はてなキーワード: 学術とは
こんにちは、大学で政治学を学んでいる学生です。白井聡氏の論考が、鋭い指摘をしていると一部で話題になっているそうです。無料公開分を読んでみたものの、私にはどこが鋭いのか全くわからなかったので、疑問に感じた点をまとめました。
以下の引用は、論座に掲載されている『【1】安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である』(白井聡)に基づきます。
本稿で私は、第二次安倍政権が2012年12月に発足し現在に至るまで続いたその間にずっと感じ続けてきた、自分の足許が崩れ落ちるような感覚、深い喪失感とその理由について書きたいと思う。
タイトルには「日本史上の汚点である」とあり、これまでの政権と比較した上で安倍政権が汚点であるとの主張がなされている。しかし冒頭の段落で「深い喪失感とその理由について書きたい」とあり、タイトルと内容が乖離しているように読める。
「[多くの日本人が安倍政権を支持してきたという]事実は、私にとって耐え難い苦痛であった」とあるように、記事の1ページ目全てを使って、白井氏は己の「知性と倫理の基準」を満たさない政治家が支持されている現状に対する深い失望感を述べている。
しかし、白井氏が評価に用いた「基準」が明らかにされることはない。これは学術論文ではないことは重々承知だが、仮にも学者を名乗りメディアに寄稿する者が、印象論を展開すべきだと私は考えない。
無論、あちこちで指摘されてきたように、どの領域においても安倍政権は長期安定政権にもかかわらずロクな成果を出せず、ほとんどの政策が失敗に終わった。
私の知る限りでは、安倍政権の政策には賛否両論あった。例えば、政権の代表的政策であるアベノミクスは、株価の上昇をもたらした一方で、日本経済の実力を示すとされる潜在成長率は低水準に留まっているし、デフレの脱却も達成されていない(「アベノミクスの8年とはいったい何だったのか」東洋経済オンライン)。外交についても、日米同盟を強化し安定的なものにしたという側面もある一方、拉致問題は進展を見せなかった("The Abe Era Ends, Cheering China, Concerning Washington", Foreign Policy)。これは評価の問題であるから、「ほとんどの政策が失敗に終わった」と結論づけるならば、その理由を示すべきではなかろうか。少なくとも、「あちこちで指摘」されているのなら、それらを引用すべきである。
こうして腐敗は底なしになった。森友学園事件、加計学園事件、桜を見る会の問題などはその典型であるが、安倍政権は己の腐りきった本質をさらけ出した。
白井氏は腐敗の例として、伊藤詩織氏に対する性的暴行事件、森友学園事件、加計学園事件、桜を見る会の問題を挙げている。これらに関しては、新しい政権の下で調査を行うことが必要だろう。流行語にもなった「忖度」であるが、私には構造的な問題に思えた。というのも、忖度があるのならば、それは官邸の強い人事権、また中央省庁を頂点とするピラミッド型の組織を背景とするはずだからである。官僚組織が官邸から独立しているのであれば、何も官邸の顔色を伺う必要はない、また強い分権型の組織であれば、中央省庁の忖度を汲む可能性も減る。つまり、忖度は組織構造がもたらすものであり、政権担当者に関係なく起こりうるものではないか。腐敗が疑われる事例があったことは間違いないが、それを政権固有の問題として片付けるのは、政治学者としてあまりに稚拙であると考える。
例えば、新元号の発表と改元の時の政権の振る舞いを思い出してみれば、それは明白だ。先の天皇(現上皇)の譲位の意思に対しては執拗な抵抗を試みたくせに、新元号の発表となれば、安倍は前面にしゃしゃり出て、「令和」に込めた自分の「思い」を滔々と語った。
私は年代的に平成の改元のときの事情を知らないが、これは比較することが必要ではないか。小渕元首相は「平成おじさん」と呼ばれていたと聞くが、それは白井氏のいう「抑制的」な振る舞いだったのだろうか。パフォーマンスとしての側面があったとするならば、今回は譲位という形をとり、準備に時間があったことも理由としてあるだろう。
十分に機能してきた制度(センター試験)をわざわざ潰して民間業者を導入する主たる動機は、安倍の忠実な従僕たちの利権漁りである。安倍自身の知性に対する憎悪がそれを後押しした。
「十分に機能してきた制度」、「安倍自身の知性に対する憎悪がそれを後押しした」という主張には根拠が必要であると考える。両者ともに白井氏の印象ではないか。特に、センター試験については、教育学等の知見があるのではないか。
3ページ目に入る。この引用では、安倍政権下で公正と正義をめぐる議論が失われたとあるが、果たしてそれはそもそも存在していたのだろうか?卑近な例を挙げるならば、雇用環境や性差別をめぐる問題は、安倍政権以前からあったと記憶している。
私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ず、その復活のためには、総理自身の違法・脱法行為の究明が絶対的に必須である。
この箇所には同意しかねる。(4)でも述べたように、不正は為政者一個人の問題ではなく、構造的な側面を持つものだと私は考えるからだ。政府という巨大な組織を、その頂点にいる者が意のままに動かしていると考えるのは、あまりにも非現実的ではなかろうか。総理個人だけを追求するのは、非本質的な結論しか導かない。
引用文を含む前後の段落の意図が掴みかねる。政治家はスケールの大きな不正をする方が大物だと言いたいのだろうか。
政治には腐敗がつきものであり、安倍政権もその例外ではないはずであるから、政権の終わりを調査の終わりとしてはいけないという意見には納得できる。しかし、政治と腐敗を特定の政権と過度に結びつける白井氏の論調は、腐敗・不正を許しうる構造への追求を妨げるものだ。
また、この文章を「学者」として公開することの意義は何なのだろうか。少なくとも私は「学者」という職業に就く方には、その他大勢の「評論家」とは一線を画する議論を求めたい。
「評論家」ならば、印象論で語ることも、明確な根拠を示さず何らかの主張を行うことも大目に見られるであろう。しかし、専門家としての訓練を経たはずの「学者」は「評論家」とは異なる論理展開をすべきである。主張には適切な引用があるべきだし、用いる言葉の定義を明確にすべきである。
もしも、本来ならば専門家たるべき「学者」が、都合よく「評論家」の顔を使うのであれば、それこそ知性の劣化ではないか。
本記事には直接関係ないが、白井氏はFacebook上で人の生き死に関する発言を軽々しく行なったと聞く。白井氏には、そして日本の大学の全ての大学人の皆様には、是非とも学者としての矜持を持った発信をしていただきたい。印象に基づく議論は、分断と対立を深めるだけである。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200824123957
思想や行動が合わなくて友人関係を見直すというのは一般的なことなので
けどさ、いつも思ってるけどさ、ヴィーガニズムの話題になった途端に「思想の押し付けは良くない」ってコメントするブクマカ多すぎない?
普段みんなフェミニズムとか表現の自由とかの時は「私と同じ思想になってほしい」みたいな風にでコメントしてるじゃん
友だちがワクチン接種推進動画を拡散!押し付けだ!もう友だちやめる!とか増田に書いた日にはブコメでボコボコにされて魚拓まで取られるじゃん
ねえなんでヴィーガニズムの話題だとスッと冷静に「やっぱり押し付けはダメだよね」みたいな顔になるの?(一応、私は全部肯定してます)
そんなのとヴィーガニズム/表現の自由/現代医学を一緒にするな、っていうかもしれないけど、
前提としてヴィーガニズムは現代倫理学でも肯定的に扱われているし、一部ブコメのようなちゃちい反論もどきでは到底崩せるようなものではない、
というのは倫理学をちょっとでも勉強したことがある人なら知っているはず
少なくともヴィーガニズムは疑似科学やカルトのような、現代的な倫理観や科学的知見に反する非論理的なトンデモさんではないのですよ
もちろん、学術的に確立されてる思想なら押し付けて良い、ということには必ずしもならないけど
繰り返すけど、押し付けだと思ったから友人関係を見直す、というのは理解できる
けど、みんなヴィーガンの「私と同じ思想になってほしい」にだけ異様に厳しくない?なんなの?食べ物の恨みは恐ろしいってやつなの?
あとさ、食べ物の恨みならしょうがないとしてもさ、せめて「肉を食べないと怒りっぽくなる」とか「ヴィーガンはカルト」とかみたいなデマを流すのは止めない?
どこでも最近話題になるフェミの生態について、個人的には女の立場から見てもただただマウントしたいだけなんだよなぁと思っている
・全ての男が私を女扱いして女というだけの自分を崇め奉り優遇しなければ許せない
・優れた(容姿・職歴・学歴・出身・権力・社会的影響力・人種などなど)男以外の男が私を性的な目で見たり私と対等以上の立場に立つことは身の程知らずで許せない
・全ての男が私以外の女(二次元を含む)を好きになることは許せない
・私より格上の(容姿・スタイル・職歴・学歴・社会的影響力・若さなどなど)女(二次元を含む)は存在が許せない
・私より格上の女(二次元を含む)が私よりチヤホヤされることは許せない
・私より格下の女(二次元を含む)が男女問わず他人から少しでも私より優遇されることは許せない
…ってな感じで男女問わず自分の存在が何よりも素晴らしいもので、それを認めず自分以外に注目する人間や自分が支配できない人間はクソ!死ね!という思考でしかないんだよな
逆立ちしても自力で勝てない要素、特に権威については、「フェミニズム」という学術の名を傘に着たり学歴詐称することで自分は格上だと主張する
同じく逆立ちしても色んな要素で勝てない二次元は大嫌いな癖に、(自分と対等(だと勝手に認定している))女を磨いて優遇するための方法を指南する18禁一歩手前のメディア企画には規制を叫ばない
他に勝てない要素はポリコレの名の下に私の正義は社会の正義!とノイジーマイノリティ化する
LGBTは男女の都合の良い部分だけ取り上げて攻撃と守備の対象を使い分けてるという姑息さ
上で言う優れた男からハラスメントされました!って言い出す奴の話は見たことも聞いたこともない
せいぜいその優れた男が自分を優遇しなくなった時にここぞとばかりにぶっ叩くくらいだろ
女性のため!って言いつつむしろ平等と解放の意味を履き違えて女性の立場を下げるだけの言動を取る奴しかいない時点でお察しだわ
なお、何が最もイヤかと問われれば、フェミの思考は勝手だけどそれを世の中に強要してくる点に尽きる
…客観的視点を持ってまともな学術としてのフェミニズム研究をしている人は所謂上のようなフェミについてどう思ってんだろ
▪️追記
まぁ「不買運動」の明確な定義自体が学術的に定まってるわけじゃないのでね。
例えば韓国の日本製品不買運動なんかは、例えば日本政府によるホワイト国除外などが理由で、日本企業の製品が不買運動されたわけで、その製品自体に問題があるわけじゃない。
宇崎ちゃん献血ボイコットだって、宇崎ちゃんのポスターを問題にした人がいただけで、献血行為自体に問題があったわけじゃない。
そういう違いがありますね。
「高校で文学の勉強をせずに、もっぱら実用文に重きを置いた教育をすることになった」という記事だ。
「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育 | 教育現場は困ってる | ダイヤモンド・オンライン
あまりにも間違いが多いので、どこかでデマとして中和されるだろうと思っていたが、一向に中和されず、インフルエンサーまでツイートしはじめる始末なので、無駄かもしれないが、間違いを指摘しておきたい(一部については、心ある人の指摘によって途中で記事が修正されている。ありがとうありがとう。)
デマに対処するのは面倒だが、整理しつつ述べていきたい。なお、この文章は今回の改訂の方針に賛成・反対という立場を採らずに書く。
「2021年から「大学入学共通テスト」が実施され、それに合わせて高校の国語の改革も行われることになった。」と書いてある。これはその通り。そして、モデル問題として、「国語に関しては、生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書が問題文として出題された」と書いてある。これもその通り。
しかし、既存の「小説(詩)」や「評論」が出題されなくなるわけではない。このことを書いていないことが悪質だ。モデル問題は、記述式がなくなったため、参考になりにくくなっているが、ちゃんとモデル問題そのものを見てほしい。思ったものと違うはずだ。
「実用文」は確かに出題されるようになる。だが、それだけを出題するわけではない。古文も漢文も出る。
ここからが少しややこしい。高校の国語には「必修科目」と「選択科目」がある。
必修科目は主に1年生で学ぶことになる科目だ。これには、「現代の国語(評論文や実用文)」「言語文化(小説や古典)」の2つがある。これはどちらも学ぶわけだ。科目を2つに割ることはどうなのか、という議論はあるが、「小説」が消えるわけじゃない。
記事の中で書かれているのは、2年生以降で学ぶことになる選択科目だ。これには4科目ある。
「論理国語」:実用文や評論文 論理的に書いたり話したり聞いたりすることも学ぶ
「文学国語」:小説や詩 小説や詩を読んだり書いたりすることを学ぶ 創作楽しみだ
「国語表現」:主にコミュニケーション中心の科目。レポートを書いたり、スピーチをしたり、ディスカッションしたりを学ぶ
「古典探究」:古典 古典を読んだり、古典について探究的な学習を行ったりする。古典と現代の言葉を比較して変遷を調べたりもする
中身は大ざっぱに書いている。くわしくは学習指導要領を読んでくれ。
で、この4科目から、おそらく「2科目」(多いところは「3科目」)選ばれるだろう、というのが今の目算だ。
いわゆる進学校だと、入試を考えると外しにくいのが「論理国語」。これは記事にも書いてある通り。もうひとつは「古典探究」が確かに有力だろう。だが、「文学国語」が選ばれる可能性もそれなりにはある。
そもそも元になっている記事は「古典」にまったく触れていない。「古典」にはかなりの部分文学が含まれるのだから、「文学の勉強をしない」は嘘っぱちだ(古典文学よりも近代や現代文学が大事だ、という主張ならばできる)。
さて、肝心の「論理国語」だが、記事ではあたかも「実用文」の科目であり、「駐車場の契約書、レポート、統計グラフ、取扱説明書」を学ぶかのように読めるが、これだけではない。
対象になっているのは、「論理的な文章(論説文や解説文,社会生活に関する意見文や批評文等)」と「実用的な文章(法令文・記録文・報告文,宣伝文等)」だ。記事では前者についてほとんど言及していない。そして、このどちらも単純に理解できるようにするんじゃなくて、散々言われてきたように「批判的に」読めるようにすることをねらっているものだ。
記事に書いてある「実用文しか読まない非教養人」を育てることになる、という指摘はミスリードだ。そして、こういう記事にミスリードされない人間を育てようとしているのが、今回の改訂だと言ってもいい。とはいえ、専門外の文章を批判的に読むことが難しいことは、今回のことでもよくわかっただろう。
今回の改訂には問題も色々ある。だが、不確かな情報で議論したところで得るものは少ない。
とりあえず、ダイヤモンドオンラインの書くことを真に受けて、「これでは日本が崩壊する!」とか叫ぶのはやめてほしい。「本当かな?」と思って調べる一歩を大切にしよう。
ブックマーク数15は超えて安心したが、デマに対するワクチンにはなりそうになくて残念だ。
とにかく、教育に関する議論は「自分が受けた教育」をベースに話す人が多いが、それには注意しよう。今のコンピューターのことを話すときに、WindowsXPの経験をもとに話されても困るだろう(これは比喩)。教育も同じことで、少なくとも10年単位で教育はかなり変わる。教科書も変わる。確かに、高校は変化がにぶい。だが、小学校や中学校は大きく変わっている。もちろん、「変わる」ことがいいことだとは限らない。
現状に問題がないわけでは全然ないが、自分が「いつの問題」のことを話しているかを意識して話さないと、互いの話は食い違い続ける。
こういうご指摘をはてなブックマークでいただいた。ありがとう。
myogab
反論の組み方が藁人形論法ぽくて、元記事の筆者もそんな極論だけを吹聴する気はないだろうよ…って感想。誤解が広まってるなら訂正は要るだろうが、論点逸らしをしてるなら逆効果だろな。
藁人形論法のつもりはなかったのだけど、冗長になると思ってあまり引用しなかったせいかもしれない。できれば元の記事を読んでみてほしい。論点は色々あるが、この記事では論点を示すことが目的ではなかったので触れなかった。触れた方が盛り上がるのかもしれないけど。
で、誤解なのだが、わりと広がりつつあって頭が痛い。Twitterでは、「#国語教科書の小説廃止に抗議します」というハッシュタグがある。だから廃止しないんだって。
今日は町山智浩さんが「国は国語教育から文学より実用文を重視する方針ということですが、それでいったい誰が国語教師になるというのでしょう?」と元の記事を引用してツイートしてた。読書猿の人も(おそらく好意的に)次のツイートをリツイートしてる。
hhasegawa
文学中心ではない国語教育を、というのは実はわからぬでもないものの、そこで持ち出される「実用文」が「生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書」なのがいかがわしい。文学以外の文章といえばそれしかないの?
小説や文芸評論ではないテクストがすなわち規約や広報や契約書ではないわけで、例えば論説記事でも歴史叙述でも新書のような学術的概説でもそれに該当し、どれも相応に「実用的」なのである。要するに、「論理国語」で真に排除されかかっているのは文学ではなく、「テーゼのある文章」一般ではないか。
「論理的な文章」に「論説文」が入ってるんだから、「テーゼのある文章」が排除されるわけがない。これも、元の記事があたかも「実用文」だけを学ぶ科目であるかのように書いたことが原因だろう。このツイートをした人は、数日後に次のようにツイートしてる。
一応、「論理国語」教材に「新書や新聞の社説などで取り上げられる様々な分野の学術的な学習の基礎的な課題に対して、論点が明確になるようなもの」も挙げられてはいた。が、ここまで「実用」志向だと、この「論理的な文章」の内実もどうなることやら。
その心配はたぶんないよ、と言いたい。これまでの傾向から完全に変える冒険を教科書会社はできない。これは良くも悪くも歴史が証明している(いや、悪いのだが)。冒険をする教科書は売れない。
このあたりの人は、いわゆる「一般の人」よりはリテラシーがあると思う。が、それでも不確かな記事をもとに不確かなことを言ってしまう。これはまあそういうもんだよな、と思うんだけど、燃え広がりつつあると真顔で「それはちがうよ」と言うしかない。
カーネギーメロン大学(英語: Carnegie Mellon University)は、ペンシルベニア州ピッツバーグに本部を置くアメリカ合衆国の私立研究大学である。
大学のモットーは、"My heart is in the work (私の心は仕事の中にある)"(創立者アンドリュー・カーネギー)。
藝術と工学が特に名高く、また異なる学術間の交流が活発であり、それを推進・実施している大学としても知られている。
例えば、コンピューター・ゲームにもっとドラマ性を持たせる、というビジョンのもとで演劇専門とコンピューターサイエンス専門の二人の教授がキャンパス内に設立した「テクノロジー・エンターテイメント・センター」は、いまや世界屈指のコンピューターゲーム開発・製造メーカー(SONYなど)までもが自社の社員をこのセンターに留学させるほど、世界最高峰・最先端のストーリー性のあるゲームの実現に貢献している。
日本はアビガン含めてそれどころじゃないんですけど。莫大な金注ぎ込んでるのにね
さすが不正研究で名指しされ著名な学術誌や国際学会では口にできないようなことを
ワクチンはおそらくできるけど(じゃなきゃなんでスパイが暴れてると思ってるんだ)、
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9272/?ST=m_news
コロンビア大学メイルマン公衆衛生大学院、ジョン・スノウ冠教授で同大学院感染症・免疫学センターのディレクターを務めるW・イアン・リプキン(W. Ian Lipkin)氏は、
「もし世界中の全ての人にワクチンを接種するとしたら、ある人がワクチンに対して副作用を起こす可能性は、MERSを発症する可能性よりも高いだろう」と話す。
◆予防の鍵はラクダ
SARSのときにはウイルスを媒介する動物の駆除が制圧を早めたように、MERSのさらなる感染拡大を止めることが何より望まれるという点では誰もが一致している。
リプキン氏は、最も有効なのがラクダだと期待する。MERSの予防ワクチンを人に接種するのではなく、感染拡大の鍵を握っているらしいラクダへの接種に焦点を移した方がよい。「宿主としてのラクダを根絶すれば、MERSを抑え込む合理的な一撃になるだろう」とリプキン氏。
ラクダ用ワクチンの開発であれば、人間用ワクチンの開発よりも安く、早く、容易に実現するだろうし、人間の場合に比べて安全性の懸念も小さいとリプキン氏は話す。
故あって「頭の回転が速い人間が集まるSNSコミニュティ」にいるんだが、その人間達がどうも気に入らず、辞めようか考えている。そのコミニュティに属していること自体で自尊心はちょっと高まるし、出会いもあるから、辞めよう辞めまいとグズグズしているのだが…。
頭の良さや回転の速さと、いわゆる「人間性」なんかこれっぽっちも関係しない。頭の良さを鼻にかけて、自分を持ち上げ、他者を見下すような奴が8割くらい。小学生でも知ってるようなことを今更気付くなんて、本当に愚か。
自分の持ち上げ方も、「見て見て!これ凄いでしょ!どやどや!!??」みたいな無邪気さがあれば素直に受け取れるが、なまじ頭が良いものだから「まぁ、こんな感じかな…」みたいにスカしちらしたひけらかし方なんだな。でも「俺は凄いんじゃ」的な傲慢さは全く隠し切れてない。そのギャップがまた気に障る。
コミニュティにはまだ若い高校生もいるが、そういう傲慢さを見て「こうやってひけらかして良いんだ」と学んでいるのか、もともとそうだったのか、真似ごとのようにイキっている。思春期でそうなると、もう止まらない。そいつの人間性はそうなってしまうのだろう。
頭が良いのは良いことだ。大学にいれば学術の発展に寄与し、会社にいれば事業を推進し経済を回す。完了なら国だって動かせる。歴史を作ってきたのはいつだって頭の良い人間だ。傲慢だろうがなんだろうが、そうやって実益があればそれが「正義」なのだというのも分かる。ただ、その傲慢さはとことん気に入らない。自分上げ・他者下げの性格まで一緒くたに「正義」と認識されたくはない。頭の良さに評価を与えたいのであり、その人間全体を評価したくはない。
そんな世の中にならないかな?
いえ、学術的にそう言われているという話ですね
今の社会には趣向によって色んなコミュニティというか、属性・ヒエラルキーみたいなものがあると思う
・技術系
・クリエイター系
・スポーツ系
・恋愛系
・ウェイ系、エンジョイ系
・見た目系(ファッション、美容、インスタ、インテリア、デザインなど)
・アニマル系
もっとあると思うんだけど
これらにどのくらい造詣があるかである程度人間を定義出来るんじゃないかと思う
そしてソレに対して造詣がゼロである場合、かなり馬が合わないと言えると思う
いい趣味じゃないのは理解してるんだけど、一年に一度ぐらい急に気になって、学生時代に好きだった相手の名前をググることがある。
相手は響きこそ普通だが個性的な漢字を下の名前に当てていて、検索に引っかかる数も絞られている。
何年か前にググった時は学術論文の名前が目に入った。大学院でも出たのかもしれない。
去年ぐらいにググったら、どこかの研究室で准教授をやっていた。出世のスピードが早いなとは思った。
そして今日、一年ぶりぐらいにまたググってしまった。相手はまだ研究室を移して働いていた。
その研究室ではメンバーの一覧を顔写真と共に紹介しており、引っかかったのはその名前だった。画像を開いた。
知らないおっさんだった。