はてなキーワード: 性的指向とは
異性愛中心主義を問い直すというのは異性愛を数ある性的指向の中の一つに位置付けて相対化を図るということでもあるけど、それ以上にどれだけ異性愛者だけが恩恵を受けて他の性的指向の人(やシスジェンダーではない性自認の人)が社会の構造的に不利益を被る立場にあるのかを明るみに出して平等な権利を求めるためのものであって、増田の意見は間違ってるわけじゃないと思うよ
ただ現代は生殖技術も発達してて、同性カップルの場合片方しか遺伝子上の親にはなれないけど代理母出産で子供を迎え入れるのも可能だし、iPS細胞とかで将来同性同士で子供が作れるようになる可能性もある
そもそも愛とか性と結婚や家族という制度が結ばれたのが近代のロマンチックラブイデオロギーの産物であって、でも将来生殖がコントロールできれば「子供が埋める」だけが取り柄の異性なんてスタンダードでもなんでもないじゃんってことになる
タイトルそのまんま。
恋人のような人は過去何人かいたことがあるけど、最終的に友達みたいになって終わった。全部。
当たり前だ。私が性愛と家族愛と友愛のうち家族愛と友愛しか知らないのだから。
性愛をそれら二つでなんとか繕っているうちにいつも終わりがやってくる。
大学生の頃に私を好きになってくれた人ともやはり結婚しか考えていなかった。
院生の頃も仕事をはじめてからもどの相手とも最初のデートの段階で結婚しか考えていなかった。
正直、それまでのなんやかんやに一切の興味が湧かなかった。
でも根が真面目でかつ博愛主義なので知り合った人には幸せになって欲しいと願っていたから色々頑張った。
恋をしている振りもした。一度も上手くできたことはないのだろうけれど。
恋をしている振りをするために恋愛ハウツー本を読むというあべこべな方法論を採用した。
または情を恋心と勘違いしていたから鬱傾向の強い人と付き合うことも多かった。
そう。
自身に恋愛感情というものが一切ない、ということを受け入れたのはつい最近だ。
はじめての彼女には「俺は初恋ってなかったんだよね」とは言った。そして泣かれた。
けれどそれでもどこか、信じていたのだ。
私は恋をしている、と。
そして情、友愛、そして家族愛を恋心の代用品として使用していたら20代が終わっていた。
迫られたことはある。それでもなぜか手を出さなかった。いや、その時は「なぜか」と思っていた。
今考えてみると当たり前の話だ。性欲がないのだから。
年収 750 万。
東京大学卒。
この情報を使えば婚活すればどうにでもなるのだが、やはりどうにもならない。
恋心も性欲もないのだ。
今、私を好きだと言ってくれている女性がいる。
私はその人と結婚したいと思っている。
でも、恋はしていない。そんな状態の私が彼女をどう誘えばいいのか、それが分からない。
ただそれでもやはり結婚がしたいんだ。
私は人を愛することはできる。
ただその人に対する独占欲が一切なく、その人に入れ込む心情が一切ないだけなんだ。
だから今でも、そう今でも自分がアセクシャルなどとは認めていない部分がどうしてもある。
恋している人を見るとどうしても気持ち悪く感じてしまう自分から目を逸らしながら
せめてホモセクシャルやトランスジェンダーに生まれていれば良かったと何度思ったことか。
自分がそれらではないのか?と疑いひたすら女装をしていた時期もあった。
またはロリータコンプレックスではないかと疑いアイドルを追ってみたりもした。
熟女好きなのではないかと疑い年上にちょっかいを出したりもした。
だから私の知人は、私と主に一緒にいた時期によってどう私の性的指向を把えているかが変わる。
ただそのどれでもなかったのだ。
そしてこの年齢になってやっと受容してしまった。
ただそれでも結婚して、家庭を持ちたい。
バイデン大統領、政府の資金援助を受けている学校は、トランス女性を女子スポーツや女子奨学金などに受け入れろとの大統領令に署名 - Togetter https://togetter.com/li/1656939
こいつぁひでえや。
「この前の最高裁判決で性差別の解釈が変わった(性的マイノリティへの差別も性差別に含まれるようになった)ので、関連する法令とかプログラムとか洗いなおして、新しい解釈と合わないのが見つかったら修正しといて。よろしく」
今回の大統領令の根幹をなす米最高裁のランドマークケース。公民権法における性差別の解釈が更新された。
ジェラルド・ボストック氏はジョージア州アトランタがクレイトン郡、少年裁判所にて“good performance records”を10年間とり続ける優秀な職員であった。しかし2013年にゲイ・ソフトボールリーグに参加したのち、管理している資金の浪費が激しい(横領とかではない。念のため)という理由で「職員として不適格」として解雇されることとなる。
ボストック氏は資金の浪費など言い訳で、本当は同性愛者だからクビにしたのだろう、と元職場を訴えるが、下級裁判所では「同性愛差別による解雇は法律で禁じられていないためOK」として敗訴。(※1)
それでも彼はめげず。最終的に類似の訴訟2つ(1つは性的指向、もう1つはトランスジェンダー関連)と合体して最高裁判所まで持ち込まれることとなった。
そして最高裁。公民権法タイトルVIIの「人種、肌の色、宗教、性別、妊娠、または出身国に基づく労働環境上の差別の禁止」について、“性別に基づく差別”が女性差別or男性差別の二択だけでなく、性的指向や性自認に基づく差別も含まれるという判決が賛成多数(6-3)で下された。
ちなみに多数派意見を上奏したニール・ゴーサッチ判事はトランプ前大統領に指名された人物だったためそれなりに話題になった。
※1: 州ごとに違う。ジョージア州には同性愛者差別から労働者を保護する法は無い。アメリカ全土に適用される連邦法では「人種、肌の色、宗教、性別、妊娠、または出身国に基づく労働環境上の差別」は禁じられているがそこに性的指向は含まれていない(いなかった)。ちなみに「法律で禁じられていないならやってヨシ!」がアメリカという国である。
Bostock v. Clayton Countyは公民権法タイトルVIIに関する判決だけど、此度の大統領令ではこれが他の差別禁止法における性差別の解釈にも連鎖的に波及するものと認定した。“性差別”の定義を一貫させるのだ。
大統領令で具体的に触れている法律は教育修正法タイトルIX、公正住宅取引法、移民及び国籍法セクション412。雇用や解雇の時のゲイ差別は性差別で違法だけど、家買う時のゲイ差別は性差別じゃないから合法ね、なんてナンセンスという判断。
そして様々な関連する法や規則、ポリシーやプログラムなどがこれらの法律を参照して制定あるいは実行されており、その参照元に変更があれば修正の必要も出てくる。
此度の大統領令では、各連邦機関の長に対して各種チェック後その修正もやるように要請しているわけだ。
こりゃ「我々はトランプとは違う」ってアピールだね。他の大統領令でも似たような意図を感じる。
トランプの大統領令は、法や判例ガン無視して乱発してたもんだ。大統領令を裁判所が止めてたのは記憶に新しかろう。
それに比べて此度の大統領令はえらい穏当。最高裁判決を下敷きに、それを無理のないレベルで拡張する内容。「横紙破りはしませんよ。法や裁判所を我々は尊重しています」というメッセージがひしひしと伝わってくる。
まあその分パワーは小さい。悪意的に言えば“パフォーマンス”なんだが、私は評価したい。
大統領令では特にスポーツについての言及はない。一応、話の枕で一回だけsportsという単語を使っているがそれだけ。
では「バイデン大統領、政府の資金援助を受けている学校は、トランス女性を女子スポーツや女子奨学金などに受け入れろとの大統領令」はどこから出てきた話なのか。
おそらく教育修正法タイトルIXである。教育修正法タイトルIXには「米国内のいかなる人物も、性別に基づいて、連邦政府の財政援助を受けている教育プログラムまたは活動への参加から除外される、給付金の支払いを拒否される、あるいは差別的な扱いをされることがあってはならない」とある(※2)。
これがトランスジェンダーにも適用されれば、まあご懸念の事態が絶対に起こらないとは言えない。だがはっきり言ってナンセンス。
断っておくが、女子スポーツにおけるトランス女性の問題を軽視しているわけではない。一つの重要な議論として認識している。
しかし非常に包括的かつ広範囲に及びしかし最高裁判例に準拠したこの大統領令をその一点のみの話に矮小化するのは余りにもナンセンス。しかも直接の言及すらなく「そういうことが起こる可能性もないとは言えない」レベルの話である。
さらに言えばこの大統領令があってもなくても、最高裁判決がある以上遅かれ早かれ起こること(※3)。大統領令は言ってしまえば“念押し”でしかない。である以上「大統領令のせいで女子スポーツが云々」というのはやはりナンセンスと言う外ない。
※2:もちろん、十分な合理性があれば別。例えば公費で子宮頸がん検診をするさい、対象者を女生徒に限定しても差別にはならない。子宮を温存しているトランス男性がいれば、彼が検診を受ける権利はあるが。
※3:タイトルIXの“性差別”がタイトルVIIのそれに準拠するという判断は過去になされているし、トランスジェンダー差別に限定すれば“性差別”に含まれるという下級裁判所レベルでの判決がある。今は最高裁判例がある以上、大統領令が無くても訴えられたら敗けて解釈変更となろう。
トランス女性(MtF, male to female)は何故女子チームに入ってはダメなのか?それは偏に肉体的アドバンテージにある。トランス男性(FtM, female to male)が男性チームに入る分には問題視されない(ホルモン投与を受けている場合は別)。だってアドバンテージないから。
トランスジェンダー or notではなく、不当にマッチョ or notである。
それに生まれも育ちも女性だけどアンドロゲン過剰症でめっちゃ強い人もいるわけでな。ことはトランスジェンダーだけで済みはしない。
「○○は××だから問題だ」という時、まずは××の解決を模索するべきで、○○を排除して問題をナイナイするべきではない。それが「○○と△△は××だから問題だ」なら尚更。○○だけ排除しようとするなら勘繰られる。
特定の人々に身体的アドバンテージがあるなら、その代理指標を用いたレギュレーションを作ればいいのだ。いや既にある。テストステロン値による制限が。まだ完ぺきじゃないけど。
じゃあ残る問題が何かっていうとそのレギュレーションが州どころか学校単位でバラバラなこと。まったく制限がなく参加できる州/学校もあれば、出生時性別で判断される州/学校、ホルモン治療などでテストステロン値を下げなければ参加できない州/学校もある。
全米大学体育協会(NCAA)とその加盟大学では、トランス女性が最低1年間のテストステロン抑制治療を完遂していることを女性チームで参加する条件としている。ちなみにホルモン治療をしていない(テストステロンの投与を受けていない)トランス男性(FtM)は男女どちらとしても参加してヨシ。
つまり今後の課題は統一ルールの制定。難しいだろうが頑張ってほしい(無責任)
先述した通り、トランス女性の女子スポーツへの参加が問題になるのは、彼女らに身体能力上のアドバンテージがあるからだ。しばしばそこには“不当な”あるいは“不公平な”という形容詞がつく。
しかし、上でも少し触れたが、それはトランス女性に限定されたものではない。
アンドロゲン過剰症(※4)という症候群が存在し、これの発現者も身体能力上のアドバンテージを(女性の中では)持つと言われている。ちなみに国際シーンではむしろこっちの方が議論されている。まあ結果出しちゃってるし。
そういうわけでいくつかの国際組織では既にレギュレーションが敷かれている。
(例)
国際オリンピック委員会(IOC):競技の少なくとも4年以上前から女性であり、競技前12カ月間の血中テストステロン濃度が10 nmol/Lを超えていないこと。(ちなみにこれは2015年に設定したもので、↓のIAAF基準に合わせて5 nmol/L未満に変えようという話もある。東京オリンピックの後に新ガイドライン出すらしいが……)
ワールドアスレティックス(国際陸連;IAAF):血中テストステロン濃度が5 nmol/L未満であること。ただし、適用対象はXY型性分化障害および/または睾丸をもつ女性に限定。トランス女性に対する規定はまだない。(※5)
自分の意志で性転換したトランスジェンダーと先天性疾患のアンドロゲン過剰症を同じ扱いでいいのか?競技に参加したければ副作用のある薬を飲み続けろというのはアリなのか?“才能”と“異常”の線引きはどこですればいい?そもそも血中テストステロンは適切な指標なのか?etc.
しかしその困難を厭って、安易に特定の属性を切り捨てるのはいかがなものか。女性はかつて“切り捨てられる性”であった。そのことを思い出してトランスジェンダーとも向き合って欲しい。
※4:アンドロゲンは男性ホルモンとも呼ばれる内分泌物質のカテゴリ。テストステロンも含む。これが様々な理由で(女性としては)過剰に分泌されるのがアンドロゲン過剰症である。先天性疾患や腫瘍などで引き起こされ、生殖年齢の女性の5~10%がこの症状を呈するとも言われている。
いくつか例を挙げると…
5α-還元酵素欠損症:主に外性器の発達に異常が生じる。程度の差があるが、精巣および陰茎(一部)が体内に陥入し女性器に類似した形をとることがあり(pseudovaginal perineoscrotal hypospadiasというらしい。機械翻訳で
偽膣周囲陰茎下垂体。なんとなく意味わかるっしょ)、その場合、女性として育てられることが多い。世界陸上金メダリストのキャスター・セメンヤ選手が有名。ちなみに氏は金メダルのはく奪こそなかったものの、IAAFの現規則により大会への出場が制限されている。
部分型アンドロゲン不応症:アンドロゲン受容体に変異があり、アンドロゲンを不完全に受容することで性分化に異常が生じる。表現型は様々だが女性寄りの場合、極めて小さい陰茎および体内に停留した精巣、陰嚢のある辺りが陥入して女性器様になるなど、出生時に女性として判断されやすい。ちなみに完全型アンドロゲン不応症というのもあり、アンドロゲンを完全に受容できないため、不妊(不完全な精巣が体内にある)以外は正常な女性と区別がつかない(でも血中テストステロン値は高い)。
※5:2019年(だったかな?)の会談では言及している。トランスジェンダーの女性を女性のカテゴリーに含めることは、それが許容し得ない不公平を生み出さないという条件であれば、適格な資格基準下で促進されるべき。血中テストステロン濃度を基準に使用するなら、5 nmol/L以下の固定しきい値を採用する必要がある。等
初恋も女の子で、今まで付き合ってきたのは女性だった。男性嫌いとかトラウマがある、とかそんなのはなく、ただ性的指向として女性が好きだった。
女子校だったから、とかは正直関係ないと思う。何故なら私の周りの友だちはみんな学生時代から異性に興味を持っていたから。例えば男性教諭とか、芸能人とか。周りに男子がいない分、彼女たちは楽しそうに彼らの話をしていた。
周囲が彼氏欲しい、とか街コンや婚活の話をする度に、壁を感じていたのは事実だ。しかし興味が無かったし、なぜ皆が異性と付き合いたがるのか全く分からなかった。
でも色恋の話をしている皆はキラキラしていて、純粋に楽しそうに見えた。それゆえノンケになりたい、と思ったが異性に全く興味が出ず、目が行くのは同性ばかり。
ビアンコミュニティで知り合った人と付き合い、別れて、を経験して恋愛って楽しいけど、辛かった。
暫く恋はいいやと思っていた。
そんな私が、異性と付き合ってしまった。
普段の生活で出会い、いい人だなと好感を抱いていた人だった。人間的に素敵な人だった。
付き合ったら幸せになれるかも、報われない恋愛を続けても未来は見えないし、と思った。
悩んで悩んで、結局付き合ってみるという選択をした。付き合う時にカミングアウトはした。
隠しておくのはフェアじゃないと思ったから。
手を繋ぐ時、嬉しかった。
キスしても嫌じゃなかった。
人間としては間違いなく好きだ。
同性とハグやキスするときに感じる嬉しさを、ときめきを、どう触れたらいいのかいいのかという緊張感を、彼には感じない。
けれども異性と付き合うのは楽だな、と思ったことも事実だ。女同士だとお互いの誕生日以外は割り勘だったけど、男女だと出してくれる…これはまあどうでもいいや。一番楽なのは、周りにカップルだと認識されて、街中でも手が繋げること。
同性同士だと難しい壁も、異性だと取り払われる。
それって絶対、私はこのままの方が楽じゃん。
同性を好きになる自分を砂に埋めて、心を偽った方がマジョリティとして、胸張って生きていけるじゃん。
だけどそれって誠実じゃないな。
挿入して欲しいとかそういう感情が湧かず、ひとつになりたいとかいう感情も湧かず、私はベッドの中で彼にしがみついて泣いた。皆ができていることを私はできない、ということが酷く悲しくて、彼にも申し訳なかったけれど、でもどうしようもなかった。
彼は「待つよ」と言ってくれたけれど、私は一生できないと思った。
どうすればいいんだろう。
もう女性を好きになる感情を捨てて、彼と付き合っていれば穏やかな幸せが手に入ると思う。
でも、それは彼にとっては不幸なのかもしれない。
異性を恋愛感情で好きになれない私に割く時間は将来的に無意味になるかもしれないから、彼にとっても、異性愛者の女性と付き合った方がいいに決まっているとは思う。
でも、たとえ恋愛感情じゃなくても、私は純粋に彼という人間が好きなのだ。
だから離れたくないし、一緒にいたいと思う。
その願望を持つ周囲の人を羨ましく思っている。
彼のこれからの人生を考えた時に、別れた方がいい相手、立ち去った方がいい人間だと思う。
付き合う前も、付き合った後も彼は優しかった。
私以外の周りの人にも優しい人だった。
Twitterで追い続けてる人がいて、その人は性的マイノリティで機能不全家庭育ちで、
人種や性的マイノリティに対する差別的な言動を改めない職場に嫌気がさして退職して無職。生活保護。
安倍政権が嫌いで、当然菅政権も嫌いで、自民党が嫌いで一日に一回は給付金をよこせハッシュタグをつけて流している。
クソオスも嫌い。アツギのタイツを擁護する奴は男も女も死ねばいい。なぜなら女性の性的消費を肯定する奴は存在そのものが罪だから。
ブログには、話題になったゲームやアニメがいかにマイノリティや女性に対して差別的であり許されないかを詳細に解説した記事がたくさんある。(知ったのはそれがきっかけ)
当然フォロワーも同じ思想で、その人が仕事辞めた時もやめて当然!とその決断を称賛していた。
身内同士でハッシュタグを大量につけた政治批判アツギのタイツ批判性的消費批判ツイートをRTしあってる様子を見て思うのは、
例えばあらゆる差別が解消され、女性は男性と全く変わらず公平に扱われ(あるいは男性よりも完全に上位に置かれ)、人が人種や性的指向によって扱いを変えられることもなく、あらゆるコンテンツが被差別属性に完全に配慮した正しい世界が実現したとして、その人は幸せになれるのだろうか。
そういったことに興味があり、追い続けている。
必ずしも異性を愛するわけではないって言うのが一般的に知られるようになってきたけど、
みんなどうやって自分の心の性を知るの?
自分は今まで肉体上の異性としか付き合ったことがないけど、同性を好きになる人もいる。
可愛いものが好きだから女子とか、車が好きだから男子みたいな簡単な区分けもないし、
異性の方が気が合って友達になれる人もいるから、女子と遊ぶ方が楽しいから女子の仲間、ともならない。
極端な話、肉体は完全に男性で性自認が女だけどいわゆる「俺女」で、
男性言葉を喋るし男っぽいと言われるような服装や髪型が好きで、性的指向は女性、という人が居たら、
この人は誰が見ても男性と思われるし、肉体的には異性と付き合っているけど、性自認は女なので同性愛者、ということになる?
逆に肉体が女性で性自認が男だけど「男の娘」になりたい、みたいな人は?
性自認とジェンダーレスを話と混ぜたらいけないのかも知れないけど、
男らしい、女らしいが消滅した世界において、自分の心は「男だ」「女だ」って言うのはどう決めるんだろう?
自分はどっち?って聞かれたらうまく答えられない。
自分の市場価値を見誤っていた。見誤っていたことに気付かないままここまで来てしまった。
年明けには卒論提出期間なのに。
最近ふとしたことがきっかけでこれまではないと思っていた結婚願望に気が付いてしまった。社会不適合者の自分には誰かがそばにいてくれないと死んでしまうであろうことにも。親がいなくなったらどうしたらいいのか。
中学生の時は大人でも子どもでもない分際で恋愛なんてもってのほかだと思っていた。
高校生の頃は高校受験の失敗を挽回するために何より受験勉強を優先していて、恋愛になんて全く興味がなかった。というか周りにろくな男子がいなかった。女子より男子の方が多い学校だったのに。
大学生になって、化粧もするようになったし服を「おもしろいから」とかいう理由だけで買わずに似合いそうなものを着るようになった。キラキラした高校生活を経て同じ大学の学生になった子たちの中に溶け込めるように努力もした。恋愛だってチャンスがあればするつもりだった。
でも中身は陰キャのままだった。クズなのに根が真面目なせいで要領が悪いのにひたすら勉強するだけの環境に身を置いてしまった。それこそ1~3年生の間は空きコマができればすぐに図書館にこもってスマホをいじったり、課題をこなしたりESの文章を考える生活をしていた。
バイトもやりがい搾取系のどブラック企業なので長期休暇はだらだらしながらバイトにしかいかない生活をしていた。
「真面目」に見えることはいいことだと思っていた。ばかだね自分。周りの「真面目」な子はもっと要領よくやってるのに。私はいまだに男の子の心をくじかないように話すこともできないままだ。
こうやって鯛女ができあがってしまった。高校3年生の時は彼氏の一人くらいはこの私にもできるだろうと思っていたのに。
4年の間にプライドばかり高くて弱みを曝せない、見た目は普通の女子大生なのに高飛車な女になってしまった。心を折られてまで私と話したい人なんていないのにね。
コロナが来る前に一回くらいナンパにのってみればよかった。今では顔の下半身にコンプレックスがありすぎてマスクを外したら相手にしてもらえないとしか思えなくてそんなこともかなわない。蛙化現象なんてぜいたくに怖気づくんじゃなかった。
何よりプライドが大事なダメ人間に恋愛なんて不向きなのは明白なのにそれを直すのは自分のプライドが許さない。
このまま祖父母を見送って親を見送って一人で墓守をして生きていくんだろう。
孤独死しないために貯金して自分の後始末はきちんとできるようにしなきゃ。
人生で一度くらい愛されて幸せだと感じたかった。親が経験した不運を自分は経験しなくて済むけど、同時に親が経験した幸せはどんなに頑張っても手に入らない。
性的指向もマジョリティでアセクシャルとかでもないのに親に孫の顔を見せてあげられない不孝な娘でほんとうに申し訳ない。普通になれない自分がふがいない。
俺はゲイなんだ。初恋の相手は男だったし、今まで生きてきて男としかセックスしたことがない。
でも最近、もしかしたら俺は生まれつきのゲイではなかったのかも知れないと思い始めた。
少し長くなるかも知れないが、読んで、そして率直な感想でも良いからコメントをくれれば嬉しい。
俺が初めて男とセックスしたのは10歳の小学校4年生の時だった。
相手はサッカークラブのコーチだった。当時の俺はすごくサッカーに熱中していて、クラブの時間も、放課後も休日もサッカーをしてない時間はないくらいだった。
当時俺に指導してくれていたサッカークラブのコーチは熱心な人で、厳しい部分もあったが基本的には生徒思いのコーチだったと思う。
そんなコーチと初めて性的な接触をしたきっかけは、俺が休日にもサッカーをしている話をしたことだった。
「そんなにサッカーが上手くなりたいなら、俺が時間がある時なら休みの日でも練習を見てやる!」
コーチの住んでいるアパートは、俺の実家からそう離れておらず、休日の練習場所にしようと約束した公園もアパートと実家の中継地点にあった。
しばらくの間、休日にサッカーの練習を付き合ってもらっていると、ある日コーチが「今日は練習疲れたろ?俺の部屋近いから休んで行けよ」と言ってくれた。
俺は当時、特に考えもなく「ありがとうございます!」とふたつ返事でコーチについて行ったと思う。
コーチの部屋は物が多いのか少し散らかっていた。コーチが部屋で飲み物の準備をしてくれているのを待つ間、ぼーっと部屋を見回していた時に、ある物が目に飛び込んできた。
エロ本だった。コーチは一人暮らしだからか、エロ本が隠すことなく部屋の隅に積まれていた。
エロ本、当時の俺はサッカーと同じくらいエロいことに興味があった。中学生の兄がいたので、兄の部屋に忍び込んでは押し入れに隠してあるエロ本を読んでいた。
当然、俺は興味があるそのエロ本を「読んでみたい…」と凝視していたと思う。
飲み物の準備を終えて持ってきたコーチはジュース片手に「何だ、興味あるのか?」と笑っていた。
俺がエロ本の表紙を凝視しているのが視線で丸わかりだったのだろう。
俺は「あります」と照れ笑いしながら答えた。するとコーチは「良いぞ」と言いながらエロ本を持ってきてくれた。
俺は「エロ本は大人しか読めないのに、読ませてくれて良いのかな」なんてことは全く考えず、ここでも「やった!」とか単純に喜んでいたと思う。
しばらくコーチと一緒にエロ本を読んでいると、「その年でもうエロいことに興味あるんか?」と肩や腕を撫でてきた。
コーチはわりと練習の時から頭を撫でてくれたり足や背中を摩ってくれたりしていたので特に違和感はなかった。
いや、今思い返すと本当は「いつもより多いかな?」という疑問があったかも知れないが、それでもいつもしていることだった。
俺は当時、友達と性的な話をしたこともないし、兄の様子やTVなどの情報を見るにそういう行為を表立って話すのは恥ずかしいことだというのは認識していた。
だからコーチに聞かれた時も「僕の年齢でエッチなことに興味を抱くのは恥ずかしいのかな」と思った。
コーチの問いかけに対して肯定で答えるのも物凄く恥ずかしそうにしていたのだと思う。
コーチは「照れることない。お前くらいの年齢からちょうどエッチなことに興味が湧き始めるもんなんだ」と笑いながら教えてくれた。
その言葉に俺は安心した記憶がある。この頃はまだ陰毛も生えていなかったが二次性徴期が始まる頃に、
同級生より性の話に恥ずかしさが少なかったのはこの時期の経験があるからかも知れない。
性への関心からセックスの話をコーチに振ったのは俺からだったと思う。コーチは笑いながら「あるぞー」と答えてくれた。
俺はセックスってどんな感じなんだろうとずっと疑問だったからコーチに「エッチって気持ちいいの?」と質問した。
エロ本にはセックスはとても気持ちの良いものだと書いてあったからだ。
コーチは「気持ちいいぞ。みんな大好きなんだ。でも周りにそういう話をしたりしない。みんな秘密にしてることだけど。」と
俺は納得していた。セックスの話をしてる人なんて見たことないが、でも隠して独占したいくらい楽しいことなんだと。
そう思っていると、するするとコーチの手が履いていたハーフパンツの隙間から俺の太腿を触っていた。俺は少し、いやかなりびっくりした。
「こういう風に触り合うと気持ちいいんだ、気持ちいいか?」とコーチは言った。
ここまで書いていて俺は思った、俺は当時コーチと初めて性的な接触をした時のことは今でも鮮明に覚えているし、初めてコーチとアナルセックスした時のことも鮮明に覚えているし、
小学校卒業とともにサッカークラブを辞めてコーチと会わなくなるまでの間にしていたセックスの内容も、全部ではないが印象に残っている経験は覚えている。
その仔細をこの文体で描いていると創作エロ小説を書いている様な気分になるし、読んでいる人は「嘘柱 誇張しのぶ ホラの呼吸乙、釣られねーよクソ腐女子w」と思って俺が思ったことを真剣には聞いてくれないだろうと思ったので割愛することにする。増田は追記ができるので反応次第では追記するかも知れないが、俺の経験したエロ話は今回要点ではない。
俺が思ったことは、俺は当時、確かに性に対する好奇心は抱いていたが、勃起や精通もしたことがなかったし(俺が明確に勃起と精通を体験したのは小5だ)、男女への恋愛感情も抱いたことがなかった(初恋は中学校で知り合った同級生男子でコーチではない)。
俺は小学校の時男性コーチとセックスをしなければ、あるいは普通に女性を好きになり恋をして結婚。子供を作っていたのだろうか。幼少期のこの性的な経験が指向をねじ曲げてしまったんじゃないのか。あの経験がなければゲイにならずにノンケとして生きていたのではないかと思うことがある。
実際、Google検索すると、幼少期の性的トラウマが云々という話を見かける。しかし、俺はあの時を思い出して感情がフラッシュバックして鬱になり自傷や自殺未遂を繰り返す。ということはしていない。
NHK中学生日記では男子中学生に対する男性臨時コーチからの性的虐待がテーマとして取り上げた回があったが、作中で登場した少年はかなり思い悩み不登校になったりしている。
一方俺は、コーチとのセックスは当時かなり楽しんで行なっていた様に記憶している。でなければ、何年もの間セックスをし続けることはなかったと思う。
それはつまりあの経験はトラウマにはなっていない=あの経験と俺の性的指向は関係していないということなのだろうか。
覆水盆に返らず。当時の経験をなかったことにした現在というものは存在しないが、もしそのIFがあったら、俺はどんな今を送っているのだろう。そう思うときはわりと頻繁にある。
【終わりに】
俺はコーチと肉体関係を持った後、もう関係がなくなった現在でも、自分のこの経験を友人や知人、親兄弟に話したことはない。
それは単純に性的なことをベラベラと他人に話すものではないという思いとそれが男同士ならなお他人に言って良いことではない。
という認識が小学生だった当時から、今でも自分の固定観念の中に根付いているからだ。
俺が子供の頃は、同性愛というのはTV番組で笑いのネタにされたり、気持ちの悪い可笑しいことだとして扱われる風潮がまだ残っていた。
今でもそうだが、オネェタレントはTVではキワモノ枠で、決して美化されたり憧れられる存在ではない。
つまり、ゲイはゲイというだけでバカにされていじられる存在だと子供ながらに認識していて、そして自分はバカにされて
「ホモだ!気持ちわるい!」と周りから拒絶されるのが怖かったのだ。いや、大人になった今でも、実はそれがとても怖い。
コーチは結局、俺が高校生ぐらいの時、同じ様に自室にサッカークラブの生徒を連れ込みセックスをしていたことがバレて逮捕されていた。
(しかも複数人だ。当時から実は俺以外にも別の相手がいたのだろうか。)
当時、近隣住民や同卒の友人たちはその噂で持ちきりだった。「俺、あいつに体触られたことあるぜ」とか「俺、あいつの家に来ないかって誘われた」とか
その話の内容は、性犯罪の被害に会う危ない目にあったというより「ホモ、気持ちわりー」という嘲笑の内容が多分に含んでいたと思う。
それもあって、関連の話で盛り上がっている友人を何人か見たが、俺はなるべく話に関わらない様にしていた。
また、俺は被害を訴えようと思わなかった、それはやっぱりコーチへの憎しみ(さほどなかったが)よりも、その経験がバレたことで周りから拒絶されることが怖かったからだ。