はてなキーワード: 嘲笑とは
BUNKAタブーのバッグナンバー見返してこいよtwitterでもいい
死人侮辱・犯罪者被害者嘲笑・差別推奨等々なんでもござれなのに今更漫画家がdisられたくらいであーだこーだ言ってんじゃねーぞ
なんで吐き出したら楽になると思ったん
そういうとこじゃないん?
それで抜け出すってどういうことなん?
ハマってるとか進むっていってもどっちにか抜けたら先になにかあるんかとか
ゆうて抜け出すとかハマってるとかそんなん他人の言葉借りてるだけやろ
自分の今の状態だけ明確に理由があってどういうことなのか情報発信するんはどうなん
鏡みるやろ普通
他人は自分からみたら見えるやろ でも他人かて自分の姿格好は見えてへんやろ
あんたがみたもんを反射して自分がどういうものなのか解るってもんちゃうん
お笑い芸人がおったとしてな おもんないギャグでなんでウケへんのやろって
そのギャグがおもろいかどうかはお客次第やろ そのお客にどうしたいかは自分次第やろ
自分が赤い色が見たいとおもったらどうするん 自分が赤い色を発したら辺り一面赤くなるやろ
お客を笑わせたかったらどうしたらええんや 笑われることしたらええんやろ
この笑いが腑に落ちて自分の記憶と思考と合致したときにでるもんと 自分が絶対正義で相手が間違ってたり弱者であることの自己肯定感から来る嘲笑との違いがわかってへん若手も素質のないやつもおるけどな
なんで自分のギャグがうけへんのやろ 自分は赤い風景がみたいのになんで青にしか観客席がひからんのやろ って原因考えたら自分が青にひかっとるからだけなんちゃうん
たとえばな
器用に生きてて思い切れてるんいいなってみとるやん
じゃあやってみろっていわれて 恐る恐る手をだしてみるけど とどかんから不器用やないわれるんやろ
それもともと手がとどくとおもてやってへんやん
必死に手を伸ばしてとどかんかったら恥ずかしいとか 傷つくとかそんなんでわざとはじめから失敗するの前提でやってんのやろ
それで偶然とどいたりまわりが届かせてくれるようになったらええのにな とかそれだけが希望なんやろ
ちょっとそれナメすぎちがう? 他人が良い人になってくれるように自分が足りない人間やってる自負でもあるんかいな
自分が弱者でなんにもできないから周りの人に助けてと喚く それを聞いて堪えかねて助けてくれる人にお礼をいってなんてありがたいことかと返す
たちのわるいギャグやん 障碍者ネタでウケねらってる芸人みたいなもんやん 赤子かなんかなんか?
スポーツ選手が技をきめて成功したときでる観客の笑みは嘲笑ちゃうやろ それまでの失敗と苦労を笑ってるのとちゃうやろ
今来るべきところが選手にも観客にもわかっててそこに来れたときに自然と出る笑みやろ
その相互理解のために必要なんは失敗はありきで練習もありきでいさせてくれる環境なんちゃうん
まずなにより失敗を受け入れる自分自身の在り方がないとまず失敗のひとつもできんやろけどな
失敗するのわかってましたw っていえる自分がそんなにカッコいいんやったらカッコつけ続けたらええがな
器用ってもんはそれで大体わかるんちゃうん?
失敗したときどうすんのか 成功したときどうすんのか 準備できてるってことなんちゃうん?
なんでそんな先のことがわかるんやって わからんやろ
わからんけど 何回も繰り返してきたことやったら失敗したときも成功したときもパターンあるやろ
なんで毎回はじめてのチャレンジで練習もなしにできたことを評価されなあかんのん
そんなんラッキーマンかなんかやろ 自分の運を常にためしてんのか?
じゃあそのときどうしたらいいかわからんって なんも準備がなかったときどうするかってそれも経験値でなんとかなるやろ
ならんとしても ならんかったときどうするかって自分のテンプレがあったらええんちゃうん
失敗したときほかの人間はどうしてるん なんか真似したりしたらええんとちゃうの
全ての手が失われて想定外のときにはもう呆けてへたりこんだらええがな
もしあったとしたら めっちゃ貴重やろ その時にできなかったことをするチャンスがくるなんかそんなない事やからな
自分がそうなるんはもちろん嫌やけど でもそれを見た誰かがその次の手を考えるきっかけになるんやったら 自分はそこで失敗してもええかなって思う
そういう大切なもんは一個くらいあってもええんとちがうのん
まず失敗してみて失敗の仕方とその次の手を覚えるべきなんちゃうのん
失敗は失敗で終わらせて次をそのもひとつ向こうまですすめたらええやん
その先でまた失敗したらそこまでは失敗やけどその次成功させてもうひとつ進めたらええやろ
なんで連続成功体験でゴールまで無傷でいかんのかな とかおもてんの?
他人はみんな失敗したとこなんかみたことないから普通一度も傷つかずに成功しつづけてゴールしてるとでもおもてんの?
ちょっとそれは失礼すぎやろ 他人がコストをかけて売価かけてる売り物みんなぼったくりやゆうことになるやん
苦労して失敗やロスがあって その分加味しておゆずりできまっせゆうのが付加価値やろ
自分でやったら原価ゼロやんゆうてるんのおんなじやな じゃああんたの仕事ゼロ円でこっちにしたってくれやって話なるやん
ともかく
①器用に見えるんは準備があるから 準備すんのにはなにを準備したらいいか知らんといかん 知ってできるようになるには失敗せんとわからん
②自分を変えるにはまず自分を知らんといかん 自分は自分で見えんのやから自分を見てくれる人を探さんといかん
そんなとこちゃうの?
とりあえず失敗してもええからってことは失敗が取るに足らんことやと思えんといかんわけやろ
ということはそんなもんが小さいってみえるように 小さいゆうんは相対やから大きい目標もっとったらええんちゃうの
その大きな目標が崩れたら傷つくからこわい とかゆうんやったらせんでええがな
せんかったらどうなるかもう充分にわかってんのやろ 傷つかんですむ生活しとんのやろ それがそれでええんやったら続けたらええがな
実際いま完成してる成功体験に満足しとるんやったら何の問題もないやろ
失敗なんて小さい 大きい目標に比べたら なんていらん体験のために不安になったりする必要ないやろ
大きい目標に努力とかせんかったらもちろん成功もないけど傷つきもせんからな
けど絶対に大きな目標の達成が棚ぼたで寝ててもやってくる可能性はゼロじゃないといったところでほぼゼロやからな
自分がどういう人間かまわりに友達もおるんやからわかるのかもしれけど周りから返ってくる返事で自分を自分で知るって話先にしたやん
いま友達がおるしその人がゆうてるしでええんやったらそのままでええがな
ただ自分がどうしてそんなやつなんやろって それ自分がそんなやつやでって返してくるまわりの人間がおるからやろ
そうじゃない君がおるって話をするやつがおらんからそのままでおんのやし どうしたらええのかもわらんのやろ
自分のギャグがウケへんのやったら お客がウケるのにしたらええねん
自分を曲げてまでお客がウケるのしたないゆうんやったら 自分でおれる場所をさがして移動したらええやろ
どこにもないかもしれんけど 一生みつからんかもしれんけど 探しとるやつはいっぱいおるはず
探しとるやつを応援する自分やとか そういう人間に反射する鏡の立場になってないからそんな人らの姿もみえんのやろ
自分が鏡として役に立っとるんは 自分が反応を返しとる相手だけやでな
自分が自分でわからんとか 自分が自分の期待通りの自分じゃないって姿を返してくる環境とか友達とかは そういう鏡やってことやでな
自分をみっともなく蔑んで姿を映してくれる鏡やからこそがんばれるゆうんやったらそれでもええやろし 褒められて伸びるんやったら自分が綺麗にうつる鏡を探すべきやろ
失敗したらどうなるばっかり肯定してできないからしないって断固たる決意だけはできるのに どうなるかわからん未来はどうなるかわからんから不安でできないって意味わからんくないか?
なんで失敗したらやばいからできないってことだけ絶対選択できるんや
まあええけどな
じゃあせんかったらええねん
自分で行動しないけど結果がほしいときって もうほかに選択肢ないやろ
じゃあどうやって手に入れるん
自分で手に入れられるように訓練して出てくるけど まあまた戻っていくわな
無理なんは無理なんかもな
自分でせん人間には選択肢はもうないでな 自分でせんのやから生産が自分でできないの100%確実なんやから
とりあえず失敗して 失敗したっていえる人間がおって 次がんばろうやって言ってもらえたらええんとちがうの
(申立の趣旨および実情)
申立人らの氏「大楢」は「オオナラ」と読むのであるが、その呼び名が滑稽かつ恥かしい放屁の俗語である「オナラ」に通じ、「オナラ」と混同され易く、そのため申立人・・・は幼少の頃から「オナラ」、「臭い」、「スカンク」「ガス」等と呼ばれて嘲笑され、珍奇な呼び名の氏に悩まされ、申立人らは「大楢」姓に嫌悪と屈辱を感じており、現在においても未知の土地に宿泊する場合等は他の姓を使用している。
のみならず、申立人らは、今、申立人らの子供達が本人に全く責任のない「大楢」姓故に、かつて申立人・・・が受けたのと同様な嘲笑と屈辱を受け苦悩していることを知つて氏の変更を決意した次第・・・云々
「大楢」の呼び名である「オオナラ」が放屁の俗語である「オナラ」に通じ、「オナラ」と混同され易いところから申立人・・・は幼少の頃から「オナラ」、「臭い」、「スカンク」、「ガス」等と呼ばれて嘲笑され、申立人らは「大楢」姓に嫌悪と屈辱を感じ
更に最近に至り、・・・県・・・市に住む申立人らの長男・・・から、同人が友人と待ち合せるため喫茶店に居た際、友人から同店に電話があり店員が「オナラさん電話です」と大声で呼び、店内の客が笑い出し長男はしゆう恥のため電話に出ることができなかつた旨訴えられたこと
申立人らの二男・・・が女生徒から「ガス」と呼ばれたことに立腹してその女生徒に傷害を負わせる事件が発生したこと等が相次ぎ、子供達までが本人に全く責任のない「大楢」姓故に、かつて申立人・・・が受けたのと同様な嘲笑と屈辱を受け苦悩している
ところで、申立人らの氏「大楢」は、我々の目でその文字を見る限りにおいてはさして滑稽、珍奇な氏ということはできないが口に出して発音すると滑稽かつ珍奇な放屁の俗語である「オナラ」に通じ、「オナラ」と混同され易いことが明白である。そして、氏は個人を特定する呼称として、文字に書かれる場合のほかに、口に出して発音される必要の多いことはいうまでもないのであるから、「大楢(オオナラ)」のようにその呼び名が滑稽かつ珍奇な「オナラ」に通じ、「オナラ」と混同され易い場合には、その文字は滑稽、珍奇とはいえなくとも、その氏自体が滑稽、珍奇なものになると解するのが相当
_人人人人人人人_
> 滑稽かつ珍奇 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
https://anond.hatelabo.jp/20210513214243
ただのぼやきのつもりがペロって書いたのがなんか色々言われててびっくりしちゃった。
いい年してプリキュア見とんなよってお前らも見てるんじゃん!よ!仲間~!
「かわいい」っていうのをプリキュアが見た目だけのことを言いたいんじゃないんだろうけどそれを人生経験片手程度の子どもたちに伝わるようにつくっているか?とか、「子どもたち(女の子たち)のために」っていうスタンスをどのくらい本気でやってるんだろうってのはちょっと前から思ってはいた。
「かわいい」がすべてではないことを大人は知っているけど子どもたちはこれからそれを学んでいく過渡期にいるので、メインターゲットをその年齢に据えてる時点でプリキュア制作側は伝えるメッセージやその伝え方に慎重にならないとって思っている。
プリキュアやその仲間が「かわいくないからプリキュアになれない」と発言しても大人は「今のプリキュアそんなこと言うんかい」で済ませることができるけど
知識や人生経験の少ない子どもたちにはその言葉がもっと大きなインパクトをもって伝わる可能性ってのを考えなきゃいけない。
フィクションと現実は地続きにあるし、子どもたちにとってはよりその垣根は低い。
あとトロピカルージュ!プリキュアの続きを見たけど他人をキュートさがないとか見た目で判断してるローラがみのりん先輩に「決めつけんな」とか言っててお前がそれを言うのかって思っちゃったわ。
自分のツイッターのフォロワーにプリキュアオタクが何人かいてファンの間で話題になってることはだいたいRTでまわってくるんだけどこれもちょろっと人を見た目で決め付けておいて説得力ないぞ笑!みたいなのは見たからこの辺はファンの間でも言われてるのかな。自分が普段からプリキュアガチ勢ではないので(見たり見なかったり)詳しくないところも多い。
ルッキズムに限ったことじゃないんだけどメインターゲット女児先輩は気にしないからあれこれ言うな!そんなもん扱わなくていいんだ!って問題ないじゃないんだよね。
そこをメインターゲットに据えた時点で責任持って作品つくらなきゃいけないんだよって話で。
大人と違って判断できる知識や経験が少ないので良いことも悪いこともそのまま吸収してしまう危うさがあって、大人が鬼滅を面白いと思いつつ子どもにはあまり見せたくない(暴力的だったりちょっとグロかったりするから)って親もいるでしょう。クレヨンしんちゃんとか芸人の発言やバラエティの演出もそうだけど。テレビでやってるから悪いことじゃない、みたいな感じで面白がって人のこと嘲笑したり暴力ふるってしまったり。それを矯正するのも親の義務っていうけど、1回テレビやなんかで見て覚えたものをなぜ良くないのかわかるように言い聞かせて矯正するってすげえ大変でしょ。親の立場からしたらいい加減にしてくれって話よ。何度教育したってテレビで人の尊厳踏みにじって笑い取るようなことやられまくってたら親の教育もいたちごっこの連続だし、ちゃんとしつけする親ばっかでもないし。大人の立場で見てても楽しくないしね暴力とか嘲笑とか。
それからメインターゲットが保育園~小学生くらいの女児、だとしたらその中にはシスジェンダーでもヘテロセクシャルでもない女児や障害をもった女児も当然含まれるんだよ。
過去作品だけどHUGっとプリキュアでは男の子もプリキュアになれるとか、アンリと正っていう友情なのかBLなのかみたいな感じで男性二人の関係を出しつつ最終話で生々しい出産描写もやるの先進的とか言われてたけどまったくそんなことはないと思っていて、
むしろ女性への出生賛美をうたってほまれのヘテロセクシャル要素をゴリゴリに出しておいて性的マイノリティーについてはほのめかすだけにするっていうのはおためごかしなんだよね。
都合良く使える部分だけいただいて、まぁ、さわりだけやっておけば先進的と思ってもらえるラッキーみたいな。
あ~男の子もプリキュアになれる、お姫様になれるってとこまではできたのに、残念だなぁ、扱うなら正面切ってやれば評価されるのに…って感じだった。
異性愛者っぽい描写も出産シーンも生々しくないけど同性愛っぽい描写は生々しいんですか?セクシャリティに対して一体どういう考えで作品をつくっているの?って思うよ。
ターゲットとしている層にもマイノリティに該当する子は含まれているのに。
スタートゥインクルプリキュアは肌の色が違うことで受け入れてもらえなかった過去のあるキャラクターのことを扱ってた話があってそれは良かったなって思う。(スタプリは全部をきちんと見てないので全体としてどうかはわかんないんだけど)
わざわざ同性愛者だ障害者だ外国籍だってマイノリティを出すならそうだとはっきり分かる描写を出す必要があるのか、と言われたら出さないことで存在しないことにしている。のけものにしているってことなので、その年令の女の子たち(子どもたち)のことを考えて作品作りしているというスタンスを出すなら見て見ぬ振りやおためごかしはもうやめろって思う。
そんな表現は大人の自己満足だっていうけど、むしろマイノリティを無視する作品って子どもに一体何のメリットがあるのか…?
自分がマイノリティについて気にしなくて済むカテゴリーだ、マジョリティである、強者だって指摘されるようで居心地悪いだけなんじゃないんですか?
女性の仮面ライダーいたんだし男の子のプリキュアもレギュラーメンバーで出せば良いし、仮面ライダーも赤ちゃん育てたらいいんじゃないの(仮面ライダー全部見てないからもう子育て要素とか取り組んでたらごめん)
売れないとか商業的に…っていうけどそれならもう「子どもたち(女の子たち)のために」つくっているっていうスタンスも見直したほうが良いんじゃないかな。
玩具購入資金源の親がそんなもん喜ばないだろ!っていう意見出そうだけどそれもおかしな話で、
それはつまり親が自分の子どもはマイノリティであるはずがないしそんなもの目にもいれさせたくもないし
目に入れさせてマイノリティに目覚めさせたくない、そんなやつらのことは理解させる気もない、ということにもなるんじゃないの。(あえてちょっと強いことばにしてしまったけど)
親としては子どもがマイノリティである可能性を思えば(誰しもがその可能性がある)ロールモデルにできる存在や勇気をもらえる存在(それこそエンパワメントされるような)を小さい頃から見せてあげて「大丈夫だよ」と伝えてあげたいし、
本人がマイノリティでなくても身近にそういうお友達がいる可能性もあるから寄り添える人になってほしいと思う。
もし身近にマイノリティなんていねえよって思う人は、あなたの態度や発言を見聞きしてマイノリティ当事者はあなたにカミングアウトも相談もしたくないと思ってる、だから周りにマイノリティがいない、と考えたほうが良いかもしれないですね。
いわゆるLGBTQに該当する人が血液型のAB型や左利きと同じくらい、だいたいクラスに一人くらいの割合でいるそうなので。
つまり、そのくらいいるとなると総勢50人を超えてきたプリキュアにもいてもおかしくないって話にもなるわけで。
アニメとはちょっと違うけどセサミストリートだと障害のある子や同性愛者のキャラクターがいるし、ディズニーでも扱ってたよね。
バズったようなので、私も吐き出してみる。
馬の名前は多少知っていた。
流れてきたことが有り、それを見て実況を
ウマ娘というコンテンツを知ったのは2018年のアニメ1期のころだ。
このアニメにはまった。
サイレンススズカの沈黙の日曜日についても、手に汗を握りながら、
幸いにもそういうことにならずに済んだ。
アニメが終わった後は、pixivの二次創作(主にSS)を漁るのにはまった。
ウマ娘(未実装のウマも含む)がどういう背景を負っていて、どういう気持ち
競馬をあまり知らない私でもわかりやすい言葉で書いている作品が多く、
私の心を躍らせた。
2019年になり、パカちゅーぶとウマよんが細々と続き、リリースの延期が発表されるたびに
ネット上では嘲笑交じりで小さく取り上げられた。そしてアイマスにも関わったウマ娘担当の
石〇Pがサイゲームズを退社していたことが明らかになり、もう開発は絶望的だと思われていた。
2020年になり、コロナ禍が世間を襲い、攻略サイトがニンジンの育て方を載せていることがちょっとだけ
異世界転生ものってあるでしょ。あれは、現実世界ではうだつが上がらない平凡なあるいは平凡以下の人間が、異世界では圧倒的な能力を発揮して無双できるというのが基本構造。「いまの自分の能力で無双できる」パターンも「転生時に新たな能力を獲得して無双できる」パターンもあるけど、これって所詮は別世界の話なんだよね。日々の生活で、周囲の人達から自分が期待するような承認が得られないことに不満を感じたり鬱屈してる読者からすれば、無敵になった主人公の活躍を通して一定のカタルシスは得られるけど、どこかに虚しさも伴う。なんせ異世界に行っちゃった時点で最初から圧倒的にすごい人なので、『見返す』とか『ざまあ』みたいなスカッと感が演出できない。すごい人がすごいことをしてみせて、知らない人達に感心されたりビビられたりしたって、それは予定調和でしょ。
その点、パーティー解雇物っていうのはいいよ。なんせ、解雇される前もされた後も、主人公は同じ世界にいるでしょ。パーティーから「役立たず」「無能」と嘲笑され侮蔑されてた自分が、実際に放逐されてみると、そのパーティーではあらゆる物事がうまくいかなくなる。一方で、主人公は、同じ能力を持ったまま、それを認めてくれる新たな仲間たちと協力してどんどん成功する。この流れの中で、前のパーティーの仲間たちに「実はあいつは縁の下の力持ちだったんだ、今まで貢献を正当に評価しなくてすまんかった…」と悔やませるシークエンスが描写できる。追いすがってきて「もう一度パーティーに戻ってくれ」と懇願する彼らに、主人公は「もう遅い」と言い放つ。この流れには『いま自分が実際に担っている仕事の真価をわからずに自分を侮ったり虐げたり嗤ったりしてるやつらを、見返したり、痛い目に遭わせたり、反省させたりする』という、異世界転生物にはない強烈なスカッと感がある。侮蔑と屈服の落差がでかい。もうシャーデンフロイデが出まくりよ。
しかもこっちは、現実生活での憂さも多少なりとも晴らしてくれるじゃん。ただファンタジーの世界で無双するんじゃなくて、自分が日々やっている、他人にはなかなか顧みられない仕事や活動が、実はすごく価値があって、自分がその気になったらお前らは大変なことになるんだぞ、という密やかな夢想の快楽に浸らせてくれる。しかもパーティー解雇物だと、新たな仲間たちの方は主人公の真の能力に圧倒されて「主人公さんすごい…抱いて…」ってなっちゃうわけで、ここで異世界転生物のカタルシスもきっちり提供してくれる。だから異世界転生物よりもパーティー解雇物のほうが、読者をより深く承認し、より強い『スカッと感』を与えてくれる、上位互換版の物語類型なんだと思うよ。「読む麻薬」としての作用がさらに激烈になっただけだとも言えるけど、まあいいじゃないの、近代小説というのはもともとそういう性質があって、だから登場当時から保守派に批判されてきたんだもん。
物扱いしてると批判されてる増田だけど、ものすごくぶっちゃけた事言うと、お互い初見のお見合いの、せいぜい1,2時間で分かる相手のことなんてたかが知れてるから、ほとんどの人はスペックとかわかりやすいところに注目する。その意味で自分のスペックも相手が興味を惹かれる「良物件ではない」しそれを数時間で凌駕するコミュニケーション能力があるわけでもないと自覚してるから、それじゃどうしたらいいかってのは、いろいろ考えた。
服装とか会話の仕方の検討はもちろん、自分からはよほどの場合を除いてほぼお断り入れたことない。とりあえず仮交際してわかりやすいスペック以外のところで判断してもらうにはどうすればいいだろうか、人からの助けも得て色々試行錯誤した。言えば嘲笑の対象になるほどお見合いの回数もこなした。一旦本交際になりつつ破局したこともある。その上での今の結果を得た。
そういった経験をしつつなので、自分も当然相手のスペックだけで決めたわけじゃない。
相手を物扱い「だけ」してると捉えられたのは自分の不覚だけども、「相手もまずこちらをどう判断すればいいのかわからない(から、スペックとかで判断しがちになる)、その上で自分はどうすればいいのか」を考えないといけない、ってのが、自分の婚活で得た結論だって話。
弱者男性を名乗る人々が精神障害持ち女を「でも理解のある彼氏くんが」と、積極的に叩いて来たことは忘れないし、いくら弱者男性が辛そうにしていても「所詮弱者男性は自分の不幸を理由に人の不幸(精神障害)を軽んじ、嘲笑する人間性だからな」と思い続けるだろう。
これは毒親持ちのオタク女子(23)から、惣流・アスカ・ラングレー(式波・アスカ・ラングレー)に送る、一方的なラブレターである。
14歳の時に、DVDでエヴァを見た。画面の中で、私と同じ年の少女が「エヴァパイロットではない自分には価値などない」と、心から真っ赤な血を流しながら叫んでいた。その姿を見て私は泣いた。彼女の機体にかけられた虹色の光に、そしてその身を裂くような苦痛に、私も一緒に襲われていた。
それが私と惣流・アスカ・ラングレーの出会いだった。
アニメ版、旧劇場版でのアスカは母親に存在を否定されたという過去があり、自分自身の存在をエヴァパイロットであることに依存している14歳の少女だ。とても愛らしく美しい見た目をしており、自分の培ってきた能力で他者を圧倒することを厭わない高飛車なその性格と内側に抱えた闇は、一瞬で私を虜にした。
アスカが私を虜にしたのは、私の状況が彼女に酷似していたからだ。もちろん私はアスカのような美少女ではないし、大学に飛び級出来るほど頭が良かったわけでもない。しかし一応、県のトップ高校に行ける程度には勉強はできた。父というモラハラ上司に四六時中監視され自尊心を根こそぎ奪われていた私にとって、勉強はプライドの拠り所だったのだ。それだけが、私の誇りだった。
だからエヴァパイロットであることを拠り所にしているアスカの気持ちは痛い程よく分かった。そしてそれを取り上げられる苦痛も、それがなければ他者と関わることができないという辛さも、何もかも。
それ故、高校から大学にかけて私は彼女を愛した。彼女と出会う前は派手だと遠慮していた赤も、彼女の色だと思えば愛おしかった。私のような地味な女には似合わない赤の小物がいつしか部屋の中に増えていった。
ランダムのラバーリストバンドの箱を開けて、彼女の機体をモチーフにしたカラーではないものが出てきた時は心底がっかりした。
「あんたバカァ?」という嘲りを含んだ声色も、その内側に抱えているものを知る私には愛らしく響いた。
『心よ原始に戻れ』を歌うときには、いつだって彼女のことを思い浮かべていた。
彼女の高慢な態度も、その華奢な身体に内包した闇の深さも、海風に髪がなびいたときのきらめきも、心が壊れて廃墟のバスタブに横たわっていたときの姿も、頑なに心を開かないところも、最後にシンジ君に対して「気持ち悪い」と吐き捨てたところも、惣流・アスカ・ラングレーを構成するすべてを、私は愛していた。
しかし新劇場版では、アスカは母親の因縁から解き放たれていた。加地リョウジを愛することもなかった。それどころか何のきっかけもなくシンジを愛し、レイに碇親子の会食を勧めるようお膳立てしさえした。
そんな彼女は私の目にはまるで安っぽいギャルゲーの物分かりの良いサブヒロインのように映った。アスカがシンジを好きになるきっかけが埋まったエピソード(瞬間、心、重ねてとマグマダイバー)は、新劇では全てカットされていたからだ。
好きになる理由がないのにどうして?やっぱりシンジ君を上げたいだけの話なの?最近流行りの異世界転生のように?くだらない、くだらない、くだらない!
アスカの扱いの粗雑さに腹が立った。
私は新劇のアスカを愛することはできなかった。私の愛するアスカは惣流の名を冠する彼女だけだ。胸を貫くような痛みを共有できる彼女だけが、真のアスカ・ラングレー。そう、思っていた。
が、シンエヴァで彼女が救済されたことを知ったとき、素直に涙が零れた。心の底から良かったと思えた。彼女の首にはもう、DSSチョーカーはないのだ。置いて行かれたという気持ちがなかったわけではなかったが、いつか私もそうなれるのだというエールのようにも思えて、映画館で静かに泣いた。
私もいつか、父の呪縛から解き放たれ、自分自身の人生を生きることができるだろうか?
遠くから、私を嘲笑う声が聞こえる。お前は必要ないと叫んでいる。お前など産まなければよかったと、感情的に叫ぶ声が聞こえる。女の癖にと嘲る声が聞こえる。雪の日に裸足で外を歩かされた記憶も、八歳の時に殺されかけて失禁した記憶も、寄生虫と呼ばれたことも、女のお前など中流の公立高校で十分だと言われたことも、受験した大学が一つしか受からず受からなかった分の受験料をどうするのだと土下座をさせられたことも、弟が父に刺されそうになり慌てて止めたことも、十八の時に父の頭をフライパンで殴ろうとするも喧嘩慣れしていなかったせいで肩に当ててしまい殺しきれなかったことも、成人式の時に着物代を一銭も出さなかった父に私の用意した貯金額があまりに少ないと文句をつけられたことも、なかなか消えはしない。それはどうしようもなく、私の一部だ。
でもそれもやがて遠い記憶の中に埋もれ消えていく。
私が、未来を見て歩き続けるのなら。
傷つくことを恐れず、他人と関わっていこうとするのなら。
父の呪縛を一気に解いてくれる何かなんて、ありはしない世界で私は生きている。でも私はそれでいいと思う。確かにそんなものがあったらいくら金を積んだっていいけれど、ありもしないものを求めたって仕方がない。
アスカ。私がいつか父の呪縛から解き放たれたら、一緒に日比谷の無印カフェに行ってくれないか。そこでお茶をしよう。ケンスケくんの話をしよう。呪縛から解き放たれたきみと、一緒に笑いたい。
そんなことを言ったら、きっときみは「気持ち悪い」と言う。でも構わない。「気持ち悪い」と言われるのを恐れずにきみに話しかけられるようになること自体が、私が呪縛から解き放たれた証なのだから。
アスカ、いつまでもきみを愛しているよ。ケンスケくんとお幸せに。
anond:20210506234730を読んで、書いておこうと思った。
弱者女性を名乗る人々が精神障害持ち男を「でも理解のある彼女さんが」と、積極的に叩いて来たことは忘れないし、いくら弱者女性が辛そうにしていても「所詮弱者女性は自分の不幸を理由に人の不幸(精神障害)を軽んじ、嘲笑する人間性だからな」と思い続けるだろう。
そして今現在の心境としては、弱者女性がいくら辛そうにしていても絶対に手を差し伸べたくないと思っている。
思っている、というよりは
わたしは普段の生活において、「人に親切にしよう、人に気を配ろう、(いくらかの定型発達の人々が無自覚にするような)人を追い込むような真似はやめよう」と積極的に気をつけて生きているつもりだ。別に、不幸な人々を負け組と嘲笑し生きるような人柄ではない。しかし、弱者女性を名乗る人々の言動を見るうちに、「弱者女性は、こんな言動をしていたんじゃ差し伸べられる手も差し伸べられないだろうな」という感情が「誰が手を差し伸べるか」という気持ちに変化していた。
正直なところ、わたしは手を差し伸べられると、差し伸べるほどの余裕や能力があるとは言い切れない。だから、わたしがどう思おうと関係のない話かもしれない。
弱者女性には弱者女性なりの辛さがあるのだろう。それは、男性であるわたしには男性なりの辛さがあって、発達障害であるわたしには発達障害なりのつらさがあるのと同じだろう。わたしの辛さが弱者女性に完全に理解できるものだとは思わないし、わたしもまた弱者女性の辛さは理解できない。
弱者男性たるわたしと、弱者女性どちらが辛いかはわからない。測り、比べられるものだとも思えない。
しかし、弱者女性たるあなたがが辛いのだと主張すれば、辛いのだろうなと思うことぐらいはできる。「そうなんですね」程度の相槌は打てるだろう(それがわたしのコミュニケーショ能力の限界だ)。
これがわたしの線引きだ。これ以上はもう手を差し伸べたくない。
わたしが男だからか、は知らぬが「理解のある彼女さん」を作ろうと思えば作れるだけの性的価値とやらはあったかもしれない。
だがアセクシャル、アロマンテイックの自分にとって、理解のある彼女さんは不要だった。欲しいと思えなかった。
高校時代に鬱で心療内科にかかり、(ずっと怖くて診断を避けていた)発達障害の診断を受け、障害を受容し、社会で人並み程度に働けるようになるまでには多大な苦しみと努力があった。
わたしは普通には働けないのではないか、障害者雇用を選ぶべきではないか、そもそも、社会に出るべきではないのではないか、周囲が言うようにわたしは女性に養われるべきなのか、そのために好きになれない異性相手に理解し難い恋愛感情を偽装し結婚するべきなのだろうか……
人からすれば大したことのない悩みかもしれないが、わたしにとっては生涯を通して付き纏うだろう悩みだ。
「結婚という逃げの選択肢があるだけマシ」と言われるかもしれないが、その選択肢を負わねばならない人間にもそれなりの辛さがある。
結婚したくもないのに、結婚しなければ嘲笑される。養われたくもないのに、養われれば良い、養われるべきだ、養われないなんて、選べるのにこれを選ばないなんてバカだ、選べたのに選ばなかったなんて大バカだ、と謗られる。その風当たりは歳を取れば取るほどきつくなるのかもしれない。
辛いことだ。
弱者女性の「でも男は理解のある彼女さんが」は、大変不愉快で腹立たしく、そして不安な気持ちにさせるものだった。誰に対して言ったわけでもない、自嘲混じりの嘆きだったのかもしれないが、実在個人に当たる弾だったのだ。
わたしのようにアセクシャルでない障害者男性にとっても、失礼な言葉だと思う。
女性からの恋愛対象に該当するような男性になることは、フリをすることは努力が必要だ。金も、服装も、正しい話題選びも、普通の男性らしいふるまいをすることも、普通の男性らしいコミュニケーション能力を身につけることも、とても困難な男性達はいる。普通の男性に、普通に「価値がある」男性に、擬態する努力は何も異性から好かれるためではない。人並みに扱われるために不可欠な努力だ。「理解のある彼女さん」も「性的価値」も男ならば必ず初めから手に入るものではない。努力あってのものだ。
理解のある彼女さん、に好かれ、関係を維持している障害持ち男性は、自分の努力を語るにも周囲への感謝を欠かさない素晴らしい人だろう。
(正直な話、わたしだってアセクシャルとして、恋愛脳の異性愛者は結局「彼女さん」か、とうんざりしていたし、理解のある彼女さんに頼る甘えたバカ男のせいで自分の辛さが矮小化されるわけで恨みしかないわけだが、)理解のある彼女さん持ちの障害者男にとっても「お前らは理解のある彼女さんがいるからいいよな」は不快な言葉だったろう。
さまざまな精神障害が認知され、発達障害を持っていても療育によって働ける男性は増えていくだろう。異性に頼らずに生きる障害者だって、この世にいるのだ。
あなたがたは、ーーーあなたではないかもしれないが例えそうだとしても、弱者女性の名で、精神障害持ちの男性にたいして発してきた言動は、無かったことにはできない。
弱者女性の辛さを、弱い立場の男性を叩く正当化の材料にしたこと。自分の辛さを人への加害の理由にする、品位の無さ。
弱者女性は、弱者女性を名乗る幾人かの言う通り、ごく一部の自称・弱者女性がそうした言葉を発しているだけなのかもしれない。
弱者女性に寄り添う顔をして、(※フェミの反対の概念がない)叩き男叩きに興じる悪がいるだけなのかもしれない。
しかし弱者女性が、はっきりと、それを否定・批判しているは見たことがない。
例えたった1人でも、過去の(あなたもしくは弱者女性を名乗る他人の)発言を批判するならばわたしも考えを変える努力をしようと思う。
anond:20210509075626に追記を書きしました。
anond:20210506123407を読んで、書いておこうと思った。
弱者男性を名乗る人々が精神障害持ち女を「でも理解のある彼氏くんが」と、積極的に叩いて来たことは忘れないし、いくら弱者男性が辛そうにしていても「所詮弱者男性は自分の不幸を理由に人の不幸(精神障害)を軽んじ、嘲笑する人間性だからな」と思い続けるだろう。
そして今現在の心境としては、弱者男性がいくら辛そうにしていても絶対に手を差し伸べたくないと思っている。
思っている、というよりは
わたしは普段の生活において、「人に親切にしよう、人に気を配ろう、(いくらかの定型発達の人々が無自覚にするような)人を追い込むような真似はやめよう」と積極的に気をつけて生きているつもりだ。別に、不幸な人々を負け組と嘲笑し生きるような人柄ではない。しかし、弱者男性を名乗る人々の言動を見るうちに、「弱者男性は、こんな言動をしていたんじゃ差し伸べられる手も差し伸べられないだろうな」という感情が「誰が手を差し伸べるか」という気持ちに変化していた。
正直なところ、わたしは手を差し伸べられると、差し伸べるほどの余裕や能力があるとは言い切れない。だから、わたしがどう思おうと関係のない話かもしれない。
弱者男性には弱者男性なりの辛さがあるのだろう。それは、女性であるわたしには女性なりの辛さがあって、発達障害であるわたしには発達障害なりのつらさがあるのと同じだろう。わたしの辛さが弱者男性に完全に理解できるものだとは思わないし、わたしもまた弱者男性の辛さは理解できない。
弱者女性たるわたしと、弱者男性どちらが辛いかはわからない。測り、比べられるものだとも思えない。
しかし、弱者男性たるあなたがが辛いのだと主張すれば、辛いのだろうなと思うことぐらいはできる。「そうなんですね」程度の相槌は打てるだろう(それがわたしのコミュニケーショ能力の限界だ)。
これがわたしの線引きだ。これ以上はもう手を差し伸べたくない。
わたしが女だからか、は知らぬが「理解のある彼くん」を作ろうと思えば作れるだけの性的価値とやらはあったかもしれない。
だがアセクシャル、アロマンテイックの自分にとって、理解のある彼くんは不要だった。欲しいと思えなかった。
高校時代に鬱で心療内科にかかり、(ずっと怖くて診断を避けていた)発達障害の診断を受け、障害を受容し、社会で人並み程度に働けるようになるまでには多大な苦しみと努力があった。
わたしは普通には働けないのではないか、障害者雇用を選ぶべきではないか、そもそも、社会に出るべきではないのではないか、周囲が言うようにわたしは男性に養われるべきなのか、そのために好きになれない異性相手に理解し難い恋愛感情を偽装し結婚するべきなのだろうか……
人からすれば大したことのない悩みかもしれないが、わたしにとっては生涯を通して付き纏うだろう悩みだ。
「結婚という逃げの選択肢があるだけマシ」と言われるかもしれないが、その選択肢を負わねばならない人間にもそれなりの辛さがある。
結婚したくもないのに、結婚しなければ嘲笑される。養われたくもないのに、養われれば良い、養われるべきだ、養われないなんて、選べるのにこれを選ばないなんてバカだ、選べたのに選ばなかったなんて大バカだ、と謗られる。その風当たりは歳を取れば取るほどきつくなるのかもしれない。
辛いことだ。
弱者男性の「でも女は理解のある彼氏くんが」は、大変不愉快で腹立たしく、そして不安な気持ちにさせるものだった。誰に対して言ったわけでもない、自嘲混じりの嘆きだったのかもしれないが、実在個人に当たる弾だったのだ。
わたしのようにアセクシャルでない障害者女性にとっても、失礼な言葉だと思う。
男性からの恋愛対象に該当するような女性になることは、フリをすることは努力が必要だ。メイクも、服装も、正しい話題選びも、普通の女性らしいふるまいをすることも、普通の女性らしいコミュニケーション能力を身につけることも、とても困難な女性達はいる。普通の女性に、普通に「価値がある」女性に、擬態する努力は何も異性から好かれるためではない。人並みに扱われるために不可欠な努力だ。「理解のある彼くん」も「性的価値」も女ならば必ず初めから手に入るものではない。努力あってのものだ。
理解のある彼くん、に好かれ、関係を維持している障害持ち女性は、自分の努力を語るにも周囲への感謝を欠かさない素晴らしい人だろう。
(正直な話、わたしだってアセクシャルとして、恋愛脳の異性愛者は結局「彼くん」か、とうんざりしていたし、理解のある彼くんに頼る甘えたバカ女のせいで自分の辛さが矮小化されるわけで恨みしかないわけだが、)理解のある彼くん持ちの障害者女にとっても「お前らは理解のある彼くんがいるからいいよな」は不快な言葉だったろう。
さまざまな精神障害が認知され、発達障害を持っていても療育によって働ける女性は増えていくだろう。異性に頼らずに生きる障害者だって、この世にいるのだ。
あなたがたは、ーーーあなたではないかもしれないが例えそうだとしても、弱者男性の名で、精神障害持ちの女性にたいして発してきた言動は、無かったことにはできない。
弱者男性の辛さを、弱い立場の女性を叩く正当化の材料にしたこと。自分の辛さを人への加害の理由にする、品位の無さ。
弱者男性論を歪めてきたのは誰か、よく考えて欲しい。
弱者男性は、弱者男性を名乗る幾人かの言う通り、ごく一部の自称・弱者男性がそうした言葉を発しているだけなのかもしれない。
弱者男性に寄り添う顔をして、フェミ叩き女叩きに興じる悪がいるだけなのかもしれない。
しかし弱者男性が、はっきりと、それを否定・批判しているは見たことがない。
例えたった1人でも、過去の(あなたもしくは弱者男性を名乗る他人の)発言を批判するならばわたしも考えを変える努力をしようと思う。