はてなキーワード: 学術とは
とか任命を拒否するのがダメなことのように言われてるけど、拒否してはダメならなんでこんな制度あるの。
学術会議の任命の件、安倍政権の支持者だった人は「使える権利を行使して何が悪いんだ?」って感じだろうけど
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.timakin.com/posts/hacker-and-suits/
IT技術者のイメージが確立した頃のITというのは基本的に技術が収益性を決定していた。ビジネスの人間からすれば「おかしなこと」で、普通に考えれば顧客が何を求めているかが問題だ、という意識があったはずだ。
例えば、(フォードの速い馬車という意味ではなく)顧客がミント味のガムを求めていることが判明したとする。当然、ミント味のガムを製造すれば儲かる! のだが、ITでは「ミント味のガムを製造することを認めてよいかどうか」を決めるのはエンジニアであり、そしてエンジニアは実装言語の仕様書を読んでいるだけで、更にその仕様書は半導体ベンダが決定し、加えてその仕様書も主にカリフォルニア辺りの国立大学の発明を言語化しただけのものだ。つまり、ITにおいては、顧客が何を言おうと、経営者が何を提供したくとも、カリフォルニアの国立大学の研究室の学生が決めたルールに逆らうことは許されなかった(経営者的糖衣構文を使わずに言えば、実際に技術的に不可能)し、商業的に成功するプロジェクトとは「ルールの中で安価に実現可能なもの」と「顧客が欲しているもの」の共通部分のみを的確に選んで提供することができたプロジェクトだけだった。「技術が分かる経営者」とは、現時点の最新のルールを深く把握し、損益にどう出るかイメージを掴みながら商品企画を選べる経営者だった。
ただ僕も不思議だったのは、3[他部署を巻きこみプロジェクトを推進できる]にいるエンジニアですら「事業がわかる」エンジニアとしての評価を得られないケースがあると言うことです。ユーザーにいいものを届けたいし努力をしているつもりだけど、膨大な負荷がかかっているし経営層は何もわかってくれないということで、奥歯を噛み締めながらその場を乗り切っている方は少なくないのかな、と思います。
これはまさに「技術が収益性を決定するのは、本来はおかしなこと」という経営層の理解と、「現世で現実的に可能かどうかが最優先」というエンジニア間の乖離ではないだろうか? 経営層は顧客に価値を提供して対価を受け取りたいのであり、学術的な努力目標を数多く達成したいわけでは、本来はないのだ。だから他部署を巻き込んで膨大な負荷を受け止め新しい技術的知見を得ても、まったく意味がない。過去、技術的な制約を解除することには大きな意味があった。今はそうでもない。高い技術それそのものによる金銭的価値は少なくなったのだ。その結果、顧客が支払う金銭を最大化する製品設計の価値は上昇したし、そもそも元から低くはなかった。
そして、もちろん実行力も大事なのですが、彼らとの共通言語を持った上で会話ができる、具体的には採用方針を考えたりビジネスの状況を踏まえた塩梅での技術選定をしたり、さらには企業の将来像を共に議論するというある種の机上のフェーズですら、彼らは欲して止みません。それさえできれば多少の評価が得られるというのが、隠れた事実のように感じています(もちろん、それが良いとは言ってません)。視座が4にあるだけで相当な評価を得られるということですね。当然議論してるとしばらくしたら人事や社内管理、事業のブラッシュアップ、営業など、全ての方面で駆けずり回ることにはなるのですが。
となると、自らのキャリアに集中したい、技術力への危機感がいい意味で強いエンジニアであればあるほど例の三大美徳に殉じた方が技術者として成長するし、それで評価を獲得できる会社に転職するのが良い、となります。そして経営層からしてもそういうタイプの人だと同じレイヤーで議論をしてくれることへの期待値が高くないので、自然と「事業をわかって」くれないタイプだと見做して配置換えを行います。全てではないですが、こうした負の循環によって過剰にテックリードがいる組織が僕の頭にぼんやり浮かぶことがあります。
「優れたエンジニアは汎用的な問題解決能力が高く、その能力を是非とも経営でも生かしてほしい。あとは興味を持ってくれる人がいるかどうかだけなんだ…」という意見を経営層が漏らすパターンはこっち寄りです。そしてあくまで個人の嗜好性の問題なので、解決難易度が非常に高く、共通解も存在しません。1つ目の問題のように配置換えで多少解決できることではありません。
以上のような理由から、経営層はエンジニアにも「事業をわかって」欲しいと思いながら、その期待値を高く設定することができずにいるという印象を受けました。
まとめると、既存製品の改修にしろ新製品の企画にしろ、採用や企業内の人員配置にしろ、サプライヤや親会社との折衝にしろ、まず収益性をKPIに選び、検討項目を洗い出し、貪欲に裏付けを持って改善するエンジニアの能力を活かしてほしいという話だ。顧客からの売り上げを最大化する商品企画ができないエンジニアが多い、それが要点だろう。この文章にはエンジニアと経営者の言語が疎通しない理由が詰まっている。話の要点を短くまとめていない。要点をまとめないことを要求している。要点を省いている。だから技術的な制約と戦うエンジニアには通じないのだ。正直に「企業は顧客からの売り上げで成り立っている。だからできれば商品企画の段階でも収益性第一で企画進行が出来る奴が欲しい。そして社内外を問わずオジサンが求めているのは常に出会いだ。だから収益の話をグダグダ伸ばせること、酌ができることは必須だ」と言えばいいのだ。
税金で死ぬほど持っていかれたもののそれなりにまとまった現金が入ってきたたのだが、株式を持っていたのが父と私だったので、母には一円も手元に入ってこない。そのことについて母の恨みつらみが凄まじい。
元々母は歯科医だったが、自分が専門職の仕事を辞め子育てと家事をすべて請け負い、父からの八つ当たりや愚痴にも耐えてきたから今の成功があるのだと言う。そうであっても父が母に一円も残さずとも別に問題ないのだが、そういう問題ではない、真っ当な人間のやることではないと母は言う。
父は父で、母に現金を残すくらいなら医療・芸術・学術関係に寄付すると言い放ち早速いくつかの施設に何千万か寄付してしまった。
想像がつくだろうが父と母の仲は数十年来最悪である。父には軽度の障害と虚言癖があり、母は周囲から「女で歯科医にまでなりながら障害者と結婚しキャリアを無駄にした人生の敗北者」として後ろ指を指されてきた。信じられないかもしれないが昔は今よりもずっと差別的で、私も近所のおばさんや親戚から障害者の子と面と向かって言われたこともある。また父は自分をよく見せるための話術が抜群にうまく、虚実織り交ぜて巧妙に黒を白に変えてしまうような常人離れしたスキルを持っていた。会社経営ではこれがうまく働いたのだろうが、ビジネスだけではなく家庭でもこの調子であったので母は虚言につきあわされ辛酸をなめたことが何度もある。
父の障害を毎日介助し見栄のための虚言に耐え続けてきた母が受けてきた心労と屈辱は想像に余りあるが、一方で母は他人を強くコントロールしようとする癖があり、思い通りにいかないと父を大声で障害者、(自分に比べて)低学歴と罵ったりしていた。もはや普通にDVであるが「もうこうでもしなければ耐えられない」とのことで、爆発するとやって良いことと悪いことの区別がつかず見境がなくなる。
数十年の両親の喧嘩を見続けてきたものとしてはお互いに悪いところがあるよねとしか言いようがないのだが、当人達にとってはお互いに言い分があるため100%相手が悪いと思っている。
この件で一番何もしていない自分が漁夫の利という感もあり若干の罪悪感を覚えている。私が手に入れた現金の半分を母に贈与したら少しは気持ちも収まるだろうかと思って母に提案してみたが、それでは意味がない、父から取り上げなければいけないのに何もわかっていないと却下されてしまった。
二人が違った関係を築けたなら、金でこんなにこじれることもなかっただろう。かすがいになり切れなかった無力感があるが、烏滸がましいだけだったかもしれない。
今はただただ疲れた。
たとえばアニメのまどマギだってPSYCHO-PASSだって、高度な文芸や思想のモチーフに溢れているわけだけど、そういう専門的教養がない理系や文系の人だって楽しめるでしょ。SFってのも基本的には同じなんだよ。ベースはどれも娯楽にすぎんのだから、普遍的に楽しめるように出来ているが、「フック」のようなものは作品中に無数にばら撒かれていて、ネットで調べてみれば教養のある人は教養のあるなりの深さを見いだす楽しみ方ができていると分かる。大作SFだけが特別に高度な訳じゃない。もっとバカっぽいオタク向けの作品だって無数の「フック」が敷き詰められている。それが学術的な教養に繋がるものなのか、オタク文化的な教養なのかの違いがあるだけだ。
割とその辺はどうでも良くて
学術に対する態度と教育者としてアカデミアの人間として恥ずかしくない振る舞いであるかの話
批評や評論はともかく、研究の領域では「俺がジャッジだ」は本来あり得ないしあってはならないこと。
もちろん好きな分野を好きに分析し解釈して成果物を作るのは自由だけど、それは査読なり(学術的な)出版なり
ところが社会学はこのジャッジがほとんど無かったり、あってもその成果物の中身ではなく属人的なコネで
通ったりしてしまう。参照文献の中身を読まずにタイトルや序文を読んで思いついた話をその文献についての
分析だとして通してしまうくらいひどいチェック状況があり、そしてその結果、研究とはそれくらい適当に
自身の意見を書くだけでいい、まさに「俺がジャッジだ」でいいと思う人がたくさん生み出されている。
学者ならば他者のジャッジに耐えるために身についているべき先行研究分析力やデータ分析力、論理力が
しかし、これまでは大学で研究している学者として、それらの見識はあるものとして扱われてきた。それが、
ようやくどうも社会学ではそういった最低限の訓練がなされていないものが学者になっているということが
言動から知られるようになってきたわけだ。そうなると、まともな意見として扱ってはならない人リストの
ヒューリスティックに社会学者というものを入れたのに、いまだに学者面して権威を使おうとする様を
見せられることがまま起きて、嫌悪感が湧くという始末になっている。
頭悪いって言われて悔しいなら頭良くなればいいじゃん。
自分が頭悪いまんまでいいや、って思ってるならあー頭悪いんだなーで終わるんだけど、頭悪いまんまじゃ嫌っていう判断してるのに頭良くならないのはなんでなの?頭良くなろうぜ。
他人からよく頭が悪いって言われる?確かにお前は頭が悪いな。でもな、頭が悪いって平気で他人に言う奴なんて、人類の99%が頭悪いと思ってるし、自分は残りの1%だって無根拠に思ってるぞ。そんなバカになりたいか?なりたくないよな。人類の99%は頭が悪いし、自分は99%の部類だって自覚してるもんな。
勉強ができないから頭が悪い?まあそれもあるだろうな。お勉強ができたら頭が良い、これも一つの側面ではあるだろうな。私はお勉強はできたけど、まだまだ頭悪いぞ。人類の99%は頭が悪いんだ。安心しろ。
文章が書けない?それは訓練だ。学術論文は、「なぜやったか」「何をやったか」「どうなったか」「こうなった理由は何か」という、最も誤解の余地が少ないテンプレートに沿って書かれている。真似してみろ。
会話が苦手?これもほぼ訓練。でも雑談はかなり高度なスキルだ。できなくても気にすんな。しゃーない。
とどのつまり、「自分は頭が悪い」と思ってるってことは、何かしらのコンプレックスがあるんだろ。他人から言われるでも、学校で落ちこぼれたでも、まともな文章が書けないでも、会話が続かないでも、コンプレックスになっちまったら気になるよな。さて、じゃあそれを如何にして変えていくかだ。ああ、頭悪くていいやって思ってるならここでおさらば。コンプレックスの1つ2つ解決にもっていこうとしたところで、次のコンプレックスが出てきて「あーやっぱ自分頭悪いんだなー」ってなるから、疲れちゃったら休もう。休んで良いぞ。やる気が出てきたら、また地獄を生きよう。
学校の勉強ができなかったから頭悪くて人生が破滅する、なんてことはない。筆者は三十路だが、このタイミングで学校の勉強が唐突に誰よりもできるようになったとして、大した意味はないだろう。学校の勉強ができなくて悩んでるなら、あなたは今学生か、学歴コンプレックスがあるんだろう。後者の場合、そんなことで悩んでるなんて、自分はなんて「頭が悪い」んだ、みたいなことを思っているかもしれない。その場合、解決すべきは「そんなことで悩んでいる」の部分。学校の勉強ができるようになることじゃない。悩んだっていいし、悩まなくなったっていい。どっちの方向でも、「自分の中の心の傷がどこにあるか」がわかった時点で、コンプレックス解消の7割は完了している。あとはその傷を愛でるもよし、治すもよし、うまく付き合っていくもよしだ。自分のコンプレックスという、究極の自分ごとを言語化、言語化できなくてもそこに何かがあると理解できれば、その時点で「意味不明に私を苦しめるもの」から「意味不明だが自分の中の何か」に変わる。それだけでだいぶ楽になる。ひとつずつでいい、手の届く範囲で、解消すべき「頭の悪さ」を見つけてけ。これは本当に人それぞれいろんなパターンがある。どうしても行き詰まったらカウンセラーを頼れ。
よし、じゃあそれを治すという選択した場合について話していくぞ。先に言っておく、辞めとけ。愛でるかうまく付き合っていく選択にしたほうがいいぞ。
人はなぜコンプレックスを感じるか、治すのにめちゃくちゃ苦労するからだ。シンプルに変えるのが困難か、もともと向いてないんだよ。だからコンプレックスなんだ。人生はままならない。地獄だ。普通の人が1の労力で1得ているところ、向いてない自分がやると10の労力で0.1くらいしか効果がない、なんてよくある。地獄だよ。そこで大事なのは目的と目標の設定だ。
目的は一旦「頭よくなりたい」としようか。じゃあ具体的に何を満たしたら「頭良い」状態になるか?という目標設定が必要になるな、できれば定量的に決めよう。さあ、君のコンプレックス大開陳祭りだ。この時点できついぞ。頭が良いとはどういうことか?それに対して自分の現在はどうか?どんなギャップがあるか?ちゃんと並べてけ。きついぞ。そしてこのキツさは序章にすぎない。
コンプレックスを治すことがなぜ地獄か?目標設定が地獄、かつ、目標を満たしても満足行かないことが多々あり、無間地獄にハマっていくのだ。目標は、自分が満足できるならどんな目標設定でもいいぞ。例えば「長文が書けるようになりたい」を目的にしたら、目標として「増田お気持ち長文で100ブクマ超える」でも構わんのだ。できるやつにとっては簡単だろうな、私もできたぞ。でも意味の通る長文がそもそも書けん、なんてのはごまんといるし、人並みがロクにできないからコンプレックスになるのだ。それができてなんの意味があるのか?意味なんてねえよバカ。強いて言うなら自分が満足するためだよ。だからこそ、目標は達成したら自分が満足できるものにする必要がある。で、長文書けるようになりたい奴が、それを達成したとして、「なんだこんなもんか」だろ。童貞コンプレックスに悩む奴がナンパのノウハウ買ってセックスしたとして、より童貞コンプレックスが深くなる、なんてよくある話だろ。それが悪いと言ってるんじゃない、単に無間地獄だよと言っている。その無間地獄を渡りきった先に何があるって、諦めか寿命だ。大成もありうるかな?見たこと無いけど。
まあとにかく、コンプレックスを治すのは修羅の道だ。一度劣等感で傷ついたところはどんだけ修復しても元には戻らん。それはなぜか。「できること」に対する過度な期待があるからだ。学歴高いやつ羨ましい、学歴高けりゃ今の生活が1ランクあがるんじゃないか、他人を見下せて気分がいいんじゃないか。文章力あるやつ羨ましい、こんだけ書けたら楽しいだろう、ちやほやされてさぞ気分がいいだろう。全部、そんなことはない。それができても、全然そんなことはない。そんなことはないのだ。期待するな、自己満足で終わらせないと、待ってるのは無間地獄だ。
さ、みんなも頭良くなっていこうぜ。無間地獄に飛び込むんだよ。さあ、ほら、早く。地獄に来い。俺の前で楽しそうに生きるな。地獄へ来い。ふざけんな。頭悪いぞお前、頭良くなろうぜ。おい。頭悪いんだな?お前頭悪いんだろ?頭良くなろうぜ。地獄へ飛び込みに来い。クソが。全人類苦しめ。
追い詰められる学生や、職に就けない人・就いても絶望する人はいないと思うんだよな
ただ、増田が言っていることもよくわかる
学術や理解は遅れているが、海外ほど弱者に厳しくない・自己責任を求めない日本は
公共財のジレンマじゃないけどあらゆる場面で自助努力の放棄を生んでしまうんだよな
もちろん辛い状況にある人は自助努力を放棄しても良いのだけど(まずは逃げること・休むことが大事)、
しかし、だよ?
自分の権利を主張する/しないと損する、自分と他人は違う、裁かないという文化で生まれ育っても、
助けを求めることができない人たちがわんさか海外にもいる
日本は、権利を主張しない、適切なコミュニケーシを学ばない/学ぶ気もない、他と違うことを受け入れられない、
そんな人ばっかなので、助けを必要としないのに乗っかる人よりも、
適切に助けを求められない人の方が多いと思う
じゃあ具体的にどうしたら良いの?って言われたら、何も思い浮かばないし、
さっきから勢いのまま考えたことがあったのですが、書いているうちに内容が二転三転しだしたので、ある程度内容をまとめてみました(考えが十分だとは言ってない)。
多分に思慮不足・考慮不足な面があるはずですので、そのあたりご理解いただいたうえでご笑覧いただけたら幸いです。
というか気づいたら5000字超えているという時点で深夜ノリでもある(=きちんと構成を決めて書いてはいないため)。
本題ですが、個人的にバーチャルYouTuber通称Vtuberが好きでよく聞く・見るんですよ。でもエンタメ系の方ばかりで、例えば自分の大学院での専攻に関係したりとか、またそれだけに限りませんが、そういった専門知識的なことを売りにする方を追えていないんですね。僕のような青二才でも「そういう専門的な内容を扱う人って少ないのでは???」と思いつくくらいですから、確実に存在すると思うんですが。
で、そこでなんですが、その内容を「真実、ないし少なくとも一般に公開するに足る内容である」と担保するのって、そういうVtuberのような方だと大変だと思ったんですよ。
少し話がそれますが、昨今の情勢からYouTubeに講義をアップロードされている先生方がいらっしゃいますよね(畏れ多くもTwitterでフォローさせていただいている先生方の中にもいらっしゃいます)。先生方の場合は、もちろんそれを見る学生さんが「その先生ご本人の公開されたものである」から見るわけであって(それでも見ないケースがあったり、またネットの世界で「明確にそのユーザーが現実世界に存在する人間そのものである」ことを証明するのは難しい、というような内容は考慮しないものとします)、そのために明確に「このアカウントは私(前述の先生方)本人です」と明かされています。その「先生ご本人である」という証明のもとで、「お話しになる内容が本当のことである」(「その先生ご本人が話されるに値する内容であると認識される」)と担保されるのだと思うんですよ
長々と書いていますがここからが本題です。ですがこのVtuberの場合、そうした担保をするのは一工夫しないと難しくなります。なぜならば(あくまで個人の見解ですが)Vtuberはネットの世界にバーチャルとしての体を持つものであって、現実世界の人間そのものではないからであります。
要は「実際の人間社会で、ある程度Vtuberそのものとして信用に足るような業績などがない場合、その発信する内容が真実かどうかを担保するのって難しいよね」ということです。例えば高校くらいまでの「幅広い人が多少は知っている・名前を聞いたことがある」ような知識は、そのような本人の信用はそこまで関係してこない(発信内容だけを考慮してその真偽がわかりやすいため)としても、専門的な内容になるとその内容だけでは真偽を決めづらいんじゃないかな、と思ったわけです。
なお上記では「そもそも学問的な・専門的な知識だけでなく知識というものは、その内容を丸っきり信用するのではなく、常に批判的な目で見つめるべきものである(ので、そもそも内容の真偽を『発信者の属性で判断する』こと自体が不適当である」ということは無視しています。その通りだとは思うんですがね。
またVtuberとしてでもその内容を担保する方法として、例えばその内容の中で学術的に認められた文献などを参考にしたことを明言する、というものもありえましょう。
さらに直接的に担保する方法もあります(メタくなります)。例えば、ある現実世界の人間がそのVtuberの「プロデュース」などをする場合。これは「実際にプロデュースをする」(その現実の人間自体はVtuberにならない)場合と、「あくまで現実の人間はプロデューサーであって、いくらそのVtuber本人がその現実の人間と似た声や性質を持っていたとしても別の者である」と主張する場合の2通りがありますが、いずれにせよ「現実の世界にいる人間が密接にそのVtuberに関わっている」ことを示せます。またこれ以外にも、まるっきり現実の人間と同じ存在である(バーチャル体としての肉体を持つだけであって、その中身(いわゆる「中の人」)は現実の人間そのものである、とすることもできます(生身の人間そのものではなく、それにバーチャルな体を与えているため、Vtuberとしては成立すると考えています)。