はてなキーワード: 文法的とは
文章が変と検索すると、読点が多すぎとか、そういうをそうゆうと書くみたいなタイプに対して変と言ってる知恵袋の質問が出てくるが、これらは変な文章の本質を突いてない思う。
それか他の分野ならともかく、redditでたまに単発で気まぐれに誰かが支援絵が流すようなパターンを抜きにして、ここに書き込まれたことがあるようなehen獣等以外でこれらにアップされてない作品があってしかも品揃えも豊富ってところはもう残ってないのかな?
下は推敲後
それか他の分野ならともかく海賊版エロ漫画界隈は開拓されつくされてるのかね?
redditでたまに単発で気まぐれに誰かが支援絵が流すようなパターンを抜きにして、ここに書き込まれたことがあるようなehen獣等以外でこれらにアップされてない作品があってしかも品揃えも豊富ってところはもう残ってないのかな?
実際はまだましになったという程度かもしれないがとにかく上の方はひどいと思う。文の流れになんとも言えないおかしさがある。
これは匿名掲示板に書き込んだ文章なのだが、下の方がまだ掲示板の空間になじむものになっていると思う。上は完全にもろ発達障害こじらせてる感じ。
ようするにネット検索でトップに出てくる例は単なる知識不足が意図的にファッション感覚でそういう「書き方」をしてるだけで、書き手本人が悩む対象という意味での変さじゃないのよ。
そうじゃなくてどうしたって不自然ななんかすわりの悪い文章になってしまう、本人は泣くほど大真面目に推敲してるのにってのが一定数あるわけで世間はそちらに注目するべきだ。
情報を文章の組み立てに最適化される形で整理する力、適切な構文の取捨選択みたいな力が絶対的に低いんだよね。そしてそれは一朝一夕で磨かれるものでもなければ努力で才能優位な側面があるので埋め合わせできるものとも限らない(単に文法的におかしいとかならいくらでも参考書があるけど、この手の変さは体系的かつチャート式で推敲できるようにするような特効薬的な事例集、参考書が皆無)。
正直言って俺も胡散臭いと思っているし、信用もしていない。
理由は簡単。マナー講師の奨めるマナーというものが一般的ではないように感じるため。
マナー講師が独自のマナーを作ってそれを流布しようとしている。
だが少し待ってほしい。
恣意的なものというのは果たしてマナー講師のマナーだけだろうか?
本題に入ろう。
掻い摘んでいえば助詞の使い方についてであり、文法規則のことだ。
例えば、次のような文章があるとしよう。
一般的に正しいのは1。
では2はどうだろうか?
違和感を覚える?そうだろうね。
でも、2が間違っているわけではない。
それはただ読み難いというだけに過ぎない。
そもそも我々が「は」を「が」と同様にしない理由はあるのだろうか。
はっきり言おう。
そんなものはない。
ええ、その通り。だからこそ世の中のルールというのはおおよそが恣意的である。
にもかかわらず、恣意性であることに気づいていない人が大半なのは悲しいことだ。
しかしこれは悪いことではない。寧ろ必要なことであり通念がなければ社会は成立しない。
だからこそ必然性のない恣意性を我々は教育として受け入れ、それを是として正しいと認識する。
緩やかな洗脳。必要悪。それは洗脳と呼べばそうであろうし、常識と呼べば好まれる。
だからこそマナー講師を糾弾するというのは同時に、自分の洗脳に対する嫌悪でもあるはずなのだ。
世はSNS全盛期。
人々は情報に踊らされ、偏った情報に洗脳されている人々を笑う。
洗脳されている奴らを洗脳されていることに気づいていない奴らが笑う。
拙い文章ながらブクマやコメントをいただきありがとうございます。
そしてコメントにおいて何点か気になるものがあったため追記しました。
君は自分が思ってるほど頭良くないし作文も上手くない。もってまわった言い回しを全部切って文量を半分にすると頭良くなるし作文も上手くなる。騙されたと思ってやってみな。
まず、これは頭が「良い」や「悪い」の話ではありません。
そのため本文の内容を理解できたのであれば感想として「頭が良い」「頭が悪い」といったものは出てきません。
何故なら本文が示す意味は準拠するものを問うからであり、意味を理解したなら「そもそも頭が良いとは何か?」といった感想になるはずです。
つまり「分かりやすい文章を書けた方が”頭が良い”のならば、その分かりやすさはどの程度の知能を基準とするのか?」という問題です。
本題と言いつつ本題ではない部分だけど、文法的に通じることと同じ意味として通じることを混同している。愛の告白をする時に「僕は君は好きだ」なんて言ったら十中八九「じゃあ誰が嫌いなの?」って返されるよ。
その上で「じゃあ、どうしてそれを”混同”と呼び、差異を認めるのか?」といった話です。
ただ例として出した文章が分かり難いといったことは否めず、それは完全にこちら側のミスと言えるでしょう。
すみません…。
問題は、それら「が」と「は」が同じではないとして、では何故同じではないのか?という話です。
本文を書くきっかけは、部下と言語についての話をしたことでした。
私は言語学や記号論を学んでおり、当時はそれらが時代の潮流に乗り、栄えた時代でもありました。
そこで私がジェラール・ジュネットやマリー=ロール・ライアンを持ち出して話をしたところ、ポカンとした表情を見せられ、
じゃあロラン・バルトについてはどう思うのかと聞きました。
すると彼は「それってガンダムのキャラクターですか?」と笑って尋ね、私は愕然とし、構造主義としての思想はもはや廃れてしまったのか?
大学在学中はSFに飢えていて、「AKIRA」とか「エヴァンゲリオン」とかを観ていたのだけれど、「ラーゼフォン」にはハマることができなかった。問題は長さなのではないかと思い、26話も見る必要のない映画を手に取った。
この作品が好きだったのは、クラークやイーガンが好きだった自分が求めている、別の惑星の風景描写があったことだ。僕が映像作品を評価するのは、どれくらい思いがけない風景を見せてくれるかだ。火星の大地や、木星とイオのあいだにかかる雷の橋が美しかった。ヒロインからの携帯メールにも確かクラークへの言及があった。
また、日常の美しさを切り取った言葉を、詩のようにつなげていくアニメを見たのは初めてで、そこも新鮮だった。
敵方の宇宙人が、鏡像となって話しかけてくるところなど、露骨にエヴァの影響を受けているし、詩的な文章も村上春樹のフォロワーに過ぎないと感じはしたものの、この監督の作品をもっと見てみたいと感じた。
「僕と彼女の猫」は忘れてしまった。珍しく自分が好意を寄せている女性視点の失恋の話だった気がする。
僕が好きな要素がとにかく詰まっていた。架空の歴史、知的に早熟だけれども情緒的には年相応の少年少女、そして天にそびえる真っ直ぐな塔。東京からも見える北海道のメガストラクチャーという、自分の想像力をはるかに超えた世界を見ることができた。
もちろん、欠点もあった。ヒロイン・佐由理を救うか世界を救うか決断を迫られる主人公・浩紀は、セカイ系の典型例に感じられて冷めてしまったし、あと、これは前にも書いたのだけれど、主人公のやっていることはテロリズムの肯定だ。
テロ組織の名前も、北海道を手に入れるためなのにアイヌ解放戦線じゃなくて、サハリン・樺太の先住民族ウィルタ解放戦線だ。ヒロインの祖父の名前ツキノエはアイヌ系の名前だが、そこには一切触れられないし、朝鮮半島のように南北に別れた家族の悲劇は、ごくわずかしか触れられず、プロットには絡んでこない。つまるところ、政治は装飾でしかない。いいのか。
にもかかわらず、この作品を好きになってしまった。アニメで精密に描かれた東京の景色は、当時の僕の生活圏とかぶっていた。自分の暮らす世界の彩度を高めた景色は、ぐずぐずとした感傷に僕を引き込んだ。何にもでもなれると、まだかろうじて思い込めていた頃だった。
そして、テーマ曲があまりにも切なく、これがずっと頭の中で流れ続けていた。過剰なまでに作中で繰り返され、露骨でさえある。しかし、悔しいけれども切ない気持ちになるのをやめられなかった。ラストで虚無に飲まれる北海道の美しさで息をのんだ。
自分の青春に満足できていなかった僕は、この甘ったるいテーマ曲の映画に呪縛されていた。批判しつつも、フィルムブックとノベライズを買ってしまうほどだった。これが感傷マゾなのか。
退屈さを感じる場面や、冗長な個所もあった。でも、日常の風景を美しい色合いで描くアニメを他に知らなかった。第2話冒頭の、貴樹が空想する巨大ガス惑星が空にかかった惑星の風景は、僕が創作していたSF小説の舞台として何度も用いた。
そして、第3話で流れた「One more time, One more chance」ですべてを持っていかれた。ヒロイン・明里と結ばれないラストを見て「そうなんだよ! これこそが人生なんだよ! はっはっは!」と快哉を叫んだ。「鬱エンドだ」「悲しい」と言っている連中を笑っていた。なんてこじらせた大学生だったんだ。これもノベライズを買った。
振り返ってみれば、主人公はいつまでも明里の幻影に惑わされており、サーフィン少女・花苗の気持ちにちゃんと向き合っていない。独り身の期間が長かった自分は「応えてやれよ!」とあとになって思ったものだった。そりゃあ、思春期だから初めての感情ばかりで、あまりにも未熟で、だから人間関係で目も当てられないような失敗を繰り返すんだけれど、「結局お前モテてんじゃん!」と怒りが湧いた。
後に、貴樹をはじめとした新海アニメの主人公たちはどうやって童貞を卒業したのかな、夜のお店かな、などと根拠のまったくない最低な空想をするようになってしまった。自分がそうだったからって投影するなよ。
統一感のない固有名詞(※僕はファンタジーで名前を付ける際には一貫性が必要だと信じている。だからアルカンジェリ、ケツァルトル、シャクナ・ヴィマーナと複数の言語圏から安易に引っ張ってくるのを良しとしないし、文法的に怪しいヴィータクアやフィニステラという語も納得できない)、ジブリの表層だけをなぞったような描写、主人公・明日菜が地上世界と地下世界の両方の血を引いているという重大な設定が劇中ではほとんど描写されないなど、自分が気に食わなかった点は多数あるが、最大の問題点は悪役の森崎(ムスカと揶揄される)のサブプロットのほうが面白く、新海誠が思い入れを持っているように感じてしまったところだ。
愛するものの喪失を受容せず(子の喪失ってキーワードも村上春樹フォロワーっぽい)、代理品や依り代を求め、神々なり悪魔なりと契約する姿は碇ゲンドウともかぶり、なんにせよ強烈なキャラで、明日菜を食ってしまっている。いっそ明日菜いらなくないか?
冥界をめぐり、禁断の知識の代償として盲目になるのは神話的でちょっと良かったけどね。
しかし、作者の意図や性癖が透けて見えるというのは一方的に親しみを感じる契機でもある。不完全にゆえに見透かせるものがあり、理解者になれたと錯覚できてしまい、結果的に作品を愛してしまうことがある(※これは新人賞を取った作品を読むときもそうなんだけど、「作者はこういうことをやりたいんだろうな。なら、ここをこうすればもっとよくなるだろうな」と考えつつ読むことが多い。創作をしていた人にありがちなことなのかな?)。
言いたいことはたくさんある。
けれども、最大の欠点は「何でもかんでも台詞で説明してしまうこと」だ。
最後のタカオとユキノが見つめあう場面で、高まった気持ちをぶちまけるのだけれど、音楽と映像がうるさいなので、台詞なんていらない。
新海監督は文章を書く能力はあるのは認めるけれども、「説明は小説でやれ」と感じる。「なんでも説明するのをやめてくれ、映画の受け手を見くびるな」とも感じた。
そして、鮮やかな色彩がわざとらしく感じられ、反発を覚え始めた。
ただ、この頃から日本の古典を扱いだしたのは嬉しい。ささやかな愛国心が満たされる。
僕は海外文学が好きなので、逆に外国の人に日本の詩を知ってほしい。
観ていない。
「言の葉の庭」の一件もあったが、ハッピーエンドになったということを聞いて、寝取られ性癖(というかBSS、「僕が先に好きだったのに」?)を抑える優秀なプロデューサーがついたんだな、とシニカルに考えていた。売れるようになった、大ヒットを飛ばすようになったとも耳にして、新海誠が自分からどんどん離れて行ったように感じた。そして、もう二度と新海アニメを見ることはないだろうと思った。友人や尊敬するSF作家が見ていると聞いても、耳を塞いでいた。
「君の名は」の予告の「スカート注意、男子の目線!」といったセリフにも、新海誠の性癖が透けてみるのだけれど、徐々に作者のあけすけな欲望に対して嫌悪を感じるようになっていた。
これは男子高出身の僕がそうだからかもしれないけれども、僕には、男性監督が女子高生をじろじろ見て偏愛していると気づくと、鬼の首を取ったかのように指摘してやりたくなる悪癖がある。岩井俊二の映画を観たときもそうだし、「ラストレター」を観たときは「俺を振った女は不幸になればいい」という怨念を感じた。庵野秀明が俳優やってたのはめっちゃ面白かったけどね。
ある女性が新海アニメが好きで、じゃあ一緒に見に行こうということになった。ただし、彼女が好きだったのは「君の名は」以降だった。
「お手並み拝見」と思いながら(なんだかんだで楽しみにしていた一方、不安でもあった)観てみると、極めてまっとうな少女の成長映画になっていて驚いた。
被災者のすずめが「死ぬのなんて怖くない」と言っていたのが、逆に震災の記憶と向き合い、心底死を恐怖し、逆に生きる実感を取り戻す構成が素晴らしかった。自分を助けに来た謎の女性が自分自身だったってのも良かった。周囲の支援が必要なのはもちろんだけれども、傷付いた自分を癒すためには、どこかで自分の力を信じて自分の足で立ち上がらないといけないのだ。
ロードムービーとしても優秀だし、周囲の人々が善意にあふれてすずめに手を差し伸べてくれたのも、叔母の環が思わず激高して負の感情をぶちまけるシーンのための溜めだと感じ、よく計算された素晴らしい脚本だと感じた。
今まで肯定的だった(あるいはマスコットでしかなかった)猫が、ダイジンという善悪の不明な存在になったのも面白い。
今まで別の災害という形で間接的に東日本大震災を扱ったと聞いていたが、正面から向き合ったのはとても立派だ。このタイミングでなければできなかっただろう。
恋愛要素を薄めたのも大正解。「シン・エヴァ」を観たときみたいに、「監督は大人になったんだな」と感じた。
それでも無念な個所はある。人口が希薄になった土地を神々に返すというモチーフと、地震を封じる要石というモチーフが、完全に噛み合っているわけではない(人口が減少している時代だから出てきた発想では? なぜそこから厄災が漏れ出る?)。少しぶれている。また、震災は人力で防げる、つまり東日本大震災は防げた、という誤った読解を誘発しかねない面もある。
あとは、震災の描写がリアルだし、緊急地震速報が頻繁に鳴るので、観ていてずきずきと頭が痛み、かなり気分が悪くなった(御茶ノ水近辺も学生時代生活圏内だったし)。昔は「アルマゲドン」みたいなパニック映画で大都市がぶっ飛ばされるのを見たり、「地球大進化」の大隕石で地殻津波が起きて日本列島が引き裂かれるのを見て気分爽快になっていたのだが、ある時点で感受性が「まっとう」になってしまったらしい。
ところで、この作品は村上春樹「かえるくん、東京を救う」のオマージュだとよく言われるけれども、「海辺のカフカ」のパロディも仕組まれている。東北まで中古車でドライブする芹澤青年が車内で流すのが「夢の中へ」だが、「海辺のカフカ」でも星野青年が何を探しているのかもわからない中田老人を連れて車で高松をドライブしながら、「探し物は何ですか~」と口ずさむのだ。誰か気づいてないかな。
そのくせ、村上春樹はオマージュにとどめ、影響下からは完全に脱しているように感じた。
疑問点。すずめの三本足の椅子、過去の自分に手渡されたことで、時間の輪っかをめぐっていないか?
どの作品かは伏せるが、主人公が僕の名前と同じで、ヒロインから名前を呼ばれるたびに恥ずかしいくらいに動揺してしまった。
当時流行っていたラブプラスをやっていたら、おそらく引き返せないことになっていただろう。
あと、「すずめの戸締まり」に関するウェブ記事で、新海監督が#MeTooのこともあるしパンチラを封じたと聞いて、機を見るに敏だなと感じ、何となく気に食わなかった。正しい判断だと思ったけど、商業性に屈したようにも感じたのだ。正確には、「雲のむこう~」みたいに政治的を雰囲気に使うのをやめたのが、なんとなくタイミングが上手すぎて、逃げ足の早さを感じるのだ。
でも、とっくに青春コンプレックスこじらせオタク向けのクリエイターから、国民的監督に変わってしまったのだ。寂しい。あんなこじらせた作品を書くのに既婚者なのも納得できない時期があった。
こういったことを、友人に対してつらつら語っていたら、「それはお前、もう立派なアンチだよ」と指摘された。「アンチじゃない、愛情と憎しみの両方を持っているだけだ。複雑な感情をも抱えているんだよ」と反論すると、「お前が複雑な感情を抱えていない対象なんてあるのか」と笑われた。ひどくない?
これだけ複雑な感情を抱えているので、「君の名は」「天気の子」を見るのがずっと延期になっている。諸般の事情でラブコメ苦手だし。
しばらくトラバしないことで相手が「もうトラバしてこないだろう」と安心したタイミングを狙ってトラバぶつける手法もあるし、俺もすることあるんだけど、「気にならない」か。そうかそうか。
あと相手にレベルを合わせて返してると言ってるけど、思い上がり甚だしいね。自分よりレベル高いのが相手じゃ、近づけることはできても合わせようがないよな。
以下お前がそこまでのレベルに達してないことが読み取れる事例をお前の今までの投稿から挙げていく。
まず「お前社会人やったことあんの?」みたいなこと言ってるトラバしたすぐ後のトラバで、増田のボリューム層は40代無職大卒と言ってるところ。
これが60代無職だったらまだ定年年齢なので理解できるが、40代で無職なら氷河期の影響もあるかもしれんが、だいたいは本人に致命的な問題があって一度も雇用されずに今に至ってる人たちと読み取るよね。
つまりお前は「社会経験がない」とレッテル貼りする貶め方をしたすぐ後で「社会経験がないやつ」がボリューム層であってそいつらが俺より優っていると言ってるわけだ。支離滅裂だろう。
多分出まかせで適当言ってるからこうやって書き込み間の整合性が疑わしい状態になっていくんだろう。今俺がこう書いた後で「実はお前の言った通りのことを考えていた上であえてそうした投稿をしていた」と書いてもクソダサ後出しじゃんけんでしかないからな〜。
しかも無職がボリューム層と言ってる一方で「職は見つかった?」とさも無職が劣ったものであると言う前提の指摘をするのもちぐはぐしてるね。
そもそもはてなの統計を参考・準用にしてるんだとしても、もし「無職」がボリューム層なら、年収の統計が所得0で最大になってなきゃおかしいだろっていう…。
焦点を合わせてるのはお前しかいないってのも何言ってるんだって話よ。
「相手のレベルに合わせて返す」を要素分解して「投稿は返す」かつ「投稿を相手のレベルに返す」と解釈したとき、前者に焦点を当てればお前は必ずトラバを返す人間なんだなって解釈できると言ってるだけの話なんだが。つまり「相手のレベルに合わせて」という修飾語句がついてようがなかろうが、「返す」という文言だけ見ればお前の執拗性が読み取れるって意味だよ。焦点を当てても当てなくても結局は「お前は投稿を返す」ということが読み取れるのは論理的に同じなのに(焦点を当てるという手法の有無の差でしかない)、俺以外の誰かが焦点を当ててるかどうかになんの意味があるんだって話になる。揚げ足取りにすらなってない。
ガソリンスタンド店員がクーラーオイル補充するなんて整備まがいなことはしないのに適当言っちゃうのもスタンド店員エアプがでしゃばったバカ発言でしかない。車体を拭くのを整備に含めるなら整備まがいと言うと語弊が出るけどその辺がせいぜいだよ。
「法学生の尻馬に乗ってる」もなかなか支離滅裂なレッテル貼りだったなあ。
これって法律談義を素人がすると悪影響とトラバしてる増田と、著作権が保護させられて可哀想と言ってる増田が同一人物という前提がなきゃ成立し得ないことなんだが過去にも俺はそこ突いたのにお前はスルーしてるんだから今に至るまでのトラバも役割的に「逃げ口上」と解釈できる状態になっちゃってるというね。
「保護させられて」と書いてあるだけで法律わかってないと勝手に察するのも意味不明だったな。
たとえば「ごりらがりんごを食べる」と「ゴリラにりんごが食べられる」は、文法的な構造は違っても、その指し示す物理的・現象的な在り方としては同一の事態を指している。書き手の視点が違うだけ。
となれば「著作権を保護する」「著作権が保護させられる」も物理的というのは語弊が出るが現象としては同じだ。お前の言ったなんちゃら法理を理解してようがしてなからろうが、ものをいう時の視点が独特なせいで「させられる」って言い回しになってる可能性は否定できないよねって話。
ひじきのたとえも、確かにひじきのような食べ物に関しては一生断続的には食べ続けることが前提だから次いつ食べるかなど予測がつかないけど、増田の場合どのぐらいの期間までツリーに書き込みした後その後は見てもいないってことはある(俺でもある)からそうした過去の事例からぼんやりとでも自分が同一ツリーにどれだけ飽きずに入れ込めるかって予測が立てられるものだろ。なのにひじきをいつ食べるかと同列にして常識が無いって発想になる方が頓珍漢だ。
無意味な投稿をすることがあるのもライフワークとしてこういうことを続けるのにいつでも意味にある投稿をする意味がないからだな。俺にとってはとりあえず相手が黙るまで投稿できたら自分の中で勝ちすなわち満足なので、投稿の内容にそこまでこだわる意味は価値観上ないんだよ。だったら無意味な投稿の方が手間がかからないしライフワークとして続けやすいってことはわかるだろ
むしろ馬鹿か馬鹿のふりしてるみたいな可能性よりこっちの方がよほど自然でシンプルな心理なのに、この心理に思い至らないってのは常識がないとか以前に根本的に頭悪いよね。
だから、俺の投稿がAIみたいとお前はいったが、なんなら言及を検知するたたびにAIが自動投稿するようにしても別にいいわけよ。
でもAIだと警察が動くこと書きかねないことかんがえつと現時点で運用は難しいよねって話。
小女子の事例みたいになりうる文章を人間だったらそれそのものじゃなくてもそうなりうるかの判断ができるが、AIに投稿を任せっきりにするってことはこうした判断まで任せっきりにしてしまうってことだからな。
まあそういうわけで俺も大した頭じゃないと思うけど少なくともこんな粗だらけののこと言ってるお前ごときが俺より頭いいなんてのは天地がひっくり返る可能性よりも低いかなと。
納得したら言い返さない?お前レベルの発言には納得する要素がないってだけしゃん。(納得してても言い返すこと自体はするけどね。そういう意味で自己紹介ってのはその通りだが俺の紹介になってるからお前の紹介になってないとは限らないので反論になってない。だから、お前はどうなの?)
彼はお金がない( )車を2台買った。
「ここが”ので”じゃなくて”けれども”になる理由が分かりません」
これについて「文脈がわからないから、どちらか決まらない」とか「文法的にはどちらも成立する」とか、全然文が読めていません
「本当は3台買うつもりだったけど、お金がないから2台にした」とか、問題なのだから書かれている情報以外の事は考えてはダメなんです
ここで考えるのは「~がない」というネガティブな状態 と 「~を買った」というそれに反する行動結果
という矛盾・対立の関係を考えたら、接続詞は「のに」「けれども」という逆説しか選択肢はないんです
でもそれがわからないというのは、文が読めていないんです
文を読むというのは
このプロセスのことです
「文脈がわからないから」というのは、入力の情報が少ないということです
これが多くなればもちろん正解する確率も上がりますが、それは大規模言語モデルであるChatGPTと同じレベルってことです
※参考
https://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ja/gmod/contents/card/082.html
親戚の人間に付き添ってその親戚の墓の掃除に行ったんだか帰り道夜も遅かったので霊園入り口付近の墓守らしき家に「なんですか?」といかにも警戒してそうな強い口調で呼び止められた。
親戚は経営やってる社交的な人なので「〇〇さんの友達で墓の掃除に仕事が終わってから来た」みたいなことを言っててその時は「いきなり〇〇さんとか言われてもねえ」とか墓守のおっちゃんは言ってたが、なんかその後も同じようなことを言ってるように聞こえたんだが何故かその2度目の発言あたりからおっちゃんのトーンはやわらいでいき墓に雑草が生えている写真を見せてる頃にはすっかり警戒心が解けているようだった。
話し終えるとおっちゃんは「失礼しました」てなことを言って嘘のように態度が変わっていた。
私はこういうの苦手なのでとばっちりがとばっちり来ないように数メートル後ろで、少しでもどう懐柔するのか話術を学ぼうとしていたが、いかんせんそれでもいつこちらにも矛先が向かないかとヒヤヒヤしながら聞いていたのであまり頭に入らなかったのである。
今回全国の子供の英語の話す力が低いとの結果が出てますます英語教育に注力するようになるのだろうが、どうなんだろうか。
語学が教えてくれることはしょせん意味を相手に伝える表現を組み立てる技法であって、そもそもどの意味を伝えるべきかということを臨機応変に決定する考え方そのものが低レベルならば、何語を学んだってその言語圏でコミュ強にはなれないどころか、上記のような場面で警戒心を解かせるどころかドツボにハマって大事になりかねない。
文法的に正しいことを言っていても、滝沢カレンみたいに単語の選択等に困難があると言うことでなくても、話として自体は噛み合っている受け答えであっても、この三条件を満たす受け答えすらある場面ごとに無数にあるわけで、その中で相手の機嫌を損ねない受け答えを選択する技能がない私のようなコミュ障としては、英語云々とかいう話題にどうも冷めてしまう。
「All your base are belong to us.」は、2001年から2002年にかけてインターネットで流行した言葉の一つであり、インターネット上で起こった現象(ミーム)の中で最も有名なものの一つである[1]。短縮して「All Your Base」、「AYBABTU」または「AYB」とも呼ばれる。
この文は、「君達の基地は、全て我々がいただいた。」という日本語の文の稚拙な英訳からきている。原典は日本の東亜プランによって1989年に作られたコンピュータゲーム『ゼロウィング』の、1992年に発売されたヨーロッパ向けのメガドライブ版のオープニングデモである。なお、元々のアーケード版やPCエンジン版にはこの語句はない。また、北米ではアーケード版はウィリアムスより発売されていたが、家庭版はリリースされていない。
東亜プランのゲーム開発者だった弓削雅稔は、当時同社の貿易担当の営業員にかなり英語力が怪しい人物がおり、その人が考えた文かもしれないと語っている[2]。
“All your base are belong to us.”という英文は、英語を母語とする人にとっては片言であり、シリアスな画面との対比のおかしさ、企業がこんな間違った英語を校閲せずに載せたものを売ってしまうという意外性、あるいはその文章自体のインパクトによって一気に流行することになった。一部では「その言葉は間違っているよ」という意味合いを込めて使われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/All_your_base_are_belong_to_us
2003年にPC向けに発売されたカーアクションゲーム『Big Rigs: Over the Road Racing』で表示される文言。文法的には「You're the Winner」または「You're a Winner」と冠詞を付けるのが正しい。『Big Rigs』は史上最悪のクソゲーとして名高いタイトルであり、ネット上のレビューでも、最低点、もしくは皮肉を込めて最高点(嫌いな知人への贈り物に最適、など)を付けられているものが大半である。この英語も本作のクオリティーの低さが垣間見えるテキストとして頻繁にネタにされている。開発を手がけたStellar Stone社(2006年に閉鎖)はカリフォルニア所在であったが、ロシアの開発会社へ外注したためにこのような Engrish が生まれたといわれている。
文法はロジックで「正しい」「間違い」くらいしかなくて、「失礼」みたいなお気持ちは含まれないと思うんだがどうか
例えば意味の一つである自分の感動を伝えるという意図でもやはり失礼にあたるか。(繰り返すが文法的に。受け取り方や印象の話は一旦しないで)
https://anond.hatelabo.jp/20230715174621
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230715174621
相手が不快に感じるとか、こういう印象を受けるというのはおいといて、文法的にどこがどうまずいかを私の日本語知識だと理解しきれないので誰か頼む。
Togetterやブコメを見るとざっくりと「なるほどは相手を敬う意味がない」「なるほど+ですねは文として成立していない・俗用の日本語である」「ですねは同意を求める意味であるので失礼にあたる or 意味が通らない」というのが主な理由として挙げられているように見える。
主な疑問や考えは以下。
・「なるほど」という副詞(もしくは感嘆詞の場合でも)に助動詞です+終助詞ね が続くのは本当に日本語文法的におかしいか。おかしいなら、なぜおかしいか。
・「ですね」は別に同意を求める意味ばかりではないと思うが、例えば意味の一つである自分の感動を伝えるという意図でもやはり失礼にあたるか。(繰り返すが文法的に。受け取り方や印象の話は一旦しないで)
最低限同じチョイスの単語が掲載されていて、例文が文法的におかしくなければ、より安いほうに飛びつくってのは俺以外にも腐るほどいそう
ディスティンクションシリーズなんかまさに1600語収録で11000円もするし。Amazonで中古買うとかも出来ないし。