自分はそのままに、もしかしたらこういう有用性があるかもと考えたりしますね。
また、セールスポイントに好き好んでしてるかは当事者でないとわからないものです。LGBTQを啓蒙するために尊厳に関わる大切な指向・志向を曝け出し、身を削る思いで、まだ見ぬ仲間のためにカメラの前に立っているかもしれない、とか自分でしたら考えます。
自分の意見、感性に合わないものを差別だと自覚しながら距離をとるというのは、もちろんそうした方がいい手合いは多いですが、一方で柔軟性を失わせて視野を狭くしますので、なるべく他の視点、立場、見方をして、迎合はせずとも切り捨てはせず、受け流したいものだと日々過ごしています。
なぜ男性は炊事場に立たないのか、みたいな常識を問うことは割と良しとされても、人権とは何なのか、そもそもそれは存在するのか、みたいな疑問については混ぜっ返し、拗らせ、人類の叡智の否定、野生への回帰、歴史の勉強不足、愚行と断じられるのってなんか茶番っぽさを感じる。
もちろん人間の半分を占めてる女性を抑圧しかねない規範を疑問視するのと、ごく一部の強者の欲求を抑圧して大多数の弱者に恩恵をもたらしてる(と少なからずの人が思っている)規範とでは話が違うんですけど。
自然法則は神様が決めた絶対のルールであって、誰が何を思おうがリンゴが地面から枝に戻っていく事にはならない。でも規範は誰が何を思うかそれ次第、というかそれが全て。時間が流れて考えが変われば常識も変わって法律だって変わる。正しさを見出したのか単に考えが変わったのか、それは答え合わせのしようがない。その口からは絶対の真理が告げられる神様でも連れてこなければ、どちらの捉え方が間違っているとも正しいとも、断言のしようはないと思う。
なんて言おうものなら烈火の如く怒り出す。人権はお気持ちなどではなく絶対です。異を唱えるのは勉強不足でバカなネトウヨか冷笑系です。
誓約書を書いた覚えも、同意しますと言った覚えもないんですけど。それとも世間一般の人はそういうのやってるんですか?
そんな事を言ってるオマエだって人権の利益を享受してるだろって?
それは話がすり替わってますよね?私が人権の利益にあやかっているのと、人権が本当に合意であるかどうか、絶対的な価値であるかとは論理的に繋がらない。
いくら人権がもたらす利益を並べ立てたところで、人権思想を広める有用さを示すには十分だけれど、人権が絶対かという問いからはズレてる。
疑問を挟む奴は人権剥奪のような言いようではまるで異端審問会ではありませんか。
他人を無闇に害してはならない。ムカつく奴を殺したい。これは根拠を辿れば等しく快不快の問題になる。どちらも論理だけでその考えの正当性を示す事はできない。論理と言うより、どちらかと言えば共感の問題だ。
意見とは価値観や感情を土台にしてそこから論理を積み重ねていくものだけれど。人権思想は根源的な感情に論理を乗せたというよりは、感情の多数決そのものではなかろうか。
とは言っても人権思想が多くの人にとって都合が良いというのはまあ確かなのだろうし、多くの人は「多くの人」に包括されるのだから別にそれでいい。論拠などよりも肝心なのは得られる結果なのだし。
別に論拠なんかなくても快不快の多数決で良いじゃんというか、そうする以外にないと思うのだけれど。
人権の「真実」に目覚めたバカ共と違ってこちらは論理的な話をしているが?みたいな感じで、その実さしたる論拠はない所が、なんというか不誠実だよねって思う。ナイーブといえばそれまでだけど。
人権の何たるかについて厳密に議論する事と人権が相対化され果ては軽視される危惧とを秤にかけて、後者を選び取った上で自覚的に絶対的なものだと喧伝しているのかもしれないけどね。
まあ絶対的なものではないけれど、いやないからこそ、不断の努力によって維持せねばならない。高校の現文の魯迅だかの評論でそんなような事を言ってた気がする。当時は理屈レベルでしか今はまあ肌感覚でそうかもねって思う部分もある。
……人権を相対化したからにはこうやって結ばないといけない感じなのもなんか茶番っぽいよなって思う。まあ実際、普通ならそういう結論になると思うけど。
「普通」ではなくて、別にそう思わない人がいた所でそれは単に価値観の相違だろうし、それを否定するには「や、まあ……一応世の中そういう事になってるらしいんでどうぞここは一つ……」って多数決で突っぱねるしか無いんじゃねって思う。というか実際そうされてるだろうし。
厳密に言うなら、日本人がようやくパクチーの魅力に気づいて広まってくれて良かった。
一時期はタイ料理やメキシコ料理の店に行ってもパクチーが抜かれていることがあって本当にショックだったな。
カレーライスみたいな日本人向け加工の過程なんだろうけど、そこまでやったらもう別物過ぎないって疑問が凄かったよ。
今は色んな店が気軽にパクチー入れるようになってくれて助かってる。
スーパーの生春巻きやサラダなんかにも入ってきてくれるし、料理が苦手な自分でも日常的にパクチーが食べれて幸せだ。
美味しいのに食わず嫌いする人が多いんだよね。
自分も最初に食べたときはちょっとだけ違和感あったけど、二度目にはスッカリはまったよ。
」
こうするとどうなるか?
「パクチーが広まるとか辞めてくれよ……」
「好きだったタイ料理の店がパクチーバカバカ入れるようになって食えなくなったわ。お前らのせいで好きな店が潰れたようなもの」
「パクチーはアレルギー物質みたいなもんなんだから商品の警告欄に入れろ」
これを見て「やっぱ皆嫌いだよね😀」と人知れずほくそ笑むわけですよ。
わざと半分だけ間違っていることを言って完璧な正解を探すテクニックの応用ですかね。
これ特に相手が人格や法人格を持っていて誹謗中傷から起訴に発展しかねないときに有用なんすわ。
だって傍目には自分は単にチョット過剰なファンに過ぎないわけで、通報すべきアンチはそれに載っかってアンチコメ書き込んだ人でしょ?
扇動するだけしておいて無関係を装える無敵パターンの完成ってこと。
漁夫の利猟法みたいな感じですかね。
コロッセオの観客みたいな気分ですよ。
この増田にASDだけが発達障害だと思うなよ的トラバがちょいちょいあるのに具体例が上がってないからでしゃばってADHD(注意欠陥優勢)語りするね。
まず最大の違いとして、ADHDの発達障害当事者は黙示のルールをだいたいは察知できる。ADHDはとにかく情報が大好きで情報でパズルすることがもっと大好きなので、”明示のルールの上では違反だけど、情報を繋ぎ合わせて考えると違反してもしょうがないところがある“黙示ならいくらでも飲む。パチンコがどうして三店方式を採用してるのか分かるし、学校にスマホを持ってきている友達を見ても「お母さんが車で送り迎えしてるから」みたいな事情を把握できれば放っておく。そもそも不良だったとしても怒りを抱けないので放っておく。これはASDとの大きな違い。
ADHDは相手の感情をなんとなく察知したり、頭が良いほうなら定型発達みたいに話すこともできる。そのうえで他人との接触をどうでもいいと思っている関係上ほとんど反発しないので、感情面においては、いわゆる発達障害特有の焦燥は生じにくい。ここでは話が逸れるので扱わないが、基本的にADHDの”つらさ“は身体面に集中している。
ADHDは自分の意志や感情を抱くことがなにより苦手なので、それを逆手にとって穏やかに振る舞うことができる。ADHDは喋るのもとろいのであんまりとげとげしいことは言わない。ADHDはぼんやり生きているので発言はいつも的を外しているし、言いたいことの7割くらいはそれを口に出す前に他のことに興味が移動するから、”“言いにくいことをついスパッと言ってしまって気まずい空気になる”“みたいなイベントはADHDにはめったに起こらない。
とにかくADHDが最も苦手としているのは、周囲に馴染むことではなく、情報に付随する情動やライブ感みたいなものを持続させること。ADHDはマホちゃんのスカートを見て「似合ってない」「ダサい」みたいなことを思えない。ああ、知らない形のスカートだ。初めて見たな。それだけ。
定型発達やほかの発達傾向のみんなが生のまま摂取できる情報を、ADHDはそのまま手に入れることができない。ADHDが知覚したものはすべて脳みそを通って漂白され、俯瞰的な情報としてだけ記憶に残る。なのでADHDは自我が希薄で、強い感情を抱くのがあんまり得意ではなく、いつもヘラヘラして見える。
ゆえに”黙示のルールの察知“こそできるものの、ASD増田と同じように「浮いた見た目の奴は笑いものにして馬鹿にしていい」ルールには従えない。ADHDには人を嘲る方法が分からないし、それを娯楽とできないので従うメリットがない。なのでこの辺は表面上同じ感じになる。
これによって軋轢が生じにくいのは、ADHDがあまりにもぼんやりしているせいで、こういうときに意固地になるような真面目ちゃんではなく、打っても響かないうすのろとして認識されるからである。
大元の増田の一番の違和感はここだった。とげとげして気が使えなくて思ったことをズバズバ言っちゃうのは”発達“の悪癖ではなく、とげとげして気が使えなくて思ったことをズバズバ言っちゃう定型発達の未熟さである。ADHDは他者に干渉しないので、萎びた観葉植物くらいどうでもいい穏やかでのっそり動く謎の生き物でしかない。
まともな人生を送りたい場合は障壁になることもあるが、素の性格に関わらず偏屈者ではなくまぬけとして認識されやすいのはADHDの大きな強みでもあるので、とにかくここが気になった。
ADHDはマホちゃんにあのスカートが似合わないことにも、周りのみんなが「いっしょになって嗤え」と要請していることにも気づかないが、情報の追加には敏感なので他の子がまずしないような服装であることには気づく。
ADHDは頭の中でとりとめもない情報同士を接続させることに人生のほとんどを費やしているので、”誰も履いていないようなフリフリのスカート“はファッションアイテムではなく”はじめて見る物体“であり、他の情報と接続されるのを待っている新しい情報である。すてきな新しい情報。マホちゃんに似合うかどうかは分からないしどうでもいい。そんなことより既知の情報とスカートを繋げるべく「プリキュアがあんなスカートを履いていたな」とか「ああいう鳥がいた気がするな。なんて鳥だったかな?図書室で図鑑が見たいな」みたいなことを考えはじめ、ADHDの知覚範囲からマホちゃんはいなくなる。
なのでマホちゃんに声もかけないし、マホちゃんがお友達にべったりな性質の子でない限り、高校生になる頃にはマホちゃんとは疎遠になる。
ADHDは来るもの拒まず去るもの追わずなので環境によっては知り合いを多く得られるが、人間関係を維持できないので竹馬の友はいない。
ADHDは人の話を最後までうんうんと聞き、口答えせず、ゆっくりと動き、細かいことを気にしないので、中高年や高齢者の相手をするのが得意である。なのでパートのおばさんから無視されることはあんまりない。
ただ、ADHDの動作は何もかもがとろくさく、仕事中にどうでもいい物事に気を取られるので怒られることは多いかもしれない。
ADHDは美術部には入ると思う。ADHDは自分以外の人間たちもみな、たくさんの情報を頭に流し込まれると幸せになると思い込んでいるので、自分の頭の中に入っている情報をいろんな形で出力して見せびらかすのが大好きである。というかそれ以外にまともなコミニュケーションが取れないので、ADHDにとっては、文章をしたためたり絵を描いたりすることは定型発達における世間話や歓談に相当する。
ADHDは先生のことを好きにならない。ADHDにとって全ての人間は情報の塊であり、有用な情報がたくさん詰まっている先生のことは心から慕うだろうが、それは人間への好意ではなく、使いやすい辞書とか見やすいwikiとかに対する信頼と同じ感情である。ADHDは強い感情を安定させることが苦手なので、恋愛感情が発生するまでテンションを上げ続けることができない。
ADHDは具体的でないアポを全て忘れるので、社交辞令で飲み会に誘われたことをそもそも覚えていない。ADHDは人間とのコミュニケーションを情報として知覚できないので、具体的なアポであってもたまに忘れる。
ADHDは交友関係を維持する努力ができないので、大人になったADHDのスマホにマホちゃんの連絡先が入っている可能性は限りなく低い。ADHDにとって他者との繋がりは最も価値の低い情報なので、スマホを新調するさい電話帳の引き継ぎを忘れるかめんどくさくて移さないに決まっている。もし奇跡的に連絡先が入っていても連絡する理由が分からないので、マホちゃんに電話する代わりにTwitterで久しぶりにたずねた地元のラーメン屋にかんするツイートをする。
ADHDに友達はいない。好きな人もいない。ADHDは悲しくない。ADHDの感情はいつでも「眠い」一択である。いろんな情報が絶えず頭に流れ込んでさえいれば幸せなので、ADHDは人間を欲しがらない。
まぁでもADHDはADHDなので職場で気にかけてくれるパートのおばちゃんは存在しているはずである。同世代の知人はいない。
ADHDはADHDの特性それ自体も情報だと思っているので、いろいろ調べたりする。そうしてこういう場をめざとく発見してはADHDの情報を見せびらかす。
たぶん多動が強い人はまたちょっと違うんだろうな。
おわり
技術的な内容を増田に書くという実験のために、試しに検索エンジンの仕組みについて書く。
検索エンジンは、大雑把に言ってクロールするパート、インデクシングするパート、検索インターフェイスを出力するパートに分かれる。
インデクシング時に使っている基本手法は「転置インデックス」と呼ばれ、文書内のngramを文書IDと対応付ける辞書を保存する。
インデクシングの別の種類としては、文書をエンコーダからベクトルへ変換し、それを近似最近傍検索できるようにするものもある。
インデクシングされたものがキーワードマッチ的に絞り込まれると、さらに精密な手法が使われる。
クエリとドキュメントから特徴量設計し、関連性の高いものを引っ張るような訓練をする方法はLearning to rankという。
Learning to rankの中に使われる特徴量の一つにPage Rankがあるが、これは初期の検索エンジンで画期的とされた量で、「リンクされるページの価値は高い」「高価値ページにリンクされると価値が高い」という基準からマルコフ連鎖で計算する。
Page Rankは人間が論文を評価するときと似たような評価手順であるとされる。
Learning to rankの中にエンコーダからのベクトルを特徴量として組み込むことも可能であり、そのようなエンコーダの初期の例がBERTである。
こうやって絞り込まれた文書に対して、さらに有用な情報を表示するモデルがいくつか使われる。
情報抽出モデルでは、クエリを質問と見做してその回答を文書から抽出することがある。
あるいはクエリが人物名や組織名、場所名などであれば、そのエンティティの詳細情報をデータベースから取得することもでき、これはナレッジグラフとも呼ぶ。
>>それはソーシャルスキルの中でも最弱、専業以下
さっきも言ったけど、専業ニートが定義するなんちゃってソーシャルスキルの定義なんてどうでもよくて
社会から有用だと認められて価値につながるソーシャルスキルのほうがよっぽど重要で価値があるんだわ
消費行動しかしない専業が定義した「私たちが考えてることを察知して、30代でも女の子扱いして」みたいな非生産的ソーシャルスキル=マンコスキルなんて金につながらないから微塵の価値もないのね
マンコスキル不足で専業のゴミに嫌われようがダメージねえから微塵の価値もないんです
専業はそこら辺の「金を稼ぐ技能」についての感覚が弱いからすぐ透けるよなぁ
あとどんどん口が悪くなってるけどダイジョブ?w
都内で電車に乗っていると、ときどきやたらにうるさい人間が乗っていてその周辺が辟易としていることがある。
自分はある程度うるさいのは全然気にならないのだが、他人に一切配慮してない人間が多くの人間に我慢させてゲラゲラ笑っているのを見ると、怒りでわなわなしてしまう。
そこで、そういう人間がいるときは、相手の顔を見たあとにすぐその場から立ち去って離れるようにしている。
彼らは「アホだから」だとか「他人に迷惑がかかることがわからない」だとかそういうような原因でうるさいのではない。
「他人に迷惑がかかってでもいいから今ゲラゲラ笑いたい」とか「電車の中の他人などどうでもよい」という気持ちでそれをおこなっている。
駅に着いているわけでもなく席も空いているときに「なぜか立ち去る」という行動は意外と目立つのだ。そうした輩も「なぜさっきまで座っていた人間が立ち去っていったか」は理解できる。
自分が立ち去ると、他の乗客にも「なぜ立ち去ったか」という理由が伝わる。
車両移動をせずとも、少し離れた場所に座るだけで彼らは静かになることが多い。明確な敵意を相手にぶつけていても行動としては「ただ立ち去っただけ」で、真意は不明である。
エドワード・フレンケル教授によれば、最先端の数学はゴッホのようなものですが、小手先の応用はペンキ塗りに喩えられています。
また、ティモシーガワーズ教授は、数学の2つの文化、つまり「問題解決者」と「理論構築者」に分けて考察しています。
私のようなプログラマーというのは、問題解決者として小手先の応用へ取り組む人がほとんどです。
例えば量子力学の理論やラングランズ・プログラムなどの「深淵」に取り組んだ経験が圧倒的に少ないのです。
学ぶ事柄が見つからないということは起こり得ません。むしろ多すぎて選ぶのに苦労しています。人生は限りがあるので、選ばなければならないのです。
しかし数学の経験が未熟であるために、取り組む価値のあるトピックがどれであるのか、その審美眼が鍛えられていないのです。
プログラマーは離散数学のことばかりやっています。だから逆に、連続とか無限とかそういうことへの憧れが湧いてきます。
しかし、超弦理論は最近批判に晒されているようで、つまり実験によって反証しにくいので、理論が結局どう有用なのかわからなくなっているようなのです。
人間がこの先、微細な弦の構造を発見できるくらい巨大なエネルギーをもった加速器を作ることがあるでしょうか。希望は薄そうです。
フレンケル教授が言うように、「一部のエリートだけがゴッホを理解するのではなく、一般市民も作品に触れる」ことに希望を持っています。
今日はとある数学者にインタビューしたポッドキャストを3時間視聴しました。
個人的に印象に残っているのは、数学は客観的と思われているけれど、数学をする際にはある種の心理学・哲学・主観などが関係するということです。
例えば有限系と無限系のどちらへ取り組むことを好むかというのは完全に個人的な主観です。
彼は「力と愛の間の関係」についても述べました。誰かを「力」で説得しようとする場合、愛が失われます。そしておそらく数学とはそうであってはならないということです。いくら「無限」が好きであるといっても、有限系へ取り組む人を説得しようなどと考えるのは、力のやり方です。
しかし彼は無限を好むことを表明していました。その方が多くの有用な事柄が出てくるからです。そして彼は数学を「アイデアの市場」と呼びます。
この考え方は、私にとってはRPGのダンジョンを思い起こさせます。ダンジョンの奥深くにはお宝が眠っていますが、深く行けば行くほど危険で信じられないようなことが起こります。
ホルモン含め身体の影響はあるだろうな、都は思う。素人だけど。ただ、ジェンダーフリーって、穏健なところでは、身体の影響は認めつつ、変に役割固定したりしないで頭柔らかくいこうぜ、程度で済ませとくなら有用だとは思うんだよね。
イライラしやすいかどうかと、熟考したうえで特定の政策にどう応えるかって、直接の関連は無いのでは、ぐらいは言ってもいいんじゃないかな、とか。
あと、脳科学関連だと、"ジェンダーと脳――性別を超える脳の多様性"(https://a.co/3TKoZB7)って本がちょっと話題になってると思う。読んでる途中だけど、「一部の特徴はたしかに平均すれば女性と男性で異なる。しかし一般的には、女性によく見 られる特徴がどの女性の脳にも見られるわけではないし、男性によく見られる特徴がどの男性 の脳にも見られるわけでもない。むしろ、特徴は男女間で混じり合う。」ってことで、そりゃそうかもな、とは思う。
【追記】ただまあ、身体の影響がある以上、政府やリーダーに女性が少なすぎるんじゃね?って問題は正しい課題だと思う。生理妊娠出産に絡んだ話は、究極雄には分かんないわけだし。